原田ひ香『人生オークション』


人生オークション人生オークション
(2011/10/21)
原田 ひ香

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 原田ひ香著『人生オークション』(講談社/1470円)読了。

 この人の小説を読むのはこれが初めて。2007年にすばる文学賞を得てデビューした人だそうだ。
 表題作「人生オークション」と「あめよび」という2つの中編を収めている。『群像』に掲載されたものだが、よくも悪くも『小説すばる』的な作風と感じた。サクサク読める軽いタッチで、文章も映像的なのだ。

 脚本の世界でも活躍している人だそうで、読むと「さもありなん」と思う。とくに表題作がそうだが、少し手直しするだけでドラマや映画のシナリオになりそうな小説なのでる。

 女性が書く恋愛小説や青春小説のステレオタイプから遠く離れている点に好感を抱いた。
 たとえば表題作は、不倫のもつれから傷害罪で逮捕された困った叔母さんと、就職浪人中の姪っ子の物語。主人公は若い姪っ子だからある種の「青春小説」なわけだが、いまどきの青春小説にありがちな設定や展開を注意深く避けている印象なのだ。

 ストーリーの軸になるのは、事件のせいで一人暮らしを始めた叔母が狭いアパートに持ち込んだ膨大な品々(ブランド品など)を、ヤフオクで売りさばいていくプロセス(ゆえに「人生オークション」)。この設定が意表をついていてよい。
 そして、オークションで品物を売っていくプロセスが、そのまま叔母と姪の“生き直し”につながっていくあたりの展開もうまい。

 併録作「あめよび」は、眼鏡店勤務のヒロインと、フリーターをしながらラジオの「ハガキ職人」を極めることに生き甲斐を見出す男のラブストーリー。この設定自体がやはり意表をついているし、展開にも並々ならぬ独創性がある。

 こうした独自路線をもっと追求して、オンリーワンの女流作家になったらよいと思う。ありがちな恋愛小説・青春小説を書く作家ばかりが増えても仕方ないわけだし……。

 かなり気に入った。この人のほかの作品も読んでみることにする。

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沢木耕太郎『ポーカー・フェース』


ポーカー・フェースポーカー・フェース
(2011/10)
沢木 耕太郎

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 沢木耕太郎著『ポーカー・フェース』(新潮社/1680円)読了。

 過去の『バーボン・ストリート』『チェーン・スモーキング』と同系列のエッセイ集。1冊で13~15編程度(本書は13編)の長めのエッセイのみで編まれている点、エッセイなのに短編小説のような味わいを残す点などが共通しているのだ。

 沢木クラスになればエッセイの依頼など引きも切らないだろうし、それらをどんどん受けて無節操に書籍化していけば、もっとたくさんエッセイ集を出せるはず。だが、沢木はそうしない。ノンフィクション同様、エッセイ集においても寡作であり、一冊一冊ていねいに本を作っているのだ。

 だからこそ、彼のエッセイ集は総じて質が高い。『バーボン・ストリート』『チェーン・スモーキング』と本書は、3冊ともエッセイのお手本のようだ。

 一編のエッセイの中で、話があちこちに飛ぶ。それらの話は一見脈絡がないように見えて、じつは相互に関連しており、最後にはちゃんとオチがつく。気の向くままに書き散らしているように見えて、じつは緻密に計算されて作られているのだ。
 しかし、読み手にはその計算を意識させず、さらりと読めるように書かれている。読者が身構えずに読めて、しかも読み終えたあとには強い印象を残すのだ。

 相変わらず濃い目の「自分語り」が時折鼻につくものの、やはり大した芸だと思う。

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茨木のり子『詩のこころを読む』


詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)
(1979/10/22)
茨木 のり子

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 一昨日は、神奈川で美容師さんの取材。
 なかなかイケメンの美容師さん(独身)で、「彼に会いたくて通う女性客も多いのだろうなあ」などと思いつつ話を聞く。

 行き帰りの電車で、茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書/819円)を読了。

 先日読んだ鈴木敏夫さん(スタジオジブリ)の著書の中で紹介されていたもの。
 鈴木さんが宮崎駿・高畑勲コンビと知り合って間もないころ、2人の教養に追いついて対等に会話できるようになりたい一心から、彼らの愛読書を片っ端から濫読したという。そのうちの一冊がこれで、高畑勲が愛する本の一つだとか。
 1979年刊で、私が買ったものは2010年の第70刷。ロングセラーなのである。

