梅原猛『人類哲学序説』


人類哲学序説 (岩波新書)人類哲学序説 (岩波新書)
(2013/04/20)
梅原 猛

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 一昨日から昨日にかけて、一泊で京都へ――。

 哲学者の梅原猛さん、環境考古学者の安田喜憲さん、『岩手日報』編集局長の東根千万億(あずまね・ちまお)さんによる鼎談の取材(で、私がまとめる)。

 鼎談のテーマに関連する梅原さんの近著『人類哲学序説』(岩波新書/798円)を読んで臨む。

 タイトルだけでたじたじとなってしまいそうな本だが、これがじつに面白い。大学で行われた連続講座をベースにした本なので、全編語り口調のやわらかい文章で書かれているし、「(笑)」も頻出するのだ。

 自然を収奪することによって成り立ってきた西洋型文明が、20世紀後半からしだいに限界を見せ、福島第一原発事故という「文明災」によって決定的に行き詰まった。
 では、今後の新たな文明の土台となるべき哲学とはなんなのか? 梅原さんはそれを、仏教の「草木国土悉皆成仏」の中に見出す。人間や動物のみならず、草木や国土でさえ仏性をもち、みな仏になり得るという意味。元々は「天台本覚思想」だが、それが自然の中に八百万の神々を見る日本古来の思想と結びつき、「日本思想」となった。「草木国土悉皆成仏」は、鎌倉仏教の共通原理でもある。

 自然を支配しようとするのではなく、自然と「共生」する思想。それが日本から世界へと広まれば、21世紀にふさわしい「人類哲学」となり、文明のパラダイムシフトをもたらすのではないか? ……そのような壮大無比の構想の、本書はまさに「序説」にあたる。

 そのためにまず、梅原さんはデカルト、ニーチェなど、西洋文明を基礎づけてきた哲学の果たしてきた重要な役割を論じ、その限界を指摘していく。

 梅原さんの思想のエッセンスを抽出した入門書としても読める、内容の濃い一冊。

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鈴木みそ『ナナのリテラシー』


ナナのリテラシー1ナナのリテラシー1
(2014/01/23)
鈴木みそ

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 鈴木みその『ナナのリテラシー』1巻を、電子書籍で購入。
 「漫棚通信」さんがツイッターでホメていたので(※)、ネットで試し読みできる第1話を読んでみたところ、すごく面白くて即ポチったもの。

※その後、「漫棚通信ブログ版」にも絶賛エントリがアップされた。

 『コミックビーム』連載作品で、紙版の書籍は当然ビームコミックスから出ているのだが、電子書籍版はアマゾンのキンドルダイレクトパブリッシング(KDP)で鈴木本人が出している(電書版のほうが300円近くも安い)。

 タイトルだけ見るとなんのマンガだかさっぱりわからないが、コンサルタント業界を舞台にしている。天才コンサルタント・山田仁五郎の事務所に、学校の「職場体験」授業でやってきた女子高生ナナ(七海)が、そこで才能を開花させ、仁五郎の助手として活躍していく物語。

 ……なのだが、この第1巻にかぎれば「マンガで読む電子書籍入門」として読める。仕事が減って生活苦に陥った中堅マンガ家・鈴木みそ吉を、仁五郎とナナが電子書籍の世界で「再生」させるプロセスがメインストーリーになっているからだ。
 そう、鈴木みそ吉は作者の鈴木みそ自身をモデルとしているのだ。

 鈴木みそはKDPで旧作『限界集落温泉』を大ヒットさせ、「電子書籍でヒットを飛ばしたマンガ家」の代名詞的存在となっている。その鈴木が自らの体験をベースに、「中堅どころのマンガ家はいかに電子書籍の世界に飛び込んだらよいか?」をストーリーマンガの形式で語ったのが、この第1巻なのである。

 というと、文章を絵に置き換えただけの無味乾燥な「学習マンガ」を想像されるかもしれない。しかし、ドキュメントコミックの第一人者である鈴木みそだけに、そんなつまらないマンガにはなっていない。

 作品の性質上、説明ネームが多めなのは致し方ないが、それでも十分に「マンガとして面白い」作品になっている。キャラも立っているし、回ごとの山場もちゃんとある。読者をグイグイ引っぱる牽引力をもっているのだ。そのうえ、電子書籍についての実用マンガとしても読めるし、マンガ界の近未来を展望した本としてもすこぶる読み応えがある。

 電子書籍の話はこの巻のみで、次巻はゲーム業界が舞台になるようだが、ゲームをやらない私でも「次巻も買おう」と思えた。

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ももち麗子『デイジー ~3.11女子高生たちの選択~』


デイジー ~3.11女子高生たちの選択~(1) (デザートコミックス)デイジー ~3.11女子高生たちの選択~(1) (デザートコミックス)
(2013/03/13)
ももち 麗子

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 ももち麗子の『デイジー ~3.11女子高生たちの選択~』(全2巻/講談社KCデザート)を読んだ。
 この間から仕事で読んでいる、東日本大震災関連マンガの一つ。

■関連エントリ→ 『ストーリー311』レビュー
 
 ももち麗子のマンガは、以前『問題提起シリーズ』というのを読んだことがある。
 絵柄といい内容といい、典型的少女マンガで、オッサンの私が読むには気恥ずかしかったのだが、読んでみたら意外によかった。

 本作は、小林照弘らによる『ピエロ ~夜明け前~』という小説が原作なのだという。
 私はその小説を読んでいないので、ももちの独創がどの程度加わっているのかはよくわからない(原作ではなく「原案」として紹介している記事もある)。
 ともあれ、ももちはこの作品を描くにあたって独自の被災地取材も重ねており、原作そのままではない。

