多島斗志之『少年たちのおだやかな日々』



 多島斗志之著『少年たちのおだやかな日々』(双葉文庫)読了。

 2009年に失踪してしまったこの作家が、1994年に上梓した短編集。

 収録された7編の短編は、どれも広義のミステリ。いずれも中学生くらいの少年が主人公である。

 地の文をあまり使わず、会話の連続でどんどんストーリーが進んでいく構成で、とてもリーダブル。

 タイトルのとおり、どこにでもある「少年たちのおだやかな日々」の描写から始まるが、その日常に不穏な影が迫る。
 そして、まったくおだやかではない陰惨な結末が待っている。いまでいう「イヤミス」のたぐい。

 最初の短編が「言いません」で、最後の短編が「言いなさい」。凝った趣向である。全体も、短編集としての構成がよく練られている。

 「言いません」「言いなさい」「罰ゲーム」の3編はテレビドラマ化されたという。
 そのうち、「罰ゲーム」は『世にも奇妙な物語』の一編になったそうだ。7編全体も、なんとなく『世にも奇妙な物語』的だ。チープなところも……。

 最初の「言いません」がいちばん面白かった。
 中学生男子の主人公が、同級生の母親が見知らぬ男とラブホテルから出てくるところにバッタリ出くわしてしまい……という話。
 その母親の狼狽ぶりや、主人公の「どうしたらいいかわからない」戸惑いぶりが、とてもよく描けている。

 7編それぞれが「どんでん返し」で終わる構成。
 「言いません」と次の「ガラス」は、どんでん返しがうまく決まっている。
 一方、ほかの5編はとってつけたような終わり方で、感心しなかった。

 どんでん返しは、そこまでに張られた伏線を見事に回収する形でなされてこそ、読者も「一本取られたな!」と感心するものだろう。

 だが、本書の7編中5編は、それまでになかった要素を突然持ち込んでくるような強引などんでん返しになってしまっている。
 「えっ? そんなの聞いてないよ~」と言いたくなるようなモヤモヤ感が残った。

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川﨑二三彦『虐待死』



 川﨑二三彦著『虐待死――なぜ起きるのか、どう防ぐか』(岩波新書/842円)読了。

 著者は32年間にわたって児童相談所に勤務し、その後は児童虐待問題の研究・研修を行う「子どもの虹情報研修センター」で働いている人物(現在は同センター長)。

 つまり、一貫して児童虐待問題の最前線に身を置き、その防止に尽力しつづけてきた当事者なのだ。

 本書は、その著者が児童虐待の究極――「虐待死」問題の全体像を示すべく書いた概説書である。
 センセーショナルな一つの虐待死事件を深く掘り下げた書は多い一方で、「虐待死の全体を視野に入れて論じた書物は意外に少ない」(「まえがき」)ものだ。

 ゆえに、「通読することで、虐待死の問題に関する歴史、現状、取り組むべき課題のエッセンスがつかめるよう」(「あとがき」)に書かれた本書の意義は大きい。
 また、児童相談所の現場を知り尽くした人だけに、隅々にまで豊富な蓄積が感じられる好著になっている。

 虐待死についてのノンフィクションの中には、いたずらにドギツい場面を強調する、過度に煽情的なものが少なくない。
 「感動ポルノ」という言葉があるが、その手の煽情的ノンフィクションも、ある意味で「感動ポルノ」だろう。

 それに対し、本書は一貫して抑制的な筆致を保っており、煽情性を注意深く避けて書かれている。
(その美点を裏返せば、「お役所文書的」な堅苦しさが随所に感じられるという欠点にもなるのだが、それはさておき)
 多くの現場を目の当たりにしてきた著者は、もっと感情を込めようと思えば込められたはずだが、あえて冷静に書いているのだ。

 以下、印象に残った一節を引用。

 援助を求めること自体が、実は一つの能力であり、そうした力を持たない人がいることを援助者は知っておく必要があろう。(93ページ)



 三歳女児を三畳の和室で生活させたところ、調味料をこぼすなどしたため両手両足をひもで縛り、段ボール箱に入れて出さず死亡させた事例もあった。本来同一空間で過ごすのが家族だとしたら、この子どもたちは、養育放棄どころか、いつの間にか家族の一員から除外されていたと言っても過言ではあるまい。(98ページ)



 嬰児殺について考えるために、戦国時代から説き起こしてここまで見てきたが、こうして歴史を追っていくと、まるで人権意識の発展をたどるような感覚が生じてくる。換言すれば、生まれたばかりの命を一個の人格をもった人間として認めるために、私たちの社会は長い時間を要したのかもしれない。(123ページ)



 二◯◯◯年度ですら、児童福祉司等の人員不足が大きな問題となっていたのに、それから二◯年近くを経て、いまや一人の児童福祉司が抱える虐待相談件数は、当時と比べても三倍以上に膨らんでいる。そのため、一日五件もの安全確認を求められることがあると、期せずして複数の県の職員から聞かされた。(193~194ページ)



