島田雅彦『君が異端だった頃』



 島田雅彦著『君が異端だった頃』(集英社/2035円)読了。

 島田自身の幼少期から〝青春の終わり〟まで(=作家として20代を終えるまで)が赤裸々に描かれた、話題沸騰の私小説である。

 一気読みしてしまうくらい面白かった。それは半分くらいまでゴシップ的面白さではあるのだが……。

 幼少期を描いた第一部「縄文時代」には、「少年小説」的な味わいがある。
 くわえて、私自身が島田とほぼ同世代(私が3歳下)であるため、思い出を構成する流行・風俗要素の多くになじみがあり、随所に懐かしさを感じた。

 第二部「南北戦争」からは、島田のモテ男ぶりがすさまじい。〝モテモテ青春ダイアリー〟的な身もフタもなさに苦笑しつつ、ページを繰る手が止まらない。

 オレは必ず小説家になり、空回りと空騒ぎに終始した恥ずべき高校時代をすべて書き換えてやる。



 ――という、本書のカバーデザインにも用いられた一節が第二部にあるのだが、「恥ずべき」どころか、こんなにゴージャスな高校時代もめったにあるまい。

 大学時代と、在学中の作家デビューの顛末が描かれた第三部「東西冷戦」には、1980年代グラフィティ的な面白さがある。
 当時『若者たちの神々』(筑紫哲也による、各界のカリスマ的人気者たちへのインタビュー集。島田は最年少者として登場)の一人にも数えられた時代の寵児ならではの、これまたゴージャスな青春だ。

 第三部の終盤と、最後の第四部「文壇列伝」は、島田が深く接した文壇の大物たちのポルトレ(人物素描)集にもなっている。

 第四部では、既婚者でありながら滞在先のニューヨークで金髪美人の大学院生ニーナと不倫関係に陥る顛末も描かれる。
 ニーナが島田を追うように日本に留学してくるところなど、まるで『舞姫』のよう。
 それはそれで興味津々ではあるが、この第四部の面白さは、なんといっても作家たちの素顔を明かした部分にある。

 安部公房、大江健三郎、埴谷雄高、大岡昇平など、綺羅星の如き大物たちが次々と登場する。
 中でも強烈な印象を残すのが中上健次で、第三部・四部の〝もう1人の主役〟といってもよいほど。

 この第四部も、「文壇ゴシップ」的な面白さを多く含んではいる。
 また、作家たちが夜ごと痛飲・鯨飲し、子どもじみた争いに明け暮れる場面が多く、「文壇ってクダラナイな」という思いにもかられる。

 だが、そのような微苦笑を誘う要素もまた、本書の面白さの大きな要因なのである。

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内澤旬子『ストーカーとの七〇〇日戦争』



 内澤旬子著『ストーカーとの七〇〇日戦争』(文藝春秋/1650円)読了。

 ストーカー事件を扱ったノンフィクション/フィクションの多くは、第三者が取材・調査に基づいて書いたものだ。
 それに対し、本書は被害者が優れた文筆家であったという偶然――著者にとっては不幸な偶然――が生んだ、当事者の視点から書かれた稀有なノンフィクションである。

 ストーキング被害者の苦しさを生々しく伝えるノンフィクションとしても、サスペンスフルな読み物としても一級品だ。
 そして同時に、「ストーカー被害者になると、警察や弁護士とのやりとり、裁判所でこんな目に遭う!」が詳細にわかる、ある種の実用書としても優れている。

 著者の被害ケース以後にストーカー対策法が改正されたこともあり、いまの警察対応は本書とは少しく異なっている(たとえば、当時はSNS上の書き込みは対策法の対象外だったが、いまは違う)。

 そうした微妙な違いはあれど、いまも十分実用書として役立つはず。
 とくに、〝ストーカーになりそうな人間が、いま周囲にいる〟というボヤ段階に置かれている人にとっては、それを大火事にしないための対策が、本書を読むとわかるだろう。

 本書終盤の大きなテーマとなる、〝ストーカーは依存性の精神疾患であり、治療可能。犯人に治療を受けさせることが、被害者の安全を守る重要な対策になる〟という話も、広く周知されるべきだ。

