『11・25 自決の日  三島由紀夫と若者たち』



 『11・25 自決の日  三島由紀夫と若者たち』を映像配信で観た。



 若松孝二が晩年に撮った、最後から2番目の映画(遺作は『千年の愉楽』)。
 タイトルのとおり、1970年11月25日の「楯の会事件」をクライマックスに据えた作品。保阪正康の『三島由紀夫と楯の会事件』などの文献をふまえ、三島の最後の日々が事実に忠実に再現されている。

 「楯の会」の中でも、三島とともに割腹自殺を遂げた森田必勝(まさかつ)にかなりの比重が置かれており、「三島と森田の物語」になっている。
 森田役の俳優(満島真之介)が本物よりもイケメン過ぎ。そのためもあって、BL的雰囲気が全編に漂っている。三島夫人役の寺島しのぶを除けば、女優はほとんど登場すらしない映画だし。

 若松孝二は思想的には三島の対極にあったはずだが、だからこそ、客観的視点が保たれたよい映画になっている。三島に心酔している監督が撮ったなら、もっとベタベタで湿っぽい映画になっただろう。

 三島と東大全共闘の有名な公開討論も再現されている。その中の三島の言葉――「私は諸君の熱情は信じます。それだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、それだけは信じるということをわかっていただきたい」は、そのまま若松が三島に向けた思いではなかったか。
 「三島の思想はくだらんし、自決に至った行動もナンセンスだが、俺は三島の熱情だけは肯定するよ」と……。これは若松の実際の発言ではなく、私が勝手に斟酌したものだが、そのような「思い」が全編から感じ取れるのだ。
 
 よけいな説明が一切省かれた、かなり無愛想な映画でもある。三島と楯の会事件についてある程度の知識がないと、なんのことやらさっぱりわからない場面が多いだろう。
 逆に、三島に関心のある人間にとっては、知識として知っている三島の最後の日々が次々と映像化されていくだけでも、興奮ものだ。
 とくに、三島と森田が腹を切るプロセスなど、映像として描かれるとすさまじい迫力で、目が釘付けになった。

 主演の井浦新は、顔つきとしてはまったく三島に似ていない。にもかかわらず、観ているうちにだんだん三島に見えてくる。魂のこもった素晴らしい熱演だと思う。

■関連エントリ→ 中川右介『昭和45年11月25日』

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『黒い家』



 話題の「Amazonプライム・ビデオ」がスタート。年会費を3900円払う「プライム会員」のみ、映画などが見放題になるという新特典サービスである。

 どの程度の本数を「見放題」にしてくるのかと思ったら、洋画・邦画・テレビドラマとも、ラインナップは意外に貧弱だ(AKBのライヴ映像だけがやたらと充実しているのだが、あいにく私は興味なし)。

 この記事によれば、「Amazonビデオでは記事執筆時点で14,246作品が提供されているが、このうちプライム対象の作品は1,515と、約1/10程度。ジャンルの内訳では、映画・ビデオが1,070、TV番組が420。解像度別では、HD作品が310、SD作品が1,180と、SDの方が圧倒的に多く、HD比率は約20%程度にとどまっている」とのことだ。
 まあ、これから増やすのかもしれないし、たまに入れ替えるのかもしれないが。

 現状のラインナップだと、「プライム・ビデオ」のためだけに新たにプライム会員になる人は、そう多くないと思う。
 もっとも、私は元々プライム会員なので、その上に「余得」としてビデオ見放題が加わるのは、単純にうれしい。

 「もう一度観てみたいけど、DVDを買うほどでもないし、わざわざTSUTAYAとかで借りてくるほどでもないなァ」という力加減の映画を再見するのに、プライム・ビデオはちょうどいい感じ。