 テーマがテーマだけにヘビーな内容だが、児童虐待について知りたい人が、まず全体像をつかむため1冊目に読むべき本だ。

■関連エントリ
慎泰俊『ルポ 児童相談所』
黒川祥子『誕生日を知らない女の子』
杉山春『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』
石川結貴『ルポ 子どもの無縁社会』
森田ゆり『子どもへの性的虐待』
ささやななえ『凍りついた瞳』
夾竹桃ジン『ちいさいひと 青葉児童相談所物語』

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澤村伊智『ファミリーランド』



 澤村伊智著『ファミリーランド』(早川書房/1728円)読了。

 俊英ホラー作家による、初のSF短編集である。
 『SFマガジン』に掲載された5編に、書き下ろしの1編を加えた計6編からなる。

 6編とも、未来を舞台にしつつ、いまの日常とあまりかけ離れていない世界を描いている。
 そして、SFではあってもどこかホラー味を感じさせるところが澤村伊智らしい。ゾクッとくる怖さが随所にあるのだ。

 全部が全部傑作とは言えず、玉石混交。とくに、後半3編はどれもパッとしないと思った。たとえば――。

 ラストの「愛を語るより左記のとおり執り行おう」は、未来の葬儀の話である。
 葬儀が完全にヴァーチャル空間で執り行われるようになり、葬儀業界自体が消滅した世界。そんななか、一人の老人が〝自分の葬儀は昔ながらのスタイルで執り行ってほしい〟と希望したことから起こる騒動を描いている。

 アイデアはよいが、アイデア倒れ。
 登場人物が昔の(つまり、現在ではフツーの)スタイルの葬儀にいちいち驚く様子が、我々から見るとバカみたいに思えてしまう。

 また、書き下ろし作「今夜宇宙船の見える丘に」は、未来の姥捨ての物語である。
 いまどきの介護の苦しさの延長線上に、十分あり得る恐怖の未来を描いて、澤村伊智らしい。
 だが、それが『未知との遭遇』風に展開していくあたりは、木に竹を接いだ感じで、あまり成功していない。ただし、オチには爆笑した。

 一方、前半の3編はそれぞれ素晴らしい。

 「コンピューターお義母さん」は、テクノロジーの進歩が嫁姑問題をいっそう複雑化させた未来を描いて、秀逸。アイデア・展開・オチの三拍子揃って優れている。

 「翼の折れた金魚」は、個人的にはいちばん気に入った一編。
 どこか名作映画『ガタカ』を彷彿とさせる物語で、もっとふくらませて長編化してもイケると思った。

 薬品を用いた「計画出産」(それによって生まれてくる子どもは金髪碧眼となり、能力も高い)があたりまえとなった未来世界。無計画出産で(つまり自然に)生まれた子どもたちは「デキオ」「デキコ」と呼ばれ、差別されていた。
 しかし、あるとき「計画出産」が孕む闇が明らかになってきて……という話。

 「マリッジ・サバイバー」は、進化した〝未来のマッチングサイト〟の物語。オチのホラー味は本書で随一かも。

 「ぼぎわん」や「ししりば」のような化け物は登場しないが、「いちばん怖いのは人の心だよ」とでも言いたげな、ほんのりホラー風味のSF短編集。

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赤松利市『純子』



 赤松利市著『純子』(双葉社/1404円)読了。

 私が赤松利市作品を読むのは、これが4作目。
 そのうちのマイベストは前作に当たる『ボダ子』だが、この『純子』もなかなかのものであった。

 ただ、一作ごとに「読者を選ぶ」度合いが高まっているように思う。逆に言えば、「一般ウケする無難な作風」からどんどん離れて、茨の道・けもの道を突き進んでいるのだ。

 〝クズな男としての自分〟の歩みを赤裸々に描いた私小説『ボダ子』も相当に「読者を選ぶ」作品だったが、本作はそれ以上だ。

 なにしろ、最初から最後までウンコがストーリー上の重要な役割を果たす(!)という、驚愕の一作なのだから。

 といっても、いわゆる「スカトロ・マニア」向けのポルノ小説というわけではない。
 そもそも、最初から最後まで、ストレートなセックス描写は一度も出てこないのだから、ポルノではない。

 それどころか、ウンコの要素を取り除けば、心温まる美しいファンタジーと言えなくもない。
 1960年代の四国の山間部を舞台に、輝くような美少女・純子が村の危機を救う物語なのだから……。

 しかし、全編がウンコにまみれているばかりに、美しいファンタジーが読者を選ぶ異形の物語と化しているのだ。

 まあ、赤松利市が変態であることは、アナル・セックスのシーンがくり返し登場する私小説『ボダ子』によって、読者にはすでにバレバレなわけで……。
 これは、その変態ぶりをさらに全面開花させた作品といえよう。

