内田裕也『俺は最低な奴さ』


内田裕也 俺は最低な奴さ内田裕也 俺は最低な奴さ
(2009/11/16)
内田 裕也

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 内田裕也著『俺は最低な奴さ』(白夜書房/3000円)読了。

 先日内田が起こしたストーカー事件を報じる記事に本書が紹介されていて、興味を抱いて読んでみた。内田と親しい近田春夫がインタビュアーをつとめた、語り下ろしの自叙伝である。
 内容は、インタビューのテープ起こしそのまんま。裕也さんのロケンローな語り口が生の状態で文章化されている。

 井上嗣也のアート・ディレクションによる約60ページに及ぶグラビア・ページがあり、そこではなんと、内田裕也がオールヌードになっている(!)。まさに「誰得」。「うわ~、なんかヤバイもん見ちゃったなあ」という気持ちになる。

 グラビア・ページはいただけなかったが、内容はなかなか面白く、400ページ超を一気に読ませる。ロカビリー時代から1970年代までの日本のロック・シーンの舞台裏が垣間見えるし、内田が生きてきたロック界・映画界・芸能界の興味深いエピソード、危ない裏話も満載である。
 たとえば――。

 大島渚の『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一が演じた役は、当初沢田研二にオファーがあったものだった。そこまではわりと知られた話だが、本書には沢田がオファーをことわった経緯が詳細に語られており(内田はその場に同席)、それがじつに面白い。
 ちなみに、大島は沢田のかわりを探すため、稲越功一の写真集『男の肖像』を見て、そこに登場する男たちの中から坂本と桑名正博を候補に選んだのだとか。

 内田が主演した『水のないプール』で中村れい子が演じたヒロインは、当時まだ無名だった高畑淳子が演じるはずだった(高畑が脱ぐのを拒んで降板したという)そうだ。
 内田は高畑のドタキャンをいまだ根に持っており、「会ったら蹴飛ばしてやろうと思ってんだけど、なかなか会わねぇんだよね」と言っている(笑)。

 内田も近田春夫も余分な説明抜きでどんどん話を進めていくので、本文だけ読んでいると読者は置いてけぼりになる。だが、音楽評論家の中村俊夫さん(日本のロックの生き字引みたいな方)が全編に詳細な注釈を付しており、それを併せて読むとよく理解できる(※)。

 読みながら、「この人、ロックンローラーというよりただのちんぴらヤクザじゃないか」と粗暴ぶりにうんざりする部分もある。なにしろ、「だいたい俺、芸能界の十分の一は殴ってるよね」だそうだから(笑)。現実の内田裕也とはけっしてお近づきになりたくない。『俺は最低な奴さ』というタイトルに、「まったくだ」と納得してしまうのである。

 だが、時代の先を読む鋭敏なセンスとプロデューサーとしての嗅覚は、やはりすごいと思う。
 内田がプロデュースしたフラワーズ~フラワー・トラヴェリン・バンドは日本のロックの金字塔だし、『水のないプール』『十階のモスキート』『コミック雑誌なんかいらない』あたりまでの映画で見せたセンスは、ロッカーの片手間仕事の枠を超えたものだった。
 ハドソン川をスーツ姿で泳いだパルコのCM(内田自身のアイデアによるもの)も、内田自身が本書で「アートとしてクオリティすごい高いと思うよ」と自画自賛するとおり、優れた表現だった。

 内田自身による大ヒット曲は一曲もないが、それでもやはり、彼を抜きにして日本のロック史、サブカル史は語れないのである。少なくとも1960年代から80年代については……。

 とくに印象に残ったくだりを、一つ引用する。

 沢田(研二)の言ったことで、いまもすごく覚えているのは、「裕也さん、アバンギャルドなことをメジャーでやるのがアーティストなんだってよく言ってましたよね」って。「あ、そうかよ」って言ったんだけどね。アバンギャルドなものに対する先鋭性っていうかな、それがなくなったらなあ、はっきり言ってタコだよ。



 映画『コミック雑誌なんかいらない』(内田は企画・脚本・主演)やハドソン川を泳ぐCMは、まさに「アバンギャルドなことをメジャーでやる」ロックンロール・アーティストの真骨頂であったと思う。







※重箱の隅をつつくようだが、本書の注釈にも、例の「角ゆり子(内田裕也主演の『嗚呼!おんなたち 猥歌』に出演)は殺された」というデマが事実であるかのように書かれていた。
 調べてみると、このデマの発生源は、『ラブ・ジェネレーション 1966-1979』(2000年/音楽之友社)というムックの中の『二十歳の原点』のサントラ(四人囃子)のアルバム評であるようだ。その中に「後に角ゆり子は僕と同じ区のアパートで殺害され、それを元恋人だった僕の高校の国語教師から聞かされる、というオマケがついた忘れられない一枚」という一節があったのだ。
 そのアルバム評を書いたのは和久井某という人。おそらくは1975年に起きた菊容子(『好き!すき!!魔女先生』に主演した女優)殺害事件と記憶を混同していて、それをそのまま書いてしまったのだろう(確認しろや)。角ゆり子と菊容子――ちょっと似ているし。


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被災地へ


報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災
(2011/04/28)
朝日新聞社、朝日新聞出版 他

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 一昨日の朝から昨日の夜まで、宮城県で東日本大震災関連の取材。震災から2ヶ月半がすぎて、やっと被災地を見ることができた。

 今回行ったのは、仙台各地と気仙沼市。宮城県知事や気仙沼市長、町内会長さんら、ほかの被災者を守る立場の方々をおもに取材した。

 仙台は、倒壊した建物もなく、少なくとも見た目の上では震災の爪痕が残っていない。金曜夜の繁華街のにぎわいも、ほとんど震災前に戻った印象。ただ、取材でうかがった仙台市内のあるお宅では、床と壁にはっきりと大きな亀裂が入っていた。

 衝撃的だったのは、気仙沼港周辺の光景。いまなお、爆撃を受けたあとのような状態のままである。つぶれた自動車の残骸が折り重なり、船は陸に乗り上げ、川の中に民家がすっぽり沈んでいる。瓦礫撤去のトラックなどの作業車だけが行き交い、それ以外は人気もない。周囲には、ドブ川の中にいるような臭いが漂う。

 気仙沼市役所の窓から外を見ていたら、市役所の人が目の前の道路を指して言った。
「このへんはもうきれいになったけど、(3月)11日には津波で流されてきた車があの道に山になっていたんですよ」

 津波被害のすさまじさが、初めて実感としてわかった。
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竹中平蔵『竹中式マトリクス勉強法』


竹中式マトリクス勉強法竹中式マトリクス勉強法
(2008/10)
竹中 平蔵

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 竹中平蔵著『竹中式マトリクス勉強法』(幻冬舎)読了。

 いまや小泉純一郎とともに、「日本を格差社会化したA級戦犯」扱いされている竹中平蔵。
 小泉・竹中コンビが格差社会化を加速したのはたしかだが、根本原因を作ったわけではないだろう。「このコンビがいなければ格差社会にならなかった」とまで言うのは言いすぎで、世の不満をガス抜きするためのスケープゴートになっている面があると思う。
 ま、それはそれとして……。