 何より、著者の文章がうまい。
 そのうまさは第一に、込み入った出来事を手際よく整理して伝える〝説明力〟の高さである。

 また、ストーカーの恐怖を的確に伝えながらも、一方では軽妙なユーモアをちりばめ、リーダブルで面白い読み物に仕上げている点も、抜群のうまさだ。

 全体として、社会的意義の高い一冊。

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信田さよ子『〈性〉なる家族』



 信田さよ子著『〈性〉なる家族』(春秋社/1870円)読了。

 信田さよ子は、著作が多いだけに、出来不出来の振幅がけっこう大きいと思う。

 私もすべてを読んでいるわけではないが、管見の範囲では、『母が重くてたまらない』や『共依存』『アダルト・チルドレンという物語』などが良書だった。
 逆に、『選ばれる男たち』や『カウンセラーは何を見ているか』は駄本であった。

 そして本書は、著者の代表作にもなり得る良書だと思った。

 タイトルのとおり、家族における「性」の問題――親による子どもに対する性虐待や、夫婦間のセックスレスや性暴力など――についての論考集である。

 きわめて語りにくい、黒いヴェールに覆われてきた問題群について、カウンセラー/臨床心理士としての豊富な経験をふまえて、真摯に論じている。

 著者の旗幟は鮮明で、終始一貫して被害者側――主として女性側――に立っている。

 本書に出てくる子どもへの性虐待、妻への性暴力のたくさんの事例(プライバシーに配慮して抽象化されている)は、私の目にはきわめて特殊な例に見えるのだが、著者の目にはごくありふれた事例として映っているようだ。

 性暴力を成り立たせる〝家庭内の権力構造〟を抉る著者の分析は鋭く、男たちの無意識の中にある暴力の萌芽にまで、否応なしに目を向けさせる。たとえば――。


 子どもが憎いからあんなひどいことをするのだという理解は、虐待に対する無知・誤解の典型である。親は子どもを憎いのではない。子どもは自分の思い通りになるはずだと思っており、そうならないから彼ら自身が傷つき、そして傷つけた子どもに対して怒るのだ(47ページ)




 子どもがDVを目撃することを面前DVと呼ぶが、それによる最大の影響は、「暴力で解決できないことはない」という信念を植え付けられることだ。父親が怒鳴ったり殴ったりして母の反論を封殺する。その暴力の効果を、子ども(特に息子)は深く心に刻むだろう。性行為によって妻の不満はすべて解決できるという夫の考えと、それは相似形ではないだろうか(103ページ)



 我が子や妻は自分の思い通りになるはずだという父(夫)の「思い上がり」が、子どもへの性虐待や妻への性暴力の根底にあるのだ。

 信田さよ子は〝言葉の人〟だと私は思っている。つねに言葉を重視し、見事な〝言葉の使い手〟でもある。言い換えれば、彼女の著作には文学の薫りがあるのだ。

 本書もしかり。
 言葉を重んじる姿勢が随所に感じられるし、ハッとする鮮烈なフレーズが多い。たとえば――。


 いまや日本では多くの人に共有されているトラウマという言葉だが、その転換点がPTSDが加わった一九八◯年のDSMⅢにあったことは間違いない。この言葉によってどれほど多くの経験が「被害」として認知されることになったか、定義する言葉がなかったために埋もれて忘却されるしかなかった経験が初めて陽の目を浴びて他者に伝達可能となったかと考えると、輸入されたカタカナ語ではあるが、その果たした役割は言うに尽くせないものがある(206ページ)



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本郷和人『天皇はなぜ万世一系なのか』



 本郷和人著『天皇はなぜ万世一系なのか』(文春新書)読了。

 9年前に出たもの。著者は日本中世史が専門の歴史学者(東京大学史料編纂所教授)である。

 「万世一系」についてもっと知りたいと思って読んだのだが、タイトルと内容がひどく乖離した羊頭狗肉な本であった。

 内容に即したタイトルにするとしたら、『世襲の日本史』というところ(※)。日本社会が、平安時代から「世襲に重きを置いて歩んでき」たことが概観されている。

※書いたあとで気付いたが、著者はつい先月、ズバリ『世襲の日本史』というタイトルの本を出した。本書とどれくらい内容がかぶっているのかは知らないが。


 日本の国では世襲と才能がどう関わりをもち、どういう統治権力を構成していたのか。それを考えてみたいのです。(「はじめに」)



 「世襲の日本史」の重要な一要素として、歴代天皇の話も随所に出ることは出る。ただし、万世一系について論じられるのは、ほぼ終章のみである。

 にもかかわらず、なぜこのタイトルになったのか? 著者のせいではないだろうが(書籍のタイトル決定には版元の意向が強く反映される)、モヤモヤする。

 私同様、万世一系について知りたいと思って手を伸ばす人は、終章だけ読めば十分だ。そして、この終章はなかなか面白い。

 平安時代から一千年間、世襲に重きを置いてきた日本だが、明治政府は「初めて官僚によって運営」された。


 高官たちは下級武士の出身がほとんどで、才能を根拠として登用されています。そこには世襲の論理がないのです。(187ページ)



