ちきりん『自分の時間を取り戻そう』



 ネットの片隅で、「ライター/作家・肩書論争」というのが起きていた。→はあちゅう「私はライターじゃない」に吉田豪が反論 肩書に対する考え方が議論に - エキサイトニュース

 はあちゅうが書いている「作家は自分の意見を書くもので、ライターは誰かの意見(自分以外に取材)を書くもの」という定義自体に、私はまったく異論がない。 
 そのへんのことについて、10数年前に自分のサイトに書いた「ライターは『自分のことを書く仕事』ではない」という原稿がある。ハードディスクからサルベージしてきたので、下にアップしておく。


ライターは「自分のことを書く仕事」ではない

「自分のこと」を書くなど10年早い!

 もう10年ほど前のことだが、コラムニストの山田美保子さんが、「フリーライターになりたがってる」若い女の子の急増について、コラムで憂えておられた(『SPA!』91年2月6日号)。山田さんのもとを訪ねるその手の女の子は、「なんでもやりますゥ」(=だから仕事を紹介して下さい)などと殊勝なことを言うくせに、「どんなものが書きたいの?」と聞くと、こんなことをホザくのがつねであったという。

「あの~ォ、アンアンとかでェ林真理子さんなんかがやってるみたいな、ああいう自分のことが書きたいんです」

 あー、いるいるこういうヤツ。女の子に限らず、男にもいる……と、私はうなずきながらこのコラムを読んだものである。それから10年が過ぎたいまも、やはり、「フリーライターは自分のことを書く仕事だ」と勘違いしている人はたくさんいる。
 特大級の勘違いである。

 ライターと作家の何がちがうかというのは、なかなか悩ましい問題だ。なんとなれば、ライターと作家を区別するのはどうやら日本だけらしいからである(たとえば、英語では作家も「writer」だ)。が、それはさておき、日本の事情に沿って私なりにライターと作家のちがいを定義するなら、次のようになる。

 ライター=主に他人の意見・見聞を文章にまとめる仕事
 作家=主に自分の意見・見聞・考えたことを文章にまとめる仕事

 たとえば、私がイチローを取材して雑誌に記事を書いたとする。
 その記事には「取材・文/前原政之」というクレジットが付されるかもしれないが、私がイチローに対してどんな印象を持ったかなどということは、最小限度しか書かない。なぜなら、読者はイチローに興味があって記事を読むのであり、ライターの私に興味があるわけではないからだ。記事内にも「私」という人称は使わない。

 しかし、沢木耕太郎さんがイチローを取材して雑誌記事を書くとしたら、人称は「私」になるであろうし、沢木さんがイチローとどんな会話を交わし、どんな印象を持ったかが、それなりの紙数を割いて書かれるであろう。なぜなら、読者の中には、「スポーツ・ノンフィクションの大家」である作家・沢木耕太郎に興味を持って記事を手に取る人も大勢いるからだ。

 ――それが、ライターと作家のちがいである。
 要するに、作家とは、その人自身の意見・見聞が売り物になり、それを売って生活が成り立つ人のことなのだ。
 いっぽうライターとは、まだ自分の意見・見聞を売るだけでは生活が成り立たず、他人の意見・見聞をまとめる文章技術を売って生計を立てている人のことだ(作家とライターを兼業している重松清さんは、例外的存在である)。

 山田美保子さんが、「ライターになりたがってる」女の子の勘違いを嘆いた理由もそこにある。彼女たちはライターと作家を混同しており、ライターになれば自分の意見・見聞を売って生活が成り立つと思いこんでいる。私もたまにこの手の人と接するけれど、「自分のことを書くなど10年早い!」と言ってやりたくなる。

 こういう“自分探し系”ともいうべきライター志望者は、困った存在だ。いきなり作家になれないのはもちろんのこと、ライターとしても「使えない」場合が多いからである。ライターの文章は書く対象(取材相手など)を引き立てることに徹しなければいけないのに、この手の駆け出しライターは文章に「私」を前面に出しすぎ、目立ちすぎてしまうからだ。

 以前、田村章さん(重松清さんのライターとしてのペンネームの1つ)がライターの仕事をスタジオ・ミュージシャンの仕事に喩えておられた。これは卓抜な比喩で、ライターという仕事の本質を衝いている。

