柴田純『考える江戸の人々』



 柴田純著『考える江戸の人々――自立する生き方を探る』(吉川弘文館/2700円)読了。書評用読書。

 書名の印象から、「まーた、『江戸の人々はこんなにも賢明だった。現代人は江戸に学ぶべきだ』という江戸礼賛本かよ。こういうの、もう食傷気味だよなァ」と勝手に思い込み、まったく期待せずに読んだ。
 読んでみたら、そのようなお手軽本ではなかった。これは、江戸時代に起きた物の見方・考え方の抜本的変化を、詳細に跡づけた書なのである。

 中世は神仏が支配していた時代であった。「救い」はつねに神仏からもたらされるものであり、人間は無力な存在でしかなかった。
 その後の戦国時代になると、戦乱に翻弄される人々の間に、神仏の救いへの疑いが生まれてくる。それは「神仏を滑稽化する風潮」となって現れた。

 そして、平和な江戸時代に入ってから、少しずつ人間の持つ力への自負が生まれてくる。人としてどう生きるべきかが重大な関心事となり、人々は「自立する生き方をさぐ」り始めるのだ。
 その傾向は当初、大名などの支配層に生まれ、次に政治エリートや知識人層に広がり、江戸後期には庶民層にまで広がっていった。

 つまり、江戸時代とはある意味で「ルネッサンス」――人間復興の時代でもあったのだ(これは私が勝手に思うことで、著者は「ルネッサンス」という語を用いていないが)。

 戦国時代から江戸時代初期にかけて、「日本史上に一大転換期があった」との認識は、多くの歴史家が共有している。
 それは「『戦争と飢饉』の中世から〝平和な〟近世へという政治的変革」であり、「物流の大規模な変革といった経済的変革」でもあった。

 著者はそうした政治的・経済的変革が、「当時の人々の物の見方や考え方を大きく変容させていった」点に着目し、内面的変革の側面を深掘りしていく。そのために、大名からエリート層・知識層へ、やがて庶民層へと、〝人間の持つ力への信頼〟が広がっていくプロセスを、史料に即して丹念にたどっていくのだ。
 それは、日本に本当の意味での「考える文化」が定着していったプロセスでもある。

 江戸時代に対する見方が少し変わる、ユニークな視点からの考察の書。
 
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植木雅俊『法華経(100分 de 名著)』



 植木雅俊著『法華経(100分 de 名著)』(NHK出版/566円)読了。
 
 NHK・Eテレの教養番組『100分de名著』の本年4月放映分テキスト。例によって私は元の番組を観ておらず、新書感覚でテキストのみ読んでみた。

 これは素晴らしい一冊。サンスクリット語原典からの法華経全編和訳(現代語訳)を成し遂げた仏教思想研究家の著者ならではの、質の高い法華経概説書になっている。

■関連エントリ→ 植木雅俊『仏教、本当の教え』

 知識ゼロの状態から入門書として読むには、やや高度な内容。
 だが、法華経について一通りの知識がある人が読むと、「なるほど、そういうことだったのか!」と、目からウロコが落ちる感動を随所で味わえる。

 一例を挙げる。
 「常不軽菩薩品」に登場する「不軽菩薩」は、仏道修行の基本とされる経典読誦を一切していないが、それはなぜかと著者は問いかける。そして、そのことの意味を解説するなかで、次のように書くのだ。

 経典を読まないこの菩薩の振る舞いが『法華経』の理想に適っていたということは、仏道修行の形式を満たしているか否か、あるいは仏教徒であるか否かさえも関係なく、その人がどんな相手のことも尊重するのなら、その人は『法華経』を行じているととらえてよいことになるでしょう。逆に、仏道修行の形式を満たしていても、人間を軽んじるようなことがあれば、それはもはや仏教とは言えない。私はそこに、宗派やイデオロギー、セクト主義の壁などを乗り越える視点が提示されているように思うのです。



 そのうえで、著者はネルソン・マンデラやキング牧師を例に挙げ、「そうした人たちの信念と行動も『法華経』の実践と言っていいのではないか」と、なんとも大胆な主張を展開する。