 文章量も少なく、一時間もあれば読めてしまう本。傾聴に値する主張もけっこうあり、一読の価値はあった。

 ただ、タイトルは幻冬舎らしいハッタリで、いただけない。マトリクスが出てくるのは冒頭部分だけであり、残りの9割9分で述べられているのはごくふつうの勉強法である。竹中が「マトリクス勉強法」という画期的な勉強法を編み出したわけではないのだ。
 「売るためには、たとえ内容と齟齬があっても読者の目を引くタイトルにする」という感じの「幻冬舎式タイトル法」は、まことにえげつない。

 タイトルはともかく、内容は悪くない。勉強のノウハウを説いた実用書としても、読者の勉強意欲をかき立てる一種の自己啓発書としても、そこそこ役に立つ。
 あたりまえの話も多いから、この手の本を読み慣れている者にとって新鮮味には欠けるが。

 基本的には、竹中自身がこれまでやってきた勉強法を開陳した本である。ゆえに、勉強というフィルターを通した自叙伝という側面もある。「ぼっちゃま育ちでエリートコース一直線」というイメージの竹中が、意外にそうでもなく、下積みの苦労もしているし庶民的(な面もある)だということがわかって、好感を抱いた。

 「ホントにその通りだな」と思ったのは、「真の知識人は『たとえ話』に頼らない」という指摘。

 たとえ話は煎じ詰めると、まるでロジックが通らないデタラメがほとんどなのです。
 従って私の知る限り、真の知識人は、たとえ話はあまりしません。



 たしかに、たとえ話というのは、うまくはまるとすごく深いことを言っているように聞こえるものだ。しかし、よくよく考えてみると内容空疎な言葉遊びでしかなかったりする。

 なお、盟友・小泉純一郎を礼賛するくだりが随所にあるので、小泉ギライの人には不快な本だと思う。
 まあ、小泉ギライの人はたいてい竹中もキライだろうから、そもそも本書を手に取らないだろうが……。

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都築響一『夜露死苦現代詩』


夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)
(2010/04/07)
都築 響一

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 都築響一著『夜露死苦現代詩』(ちくま文庫/998円)読了。

 村上春樹の『雑文集』に本書(の単行本版)の書評というか紹介文が載っており、それを読んで興味を抱いて手を伸ばしてみた。意外といってはなんだが、村上春樹と都築響一は仲がよいのだそうだ。

 文芸誌『新潮』に連載されたものだそうだが、タイトルからも著者からも、普通の現代詩論ではないことはすぐにわかる。まずは版元がつけた内容紹介文からコピペ。

詩は死んでなんかいない。ストリートという生きた時間が流れる場所で、詩人とは一生呼ばれない人たちが、現代詩だなんてまわりも本人も思ってもいないまま、言葉の直球勝負を挑んでくる…寝たきり老人の独語、死刑囚の俳句、エロサイトのコピー、暴走族の特攻服、エミネムから相田みつをまで。



 国語の教科書にはけっして載らない「詩」、現代詩の賞にはけっして選ばれない「詩」、しかし著者の心にはまぎれもない文学作品として迫った「詩」の数々を、著者は採集し、論じ、称揚する。

 集められた「詩」の中には、痴呆の老人や統合失調症の患者などが紡いだ、「アウトサイダー・アート」の範疇に収まるものもある。また、母子餓死事件の母親がノートに綴った日記の一節のような、“巧まざる詩”もある。かと思えば、玉置宏が歌謡番組で曲のイントロに乗せて語りつづけた“前振り”の言葉に、「分速360字のトーキング・ポエトリー」を見たりする。
 それらはみな、「書くほうも、読むほうも『文学』だなんて思いもしないまま、文学が本来果たすべき役割を、黙って引き受けているもの」(あとがき)なのだ。

 たとえば著者は、暴走族の特攻服に金糸銀糸で刺繍される「詩」の数々を、次のように称揚する。

 この世の中に「詩人」と呼ばれ、みずから呼ぶ人間がどれくらいいるのか、僕は知らない。けれど、その職業詩人たちのうちで、自分の会心の作を上着に刺繍して、それを羽織って町を歩けるやつがいるだろうか。自慢の一行を背中にしょって、命のやりとりにでかけられるやつがいるだろうか。



 一見おちゃらけた本のように見えて(じっさい、笑いを誘うくだりも多い)、じつはすこぶる熱く、挑発的な一冊。そもそも詩とは何か、現代詩が本来果たすべき「役割」とは何かという問いかけが、本書をつらぬく通奏低音だ。著者はその問いを、“異形の詩”の数々を提示することを通じて、現代詩の側に投げかけている。

 企画がよいし、一冊の本としてよくできている一冊。

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『サンシャイン・クリーニング』


サンシャイン・クリーニング [DVD]サンシャイン・クリーニング [DVD]
(2010/03/03)
エイミー・アダムス、エミリー・ブラント 他

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 ケーブルテレビで録画しておいた『サンシャイン・クリーニング』を観た。2009年のアメリカ映画。『リトル・ミス・サンシャイン』の製作チームが贈る「サンシャイン・シリーズ」第2弾……なのだそうだ。

■公式サイト→ http://www.sunshine-cleaning.jp/index.html

 ああ、もう長いこと映画館に映画を観に行っていない。今年は試写に一度行っただけ。観たい映画はいろいろあるのだが、時間がない。
 今週末公開の『マイ・バック・ページ』だけは、絶対映画館で観るつもり。川本三郎さんの原作は、私がこれまで読んだすべての本の中で五指に入るほど好きだから。

 ケーブルテレビで録画した映画も、たまる一方。とりあえず、時間の短いヤツを一つ観ようと思ってこれ(91分)にしたのである。

 けっこうよかった。シングルマザーと現在無職の負け組姉妹が、事件現場専門のクリーニング会社(といっても2人だけ)を立ち上げる話。

 ギラギラしたハリウッド大作よりも、地味な短編小説のようなこういうアメリカ映画が、私は好きだ。

 高校時代にはチアリーダーで学校のアイドルだったのに、30代のいまでは何をやってもうまくいかないヒロイン(エイミー・アダムス)が、なんともいじらしくてチャーミング。

 しかし、この映画を「コメディ」として売った映画会社の姿勢にはちょっと首をかしげるなあ。序盤こそ少しだけコミカルだが、姉妹が幼いころに母親が自殺してしまったことが明かされるあたりから、笑いの要素はほとんどないのである。

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メアリー・カルドー『「人間の安全保障」論』


「人間の安全保障」論 (サピエンティア)「人間の安全保障」論 (サピエンティア)
(2011/03/24)
メアリー・カルドー

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 メアリー・カルドー著、山本武彦ほか訳『「人間の安全保障」論――グローバル化と介入に関する考察』(法政大学出版局/3780円)読了。
 書評用読書。正味300ページほどでとくに大著というわけではないのだが、論文集だし内容も専門的なので、読むのに一日かかってしまった。