 福島に住む仲良し女子高生4人が、原発事故がもたらしたさまざまな苦難(家業の危機、被災者への差別など)に直面しながら、友情によってそれらを乗り越えていく物語。高校2年で「3・11」を迎えた4人が、卒業するまでの1年間が描かれている。

 主人公4人のキャラクターが、あまりにステレオタイプで工夫がなさすぎる。
 学業優秀な優等生と、ヤンキーと、腐女子なオタクと、お金持ちのお嬢様――という組み合わせ。いわゆる「スクールカースト」において、それぞれが“別カースト”に属するだろうし、この4人が親友になってバンドを組むという設定自体、無理がありすぎると思う。

 ……と、ケチをつけてしまったが、設定はともかくストーリーはよくできていて、大人の鑑賞に十分堪える。
 あとがきに「福島に住んでいるというだけで婚約を取り消されてしまった女性がいたことも、米農家の方が殺人者呼ばわりされたことも事実です」とあるように、3・11後の福島で実際に起きた出来事の数々が、オーソドックスな少女マンガの枠組みの中に、巧みに盛り込まれているのだ。

 なお、タイトルの「デイジー」とは、主人公4人が組んでいたバンドの名前であり、彼女たちの「絆」の象徴である。

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「レジリエンス(復活力)」と日蓮仏法


レジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何かレジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か
(2013/02/22)
アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー 他

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※以下の文章は「WEB第三文明」に書き下ろしたものです。許諾を得て転載しています。


「レジリエンス(復活力)」と日蓮仏法

時代のキーワードとなった「レジリエンス」

 近年注目を集めている概念の1つに、「レジリエンス(resilience)」がある。
 もともとは物理学用語で、「外部から力を加えられた物質が元に戻る力」を意味する言葉。そこから転じて、いまでは幅広い分野で用いられている。

 たとえば、生態学の分野では、回復不可能な状態を回避する生態系の力を「レジリエンス」と呼ぶ。また、ビジネスの世界では、アクシデントに遭遇しても業務を継続できるよう、データや資源のバックアップを整備することを「レジリエンス」と呼ぶ。

 本稿では、「人が困難や災害などから立ち直る力」としての「レジリエンス」に光を当てる。この意味でのレジリエンスは「復活力」「回復力」などと訳され、いま時代のキーワードとして浮上している。とくに米国では、人や組織のレジリエンスについての研究が進み、関連書籍が次々と刊行されている。

 米国でレジリエンスの研究に注目が集まっている背景には、2001年の「9・11」同時多発テロや2008年の「リーマン・ショック」など、国家的災厄が近年につづいたことがあるだろう。「大きな災厄から、人はいかにして立ち直ればよいか?」を研究することが、喫緊の国家的課題となったわけだ。
 同様に、東日本大震災と原発事故という災厄に見舞われ、いまなお復興が緒についたばかりである日本においても、レジリエンスを研究することは国家的課題といえよう。

信仰は人間のレジリエンスを高める

 米国で生まれたレジリエンス研究書の1つに、『レジリエンス 復活力――あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著、須川綾子訳/ダイヤモンド社)がある。本国では2012年に刊行され、邦訳は13年に出た。

 同書は、個人や企業、経済や生態系など、あらゆる分野のレジリエンスを包括的に論じたもの。私は、個人のレジリエンスを扱った第4章「人はいかに心の傷から立ち直るのか」に、最も感銘を受けた。
 それによれば、レジリエンスの高い人――すなわち、逆境に強く、立ち直りの早い人は、次の3つの信念を心に抱いている場合が多いという。

1、人生に有意義な目的を見いだせるという信念
2、自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念
3、経験はよかれ悪しかれ学習と成長につながるという信念



 このことをふまえて、著者は次のように述べている。

「信仰心の厚い人々に比較的高いレジリエンスが備わっているという研究報告は何ら矛盾を生じない」
「宗教的信念が廃れることなく受け継がれている理由の一つは、それが魂の存続を来世まで保証してくれるからではなく、それを保つことで一定の精神的レジリエンスが得られるからなのである」



 ――つまり、〝信仰をもつ人々は、もっていない人よりも総じてレジリエンスが高い〟のだ。それは、信仰が「自分の人生には意味がある」「自分の力によって状況は切り開ける」「逆境や困難を乗り越えることによって成長できる」という3つの確信をもたらすからにほかならない。

最もレジリエントな宗教とは?

 『レジリエンス 復活力』は、〝信仰がレジリエンスを高める〟と指摘しているのみで、信仰の中身には立ち入っていない。だが、ひとくちに「信仰」といっても、高いレジリエンスをもたらすものと、そうでもないものがあるのではないか。

 というのも、さきに挙げた「3つの信念」のうち、「自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念」は、「すべては神仏の思し召しであり、運命を甘受すべき」ととらえるタイプの信仰からは生まれにくいと思うからである。
 自然災害などの大きな災厄に遭遇したとき、人は多かれ少なかれ無力感にとらわれる。その無力感がPTSD(心的外傷後ストレス障害)の引き金にもなるわけだが、信仰によって災厄のなかでも「自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念」を保つことができたなら、無力感が克服できる。

 しかし、「すべては神仏の思し召し」ととらえる信仰の場合、信者が自らの力で状況を切り開く余地はないから、無力感は克服できないどころか、むしろ増幅されるのではないか。