 こうした〝開かれた法華経観〟は、素晴らしい。いわゆる「宗門的」な内向きに閉じた論ではない、21世紀にふさわしいグローバルな法華経解説の書だ。

 発売時に買ったものの、厚さにおののいて「積ん読」のままになっている著者の『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎との共著)も、読んでみよう。
  
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鈴木智彦『全員死刑』



 鈴木智彦著『全員死刑――大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記』(小学館文庫/540円)を読了。

 2004年に起きた「大牟田4人殺害事件」を、主犯の次男による獄中手記と、それを補完する鈴木の取材原稿を交互に入れる形でまとめた事件ノンフィクション。

 元本はコアマガジンから2010年に出た単行本『我が一家全員死刑』で、昨年、小林勇貴監督による映画化がなされたことから文庫化されたもの。



 私は単行本が出た段階で一度手を伸ばしてみたものの、「なんか読みにくい本だなァ」と思って途中で投げ出した。
 映画版が面白かったので文庫で再挑戦してみたところ、こんどはスラスラ読めた。映画を観て事件の流れが頭に入っていたせいか、あるいは文庫化に際しての加筆修正で構成が大幅に改善されたのか。

 映画を観たあとに読んでみると、あの恐ろしい映画が大枠で事実そのままであったことがわかり、慄然となる。
 もちろん、映画化に際しての潤色はあるが(最初に殺される被害者をユーチューバーという設定にしたり)、「この部分は絶対に後から作ってるでしょ」という場面が意外に事実どおりであったりするのだ。

 暴力団組長を父親とする一家4人(ほかに母・長男・次男)が、全員で知り合いの家族3人を金銭目的で殺し、無関係な友人1人も巻き添えで殺してしまった、凶悪無比な事件。一家4人全員の死刑が、すでに確定している。

 本書の過半を占めるのが、殺害の実行犯となった次男・北村孝紘による獄中手記である。
 その内容は事件に対する一片の反省も見られず、自分に酔った感じの鼻持ちならないもの。ただ、意外にも文章が読ませる。語彙の貧弱さはあるものの、かなり読みやすいのだ。

 実際の孝紘は、映画『全員死刑』に主演した間宮祥太朗のような細身の美青年ではない。元力士でもあるという、見るからに凶悪そうな巨漢である。

 映画版『全員死刑』は、残忍な殺人事件を乾いたユーモアに包んで描き出し、殺人の場面でつい笑ってしまうような不謹慎極まる作品(でも傑作)であった。
 この本を読むと、そうしたテイストはすでに原作にあったものだとわかる。随所にそこはかとない滑稽味が漂っているのだ。

 一家総出で無計画な強盗殺人を遂行する恐るべき家族でありながら、この4人には強い「家族の絆」があり、そのギャップが滑稽さを醸し出す。次に引く一節は、本書の不思議な味わいを象徴している。

 殺害に向けて協力し合う家族の様子は、まるで安物のメロドラマだった。四人が四人とも狭い視野しか持っていない。
 母も父も、「子を持つ親の気持ち」を思いやる心など持っていなかった。が、皮肉にもこの両親に育てられた兄弟は、ひどく親孝行にも見える。これが殺人でなければ、実に心温まる光景だろう。



 「傑作ノンフィクション」とは言えないが、捨てがたい魅力を放つ「奇書」。

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松林薫『迷わず書ける記者式文章術』



 松林薫著『迷わず書ける記者式文章術――プロが実践する4つのパターン』(慶應義塾大学出版会/1512円)読了。

 元『日本経済新聞』記者(といっても、早期退職した人なので、まだ40代半ば)の著者が、記者時代の経験をふまえて書いた文章読本。

 「記者式」とあるものの、ここに説かれている文章術は、ライターから一般人(ビジネス文書を書く機会の多い会社員など)まで、すべての人にとって有益である。新聞記事を書くための文章術は、かっちりとした基本形であるがゆえに「応用の幅が広い」のだ。

 私が松林薫の著書を読むのはこれで3冊目だが、前の2冊もそれぞれよい本だった。この人の知的咀嚼力(高度な内容を平明に語る力)は池上彰に匹敵するもので、今後「池上彰の後継者」たり得る逸材だと思う。本人が後継者になりたいかどうかは別にして。