 世襲の論理を否定した政府を打ち立てた明治維新は、それゆえに「日本史上で最大の変革であるといわざるを得ない」と、著者は言う。

 だが、「日本社会は長いあいだ世襲で動いてきている」ので、才能を根拠に支配者層を選ぶ明治政府のありようは、「すぐには民衆の理解を得られない」。
 だからこそ、そのギャップをやわらげるためのいわば〝クッション〟として、「明治政府は天皇を前面に押し出した」というのが著者の見立てだ。

 そのうえで、著者は〝これからの万世一系〟について、次のように述べる。


①万世一系は明治維新において強調された概念であること。
②日本は世界の中で、すでにきちんと座を占めている。つまり、もう無理やりにアイデンティティを強調する必要がないこと。
それに加えて、
③さすがに天照大神や神武天皇の物語は歴史事実ではなく、神話であると多くの人が認識していること。
も考慮した時に、もはや「万世一系」にこだわる必要はないように思いますが、どうでしょうか。(202~203ページ)



 現代における世襲政治家の跋扈にウンザリしている人も多かろうが、日本はずーっと昔から世襲社会だったのである。それがわかったことは収穫だった。

 もう一つ難点を挙げると、「はじめに」と「おわりに」の自分語りがウザい(笑)。大部分の読者は、べつに著者のことが知りたく読むわけじゃないのだから。

 ちなみに、来月にはこの『天皇はなぜ万世一系なのか』の増補版(令和までの話などを増補)が、『権力の日本史』と改題されて同じ文春新書から出るようだ。
 元タイトルの羊頭狗肉ぶりは、やはり相当不評だったと見える(笑)。

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岸本佐知子『ひみつのしつもん』



 岸本佐知子著『ひみつのしつもん』(筑摩書房/1760円)読了。

 もう18年もつづいている『ちくま』(筑摩書房のPR誌)の長寿連載「ネにもつタイプ」の書籍化第3弾。
 それ以前の『気になる部分』から数えれば、岸本佐知子の4冊目のエッセイ集である。

 私は、第1弾『ねにもつタイプ』、第2弾『なんらかの事情』もそれぞれ愛読してきた。
 7年ぶりの本書も、前2冊同様、ほかの誰にも書けない奇天烈なユーモア・エッセイの連打である。

 奇妙な味わいの海外小説の名訳者として知られる著者だが、このシリーズのエッセイにも、奇妙なショートショートのような味わいのものが少なくない。
 本書もしかり。とくに「河童」は、絶品のショートショートとしても読めると思った。

 版元がつけた惹句は「奇想天外、抱腹絶倒のキシモトワールド、みたび開幕!」というもの。
 「奇想天外」はそのとおりで、想像力を超えた「妄想力」の炸裂がこのシリーズの見どころである。

 だが、「抱腹絶倒」はちょっと違う気がする。
 クスっとする笑いは随所にあるし、思わず吹き出す一節も少なくないが、「キシモトワールド」の笑いはもっとジワ~ッと広がる奇妙な笑いであって、しゃべくり漫才的な爆笑とは異なるものだ。

 著者の妄想にこちらがうまくノレないというか、何が言いたいかわからないエッセイが8分の1くらいある。これは前2冊も同様だった。

 シリーズの中でとくに面白いエッセイをセレクトして、「ベスト・オブ・ネにもつタイプ」を私的に作ってみたい。そんな衝動にもかられるくらい、私はこのシリーズが好きだ。

■関連エントリ
岸本佐知子『なんらかの事情』
岸本佐知子『ねにもつタイプ』
岸本佐知子『気になる部分』

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中室牧子『「学力」の経済学』



 中室牧子著『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン/1760円)読了。

 「教育経済学者」の著者(慶應義塾大学教授)が、自らの研究と見聞をふまえて書いた一般書。
 データに基づき、経済学的手法で教育について分析する「教育経済学」のエッセンスが、わかりやすく紹介されている。

 4年前(2015年)に出た本で、私は仕事の資料として読んだ。
 30万部突破のベストセラーになっているそうで、昨年には本書のマンガ版(『まんがでわかる「学力」の経済学』)まで刊行されている。