 で、今日は『黒い家』(1999年/森田芳光監督)を再見。
 原作ファンにはやたらと評判の悪い映画版だ。私も貴志祐介の原作は面白く読んだが、原作と「別物」として観れば、これはこれで楽しめる映画だと思う。大竹しのぶの伝説的怪演は、再見してもやっぱりスゴイ。
 なお、『黒い家』は2007年に韓国でリメイクされたが、私は未見。
 
 今後は、松田優作の「遊戯シリーズ」(第3作の『処刑遊戯』だけラインナップにない)とか、薬師丸ひろ子主演の角川映画(『野生の証明』がないが)とか、深作欣二の『県警対組織暴力』などを順次再見する予定。

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上野顕太郎『暇なマンガ家が「マンガの描き方本」を読んで考えた「俺がベストセラーを出せない理由」』



 上野顕太郎著『暇なマンガ家が「マンガの描き方本」を読んで考えた「俺がベストセラーを出せない理由」』(扶桑社/1512円)読了。

 マンガ家の著者が、子ども時代から現在までに収集した250種類もの「マンガの描き方本」を紹介した本。中身はマンガではなく、文章がメインである(一部はマンガ)。
 本書に登場する「マンガの描き方本」のうち、最も古い本は大正9年のもの(!)。この分野に100年近い歴史があったとは驚きだ。

 タイトルこそおちゃらけているが(「暇なマンガ家」というのは著者のキャッチフレーズのようなもの)、内容はけっこう真面目な研究書になっている。
 「マンガの描き方本」の時代ごとの変遷などもきちんと研究しているし、本書自体がマンガ史の貴重な資料といえる。他に類を見ない本であるし、おそらく今後も類書は出てこないだろう。それこそ、手塚治虫文化賞の「特別賞」を受賞してもよいくらいの労作だと思う。

 だが、資料的価値の高さと面白さは必ずしも比例しない。マンガ評論家・研究者でもないかぎり、本書を読んで面白いとは思えないのではないか。少なくとも、私には面白くなかった。
 さりとて、マンガ家志望の若者が本書を読んで創作の参考になるかといえば、たぶんならない。「実用性」があるわけでもないのだ。

 文章の随所に笑いを狙った箇所があるのだが、それらがことごとく笑えない。ダダすべりである。
 ダダすべってる一例を挙げる。

 「みんながGペンを使っているなら、俺はハンペンで描いてやろうじゃないか!」てな調子で、今頃は世界でただ一人のハンペン・マンガ家として名を成し、アングレーム国際漫画祭にも鳴り物入りで……いやハンペンだけに練り物入りで招聘されていたかもしれない。



 ううむ……。
 上野顕太郎にはシリアスな作品もあるものの、基本的にはギャグ・マンガ家であるわけで、「ベストセラーを出せない理由」はギャグ・センスが(略)。
 まあ、この「しょうもなさ」こそが上野のギャグの持ち味なのかもしれないが。

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バッド・カンパニー『バーニング・スカイ』



 バッド・カンパニーの『バーニング・スカイ』を、中古CDで入手。
 個人的に思い入れの強い、1977年のバドカン第4作である。

 4年前に当ブログでバッド・カンパニーの『アンソロジー』を取り上げたとき、私は本作について次のように書いた。

 私がバドカンのアルバムでいちばん好きなのは、一般には評価の低い4枚目『バーニング・スカイ』である。いちばん最初に聴いたバドカンのアルバムであり、ロックを聴き始めたころに愛聴したアルバムだからだ。

 たしか、私が人生で3番目くらいに買った洋楽ロックのLPが、『バーニング・スカイ』だった。
 ロック初心者の中学生が聴くには渋すぎるこのアルバムを、なぜ買ったのかは思い出せない。たぶん、ロック雑誌の絶賛レビューでも読んだのだろう。

 お小遣いで1ヶ月に1枚LPを買うのがやっとだった中学生時代に買ったアルバムを、私は一つ残らず偏愛している。「元をとらなきゃ」という思いから、「好きになるまで何度でも聴きつづけた」からである。