 詩人茨木のり子が、若い読者(岩波ジュニア新書の主要読者層である10代後半)に向けて自分の愛する詩の数々を紹介し、そのどこが素晴らしいのかを綴っていく本。詩の味わい方入門であり、名詩ガイドでもあるのだが、教科書的な無味乾燥や「上から目線」とは無縁である。文章も平明。
 セレクトされている詩の大半は戦後日本の詩であり、若者にとってもとくに身構えずに読めるものばかりだろう。

 あたりまえだが、著者による地の文自体が詩的香気に満ちたものなので、上質の詩集を読むように味わうことができる。

 私が傍線を引いた一節を挙げる。

 詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手にソツなく作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無惨な屍をさらすのは、感情の耕しかたが足らず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。



 汚いものでも十分詩になり、詩語という特別のものは何もなく、ふだんの言葉が昇格するだけで、詩の美しさは結局それを書いた人間が上等かどうかが、極秘の鍵を握っているらしい……そんなこともいろいろ教えられます。(濱口國雄の詩「便所掃除」に触れて)



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木村俊介『物語論』


物語論 (講談社現代新書)物語論 (講談社現代新書)
(2011/11/18)
木村 俊介

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 昨日、一昨日と大震災関連取材で福島へ――。
 3・11以来、福島に行くのは4度目。今回は3組の被災者の方々にお話をうかがい、合間に飯舘村などを見て回る。「ホットスポット」として知られる飯舘は、しんと静まりかえった無人の村となっていた。

 行き帰りの新幹線で、木村俊介著『物語論』(講談社現代新書/861円)を読了。
 タイトルだけ見ると文芸評論のようだが、そうではなく、ジャンルを超えた広義のアーティスト17人へのインタビュー集である。

 著者は1977年生まれの(私から見ると)若いライター。ただし、プロフィール欄の肩書きはライターではなく「インタビュアー」となっている。「プロ・インタビュアー」を名乗っているのは吉田豪だが、この著者もインタビュー仕事にアイデンティティーを見出しているらしい。池谷裕二・糸井重里の『海馬』や、『ピーコ伝』などを構成した人なのだな。

 インタビューイとして登場するのは、村上春樹、島田雅彦、伊坂幸太郎、重松清、弘兼憲史、橋本治、かわぐちかいじ、荒木飛呂彦、桜庭一樹、是枝裕和、諏訪内晶子、根岸孝旨、渋谷陽一などなど……。

 小説家・マンガ家・映画監督あたりまではまあいいとしても、演奏家や音楽プロデューサー、現代美術家、編集者、ウェブ・デザイナーまでを「物語論」という枠組みでくくるのは無理やりすぎ。どうせなら、小説家へのインタビューだけ集めて1冊にすればよかったのに。

 インタビューは玉石混淆。というか、私自身が興味がない人へのインタビューは、当然ながら総じて面白く感じられない。伊坂幸太郎へのインタビューが突出して長いのだが、私がこの人に興味ない(作品を読んだことがない)せいか、ひたすら冗長に思えた。
 逆に、根岸孝旨へのインタビューは、Coccoとの共同作業について語ったくだりが個人的にたいへん興味深かった。

 意外にも、いちばん面白く読めたのはかわぐちかいじへのインタビュー。かわぐち個人の方法論を語ったものであると同時に、マンガという表現の特質を鮮やかに抽出した秀逸なマンガ論にもなっている。

 その他、印象に残った言葉を3つほどピックアップ。

 そもそも小説を書くということは、過去を参照して独自の現状分析を加味しながら、五年後や十年後の世界を提示することに近いんですよ(島田雅彦)



 僕は「持って行き場のない思いの、その持って行き場のなさ」を書きたいのかもしれません。持って行き場を置いてしまうと、それこそ解決させるための、許してもらう一瞬のための物語になってしまう(重松清)