 私はこれまで「教育経済学」という言葉さえ知らなかったド素人だが、本書は大変面白く読んだ。

 教育経済学者の私が信頼を寄せるのは、たった一人の個人の体験記ではありません。個人の体験を大量に観察することによって見出される規則性なのです。(17ページ)



 著者の指摘どおり、教育や子育てについての日本の論説の多くは、エビデンスを重視する科学的姿勢に乏しい。
 子育てに成功した人(「子どもが全員東大に入った」とか)の体験を綴った本をありがたがって読んだりするわけだが、その個人的体験に普遍性はないのだ。

 子どもへの教育を「投資」と表現することに抵抗のある人もいるかもしれませんが、あくまでも教育を経済的な側面から見れば、そう解釈できるということにすぎません。(74ページ)



 本書には〝子どものいる家庭が年収の40%も教育費に使っている〟という、日本政策金融公庫の調査データが紹介されている。これほど多額のお金を子どもの教育に費やす以上、コストパフォーマンスが厳しく求められるのは当然だろう。
 家庭では「投資」という言葉があまり使われないだけのことで、教育費は子どもの将来に対する「投資」にほかならないのだから……。

 過去日本が実施してきたさまざまな教育政策は、その費用対効果が科学的に検証されないままとなっています。(116ページ)



 そう指摘する著者は、データ、エビデンスに基づき、さまざまな教育の費用対効果・効率・収益率(!)などについての興味深い話を、矢継ぎ早に紹介していく。たとえば――。

 どの教育段階の収益率がもっとも高いのか、と聞かれれば、ほとんどの経済学者が一致した見解を述べるでしょう。
 もっとも収益率が高いのは、子どもが小学校に入学する前の就学前教育(幼児教育)です。(76ページ)



 情緒的でキレイゴト満載の「教育論」に慣れた目には、著者の冷徹でクリアカットな語り口が小気味良い。

 教育について経済学的観点から研究する著者は、教育の現場にいる人たちから、しばしば次のような批判を浴びてきたという。

「あなたの研究は、子どもはモノやカネで釣れるということを示すためのものなのか」
「教育は数字では測れない。教育を知らない経済学者の傲慢な考えだ」(182ページ)



 〝教育は聖域、教育者は聖職者〟みたいな時代錯誤の思い入れを、いまだ強烈に持っている人が多い世界なのだろうな。
  しかし、これからの教育に必要なのは、著者のような視点のほうだと思った。

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『ガルヴェストン』



 『ガルヴェストン』を映像配信で観た。



 病気で余命いくばくもないと悟った殺し屋と、19歳の売春婦の明日なき逃避行を描くロード・ムービー。

 タイトルの「ガルヴェストン」は、舞台となるテキサス州の地名だという。

 映画の世界では「よくある話」だ。
 ライアン・ゴズリングとキャリー・マリガンの『ドライヴ』を彷彿とさせるし、近作では『ビューティフル・デイ』にも近い。もう少し枠を広げれば、『レオン』と同じ類型の映画ともいえる。

■関連ブクログ→ 『ビューティフル・デイ』

 不幸な生い立ちを背負ったヒロインを演じたエル・ファニングの儚げな美しさが絶品で、彼女のファンなら観る価値あり。

 ただ、『ドライヴ』のような映画を期待すると、思いっきり肩透かしを食う。あのように素直に感動できる映画、きれいな余韻を残す映画ではないのだ。もっともっとねじれている。

 とくに終盤、物語の前提を根こそぎくつがえすようなどんでん返しがあって、「ええっ! そんなのアリかよ」と目がテンになった。

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イェニー・ヨルダル、マルタ・ブレーン『ウーマン・イン・バトル』



 イェニー・ヨルダル画、マルタ・ブレーン文、枇谷玲子訳『ウーマン・イン・バトル――自由・平等・シスターフッド!』(合同出版/1760円)読了。

 日本での刊行は珍しいノルウェーのマンガである。

 19世紀後半から現在まで、過去150年にわたる世界の歴史の中から、参政権をはじめとした人権を勝ち取るために闘ってきた女性たちの姿を描いている。

 ただし、内容は欧米中心(一部は中東のイスラム国家が舞台)で、残念ながら、日本などアジアにおける女性たちの闘いは描かれていない。

 アメリカにおける(女性たちにとっての)奴隷解放運動から説き起こされ、マララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞(2014年)までが取り上げられている。また、同性愛差別に抗する闘いにも一章が割かれている。

