村田らむ『樹海考』



 村田らむ著『樹海考』(晶文社/1674円)読了。

 この著者の本は、前に『ゴミ屋敷奮闘記』というのを読んだことがある。ゴミ屋敷専門の清掃業者「孫の手」で2年間(取材を兼ねて)働いた体験をまとめた、異様な迫力のルポであった。

 村田らむは、ホームレスやゴミ屋敷など、エグいテーマをおもに扱ってきたライター。樹海取材歴も、足かけ20年・100回超にのぼるという。
 その樹海取材の総まとめともいうべき本書は、20年間の蓄積が活かされた濃い内容になっている。まさに、「最前線から伝える、樹海ノンフィクション決定版」(版元の惹句)である。

 ただし本書は、版元が上品な晶文社であるせいか、エグい話ばかり取り上げたような本にはなっていない。むしろ、バランスのよい「樹海入門」を目指したものなのである。

 そのため、全4章立てのうちの第1章「樹海に入る」は、樹海の歴史がどうとか観光地としての樹海とか、わりとぬるい内容になっている。ここだけ読んで、「なんだ、つまらない」と読むのをやめてしまう人もいるだろう。

 だが、第2章以降、樹海の中に存在した謎のカルト宗教団体(いまはもうないらしい)との接近遭遇が紹介されるあたりから、俄然盛り上がり始める。

 そして、本書の圧巻は、何度か登場する「樹海で一番怖い人」――樹海遺体マニアの「Kさん」についてのパートである。
 白骨化した遺体は「好み」ではなく、「やっぱり肉があって、腐乱している死体のほうが好きですね」とほほえむKさんは、まさに鬼畜。Kさんと比べれば、樹海は好きだがべつに遺体マニアではない著者はフツーの人である。

 もう一人の濃ゆいキャラとして、かつて樹海の中で人を殺したことがあるという元殺人犯「Mさん」が登場する。著者がこの「Mさん」と一緒に樹海に行き、殺人現場を再訪する記事の取材模様を綴った一編は、怖くて面白い。

 今後、樹海について知りたい人が一冊目に読むべき〝樹海本のスタンダード〟になるだろう。

関連記事

平山夢明『恐怖の構造』



 平山夢明著『恐怖の構造』(幻冬舎新書/842円)読了。
 
 独創的なホラー小説を書き続けてきた作家・平山夢明(ちなみに、「夢明」といういかにもペンネームっぽい名前は本名だそうだ)が、「人間にとって恐怖とは何か?」――恐怖や不安の心理メカニズムとはどのようなものかを、突きつめて考えた本。

 平山の小説以外の著作には、時々ひどい手抜きのものがある。が、本書はとてもよくできた面白い本だった。
 なにしろ、作家として「怖い小説を書くための作法」を考えつづけてきた「恐怖書きのプロ」だから、恐怖についての考察は自家薬籠中の物なのだ。

 第一章「恐怖の本質」は、哲学者ベルクソンが「笑い」の本質を探求した名著『笑い』に匹敵する……と言ったらさすがにホメすぎになるが、少なくとも部分的には『笑い』を彷彿とさせる鋭い考察がある。

 たとえば平山は、恐怖と笑いは地続きだという。

 バナナの皮で滑って転ぶという笑いは、転倒した人が頭から血を流した瞬間から恐怖に変わるように、恐怖と笑いは薄皮一枚の差なんですね。
 これらふたつの関連性は、学術的にも研究されています。オランダの動物行動学者であるヤン・ファンホーフは、霊長類が恐怖を感じたときに見せる「グリマス」と呼ばれる表情が、人間の微笑みの起源ではないかとの仮説を提唱しています。



 平山はつづけて、「エロスと恐怖というのは表裏一体」だという。
 男性しか出演しないホラー映画が皆無に等しいのはそのためで、命を産み育む性である女性を死から守ることが、ホラー映画の基本線となるのだ、と……。なるほどなるほど。

 だから、ホラー映画ではカップルがいちゃついたり、ヒロインと一夜の契りを交わす場面がよく出てくるんです。あれは、これから起きる「生か死か」をいっそう際立たせるための、生命についての意味を強調させるための装置なんですね。