 批評を正当な理解だなんて思ってしまったら芸術は終わりなんじゃないのかな。ですから私は、理解されかけたと思ったら、もっと煙に巻く構造を持った作品を手がけています。「理解される」とは「底が見える」でもありますので。
 芸術は「ここには何かがありそう」というその何かをできるだけ遠くまでつなげて味わうもので、完全に説明できてはミもフタもないでしょう?(杉本博司)



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野村路子『子どもたちのアウシュヴィッツ』


子どもたちのアウシュヴィッツ子どもたちのアウシュヴィッツ
(1998/08)
野村 路子

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 野村路子著『子どもたちのアウシュヴィッツ』(第三文明社/1575円)読了。

 タイトルの「アウシュヴィッツ」はユダヤ人大量虐殺とたくさんあった強制収容所の代名詞として用いられており、アウシュヴィッツ収容所の話ばかりが出てくるわけではない。

 この前読んだ『フリードル先生とテレジンの子どもたち』は、本書の「続編」にあたる。あわせて読んだ『15000人のアンネ・フランク』も含め、著者が深くかかわってきたテレジン収容所の子どもたちの話を中心にしたものである。
 同じ著者が同じテーマで書いているのだから当然だが、3冊の本には多少エピソードの重複もある。それでも、文章の使い回しなどの手抜きは一切なく、それぞれの本に「角度」もつけてあるので、別個の本として読むことができる。

 というより、重複しているエピソードは、著者が何度でもくり返し書き、1人でも多くの人に伝えるべきだと決意しているものなのだと思う。

 たとえば、こんなエピソード――。
 アウシュヴィッツで、毎日山のように生まれる死体の口をこじあけ、金歯を抜き取る係を命じられた15歳の少年がいた。少年はある日、死体の山の中に父を見つけてしまう。それでも、すでに感情が死に絶えたようになっていた彼は、涙すら流さずに父の死体から金歯を抜き取る。

 少年はアウシュヴィッツから生還するが、心は凍てつき、何があっても泣けない人間になっていた。
 そんな日々のなか、彼は1人の素晴らしい教師に出会う。教師は彼の画才を見抜き、美術学校への進学を勧める。その教師とのふれあいの中で、彼は少しずつ人間らしさを取り戻し、画家になるという夢を抱く。
 だが、その矢先、恩師は突然この世を去ってしまう。

「先生が死んだ、自分に生きる力を与えてくれた先生が、死んでしまった……。そのとき、思いがけず涙が出たのですよ。私は泣きましたよ……。おいおい声をあげて泣きました。最初の涙は、先生の死が悲しかったからです。でも、そのあとの涙は、私も泣けるとわかっての嬉し涙でした。私も泣ける! 〈普通の〉人間と同じように泣けるのですって、先生に語りかけながら、いつまでも泣きつづけましたよ」



 そして、その少年――イェフダ・バコンはのちに高名な画家になった。
 このような、強烈な印象を残すエピソードがちりばめられた本である。

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溝口敦『暴力団』


暴力団 (新潮新書)暴力団 (新潮新書)
(2011/09/16)
溝口敦

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 溝口敦著『暴力団』(新潮新書/735円)読了。

 この著者、私は嫌いなのだが(理由は、ここでは措く)、本書は暴力団の現状を大づかみに理解するには有益な本だった。

 暴力団が社会的に追いつめられ、上層部はともかく中堅~下っ端層はかなり窮乏している様子が紹介されている。
 かつては暴走族を卒業して暴力団に入るケースがかなり多かったが、現在はごく少なくなっているという。下っ端ヤクザは総じて金回りが悪くなり、暴走族から見て少しも魅力的に見えないのが要因だとか。

 代わって台頭してきているのが、暴力団に入らず徒党を組んで犯罪に手を染める「半グレ集団」なのだという。
 暴力団に入れば上納金を納めねばならず、金のかかる義理ごとも多い。しかも、最近では暴力団だというだけで不動産契約からも閉め出され、銀行の口座開設もままならない。公共工事や民間工事の下請け、孫請けにも入れない。暴力団は割に合わず、締め付けばかり多い不自由な立場になっているのだ。
 だから、暴力団に入らず、半グレ集団のまま振り込め詐欺などの犯罪に手を染める者が増えている。