 著者はロンドン大学附属「グローバル・ガバナンス研究センター」の所長・教授。この人の本は3年ほど前に『グローバル市民社会論』というのを読んだことがある。本書も『グローバル市民社会論』の続編というか、陸つづきの内容である。

■関連エントリ→ 『グローバル市民社会論』レビュー

 書評を書いたので、ここではあまり内容に触れられない。かわりに、私が傍線を引いた箇所をいくつか引用しておく。

 戦争の性格に重大な変化が生じている。一八世紀から二○世紀初頭にかけて頻発してきた国家間戦争は、ますます生じなくなってきている。グローバリゼーションが意味しているのは、国民国家の衰退ではなくその機能に変化が生じたということである。(中略)私たちが経験しているのは戦争ではない。ローカルでもありトランスナショナルでもある新しい類の政治的暴力、すなわち、テロリズムや「新しい戦争」、アメリカによるハイテク戦争である。



 アメリカの政治文化と政治制度は第二次世界大戦と冷戦の経験をもとにつくられたものであり、当時のイデオロギーがアメリカの世界認識とその対外政策に大きな影響を与えつづけている。それゆえ、このイデオロギーは、私たちが住まう世界に、つまり、当時の世界とは変貌してしまった現在の世界にうまく適合できていない。



 旧ユーゴスラヴィアでの組織的なレイプは広範囲にわたっておこなわれた。それは、戦争がもたらした副次的効果ではなかった。むしろ、戦争で使用する兵器として意図的に実行されたものだった。レイプされた自分は恥ずべき女である。女性に、とりわけムスリムの女性にそう思わせることで、故郷に帰りたくないとの思いを彼女たちに抱かせること、これが組織的なレイプの狙いであった。



 象徴的な標的に対する暴力は、「他者」の文化のいかなる痕跡も除去することを目指してもいた。ボスニア戦争のさなかのパニャ・ルーカでは、オスマン帝国支配下の一六世紀に建てられた比類のない二つのモスクが徹底的に破壊された。金曜日に爆破された後、月曜日にブルドーザーが入り、芝生で覆われてしまったため、かつてその場所にモスクがあったことなど、あなたにはわからないはずである。



 なお、本書のテーマになっている「人間の安全保障」については、過去に書いた以下のレビューが参考になるだろう。

■アマルティア・セン『人間の安全保障』レビュー
■『安全保障の今日的課題』レビュー

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エルダー・ジャンギロフ『エルダー』


エルダーエルダー
(2005/05/18)
エルダー・ジャンギロフ

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 エルダー・ジャンギロフの『エルダー』(ソニー・ミュージック)を聴いた。

 現時点での最新作『ヴァーチュー(美徳)』がよかったので、こんどは6年前のデビュー・アルバムに手を伸ばしてみたしだい。レコーディング時まだ17歳だった天才少年の、「ファースト・ジャンプ」が刻みつけられた作品だ。

 ライナーノーツで紹介されたデビューまでのいきさつを読むと、絵に描いたような「天才物語」である。
 3歳でピアノを始めたエルダーは、5歳のころにはもう、聴いた曲をすぐにピアノで再現できたという。家族でキルギス共和国から米国に移住したのも、息子の才能の開花を両親が願ったためだったのだ。

 このファースト・アルバムではまだ、本名のエルダー・ジャンギロフ名義。ジャケット裏面などに載った写真があどけない。

 全11曲中7曲がスタンダード・ナンバーで、4曲がオリジナル。
 あたりまえの話だが、『ヴァーチュー(美徳)』のほうが曲も演奏も成熟していて、本作はまだ粗削りな印象。スタンダードのうち何曲かで度肝を抜く速弾きを披露するのだが、それがなんだかサーカスの軽業のようで、あまり心に響かない(上原ひろみの速弾きにもときどきそんな印象を受けるが)。

 たとえば、ハービー・ハンコックの名曲「処女航海(Maiden Voyage)」を、原曲よりはるかにテンポを速めて演奏しているのだが、「うまい」とは思っても「いい」とは思えなかった。やはり原曲のほうが数段上である。


↑エルダー・ジャンギロフの「処女航海」

 とはいえ、17歳で一流のプロと比べて遜色ない演奏ができるというのは、やはりすごいことだが……。

 このアルバムにおいてはむしろ、オリジナル曲で発揮された作曲能力に非凡なものを感じた。
 たとえば、「ポイント・オブ・ビュー」という曲は、それこそ『処女航海』『スピーク・ライク・ア・チャイルド』のころのハービーが作ったようなモーダルな傑作だ。
 また、「ウォーターメロン・アイランド」という曲も素晴らしい。タイトルからしてハービーの「ウォーターメロン・マン」を意識した感じの、ファンキーでダンサブルなナンバー。2曲とも、10代の少年が書いたとはとても思えない。

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片桐はいり『もぎりよ今夜も有り難う』


もぎりよ今夜も有難うもぎりよ今夜も有難う
(2010/07/30)
片桐はいり

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 片桐はいり著『もぎりよ今夜も有り難う』(キネマ旬報社/1680円)読了。

 個性派女優の著者は、18歳のころから7年間にわたって銀座の映画館でもぎり嬢として働いた。しかも、中学生時代から映画狂だった彼女は、高校生のころから「大学に入ったら映画館で働こう」と決めていたのだとか。
 そんな著者が、もぎり嬢時代の思い出を中心に、映画と映画館への愛を綴ったエッセイ集。『キネマ旬報』に連載されたもので、第82回キネマ旬報ベスト・テンで「読者賞」を受賞している。

 80年代小劇場演劇は故・如月小春など何人もの名文家を生んだが、片桐はいりもなかなかいい文章を書く。本書はエッセイ集としてたいへん上質で、講談社エッセイ賞とかを受賞しても不思議ではない仕上がりだ。前半だけなら……。

 というのも、後半になるとだんだん失速してつまらなくなってくるから。
 推察するに、もぎり嬢時代の思い出を印象的なものから順に書いていったら、連載途中でネタ切れしてしまったのだろう。最後のほうはたんなる「各地の映画館探訪記」になってしまっている。まあ、後半もけっして悪くはないのだが、前半に比べると一段も二段も落ちる。

 とはいえ、全編に満ちた熱い映画愛は、映画好きなら胸打たれずにはおれないだろう。バブル前夜~バブル期の古き佳き銀座を舞台にした、“しょうゆ味の『ニュー・シネマ・パラダイス』”という趣の好エッセイ集だ。

 片桐はいりのほかのエッセイ集も読んでみようと思う。

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エルダー『ヴァーチュー(美徳)』


ヴァーチュー(美徳)ヴァーチュー(美徳)
(2009/09/30)
エルダー

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 ジャズ・ピアニスト、エルダーの2009年のアルバム『ヴァーチュー(美徳)』(ソニー・ミュージック)を聴いた。
 過日、ネット・ラジオでこのアルバムに入った「バニラ・スカイ」という曲を聴き、圧倒的カッコよさに一発KOされてしまったのである。