 読者を選ぶ小説ではあるが、赤松利市の才能をさらに強烈に印象づける傑作だ。誰にも真似できない独創性と、タガの外れた想像力が炸裂している。

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ジム・アル=カリーリ『エイリアン――科学者たちが語る地球外生命』



 ジム・アル=カリーリ編、斉藤隆央訳『エイリアン――科学者たちが語る地球外生命』(紀伊國屋書店/2376円)読了。書評用読書。

 エイリアン――地球外生命体についての、真面目だが遊び心にも満ちた論考集である。

 エイリアンといえば、「空飛ぶ円盤」や宇宙人などという、SF映画や怪しげなオカルト本の題材という印象があるかもしれない。

 だが、いまや必ずしもそうではない。
 地球外生命の存在可能性の検討・探査を柱とする「宇宙生物学」(アストロ・バイオロジー/Astrobiology)という新しい学問分野にも、すでに20年を超える蓄積がある。国際学会も盛んに開催され、宇宙物理学・天文学・鉱物学・海洋学・生物学など、さまざまな分野からの研究が積み重ねられているのだ。

 そのような近年の趨勢について、本書には次のような記述がある。

 一九六◯~七◯年代には、知的生命はおろか、どんな地球外生命であっても存在を信じていると表明すれば、科学界で自殺するも同然だった。まだ妖精の存在を信じていると表明するほうがましだったろう。ところが、一九九◯年代までに形勢が逆転する(215ページ)



 地球外生命が1990年代を境に真面目な研究課題になったのは、それが研究に値することを示す事実が次々に明らかになってきたからだ。
 たとえば、次のような事実――。

 使える電波望遠鏡の大きさや性能が増すにつれ、天文学者は生命が棲める可能性のある星系を頻繁に見つけている。それどころか、ほとんどひと月も間を置かずに続々と、生命が棲める可能性のある地球型惑星発見の知らせが飛び込んでいるようだ(12~13ページ)



 本書は、そうした時代の到来をふまえて編まれた、地球外生命研究の最先端を一望するアンソロジーだ。

 天文学、宇宙物理学、生化学、遺伝学、神経科学、心理学など、第一線で活躍する研究者たちが、各々の専門分野の知見を駆使して、地球外生命の可能性を多角的に論じていく。

 本書の編著者である理論物理学者のジム・アル=カリーリは、「はじめに」で次のように述べる。

 本書で私は、科学者や思想家の輝かしいチーム――全員でこのテーマのあらゆる側面をカバーするような、各分野における世界の第一人者たち――を選び抜いた。



 この言葉のとおり、地球外生命について考えるための代表的論点が、本書には網羅されている。

 たとえば、〝どのような惑星であれば生命を育めるのか?〟を突き詰めて考えた論考、〝地球の生命はどのように発生したのか?〟(じつはまだ明確にはわかっていない)を改めて考えた論考、〝遠い星系に、どのように「生命のしるし」を探したらよいのか?〟を考察した論考などである。

 また、とうてい科学的とは言えない、過去の代表的な「空飛ぶ円盤」話や「宇宙人に連れ去られた体験談」についても、それぞれ一章を割いて俎上に載せ、真面目に検討が加えられている。地球外生命を科学的に論ずるためには、非科学的な論にも光を当て、差異を際立たる必要があったのだろう。

 ただし、そのような真面目な論考の合間には、息抜きのような楽しい章が挟まっている。
 たとえば、SF映画の中に描かれてきたエイリアンをまとめて批評する章や、SF小説の中のエイリアンをタイプ別に分類して論じた章などである。

 また、本書の欄外には、エイリアンが地球に降り立って再び去るまでが描かれた「パラパラマンガ」が載っている。
 そのことが象徴するように、真面目一辺倒にならない「遊び心」が随所にあふれている。そのことも本書の魅力である。

 なお、本書で多角的に論じられる地球外生命の存在は、当然のことながら、まだ可能性にとどまっている。生命はいまだかつて地球でしか発見されていないからだ。

 では、生命の誕生とは、長大な宇宙の歴史の中で、我が地球にだけ起きた一回限りの奇跡なのか?
 本書の寄稿者の中には、そのように考える立場――すなわち地球外生命の存在に否定的な論者もいる。一つの立場に偏らず、地球外生命について悲観論と楽観論の両方が紹介されているのだ。

 いずれの立場を取るにせよ、各寄稿者が共通して強調しているのは、一つの星に生命が誕生し、それが知的生命となって文明を築くまでには、途方もない確率の偶然が積み重ねられたということだ。

 我々一人ひとりが知的生命としていまここに在ることは、それ自体が〝奇跡オブ奇跡〟ともいうべき僥倖なのである。読者は、その幸運に改めて思いを馳せることになる。その意味で、生命の尊さを再認識させられる書だ。