 スタジオ・ミュージシャンの仕事には高度な技術が要求されるが、さりとて、主役以上に目立ってしまったら失敗である。
 たとえば、宇多田ヒカルのニュー・アルバムのギタリストにラリー・カールトンが起用されたとしよう。ラリー・カールトンは彼らしい高度なプレイを披露することだろうが、宇多田ヒカルのボーカルがかすんでしまうようなプレイはけっしてしないはずである。むしろ、宇多田のボーカルがこれまで以上に輝きを増すようなバッキングをしてくれるにちがいない。
 ライターの仕事も同じことである。書く対象の魅力を最大限に引き出すような、絶妙の“バッキング”――すなわち、取材相手の意見・見聞などを手際よく読者に伝える「サポート」こそが、ライターの果たすべき役割なのだ。

 その意味で、ゴーストライターの仕事に限らず、ライターの仕事というのは総じて「黒子的」である。「自分のことを書く仕事」ではけっしてないのだ。

 「フリーライターではちょっと……」

 私は、自分で肩書きを選べる場合には「フリーライター」で通している。名刺の肩書きもそうだ。が、原稿の内容によっては、フリーライターという肩書きにすることに編集部側が難色を示す場合がある。

 編集「(記事の署名につける)肩書きどうします?」
 私「あ、フリーライターでいいですよ」
 編集「うーん、フリーライターではちょっと……。ジャーナリストではマズイですか?」
 私「いや、いいですけどね、べつに(苦笑)」

 要するに、社会問題を追及するルポの場合など、それを書いたのが「フリーライター」であっては読者に対して説得力がない(と、編集者は考える)のである。しかし、肩書きが「ジャーナリスト」なら読者も納得して読める(と、編集者は考える)というわけだ。

 この「フリーライターではちょっと……」という編集者の言葉は、日本の出版界でフリーライターが置かれている「地位」を端的にあらわしている。他人の意見・見聞をまとめて生計を立てているフリーライターは、自分の意見・見聞が売り物になる作家よりも一段下だと思われているのだ。その理由は、「人のフンドシで相撲を取る仕事だから」ということだと、私は理解している。

 しかし、他人の意見・見聞をうまくまとめる文章技術も、極めようとすれば非常に奥の深いものである。私は、フリーライターであることに職人的な誇りを抱いている。


 コピペ終わり。 

 ……というわけで、はあちゅうのライター/作家の定義には同意する私だが、彼女の発言がなぜ炎上したかといえば、やはり、「作家である私をライター扱いするな」という「上から目線」が鼻についたからであろう(彼女は「別に私がライターを軽視しているとか、/どっちが偉いとかではなく」と書いてはいるのだが……。)。
 そして、その「上から目線」にあまり根拠がないというか、「この人、べつに作家ってほどのものでは……」という違和感が感じられたからであろう。

 ま、どうでもいい話ではあるのだが。
 
 なお、私自身が「フリーライター」という肩書に込めている思いについては、「生涯一フリーライター」をご参照あれ。


 ちきりん著『自分の時間を取り戻そう―――ゆとりも成功も手に入れられるたった1つの考え方』(ダイヤモンド社/1620円)読了。

 先日読んだ伊賀泰代著『生産性』と、ちょうど対になっている本。あの本が「本名で、生産性向上をテーマに書いたビジネス書」であったのに対し、本書は「ちきりん名義で、生産性向上をテーマに書いた自己啓発書」なのである。

 わりと面白く読めた。
 とくに、第6章「生産性の高め方①まずは働く時間を減らそう」は、ライターとしての仕事の生産性アップにもそのまま活かせるアドバイスで、この章だけでも読んだ価値があった。

 ただ、男女2人ずつの架空キャラクターを登場させ、ちきりんが彼らに「生産性」という考え方の肝を教示していく――という構成は、失敗していると思った。
 「愚かな連中に生産性の何たるかを教えて啓蒙してあげるわ」という「上から目線」が鼻につくだけで、わかりやすさにはつながっていないのだ。

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斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』



 斎藤美奈子著『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書/907円)読了。

 現在活躍中の文芸評論家のうち、いちばん文に「芸」があるテクニシャン・斎藤美奈子――。本書も、彼女らしい技巧が冴え渡る一冊だ。
 
 文庫本の巻末に付される、評論家や作家などの筆になる「解説」。そのうち、おもに有名文学作品の解説を俎上に載せ、批評していくコラム集である。
 
 ダメな解説は完膚なきまでにメッタ斬りにし、素晴らしい解説は「どこが素晴らしいのか?」を鮮やかに腑分けして称賛する。
 また、ロングセラーとなり、多数の文庫化がなされている名作については、解説の変遷の中に、その作品についての評価の変遷をも浮き彫りにする。