 そんなわけで、他人はどうあれ私にとっては名盤である『バーニング・スカイ』。だが、この『アンソロジー』には同作からたった3曲しか収録されていないのであった。
 ううむ、『バーニング・スカイ』を改めて購入しようかなあ。



 というわけで、やっと購入しました。

 しかし、アマゾンの本作のページに載っている「商品の説明」欄のレビュー(雑誌『CDジャーナル』の「試聴記コメント」を転載したもの)はひどい。いわく――。

 欧米の多くのヴォーカリストに影響を与えたポール・ロジャースが、フリーを解散後に結成したバンド。しかし、口ウルサイ連中(と言って自分の責任を逃れる)は、バッド・カンパニーの聴くに値するのはデビュー盤だけと言っている。従って76年の本作はスカ。



 この匿名レビュアーが誰だか知らないが、販促が目的であるアマゾンのページに、よくこんなレビューを載せられるものだ(しかも発表年を誤記しているし)。このレビューを読んで、「ああ、スカなのか。じゃあ買うのやめよう」と思う人だっているだろうに。

 本作をこよなく愛する私が、自信をもって断言しよう。「スカ」なんてとんでもない。これはバドカンの最高傑作といってもよいほど素晴らしいアルバムだ、と……。

 たしかに、ストレートなハードロックは収録曲の半分ほどであり、バドカンらしからぬポップな曲も多いので、ハードロック・ファンにはやや物足りないアルバムかもしれない。

 しかし、「ほとんどスティーヴィー・ワンダー」という感じのソウルフルなポップ・チューン「Passing Time」とか、60年代ポップスのパロディのようで楽しい「Everything I Need」(「燃えるヤング・ラヴ」というスゴイ邦題がついていた)とか、思いっきりブルージーで渋い「Master Of Ceremony」とか、ハードロック以外の曲もみなクオリティが高く、まさに「捨て曲なし」の充実ぶりを見せたアルバムといえる。

 それに、アルバムの半分を占める王道ハードロック・ナンバーも、「Burnin' Sky」「Leaving You」「Too Bad」など、どれもバツグンのカッコよさなのだ。


↑ずっしりと重くうねる、いぶし銀のハードロック・ナンバー「Too Bad」。

 ポール・ロジャースのヴォーカリストとしてのピークも、じつはこのアルバムなのではないか。硬軟どんなタイプの曲も歌いこなして、見事というほかない。

 30数年ぶりに全編を聴いてみて、傑作アルバムであるとの認識を新たにした。

 ポール・ロジャースが日本の法被(はっぴ)を着てハチマキをしているお笑いジャケでも知られるアルバム(ポールは当時の奥さんが日本人で、親日派として知られる)だが、中身はジャケットからは想像もつかない渋さだ。

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片山智行『孔子と魯迅』



 片山智行著『孔子と魯迅――中国の偉大な「教育者」』(筑摩選書/2052円)読了。書評用読書。

 中国文学者で、とくに魯迅を専門的に研究してきた著者が、孔子と魯迅に通底するものを浮き彫りにした評伝である。

 魯迅といえば、激烈な儒教批判で知られている。小説家としてのデビュー作「狂人日記」の隠れたテーマも儒教批判であったのだ。
 したがって、魯迅と孔子に「通底するもの」などなさそうな気がするが、そうではないと著者は言う。
 魯迅が批判したのは、孔子本人の思いを離れ、支配階級に都合のいい封建道徳に変質した後代の儒教であって、孔子その人の思想とは深く響きあうものがあったのだ、と……。

 この見立てが面白いし、孔子についても魯迅についても、教えられるところの多い書ではあった。

 しかし、一冊の本として見た場合、そもそもこういう形にすべきだったのか、疑問を抱いた。
 本書の前半は孔子の評伝であり、後半は魯迅の評伝である。それぞれ評伝としての質は高いと思うのだが、肝心の“孔子と魯迅をつなぐもの”についての記述はごくわずか。分量でいえば3~4ページ分くらいしかないのだ。