■関連エントリ
マーク・カウフマン『地球外生命を求めて』
ピーター・D・ウォード『生命と非生命のあいだ』

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佐藤優『友情について』



 佐藤優著『友情について――僕と豊島昭彦君の44年』(講談社/1728円)読了。

 佐藤優さんが、埼玉県立浦和高校時代からの親友である豊島昭彦氏とともに作った、2人の人生記録の書。
 私は仕事上の必要から読んだのだが、とてもよい本だった。

 豊島氏は昨年、ステージ4の膵臓がんであることが判明。
 告知を受けたときには、すでに肝臓とリンパに転移もしていた。抗がん剤による延命治療しか選択肢がなく、その抗がん剤もやがて効かなくなるので、最後は緩和ケアで死を待つことになる……という状況であった。

 そのことを知らされた佐藤さんは、残された日々の中で、豊島氏の生きた証となる本を一緒に作ろう、と提案する。
 そして、闘病中の豊島氏にインタビューを重ねるなどして作り上げられたのがこの本である。書名の「僕と豊島昭彦君の44年」とは、2人が浦高で出会い、豊島氏が最晩年を迎えるまでの年月を意味する。

 親友の生きた証のため、作家が親友とともに一冊の本を作るという、他に類を見ない成り立ちの書だ。

 エロースでもアガペーでもない第3の愛がある。それがフィリアで、友情を意味する。友情は、同性間でも異性間でも成り立つ。哲学をギリシア語でフィロソフィアと言うが、知(ソフィア) に対する愛(フィリア) のことだ。豊島君と作品を書くことを通じて、私は1人のプロテスタント神学者として、フィリア(友情=愛) のリアリティーを追求しているのである(「Ⅰ友情」)



 豊島氏の人生記録の合間に、当時の佐藤さんの行動も記されている。それは、世間的には無名である豊島氏の記録だけでは、読者の興味を引かないからでもあろう。

 子ども時代から説き起こされ、浦高時代の共通の思い出を経て、社会に出てからの2人の軌跡が綴られていく。

 意外にといっては失礼だが、豊島氏の人生を記した部分も面白い。とくに、銀行マンとして日債銀の破綻を経験してからの怒涛の日々は、一級の企業小説のようにドラマティックだ。

 本書はきわめて個人的な内容の本ではあるが、同時に普遍的価値ももっている。とくに、2人と同世代の人々にとっては、自分の半生について思いを馳せるよすがとなる一冊だろう。

 自分の持ち時間が限られていることを豊島君は自覚しながらも、1日でも長く生きようと努力している。私は、豊島君の高校1年のときからの親友として、最期の瞬間まで伴走したいと思っている。



 本文の結びの一節である。そして、つづく「あとがき」にはこんな一節がある。

 豊島君について、公の場で語れることは、本書にすべて盛り込んだ。ただ、本書を書きながら、常に悩んだのは、死期が迫った友人を、自分は作品の対象として利用しているのではないかという自責の念だ。しかし、そのような感傷を吹き飛ばす力が、豊島君の人生にはある。
 本書がよき読者に恵まれることを望む。



 豊島氏は、本書刊行後の今年6月8日に亡くなった。
 しかし、それ以前のまだ元気だったころに、本書刊行記念のトークショーを佐藤さんとともに八重洲ブックセンターで行うなどした。

 本書はまさに、豊島氏の生きた証として、そして2人の友情の証として世に残ったのだ。

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平岡聡『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』



 平岡聡著『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』(新潮新書/799円)読了。

 念仏と題目を比較した本……というより、念仏と題目を創出した法然と日蓮の仏教思想を比較した本である。

 学術論文の世界には先例があるのかもしれないが、一般書としては「ありそうでなかった本」だと思う。

 著者は、京都文教大学学長を務める仏教学者。
 当然の配慮ながら、法然と日蓮、念仏と題目のどちらが優れているかなどという勝劣比較は、注意深く避けられている。中立・客観的な比較検証の書である。

 これは本の企画として「コロンブスの卵」というか、いいところに目をつけたものだと思う。
 南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も、言葉として知らないという日本人はいないだろう。しかしその一方、2つの言葉にどのような背景があるかを説明できる人も、一般的にはごく少ないに違いない。本書はこの間隙をうまく衝いている。

 また、法然の念仏と日蓮の題目は、ともに鎌倉時代に生まれ、庶民にも平等に仏の救いをもたらすために〝考案〟されたという共通項を持つ。

 南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も、言葉としては法然・日蓮以前からあった。つまり、言葉そのものを創出したわけではない。2人は、念仏と題目の持つ意味合いを大きく変え、末法の衆生を等しく救う「易行」として生まれ変わらせたのだ。

 それでいて、それを生み出した法然と日蓮の思想は、対照的と言えるほどに遠く隔たっている。
 そのような事情から、比較しがいのある対象なのだ。

 日蓮は法然没後10年ほどして生まれているから、両者が直接顔を合わせる機会はなかった。
 だが、日蓮が「立正安国論」などの著作で、法然の念仏とその思想を「一凶」として厳しく批判したことは、つとに知られている。両者はまったく相容れないのだ。