 文庫解説という狭いフィールドを素材に、これほど多彩で知的興奮に満ちた評論が成り立つとは、私には想像すらできなかった。企画の勝利、柔軟な批評眼の勝利である。
 
 私がいちばんスゴイと思ったのは、川端康成の『伊豆の踊子』と『雪国』を取り上げた回。
 三島由紀夫などの大家が書いた文庫解説がいかにダメであるかをズバリと解説したあとで、著者は『伊豆の踊子』『雪国』の「正しい」解説の手本を示してみせるのだ。

 ほかにも、『走れメロス』を取り上げた回、『智恵子抄』を取り上げた回などは、作品を見る目が一変するほど驚きに満ちている。文庫解説を批評するというフィルターを通して、斎藤美奈子ならではの名作解題の書にもなっているのだ。

 斎藤自身がこれまでにかなりの数の文庫解説を書いているし、これからも書いていくのだろうから、既成の文庫解説にケンカを売るような本を書くこと自体、ものすごい勇気の要ることだと思う。

 全23編のコラムの中には調子の出ない回もあるが、それでも、ここまでの「芸」を見せてくれれば十分。
 斎藤美奈子は、相変わらずバツグンに面白い本の書き手だ。

■関連エントリ
斎藤美奈子『文芸誤報』
関川夏央『「解説」する文学』

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小谷野敦『芥川賞の偏差値』



 小谷野敦著『芥川賞の偏差値』(二見書房/1620円)読了。

 1935年の第1回から今年1月の最新156回まで、芥川賞の歴代全受賞作(164作)を俎上に載せ、「偏差値」の形で点数をつけ、批評した一冊。

 現代日本の作家の作品に点数をつけて評価した類書に、福田和也の『作家の値うち』(2000年)がある。
 本書は、芥川賞作品に的を絞り、しかも著者自身が芥川賞候補に2度のぼった実作者でもある点で、『作家の値うち』とは異なる価値を持つ。
 
 「受賞作なし」の回についても候補作などが紹介され、著者の評価が示される。また、長文の「まえがき」で芥川賞の成立事情をくわしく綴るなど、簡便な「芥川賞事典」としても読める構成になっている。

 私自身が読んだことのない受賞作もけっこうあるが(1940年代までのものはほとんど読んでいない)、読んだ作品についての評価は著者とかなり違う(同意できる評価も多いが)。
 畑山博の『いつか汽笛を鳴らして』、長嶋有の『猛スピードで母は』、池澤夏樹の『スティル・ライフ』、髙樹のぶ子の『光抱く友よ』、南木佳士の『ダイヤモンドダスト』、北杜夫の『夜と霧の隅で』など、私の好きな受賞作の評価が軒並み低く、ちょっと悲しくなった。

 が、それはそれとして、著者の歯に衣着せぬ作品・作家評は総じて痛快で、一気読み。

 嫉妬心など、自分の心のネガティブな部分を隠そうともせず、赤裸々に書いてしまうのがこの著者のすごさで、それは本書でも十全に発揮されている。
 たとえば、自作が候補になり落選した回の受賞作「九年前の祈り」(小野正嗣)についての文章は、次のように結ばれている。

 小野は受賞作としては売れず、その後出したのも売れていないようだ。ざまあ見ろ。



 かつて筒井康隆は、直木賞に落選した私怨を、直木賞(作中では「直廾賞」)の選考委員全員を主人公が惨殺する傑作小説『大いなる助走』で晴らした。
 本書は、“小谷野敦にとっての『大いなる助走』”として書かれたのかもしれない。

 卓見や痛烈な皮肉など、読みどころも随所にある。たとえば――。

 世間で「カルチャーショック」などと言われているものの大半は、その正体は単なる言語的障壁だと私は思っているが、言語藝術である文学が、そういうものをちゃんと書いてこなかったのは不思議である(私の「鴎たちのヴァンクーヴァー」には書いてある)。李良枝の「由熙」も、そこのところを描いているから名作なのである。