 では逆に、さきの「3つの信念」をもたらしやすい宗教――言いかえれば「最もレジリエント(レジリエンスの形容詞形)な宗教」とはなんだろうか?
 その答えは、厳密にはレジリエンス研究者による詳細な研究を待たねばならないだろう。しかし、私が直観的に考えるのは、「日蓮仏法こそ『最もレジリエントな宗教』ではないか」ということだ。

「難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである」
「私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである」
「大難がなければ、法華経の行者ではない」



 などの遺文が示すとおり、日蓮は「末法(釈尊入滅から2000年以上を経た、思想的に乱れた世)に正しい仏法を信じ、教え通りに行ずる者には、さまざまな苦難が競うように起こるのは当然」ととらえ、苦難を乗り越えることによってこそ宿命が打開できるとした。

 そこには、苦難や逆境を忌み嫌い、避けよう、逃げようとする姿勢は微塵もない。
「苦難や逆境を、必要以上に恐れたり避けたりする必要はない。それは、自分が正しい方向に進んでいる証である。苦難を乗り越えてこそ成長もあり、運命の扉を大きく開くことができる」――そうした姿勢で人生に臨むことを教えるのが、日蓮仏法なのである。
 そのような、いわば〝闘争的楽観性〟にこそ、日蓮仏法の大きな特長がある。

 「ポジティブ心理学」の提唱者で、楽観主義研究の第一人者として知られる米国の心理学者マーティン・セリグマンも、日蓮仏法の楽観主義的側面に注目し、〝心理学の革命であるポジティブ心理学と、仏教の革命である日蓮仏法には共通性がある〟という主旨の発言をしている。

 そして、苦難を避けずに乗り越えようとする志向性をもつ日蓮仏法は、必然的に、信者に強いレジリエンスをもたらす。
 たとえば、東日本大震災の被災地では、日蓮仏法の信徒たちが目覚ましいレジリエンスを発揮した。被災した悲しみに打ちひしがれるのではなく、苦難を乗り越えることによって運命を切り開こうとする姿が、各地で枚挙にいとまがないほど見られたのだ。その力は、信仰によってもたらされたものにほかならない。

 レジリエンスが脚光を浴びているいま、日蓮仏法の「レジリエントな宗教」としての側面も、もっと注目されてしかるべきだろう。

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竹邑類『呵呵大将――我が友、三島由紀夫』


呵呵大将: 我が友、三島由紀夫呵呵大将: 我が友、三島由紀夫
(2013/11/22)
竹邑 類

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 竹邑類(たけむら・るい)著『呵呵大将――我が友、三島由紀夫』(新潮社/1470円)読了。

 著者は舞台演出家・振付師で、本書刊行後ほどない昨年12月に世を去った。はからずも、これが遺著となったことになる。

 著者がまだ無名の学生であった1960年代初頭、たむろしていた新宿のモダンジャズ喫茶「KIIYO(キーヨ)」に、すでに人気作家であった三島由紀夫がやってくる。もともと三島作品の大ファンであった著者は話しかけ、たちまち意気投合。それから友人として付き合い始める。

 本書は、「KIIYO」をおもな舞台に、三島との交友を振り返ったエッセイ。
 タイトルはもちろん「呵呵大笑」のもじりで、三島の特徴であった爆発的大笑と「大将」をかけている。

 当時「KIIYO」にたむろしていた若者たちは、睡眠薬ハイミナールをビールやコーラで流し込んでは「ラリる」のを常としていた。つまり、のちの和製ヒッピー「フーテン」のハシリであったわけだ。
 ただ、永島慎二の『フーテン』に描かれた少しあとのフーテンよりはずっとファッショナブルで、時代の先端を走る存在であったようだ。最先端風俗に目がなかった三島が「KIIYO」に出かけていったのも、そのためだろう。

 三島の短編「月」の主人公「ピータア」のモデルが竹邑であり、物語の舞台となるジャズ喫茶のモデルが「KIIYO」である。
 「月」は、新潮文庫では自選短篇集『花ざかりの森・憂国』に収録されている。三島にとってもお気に入りの一編だったのだろう。

 本書は、正味160ページ程度の薄い本で、内容もわりと薄いのですぐに読めてしまう。
 三島らしさを感じさせるエピソードは随所にあるし、60年代初頭の東京の若者風俗をヴィヴィッドに伝える貴重な資料でもある。しかし、汗牛充棟の「三島本」の山の中に置いたとき、上位に位置するようなものではない。

 ただ、最先端の若者風俗と接するときにも、三島がけっして興味本位ではなく、どこまでも真剣に向き合っていた様子が伝わってきて、感心させられる。三島は真剣にツイストを踊り、真剣にフーテンたちと遊ぶのである。
 その点についての著者の次のような分析は、本書の白眉だと思った。

 教養と良識に毒された、ひ弱な文士とかインテリは「精神性こそが本分」とばかり、肉体を動かすスポーツや流行ものはナナメに見て批判をしなければならず、若者のやることなすこと軽薄そのものであると勝手に思い込んでいる。三島さんの周りの文学仲間やジャーナリスト、三島さんの讃美者でさえも。
 その偏見に、逆の美意識を駆使して、インテリたちの自意識を逆撫でしたり、軽薄そのものの社会現象の最先端を走ったり、トゥイストを踊ったり、映画スターやロカビリー歌手と交流を持つ、そして自らの肉体をボディビルで鍛えあげて、ナルシズムと反抗精神を二つながら楽しんでいるのである。



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大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』