 エルダーはフルネームをエルダー・ジャンギロフという。旧ソ連邦・キルギス共和国の出身で、98年に家族で米国に移住している。1987年生まれというから、今年でまだ24歳の若さ。アルバム・デビューは2005年で、18歳のとき(レコーディングは17歳のとき)。

 ジャズにもピアノにも素人の私だが、この人がジャズ・ピアニストとして並外れた才能の持ち主であることはわかる。プレイにすごい疾走感・スピード感があり、それでいて少しも粗削りではなく、端正で流麗なのだ。

 若くして脚光を浴びた点が上原ひろみを彷彿とさせるが、ピアニストとしてのタイプも近い気がする。時折見せるすさまじい速弾きが似ているし、2人とも「ロック・ファンにもよさがわかるジャズ・ピアノ」なのである。音がロック的というより、そのスピード感・疾走感にロック的ダイナミズムがあるのだ。


↑アルバム冒頭を飾る「エクスポジション」。

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西村賢太『苦役列車』


苦役列車苦役列車
(2011/01/26)
西村 賢太

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 昨日は、都内で打ち合わせが2件。
 今週は取材なしの「執筆ウィーク」。すでに〆切を過ぎている原稿が3本(すみません)と、今週〆切の原稿が2本。それに、まだやっていない確定申告も済まさないと……。



 行き帰りの電車で、西村賢太著『苦役列車』(新潮社/1260円)を読了。言わずと知れた、前回の芥川賞受賞作。やっと読めた。

 西村作品には少・青年期の思い出を扱ったもの(『二度はゆけぬ町の地図』所収の4編など)と、現在に近い時期を扱ったものの2系列がある。表題作は前者で、併録作「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」は後者である。

 そして、この「苦役列車」は、前者系列の作品の集大成的内容になっている。
 まず、中編小説といってよい長さはこれまでの西村作品でおそらく最長だ。それに、これまで断片的にしか触れてこなかった最もつらい思い出――父親が強盗強姦事件を起こして逮捕された時期のこと――が、くわしく書かれている。つまり、西村はついに私小説作家としての切り札を切ったのである。切り札で勝負に出た作品で念願の芥川賞を得たのだから、本望だろう。
 それにしても、最もつらい思い出が最も強い武器になるのだから、私小説作家というのはつくづく因果な商売である。

 西村が長年収入源としていた港湾労働を、始めたころが舞台。前半はその労働の中身を淡々と描いた場面が中心であるため、わりと退屈。
 だが、仕事仲間の中で唯一の友人となった男(名前は変えてあるものの、「小銭を数える」に登場した郵便局員と同一人物)の恋人が登場するあたりから、俄然面白くなる。西村作品の最大の魅力である(と私が思う)ルサンチマンの炸裂が見られるからだ。

「畜生。山だしの専門学校生の分際で、いっぱし若者気取りの青春を謳歌しやがって。当然の日常茶飯事ででもあるみてえに、さかりのついた雌学生にさんざんロハでブチ込みやがって」



 と、19歳の西村(作中では「北町貫多」)は心中で友人を呪詛する。デビュー作「けがれなき酒のへど」にも、主人公が牛丼屋でいちゃつくカップルに「(おれは死ぬほどおまえらが羨ましい。羨ましすぎて気が狂いそうだ)」と思う場面があった。こういうルサンチマンあふれる一節にこそ西村の真骨頂があるのだ。

 普通の青春小説にあるようなさわやかさは薬にしたくもない、世にもみじめったらしく下品でどす黒い青春小説。だが、その下品さ、みじめったらしさ、どす黒さの迫力は他に類を見ないものであり、そこにこそ西村作品の魅力がある。これほど下品な小説に芥川賞が与えられるとは、思えば痛快な話だ。

 併録作「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」は、川端賞の候補になり、落選するまでの顛末が、ぎっくり腰で苦しむ様子とあわせて綴られた短編。他愛のない話なのに最後まで退屈させない筆力はさすがだ。
 初出を見れば『新潮』に載った作品なのに、作中には『新潮』の担当編集者を悪しざまに書いたくだりがある。よくボツにならなかったものだ。

 本作に綴られた、担当編集者に対するふるまいの身勝手さは相当なもので、私が編集者だったら西村とは仕事をしたくない。いまさらながら、西村は作品は面白いが人間性は最低だ。彼は作品の中で、かつて同棲していた女性のことを「私を裏切り、別の男のもとに去っていった」としばしば罵っているのだが(本作でも)、あれだけDVしたり実家から借金させたりしたら、去られるのも当然だろう(小説そのままの行動だったなら、だが)。
 とはいえ、才能は認めるし、作家としての覚悟のほどもリスペクトに値するのだが……。

 ところで、本書の装丁はひどいと思う。ただの真っ黒。前の『瘡瘢旅行』の装丁は、一見真っ黒だがブルーブラックの地の上に黒インクで装画が描かれているという凝ったものだったが……。

■関連エントリ→ 『二度はゆけぬ町の地図』レビュー

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ジョージ秋山『ばらの坂道』


ばらの坂道(下) (ジョージ秋山捨てがたき選集第8巻)ばらの坂道(下) (ジョージ秋山捨てがたき選集第8巻)
(2011/04/30)
ジョージ秋山

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 ジョージ秋山の幻の作品『ばらの坂道』(青林工藝舎/上下巻・各1575円)が復刊されたので、購入して読む。

 1971年から72年にかけて、『週刊少年ジャンプ』に連載された作品。「子ども時代に読んだトラウマ・マンガ」に挙げる人も多い。私も7~8歳のころ連載をリアルタイムで読んだが、トラウマになるほどはっきりとは記憶に残っていなかった。「暗いマンガだなあ」と感じたことは覚えているけど……。

 ジョージ秋山は、1970年に『銭ゲバ』と『アシュラ』という問題作をつづけざまに発表。その後、『アシュラ』の打ち切り事件を経て突如「引退」を宣言。しかし、翌年には引退を撤回し、現役復帰。復帰第1作となったのがこの『ばらの坂道』であった。ちなみに、あの傑作『ザ・ムーン』は、『ばらの坂道』の次の長編にあたる。

 ジョージ秋山がまだ若く、才気にあふれ、マンガ家人生でいちばん先鋭的だった時代が70年代前半なのである。
 そして、この『ばらの坂道』は、『銭ゲバ』『アシュラ』と並んで彼の3大問題作の一角をなすものといってよい。
 75年に一度だけ単行本化されているものの、その後は長年復刊されなかった。今回の復刊はじつに36年ぶりのことだ。

 なぜ「幻の作品」と化してきたといえば、「きちがい」「かたわ」などの差別表現が頻出するうえ、現時点から見れば精神障害に対する誤解に基づく描写も散見されるからである。
 ただ、本書の解説によれば、一部で本作を「発禁マンガ」と表現する向きがあるのは間違いで、発禁になったこともなければ人権団体等から抗議を受けたこともないという。長らく復刊されなかったのは、出版サイドの自主規制だったのだ。

