「現代思想のセントバーナード犬」内田樹の本 |
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2004-05-20 Thu 23:24
『ためらいの倫理学』(角川文庫/629円) もっと軽いエッセイ集を想像していたのだが、本格的な論文も収録されていたりして、重量感のある内容。 昔、岸田秀の『ものぐさ精神分析』を初めて読んだときのような「目からウロコ」感をくり返し味わった。 「戦後責任論」について、フェミニズムについてなど、マスコミ報道や世にあふれる論説に触れたときに感じる違和感――「うまく言葉にできないけど、なんか、ちょっと違う感じがするんだよなあ」という気分――の正体を、見事に言語化してくれている。頭の中のもやが晴れるような本。 好著というより、すでにして名著と呼びたい素晴らしい本。ワタシ的にはやはりこれが「ウチダ本」のベストワン。 『寝ながら学べる構造主義』(文春新書/690円) 難解無比(と私には思えてならなかった)な構造主義が、巧みなたとえ話を多用した軽快な筆致で説明されていく。 レヴィ・ストロースのいう「親族の基本構造」を映画の「寅さん」の親族関係にたとえ、ジャック・ラカンの「分析的対話」をジャズのインプロヴィゼーションにたとえ……という具合。これなら私にもすっきり理解できる。少なくても理解できたような気分になれる。 たいへん面白かった。啓蒙は学者のたいせつな仕事であって、このようにわかりやすい本が書ける内田氏は、日本の大学教授の中にあっては貴重な存在だ。 『映画の構造分析』(晶文社/1600円) 『映画は死んだ』(松下正己との共著/いなほ書房) 映画論も内田さんの専門分野の一つだが、映画関係の著作はいまのところこの2冊のみ。 内田さんのブログには「おとぼけ映画批評」というコーナーがあって、これは肩の凝らない軽いタッチの映評ばかりだが、この『映画は死んだ』(1999年刊)はまったく趣が違う。論文臭ムンムン。私がこれまで読んだ「ウチダ本」の中で、最も難解であった(共著者の松下氏の論文はさらに輪をかけて難解・生硬。たまらず読み飛ばした)。 ただ、『エイリアン』シリーズ4作を「フェミニズム映画」として読み解いた「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター――エイリアン・フェミニズム」は、じつに面白い。内田さんご自身も「マイ・フェヴァリット論文」として挙げている。 もう一つの『映画の構造分析』は、『映画は死んだ』の発展型といってもよい、2003年刊の映画論集。 『映画は死んだ』の論文中のネタをそのまま使い回した部分も多いから、こちらを読めば『映画は死んだ』は読まなくてもよいかも。 副題は「ハリウッド映画で学べる現代思想」。内田さんによれば、「誰でも知っている映画を素材に使った、現代思想の入門書」を目指したものだという。 実際に「現代思想の入門書」として有効かどうかはともかく、すこぶる独創的な映画批評の本として掛け値なしに楽しめる。「ううむ、現代思想の専門家の目にはハリウッド映画がこんなふうに映るのか」と、目からウロコ落ちまくり。 デリダやらフーコーやらの引用をちりばめたペダンティックな映画批評はこれまでにもたくさんあったが、そうしたものはたいてい難解なだけで面白くなかった。対して、内田さんのこの本は、現代思想の知見をベースにしてハリウッド映画の構造分析を鮮やかに行い、なおかつ読みやすくて面白いのである。 内田さんは、ラカンの欲望論やロラン・バルトのテクスト論を援用して(もっとも、私にはそれらがどういうものなのかよくわかっていないのだが)『大脱走』『エイリアン』『ゴーストバスターズ』『北北西に進路を取れ』などという娯楽映画の“隠されたメッセージ”を読み解いていく。 たとえば、内田さんによれば、『大脱走』の脱走劇は「父殺し」「母性の奪還」の隠喩であり、『エイリアン』は「『白馬の王子様の救援を待たず自力でドラゴンを倒す』自立した『お姫様』」を主人公にした、「成功した最初のフェミニズム映画」であるという。 3章立て。タイトルになっている第1章「映画の構造分析」が過半を占めるが、最後の第3章「アメリカン・ミソジニー/女性嫌悪の映画史」も、短いながらバツグンに面白い。 内田さんは、ハリウッド映画の大半は「強烈な女性嫌悪」につらぬかれていると喝破し、その仮説を立証し、原因に肉薄していく。 「私が最初にアメリカ映画の女性嫌悪に気づいたのはマイケル・ダグラスによってである。彼が出演する映画では、そのときどきにアメリカでいちばん人気のある女優が(実際に、あるいは社会的に)『抹殺される』。