ハービー・ハンコック『イマジン・プロジェクト』


イマジン・プロジェクトイマジン・プロジェクト
(2010/07/21)
ハービー・ハンコック

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 今日は、打ち合わせが一件、原稿の〆切が2本。
 明日からは取材で、2泊3日で滋賀県まで――。



 ハービー・ハンコックの『イマジン・プロジェクト』を聴いた。今月発表された第53回グラミー賞でも、収録曲2曲が賞を得た話題作。

 タイトルの印象からジョン・レノンのカバー集かと思い込んでいたのだが、そうではなかった。「イマジン」のほか、ビートルズ時代の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を取り上げているが、ほかはボブ・ディランやピーター・ガブリエルなど多彩なアーティストのカバーなのである。

 前作『リヴァー』はジョニ・ミッチェルのカバー集にもかかわらず本格的なジャズ・アルバムになっていたが、今作は全曲ヴォーカル入りでもあり、ジャズというよりゴージャスなポップ・ソング集である。『ポシビリティーズ』以来の歌もの/コラボ作品集の集大成という趣。

■関連エントリ→ ハービー・ハンコック『リヴァー』レビュー

 “ハービー版「ウィ・アー・ザ・ワールド」”と評する向きもあった本作。たしかに、「“平和と地球規模の責任”をアルバム・コンセプトに、ジャンルにとらわれない視点から人選された豪華ミュージシャンが参加し、7ヶ国で録音された」という経緯から、そんな印象も受ける。
 
 だが、実際に聴いてみれば、「ウィ・アー・ザ・ワールド」ほどクサくはない(笑)。洗練されたポップ・アルバムとして、若者からオジサンまで楽しめる内容に仕上がっている。BGMにするもよし、じっくり聴き込んでもよしというアルバム。オシャレなのにパワフルだ。

 ラテンもあればレゲエもあり、正統アメリカン・ロックもあればソウル・クラシックもあり、インド音楽もあればアフリカや中東の音楽もあり……と、ジャンルと言語と文化の壁を超えてよい音楽、素晴らしいミュージシャンを集め、1枚のアルバムとしてまとめあげるハービーの力業に脱帽である。

 ジャズ・ピアニストとしてのハービーを期待する向きには、一見肩透かしに映るアルバムかもしれない。だが、プロデューサー的役割に徹しているようでいて、やはり要所要所はハーピーの見事なピアノが全体を引き締めているあたり、さすがだ。「時代は変わる」の終盤やラストの「ソング・ゴーズ・オン」のピアノなど、鳥肌ものである。

 グラミー賞を得た「イマジン」と「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」もよいが、個人的には「ここに死が/エクソダス」と、「ソング・ゴーズ・オン」の2曲が気に入った。

 前者は、サハラ砂漠の遊牧民のグループ「ティナリウェン」の曲とボブ・マーリィの名曲を合体させたもの。後者はインドのムンバイでのセッションで、リルケの詩にメロディをつけた曲をシタールを核に演奏し、インドの人気歌手チットラとチャカ・カーンがデュエットするもの。
 これだけごった煮/異種交配の曲なのに、聴きやすいコンテンポラリー・ポップ・ミュージックとして見事に完成されている。これぞワールド・ミュージック、これぞクロスオーバー、という感じだ(「ワールド・ミュージック」も「クロスオーバー」も死語かもしれないが)。

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小谷野敦『母子寮前』


母子寮前母子寮前
(2010/12)
小谷野 敦

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 小谷野敦(こやの・とん)著『母子寮前』(文藝春秋/1450円)読了。

 さきごろ芥川賞候補にものぼった作品である。私は著者の評論などは数冊読んだことがあるが、小説を読むのは初めて。

 母親をガンで喪った経緯を描いた私小説だ。
 物書きが肉親を看取るまでを描いた作品というと、私が読んだもののうち、近年なら沢木耕太郎の『無名』や、萩原朔美の『死んだら何を書いてもいいわ/母・萩原葉子との百八十六日』を思い出す。本書は、どちらかといえば『死んだら何を書いてもいいわ』(これは小説ではないが)に近いだろうか。

■関連エントリ→ 『死んだら何を書いてもいいわ』レビュー

 私の老母も昨年来入退院をくり返しているので(重篤な病ではないが)、他人事ではなく、いちいち身につまされて読んだ。肉親をガンで亡くした人なら、もっともっと身につまされるだろう。

 「泣かせ」を期待すると、肩透かしを食うだろう。著者の筆致は淡々としていて、読者を泣かせてやろうというあざとさは皆無だからだ。
 本書で私が泣けそうになったのは、1ヶ所だけ。それは、終盤の次のような一節である。