 主人公の少年・土門健は、発狂してしまった母親の面倒を見ながら暮らしている。
 父は母の発狂を機に、家族を捨てて蒸発。屋台のおでん屋をやって家族3人の暮らしを立てていた祖父も、交通事故死を遂げる。しかも、祖父の死と時を同じくして、母が健の同級生の少女の脚をツルハシで刺し、不具にしてしまう事件が起きる。
 いっぽう、祖父を死なせた車に乗っていたのは大富豪で、慰謝料として健に2000万円を差し出すのだった。

 ……序盤の展開はざっとそんな感じ。あまりに救いがなく、また時代がかった大仰な展開ではある。しかし、実際に読んでみると、得体の知れないパワーが全編にみなぎっていて、読み出したら止まらない迫力である。
 版元のサイトに無料試し読みコーナーがあるから、興味のある向きはちょっとのぞいて見てほしい。

■『ばらの坂道』上巻試し読み
■『ばらの坂道』下巻試し読み

 評論家の呉智英が上巻に解説を寄せていて、その中で呉は次のように書いている。

 ジョージ秋山が『ばらの坂道』で描こうとした主題は「業」である。というよりも、ほかの作品でも「業」は主題として描かれることが多く、マンガ家ジョージ秋山を貫く主題だとも言えるだろう。



 たしかに、この『ばらの坂道』と『銭ゲバ』『アシュラ』は、「人間の業」三部作ともいうべき内容である。
 健は狂った母をもったことに苦悩し、母が不具にしてしまった少女への罪の意識に苦悩する。
 慰謝料として2000万円をくれた大富豪は、病死するにあたって広大な土地を健に遺産として贈り、そのことが健の苦悩をいっそう複雑なものにする。彼は遺産を活かす道として、その土地に「理想の村」を建設しようとするのだが……。

 私は本作を読んで、「ジョージ秋山はこの時期、本気で文学に闘いを挑んでいたんだな」と思った。ドストエフスキーやトルストイが挑んだテーマを、マンガでやろうとしていたのである。
 その挑戦が成功しているとは、残念ながら言えない。終盤の健の死があまりに唐突であるなど、ストーリーにはあちこち綻びが見えるし、表現としてもかなり拙い。しかしそれでも、大テーマに本気で挑んだ若きジョージ秋山(当時まだ20代)の熱と志に、私は拍手を送りたいと思う。

 なお、下巻に阿部幸弘(精神科医・マンガ評論家)が寄せた解説が、力が入っていて素晴らしい。一読の価値がある。

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古泉智浩『ミルフィユ』


ミルフィユミルフィユ
(2000/11)
古泉 智浩

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 古泉智浩の短編マンガ集『ミルフィユ』(青林工藝舎/1155円)を読んだ。

 少し前に読んだ『ジンバルロック』がたいへん面白かったので、ほかの作品も少しずつ読んでいく予定。
 『ジンバルロック』が古泉の初単行本で、この『ミルフィユ』は2冊目であるようだ(ほかにもたくさん出している)。

 が、収録作は総じて『ジンバルロック』より一段落ちる感じ。「あれ? 意外に面白くない。それに絵がすごくヘタなものもある」と、首をかしげつつ読む。
 初出を記したあとがきを読んで納得。本書の収録作のほとんどは、『ジンバルロック』以前の初期作品なのだ。 古泉のブログによれば、現在40代前半の彼が「20代に描いた恋愛とセックスのマンガ作品集」とのことだ。

 9編を収めた本書で私が気に入ったのは、「ポラロイド」と「人魚の恋」の2編。そして2編とも比較的新しく、『ジンバルロック』と同時期くらいに描かれたものと思われる。
 それ以前の古い作品は、箸にも棒にもかからない習作という感じ。つまり、古泉は『ジンバルロック』連載中に作家として覚醒したというか、急成長したのだと思う。

 「ポラロイド」は、童貞をこじらせて悶々としたバカ予備校生が主人公のエロ・コメディ。爆笑。古泉はこういうのを描かせるとバツグンである。

 「人魚の恋」は、キムタクそっくりのイケメンなのになぜかブスにしかもてない主人公(笑)が、山田まりあ系のムッチリした人魚と恋をする物語。

 人魚が現代日本の現実の中に溶け込んで登場する青春マンガといえば、小玉ユキのリリカルな連作短編集『光の海』を思い出す。ただし、人魚が出てくる点だけが共通項で、あとはまるで別世界。こちらは下品で身も蓋もない笑いが展開されている。
 「私に下ネタ描くなというのは、イチローにバットを振るなと言ってるのと同じだ!」と言ったのは下品マンガの雄・田中圭一だが、古泉も下品さでは田中に負けていない(ホメている)。
 ただ、ゲラゲラ笑ったあとにふっと切なさが残るのが古泉作品の特長で、本作もそれはしかり。
 
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村上春樹『雑文集』


村上春樹 雑文集村上春樹 雑文集
(2011/01/31)
村上 春樹

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 昨日、某テレビ局の朝の人気番組から突然出演依頼があって、ビックリ。
 ディレクターだという人からの連絡で、「こんどジャクリーン・ケネディのことを取り上げたいので、その中でコメントしてほしい」というのである。
 私が個人サイトで書いた「女の名セリフ」でジャクリーンを取り上げた(→この記事)のを見て、声をかけてくれたのだそうだ。しかし、私はいかなる意味でもジャクリーンについての「専門家」ではないし(アメリカ政治・文化の専門家でもなければ、セレブの専門家でもない)、テレビでエラソーにコメントなどしたら怒られそうなので、おことわりする。

 せっかく声かけてくれたのにこんなことを書くのはアレだけど、「テレビ番組ってずいぶんいいかげんに作られてるんだなあ」と思ってしまった。個人サイトで記事を書いているというだけでコメントさせようとするなんてね。ネットでパッと検索して、「あっ、コイツでいいや」って感じかな(笑)。

 

 村上春樹著『雑文集』(新潮社/1470円)読了。
 
 村上春樹が1979年のデビューから昨年までの間に書いた単行本未収録(一部は未発表)のエッセイ、コラム等から、村上自身がセレクトしたもの。

 「村上春樹の新刊なら、いまはどんなものでも売れるから」というエゲツナイ皮算用で出した「落ち穂拾い」的一冊ではある。また、安西水丸の娘の結婚式に寄せた祝福メッセージなんてものまで入っていたりして、どうでもいい雑文も少なくない。

 だがそれでも、収められた69編の中には拾い物も多い。
 本書の読みどころを、私が選ぶなら……。

 まず、冒頭を飾る「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」。
 これは、村上が小説家としての基本的心構えを表明した文章で、今後の村上春樹研究には欠かせない一文になるであろう内容だ。

 次に、オーディオ雑誌『ステレオサウンド』のロング・インタビューを再録した「余白のある音楽は聴き飽きない」。
 これは村上春樹が子どものころからの音楽遍歴を語ったもので、彼の音楽観の的確な要約になっている。いうまでもなく、音楽はハルキ文学の重要な要素であるから、ファンなら必読といえる一文。無署名だが、ライターのまとめ方もうまい。