 これを『孔子と魯迅』と銘打った書にする必然性があったのだろうか? 別々の本にして出せばよかったのでは?
 孔子と魯迅、中国古代と近代を結ぶ“真に中国的なるもの”の水脈が壮大に論じられる本だと期待したのに、大いに期待ハズレであった。

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団鬼六『不貞の季節』



 団鬼六著『不貞の季節』(文春文庫)読了。

 先日読んだ『赦す人――団鬼六伝』の中で、タイトル作の短編「不貞の季節」について、かなり紙数を割いて言及されていた。それで興味を抱いて読んでみたしだい。

 「不貞の季節」「美少年」「鹿の園」「妖花 あるポルノ女優伝」の4編を収めた短編集である。

 「不貞の季節」は、団鬼六の最初の妻が不倫に走り、それが原因で離婚に至るまでの顛末を元にしたもの。『赦す人』と併せて読むと、どのあたりが脚色されているのかがよくわかる。
 古い言葉で言えば「コキュ(cocu=妻を寝とられた男)もの」、流行り言葉で言えば「NTR(ネトラレ)もの」である。

 団は妻の不貞を知って見苦しいほど動揺するのだが、それ以前に自分はさんざん不倫をしたり愛人を囲ったりしているのだから、妻に対する激しい怒りは身勝手と言うしかない。
 それはともかく、「NTRもの」としてはなかなかよくできた小説である。映画にもなったそうだ。

 他の3編も自伝的な作品であり、元ネタになった話が団のエッセイの中に登場している(『一期は夢よ、ただ狂え』など)。エッセイと読み比べてみると、それぞれがかなり脚色されている。

 団鬼六の作品にはSM小説と一般小説の二系列があるわけだが、本書に収められた4編にはそれぞれ強烈な性描写があり、一般小説とSM小説の中間に位置するものといえる。

 団が私生活においても長く交友を結んだ、ポルノ映画における「SMの女王」――谷ナオミを描いた「妖花」が、際立って面白い。もう少しふくらませて長編にしてもよかった気がする。谷ナオミの波乱万丈の半生自体がドラマティックだし、彼女は女優としても、一人の女性としても魅力的だ。

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清水潔『騙されてたまるか』



 「VIEW Suica」カードのICチップがイカれてしまったらしく、改札でタッチしても反応しなくなってしまった。
 で、「ビューカードセンター」というところに電話して、新しいカードを送ってもらうことに。

 駅でいちいち切符を買わなければいけないことが、すっごくメンドくさい。昔はあたりまえにしていたことなのだが……。


 清水潔著『騙されてたまるか――調査報道の裏側』(新潮新書/842円)読了。

 一昨年の力作『殺人犯はここにいる』で読者の度肝を抜いた日本テレビ報道局記者が、これまでかかわった調査報道から生まれたエピソードを綴った本。「記者人生の集大成」(本の惹句)であり、「ベスト・オブ清水潔」ともいうべき一冊だ。

■関連エントリ→ 清水潔『殺人犯はそこにいる』

 『殺人犯はここにいる』で追った「足利事件」(菅家利和さんの冤罪事件)や、著者のもう一つの代表作『桶川ストーカー殺人事件 遺言』の舞台裏についても、それぞれ一章を割いて紹介している。
 ほかにも、故郷のブラジルに逃げた強盗殺人犯を現地まで追いつめていく話など、どの章のエピソードも執念の追跡ぶりがすさまじい。真実を追い求めるためにここまで徹底的に取材するジャーナリストが、ほかにいるだろうか。著者の記者魂やよし。