児童養護施設の子どもたち児童養護施設の子どもたち
(2011/05)
大久保 真紀

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 大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』(高文研/2100円)読了。

 テレビドラマ『明日、ママがいない』が大騒ぎになっているので、ネットで無料配信されている第1話を見てみた。で、ついでにといってはなんだが、物語の舞台になっている児童養護施設のルポである本書も読んでみたしだい。

 ドラマのほうは、第1話を見たかぎりでは、目くじら立てるほどひどい内容とは思わなかった。芦田愛菜の演技はマジすごいし。

 ただ、抗議している人たちの気持ちもわかる。大人はあのドラマが児童養護施設の実態を描いたものだとは思わないだろうが、施設で暮らす子どもたちがドラマのせいで差別に遭う可能性は、十分あると思う。
 私の子ども時代にも学区内に養護施設があって、そこから学校に通っていた子は差別を受けていた(深刻なものではないが)し……。

 さて、本書は、『朝日新聞』のベテラン記者(現・編集委員)が、長期にわたって児童養護施設を取材して書いたルポである。一章ごとに一人の児童、または施設出身者が主人公となり、計10人の半生が描かれる。
 最後のパートⅢでは、子どもを虐待する親の側にスポットが当てられる。親自身も養護施設出身であるなど、いわゆる「虐待の連鎖」が描かれ、虐待癖を克服してきた道筋がたどられている。

 著者は、新聞記者でありながら計80日も養護施設に泊まり込むなど、子どもたち一人ひとりに寄り添って取材をしている。
 また、虐待サバイバーたちは必然的に生きづらさを抱えているものだが、著者は彼らが社会で生きていくための手助けやアドバイスを、親身になって行う。

 それは時に取材者としての「分」を踏み越えるほどのものだが、そこまで深く関わっているからこそ、彼らも著者に心を開いたのだろう。

 ここまで「虐待」と書いてきたが、それは当然、養護施設に入るまでに親や同居人によって加えられたものだ。
 ただ、施設の職員によって虐待が加えられていた事例も、一つ紹介されている。『明日、ママがいない』はフィクションだが、それに近い現実もないわけではないのだ。

 各編とも、過酷な日々を生き延びてきた子どもたちが蘇生していくさまが描かれているので、読後感はあたたかい。
 とくに、登場する10人のうちの1人「彩美」の物語は感動的で、もっと広げて一冊の本にしてもいいと思った。

 
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溝上憲文『マタニティハラスメント』


マタニティハラスメント (宝島社新書)マタニティハラスメント (宝島社新書)
(2013/11/09)
溝上 憲文

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 溝上憲文著『マタニティハラスメント』(宝島社新書/790円)読了。

 仕事の資料として読んだものだが、いろいろ考えさせられた。

 いちばん「目からウロコ」だったのは、マタハラをする主体には女性もけっこう多いということ。しかも、子育て経験をもつ女性上司が、むしろ子育て中の女性に厳しく当たることも少なくないという。

「妊娠・出産の経験者から『私の時代はもっと大変だったのにそれを乗り越えてきたのよ』『私なんか育休1年で復帰して働いた』などと言われた人もいますし、同じ妊娠・出産の経験者でも見方は違います。
 とくに上の役員などの幹部層の女性の中にはきつい人もいます。なぜなら彼女たちは勝ち抜いてきた人たちだからすごく強い」

 

 私には、マタハラといえば「女は子どもを産んだら家庭に引っ込んでろ」という古いタイプのオッサンがするものだというイメージがあった。また、「女の敵は女」となるにしても、「子どもを持たなかった女性対子育て中の女性」という対立図式になるのだと思い込んでいた(もちろんそういう面もあるのだが)。
 世の中というのは、それほど単純・図式的にはできていないのだ。

 本書は、たくさんの資料をうまくまとめているし、取材も丹念な上出来の概説書。終盤になるにつれ、内容がマタハラから離れてヘンに広がってしまう点だけが玉にキズ。

 安倍政権が成長戦略の一つとして打ち出した「3年育休」が、現場の働く人々(女性含め)からはまったく歓迎されておらず、「3年も育休をとったら職場復帰できなくなる」と不評だという話も興味深い。

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中村淳彦『崩壊する介護現場』


崩壊する介護現場 (ベスト新書)崩壊する介護現場 (ベスト新書)
(2013/09/07)
中村 淳彦

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 中村淳彦著『崩壊する介護現場』(ベスト新書/800円)読了。

 著者は多くの著書をもつフリーライターだが、そのかたわら、2008年にデイサービス施設を立ち上げ、経営者兼介護職員をしている。出版不況で増えてきた“兼業ライター”の一人だ。

 本書は、「介護現場で働くライター」という特異な立場を活かした衝撃的なノンフィクションである。

 介護の仕事が総じて「3K」(給料が安い・キツイ・汚い)であることはよく知られているが、本書が的を絞る「崩壊」はそこではない。介護に携わる人材の急速な劣化を、「崩壊」として語っているのだ。

 介護業界は離職率が高く、慢性人材不足である。そのため、フツーの企業なら採用されないような人でも採用される。その敷居の低さに、一部大手介護企業(「ワタミの介護」など)の急拡大志向が拍車をかけ、まともでない人がどんどん介護業界に流入してきている、という。

 仕事がまったくできないスタッフたち、安い給与を補うため売春に走る女性職員たち、日常茶飯事である職員同士の不倫、一般世間より格段に高いサイコパス率……。本書に描かれた人材崩壊の現状は、じつにすさまじい。