 また、ドアーズのジム・モリソンについて書いた「ジム・モリソンのソウル・キッチン」もよい。音楽エッセイ集『意味がなければスイングはない』に入れてもよかった気がする名文だ。

 それから、『アンダーグラウンド』執筆当時に書かれたという「東京の地下のブラックマジック」。これは、村上のオウム真理教についての思索を凝縮した内容である。
 アメリカの雑誌から依頼されて書かれたもので、なんと、ボツをくらっていままで未発表だったという。村上春樹の原稿をボツにするなんて、日本では考えられないことだ。

 この文章で私が最も強い印象を受けたのは、次の一節。

 オウム真理教に帰依した何人かの人々にインタビューしたとき、僕は彼ら全員にひとつ共通の質問をした。「あなたは思春期に小説を熱心に読みましたか?」。答えはだいたい決まっていた。ノーだ。彼らのほとんどは小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。



 宮内勝典さんがオウム信者たちについて、“彼らがもっと文学に触れていたら、オウムに走ることもなかったのではないか”と書いておられた(うろ覚えだが)のを思い出した。
 この「東京の地下のブラックマジック」は、オウム事件をフィルターに村上春樹が「文学の力とは何か?」を改めて思索した一文として、興味深い。

 ほかにも楽しめる文章は多く、ファンなら買って損はない一冊。平均的単行本の倍のページ数なのに価格は安く、装画・挿画は和田誠と安西水丸が2人で手がけているというゴージャスぶりだし。

 
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デイヴ・ウェックル・バンド『Live: And Very Plugged In』


The Dave Weckl Band Live: And Very Plugged InThe Dave Weckl Band Live: And Very Plugged In
(2003/10/07)
Dave Weckl

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 デイヴ・ウェックル・バンドの2枚組ライヴ・アルバム『Live: And Very Plugged In』を、輸入盤で購入。

 チック・コリア・エレクトリック・バンドをはじめとした幅広い活動で知られる、売れっ子バカテク・ドラマーのデイヴ・ウェックルが、自己のバンドの集大成的意味合いで出したアルバム。ゆえに選曲はベスト・アルバム的。2枚組なのに2000円以下で買える。安い。

 デイヴ・ウェックルという人のプレイは、重量感には欠けるものの、スピード感と手数の多さが圧倒的。難しいことをいともかんたんにやってのけ、目の前を高速で駆け抜けていくようなドラムスなのである。
 本作は当然ウェックルがいちばん目立つ形で作られており、爽快無比な彼のドラムスが堪能できる。とくに、「Rhythm-A-Ning」 (リズマニング/セロニアス・モンクの曲)の後半で聴かせる、ドラムスとベースの長い掛け合いはすごいの一語。

 ジャンルとしてはハイパー・テクニカル・フュージョンなのだろうが、私はあえてジャズ・ロックにカテゴライズしたい(ま、ジャンル分けなんてどうでもいいっちゃいいのだが)。

 ウェックルの「古巣」ともいうべき、チック・コリア・エレクトリック・バンドの延長線上にある音。でも、個人的にはデイヴ・ウェックル・バンドのほうがはるかに好みだな。キーボード中心でゴテゴテ装飾過多な印象だったチック・コリア・エレクトリック・バンドよりも、リズム・セクションがサウンドの核を成すこのバンドのモノトーンでストイックな趣が心地よい。

 マハヴィシュヌ・オーケストラであれリターン・トゥ・フォーエヴァーであれ、ジャズ・ロックの名盤というのはとかくBGMにはなりにくい。華麗なテクニックの応酬に耳を奪われてしまい、さりげなく流しておくということがしにくいのだ。

 だが、このアルバムは、華麗なテクニックの応酬が最初から最後までつづくにもかかわらず、BGMになる。流しておいても邪魔にならないのだ。むしろ、BGMとして使うと最高にクール(もちろんじっくり聴き込んでもよし)。そのへんが、デイヴ・ウェックルらしさなのであろう。

■関連エントリ→ チック・コリア・エレクトリック・バンド『トゥ・ザ・スターズ』レビュー

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豊崎由美『ニッポンの書評』


ニッポンの書評 (光文社新書)ニッポンの書評 (光文社新書)
(2011/04/15)
豊崎 由美

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 豊崎由美著『ニッポンの書評』(光文社新書/777円)読了。

 ありそうでなかった、書評家による書評論である。
 なぜなかったかといえば、「売れないから」だろう。書評集でさえ売れない(だから、書評を本にまとめてもらえる書評家もごく一部)のに、ましてや書評論なんて……と出版社が二の足を踏むのは当然だ。

 ではなぜこの本が出たかといえば、「書評ブログ」(当ブログも広い意味ではその一つ)が激増するなど、ネット上で本の感想を述べ合う習慣が定着して、「一億総書評家時代」が到来したからだろう。
 屈指の売れっ子ブックレビュアーであるトヨザキは、書評論を書くにふさわしい。

 章立ては、以下のとおり。

第1講 大八車(小説)を押すことが書評家の役目
第2講 粗筋紹介も立派な書評
第3講 書評の「読み物」としての面白さ
第4講 書評の文字数
第5講 日本と海外、書評の違い
第6講 「ネタばらし」はどこまで許されるのか
第7講 「ネタばらし」問題日本篇
第8講 書評の読み比べ―その人にしか書けない書評とは
第9講 「援用」は両刃の剣―『聖家族』評読み比べ
第10講 プロの書評と感想文の違い
第11講 Amazonのカスタマーレビュー
第12講 新聞書評を採点してみる
第13講 『IQ84』一・二巻の書評読み比べ
第14講引き続き、『IQ84』の書評をめぐって
第15講トヨザキ流書評の書き方
対談 ガラパゴス的ニッポンの書評―その来歴と行方



 私はライターを始めて以来ずっと、拙いながらも書評を書いてきた(もちろん原稿料をいただいて)。「書評歴」は四半世紀近いことになる。ゆえに本書も非常に興味深く読んだ。

 タイトルを見ると、過去・現在の日本の書評が概観された本のような印象を受ける。巻末の大澤聡(メディア史研究者)との対談にはそういう側面もあるが、全体としてはそうではない。むしろ、トヨザキ個人の書評観をさまざまな角度から述べた内容になっている。トヨザキが考える、よい書評・悪い書評の基準を示した本なのである。

 『文学賞メッタ斬り!』シリーズで披露した、トヨザキ流の笑える毒舌は、本書ではかなり控えめ。ダメな書評をやり玉にあげる箇所もないではないが、いつもより遠慮ぎみ。まあ、小説家や文学賞選考委員を笑い飛ばすのとは違って、相手が同業者では筆鋒が鈍るのもやむをえまい。

 さりとて、けっしてつまらない本ではない。売れっ子ライターだけあって、読者を退屈させない仕掛けが随所に凝らされている。新聞各紙の書評を五段階評価(ただし、一週間分のみ)した章とか、アマゾンのカスタマー・レビューにかみついて見せた章など、読み物として楽しめる章が多いのだ。