(中略)同時期の日本映画やヨーロッパ映画にマイケル・ダグラス映画に類するものを探すことは困難である」 「え、でもアメリカってレディー・ファーストの国じゃないの?」と首をかしげる向きもあろう。だが、「レディー・ファースト」という女性尊重のマナーが生まれたのは、かつてのアメリカ開拓の最前線では女性の数が圧倒的に少なかったがゆえで、女性の人権に配慮したからではないのだという。 なぜ、ハリウッド映画の多くが女性嫌悪につらぬかれているのか? その理由を知りたい人は、本書を手に取られたし。 この手の“名作映画の構造分析本”ともいうべきジャンルには、瀬戸川猛資の『夢想の研究』(早川書房ほか)や町山智浩の『〈映画の見方〉が変わる本』(洋泉社)という先行の傑作がある。2冊とも私の大好きな本だが、本書はその2つに勝るとも劣らない出来だ。 『「おじさん」的思考』『期間限定の思想/「おじさん」的思考2』(晶文社) 内田さんのウェブ日記(いまはブログ)は愛読してきたし、著作の多くはウェブ日記をベースにしているので、スイスイ読める。てゆーか、大学教授にしては稀有なほど、読みやすくて面白い文章を書かれる方なのだ。 この2冊も『ためらいの倫理学』同様、ご専門である現代思想の知見をベースに、さまざまな時事的問題についての見解を披瀝された文章がメインである。 一例を挙げる。 フリーターの急増について、作家の藤本義一が“若者たちは、現代企業のあり方に対して無言の異議申し立てをしているのだ”と肯定的な見方をしていることに対して、内田さんは次のように異を唱える。 「フリーターの社会的機能とは端的に『失業者の隠蔽』である」 「一五〇万人の、そこそこ高学歴でそこそこ有能で、にもかかわらず低賃金で働いてくれて、仕事があるときだけ生産に従事し、仕事がないときは無職に甘んじ、そのうえ労働組合を作ることなど想像だにしていない人たちが『緩衝材』として機能してくれているおかげで、日本の失業率は世界的な低水準を保っており、社会治安を維持するためのコストは驚異的に安く上がっているのである。 (中略)藤本のようなおじさんがフリーターという生き方をさかんに持ち上げるのは、彼らが今の日本社会にとってたいへんありがたい存在であり、にもかかわらず、どういうふうにありがたいのか、その理由をご本人たちにはあまり知って頂きたくないからである」(『「おじさん」的思考』) 内田さんご自身も言うように「暴論」めいた主張を多く含んでいるのだが、軽やかなユーモアに彩られた語り口のため、読んでいて少しも不快ではない。 また、右/左、保守/革新などという旧来的な立ち位置のどちらにも身を置かず、一歩退いたニュートラルな視点から批評をくわえる姿勢にも好感。 たとえば、「『護憲』派とは違う憲法九条擁護論」はタイトルどおりイデオロギー色皆無のユニークな改憲反対論として一読に値するし、「別姓夫婦の『先進性』に異議あり」は、保守派の論客による夫婦別姓反対論とは一味もふた味も違う。 ただ、『「おじさん」的思考』から半年後に刊行された『期間限定の思想』は、前作や『ためらいの倫理学』に比べ、かなりクオリティーが落ちるように思った。最も多忙を極めた時期の著作なのだろう。 『子どもは判ってくれない』(洋泉社/1500円) これもまた、『ためらいの倫理学』『「おじさん」的思考』などと同様に、内田さんのウェブ日記をベースにした時評集である。 まえがきの中の一節が、柏村某の「(イラクで人質になった人たちは)反日的分子」うんぬんという暴言にそっくりあてはまる内容だったので、思わずニヤリとしてしまった。引用しよう。 「日本の『国益』を論ずるときに、彼らは『自分たちの意見に反対する人間』を『日本人』にカウントしない。自説に反対する人は簡単に『非国民』と切り捨ててしまう。彼らにとっては、『自分に賛成する人間』だけが『日本国民』で、彼らに反対する人間はその利益を守るべき『日本国民』に含まれていない。 『国』が自分の『身内』だけで構成される共同体なら、『国を愛する』ことは簡単だ。誰にでもできる。しかし、そのような『愛国心』は『愛己心』というのとほとんど変わりがないのではないか」 柏村某にそっくりぶつけてやりたい一節である。 内田さんはご自分の書かれるものを賞味期間のごく短い「期間限定品」であると謙遜しておられるが、そんなことはないと思う。そのクリアカットな言説は、世にあふれる“大人になりきれない懲りない面々”がくり返す醜態への根源的批判として、長く読み継がれるに足るものだ。 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店/1500円) 語り下ろしの内田樹流「幸福論」である(2003年刊)。談話をまとめたものだからほかの本より内容が薄いかな、という危惧もあったのだが、そんなことはなかった。 