 内容の衝撃性に引っぱられて、思わず一気読み。
 ただ、本書の告発が介護業界の全体像を正確にとらえているかといえば、やや疑問。著者の目から見える「現状」は、かなり極端な気がするのだ。

 著者はもともと、AV業界や性風俗の世界をおもに取材してきたライターである。そのため、彼が目にする情報や接する人々にも、必然的に偏りがあるのではないか。
 本書を読むと、介護業界で働く女性の多くが副業で性風俗をやっているように思えてしまう。まあ、中にはそういう人もいるだろうが、まさかそんなに多くはないだろう。

 そのへんを割り引いて読む必要はあるが、介護業界の現状にホンネで迫った書として、一読の価値はある。

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「生き残る力」としての文化力


そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史
(2013/11/09)
クライブ・フィンレイソン

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※以下の文章は「WEB第三文明」に書き下ろしたものです。許諾を得て転載しています。


「生き残る力」としての文化力――日本は「文化」を大切にする国か

先進国なのに文化にお金をかけない日本

「文化力」という言葉を「国力」のニュアンスで最初に使ったのは、おそらく仏文学者の桑原武夫だと思われる。
 桑原は1979年9月6日付の『朝日新聞』に「劣勢な日本の文化力」という論考を寄せ、その中で「日本は国際的文化力では第三級」と断じ、「日本の対外文化宣伝費がフランスのそれの十分の一しかないことも問題だ」としている。

 日本を代表する知識人の1人であった桑原がそう嘆いてから、三十数年が経った。しかし、状況はいまもあまり変わっていないようだ。

 たとえば、各国の文化予算が国家予算に占める割合を見ると、フランスが1.09%、韓国が0.87%、ドイツが0.39%、イギリスが0.22%であるのに対し、日本はわずか0.11%でしかない(2012年度予算での比較/野村総研「諸外国の文化政策に関する調査研究報告書」より)。大まかに言って、日本の文化予算の割合はフランスの10分の1、韓国の7分の1、イギリスの半分程度であるわけだ。

 昔もいまも、日本は「先進国の中で文化にお金をかけない国」なのである。それはなぜなのだろう?

「過度の実用性重視」がもたらした、文化予算の低さ

 理由の1つとして、〝日本人の実用性重視志向〟が挙げられると思う。
 サイエンス作家の竹内薫氏が、日本人の科学観の特殊性について興味深い指摘をしている。要約すれば次のような指摘だ。

〝欧米人にとって、科学の源流はギリシア哲学にあり、科学は本来哲学的な学問と見なされている。ゆえに、欧米では基礎科学が重視されてきた。
 いっぽう、日本に科学が本格的に輸入されたのは明治からであり、欧米で19世紀に科学と技術が合体したあとだった。ゆえに、日本人は科学を「実用的な学問」と受け止めてしまい、根底にある哲学性は輸入されなかった。日本で基礎科学が軽視され、実用的な応用科学が一貫して重視されてきた背景にも、そのような偏った科学観がある。〟
(竹内薫著『科学予測は8割はずれる』東京書籍、『科学嫌いが日本を滅ぼす』新潮選書 による)



 科学に対して実用性を過度に重視してきたからこそ、短期的視野しか持たず、すぐに実用化されて役に立ちそうな研究にしか予算をつけない。……そうした傾向が日本には抜き難くあり、それが科学技術関係予算の低位安定をもたらしている面があるのだ。

 そして、この「過度の実用性重視」は、科学のみならず文化全般に対して言えるように思う。文化芸術は、総じて実用性から遠い。だからこそ、日本では一貫して予算面で冷遇されてきたのではないか。

 日本の「文化にお金をかけない」姿勢は、経済力の低下と相まって、今後いっそう強まっていくことが懸念される。財政に余裕がなくなるほど、目先の実用性に乏しい文化予算が真っ先に削られていくだろうから……。民主党政権下で行われた「事業仕分け」にも、その傾向ははっきりと見て取れた。

 しかし、そもそも私は、「文化は生活の役には立たないから、財政に余裕がなくなれば真っ先に切りつめるべき」と考える文化観そのものに、強い違和感を覚える。
 目先の実用性だけが、「役に立つ」ということなのではない。百年単位で物事を考える長期的視野に立てば、文化を重んじる国こそが生き残っていくのだと思う。

現生人類とネアンデルタール人の「文化力」の差

 文化力こそが「生き残る力」であることを示す1つのヒントが、先史時代にあった。
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)と、旧人であるネアンデルタール人は、何千年にもわたって地球上で共存していた。しかし、ネアンデルタール人はいまから2万数千年前に絶滅し、現生人類は生き残った。

 ネアンデルタール人は、現生人類より体格が大きく、脳の容量も大きかったと考えられている。彼らは、石で作った道具や武器、火を使いこなした。また、死者を埋葬した最初のヒト属としても知られている。現生人類に劣らぬ知性を具えていたのだ。

 にもかかわらず、なぜネアンデルタール人は滅び、我々は生き残ったのか? その謎の答えとして考えられている説は多いが、そのうち私が最も心惹かれたのは「文化力の差が両者の運命を分かった」とする説である。
 それは、ドイツ・テュービンゲン大学のニック・コナード博士が唱えているもの。

 博士は、現生人類が作り出した「造形芸術や装飾品、楽器といったものが、現生人類にネアンデルタール人を凌駕する強みをもたらした」と述べている((『人類20万年 遙かなる旅路』アリス・ロバーツ著/文藝春秋)。
 芸術を持つことがなぜ生き残る力と結びつくのか、わかりにくいが、博士は次のように説明する。