 
 このように、「小説でブッ飛んだバカなことばかり書いている平山だが、意外に深いこと考えてるんだな」(失礼!)と思わせる箇所が、随所にある。

 第3章「なぜ恐怖はエンタメになりうるのか」は、ホラー映画に限らない「映画の中の恐怖」を論じた秀逸な映画論になっている。
 第4章「ホラー小説を解読する」は、第一線のホラー作家である平山が、ホラー小説の書き方の極意を明かした章としても読める。
 
 巻末には、これまでも対談本を出している精神科医・春日武彦との、「恐怖の構造」をめぐる対談を収録。この対談もノリノリで面白い。

関連記事

深町秋生『オーバーキル――バッドカンパニーⅡ』



 ヤバイ仕事ならなんでも引き受ける、裏社会の人材派遣会社「NAS」の活躍を描く連作短編アクション・シリーズ「バッドカンパニー」の第2弾。

 「大藪春彦の短編ってこんな感じだったなァ」という感想を抱いた。深町秋生こそ、大藪春彦の正統的後継者だと思う。大藪は大物作家になってからも、よい意味での「B級感」を保ち続けたが、その「B級感」が深町にもある。
100点満点の力作は書かないが、確実に60点は超えてくる「娯楽アクションの職人」なのだ。

 この「バッドカンパニー」シリーズは、深町作品の中では比較的軽い読み口。長編ではかなりキツイ描写があるエロ・グロ・バイオレンスも、本作ではスパイス程度。つかの間の娯楽としてハイクオリティだ。

関連記事

丸山健二『真文学の夜明け』



 丸山健二著『真文学の夜明け』(柏艪舎/2160円)読了。

 丸山は10代のころ、大好きな作家だった。そして、24年前の『まだ見ぬ書き手へ』は名著だった。が、『まだ見ぬ書き手へ』の続編として書かれたという本書は……、はっきり言って読むに堪えなかった。

 最近の丸山作品はみんなそうらしいのだが、まるで現代詩の詩集のようなスカスカの文字組みがなされている。この本も530ページ超の厚さなのに、1時間で読めてしまった。

 内容は、①いまの日本文学がいかにダメか、②大出版社の編集者がいかに無能揃いか、③既成の文学賞に応募しても、真にすごい作品は理解されず落とされるから無駄である、④だから、文壇や既成出版社に関わることなく、自分の作品を磨き続けるしかない……ということが、言葉を換えて何度も何度もくり返されるだけ。

 いまの文壇や文芸誌、作品をなじる言葉の中には、首肯できるものもないではない。だが、「じゃあ、他の作家や作品をそこまで下に見るいまの丸山は、それほどすごい作品を書いているのか?」と問いたくなる。

 本書によれば、丸山は文学作品を1~20のレベルで評価しており、古今の名作でもレベル15は数えるほどしかなく、芥川賞作品でも2.5~3程度だとか。

 そこまではまあいいのだが、丸山はなんと、「わが文学の作品のレベルは十五ほど」だという。つまり、芥川賞受賞作の平均値などはるかに超えて、古今東西の数えるほどしかない名作群と肩を並べるものなのだと、臆面もなく自画自賛しているのだ。
 昔ファンだった私も、さすがにドン引き。「ついていけない」という気分になる。

 かつての『まだ見ぬ書き手へ』でも、〝賞など狙わず書き下ろしで勝負せよ。編集者とはベタベタ付き合うな〟とは書いていた。それでも、編集者に対する最低限の信頼は感じられた。

 本書で大手出版社と文芸編集者を罵倒しまくっているのは、穿った見方をすれば、丸山自身がもう大手に相手にされなくなったからではないか。

 さらに穿った見方をしてみる。
 本書自体が、年間受講料50万円の「丸山健二塾」(作家要成塾)と、1作品5,000円のエントリー費(応募料)が必要な「丸山健二文学賞」の、宣伝目的で書かれているのではないか。