 半グレでいつづけるかぎり、法令の扱いは一般人、堅気ですから、それなりに人権を擁護されます。同じ罪名の判決でも暴力団と半グレの間には量刑にかなりの差があります。
 つまり暴力団は割に合わない稼業になりつつあり、半グレが割に合う時代に入ってしまったのです。



 暴力団排除条例によって暴力団系の建設会社が公共工事などから閉め出されるなか、解体業と産廃処理だけはいまだに暴力団の「シノギ」になっている面がある、という話も興味深かった。

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野村路子『フリードル先生とテレジンの子どもたち』ほか


フリードル先生とテレジンの子どもたち―ナチスの収容所にのこされた4000枚の絵 (21C文庫)フリードル先生とテレジンの子どもたち―ナチスの収容所にのこされた4000枚の絵 (21C文庫)
(2011/11)
野村 路子

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 昨日は、都内某所で企業取材。

 行き帰りの電車で、野村路子著『フリードル先生とテレジンの子どもたち――ナチスの収容所にのこされた4000枚の絵』(第三文明社/945円)読了。書評用読書である。

 チェコ北部にある人口3000人ほどの小さな街・テレジンは、第2次大戦中、街全体がナチス・ドイツの強制収容所と化した。
 アウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」(=集団殺戮自体を目的とした収容所)への「中継地点」として、すなわち“処刑までユダヤ人らを生かしておくための場所”として用意されたテレジンの収容所には、1万5000人の子どもたちもいた。そのうち、解放の日まで命を永らえた子どもは、わずか100人ほどにすぎなかった。

 書名にいう「フリードル先生」とは、テレジン収容所に送られ、のちにアウシュヴィッツで殺された画家フリードル・ディッカーのこと。
 彼女は、収容所の中で子どもたちに絵を教えた。地獄のような強制収容所での生活の中で、週に1、2回、強制労働のあとのわずかな時間に絵を描くことだけが、子どもたちに人間らしい希望と楽しさを与えた。
 収容所の子どもたちが描き残した約4000枚の絵は、彼らがこの世に残した生の証であり、観る者に『アンネの日記』と同質の重い感動を与える。

 著者は、1989年にテレジンの子どもたちの絵と運命的な出合いを果たし、以来、テレジンの子どもたちのことを日本に伝える「語り部」となった人。テレジン収容所から生還した人々にインタビューを重ね、関連著作を数多くものしている。また、テレジンの子どもたちの絵を集めた展覧会も数多く開いてきた。

 本書は、テレジンについての著作の最新作。数少ない生存者の一人ディタ・クラウスを主人公に据え、彼女へのインタビューを中心にテレジンの子どもたちの物語を紡いでいる。小学校高学年から読めるような平明な構成である。

 書評を書くための準備として、著者が同テーマを大人向けに書いた旧著『15000人のアンネ・フランク――テレジン収容所に残された4000枚の絵』(径書房)も読んだ。このあと、同じ著者の『子どもたちのアウシュヴィッツ』も読む予定。

■参考→ 著者が代表を務める「テレジンを語りつぐ会」のサイト

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マーク・カウフマン『地球外生命を求めて』


地球外生命を求めて地球外生命を求めて
(2011/09/16)
マーク・カウフマン

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 昨日、一昨日と、大震災関連取材で福島へ。
 2日間かけて、4組の被災者の方にじっくりとお話をうかがう。生と死ぎりぎりのすさまじいドラマに言葉を失った。

 行き帰りの特急で、マーク・カウフマン著、奥田祐士訳『地球外生命を求めて――宇宙は生命にあふれているのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン/1155円)を読了。

 地球外生命を探し求める「宇宙生物学」の最前線を、米国のジャーナリスト(『ワシントンポスト』の記者)が綿密な取材のもとに活写したサイエンス・ノンフィクション。
 世界を駆けめぐって宇宙生物学のメインプレイヤー(=第一線の研究者)たちを取材した、非常に手間暇のかかった一冊。文章も洗練されていてカッコイイ。

 別途書評を書くのでここではくわしく紹介できないが、傍線を引いた箇所を一つ引用。

 もしこの宇宙にぼくらしかいないとすれば、いったいなんというスペースの無駄だろう。
 でもそうじゃない。今世紀が終わる前、いや、たぶんそれよりずっと早く、科学者たちは生命が宇宙の他の場所にも存在すると断言するだろう。