 英国における女性参政権を求めた「サフラジェット」の運動にも、大きくページを割いている。
 サフラジェットについては、2015年の映画『未来を花束にして』(よい映画だった)にも印象的に描かれていた。あの映画でメリル・ストリープが演じたエメリン・パンクハーストも、本書の重要な登場人物の一人となる。

■関連エントリ→ 『未来を花束にして』

 本作は、2018年ノルウェー文化省児童書ノンフィクション部門最優秀賞、2019年ボローニャ・ラガッツィ賞優秀賞(ノンフィクションの部)を受賞している。

 フェミニズム史を大づかみに理解するための入門書として、とてもよくできている。
 おもな対象読者は10代の少女だろうが、大人が読んでも、また男性が読んでも勉強になる。私も、本書で初めて知ったことが少なくない。

 ただ、マンガとして面白いかといえば、ちょっと微妙。
 コマ割りもされているし、セリフはスピーチ・バルーン(吹き出し)の中に描かれているから、マンガには違いない。だが、日本のマンガを読み慣れた目から見ると、動きに乏しくてかったるい。
 マンガというより、「イラストをマンガ的に構成した作品」という印象なのだ(イラストとしての質は高いのだが)。

 逆に言えば、動きの表現に関して、日本のマンガは世界に冠たる独自の進化を遂げているということだろう。

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宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』



 宮口幸治著『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書/792円)読了。

 現在、新書分野のベストセラーになっている本。
 類書は多いのに、本書だけがベストセラーになった理由はよくわからない。キャッチーなタイトルの効果であろうか。

 著者は、発達障害・知的障害を持つ非行少年が収容される医療少年院で長く働いた経歴を持つ児童精神科医(現在は立命館大学教授)。

 経験をふまえ、非行少年の中には軽度知的障害や境界知能の事例が多いことが明かされていく。
 重度ではないがゆえに彼らの障害は見過ごされ、支援の手が差し伸べられないまま、学校などで生きづらさを抱えていた例が多い。

 彼らの多くがいじめのターゲットとなり、そのことで溜めたストレスのはけ口として犯罪に走る例が目立つという。同時に、犯罪の重大性を認識できない認知能力の低さも、非行の背景にある。

 本書の前半では、非行少年たちの認知能力の低さを示す衝撃的な実態が紹介される。

 『ケーキの切れない非行少年たち』とは、紙に書いた円をケーキに見立て、「3人で食べるために、平等に切ってください」と書かせる問題に、正答できない少年が多かったことを指す。

 円を3等分することすらできない。「100-3」程度の簡単な計算すらできない。漢字も読めず、日本の総理大臣の名前すら言えず、日本地図を示して「自分の住んでいたところはどこ?」と聞いても答えられない。

 そのように、知識も認知能力も社会生活に不十分な少年たちが、重大な犯罪を犯して少年院に送られてくる。そして反省することを強いられるのだが、「反省以前」だと著者は言う。

 これまで多くの非行少年たちと面接してきました。凶悪犯罪を行った少年に、何故そんなことを行ったのかと尋ねても、難し過ぎてその理由を答えられないという少年がかなりいたのです。更生のためには、自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要ですが、そもそもその力がないのです。つまり、「反省以前の問題」なのです。(22ページ)



 反省できるだけの能力を育むことから始めなければ、更生できるはずもない、と……。

 後半の6、7章では、そんな彼らに社会がどう対処すべきかという処方箋が語られている。
 現在の学校教育、医療分野で行われている支援は、まったく不十分だと著者は指摘する(6章)。
 そのうえで、最後の7章では、著者が実際に行い、多くの非行少年たちを劇的に変わらせた「認知機能に着目した新しい治療教育」が紹介される。

 著者の眼目――いちばん主張したいことは、処方箋が提示される6、7章にこそあるのだろう。

 しかし、タイトルのつけ方が示すとおり、版元は前半のセンセーショナルな実態のほうを強調したがっているようだ。
また、そうした売り方をしたからこそベストセラーになった面もあるだろう。

 実際に読んでみれば、著者の筆致に煽情的な部分はない。非行少年たちの更生をひたすら願う真摯な内容である。

 印象に残った一節を引く。

 矯正教育に長年携わってきた方が、こう言っていました。「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」。まさにその通りだと思います。子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切であり、我々大人の役割は、説教や叱責などによって無理やり扉を開けさせることではなく、子ども自身に出来るだけ多くの気づきの場を提供することなのです。(153ページ)



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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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