ジム・アル=カリーリ編、斉藤隆央訳『エイリアン――科学者たちが語る地球外生命』(紀伊國屋書店/2376円)読了。書評用読書。
エイリアン――地球外生命体についての、真面目だが遊び心にも満ちた論考集である。
エイリアンといえば、「空飛ぶ円盤」や宇宙人などという、SF映画や怪しげなオカルト本の題材という印象があるかもしれない。
だが、いまや必ずしもそうではない。
地球外生命の存在可能性の検討・探査を柱とする「宇宙生物学」(アストロ・バイオロジー/Astrobiology)という新しい学問分野にも、すでに20年を超える蓄積がある。国際学会も盛んに開催され、宇宙物理学・天文学・鉱物学・海洋学・生物学など、さまざまな分野からの研究が積み重ねられているのだ。
そのような近年の趨勢について、本書には次のような記述がある。
一九六◯~七◯年代には、知的生命はおろか、どんな地球外生命であっても存在を信じていると表明すれば、科学界で自殺するも同然だった。まだ妖精の存在を信じていると表明するほうがましだったろう。ところが、一九九◯年代までに形勢が逆転する(215ページ)
地球外生命が1990年代を境に真面目な研究課題になったのは、それが研究に値することを示す事実が次々に明らかになってきたからだ。
たとえば、次のような事実――。
使える電波望遠鏡の大きさや性能が増すにつれ、天文学者は生命が棲める可能性のある星系を頻繁に見つけている。それどころか、ほとんどひと月も間を置かずに続々と、生命が棲める可能性のある地球型惑星発見の知らせが飛び込んでいるようだ(12~13ページ)
本書は、そうした時代の到来をふまえて編まれた、地球外生命研究の最先端を一望するアンソロジーだ。
天文学、宇宙物理学、生化学、遺伝学、神経科学、心理学など、第一線で活躍する研究者たちが、各々の専門分野の知見を駆使して、地球外生命の可能性を多角的に論じていく。
本書の編著者である理論物理学者のジム・アル=カリーリは、「はじめに」で次のように述べる。
本書で私は、科学者や思想家の輝かしいチーム――全員でこのテーマのあらゆる側面をカバーするような、各分野における世界の第一人者たち――を選び抜いた。
この言葉のとおり、地球外生命について考えるための代表的論点が、本書には網羅されている。
たとえば、〝どのような惑星であれば生命を育めるのか?〟を突き詰めて考えた論考、〝地球の生命はどのように発生したのか?〟(じつはまだ明確にはわかっていない)を改めて考えた論考、〝遠い星系に、どのように「生命のしるし」を探したらよいのか?〟を考察した論考などである。
また、とうてい科学的とは言えない、過去の代表的な「空飛ぶ円盤」話や「宇宙人に連れ去られた体験談」についても、それぞれ一章を割いて俎上に載せ、真面目に検討が加えられている。地球外生命を科学的に論ずるためには、非科学的な論にも光を当て、差異を際立たる必要があったのだろう。
ただし、そのような真面目な論考の合間には、息抜きのような楽しい章が挟まっている。
たとえば、SF映画の中に描かれてきたエイリアンをまとめて批評する章や、SF小説の中のエイリアンをタイプ別に分類して論じた章などである。
また、本書の欄外には、エイリアンが地球に降り立って再び去るまでが描かれた「パラパラマンガ」が載っている。
そのことが象徴するように、真面目一辺倒にならない「遊び心」が随所にあふれている。そのことも本書の魅力である。
なお、本書で多角的に論じられる地球外生命の存在は、当然のことながら、まだ可能性にとどまっている。生命はいまだかつて地球でしか発見されていないからだ。
では、生命の誕生とは、長大な宇宙の歴史の中で、我が地球にだけ起きた一回限りの奇跡なのか?
本書の寄稿者の中には、そのように考える立場――すなわち地球外生命の存在に否定的な論者もいる。一つの立場に偏らず、地球外生命について悲観論と楽観論の両方が紹介されているのだ。
いずれの立場を取るにせよ、各寄稿者が共通して強調しているのは、一つの星に生命が誕生し、それが知的生命となって文明を築くまでには、途方もない確率の偶然が積み重ねられたということだ。
我々一人ひとりが知的生命としていまここに在ることは、それ自体が〝奇跡オブ奇跡〟ともいうべき僥倖なのである。読者は、その幸運に改めて思いを馳せることになる。その意味で、生命の尊さを再認識させられる書だ。
■関連エントリ
マーク・カウフマン『地球外生命を求めて』ピーター・D・ウォード『生命と非生命のあいだ』
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