![]() | 決定版ルポライター事始 (ちくま文庫) (1999/04) 竹中 労 商品詳細を見る |
岡庭昇さんが編集人をつとめる『同時代批評』の第17号(2011年1月17日発行)に、短いエッセイを書かせていただいた。「平岡正明という思想」という力の入った総特集がなされた号で、平岡ファン必携の内容だが、アマゾン等では手に入らないかな。
エッセイは、各筆者に「わが根拠」なるお題が与えられたもの。私は「生涯一フリーライター」という題で書いた。
年頭にあたっての原点確認の意味で、ここに転載しておく。
一九八○年代後半のこと、「職業・作家、ただ今処女作執筆中」なる面妖なキャッチコピーとともにデビューした女性作家がいた。バブル景気真っ只中にあった日本の、うわついた空気を象徴するエピソードである。彼女にとって「作家」という肩書きは、一般芸能人と己を分かつためのアクセントでしかなかったのだろう。
同様に、最近の「起業を目指す若者」の中にも、「社長という肩書きが欲しいだけ」としか思えない輩が多いそうだ。
バングラデシュ等でバッグを現地生産し、日本で輸入販売するビジネスを展開する企業「マザーハウス」の社長・山口絵理子は、その突出した若さ(一九八一年生まれ)もあって、いまや起業を目指す若き女性たちの憧れの的である。山口がそうした若者に「起業して何をしたいの?」と聞くと、「それはまだ決めていないけれど、とにかく起業したいんです」と答えるケースが多いのだという(『裸でも生きる2』講談社)。
そのように、肩書きをきらびやかな衣装として扱う者がいる一方で、肩書き自体がその人と分かち難く結びつき、ある種の存在証明となっているケースもある。平岡正明とも縁深い竹中労の「ルポライター」という肩書きは、その好例であろう。
竹中は、ルポライターという呼称がすっかり時代遅れとなった平成の世に至っても、ノンフィクション・ライターなどという小じゃれた肩書きは使わなかった。ときに蔑みの視線を向けられかねない、三文文士の代名詞のようなルポライターという呼称を、あえて生涯使いつづけたのである。
そこには、その肩書きが規定する物書きとしての座標軸を、自らの立ち位置として定める覚悟があった。竹中自身が『決定版ルポライター事始』(ちくま文庫)の「序」で言うとおり、「主人持ちのもの書きであることを拒み」、「虚名や富と無縁」の売文稼業をつらぬく覚悟が、である。竹中の覚悟には及びもつかないが、私もフリーライターという肩書きに思い入れをもっている。
いまやフリーライターという肩書きには、ルポライター同様のカビ臭さがつきまとう。だからこそ、著作の二、三冊も出せば、たいていのライターは作家、ジャーナリストなどに“出世”する。そして、めでたく「作家上がり」を果たした者は、著者略歴からもライター時代の著作を抹消し、最初から作家であったような顔をするのだ。
そのような風潮に生理的反発を覚える私は、これからも生涯フリーライターを名乗りつづけるつもりだ。それは言いかえれば、「自分はお偉い作家センセイではなく、文章を売る職人にすぎない」と、常に自らを戒めてペンをもつためでもある。物を書いているというだけで一般庶民の上に立っているかのような思い上がりを、私はけっして心にもちたくない。
重松清は、作家兼現役フリーライターであることにこだわり、直木賞受賞後も「直木賞ライター」を名乗った。作家になったとたんにライター時代を封印するような輩より、よほどカッコイイではないか。
少し付け加える。
出版業界のヒエラルキーにおいては、フリーライターは作家やジャーナリスト、コラムニスト、ノンフィクション・ライターなどよりも格下と見なされがちである。
つまり、「フリーの物書き」というカテゴリーの中で、フリーライターは最底辺の存在なのだ。
そのことは、むろん明文化されているわけではないが、業界に身を置く者なら誰でも知っている。フリーライターという肩書きでずっと仕事をつづけてきた私などは、身にしみて知っている。
たとえば、小田嶋隆さんは次のようにツイートした。
「ライター」という呼び方にはどことなく蔑称の響きがあって、だから「ライターさん」「ライターの人」と言ってバランスを取らないといけなかったりする。まあ、蔑称なんだろうな。内心の問題としては。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2015, 2月 10
そのように、フリーライターが業界最底辺の存在であることを重々承知のうえで、私はあえて誇りをもってフリーライターを名乗っている。
なんとなれば、私にとって「フリーライター」の「フリー」とは、自由業者という意味ではなく、「なんでも書ける」という意味の「フリー」だからである。
「依頼があれば、どんな文章でも書いて見せる」という自負が私にはあって、その自負を「フリー」の一語に込めているのだ。
「作家がライターよりも上? ヘッ! 作家なんてのは小説とエッセイくらいしか書けない不器用な連中じゃないか。頼まれればどんな文章でも書きこなすフリーライターのほうが、ホントは物書きとして格上なんだぜ」
……と、そのようなひそかな矜持を抱いているのである。
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確かに、重松さん、かっこいいですよね。
偉くなることと、偉そうになることは
違うと思うのですが、どこかで
取り違えてしまったりするんですよね・・・