 本書はその「相容れなさ」の根源にも肉薄している。
 しかし一方で、法然と日蓮には意外に共通項も少なくないことが紹介されている。

 自己の思想には徹底的に厳しく対峙する一方、地べたで這いつくばって苦しみもがく弱者には優しい眼差しを向け、彼らを決して見捨てることはなかった。この両極を兼備していたことが、法然と日蓮の、宗教家としての最大の魅力であろう。
 進んだ道はそれぞれ異なり、後代のポジショニングは好対照だが、末法の世にあって万人救済の道を真摯に求めた点で、私の目に二人の姿は見事に重なるのである。(198~199ページ)



 法然と日蓮、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経という対極的な視座から光を当てることで、鎌倉仏教の一側面を鮮やかに浮き彫りにした好著。

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井上純一『キミのお金はどこに消えるのか』



 井上純一著『キミのお金はどこに消えるのか』(KADOKAWA/1080円)読了。

 先日、続編『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』が発売されたが、まずは昨年出た正編を読んでみた。

 コミックエッセイの大ヒット・シリーズ『中国嫁日記』の著者が、その「中国嫁」――愛妻・月(ゆえ)さんを対話相手として進行していく経済解説マンガだ。

 日常会話の中で月さんが放つ、〝経済に関する素朴で鋭い疑問〟に、夫である著者がわかりやすく答えようと努力する……というのが、毎回の基本スタイル。

 ただ、著者は経済の専門家ではないから、専門家のレクチャーをふまえて内容を決めている。

 まず、経済にくわしいアル・シャード(どういう人なのかよくわからない)に、その回のテーマに沿ったレクチャーを受ける。
 そのうえで、月さんとの会話から練り上げた内容を、エコノミストの飯田泰之(明治大学経済学部准教授)にチェックしてもらうのだという。
 アル・シャードは「企画協力」、飯田泰之は「監修」としてクレジットされている。

 経済についてわかりやすく解説するマンガはこれまでにもたくさんあるが、本作ほどわかりやすいものはほとんどなかった。
 管見の範囲では、本作と『行動経済学まんが ヘンテコノミクス』(原作・佐藤雅彦&菅俊一、画・高橋秀明)が、「わかりやすい経済マンガ」の双璧だ。

■関連エントリ→ 『行動経済学まんが ヘンテコノミクス』

 本書の刊行記念対談(『本の旅人』2018年8月号)で、著者は次のように述べている。

 井上: 知識ゼロの月でも分かるように描くというのが大前提。詳しい人が読んだら、突っ込みどころはあると思うんです。どんな分野でも本気で議論しようとすると、前提条件を山ほど並べないといけない。限られたページ数では不可能なので、本筋と関係ない部分はカットしています。



 まさにそのように、枝葉部分はバッサバッサ切り落し、問題の本質だけをグイッと抽出する力技こそが、本作を面白くわかりやすいものにしているのだ。

 経済成長はなぜ必要なのか? 公共事業はなぜ必要なのか? ……などという、経済に関する「基本のき」ともいうべき素朴な疑問に、著者はズバリと答えを出してみせる。

 くわしい人から見て「突っ込みどころ満載」であっても、それはそれでいいのだと思う。もっと細かい議論がしたければ専門書を読めばよいのだ。
 本作はあくまで、経済の勘所のみを抽出したマンガであり、経済理解の糸口、議論の入り口を提供できればそれでOKなのだ。

 本書を読んで目からウロコだった主張をピックアップ。

・「毎年2~4%のインフレ」になってこそ、物価は安定する。
 物価上昇がゼロになると消費者が「いつでも同じ値段で買えるから」と安心してしまい、むしろ消費が冷え込む。また、物価上昇がゼロに近い社会では、企業のリストラや倒産も増えてしまう。

・経済成長は「する方が自然」。
 「人間というものは同じことをしていても『もっといいやり方』を発見してしまうもの」なので、効率化や新発見で年1.8%程度は成長「してしまう」から。

 ただ、本書は〝中立公平な入門書〟というより、かなり角度がついたものになっている。
 消費税増税については明確に反対の立場を取るなど、いわゆる「リフレ派」の主張に沿った内容なのである。したがって、反リフレ派の主張に与する人にとっては、本書の内容には受け入れがたい面もあるだろう。