 文筆家の勢古浩爾さんは、私の実家と同じ市の住人である。だから母と、勢古さんの話をしたこともあった。母が病んでから、勢古さんにメールで知らせると、「最後は手を握ってやってください。私は母の手を握ってやることができませんでした」と言われていた。最近出た勢古さんの本にも、そのことが書いてあった。だから、私は進み出ると、母の右手をとった。医師が、頷いた。



 母親を看取るまでの経緯が本作の縦糸なら、横糸は父親との激しい確執だ。著者が「既に父は感情の廃人である」と表現する父親は、妻が末期ガンになってからでさえ暴言を吐き、病院に見舞いにさえ行こうとしない。たしかに、ちょっとひどいと思う。
 
 医療関係者の無神経な対応への苛立ちなど、看取りの過程のディテールがすこぶる鮮やかに描かれている。医師とのやりとり、母親とのやりとりなどが微に入り細を穿って記録されており、逐一メモなどをとっていなかったとしたら、すごい記憶力だ。

 そして何より、最愛の母を亡くすまでの著者の心の揺れがヴィヴィッドにたどられ、強い印象を残す。たとえば、次のような一節。
  

 私は、二つの世界を生きているようだった。一方は、不如意も多いけれどとりあえず順調な仕事があり、若い妻のいる世界で、もう一方が、病んだ母のいる世界だった。私の心は、時に、前者に溺れそうになって慌てて後者を思い出し、あるいは逆に、後者に溺れて前者に立ち返ることができなくなった。そして時がたつにつれて、あとの方が多くなってきた。


 
 同じ私小説でも、西村賢太の諸作のようなドロドロした感じはなく、水彩画のような印象を残す、母親への静謐なレクイエム――。

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中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』


アナーキー・イン・ザ・JPアナーキー・イン・ザ・JP
(2010/09/29)
中森 明夫

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 中森明夫著『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社/1680円)読了。

 元祖「新人類」中森明夫による、「初の純文学作品」。
 「初の小説」ではない点に注意。中森は1980年代に青春小説の傑作『東京トンガリキッズ』や、一部で高い評価を得た『オシャレ泥棒』をものしているのだ。

■関連エントリ→ 『東京トンガリキッズ』文庫化

 本作が版元が言うように「純文学」かどうかは、やや疑問。とくに前半のスラップスティックな展開は、純文学というより、『東京トンガリキッズ』の流れを汲むポップなエンタテインメントの趣である。

 現代のパンク少年の心にアナキスト大杉栄の霊が降りてきて、少年の身体を借りて21世紀の日本を体験する物語。アナーキズムという共通項が、パンク少年と大杉の霊を架橋するわけだ。

 この設定はすごく面白いと思うのだが、読んでみたら内容は期待したほどではなかった。
 まず、主人公のパンク少年や彼が憧れる美少女アイドルなど、登場人物のキャラクターが紋切り型にすぎる。

 少年がセックス・ピストルズのビデオを見て突然パンクに目覚める、なんて設定もひねりがなさすぎだし、雨宮処凛をモデルにした登場人物の名前が「天野カレン」だったりして、人物造型がいかにも安直(宮崎あおいがモデルの「宮崎やよい」なんてのも出てくる)。

 前半にはポップにはじける笑いの要素も強い。いっそのこと全編スラップスティック・コメディにしてしまえばよかったと思うのだが、後半になると妙にシリアスだったりセンチメンタルだったりして、物語がいろんな方向にとっちらかっている。

 中盤、主人公の兄(サブカル系売れっ子ライターという設定)と大杉の霊の対話などという形を借りて披露される中森流の大杉栄論は、たいへん面白い。だが、それは小説として面白いというより、小説の中に無理やり評論を接ぎ木したような趣の面白さなのである。

 そもそも、本作を小説にする必然性があったのだろうか? いっそストレートに大杉栄論ないしは評伝として書いたほうが、中森の力量が発揮できた気がする。

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鈴木大介『家のない少年たち』


家のない少年たち 親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル家のない少年たち 親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル
(2010/12/17)
鈴木大介

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 今日は、名古屋の「名古屋観光ホテル」で、元横浜ベイスターズ監督の権藤博さんを取材。テーマは、コーチ/監督としてのご経験をふまえたリーダー論・人材育成論である。
 権藤さんは70歳を優に超えているのに、身のこなしなどがきびきびしていて、すこぶるダンディ。やっぱり一流アスリート/指導者は違うなあ、と思う。
 気さくに話してくださり、しかも取材テーマに沿うように気を配る細やかな配慮に感じ入った。