「音楽が現生人類にどのような優位性をもたらしたかは、まだよくわかっていませんが、複雑で象徴的な表現をし、大きな社会的ネットワークを持つ人々に、それはふさわしいものだと思えます。おそらく音楽は人々をひとつにまとめる役目を果たしたのでしょう。ネアンデルタール人のやり方では、この新たなライバルたちの生活様式、技術、文化、そして社会的ネットワークに到底かなわなかったのでしょう。(中略)人の数が増えて、資源が少なくなったとき、現生人類はネアンデルタール人より迅速に、新しい技術や解決法を見つけることができました」



 一見実生活の役には立たないと思える芸術の探究が、人と人を結びつけて協力のネットワークを生み、同時に脳の進化も促し、めぐりめぐって「生き残る力」としての役割を果たしていった、というのだ。

 もっとも、ネアンデルタール人研究の第一人者であるクライブ・フィンレイソン博士の近著『そして最後にヒトが残った――ネアンデルタール人と私たちの50万年史』(白揚社)によれば、現生人類が生き残ったのは幸運による面も大きかったという。つまり、地球規模の危機に際して、たまたま生き残りやすい地域に暮らしていたから生き残れたのだ、と……。

 ただし、フィンレイソン博士も、現生人類が先史時代から高度な芸術創造を行っていたこと、高い文化的・技術的業績を成し遂げて生き残ってきたことは認めている。とくに、3万年~2万2000年前にユーラシア大陸に栄えた「グラヴェット文化」の時代に、「芸術の大きな高まりが訪れた」という。

 洞窟壁画はグラヴェット文化期に完成の域に達したし、粘土を高温の窯で焼いた「ポータブル・アート」さえ作られていた。「彼らは、極東ロシアの最初の焼き物師より1万5000年も早く、中東の陶器職人より2万年も前に、陶芸に必要な火の扱い方を身につけていた」のだ。

 グラヴェット文化人たちは、暮らしていた温暖な土地が気候変動で凍てついたツンドラ・ステップに変わっても、知恵と技術でその変化に適応していった。
 その高度な適応力と、彼らが行っていた高度な芸術創造の間には、やはり一定の関係があったのではないか。
 
 文化の追究は、目先の実用性には結びつかなくとも、目に見えない形で人類の「生き残る力」を高める。
 21世紀の我々にも、グラヴェット文化期の人類が遭遇したような未曾有の危機が、いつ訪れるかもしれない。「文化を大切にする国」こそが、その大変化に適応する知恵を発揮し、生き残っていけるのだと思う。

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『ストーリー311』


ストーリー311 (ワイドKC キス)ストーリー311 (ワイドKC キス)
(2013/03/11)
ひうら さとる、上田 倫子 他

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 『ストーリー311――漫画で描き残す東日本大震災』(講談社ワイドKCキス)を読んだ。

 東日本大震災を描いたマンガが、この3年間でたくさん出ている。仕事でそのうちのいくつかを読んでいて、これもその一つ。
 講談社のウェブコミック「デジキス」(『Kiss』のウェブ版)で連載されたものの単行本化。東村アキコ、末次由紀、おかざき真里、新條まゆなど、第一線の人気マンガ家たち11人が参加している。印税・著作権料は、全額被災地復興のために寄付されるという。

 各マンガ家が東北被災三県に取材に赴き、被災者の体験をマンガ化している。

 貴重な試みではあるし、マンガ家たちが取材を編集者やライターまかせにせず、自ら行っている誠実さも好ましい。
 しかし、一人あたり8ページという制約のせいもあって、どの作品も総じて印象が薄い。文章で書かれた被災体験記を、絵に置き換えただけという感じ。マンガという表現形式の強みが活かされていないと思う。

 唯一心に残ったのは、樋口橘(ひぐち・たちばな)が寄せた作品で、6歳の女の子に父親が津波による母親の死を告げる場面。父は「どう言葉を選べば一番優しく伝えることができるだろうか」と思案したすえ、こんなふうに言うのだ。

「キラキラしたママを見つけたよ。羽があって天にのぼっていくママを見つけたんだ」



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「デマの回復不可能性」について


オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
(2008/10/03)
鈴木 光太郎

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※以下の文章は「WEB第三文明」に書き下ろしたものです。許諾を得て転載しています。


「デマの回復不可能性」について――情報の「質」を見極めるリテラシー

メディアが広めたウソが「事実化」してしまう

 読者諸氏は、以下の話をおそらくどこかで耳にしたことがあるだろう。

“1956年のアメリカの映画館で、広告業者がある実験を試みた。上映するフィルムの中に、3000分の1秒というごく短い間だけ、「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」と書かれた画面を5分おきに挿入したのだ。
 人間の視覚では3000分の1秒の映像は知覚できないため、観客はその画面を意識しない。しかし、このメッセージは無意識層に働きかけた。6週間にわたってつづけられた実験の結果、その映画館の売店でのポップコーンの売上は57・5%、コカ・コーラの売上は18・1%、それまでよりも上がったのだ”



 ――サブリミナル(閾下刺激)効果について論じるときに、よく言及されるエピソードである。
 だが、じつはこれは、ジェイムズ・ヴィカリーという広告業者がでっち上げた話だった。ヴィカリーは、サブリミナル広告用の装置で一儲けしようとしたのである。