 日本の“書評業界”の舞台裏を明かし、その改善も提言するなど、業界裏話集としても面白い。
 本書によれば、トヨザキでさえ「仕事の八割ぐらいは書評ですけど、残りはライター仕事」で、書評専業ではないのだとか。だとすれば、書評だけで生計を立てている字義通りの「書評家」は、もはや日本にはいないのではないか。いたとしても10人以内くらいだろう。ちなみに私の場合、書評の仕事は全体の1割程度。

 本書で披露されたトヨザキの書評観に対して、私は総論賛成・各論反対といったところ。
 書評を批評(文芸評論)よりも一段低くとらえる傾向に異を唱え、「書評も立派な文芸の一ジャンル」と主張する点や、自分の読書域の広さと賢さを自慢する書評ほどイヤなものはない、という指摘などには、激しく同意。

 ただ、実際に挙げられた書評の例を見ると、トヨザキと私では優れた書評の基準が少し異なるようだ。トヨザキは作家・小野正嗣が書いた『ジーザス・サン』の書評を口を極めて絶賛し、「皆さん、これが書評のビンテージです」とまで書いて全文引用しているのだが、私には大した書評だとは思えなかった。

 あと、本書は“ネタばれ書評はよくない”ということをくどくどしく述べすぎだと思う。「ネタばらし」についての章が2つもあるうえに、第13、14講でも、黒古一夫が書いた『IQ84』のネタバレ書評をやり玉にあげているのだ。ちょっとしつこすぎ。

 ……と、ケチをつけてしまったが、書評好きなら十分楽しめる本である。書評執筆のコツを披露する実用的側面は薄いが、それでも、書評ブログをやっている人なら必読といってよい。

■参考→ 対談 豊崎由美×永江朗 「書評ほどオイシイ商売はない!?」

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the band apart『Scent of August』


Scent of AugustScent of August
(2011/03/02)
the band apart

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 the band apartの新作『Scent of August』(asian gothic label/2800円)を購入。ヘビロ中。

 フルアルバムとしては『Adze of penguin』以来3年ぶり、5枚目。私は5枚のうち、今作がいちばん好きかも(暫定評価)。紙ジャケ仕様(サイズも大きめ)のジャケットもいい感じ。
 
 音のほうは、基本的にはこれまでの延長線上にある。

 ソウル、ファンク、ジャズなど、幅広い音楽の要素を取り込んで編み上げられた、知的で独創的でオシャレなロック。
 演奏はソリッドでテクニカル、曲構成は緻密で複雑。にもかかわらず少しも難解ではなく、どの曲もキャッチーでポップ。歌詞はすべて英語で、涼しげな美メロと、ポール・ウェラーをもっと甘くしたような荒井岳史のヴォーカルが耳に心地よい。
 ダンサブルなのに、クールで理知的。テクニカルなのに頭でっかちにならず、抜群の聴きやすさとノリのよさ。
 「the band apartはある種の“CITY-FUNK”さ」と、モック・オレンジのジョー・アッシャーが評したとおり、まぎれもない「都市の音楽」。

 と、そのようにこれまでの音楽性を踏襲しながらも、今作で打ち出された新生面としては、「静と動、メロウとハードの鮮やかなコントラストが織りなすダイナミズム」が挙げられる。

 たとえば、「スローナンバーかな」という感じで静かに始まって、途中のブレイクから轟音&高速フレーズの怒濤のアップチューンになる曲が多い。
 また、途中2曲あるskit(インタールード的意味合いの小曲)ではいずれも女性ヴォーカルがフィーチャーされ、これまでになくメロウなムードが醸し出される。そうしたメロウ・チューンを合間に挟むことによって、複雑でテクニカルないつものバンアパらしい曲のカッコよさがいっそう際立つのである。

  そして、本作のもう一つの特長は、全編にあふれる「夏っぽさ」である。
 「八月の香り」を意味するタイトルにするだけあって、どの曲にも夏の光や都市の夏の夜景を思わせる“きらびやかな切なさ”ともいうべきものが満ちているのだ。M4「light in the city」の歌詞(訳詞)にある次のような一節は、このアルバムのカラーを象徴するものだ。

僕たちは 煌めく銀色のノイズ
(中略)
街にあふれる 壊れたノイズ
僕たちは夏の日を走り抜ける



 夏の日にこのアルバムを聴くのが楽しみだ。





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山田順『出版大崩壊』


出版大崩壊 (文春新書)出版大崩壊 (文春新書)
(2011/03/17)
山田 順

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 山田順著『出版大崩壊――電子書籍の罠』(文春新書/840円)読了。

 著者は光文社に34年間勤め、雑誌と書籍それぞれの第一線を経験してきたベテラン編集者。話題を集めたブログ「リストラなう!」の主「たぬきち」と同時期に同社の希望退職(昨年)に応じ、その後は電子書籍出版ビジネスに挑戦したものの、失敗したという。

■参考→ 「たぬきち」氏がブログで本書に言及したエントリ

 つまり、「電子書籍元年」とも呼ばれた2010年に、実際に電子書籍ビジネスの最前線に身を置いたベテラン編集者が、その経験をふまえた書いた電子書籍本なのだ。
 そういう経緯ゆえ、昨年来続々と刊行された一連の電子書籍本のうち、最も悲観的・絶望的な内容になっている。

 私も電子書籍本は何冊も読んできたが、困ったことに、いちばん悲観的な本書にいちばんリアリティを感じた。なにしろ、著者は電子書籍の可能性に一度は人生を賭けた人物なのだから、本書の悲観論には重い裏付けがあるのだ。旧世代の出版人がたんなる感傷から、「電子書籍にはぬくもりがない」とか言ってくさすのとはわけが違う。

 全11章のうち、1~3章はひどく退屈。電子書籍の歴史や、キンドルやiPadをめぐる騒動の経緯などがまとめられているのだが、従来の電子書籍本に書いてあることのくり返しでしかない。そのへんのことをすでにわかっている読者は、読み飛ばすべし。

 が、4章以降は著者の経験をふまえた生々しいエピソードが随所にちりばめられ、俄然面白くなる。

 ……いや、「面白い」といってはまずいか。なにしろ、4章から11章にさまざまな角度から書かれているのは、“雑誌・書籍・新聞といったプリント・メディアにいかに未来がないか”という話なのだから。

 ただでさえジリ貧の出版界は、現在、電子書籍に新たな収入源としての希望を託している。だが、著者は「電子出版がつくる未来」は幻想にすぎず、むしろ電子書籍の普及が出版社のクビを絞めることになると説く。
 そうした見立ての具体的根拠については本書に譲るが、いずれも私にはうなずける指摘ばかりだった。

 出版社も新聞社も自前のコンテンツのデジタル化を進めれば進めるほど、収益は上がらなくなっていく。そうして、その混乱のなかで、既成メディアを支えてきた多くの人間が失業する。
 すでに、出版界も新聞界も人間のリストラに入っている。正社員はもとより、デザイナー、カメラマン、フリーライターは、いまこの時点でもどんどん職を失っている。
 それを電子書籍が救ってくれるはずがない。(「はじめに」)