むしろ、内田さんの思想のエッセンスが手際よく詰めこまれた、“内田樹入門”の趣がある一冊。たとえば、第3章「身体の感覚を蘇らせる」は、内田さんの専門の一つである身体論の概説になっている。また、第2章「働くことに疲れたら」の前半は、内田さんのフェミニズム批判の要約になっている。内田さんの本を初めて読む人は、これから入るといいかも。 さて、幸福論とか俗流人生哲学の本は世にあふれているわけだが、その多くはクサくて読むに堪えない。てゆーか、いまどきクサくならずに幸福論を語るのは至難だろう。 私がこれまでに読んだ本の中から「クサくない生き方指南本」を挙げると、橋本治の『青空人生相談所』(ちくま文庫)、宮台真司の『これが答えだ!』(飛鳥新社/朝日文庫)、上田紀行の『覚醒のネットワーク』(講談社+α文庫)の3つがわずかに思い浮かぶのみだ。 そして、この『疲れすぎて眠れぬ夜のために』も、「クサくない生き方指南本」の列に加えるべき書である。 なぜ「クサくない」かというと、「無理はいけないよ」「我慢しちゃダメだよ」ということをくり返し述べている本であるから。 従来の「生き方指南本」には、「いかに刻苦勉励して自分を高めるか」など、我慢し、無理をして幸福をつかむための心構えが説かれたものが多かった。いわば高度成長期型の幸福論であった。 いっぽう、内田さんはそうした旧来的な“幸福モデル”をしりぞけ、いかに無理をせず、不毛な我慢をせずに愉しく生きるかを語っている。もはや右肩上がりの経済成長など望むべくもないこれからの日本にふさわしい幸福論なのである。 私が共感したくだりを、いくつか挙げてみよう。 「『不愉快な人間関係に耐える』耐性というのは、ぼくに言わせれば、むしろ有害であり、命を縮める方向にしか作用しません。(中略)逃げ場を見つけられず、そのまま不愉快な人間関係の中にとどまっているうちに、やがて『耐える』ということが自己目的化し、『耐える』ことのうちに自己の存在証明が凝縮されてしまったような人間が出来上がります」 「今の日本社会が抱えるさまざまな問題の一因は、アメリカという非常に特殊な国の文化をグローバル・スタンダードと見なして、それを『あるべき世界標準』だと思い込んでいることにあるとぼくは思っています」 「『濡れ手で粟』というのは少しもよいことではありません。価値観が混乱すると、ほんとうに大事な決断のときに、選択を誤らせるからです」 「環境が変わるたびに、キャラを変えるというのは、自分を守るためにはすごく有効な方法だと思います。(中略)『ほんとうの自分』というのだって要するに『作り話』の一変種にすぎないんだから、『ほんとうの自分』を確定的に語ることなんか求めずに、どんどんヴァリエーションを増やしていく方向に努力したらいかがですか」 「DVがやまないのは、殴る側も殴られる側も、心のどこかで、そういう激しい感情の発露を愛情の『屈折した表現』であると信じようとしているからでしょう。(中略)人間が暴力をふるうのは、自制心が弱いとか、思いやりが足りないとかいう理由からだけではありません。暴力の行使を合理化できる論拠が自分にはあると思っているからです。その論拠を『みんな』が承認してくれると信じているからです」 『私の身体は頭がいい/非中枢的身体論』(新耀社) 内田さんは、30年以上の武道歴をもつ武道家でもある。大学では現代思想のみならず、合気道と杖道も教えておられるのだ。 この本は、武道家でもある現代思想の専門家(!)という、他に類を見ない「二足のわらじ」をはかれた内田さんならではの仕事。「武道の科学」の構築を目指した「武道的身体論」が、さまざまな角度から語られているのだ。 ……というと、難しく思えるかもしれない。たしかに、2本の学術論文(「非中枢的身体論」と「木人花鳥」)も収録されていて、これらは、示唆に富む内容ではあるもののやや難解だ。しかし、ほかの文章は一般誌に発表されたエッセイやインタビューとウェブ日記からの抜粋なので、いつもの平明で軽快な「内田節」が堪能できる。 私はあいにく武道にはほとんど興味がないのだが、その私が読んでも面白いと感じる箇所がたくさんある。たとえば――。 「武道の稽古では『命がけの局面』というものを想定して、そういう場合には心身はどういう反応をして、どのように判断力や身体能力が低下するか、ということを繰り返しシミュレートする。そして、そのシビアな『能力低下のシミュレーション』に想像的に身体をなじませてゆきながら、それを生き延びる技術を学習するのである。 驚く経験を自主的に積み重ねることによって、驚かされない心身を構築すること、それが多田先生(引用者注/内田さんの合気道の師匠)のおっしゃっている『胆力をつける』ということの意味なのだと私は勝手に解釈している」 武道についてこのような明晰な言葉で語れる人は、ほかにいないのではないか。 