 もっともらしい数字が並べられているが、じつはこの有名な実験には、元になった論文も報告も存在しない。学会で発表されておらず、そもそも実験そのものが行われていなかった。ヴィカリーが雑誌や新聞で語ったウソが広まっただけだったのだ。

 以上の話を、私は鈴木光太郎(心理学者・新潟大学教授)の著書『オオカミ少女はいなかった――心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)で知った。

 鈴木は同書の第2章「まぼろしのサブリミナル」で、この実験がでっち上げであることをくわしく論証している。それによれば、そもそも1950年代の映像技術では、3000分の1秒だけ別の映像を映し出すこと自体、不可能であったという。
 だが、一人の広告屋がでっち上げた実験が、半世紀以上経った現在でさえ、多くの人に事実として受け止められている。
 この例が示すように、マスメディアが一度大々的に報じたことは、たとえデマであっても“一人歩き”をし、いつしか「事実として定着してしまう」のである。

 そのような事例は、1999年に米国で起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」をめぐっても起きていた。
 コロンバイン高校に通っていた2人の男子生徒が、生徒12名と教師1名を射殺して自殺したこの衝撃的な事件は、いまなお記憶に新しい。

 当初、この事件をめぐっては多くの憶測報道が氾濫した。たとえば、事件が起きた4月20日がたまたまアドルフ・ヒトラーの誕生日であることから、「犯人の少年2人はナチズムに影響されていた」と憶測するようなたぐいである。
 そうした憶測の一つに、「犯人の少年はマリリン・マンソンのファンで、マンソンの歌に影響されて事件を起こした」というものがあった。

 自ら「アンチクライスト(反キリスト)・スーパースター」を名乗り、性と暴力を歌う過激なロックで知られるマリリン・マンソンは、以前からキリスト教保守派に忌み嫌われていた。そこに起きたこの事件が格好の引き金となり、マンソンに対する過剰なバッシングが行われた。
 この事件を扱ったマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』にも、そのバッシングの一端が描かれている。

 のちに、犯人2人はマンソンのファンではなかったこと、したがってマンソンの歌に影響されて事件を起こしたわけではないことが判明したが、ほとんど報道されなかった。そのため、10年以上が経ったいまでも、「犯人はマリリン・マンソンの影響で乱射事件を起こした」と信じている人が多いのだ。
 
情報の「量」で、デマが真実を圧倒してしまう

 情報の力は「質×量」で決まる。質の高い情報であっても流通量で負けてしまえば、質の低い情報のほうが定着してしまうのだ。
 デマと真実を比べれば、真実のほうが「質が高い」に決まっている。それでも、デマが圧倒的物量で流通すれば、多くの人はデマのほうを信じてしまうのである。

 さきに挙げた2つの例でも、デマがマスメディアを通じて大量に流通したのに比べ、「デマだった」とする訂正報道は微量でしかなかった。

 それは、一つにはメディア側が誤報を認めたがらないためであろう。
 日本でのメディアをめぐる名誉毀損訴訟もしかり。デマ報道をされた側がメディアを訴え、勝訴しても、謝罪・訂正記事は誌面の片隅に小さく載るだけだ。それまでに、デマ記事のタイトルは、新聞広告や車内吊り広告などを通じて日本中に広まってしまっている。ここにも、デマと真実の悲しいほどの物量差がある。

 そのような構図があるから、「デマは一度広まってしまうと回復不可能」なのである。あたかも、海に入れた毒水が回収不可能であるように……。

 マスメディアによるデマが完璧に回復された事例は、管見の範囲では一つしかない。それは、松本サリン事件の被害者でありながら、当初「犯人視報道」の餌食となった河野義行さんの例である。

 河野さんの場合、のちにオウム真理教が真犯人であることが判明し、しかもその真実のほうが圧倒的物量で報道されたため、氏が犯人であるというデマは完全に打ち消された。きわめて特殊な事例であり、それほど大量に真実が流通しないかぎり、一度広まったデマは打ち消せないということでもある。悲しいかな、情報量の差によって、デマが真実を圧倒してしまうのだ。

 そして、デマが物量で真実を駆逐してしまう傾向は、インターネット時代になってからいっそう顕著になっている。編集者や校正者などのチェックによって正確性がまがりなりにも担保されている既存メディアと比べ、個々人が自由に情報発信できるネットは、デマ情報の含有率が高いからである。

 いみじくも、ネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」の開設者・ひろゆき(西村博之)は、かつて「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(ネット掲示板を使いこなすのは)難しい」と発言した。

 ネット上には週刊誌・タブロイド紙以上に大量のデマが流通し、その伝播速度も速い。そして、一度ネット上に散乱したデマ情報をすべて削除することは、事実上不可能である。「デマの回復不可能性」は、ネット時代の本格的到来によっていっそう深刻な問題になったのだ。

 では、どうすればよいのか?