 作家は、自分の親について書いた時にひとつ山を越える、という気がする。



 大学の文学研究者などには、いかに一般世間が「文学」などどうでもいいと思っているか理解していない者が多く、「大学の文系学部の一部廃止」とかに反論しているが、これは別に悪辣な政治家が考えているのではなく、一般世間がそんなもの要らないと考えているのだ。



 もし、芥川賞をとる秘訣はと問われたら、といっても、そもそも候補になること自体が難しい場合もあるのだが、それは措いて、
「退屈であること」
 がまず第一にあげられるだろう。ただし、いかにもうまいという風に書いて、かつ退屈であることが重要なのである。



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深町秋生『探偵は女手ひとつ』



 深町秋生著『探偵は女手ひとつ』(光文社/1620円)読了。

 30代後半でシングルマザーの私立探偵、椎名留美を主人公にした短編連作。本書には6編が収められている。
 作者の地元・山形を舞台にしており、飛びかう山形弁がいい味出してる。

 探偵の仕事がしょっちゅうあるわけではないため、留美は半ば「便利屋」と化している。さくらんぼの収穫手伝いや雪かき、パチンコ屋の開店待ち並び代行など、なんでもやって自分と娘の生活費を稼ぐのだ。そうした設定がリアルでよい。山形あたりには、現実にもそんな探偵がいそうな気がする。

 「便利屋」的仕事の合間に探偵としての調査依頼がきたり、「便利屋」仕事が縁となって探偵仕事が派生したりする……という感じのストーリー展開である。

 留美は元刑事で、やはり刑事であった夫が殉職したことから、生活のために探偵を始めたという設定になっている。
 夫を亡くした女刑事というと、深町の「組織犯罪対策課八神瑛子シリーズ」を思い出すが、本作はあのシリーズほどハードタッチではなく、もっとほのぼのとしている。

 各編とも、ラストには事件の謎解きがなされるミステリ仕立て。ただし、ハードボイルド系の小説だから、謎解きの面白さは主眼になっていない。

 本作の価値はむしろ、登場する人々の生活が確かなリアリティで描かれている点にある。
 さくらんぼ農家の苦労、雪かきの大変さ、スーパーで万引きする独居老人の孤独etc……。ハードボイルド小説としては例外的なほど、濃密な生活感が全編に満ちているのだ。

 深町秋生作品にしては薄味な気もするが、そこそこ楽しめるし、連続テレビドラマにしてもいい気がする(話が地味なので映画には向かないだろう)。

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『ミュージアム』



 『ミュージアム』を映像配信で観た。
 巴亮介の同名マンガを、大友啓史監督/小栗旬主演で実写映画化したサイコサスペンス。ストーリーはおおむね原作に忠実だ。 

 基本設定は、デビッド・フィンチャーの『セブン』をあからさまに踏襲している。快楽殺人者による猟奇的連続殺人を描いている点も、主人公の刑事の妻が犯人の標的となる点も……。
 ただし、「たんなるパクリ」と言わせないだけのアレンジと創意工夫が、本作にはある。

 あまり期待せずに観たせいか、意外と面白く感じた。
 まあ、犯人の「カエル男」(妻夫木聡)があまりにも超人的で、たった一人で警察をきりきり舞いさせすぎなので、その点興醒めではある。
 しかし、どのシーンも演出には力がみなぎっているし、国産サイコサスペンスとしてはかなり頑張っているほうだと思う。

 元々演技のうまい尾野真千子(小栗旬の妻役)や松重豊のみならず、小栗旬も意外な熱演で好感を抱いた。
 
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『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』



 昨日は、後輩の結婚式。50歳にして初婚で、15歳下のお嫁さんを迎えるという、世の独身中年男たちの希望の光となるようなケースである。
 で、昼間から酔っ払ってしまったので仕事はオフにし、映像配信で映画を観てダラダラすごした。

 『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』と、クエンティン・タランティーノの『ヘイトフル・エイト』を観た。どちらも面白かった。
 
 前者は、『闇金ウシジマくん』の映画化第4弾にして最終作(らしい)。
 いちいちこのブログに書かなかったが、これまでの3作も私はすべて観ている。全4作の中では、この『ザ・ファイナル』がいちばんよいのではないか。