 エピソード集として読んでもバツグンに面白いし、体験的・実践的ジャーナリズム論としても読みごたえがある。

 最終章の「命さえ奪った発表報道――太平洋戦争」だけはやや異質で、戦時中の「大本営発表」に翻弄された一組の男女(婚約者が特攻隊員となり、結婚を目前にして戦死する)の悲恋を追ったもの。
 これは元々ドキュメンタリー番組のための取材だが、のちにテレビドラマ化・マンガ化もされたという。それもうなずけるドラマティックな話で、涙なしに読めない。

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魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』



 今朝方の地震には驚いた。
 多摩地域が最高震度5弱を記録したため、我が家の揺れは「3.11」以来の大きさだったのである。家族4人で飛び起きてしまった。「ああ、とうとう首都直下がきたか」と、一瞬観念したよ。
 ただ、最初の揺れこそ強烈だったものの、あっという間に収まったけれど。


 魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント――「悟り」とは何か』(新潮社/1728円)読了。

 東大大学院でインド哲学・仏教学を専攻し、現在はミャンマーでテーラワーダ(上座部)仏教の研究と実践をしているという著者による、仏教思想の根幹部分の解説書。
 メインテーマとなるのは、副題のとおり「『悟り』とは何か」ということ。釈尊が菩提樹の下で「悟った」とき、彼は何をどのように悟ったのか? 「仏教思想のゼロポイント」ともいうべきそのテーマに、果敢に挑んだ本なのである。

 悟り(涅槃・解脱)の内実に迫っていくのは後半部分で、前半ではその前提となる仏教の基礎知識について解説している。縁起、無我、輪廻など、我々がなんとなく「わかったつもり」になっている重要概念について、改めてその本質が論じられるのだ。

 著者が若い(1979年生まれ)ためか、難しいテーマのわりにはポップな本だ。文章は平明、主張は明快。読者をニヤリとさせるくすぐりも随所にある。

 何より痛快なのは、釈尊は「人間として正しく生きる道」を説いたのだ、などという紋切り型の微温的解釈を、著者がきっぱりと退けているところ。

 釈尊が説いた本来の仏教は、労働を否定し、生殖(恋愛や性行為そのものも含む)を否定し、現代風に言えば「異性とは目も合わせないニートになれ」と修行者に求めるものであって、一般的意味での「人間として正しく生きる道」など説いていない、と著者は言うのだ。
 釈尊の教えの本質を突きつめていけば、ハードコアな理解としてはそうなるであろう。

 「輪廻」を釈尊がどう捉えていたか、仏教における「慈悲」とは本来どのようなものであるのかなどを解説した部分も、まことに面白く、勉強になる。

 ただ、著者は次に引く一節のように、大乗仏教そのものをほぼ全否定する立場に立っているので、その点で私とは相容れない。

 利他行を主にやりたいだけなのであれば、そういう目的の宗教を別につくればいいことで、わざわざ新しい経典を制作してまで、自らの立場を「仏教」だと主張する必要もなかったはずである。ならば、なぜ「大乗」の徒は、あくまで「仏教」の枠内において、自己の立場を確立しようとしたのであろうか。



 原始仏教と大乗仏教は大きく隔たっているというのは、著者の言うとおりである。
 ただ、私は逆に、本書でくわしく解説されている釈尊の本来の教えに、まったく魅力を感じない。そのことを改めて認識させられた書でもあった。

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大崎善生『赦す人――団鬼六伝』



 大崎善生著『赦(ゆる)す人――団鬼六伝』(新潮文庫/853円)読了。
 晩年の団鬼六と関係者に、2年にわたる取材を行って書き上げた評伝である。

 団鬼六の波乱万丈の生涯については、生前の団自身が、エッセイや小説などの形でくり返し綴ってきた。私もそれらを読んできたから、「前に読んだことがある」というエピソードがかなり多く含まれている。
 とはいえ、本書にも指摘があるように、団の自伝的著作にはかなり脚色もあるようだから、客観的視点からの評伝にはそれなりの意義もあろう。