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『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』


パオロ・マッツァリーノの日本史漫談パオロ・マッツァリーノの日本史漫談
(2011/09/26)
パオロ・マッツァリーノ

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 パオロ・マッツァリーノ著『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』(二見書房/1500円)読了。

 ベストセラー『反社会学講座』で知られる、インチキ・イタリア人「戯作者」の新著。
 『反社会学講座』が現代日本社会を批評対象にしていたのに対し、本書はタイトルどおり、日本の歴史に目を向けている。といっても、明治~昭和あたりまでのウエートが高く、近世以前の話はあまり出てこない(著者が調査・分析の主なソースとしているのが新聞データベースであるためだろう)のだが……。

 この著者のことだから、普通の歴史エッセイであるはずもない。
 帯の惹句には、次のような一節がある。

 ググってもわからない日本の歴史! 「大きな歴史」だけが歴史じゃない。埋もれている「小さな歴史」を平成の戯作者が照らし出す!



 読んでいて思い出したのは、テレビの『トリビアの泉』。どうでもいいことを手間暇かけてじっくり調べるという、「真面目に遊ぶ」姿勢が共通なのだ。

 たとえば、本書の第五章「先生と呼ばないで」は、「先生」という敬称の使われ方の変遷を、江戸時代まで遡って調べている。
 マンガ誌の欄外などに記される「○○先生にはげましのおたよりを出そう!」というフレーズがいつから登場したのかとか、「先生といわれるほどの馬鹿でなし」という有名な川柳がいつ生まれたのか、などというどうでもいい謎が真剣に追究されていく。

 ほかにも、日本人はいつから謝罪のための土下座を始めたのかを調べたり(この章は『どげせん』ファン必読)、子どもの名前の流行の変遷を明治時代まで遡って調べたり……。

 それだけで終われば、『トリビアの泉』と同レベルのつかの間の娯楽でしかない。しかし、本書は一見どうでもいいことばかり追究しているように見えて、笑いの底に真剣な日本文化論が秘められている。あなどれぬ深みをもった一書である。
 この人の本はわりと出来不出来の振幅が激しいのだが、本書は上出来。正・続『反社会学講座』に次ぐ面白さだった。

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パオロ・マッツァリーノ『続・反社会学講座』レビュー
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コシノジュンコ『人生、これからや!』ほか


人生、これからや!人生、これからや!
(2011/06/15)
コシノ ジュンコ

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 一昨日と昨日は、都内、千葉、埼玉で、東日本大震災で福島から首都圏に避難されている方々を取材。来週、再来週は福島にも(昨年につづき)震災関連取材に赴く予定。

 今日は、ファッション・デザイナーのコシノジュンコさんを取材。南青山のご自宅(夢のような空間であった)にて。
 連続テレビ小説『カーネーション』で話題のお母様の思い出や、デザイナーとしての歩みをうかがう。コシノさんがお母様のことを綴ったエッセイ『人生、これからや!――うちのお母ちゃん、小篠綾子のだんじり魂』(PHP研究所/1260円)と、自伝エッセイ『失敗はチャンスだ!――コシノジュンコ的生き方』(ポプラ社)を読んで臨む。

 コシノさんは気さくで楽しく、我々取材陣にも細やかな気配りをされる方だった。
 私の25年の取材経験から思うことだが、世界を舞台に活躍される一流の方というのは、どの分野でも謙虚で気さくで気配り豊かな方が多い。そういう方だからこそ一流になれるのだろうし、一流の人物は自分に自信があるから、威張ることによって自分の「力」を確認する必要などないのだろう。

 『人生、これからや!』は、ドラマ『カーネーション』のファンなら必読の一冊。
 小篠綾子さんの、メモしておきたくなるような素敵な名言がちりばめられている。

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イエス『フライ・フロム・ヒア』


フライ・フロム・ヒアフライ・フロム・ヒア
(2011/06/22)
イエス

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 イエスの『フライ・フロム・ヒア』(マーキー・インコーポレイティド/2800円)を聴いた。