 そうした偏りを承知のうえで読むなら、よくできた経済入門マンガとして楽しめる。

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川崎大助『教養としてのロック名盤ベスト100』



 川崎大助著『教養としてのロック名盤ベスト100』(光文社新書/929円)読了。

 著者が4年前に講談社現代新書で出した『日本のロック名盤ベスト100』は、私には大いに不満の残る内容だった。

 不満はおもに、「名盤」のセレクトの偏りについて。感じた不満の中身を、ネチネチとブログに書きつらねたものだ。

■関連エントリ→ 川崎大助『日本のロック名盤ベスト100』

 本書は同書の続編というか、洋楽ロック編。洋楽といっても当然、九割方は英米のロックで占められている。

 著者自身が日本のロック名盤ベスト100を選んだ前著とは対照的に、本書はセレクトを外部に委ねている。
 米『ローリング・ストーン』誌と英『NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)』誌という、両国を代表する音楽メディアが発表した、各500枚の「ロック名盤リスト」を素材に作られたベスト100なのだ。

 著者は、2つのリストに重複して登場する196枚に絞り、そこから100枚をセレクトした。
 基準になったのは、独自のポイント付与ルール。各リストの順位に沿ったポイントを付与し(1位のアルバムには500ポイント、500位なら1ポイントを付与する、という具合)、その後にアルバムごとにポイントを合算する、というものである。

 要するに、著者の主観は一切入っていない客観的ランキングであり、それは英米のロック聴き巧者たちが選び抜いた正統的評価に基づいている……というわけだ。

 ただ、著者も認めるとおり、元になった『ローリング・ストーン』と『NME』のベスト500は、それぞれかなり偏ったセレクトになっている。
 したがって、偏った2つのランキングの中間をとり平均化した本書のベスト100も、必然的に偏っている。

 著者自身も「あとがき」で触れているのだが、ベスト100の中にビートルズが6枚、ボブ・ディランが5枚選ばれているなど、計17組の〝強者〟がベスト100の約半数(47枚)を占めるという格差が生じている。

 一方、U2、ポリス、クイーン、イーグルス、エルヴィス・プレスリー、エルトン・ジョンといった、上位にランクされてしかるべき大物たちが、1枚も選ばれていない。

 ジャンルの偏りもある。
 たとえば、プログレはピンク・フロイドの『狂気』が選ばれているのみだ。キング・クリムゾンもイエスもELPも、影も形もない。

 うーん、これで『教養としてのロック名盤ベスト100』を謳われても、ちょっとなァ……。

 ただ、偏りはあるものの、選ばれた100枚それぞれについての著者の解説は、とてもよい。

 解説は、上位10枚のアルバムが各4ページ、それ以外は各2ページ。どれもコンパクトに手際よくまとまっていて、読み物としても情報としても有益なものになっている。
 その点で、前著『日本のロック名盤ベスト100』よりも、本としての出来は上だと思った。

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『麻雀放浪記2020』



 『麻雀放浪記2020』をNetflixで観た。



 ピエール瀧逮捕問題に巻き込まれたり、何かと不遇な映画である。
 あまり期待しないで観たのがよかったのか、けっこう面白く感じた。

 突然起きてあっという間に日本が敗けた戦争のせいで、2020年の東京五輪が中止になってしまった至近未来の東京が舞台。
 そこに『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」が1945年からタイムスリップしてくるという、奇想天外な設定だ。

 その設定は事前にネット記事で読んで知っていたため、「わりと政治的な主張が盛り込まれているのかな」と思っていた。
 実際に観てみれば、戦争については二、三のセリフで触れられるのみで、内容にはほとんど関係なし(日本がどの国に敗けたのかさえ語られない)。政治色など薬にしたくもない。

 東京五輪についても同様だ。
 「五輪が中止になったから、代わりに麻雀五輪を開催する」というフザけた展開(笑)になってはいるが、それ以外は五輪関係なし。

 阿佐田哲也の小説を和田誠が映画化した名作『麻雀放浪記』へのオマージュが随所にあるものの(ドサ健や出目徳も登場)、全体にコメディ寄りに振っているし、オリジナルとはまったく別物だ。

 ただ、作り手側が中途半端に照れたりせず、「真剣に遊んでいる」姿勢は好ましいと思った。
 坊や哲(斎藤工)が2020年の東京で「ふんどしの哲」として人気者になるとか(笑)、「ううむ……、振り切ってるなァ」という感じ。

 私自身は麻雀をやったことがないし、ルールも知らないので、私には気付けなかった微妙なくすぐりもいろいろあるのだと思う。
 その意味で、麻雀好きの人が観たらもっと楽しめるかも。

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吉本浩二『淋しいのはアンタだけじゃない』



 仕事上の必要があって、吉本浩二『淋しいのはアンタだけじゃない』全3巻を、Kindle版で購入して一気読み。

 聴覚障害者の世界を、丹念な取材を基に深堀りしていくドキュメンタリー・コミックだ。

 我々はつい「聴覚障害者」と十把一絡げにしてしまいがちだが、本当はひとくくりになどできないほど、聴覚障害のありようは多様である。

 生まれつきの聾者と中途失聴者では立場が違うし、難聴にも軽度・中度・高度と段階がある。
 また、本作で大きく光が当てられる「感音性難聴」(音は聞こえていても、聴覚中枢の問題などから歪んで聞こえ、意味が伝わりにくい難聴)の不自由さは、健聴者にはなかなかわかりにくい。