 主人公・丑嶋馨と、主要キャラである柄崎・加納の中学生時代のエピソードを大きくフィーチュアした「ヤミ金くん編」の映画化である。
 現在と過去が交錯する形でストーリーが進むが、貧困ビジネスの闇を扱った現在部分よりも、中学生時代のパートのほうが面白い。

 『クローズ』などのヤンキー・マンガ(と、その映画版)よりも、はるかに荒涼とした不良少年たちのバトルが描かれる。「テメェ、コラァ!」「殺すぞコラァ!」と、野獣のような雄叫びを上げつつ虚勢を張り合う少年たちが、ふとした瞬間に見せるあどけない一面が微笑ましい。
 『スタンド・バイ・ミー』の流れを汲む“少年映画”として、見ごたえある一編になっている。

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柴那典『ヒットの崩壊』



 一昨日から昨日にかけて、取材で福島へ――。

 東日本大震災の関連取材。6年目の「3・11」を福島で過ごし、追悼式典にも参加して、深い感慨があった。

 また、一昨日は取材を終えてホテルに戻ると、「NHKスペシャル――15歳、故郷への旅 〜福島の子どもたちの一時帰宅〜」というのを放映しており、当の福島にいたものだからなおさら胸に迫り、じっと見入ってしまった。


 行き帰りの新幹線で、柴那典(とものり)著『ヒットの崩壊』(講談社現代新書/864円)を読了。

 過去10数年間に起きた音楽業界の構造転換を、音楽ジャーナリストの著者がさまざまな角度から浮き彫りにしていくルポルタージュ。
 
 「国民的ヒット曲」が生まれなくなり、CDが売れなくなった。そうした変化をふまえて『ヒットの崩壊』というタイトルになったのだろうが、タイトルから受ける印象よりもずっと明るい内容だ。
 CDが売れなくなったといっても、それは「音楽業界の崩壊」を意味せず、業界のありようが変わっただけであり、むしろ、いまの音楽業界は活気に満ちている――ということが書かれているからだ。

 なぜ「音楽は売れない」のに「バンドもアイドルも生き残る」時代になったのか?
 そこには、一つのシンプルな解答がある。
 音楽業界の構造が変わり、いまや音源よりも興行が重要な収益となっているから。つまり、CDよりもライブで稼ぐ時代になっているのだ。



 著者はそのような業界の大転換を、キーパーソンへのインタビューと、第一線の音楽ジャーナリストとしての経験・知識から、鮮やかに浮き彫りにしていく。文章は明晰で、論の進め方にもあいまいさがなく、大変わかりやすい本だ。
 私自身がヒット曲、ヒットチャートというものにほとんど興味がないせいもあって、目からウロコが落ちまくる内容であった。

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池澤夏樹『知の仕事術』



 昨日は都内某所で取材。
 久々にゴースト本の聞き書き仕事をしている。

 ゴーストだからお相手はナイショだが、今回で数回目の取材。
 本一冊をまとめるための取材というのは、回を重ねるごとに相手と気心が知れてくる感じが醍醐味である。一期一会の単発記事取材には、それがない。

 
 行き帰りの電車で、池澤夏樹著『知の仕事術』(集英社インターナショナル新書/799円)を読了。

 一流のプロの書き手が自らの「知的生産の技術」を開陳した本は、数多い。私も仕事柄、その手の本をわりとたくさん読んできた。
 その中からオススメを挙げるなら、立花隆の『「知」のソフトウェア』と、ノンフィクション作家・野村進の『調べる技術・書く技術』である。この2冊を超える本は、いまだにない。

■関連エントリ→ 野村進『調べる技術・書く技術』

 本書は、個人で文学全集を編むなど、碩学として知られる作家・池澤夏樹が、自らの「知のノウハウ」を開陳したもの。
 池澤は「芥川賞作品を初めてワープロで書いた作家」であり、元は理系の人だからITとかにもくわしそうだし、画期的な技術が披露されるのではないかと、大いに期待して読んだ。
 
 が、かなり期待はずれ。
 「仕事術」と銘打ちながら、内容は7割方「読書術・読書論」でしかない。しかも、読書論としても陳腐で、ほとんどあたりまえのことしか書かれていない。

 終盤(全12章中の第10章)の「アイディアの整理と書く技術」に至って、やっとタイトルに即した内容になる。
 ……のだが、そこから先も、参考になるノウハウ(=「私も取り入れたい」と思うようなこと)は一つもなかった。
 