 大崎自身が将棋の世界に深く足を踏み入れた人だから、将棋界と切っても切れない団鬼六の生涯を描くには適任と言える。じっさい、大崎自身も面識のあった小池重明(真剣師)と団のかかわりを描いた章など、この著者ならではの深みがある。

 また、著者自身が小説とノンフィクションの両分野で活躍してきた人だから、小説家・団鬼六の内面に踏み込んだ推察・分析には、目を瞠る鋭さがある。
 たとえば、純文学から出発し、SM小説の世界に転じ、晩年に再び純文学的な作品に回帰した……などという転機に際して団が何を考えていたかが、心の奥まで見通すように明快に分析されているのだ。

 ただ、そうした美点とは裏腹に、細部の刈り込みと書き込みが足りない気もする。
 第1に、団や周辺の人々が綴った著作からの引用に、安易に頼りすぎている。
 第2に、著者の「自分語り」が多すぎる(著者の学生時代や作家デビュー以前の思い出など、団鬼六と関係のない記述がけっこうあって、読んでいてウザい)。
 2年もかけて取材したのなら、もっと緊密な内容にできたはずだと思う。

 と、ケチをつけてしまったが、あっという間に読み通してしまう面白い本であることは確か。ただ、その面白さはかなりの部分まで、団の生涯それ自体の面白さによるのだが……。

 本書を読んで改めて思うのは、団鬼六が作家としてまぎれもない天才であったということ。たとえば、団が著者と、デビュー当時を振り返って次のようなやりとりをかわす場面がある。

「私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことがありまへん。すべて金になっています。最初に書いた小説がいきなり佳作に入りまして。その次も次点。それらを集めて短編集を作りまして……。だから無駄は一切なしや」
「習作のようなものは?」
「ありまへん。一枚も」
「下書きとか?」
「はあ。なんでそんなことせなあかんのや」と鬼六は豪快に笑う。



■関連エントリ
団鬼六『死んでたまるか』
団鬼六『牛丼屋にて』ほか
団鬼六『悦楽王』
団鬼六『往きて還らず』

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まんしゅうきつこ『アル中ワンダーランド』



 先週から夏風邪を引いてダウンしていた。
 3日ほど前から仕事をしてはいるのだが、まだ本調子ではない。風邪を引くと復調までには一週間かかるなァ。


 まんしゅうきつこの『アル中ワンダーランド』(扶桑社/1188円)を読んだ。今春の話題作だが、遅ればせながら……。

 ブログ「まんしゅうきつこのオリモノわんだーらんど」で脚光を浴びたマンガ家・イラストレーターが、自らのアルコール依存症体験を赤裸々にマンガ化したもの。

 著者がアル中になったのは、「オリモノわんだーらんど」が脚光を浴びたことにより、急に仕事の依頼が増えたプレッシャーのせいだという。つまり、つい最近(ブログ開設は2012年)の話なのだ。
 そのためか、まだアル中体験が十分に「対象化」されておらず、とっちらかった未整理な印象の作品になっている。

 てゆーか、たぶんこの人のアル中は現在進行形で、まったく治っていないと思う。巻末の「アル中鼎談」(鼎談相手は小田嶋隆と中川淳一郎)では「当分はやっぱり禁酒します」なんて発言しているし……。これではいつ「スリップ」(再飲酒)しても不思議はない。

 それに、吾妻ひでおの『アル中病棟』(およびその前編『失踪日記』)という“アル中マンガの金字塔”を読んだあとだと、どうしても割を食って見劣りがしてしまう。

■関連エントリ→ 吾妻ひでお『失踪日記2 アル中病棟』

 アル中に起因する幻聴などの“狂気”の描写には凄みがあるし、けっしてつまらなくはないのだが……。

 ブログに描いていた、過去の自分を振り返ったエッセイマンガのほうが、はるかにこの著者のよさが出ていたと思う(あれは一冊にまとめないのだろうか?)。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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