 本作は、聴覚障害の多様な世界の一端を垣間見せてくれる。難聴の人に見えている(聞こえている)世界を、見事に「見える化」する表現上の工夫が素晴らしい。文章のみのノンフィクションではできない、マンガならではの表現が最大限活用されているのだ。

 難聴や耳鳴りのメカニズムを解説する部分にも、活字にも映像ドキュメンタリーにもできない、マンガならではのわかりやすさがある。

 あの佐村河内守への取材が柱の一つになっている点は、賛否が分かれるだろう。
 私は、ないほうが作品がスッキリしてよかったと思う。佐村河内の登場パートとそれ以外のパートはテイストが異なっていて、木に竹を接ぐような不自然さがある。

 ただ、佐村河内の登場によって本作が大きな話題になったことはたしかで、読者を増やすという意味ではプラスになったのだろう(どっちみち、コミックスはあまり売れなかったようだが)。

 佐村河内がらみで、『FAKE』撮影中だった森達也も登場する。
 マンガ家と担当編集者も重要なキャラクターとして登場する本作のスタイルは、森達也のドキュメンタリー映画に近いとも言える。

 手放しで傑作とは言い難い、随所に未整理感が感じられる作品だ。それでも、ドキュメンタリー・コミックの新たな地平を切り拓く、チャレンジングな意欲作ではある。

P.S.
 内容の本筋とは関係ない話だが、取材で佐村河内守の自宅を訪問するシーンで、飼い猫の名を「仮名」にしているのがむしょうにおかしい。無意味な配慮というか、むしろ渾身のギャグなのか?

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『漫画原作者・狩撫麻礼 1979-2018』



 狩撫麻礼を偲ぶ会・編 『漫画原作者・狩撫麻礼 1979-2018――《そうだ、起ち上がれ!! GET UP . STAND UP!!》 』(双葉社/1944円)読了。

 2018年1月に亡くなったマンガ原作者・狩撫麻礼の追悼ムックである。

 生前の狩撫が多くの仕事をした4つの出版社――双葉社・小学館・KADOKAWA・日本文芸社の「共同編集」という、この手のムックではおそらく前例のない形で作られている。

 狩撫麻礼と「セッションした」(=仕事を共にした)マンガ家たち、狩撫作品を映像化した監督たち、交友のあったマンガ家・マンガ原作者、彼の作品に深く影響を受けた小説家、伴走した担当編集者たちなど、縁深い60数名が登場。
 彼らは、マンガ・イラスト・インタビュー・対談・文章など、それぞれのスタイルで、狩撫麻礼の人となりや彼との思い出を語っている。

 本の隅々にまで、狩撫麻礼へのリスペクトと愛があふれている。詰め込まれた熱量がすごいし、資料的価値もすこぶる高い。

 つい2ヶ月ほど前、私は『闇金ウシジマくん』の完結記念ムック(『闇金ウシジマくん本』)を買い、その内容の薄さにガッカリした。
 比べるのも酷だが、同書と本書は、マンガ関連ムックの「悪い見本」と「よい見本」だと思う。

■関連エントリ→ 『漫画家本SPECIAL  闇金ウシジマくん本』

 面白い記事はたくさんあるが、私がベスト3を選ぶなら、カネコアツシ、江口寿史、櫻井稔文(桜井トシフミ、桜壱バーゲンとしても知られる)という、3人のマンガ家たちへのインタビューだろうか。
 とくに、カネコと櫻井へのインタビューは、そのまま一編のマンガになりそうなほどドラマティックで面白い。

 狩撫麻礼について語るべき人たちが、漏れなく登場している印象。

 惜しむらくは、谷口ジローが狩撫よりも先に亡くなったことだ。
 『青の戦士』『ナックル・ウォーズ』『LIVE!オデッセイ』といった初期傑作で仕事を共にした谷口は、マンガ家の立場から原作者・狩撫麻礼を語る最適任者だったはずだから……。

■関連エントリ
ひじかた憂峰・たなか亜希夫『リバースエッジ 大川端探偵社』
田辺剛・カリブsong『サウダージ』

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塙宣之『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』



 塙宣之著『言い訳――関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書/820円)読了。

 「ナイツ」の塙宣之の語り下ろしによる「M-1グランプリ」論。――と、一言で説明すればそうなるのだが、それだけには終わらない奥深さを具えた本である。

 聞き手を務めるのは、講談社ノンフィクション賞も受賞したノンフィクションライターの中村計。彼の構成の巧みさもあって、読みやすいが内容は濃く、一冊の本としてよくできている。

 全90問の「Q」が、小見出しの代わりになっている。この構成は、わりとコロンブスの卵。
 通常の本のように小見出しで内容をつないでいく形にするより、読みやすさが増している。