 本書の後半で、既成文学にはやたらと厳しい丸山が、丸山塾受講生の質の高さを持ち上げまくっているあたり、そんなふうに思えてしまうのだ。

 丸山塾の宣材として書かれたと仮定すれば、本書で〝既成の文学賞になど応募しても無駄だ〟と主張する真の理由も、なんとなく透けて見える。

 既成の文学賞を得て世に出るための塾であれば、厳しく成果が問われる。「何年も塾をやっていながら、一人も受賞者を輩出していないのか?」と……。
 だが、丸山塾ではそのような成果は問われない。そして、塾生たちは〝既成文壇には具眼の士もいないから、私たちが目指す「真文学」は認められなくて当然なのだ〟と、阿Qばりの「精神勝利法」で安堵することができる。
 塾長と塾生たちの〝相互慰撫装置〟として、完璧である。

関連記事

原田隆之『サイコパスの真実』



 原田隆之著『サイコパスの真実』(ちくま新書/886円)読了。

 中野信子さんの『サイコパス』がベストセラーになったこともあり、日本で何度目かの「サイコパス本」ブームが起きている。が、ブームの中で粗製濫造されてきた類書の中には、「怖いもの見たさ」の興味本位で書かれたいいかげんなものもある。

 中野さんの『サイコパス』は、類書の中ではかなりよいものだったと思う。が、彼女は脳科学者だから「サイコパスの専門家」とは言えない。

■関連エントリ→ 中野信子『サイコパス』

 いっぽう、本書の著者は犯罪心理学が專門の筑波大学教授。元々は法務省で犯罪心理学の専門家としてキャリアをスタートさせた人である。法務省時代には、東京拘置所や東京少年鑑別所で、サイコパスとおぼしき犯罪者・非行少年と多数接してきたという。
 本書は、そのように知識も経験も申し分ない「サイコパスの専門家」が、一般向けに著したサイコパス入門だ。

 全体が最先端のサイコパス研究に基づいていて、信頼度が高い。専門用語をなるべく排して書かれており、わかりやすさも申し分ない。研究史・タイプ別分類・原因や治療可能性についての考察など、サイコパスに関する一通りの知識も手際よく網羅されている。現時点で一冊だけサイコパス入門を選ぶとしたら、ダントツで本書だろう。

 「サイコパス=シリアルキラーや冷酷な犯罪者」というイメージは、『羊たちの沈黙』や『黒い家』などのフィクションによって作られたものである。実際には、犯罪を犯さず、社会に適応しているサイコパスのほうが多い。……ということは一般にもかなり知られてきたが、本書は社会に適応した「マイルド・サイコパス」についても、かなりの紙数を割いて説明している。
 
 ただ、その中でスティーブ・ジョブズやドナルド・トランプを「成功したサイコパス」の例として挙げている(注意深く断定を避けてはいるが)のは、やや勇み足だと思った。

 過去のトラウマがサイコパスになる原因と考えるフロイト派の主張は、すでに否定されている。サイコパス研究の最先端では、脳の生まれつきの機能異常が原因と考えられているのだ。
 まだ確定してはいないものの、脳の扁桃体(感情や欲求を調節する部位)の機能不全が、「サイコパスに関連する病態の中心を成す」とされている(ブレアの説)という。

 サイコパスの治療については「きわめて難しい」との意見が多く、「治療は不可能」と断言する研究者もいる。
 そもそもサイコパスの当人が「治りたい」とは思っていないことが、その大きな要因だ。

 カナダの心理学者たちが、刑務所の強姦犯たちを対象に行なった治療プログラムでは、非サイコパスがプログラム参加によって再犯率が下がったのに対し、サイコパスの参加者はむしろ再犯率が上がってしまったという。
 他者への配慮、共感性、感情理解などについて学ぶそのプログラムを受けて、サイコパスは「学んだことを悪用し、次の犯罪に役立てた」からだ(!)。

 良心が欠如したサイコパスが、なぜ人口の1~数%も存在し、いまも淘汰されないまま世界中に存在するのか? かつて、米国の心理学者マーサ・スタウトは、サイコパスの入門書『良心をもたない人たち』の中で、次のように答えた。 

 (戦場において)サイコパスは悩むことなく相手を殺すことができる。良心なき人びとは、感情をもたない優秀な戦士になれるのだ。(中略)サイコパスがつくりだされ、社会から除外されないのは、ひとつには、国家が冷血な殺人者を必要としているからかもしれない。そのような兵卒から征服者までが、人間の歴史をつくりつづけてきたのだ。