■関連エントリ
松林薫『新聞の正しい読み方』
松林薫『「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方』

 本書は、著者が関西大学で担当する「ネットジャーナリズム実習」用に書かれたテキストがベースになっているという。それだけにとてもわかりやすい。文章術の「基本のき」から、手取り足取りという感じで教えている。それでいて、プロのライターを唸らせる深みもあるのだ。

 私はライターという仕事柄、文章読本のたぐいをかなりの数読んできたが、本書はこれまでに読んだものの中で五指に入る良書である。

 新聞記者・元記者が書いた文章読本としては、本多勝一の『日本語の作文技術』が定番の名著として知られ、読み継がれている。本書は、同書に代わる新たなスタンダードといっても過言ではない。わかりやすさや、いまという時代に即した内容という点では、『日本語の作文技術』をしのいでいる。

 ライター志望者やブロガーなどが、文章力をブラッシュアップするために読む本として、「一冊目に読むべき本」はいまならこれだと思う。

 ついでのことに、当ブログでレビューを書いた本の中から、文章読本のオススメを挙げておこう。

■関連エントリ
外岡秀俊『「伝わる文章」が書ける作文の技術』
古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』
岸本葉子『エッセイ脳』
永江朗『〈不良〉のための文章術』
野口悠紀雄『「超」文章法』
村田喜代子『名文を書かない文章講座』

 
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原武史『松本清張スペシャル(100分 de 名著)』



 原武史著『松本清張スペシャル(100分 de 名著)』(NHK出版/566円)読了。

 NHK・Eテレの教養番組「100分 de 名著」で今年3月に放映された、「松本清張スペシャル」のテキスト。
 これは仕事の資料として読んだものだが、私はこの「100分 de 名著」や「知るを楽しむ」「人間大学」などのNHK番組テキストを、よく買って読む。番組はほとんど見ていないのに、テキストだけを新書感覚で読むのだ。

 このシリーズは分量も手頃だし、値段も安いし、図表なども適度に入っていて読みやすいし、入門書としてのコスパが抜群なのである。

 本書もしかり。
 松本清張の代表的4作品――『点と線』『砂の器』『昭和史発掘』『神々の乱心』――を素材に、「昭和史の闇を照らした作家」として清張を捉え直した好企画で、卓見に満ちている。

 日本政治思想史を専門とする政治学者である原氏が、歴史家・思想家としての松本清張を正視眼で評価する姿勢が好ましい。
 「所詮はエンタメ作家だから」などという偏見で軽んずることなく、膨大な史料を渉猟して独自の「清張史観」を築き上げたその努力・視点の鋭さ・先見性を、虚心坦懐に讃嘆しているのだ。

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シッダールタ・ムカジー『遺伝子――親密なる人類史』



 シッダールタ・ムカジー著、田中文訳、仲野徹監修.『遺伝子――親密なる人類史』(早川書房/上下巻各2700円)読了。書評用読書。

 前作『がん――4000年の歴史』でピュリッツァー賞を受賞した著者が、こんどは〝遺伝子全史〟に挑んだ大作である。
 著者は医師で、がん研究者(米コロンビア大学メディカルセンター准教授)。がんは遺伝子が暴走し、細胞の増殖が制御できなくなる病だから、がん研究を続ける著者が遺伝子についてもくわしいのは当然のことだ。

 くわえて、著者には遺伝的な精神疾患を持つ家系に生まれたという個人的背景があった。著者が生涯の中で精神疾患を発症するリスクは高い。だからこそ、遺伝は彼にとってきわめて切実なテーマだったのである。
 本書は随所に、著者一族の精神疾患をめぐる物語が挿入され、読者に「親密さ」を感じさせるアクセントになっている。

 メンデルとダーウィンを中心とした〝遺伝子前史〟から説き起こされる本書は、ポストゲノム時代(「ヒトゲノム計画」完了以後のゲノム研究)までの約一世紀半を丹念に辿り、最後に未来を展望して終わる。