『女は何を欲望するか?』(径書房/1800円) 人前で読むのがはばかられるような思わせぶりな書名だが、内容はごく真面目な「フェミニズム批判」である。 とはいえ、内田さんのことだから、保守系オヤジが書くような紋切り型のフェミニズム批判ではない。 内田さんは、「フェミニズムは私たちの社会の制度の不正と欠陥をいくつか前景化させたし、性差が私たちの思考や行動を思いがけないところで規定していることも教えてくれた」と、その意義を大いに認めている。 そのうえで、一部のフェミニストが陥っている「理論の過剰適用」を批判しているのである。 「理論の過剰適用」とは、一部論者によってフェミニズムが「あらゆることをその理論で説明できる」万能の理論であるかのように錯覚され、「ほんとうはその理論をもって説明すべきではないことまで」強引に説明するようになっている傾向を指す。 内田さんは、本書で「フェミニズムの理説がうまく適合しない現象」の例として文学と映画を取り上げ、フェミニズムの批評理論を物語の解釈に「過剰適用」する滑稽さを鋭く衝いている。 本書の過半を占める前半部は、リュス・イリガライやショシャーナ・フェルマン(恥ずかしながら、この2人の学者を私はまったく知らなかった)らの「フェミニズム言語論」への批判。 ゴリゴリの論文であり、『「おじさん」的思考』などの一般向けウチダ本のような平明さはない。たとえば、「多起源的な読み」「背馳し合う異他的な読みの『共生』を目指す運動性」などという難解・硬質なフレーズが頻出する。 ただし、随所で内田さんらしいユーモアとアイロニーが炸裂するので、面白く読めた。たとえば――。 ショシャーナ・フェルマンは、「教育された女は全員が無意識のうちに『私たちのうちに埋め込まれた男性的精神』によって憑依されているし、やすやすとまた秘密裏に、文学を男として読むことができる」と書いている。 ゆえに、意識的な女性たちは「抵抗する読み手」となって、文学を「女性として読む」ことを目指さねばならない、と一部フェミニストたちは主張しているのだという(なんだかなー)。 こうした「現代フェミニスト批評理論の基本的考想」に対して、内田さんは次のように皮肉をかましてみせる。 「フェルマンはここで『男として読む』ように強制されているのは『教育を受けた女たち』であると、さりげなく限定している。では、当然の疑問であるが、ここで論及の対象から排除された『教育を受けていない女たち』についてはどうなのだろう? (中略)いったい『教育を受けていない女たち』は『誰として』読んでいるのだろう? 『女として』? まさか。それはあり得ない。だって、『女として読む』仕方を『創出する』ことがフェルマンの戦略的課題なのだから。『女として読む』人間はまだ存在していない」 むろん、一口にフェミニズムといっても多様であり、本書の批判がすべてのフェミニストに適用できるものではあるまい。 しかし、少なくとも私には、一部フェミニストに対して感ずる“なんとなくの違和感”を見事に言語化した論考として、教えられるところ大であった。 後半は、『エイリアン』シリーズをフェミニズム映画として読み解いた、広義の映画批評である。 内田さん自身も認めるとおり、これは『映画は死んだ』などの他著に収録された論文の使い回し。ただしディテールは異なるため、ほかの著書を読んでいても面白く読める。 私が強い印象を受けた一節を引用する。 「第三作(『エイリアン3』)が駄作なのは、それが『女性嫌悪』というメッセージしか発信していないからである。 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である(それはプロパガンダにすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は『質の高い物語』である。 (中略) 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その『解決』を宙づりにし、『最後の言葉』を先送りしてきた。もしマルクスが二十世紀に生きていたら、『映画は人民の阿片である』と言ったろう」 さて、これで既刊のウチダ本は一通り読み終えたことになる(今年後半にはまた矢継ぎ早に新著が出るらしいが)。 不肖私がウチダ本のベスト3を選ぶなら、1位『ためらいの倫理学』、2位『映画の構造分析』、3位『疲れすぎて眠れぬ夜のために』となる(「ウェブ日記もの」「映画評論」「それ以外」の3分野から代表をセレクトしてみた)。 |
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