吉田修一『パーク・ライフ』 |
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2002-09-28 Sat 17:46
吉田修一の『パーク・ライフ』(文藝春秋/1238円)を興味深く読んだ。第127回芥川賞受賞作である。 芥川賞は一時期、現実と幻想がないまぜになったマジック・リアリズム風の作品ばかりが受賞していた印象がある。多和田葉子の『犬婿入り』、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』、川上弘美の『蛇を踏む』などがそうだ。前衛的であると同時に通俗的な面白さも兼ね備えていることから、「アヴァン・ポップ」(アヴァンギャルド+ポップ)などと呼ばれたりする。 しかし、前回の受賞作『猛スピードで母は』(長嶋有)といい、この『パーク・ライフ』といい、さしてドラマティックでもない現実をセンスよく切り取った小品という印象で、ハッタリの利いたマジック・リアリズム風作品の対極にある。現代文学のもう1つの潮流であるミニマリズムに近いといえそうだ。ささやかな日常生活を手堅いリアリズムで描きながら、細部の面白さとセンスのよさで読ませてしまうたぐいの作品である。 マジック・リアリズム風の作品はどうも好きになれない私としては、受賞作にこちらの路線の作品が増えるのは、うれしい傾向だ。 『パーク・ライフ』というタイトルは、おそらくイギリスのロック・バンド「ブラー」の同名曲(および同名アルバム)からとったものであろう。タイトルどおり、東京のど真ん中・日比谷公園を舞台に、都市生活者の静かな日々を描いた中編だ。 冒頭から、主人公とヒロインの気の利いた出会いが描かれる。だが、小説の最後まで、恋は始まりそうで始まらない。単行本の帯には「他人だから、恋がはじまる」との惹句があるが、これに惹かれて本を買った読者は肩すかしを食った気分になるだろう。なにしろ、“さあ、これから本格的に恋が始まりそうだ”という場面で、ナイフで断ち切られるように小説は終わってしまうのだから…。 だが、つまらないかといえばけっしてそんなことはない。ドラマティックなことは何一つ起こらないのに、冒頭から最後まで少しも退屈することなく読み通すことができる。「バスソープや香水を扱う会社で広報兼営業を担当している」30代初頭の独身男を中心に、彼とその周辺に生きる人間たちの生活が、たしかなリアリティでスケッチされていく。そう、淡い水彩を思わせるスケッチのような小説なのだ。 東京に暮らす30代独身男性の多くは、この小説の主人公のように生きているのではないか。これといった夢も野心もなく、「結婚したい」と切実に思うこともなく、さして幸福でも不幸でもなく、都市の海をたゆたうように日々を生きているのではないか。何かが始まりそうで始まらない、何かが終わりそうで終わらない――そんな、都市生活者の“終わりなき日常”を、これほどリアルに描き出した小説はかつてなかったように思う。 これは、1980年代に日野啓三が描きつづけた「都市小説」の系譜を継ぐ作品だと思う。ひんやりとした感触の静謐な都市小説。日比谷公園それ自体、東京という都市そのものが、この小説の“主人公”だといえるかもしれない。 それでいて、一連の日野作品のような「都市が都市が」という気負いはなく、村上春樹の初期作品や池澤夏樹の『スティル・ライフ』のような軽やかなユーモアと抒情に満ちている(芥川賞の選評で、池澤がこの作品に否定的なのは皮肉である)。 主人公たちがかわす会話の一つひとつ、都市の日常を鮮やかに写しとる描写の一つひとつが、知性と才気で輝いている。たとえば、次のような魅力的な比喩――。 「有楽町マリオンビルを誕生日ケーキの上飾りに譬え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蟻の巣のように張り巡らされているに違いない。地上のデコレーションが派手でも、中身がすかすかのケーキなど、あまりありがたいものではない」 あるいはまた、「私ね、バレエダンサーのからだを見てると、なぜかしらアウシュヴィッツを思い出すのよね」という女性の言葉を受けてつづられる、次のような文章。 「そのときはひどく不謹慎な比較に思えたものの、肉体というものが常に崇高であるとすれば、両極限で同じ輝きを放ってもおかしくないのかもしれない」 ――このように、きわめて知的な操作に基づいた文章と会話によって、都市生活者の人生の断片が彩度鮮やかに切り取られていく。 芥川賞の選評で三浦哲郎が言うとおり、「隅々にまで小説の旨味が詰まっている」秀作だ。 |
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