 本書の内容は、学術論文として、または研究者向けの専門書として読めば、一般読者にとっては難解で無味乾燥だろう。それが著者の手にかかると、科学に疎い読者にも楽しめる、格調高い〝遺伝子の叙事詩〟になるのだ。

 ビル・ゲイツは本書に寄せた推薦の辞の中で、著者を「ほれぼれするストーリー・テラー」と評している。まさにそのとおり。著者は文筆専業の道を選んでいたとしても、ひとかどの作家になれた人だろう。

 著者の文章のカッコよさの例を挙げよう。

 自然界を取り憑かれたように観察したふたりの男、ダーウィンとメンデルは「自然」はどのように生まれたのかという同じ質問を異なる形で投げかけることによって決定的な大ジャンプをした。メンデルの質問は顕微鏡的だった。生物はいかにして子に情報を伝えるのか? ダーウィンの質問は巨視的だった。生物は何世紀も経るあいだにいかにして自らの特徴についての情報を変化させるのか? やがてこのふたつの視点が収束して、近代生物学における最も重要な統合と、ヒトの遺伝についての最も力強い説明がもたらされることになる。



 薫り高い比喩なども随所にあり、本書を味わい深いものにしている。
 たとえば――。

 その現象はまるで遺伝的な月蝕のようだった。ふたつのまれな症例が重なりあい、きわめてまれな症例をもたらしたのだ。



 私が建物の中に入りかけたとき、駐車場を渡っていく彼女の姿が見えた。スカーフがまるでエピローグのように後ろにたなびいていた。



 ちなみに、日本が誇る山中伸弥博士も、下巻の登場人物の一人である。

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梶芽衣子『真実』



 梶芽衣子著『真実』(文藝春秋/1458円)読了。

 女優・梶芽衣子が、デビューから現在までの来し方を語った自伝である。
 清水まりというライターが構成(インタビューして話を文章にまとめる)を担当しており、清水の名は表紙や背にもちゃんと載っている。つまり「ゴースト」ではない。

 ものすごく読みやすい本で、あっという間に読み終えることができる。
 清水まりのまとめ方がプロだ。ヘンに気取った、凝った表現は一切使わず、梶芽衣子の語りをわかりやすく読者に伝えることに徹している。

 「媚びない・めげない・挫けない」という帯の惹句のとおり、梶芽衣子のカッコよさが全編に横溢した一冊。
 新人時代から、筋の通らないことがあれば監督にも堂々と文句を言ったという彼女は、大物女優になってからも「媚びない・めげない・挫けない」をつらぬき通す。

 最大の当たり役となった『女囚さそり』の、画期的な〝一言も話さないヒロイン像〟は、梶芽衣子自身がアイデアを出し、周囲の反対を押し切って実現したものなのだという。

 また、一作限りの約束だった『さそり』が大ヒットしたことで、第2作・第3作が作られることになったとき、梶は当初出演を拒否する。出演を説得しようとする大物プロデューサーらが待つ現場に、事務所の社長やマネージャーの同行も拒否し、一人で乗り込んでいく様子は、任侠映画の殴り込みシーンのようなカッコよさだ。

 本書の圧巻は、『鬼龍院花子の生涯』をめぐって大物プロデューサーの裏切りに遭った(元は梶が自らの主演で企画した映画だったのに、盗られてしまった)経緯が綴られたくだり。その裏切りに対して梶が取った態度がまた、なんともハードボイルドなのである。

 勝新太郎・高倉健・渡哲也・深作欣二・長谷部安春など、綺羅星の如き役者と監督たちの思い出が、印象的に語られている。
 梶芽衣子ファンのみならず、邦画ファンなら間違いなく楽しめる好著。

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オーブリー・パウエル『ヒプノシス全作品集』



 オーブリー・パウエル著、迫田はつみ訳『ヒプノシス全作品集』(シンコーミュージック/5400円)読了。
 読了といっても、LPレコードのジャケット・アート集だから、文章部分は多くないのだが……。

 英国の伝説的デザイン・チーム「ヒプノシス」。1960年代末から80年代前半にかけ、おもにロックのアルバム・カヴァーを手がけ、アルバム・カヴァーをアートにまで高めた偉大な革新者だ。