 昨年、前作からじつに10年ぶりに発表されたイエス名義の新作である。
 ただし、イエスの表看板ともいうべきジョン・アンダーソンは不参加。ヴォーカルはペノワ・デヴィッドという無名の新人が担当している。アンダーソンの代わりを探していたクリス・スクワイアが、ユーチューブにアップされていたイエスのコピー・バンドの演奏を目にして抜擢した人だそうだ。このへんの経緯はいかにもいまどき。

 イエスは、過去にもアンダーソン抜きでアルバムを発表したことがある。そう、アンダーソンとリック・ウェイクマンが脱退した穴をバグルスの2人が埋めて作った『ドラマ』(1980)だ。
 『ドラマ』は、アンダーソン中心の真正イエス以上にイエスらしい壮大緻密なサウンドを展開した傑作で、私も大好きなアルバム。
 そして、今回の『フライ・フロム・ヒア』も『ドラマ』と同じく元バグルスの2人が参加――トレバー・ホーンがプロデュース、ジェフ・ダウンズがキーボードを担当――しているとあって、「すわ、21世紀の『ドラマ』誕生か?」と大いに期待を集めた。もちろん、私も期待した。その期待は半分かなえられ、半分は裏切られた。

 各曲の出来もアルバムとしての出来も、けっして悪くはない。が、それ以上の突出したサムシングがない。全体に音が甘ったるくて、「エイジア化したイエス」という印象。つまり、プログレというより「プログレ寄りの産業ロック」という感じなのだ。

 逆に言えば、エイジア風味の産業ロックとしてはたいへんよくできている。エイジアが好きな人ならこのアルバムも気に入ると思う。

 新ヴォーカリストのペノワ・デヴィッドも、きれいな声でそこそこ歌はうまいんだけど、ジョン・アンダーソンのような突出した個性はない。ハイトーンの部分だけアンダーソンに似ているが、全体としてはあまり似ていない。中・低音部はプログレというよりAOR的な声質。「毒にも薬にもならないAORでも歌っとけや」と言いたくなる。代役失格である。ジョン・アンダーソンは「ひとりウィーン少年合唱団」などと揶揄されたけれど、一声聴いただけで即座に彼とわかる強烈な個性は、やはり貴重なのである。
 そもそも、『ドラマ』でヴォーカルをとったトレバー・ホーンのほうがよっぽどアンダーソンの声に似ていた。なぜホーンにヴォーカルを担当させなかったのか、理解に苦しむ。

 このアルバムはポップで聴きやすいし、そこそこイエスっぽい音が集められてはいる。しかし、「危機」や「ラウンドアバウト」や「燃える朝焼け」などに匹敵する名曲は、正直言って一つもない。そのことを納得ずくで聴けば、イエスのファンなら楽しめるアルバムだとは思う。

■関連エントリ→ いまさらイエス

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藤澤清造『根津権現裏』


根津権現裏 (新潮文庫)根津権現裏 (新潮文庫)
(2011/06/26)
藤澤 清造

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 藤澤清造著『根津権現裏』(新潮文庫/540円)読了。

 著者は、貧苦と病苦の果てに芝公園で凍死体となって発見された、大正期の私小説作家。
 というより、“西村賢太が心酔して「没後弟子」を名乗り、作品の中でくり返し言及している作家”といったほうが通りがよいか。

 私もご多分に漏れず、西村作品でこの人を知った。「忘れられた作家」の代表作が突如復刊されたのも、西村が芥川賞を受賞して注目を浴びたからこそである。
 私も西村ファンだからこそ手を伸ばしてみたわけだが……うーん、これは正月に読むべき小説ではなかった(笑)。

 西村作品を愛読している者なら、類似点はそこかしこに見つかるだろう。
 「慊い(あきたりない)」「結句」「どうで」などという古めかしい言葉遣い(清造は生前から「文体が古臭い」と評されていたそうだ)とか、「自分で自分を蹴殺してしまいたいと思うほど」なんて表現とか……。

 だが、西村作品のような面白さを本作に求めると、思いっきり肩透かしを食う。
 西村の私小説はあれでけっこうサービス精神に富んでいて、エンタメ的側面もあるのだが、本作にはそれが皆無に等しい。「西村作品から笑いの要素を削ぎ落としたような小説」――そんな印象を受けた。