 

 フリーライターの1人としては、日頃漠然と感じている「先細り感」に具体的な裏付けが与えられていくようで、読んでいて気の滅入る本なのだが(笑)。

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鈴木智彦『潜入ルポ ヤクザの修羅場』


潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)
(2011/02/17)
鈴木 智彦

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 鈴木智彦著『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書/893円)読了。

 少し前に『誰も書けなかった日本のタブー』(宝島社文庫)という短編ルポ集を読んだとき、当ブログのレビューで私はこう書いた。

 参加している書き手の力量にバラツキがあって、かなり玉石混淆。
 鈴木智彦という人が書いた3本の記事が、いずれも突出して面白い。ヤクザ系ルポをよく書いている人らしいのだが、「よくここまで書くなあ」という感じで、スゴイ迫力。



 以来注目していた鈴木の新著である。
 じつは少し前にこの人の『我が一家全員死刑』という本も読んだのだが(「大牟田4人殺害事件」のドキュメント)、これはつまらなくて半分ほど読んで挫折。だが、本書はよい。バツグンの面白さで、一気読みしてしまった。

 どこにでもあるヤクザ・ノンフィクションのようなタイトルだが(文春新書は総じてタイトルづけがヘタ)、そうではない。これは、極道ジャーナリズムにどっぷり漬かってきた著者が、その舞台裏を赤裸々に明かした希有な一書なのである。
 よって、内容を正確に反映したタイトルにするなら『ヤクザ・ジャーナリズムのウラ側、全部見せます!』といったところか。あるいは、本書の帯の片隅に記された言葉――「暴力団専門ライターの『わが闘争』」のほうが、タイトルにふさわしい。

 「極道ジャーナリズム」といったって、あの世界に『朝日新聞』などと同じ意味のジャーナリズムがあるはずもない。『実話時代』(著者はここの編集者出身)などの実話誌がそのおもな舞台だが、それらは実質暴力団の広報誌的側面が強いわけだし……。
 だがそれでも、さまざまな制約のなか、ヤクザ専門のフリーライターである著者が身体を張って限界ギリギリの記事を書きつづける姿勢には、熱いジャーナリスト魂を感じずにはおれない。本流のジャーナリズムとは拠って立つモラルも方法論も違えど、ここにもやはり一つのジャーナリズムが脈動しているのだ。

 カバーそでに記された内容紹介が本書の魅力を簡潔に表しているので、引用する。

 山口組最高幹部を次々に逮捕した警察の「頂上作戦」に密着し、歌舞伎町のヤクザマンションに事務所を構え、愚連隊の帝王を居候させ、関西の手本引きの賭場に潜入、九州の抗争事件を追いかける。取材歴15年の専門ライターだから書けるヤクザの生態、行動原理、暴力。



 ここに出てくる「歌舞伎町のヤクザマンション」とは、ヤクザの事務所がたくさん入った“特殊マンション”で、劇画『殺し屋1』の主舞台となったマンションのモデル。そんなオソロシイところに、著者は取材のネタの宝庫だということで、あえて入居するのだ。その顛末を記した第一章「ヤクザマンション物語」だけでも、その気になれば優に一冊になり得るものだ。

 そのあとの各章――「ヤクザ専門誌の世界」「愚連隊の帝王・加納貢」「西成ディープウエスト」「暴力団と暴力団専門ライターの未来」――もそれぞれ面白く、内容が非常に濃い一冊。

 さりとて、一方的なヤクザ礼賛には陥っていない。また、この手の本にままある左翼的偏り(「ヤクザも俺たちも、反権力の立場を同じくする同志だ」みたいな)が微塵もないところもよい。仕事柄、ヤクザに「殺すぞ」と脅されたりするのが日常茶飯事の日々を送りながらも、著者の筆致にはどこか乾いたユーモアがあり、読後感はむしろ爽快だ。

 「いい・悪い」を言えば、ヤクザは悪に決まっている。それでも、取材対象に食い下がっていく著者の執念には脱帽せざるを得ない。大マスコミでふんぞり返っているジャーナリスト先生のうち、いったい何人がここまで情熱をもって仕事をしているだろう。

 暴力団専門ライターとしての歩みを余さず明かした本書は、著者にとっても“人生でただ一回書ける本”であり、量産のきくものではあるまい。
 著者は終盤で、自らの執筆活動の主舞台であるヤクザ専門誌にいかに未来がないかを書いている。この著者なら他分野でもひとかどの仕事をなし得るはずで、もっと幅広いノンフィクションの世界に羽ばたいてほしい。

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フォーブズ・R・ブレア『願いがかなうクイック自己催眠』


願いがかなうクイック自己催眠願いがかなうクイック自己催眠
(2004/11)
フォーブズ・R. ブレア

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 フォーブズ・R・ブレア著、大田直子訳『願いがかなうクイック自己催眠』(ベストセラーズ/1365円)読了。

 なぜこんな本を読んだかというと、アマゾンの「見たい夢を見る方法 (明晰夢の見方と活用法)」という「リストマニア」(→こちら) に、「イチオシ」として挙げられていたから。

 このリストマニアを作成したハンドルネーム「夜帆」って、科学解説家の故・志水一夫氏のことですね。だからというわけではないが、最近興味がある夢研究の文献を読み進めるうえで、参考にしているのだ。

 本書は、プロの催眠療法士である著者が、独自に開発した「クイック自己催眠」によって、さまざまな願いごとをかなえ、自己変革する方法を解説したもの。で、その中に、「夢をはっきりと思い出す」「今夜、明晰夢を見る」という2つの「暗示文」があるのだ。

 「クイック自己催眠(Instant Self-Hypnosis)」とは、面倒な練習やプロセス一切抜きで、著者が作成した「暗示文」を心を込めて音読するだけで、潜在意識に訴えかける「自己催眠」ができるというもの。自己催眠状態での暗示文音読が意識を変え、行動を変えることで願いがかなうのだという。

 うさんくさい? うん、思いっきりうさんくさいですね。でも、本書の解説部分を私が読んだかぎり、意外にまっとうな内容で、本気で役に立ちそうである。

 「催眠」というと、ふつうは眠りに近い状態を思い浮かべる。が、著者によればそれは誤解で、「開眼催眠」――目が覚めた状態のまま暗示がかかりやすくするやり方も、じつは催眠のプロの間では一般的なのだという。

 本書は、全体の3分の1ほどが「クイック自己催眠」についての解説。もう3分の1が、さまざまな用途別に用意された35種類の暗示文。残りが、自分のためのオリジナル暗示文の作り方となっている。

 「今夜、明晰夢を見る」という暗示文をぜひ試してみたいのだが、暗示文を音読しなければいけない、という点が非常にハードルが高い。家族に奇異に思われてしまう(笑)。さりとて、黙読では効果が半減以下になるらしい。

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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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