 本書の主張も、基本はマーサ・スタウトと同じ。著者は次のように述べる。

 暴力が日常的であった時代、サイコパスは現代ほど目立つ特異な存在ではなかったにちがいない。むしろ、その勇敢さや冷酷さなどを武器に、優秀な指導者や英雄になっていた可能性も大きい。
 そう考えると、サイコパスという存在は、かつては時代の要請に沿った適応的な存在だったとも言える。しかも、人類の歴史においては、暴力が支配的だった時代のほうが圧倒的に長い。(中略)平和な時代は、まだたかだか数百年しか続いていない。



 いまのまま「暴力が忌避される時代」が続けば、サイコパスの割合もしだいに減っていくのかもしれない(いまは、日本にも100万人以上のサイコパスがいると考えられている)。
 サイコパスの概説を通じて、人類史にまで思いを馳せさせる、射程が広く読み応えのある入門書。

■関連エントリ
マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』
春日武彦・平山夢明『サイコパス解剖学』

 
関連記事

pha『人生にゆとりを生み出す 知の整理術』



 pha (ファ)著『人生にゆとりを生み出す 知の整理術』(大和書房/1404円)読了。

 表紙を見ると、著者名の上に「元『日本一有名なニート』」なる肩書きがついている。
 この著者の本は、2012年刊の『ニートの歩き方』というのを読んだことがある。
 当時、著者は「日本一有名なニート」と呼ばれていた。が、いまでは著書も数冊あるし、著名ブロガーでもあるし、シェアハウスの運営を10年もつづけているから、「ニート」という呼び名はもうふさわしくないということだろう。

■関連エントリ→ pha『ニートの歩き方』

 本書は、「超めんどくさがり」でありながら、かつて京大に現役合格し、いまや「人気ブログ運営」「シェアハウス運営」を見事にやっている著者が、そのための「知の整理術」を開陳したもの。

 従来、この手の「知的生産の技術」本を書く人はたいてい、「意識高い系」「バリバリ仕事してます!」というタイプであった。著者がその真逆であるのが面白い。

 開巻劈頭、1ページを費やして、次のように大書されている。

 この本で伝えたいことはただ一つ。

〝一生懸命、必死でがんばっているやつよりも、
なんとなく楽しみながらやっているやつのほうが強い〟

ということだ。



 この宣言のとおり、本書には〝いかに頑張らず、楽しみながら知的生産を「習慣化」していくか〟のコツが集められている。
 本書は著者が、勝間和代の初期ヒット作『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』を読んで、「こういうのを自分も書いてみたいし書ける気がする」と思って書き始めたものだという。

 バリキャリの象徴ともいうべき勝間本がベースにあるにもかかわらず、いつも「だるい」を連発しているような〝ニート流勉強術〟の本になっている。

 「ブログは『他人に見られてもいい』自分用の勉強ノート』だ」という一節などは、まったくそのとおりだと共感した。私自身、当ブログをそのようなものとして書いている。
 他人にとってはともかく、私にとってはこのブログが「世界でいちばん役に立つブログ」だ。なにしろ、私自身の「勉強ノート」なのだから。

 ただ、本書は全体として、既成の「知的生産の技術」本をニート風にアレンジしたような内容で、さして独創的な智恵が見られるわけではない。とくに、読書論やスケジュール管理・モチベーション向上についての記述は、内容が凡庸だ。

 そもそも本書は、私のように「知的生産の技術」本を読み漁っている人は、読者対象として想定していないのだと思う。そういうタイプが読むと、内容の半分ほどは「過去の類書で読んだような話」に感じられてしまう。
 一方で、「そろそろ本気出したい」と思っているニートなどが読めば、大いに背中を押してくれる内容だろう。

関連記事

佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』



 佐々木閑(しずか)・宮崎哲弥著『ごまかさない仏教――仏・法・僧から問い直す』(新朝選書/1512円)読了。
 
 守備範囲の広い評論家である宮崎哲弥は「仏教者」でもあって、仏教関係の著作も多い。その分野の最新著作『仏教論争』(ちくま新書)は、私には難解すぎて手に余り、途中まで読んで投げ出した。

 が、昨年出た本書は、対談形式なので読みやすい。
 随所に「(笑)」も飛び出すなごやかな雰囲気の語らいは、ごく一部に解釈の違いが見られるものの、おおむね意気投合した形で進む。

