母の戦争体験 |
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2006-05-25 Thu 10:12
母から電話があり、「私の書いた文章を添削してくれないか」という。昨年の「戦後60年」を機に、自治体が住民の戦争体験を本にする作業を進めているということで、「原稿依頼」を受けたのだそうだ。母は昭和7年生まれである。
「書いてはみたんだけど、言葉づかいとかがヘンじゃないかと心配になってね。おまえ、文章を書く仕事をしているんだから、直すのはお手のものだろう」 そりゃまあね、ということで引き受けた。 送られてきたのは、原稿用紙5枚ほどの鉛筆書きの原稿。そこには、息子の私も聞いたことがないような戦争体験が綴られていた。 せっかくなので、ここにもコピペしておこう。全体に“カンナがけ”はしたが、おおむね原文を尊重してある。 --------------------------------------------------------- 当時、私は群馬県山田郡川内村(現在の桐生市川内町)に住んでいて、小学生でした。 四年生のときの十二月八日に太平洋戦争が始まると、それまでののどかだった暮らしが一変してしまいました。出征兵士の留守宅に学校から勤労奉仕に行って手伝いをしたり、芋掘りや稲刈りをしたりと、毎日勉強そっちのけで働いたのです。 ほかにも、どんぐり拾いや干し草作り、桑の木の皮むき、大豆まきなどの作業を命じられました。少しでも作業をさぼろうものなら、怖い先生に叱られたものです。 戦争のため、小学校の修学旅行にも行けず、遠足だけが楽しい思い出でした。 戦況が激しくなると、空襲に備えるため、毎朝学校へ行くにも防空頭巾をかぶり、帯芯でできた救急袋を持参しました。頭巾も救急袋も、灯火管制のため明るくできない豆電球の下で、母が手作りしてくれたものでした。 服装も自由にはできず、白い服を着ることは許されませんでした。「白い服は敵機から目立つ」というのがその理由です。 物資が乏しい時期には、運動靴もくじ引きによる順番待ちで配給されました。そのため、家で作った藁草履で学校に通っていた子もいたものです。 尋常高等科(いまの中学校にあたる)に進んだころには、さらに戦況が激しくなり、夜の空襲で遠くに火柱が上がるのを見たこともあります。また、昼間に頭上を敵機B29がたくさん飛びかうのを見て、あわてて近くの防空壕へ逃げ込んだこともあります。 同じころ、「学徒動員」で学校から軍需工場へ通いました。川内村から、相生にあった軍需工場まで歩いて通ったのです。 同級生の中には、「どうせ学校でも(学徒動員で)勉強しないのだから」と親に言われ、尋常高等科に進まずに就職した人も何人かいます。 学徒動員は、昭和十九年の十二月から翌二十年の八月まで続きました。「給金」も支給されましたが、その額は男子が一ヶ月三十円、女子は二十八円でした。 昭和二十年の日本は、それはそれはひどいありさまでした。死と隣り合わせの日常、乏しい食糧、そして原爆投下の悲劇。 八月十五日に終戦を迎えたとき、「明日から軍需工場に行かなくてもよいのだ」と聞かされて、戦争に負けた悲しみよりも、ほっとした気持ちのほうが強かったものです。 ようやく学業に戻れたものの、卒業まであと半年ほどを残すのみでした。私たちは、ほんとうに勉強する時間がなかった哀れな年代でした。 戦時中の苦しかった思い出といえば、何よりもまず食糧難のことが心に浮かびます。配給の米だけではとても足りず、皆でよく買い出しに行ったものです。親戚の農家に母の着物を持っていき、米と交換してもらうこともよくありました。 食糧難がひどくなってお金では米が買えなかった時期に、母と二人で、母の同級生の農家に赴いてさつま芋を売ってもらったことがあります。 母と私が頭を下げると、相手の農家のおばさんは、「いまにこっちから『買ってください』と頼みに行くような時代がくるよ」とポツリと言いました。まだ子どもだった私には、そんな時代がくるとはとても信じられませんでした。 私の家は八人家族でした。食べ盛りの子どもたち六人には、食糧難はあまりに苛酷な体験でした。私は長女でしたので、幼い妹や弟がおなかをすかせてつらそうにしている様子を見るのが不憫でなりませんでした。 戦後、私の母は当時を振り返って、「配給の米が底をつくと、父ちゃんの顔がサーッと青くなったんだよ」と言ったものです。 |
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