 文庫解説も当然西村が書いていて、彼はその中で、本作が「陰鬱なだけの小説」と評されてきたことに強く反発している。
 西村によれば、本作の人物配置や会話の間合いなどは「落語のスタイルを強く意図」したもので、台詞の言い回しや地の文にも「粋なギャグが盛り込まれている」という。つまり、隠し味となっている笑いの要素を見逃がし、「陰鬱なだけの作品」ととらえる読者は読みが浅い、と彼は言うのだ。

 清造に対する思い入れはないから私の読みも浅いのかもしれないが、西村が言うような笑いや「粋なギャグ」は、私には感じ取れなかった。わずかに、次のような主人公の台詞に、西村作品に通じる諧謔を感じた程度。

「おい、後生だから、泣くことだけは止してくれ。第一朝っぱらから、縁喜でもないじゃないか。それとも君は、泣かなきゃ飯がうまくないなら、何処か原っぱへでも行って泣くんだなあ。そうだ。太田ケ原へでも行って、蝉と一緒に泣きっこでもするんだなあ。」



 作品全体は、陰々滅々とした私小説でしかないと感じた。たとえば、次のような一節が全体のトーンを象徴している。

 私の過去二十四年間は、貧苦と病苦とに織りなされた上を、血と涙とで塗りかためられていた。だから私には、教育らしい教育も与えられていなかった。と云っても好かった。反対に私には貧しき者が当然負わなければならない、猜疑、嫉妬のみが、多分に加えられていた。恐らくは今後も、それがいやが上にも加えられて行くことだろう。



 没後弟子の西村にはみじめな自分を客観視してクールに笑い飛ばす視点があるが、本作にはそれが感じられなかった。

 主人公の親友が脳病院(精神病院)の便所で縊死を遂げる事件が物語の中心に据えられ、自殺に至る経緯の謎解きがなされていくのだが、ミステリのような意外性があるわけでもなく、展開も間延びしていて、なんともつまらない小説。
 西村賢太がこの作家に深く心酔している理由が、本作を読んでもさっぱりわからなかった。

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町山智浩『トラウマ映画館』


トラウマ映画館トラウマ映画館
(2011/03/25)
町山 智浩

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 町山智浩著『トラウマ映画館』(集英社/1260円)を、遅ればせながら読了。

 町山の『〈映画の見方〉がわかる本』は名著だと思う私だが、同系列(「温故知新系」というか)の著作である本書は、取り上げられた映画がマイナーすぎて観たことのないものがほとんどだったので、読むのをためらっていた。なにしろ、著者が少年時代にテレビなどで観てトラウマになった、ビデオ化もDVD化もされていない作品が大半なのだから……。

 だが、読んでみたら、知らない映画についての章もほとんどが面白く読めた。一つの回を読み終えるころには、その映画が元々自分のお気に入り作品であるような気さえしてくる。それほど巧みに、町山は当該映画の魅力を文章化しているのである。たいへんな芸(文章の芸)だと思う。

 くわえて、町山の幅広い教養にも唸らされる。映画のみならず、カルチャー/サブカルチャー全般や歴史についても恐るべき該博な知識をもっているのだ。
 だからこそ、1本の映画を語るとき、関連する文学・音楽・マンガなどが自在に引用され、話が広がっていく。そして、その映画の意義が映画史、カルチャー/サブカルチャー史の中に的確に位置づけられていくのである。 

 忘れられたマイナー映画の紹介書で、こんなに豊かな読後感が得られるとは思いもよらなかった。やはり、町山こそ当代最高の映画評論家だ。

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町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本』レビュー
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pupa『dreaming pupa』


dreaming pupadreaming pupa
(2010/07/28)
pupa

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 pupa(ピューパ)の『dreaming pupa』(EMIミュージック・ジャパン)を聴いた。
 高橋幸宏、原田知世、高野寛、高田漣、堀江博久、権藤知彦の6人からなるポップ・エレクトロニカ・バンドの、セカンド・アルバム。