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三田紀房『徹夜しないで人の2倍仕事をする技術』



 三田紀房著『徹夜しないで人の2倍仕事をする技術――三田紀房流マンガ論』 (コルク/378円)読了。
 電子書籍が安かったので買ってみたもの。通常の紙書籍の半分くらいのボリュームしかないので、サラッと読める。

 『ドラゴン桜』などのヒット作で知られるマンガ家・三田紀房が、自らのマンガ術・作劇術を語り下ろしたもの(構成者の名が記されていないが、ライターか編集者がまとめたものと思われる)。

 本書で明かされている著者の仕事ぶりは、まるで『ドラゴン桜』の主人公・桜木のように、業界の常識にとらわれない合理的なものだ。徹夜してヘロヘロの状態では生産性が上がるわけがないから、徹夜はしない。会社員のように自分もアシスタントも9時5時で働き、〆切は守る、などなど……。

 著者は、西武百貨店でサラリーマンとして働き、父のあとを継いで家業の衣料品店を経営したあと、30歳で生まれて初めて描いたマンガでデビューした――という経歴の持ち主。
 それだけに、子ども時代からマンガ家を目指していた人とは、発想そのものが違う。一つのビジネスとして、生産性をつねに考えながらマンガ作りに取り組んでいるのだ。

 あなたが個性を探しているプロセスには、誰も一円もお金を払わない。完成原稿にしか価値はないのだ。それなのに、マンガ家をはじめ多くの表現者が自分の個性を見つけることにばかり力を注ぎ、作品を作ることを忘れている気がしてならない。
 個性なんて気にするな! そんなものはなくていい。先人から大いに学び、多少表現をパクってもどんどん原稿を作っていこう。それが、マンガ家として生きていくということだ。



 ……などという割り切った考え方が披露される、異色のマンガ論である。
 『ドラゴン桜』や『インベスターZ』、『砂の栄冠』など、ヒット作の設定を決めるまでの舞台裏が語られる部分は、マンガ家志望者などにとって大いに参考になるだろう。

 ただ、初めて描いたマンガでいきなりデビューしたことからわかるとおり、この著者もある種の天才なのだと思う。
 ゆえに、本書で著者が「◯◯なんて簡単だ」と言っていることの多くは、凡人にとっては非常に難しいことであり、とても内容を鵜呑みにはできない。

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『きみはいい子』



 薬師丸ひろ子主演の大ヒット映画を橋本環奈主演でリメイク(正確には原作の赤川次郎による続編の映画化)した『セーラー服と機関銃-卒業-』がAmazonプライムビデオに入っていたので、観てみた。



 が、あまりのクズ映画ぶりに耐えられず、15分で観るのをやめた。演技は学芸会、演出は拙劣、セリフはいちいちわざとらしい……とてもじゃないが、最後までつきあう気が起きなかった。

 私は少年時代に薬師丸ひろ子の大ファンであったから、『セーラー服と機関銃』には強い思い入れがあるのだ。相米慎二監督のオリジナルは封切り日に観たし、翌年に公開された「完璧版」(ディレクターズカット版)も封切り日に観た。
 「角川映画40周年記念作品」だか何だか知らないが、名作を汚さないでほしいものである。

 で、口直しにまともな映画が観たいと思い、やはりAmazonプライムビデオに最近入った『きみはいい子』を観た。
 中脇初枝の同名小説(短編連作)を、呉美保監督が映画化した作品。



 これはじつによい映画だった。呉美保は前作『そこのみにて光輝く』も素晴らしかったが、本作でも抜群の演出力を発揮している。

■関連エントリ→ 『そこのみにて光輝く』

 たくさんの子どもたちが出てくる映画なのだが、その誰もが素晴らしく自然な演技を見せる。監督の演出手腕の賜物であろう。

 親に虐待を受けて育った若い母親による「虐待の連鎖」、貧困家庭のネグレクト、いじめ、学級崩壊など、いまどきの子どもたちをめぐる問題がてんこ盛りで描かれた群像劇である。
 というと、「多くの問題を一本の映画に詰め込みすぎではないか」と思う向きもあろうが、実際に観てみれば、ストーリーの流れがとても自然なので、詰め込みすぎという印象はまったくない。