 『言い訳』というタイトルは、〝チャンピオンになれなかったナイツ(3年連続で決勝には進出)の塙がM-1を論じても、言い訳にしか聞こえないと思うが……〟という苦い自虐を孕んでいる。

 本の成り立ちとしては、「髭男爵」山田ルイ53世の『一発屋芸人列伝』に近い。
 自らも一発屋芸人である山田が、自分たちを含む一発屋芸人たちを描いた同書は、彼にしか書き得ない本であった。

■関連エントリ→ 山田ルイ53世『一発屋芸人列伝』『ヒキコモリ漂流記』

 同様に本書も、M-1グランプリの頂点目指して戦い、現在はM-1の審査員も務める塙にしか作り得ない本になっている。

 みなもと太郎さんや夏目房之介氏のマンガ評論がそうであるように、〝実作者にしか持ち得ない、深い批評眼〟というものがある。
 本書で全編にわたって展開されるM-1批評――各年のM-1で優勝を争った漫才師たちへの批評――もしかり。そこには、評論家による漫才批評にはない臨場感と納得感がある。

 M-1グランプリを毎年熱心に観ている人ほど、本書は面白く読めるだろう。だが、そうではない私のような者にも、十分に楽しめる。いまはYou Tube等で、本書で言及されている「◯◯年決勝第1ラウンドの〇〇のネタ」が後から見られるし……。

 M-1歴代王者のストロングポイントの絶妙な解説が、本書の中心になる。が、それだけには終わらない。M-1論が漫才論になり、お笑い論になり、ひいては関西・関東のお笑い比較文化論にもなるのだ。

 「M-1審査員が贈る令和時代の漫才バイブル」という帯の惹句にウソはない。M-1を目指す漫才師の卵が本書を読んだなら、M-1必勝法をつぶさに明かしたバイブルになるだろう。
 本書をボロボロになるまで読み込んで優勝するような芸人も、やがては出てくるかもしれない。

 だが、一方で、塙は次のようにも言う。

 いちばんやってはいけないことは、M-1を意識し過ぎるあまり、自分の持ち味を見失ってしまうことです。
(中略)
 M-1に挑戦するという若手に僕はよく「優勝を目指さないほうがいいよ」とアドバイスします。心からそう思えるようになったとき、初めて自分らしさが出ますから。
 M-1の「傾向と対策」は存在します。できることはしたほうがいい。でも最終的には、今の「自分」で戦うしかない。(117ページ)



 ナイツの軽やかな笑いの背後に、これほど深い「笑いの哲学」があったのかと、感銘を覚える。
 ……というと、堅苦しい内容を想像されてしまうかもしれないが、そうではない。何よりもまず、楽しく笑える本である。

 M-1グランプリの楽しみ方、漫才の楽しみ方がいっそう深まる一冊。

■関連エントリ→ 佐藤優・ナイツ『人生にムダなことはひとつもない』

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澤村伊智『ひとんち』



 澤村伊智著『ひとんち  澤村伊智短編集』(光文社/1728円)読了。

 「比嘉姉妹シリーズ」の短編集としては先日読んだ『などらきの首』があるが、これは同シリーズ以外の作品を集めた短編集。

 8編の短編ホラーを収めている。出来にはかなりバラツキがあり、玉石混交。
 最初の3編があまり面白くなかったので、「やっぱり、澤村伊智は比嘉姉妹シリーズじゃないとダメかな」と思いかけた。

 が、後半の「宮本くんの手」と「シュマシラ」は2編とも傑作だ。
 とくに、「宮本くんの手」は完成度が高い。斬新なアイデア、意表をつく展開、バッチリ決まった見事なラストの三拍子が揃い、澤村伊智ならではの好短編に仕上がっている。

 「シュマシラ」は、タイトルからして澤村ワールド。
 「比嘉姉妹シリーズ」の「ぼぎわん」や「ししりば」同様、〝日本に古くからいた伝説の化け物が人を襲う〟というテイで創り上げられた、ジャパネスクなホラーである(「シュマシラ」=「朱猿」。「ましら」は猿の古名)。
 冒頭の伏線が、ラストでまさかこんな形で回収されるとは……という、「一本取られたな」感が味わえる。

 その2編に次ぐ出来なのが、「死神」。
 いわゆる「不幸の手紙」から発想した、おぞましい「不幸の◯◯」(ネタバレ回避)の物語。

 残りの5編は一段落ちるが、それでもキラリと光る部分は随所にある。
 たとえば「夢の行き先」は、ラストにもうひとひねり欲しい気がしたが、アイデア自体はすごく斬新だ。
 ホラーのサブジャンルに「悪夢もの」というのがあるかどうか知らないが、かりに「悪夢ものホラー」を集めたとしたら、その中でもアイデアの独創性では上位にランクされるだろう。よくこんなことを思いつくものだ。

 あと、一見地味なのに細部が凝っている装幀(坂野公一)も素晴らしい。

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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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