 ファースト・アルバム『floating pupa』(→当ブログのレビュー)の延長線上にある、浮遊感あふれる上品なポップス。ただし、このセカンドのほうが生音の比率がぐっと高まり、よりバンドっぽい音になっている。ファーストが打ち込みと生音が8:2くらいの比率だったとしたら、今作は6:4くらいになっている感じ。

 多用されるホーン類が耳に心地よく、ギターやドラムスも70年代アメリカン・ロックぽくてよい。私はファーストよりこっちの音のほうが断然好みだな。

 それぞれが優れたソングライターである各メンバーが持ち寄る楽曲のクオリティーも、ファーストと甲乙つけがたい。
 とくに、高野寛が書いた「if」という曲は絶品。まさしく、「電気仕掛けのバート・バカラック」という趣だ。また、「Your Favorite Pain」なんて曲は、タイトルから何からユキヒロ色全開で素晴らしい。こういうキャッチーな曲を聴くと、pupaはもっと売れてしかるべきだと思う。


 
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関川夏央『「解説」する文学』


「解説」する文学「解説」する文学
(2011/11/03)
関川 夏央

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 関川夏央著『「解説」する文学』(岩波書店/2520円)読了。

 関川氏は当代きっての名文家の一人であり、私も若いころ、氏の著作をくり返し読み込んだ。初期のエッセイ集『水のように笑う』や『貧民夜想会』あたりの文章は、いま読み返してもカッコイイ。
 ただ、氏の著述活動が「明治もの」中心に変わってからは、「私とは無縁の世界に行ってしまった」という気がして、読まなくなった。氏の著作を読むのは久々である。

 本書は、これまで関川氏が書いた100を超える文庫解説の中から、24編を精選したもの。前半に「明治もの」と司馬遼太郎関連の解説が集められ、後半は現代作家中心の解説群となっている。

 さすがの名文揃い。そして、それぞれ一作についての解説であると同時に、的確な作家論にもなっている。
 たとえば、山田風太郎、宮部みゆき、藤沢周平、須賀敦子、山田太一らの作品に寄せた解説の、なんと見事なこと。それぞれ、短い紙数の中でその作家の「核」が鮮やかな一閃で切り取られているのだ。

 圧巻は、文庫版で全10巻に及ぶ『司馬遼太郎対話選集』の各巻解説として書かれた「司馬遼太郎と戦後知識人群像」。これだけで150ページに及ぶ長大な解説で、もう少しふくらませば優に一冊の本になり得る内容。

 国民作家・司馬遼太郎についての評論はすでに汗牛充棟の観があるが、ここで関川氏が行った試みは他に類を見ないものだ。司馬が行った対談の歴史から彼の作家像を浮き彫りにするという、かつてない角度からのアプローチなのである。
 対談相手の人間像や業績についても過不足ない解説・素描がなされ、司馬を取り囲んでいた「戦後知識人群像」が鮮やかに浮かび上がる。そして、彼らとかわした対談の言葉を光源に、関川氏は司馬遼太郎という作家の「核」に肉薄していく。
 文庫解説という、「ただのヨイショ」に陥りがちな特殊な舞台でも、その気になればこれほどの「作品」が作れるのだ。

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在日ファンク『ベスト・オブ在日ファンク』


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在日ファンク

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 このところのヘビー・ローテーションは、在日ファンクの『ベスト・オブ在日ファンク』。TSUTAYAで借りてきたものである。これはTSUTAYAにしか置いていないレンタル・オンリーのベスト盤のようで、市販はされていないとのこと(次に新作が出たときはちゃんと買います)。

 いやー、サイコーですね、在日ファンク。
 ジェームス・ブラウン直系のゴリゴリのファンクで、演奏もヴォーカルも抜群にうまいのに、いちいち笑える独創的な歌詞。ユーチューブで「爆弾こわい」や「きず」、「環八ファンク」のPVを観てみれば、ヴォーカル・浜野謙太のパフォーマンスがこれまたおかしい。





 俳優としても活躍を始めている浜野謙太は、「日本のジャック・ブラック」になれると思う。脇役にとどめておくには惜しいキャラクターである。彼を主演に据えた“日本版『スクール・オブ・ロック』”、“日本版『テネイシャスD』”を、誰か作ってくれないものか。

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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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