 本書は、そのヒプノシスの全カヴァー・アートをオールカラーで収めた、決定版ともいうべき作品集である。

 ロック・ファンには言わずもがなだが、ヒプノシスが手がけたアルバム・カヴァーには、発売当時の常識を打ち破った革新的デザインのものが多数ある。
 こちらのブログがその一覧をサムネイルの形で並べているが(ただし、これは「全作品」ではない)、このページを見れば、「あ、これもこれもヒプノシスなんだ」と得心がいくだろう。

 本書は、ヒプノシスの3人のうち、唯一の存命者であるオーブリー・パウエル(ほかに、ストーム・ソーガソンとピーター・クリストファーソン)が著者となり、おもなアルバムについてはくわしいコメントを添える形で、彼らの軌跡を振り返ったものだ。

 序文を寄せているのは、ヒプノシスがいくつかのアルバム・デザインを手がけたピーター・ガブリエル。彼はその中で、次のように書いている。

 大胆かつ驚異的で、時には途方もない創造性を発揮していたそのイメージを通して、ヒプノシスは世界で最も影響力のあるアルバム・カヴァーのデザイン会社となったのだ。
(中略)
 彼らの有名な作品の多くはタイトルも文章もなく、そのことが殆どのレコード会社の呪いの対象となった。ヒプノシスは、広告と芸術はベッドを共にすることはない、と考えていた。



 ヒプノシスの名を一躍高めたのは、ピンク・フロイドの『原子心母』(1970年)のデザインだ。アーティスト名もタイトルもないカヴァーは、当時の常識では考えられない大胆なものだった。



 この『原子心母』が大ヒットしたことで、ヒプノシスはそれ以前より自由にデザインに取り組めるようになった。

 オーブリー・パウエルのコメントはおもに、各デザインのアイデアと撮影の舞台裏を明かす内容になっている。

 一枚のアルバム・カヴァーのために、惜しげもなく予算が注ぎ込まれていた贅沢さに驚かされる。
 また、失敗したデザイン、オーブリー自身が気に入っていないデザインについては、驚くほど辛辣なコメントをしている。そのような赤裸々さも、またヒプノシスらしい。

 クイーンあたりはいかにもヒプノシスと相性がよいような気がするが、彼らのアルバムをヒプノシスは一枚も手がけていない。その裏話も明かされている。

 ヒプノシスは、クイーンと仕事をする寸前まで行っていた。いくつかの機会に興味深いデザインを出していたのだが、彼らはそのたびに拒絶した。だが、ドラマーのロジャー・テイラーは彼のソロ・アルバム『ファン・イン・スペース』のデザインを私達に依頼しようと思うくらい気に入ってくれており、実際にそうなった。



 私はロック史的興味から本書に手を伸ばしたが、グラフィック・デザインを手がけている人なら、デザインのヒントが本書からたくさん得られると思う。
 
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カレー沢薫『やらない理由』



 カレー沢薫著『やらない理由』(マガジンハウス/1188円)読了。

 マンガ家兼コラムニストとして、すっかり売れっ子になったカレー沢薫。つねづね言っていることだが、私はこの人をマンガ家としてよりもコラムニストとして評価している。

 本書は、日常生活の中のささやかなジレンマを一つずつ取り上げ、そのジレンマに悩んで自己嫌悪や反省をしがちな読者に対し、〝反省など必要ない。『○○したくない』という貴様の気持ちは正しい!〟と訴えかけるコラム集である。

 取り上げられているジレンマはたとえば、「お金は欲しいが、働くのは嫌」「痩せたいが、食べるのを我慢するのは嫌」「話は聞いてもらいたいが、あれこれ言われるのは嫌」……などというたぐい。

 それらのどうでもいいジレンマに対し、カレー沢薫はアクロバティックな文の芸を駆使して、読者をやみくもな自己肯定に導いていく。たとえば――。

 遠足も当日より前夜のほうが楽しいものである。ダイエットに成功するよりも、ダイエットに成功した自分を想像するほうが楽しい。(中略)
 つまり永遠にダイエットに挑戦&失敗することで、死ぬまで遠足前夜の気分が味わえるということだ。逆に成功してしまうことにより「痩せても無意味」という事実に直面してしまうことがある。自分で己への希望を断ち切るという愚か極まりない行為だ。つまり「ダイエットに失敗した」というのは「明日へ希望を繋いだ」ということである。