 尾野真千子や池脇千鶴、そして主人公の新米教師役の高良健吾などが、それぞれ熱演。
 とくに、虐待する母を鬼気迫る迫力で演じた尾野真千子がすごい。たんなる鬼母ではなく、「虐待したくないのに虐待してしまう」苦しさ・悲しさ・焦燥までも見事に表現しているのだ。

 途中、見るのがつらい場面もあるが、ラストではそれぞれの登場人物に一条の希望の光が射す。
 人が人を抱きしめること――とくに、親が幼い我が子を抱きしめること――がもたらす価値を、静かに美しくリフレインする映画。

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ポール・バターフィールド・ブルース・バンド『Original Lost Elektra Sessions』



 今日は、女優・タレントの久本雅美さんを取材。劇団「ワハハ本舗」の事務所にて。久本さんとは初対面である。

 「ワハハ本舗」は、人を傷つける笑い・差別の笑いではなく、人を元気にする笑い・生きる力になる笑いをずっと追求してきた、というお話に胸打たれた。


 帰宅したら、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの『Original Lost Elektra Sessions』が届いていたので、聴き倒す。
 彼らのファーストアルバム(1965年)の前年に録音された、最初期の発掘音源を集めたもの(1995年発表)。

 「ホワイト・ブルースの最高峰」とも言われるポール・バターフィールド・ブルース・バンドは、私も大好きである。
 ただ、マイク・ブルームフィールド、エルヴィン・ビショップと、所属したギタリストが素晴らしいせいか、ギターにばかり注目が集まりすぎなきらいがある。
 
 私は、ポール・バターフィールドのブルース・ハープ(ハーモニカ)やヴォーカルも素晴らしいと思うし、もっと評価されてしかるべきだと考える。
 この『Original Lost Elektra Sessions』は、ポールのブルース・ハープの素晴らしさが、ギター以上に際立っているアルバムだ。
 ブルース・ハープの、一つの究極がここにはある。

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大村憲司『外人天国~GAIJIN HEAVEN~』



 大村憲司の1983年のソロアルバム『外人天国~GAIJIN HEAVEN~』を、中古で購入してヘビロ中。

 このアルバムは発売当時、NHK-FM「サウンドストリート」の坂本龍一の担当回で特集された。それを私はリアルタイムで聴き、オープニング・ナンバー「SLEEP SONG」のカッコよさに強烈な印象を受けた。が、お金のない少年時代だったので、アルバムは買わなかった。

 ……のだが、そのときの「サウンドストリート」の音源がYouTubeに丸ごとアップされており(↓)、懐かしさのあまり聴いてみて、やっぱりカッコよかったのでアルバムをポチったのである。



 考えてみれば、大村憲司は生前に4枚しかソロアルバムを出しておらず、この『外人天国』は最後のアルバムである。

 最初の2枚はもろフュージョン。3枚目の『春がいっぱい』は、YMOの影響(大村はYMOの2度目のワールドツアーにギタリストとして参加)丸見えのテクノポップだった。
 この『外人天国』はどちらでもない。フュージョンもYMO的要素も消化したうえで、大村憲司にしか作り得ない、ハイクオリティな大人のロックになっているのだ。

 「サウンドストリート」の中で大村自身は、「(今回のアルバムは)AORですね」と言っている。
 たしかに、スティーリー・ダンの「リキの電話番号」のカヴァーが入っていたりして、広い意味ではAORなのだが、一般的なAORのような甘ったるさはなく、じつに渋く、しかもエッジの効いたサウンドだ。
 大村憲司の作品ではあまり目立たないアルバムだが、つまらない曲など一つもないし、むしろソロの中では最高傑作ではないか。

 大村のギターが素晴らしいのは当然のこととして、彼のヴォーカルも意外によい。けっしてうまくはないが、味がある。
 「リキの電話番号」のカヴァーも、ロバート・ワイアットの「アット・ラスト・アイ・アム・フリー」のカヴァーもよい。歌詞はすべて英語なのだが、日本のアーティストだとは思えないほどさまになっている(全10曲中、4曲はインスト)。

 『春がいっぱい』は、テクノポップ・ブーム真っ只中に出ただけに、いま聴くと古臭く感じる。対照的に、この『外人天国』は、発表から34年経ったいまでも古びていない。日本ロック史の隠れた名盤だと思う。


↑「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」。吉田美奈子がバックグラウンド・ヴォーカルを務めていたりと、豪華な布陣の絶品カヴァー。間奏のギターのカッコいいこと。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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