『約束の旅路』

2007年02月11日 18:50

約束の旅路 約束の旅路
ラデュ・ミヘイレアニュ、アラン・デュグラン 他 (2007/02)
集英社

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 『約束の旅路』を観た。3月公開のフランス映画。

 公式サイト→ http://yakusoku.cinemacafe.net/

 スーダンの難民キャンプで暮らしていたエチオピア系ユダヤ人(ファラシャ)たちを、イスラエル政府が救出した史実(1984年の「モーセ作戦」)に基づいた物語である。

 「ファラシャ」たちは、紀元前10世紀のソロモン王とシバの女王の末裔である(と信じられている)。彼らは「タルムード」よりももっと古い「トーラー(モーセ五書)」を教典に、エチオピアの峡谷地帯で生きてきた。現在、イスラエルには約9万人のファラシャが暮らしているという。

 主人公の少年シュロモはファラシャではなくキリスト教徒だったが、難民キャンプで1人のファラシャ女性が息子を亡くしたとき、彼女の息子を装ってイスラエルに移送される。実の母親が、生きのびるためにそうするよう命じたのだ。難民キャンプの過酷な環境では、幼い息子は早晩命を落とす。それよりは、遠い異国の地であっても息子を生きのびさせたい――そんな苦渋の選択であった。

 「離れたくない」とすがりつく9歳のシュロモを、母は心を鬼にして突き放し、そして言う。
「行って、生きて、(何かに)成りなさい」
 ――このセリフがそのまま映画の原題(Va, vis et deviens)になっている。

 シュロモとともにイスラエルに移住したファラシャの女性はほどなく病で亡くなり、シュロモはイスラエル人夫婦の養子となる。

 だが、イスラエル社会にもファラシャに対する差別があった。差別される側に身を置いてきたはずのユダヤ人たちが、「同胞」の枠の中で差別をくり返すという、この皮肉!
 シュロモはその差別に苦しむと同時に、じつはファラシャの中でも異邦人である自身の複雑なアイデンティティについて、ひとり思い悩む。

 誰にも明かせない「自分はファラシャではない」という秘密を、シュロモが行きずりの娼婦と見知らぬ警察官にだけ漏らしてしまう2つのシーンは、心に残る。それは、1人で抱えつづけるには重すぎる秘密であったのだ。

 湾岸戦争、オスロ合意、ラビン首相暗殺など、現代イスラエル社会の激動を背景に、悩みながら成長していく「宿命の子」の波乱の半生を描いた、壮大な叙事詩である。
 また、シュロモと3人の母たち(実母・養母・移送に際して“母”となった女性)を描くことを通して、「母と子の絆」の強さ・尊さを謳い上げた作品でもある。

 そして、成長したシュロモと愛し合うイスラエル女性・サラは、物語の終盤で彼の子を宿し、「もう一人の母」となる。この映画は、運命に抗して子を産み育む、世界中のたくましい母たちへの讃歌でもあろう。

 日本人にはなじみの薄いイスラエル社会の一断面をつぶさに見せてくれる、得がたい映画でもある。
 派手さはないが、観ている間も観終ったあともたくさんのことを考えさせる、重厚で素晴らしい作品だった。


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