 「デマのない世界」は、残念ながら絵空事でしかない。我々一人ひとりが、「大量に流通している情報が真実とはかぎらない」と肝に銘じ、情報の「質」を見極めるリテラシーを高めていくしかないだろう。
 その積み重ねこそが、迂遠のように見えても、デマを駆逐する唯一の方途だ。賢き民衆のクチコミだけが、悪しきマスコミを打ち破るのである。

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萩尾信也『三陸物語』


三陸物語三陸物語
(2011/09/29)
萩尾 信也

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 昨日は、妻の手術の付き添いで病院へ――。

 年明けに妻が腹痛を訴え、病院に行って検査を受けたところ即日入院となり、昨日の手術となった。詳細は控えるが、我が家にとってはなんとも波乱の幕開けである。
 それで、この一週間バタバタとして、心理的にも仕事がほとんど手につかず、あちこちで停滞が起きている。

 手術も成功して少し落ち着いたので、今日からまた平常営業である。……と、関係各所への業務連絡も兼ねて、ここに記しておく。


 手術が終わるのを待つ間、待合室で萩尾信也著『三陸物語――被災地で生きる人びとの物語』(毎日新聞社/1575円)を読了。

 これは、目利きとして一目置く年長の編集者から、「東日本大震災の関連書ではいちばんよかった」とオススメされた本。

 釜石で少年期を過ごした『毎日新聞』のベテラン記者が、震災直後から現地に身を置いて書いた被災地ルポである。昨年度の「日本記者クラブ賞」も受賞し、続編も刊行されている。

 「うまい文章だとは思うが、ときどき表現が古臭いなあ」というのが第一印象。いかにも「昔の新聞記者文体」というか。
 たとえば、こんな表現。

 元早稲田大学ラグビー部員で市会議員で消防団員、疲れ知らずのタフガイは生きていた。



 いまどき「疲れ知らずのタフガイ」って……。
 あるいは、こんな表現。

 廃墟と化した故郷を前にして滅入る気持ちを奮い立たせるように、たき火を囲んで酌み交わし、共にくゆらす紫煙があってこそ、開いてくれる胸襟もあった。



 これも古めかしい美文調で、いまとなってはクサい。

 ……と、ケチをつけてしまったが、読んでいるうちに内容の迫力に引き込まれ、文体の古臭さは気にならなくなった。

 一章ごとに、一人の人、一つの家族に的を絞った構成。
 著者が釜石育ちであるだけに、取材相手の方言の活かし方が素晴らしい。次のような言葉は、標準語に直してしまったら思いの半分も伝わらないだろう。

「何で津波なんかで死んだんだべ。寒かったべな、苦しかったべな、何を思ったんだべかって。答え出ないのわかってるんですっけ。でも悔しぐて、寂しぐて」



 取材相手の心に分け入り、秘めた思いをすくい取る手際が鮮やかだ。そして、ちりばめられた生と死のドラマが胸を打つ。
 たとえば、こんな一節。

 津波で流れる家の二階で手を振る人の姿が脳裏にこびりついたおじいさんもいた。「あれは、助けてという意味なのか。お別れのさよならなのか」と自問していた。津波から逃げようとした中年の女性は、年老いた男女に「助けて」としがみつかれた。濁流が間近に迫る。「私、ふりほどいて走ったんです。後ろを見たら、二人はもういなかった。手の感触が腕に残っています」。



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神島裕子『マーサ・ヌスバウム』


マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)
(2013/09/09)
神島 裕子

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 神島裕子著『マーサ・ヌスバウム――人間性涵養の哲学』(中公選書/2415円)読了。書評用読書。

 マーサ・ヌスバウムは、日本ではまだ知名度が低いものの、世界的にはジョン・ロールズやマイケル・サンデルと並ぶ評価を受けている重要な哲学者だ。
 その仕事は古典学・哲学・法哲学・倫理学・フェミニズムと多岐にわたり、現代アメリカを代表する良心的知識人の1人と目されている。

 本書は、ヌスバウムの思想と人物像を概説したもの。
 2000年代後半以降、ヌスバウムの主著が相次いで邦訳され、日本でも少しずつ共鳴の輪が広がるなか、時宜にかなった刊行といえる。
 ヌスバウム自身を“主人公”にしたこのような本は、世界初だという。

 別途書評を書くのでここではくわしく紹介できないが、過不足ない上出来の概説書だと思った。
  
 生い立ちからの歩みをたどったバイオグラフィー、本人へのインタビューなど、多角的な内容。
 ヌスバウムの広範な仕事を3つの軸――新アリストテレス主義、政治的リベラリズム、コスモポリタニズム――に沿って腑分けし、それぞれの特質を浮き彫りにする手際も鮮やかだ。

 本書は題材からして、筆の赴くままに書いたらすごく難解になってしまうたぐいの本だろう。
 しかし、著者は一般書であることを十分に意識し、わかりやすい内容にする工夫を幾重にも凝らしている。その点に好感を覚えた。

 たとえば、ヌスバウムが現在教鞭をとるシカゴ大学について、「映画『恋人たちの予感』でサリーとハリーが卒業した大学である」と紹介するなど、よく知られた映画の喩えが随所に用いられる。
 また、「現代リベラリズムの潮流」「現代フェミニズムの潮流」などの項目をもうけ、ヌスバウムの思想を理解するための基本事項を初歩の初歩から解説している。こういう配慮は初学者にはありがたい。

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2013年に読んだ本BEST10


国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源
(2013/06/21)
ダロン アセモグル、ジェイムズ A ロビンソン 他

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 元日なので、昨年読んだ本のベストテンでも。

 「昨年刊行された本に限り、マンガは除く」という縛りをかけて選びました。順不同です。しかし、ジャンルも何も見事にバラバラですなあ(各タイトルをクリックするとレビューに飛びます)。

ロイ・バウマイスター、ジョン・ティアニー『WILLPOWER 意志力の科学』

白井聡『永続敗戦論』

町山智浩『トラウマ恋愛映画入門』

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』

松岡幹夫『超訳 日蓮のことば』

アリス・ロバーツ『人類20万年 遙かなる旅路』

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』

梯久美子『声を届ける――10人の表現者』

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』

船橋洋一『カウントダウン・メルトダウン』

次点:アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー『レジリエンス 復活力』

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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