高橋誠一郎『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』

2007年09月22日 11:20



 高橋誠一郎著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社/2600円)読了。

 いま、『カラマーゾフの兄弟』の新訳(光文社古典新訳文庫)が時ならぬベストセラーになっている。ドストエフスキーの文学が、2つの世紀を跨いでなお、色褪せることなく力を保っているという証左であろう。

 日本は、本国ロシアを除けば最も熱心にドストエフスキー文学が読まれてきた国である。ゆえにドストエフスキー研究の水準も高く、優れた作家論・作品論も枚挙にいとまがない。

 逆にいえば、いまさら日本でドストエフスキー論を刊行しても、よほどの独創性がなければ、過去の研究に屋上屋を架すだけになりかねない。ハードルが高い分野なのだ。

 本書は、その難分野にあえてチャレンジした本。過去の膨大なドストエフスキー研究をふまえつつ、独創的で読みごたえある作家論・作品論になっている。

 「屋上屋」となるのを避けるには独自の切り口が不可欠なわけだが、著者が本書で選んだ独自の切り口は、ドストエフスキーが生きた時代のロシア史にウエイトを置き、社会情勢との連関から作品を読み解くことであった。

本書で俎上に載るのは、デビュー作『貧しき人々』から『白夜』までの初期作品。著者にはドストエフスキーの全作品をロシア史との関係から論じる壮大な構想があり、本書はその第一部にあたる。

 著者は、父のミハイルがドストエフスキー文学に与えた影響を重視し、2つの章を割いて父子関係を考察している。その中で、ミハイルが参戦した「祖国戦争」(ナポレオンのロシア侵攻)や、農奴制とその終焉(ミハイルは自分の領地の農奴に虐殺された)にもくわしく言及される。

 そのように近代ロシア史に光を当てて作品を捉え直すことで、著者はより深いドストエフスキー理解に達している。たとえば、ドストエフスキーが作品の随所でナポレオンにこだわった理由も、彼の父と祖国戦争の関係を知ってこそ理解できるのだ。

 圧巻は、ニコライ一世の治世がドストエフスキー文学に与えた影響を読み解く部分。

 検閲が強化され、「暗黒の30年」と呼ばれたその時代に前半生を生きたからこそ、ドストエフスキーの初期作品には「『検閲』をあざむくための『擬態』」が随所に施され、一つの言葉に二重三重の意味がこめられていた、と著者は指摘する。
 そして、分析のメスをふるってその“擬態のベール”を剥ぎ取ることで、著者は、後期の作品に比べて軽視されがちな初期作品から新たな輝きを引き出す。ドストエフスキーがデビュー当初からすでに「果敢にロシアにおける権力の腐敗や人間の心理の問題などに迫っていた」ことを、鮮やかに立証してみせるのだ。

 ドストエフスキー文学の特長を示すキーワードといえば、ミハイル・バフチンの言う「ポリフォニー(多声)性」だが、それもまた、「検閲をあざむくため」に、一つの言葉、一つの場面に多義性をこめる工夫のくり返しから生まれてきたのかもしれない。
 ――そんなことも考えさせる、知的刺激に富む労作。ドストエフスキー文学が時代を超えて保つ「力」の源に、独自の視点から肉薄している。
  


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