 ……とまあ、こんな感じの〝屁理屈芸〟が、33問・33答分くり返される。

 そこそこ面白かったが、最初期の『負ける技術』のように「何度読み返しても面白い」というレベルにはとうてい達しておらず、「一度読んだらもういいかな」という感じの出来。
 カレー沢薫の本を読んだことがない人には、まず『負ける技術』『もっと負ける技術』をススメたい。

■関連エントリ
カレー沢薫『負ける技術』
カレー沢薫『もっと負ける技術』
カレー沢薫『ブスの本懐』

 なぜクオリティが下がってきたかを考えるに、いまのカレー沢薫はあまりに忙しすぎるのだろう。
 いまやマンガ/コラムあわせて20本近くもの連載を抱えているそうだし、なおかつ月~金のOL生活もいまだに続けているというのだから、筆が荒れても仕方ない。

 大谷翔平の二刀流をディスる江本某のように、「カレー沢選手は、いまのままではマンガとコラム、どちらでも大成できません。どちらか一本に絞るか、もしくは会社を辞めるべきでしょう」と進言したい。

 それでも、随所にこの人ならではの独創的フレーズがちりばめられていて、そこにはまだ才能のきらめきが感じられる。たとえば――。

 「普通は嫌だ」そんな想いが、いつでも俺たちを普通以下にしてきた。その雄姿は卒業アルバムや文集にしかと刻まれ、それを見るたびに「普通」の尊さを知るのである。



 非リア充の朝は早い。毎朝4時には起き、邪神像に向かい、リア充の爆発を祈る。



 コミュ症の特徴として「世間話ができない」というのがある。どんな世間話を投げかけても全く続けられず、1ターンで終わらせるため、周りはそのうち世間話すら投げかけるのを止めるのだ。「世間にとやかく言われるには世間に入れていないとダメ」なのだ。



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『マザー!』



 『マザー!』を映像配信で観た。
 『ブラック・スワン』『レスラー』などの作品で知られるダーレン・アロノフスキー監督が、撮影当時には恋人だったジェニファー・ローレンスをヒロインに据えた作品。
 「あまりに過激な内容から、日本では劇場公開が見送られた」という前情報から、半ば「怖いもの見たさ」で手を伸ばした。



 事前に予想した「過激さ」のはるか斜め上を行く、もうムチャクチャな映画であった。

 ジェニファー・ローレンス演ずる若妻と、ハビエル・バルデム演ずる高名な詩人の夫婦。2人が住む田園の邸宅に、不審な訪問者が次々とやってきて、家はメチャメチャになっていくという、不条理劇のようなストーリー。

 じつは隠されたテーマは地球環境問題で、詩人は神、若妻は母なる自然、家は地球、我が物顔で家に入り込んでくる人々は人類のメタファーなのだという。

 また、聖書の内容がストーリーのベースにあり、キリスト教の基礎知識がないとわかりにくい点も多い。つまり、「マザー」とは聖母マリアのメタファーでもあるのだ。
 したがって、ヒロインがボロボロになっていくストーリー自体が一種の「神聖冒涜」であり、敬虔なクリスチャンの観客から非難を浴びた。

 ただ、そのような背景がわかったうえで観たところで、感想としては「それで?」という言葉しか出てこない。
 環境問題を啓発する手立てとしては、この映画はあまりにも「あさっての方向」を向きすぎではないか。

 キャストもスタッフも一流揃いで、演技や演出は立派なもの。とくに、ジェニファー・ローレンスの「メーター振り切った」感じの熱演は素晴らしい。
 なのに、ストーリーが子供だましなので、青臭い学生演劇を観せられているような印象しか受けなかった。

 あと、不安を掻き立てられるような空気に満ちた映画なので、うつ傾向のある人は観ないほうがいいかも。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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