 ただ、読みやすいとはいえ、内容は高度。帯には「最強の仏教入門」とあるが、仏教の知識ゼロの人が読んだらチンプンカンプンに違いない。仏教についての基礎的素養はある人が対象である。

 「仏・法・僧から問い直す」という副題のとおり、仏教における「三宝」たる仏・法・僧(僧侶という意味ではなく、サンスクリットの「サンガ」=出家修行者の集団の意)のそれぞれについて、章を立てて掘り下げていく内容だ。
 
 初期仏教を正統と見なし、大乗仏教は別物と捉える観点から作られているので、大乗仏教徒や日本仏教しか知らない向きには、違和感を覚える箇所も多いだろう。それでも、仏教に関心ある読者にとっては、立場を超えて得るものの多い上質の対談集である。

 一読して驚かされるのは、第一線の仏教学者である佐々木と、宮崎が対等に伍しているところ。宮崎の仏教についての知見は幅広く、かつ深い。

 宮崎哲弥の仏教対談といえば、師匠筋に当たる評論家・呉智英と編んだ『知的唯仏論』がある。
 同書は呉と宮崎の仏教理解に差がありすぎて、呉が聞き役に回った箇所が多く、丁々発止の応酬になりきれないうらみがあった。そのことを宮崎も不満に思い、同書のリベンジマッチ的な意味合いで佐々木と対談したのかもしれない。

■関連エントリ→ 呉智英・宮崎哲弥『知的唯仏論』

 本書は、次のような構成となっている。

序章 仏教とは何か
第一章 仏――ブッダとは何者か
第二章 法――釈迦の真意はどこにあるのか
第三章 僧――ブッダはいかに教団を運営したか


 
 そのうち、第二章の「法」は、縁起・苦・無我・無常についてそれぞれ深く掘り下げたもので、途中、私には議論が高度になりすぎてついていけなくなった。が、それ以外の章は大変面白い。

 以下、私が付箋を打った箇所のいくつかをメモ代わりに引用する。

(釈尊の「四門出遊」は)まさに「仏教はこういう宗教だ」ということを見事に表現しているんですね。老と病と死、この三つは人間にはどうしても避けることのできない苦しみである。もう絶望するしかないと思ったら、最後に修行という道があることが示される。この話は、仏教が何を目指す宗教かということを、人々にきちんと伝える働きがある(佐々木の発言/59ページ)



 私はかつて「完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解消できないような『この私』の苦しみこそが仏教本来の救済対象』と極言したことがあります。まあ原理を明確にするための極端な言い方ですけどね(笑)(宮崎の発言/61ページ)



 仏教では、瞑想は悟りにいたるための単なるスキルにすぎないという位置づけです。(佐々木の発言/64ページ)



 仏教は初めから都市宗教として出発したのです。人気のない山奥でひっそりと修行に専念する僧侶の姿を私たちはよくイメージしますが、そういうことは実際にはありえないのです。仏教というのは、支えてくれる在家信者たちのそばにいなければ成り立たない宗教なのです(佐々木の発言/81ページ)



 私は、もし釈迦が出家してなかったら自殺しているだろうといつも言っているんです。出家によって、はじめて自分で自分を救う道を見つけることができて、釈迦は救われたんです(佐々木の発言/91ページ)



宮崎 私はかねてより、仏教に限らず、多くの宗教がなぜ性行為を禁じたか、という点については持論がありましてね。
 明け透けにいえば、セックスは宗教のライバルだからだ、と思うのです。性行為によって得られるエクスタシーは、宗教的法悦や忘我の状態に非常に近いものがある。逆に密教になると、性的エクスタシーを悟りに利用するようになります(265ページ)



■関連エントリ→ 佐々木閑『集中講義 大乗仏教』
 
関連記事

Guide 

   →全記事インデックス

Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。54歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴31年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

Counter 

メールフォーム

★私にご用の方はここからメールを下さい。

お名前
メールアドレス
件名
本文

最近の記事

マイ「神曲」ベスト100

カテゴリー

ブクログ・MY本棚

タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

Archives

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
35位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
24位
アクセスランキングを見る>>