 取材を終え、編集者とともに名古屋駅の駅ビル「セントラルタワーズ」で遅い昼食をとったのだが、食事を終えて店の外に出たら、なんと目の前に鳩山前首相夫人の鳩山幸さんが歩いていて、ビックリ。見間違えようもない派手な顔立ちと特徴的なヘアスタイル。うーむ、名古屋で何をしておられたのか(よけいなお世話ですね)。

 
 車中で、鈴木大介著『家のない少年たち――親に望まれなかった少年の容赦なきサバイバル』(太田出版/1680円)を読了。

 鈴木大介のルポは、第1弾『家のない少女たち』、第2弾『出会い系のシングルマザーたち』をそれぞれ読んで、感銘を受けた。
 第3弾にあたる本書は、『家のない少女たち』の読者たちからの声――「家のない少女らの話はわかったけど、家のない少年たちはどうしてるの?」――に答えるべく書かれたものだという。

■関連エントリ
『家のない少女たち』レビュー
『出会い系のシングルマザーたち』レビュー

 前2作に連作短編集の趣があったのに対し、本書には全編を通しての「主人公」がいる。龍真、スギ、マー君、サイケの4人がそうだ。その4人を軸とした長編ノンフィクションの趣。それ以外の「家のない少年たち」も、サブストーリー的に出てくるのだが。

 少年鑑別所で出会った4人は、義兄弟のような絆で結ばれ、出所後はチームを組んで強盗などの犯罪をくり返していく。昔ならヤクザ組織などに吸収されたであろう彼らだが、どの組織にも属さない。「ネットや携帯などのツールの発達が、少年たちを犯罪現場の“主役"にのし上げた」時代ゆえだ。

 そんな「犯罪現場最前線」の少年たちを、著者は綿密な取材のもと、いきいきと描き出す。ほかにも、振り込め詐欺集団で働く少年などの肉声が記録されている。

 著者が出会ったプロの犯罪者になった少年の多くが、親の虐待やネグレクトなどを経験した「家のない少年たち」だった。

 龍真たちは、殴られ捨てられ放置され、腹が減ったから万引きして、万引き覚えたらその糧を年上の不良に搾取されて、トカゲの尻尾切りで一発逮捕、一発少年院。審判しようにも母ちゃんはシャブ中で更生施設の中だ。
 誰も面倒なんか見れないから、満期みっちりブタ箱生活。仮退院や再入院を繰り返せるだけの環境のある不良少年たちを指くわえて見ながら、塀の中で不公平に泣く。



 まるで『スラムドッグ$ミリオネア』のような世界が展開され、「ホントに日本の話なのか?」と驚かされる。主人公の一人・龍真がポツリともらすこんな言葉が印象的だ。

「俺、『クローズ』って漫画嫌いなんすよ。(中略)高校に通えてるヤツが不良とか意味わかんねーし。他のヤンキー漫画みたいのとかみんなほとんど高校行ったりとかで、クソだなって。不良高校行かねーよ。そういう話をスギやサイケたちとして、俺ら高校行くとか考えたこと一度もないし、そういう選択肢ないじゃないですか」



 犯罪を仕事としてつづける「家のない少年たち」を描きつつ、著者は彼らが心の鎧の下に隠した寂しさ、哀しみにまで迫っていく。その点にこそ著者の真骨頂があるのだが、しかし本書は前2作に比べ共感しにくい面がある。「犯罪を礼賛する気はさらさらない」と著者は「まえがき」で言うのだが、それでも犯罪をどこか肯定的に描いている印象を随所で受けるからだ。

 『家のない少女たち』で、援交家出少女たちに著者が注ぐあたたかいまなざしに、私は共感を覚えた。しかし、売春と強盗などの凶悪犯罪は、やはり次元が違うのである。少年たちがくり返す犯罪の模様をここまで詳細に描写する必要があったのかと、やや疑問。なにしろ、その手の場面はまるでノワール(暗黒小説)のようなのだから。

 とはいえ、犯罪者となった少年たちの世界をリアルに描き出してものすごい迫力ではあり、一読の価値はある。

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中村うさぎ『愛という病』


愛という病 (新潮文庫)愛という病 (新潮文庫)
(2010/11)
中村 うさぎ

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 中村うさぎ著『愛という病』(新潮文庫/460円)読了。

 『新潮45』の連載をまとめた最新エッセイ集で、文庫オリジナル。シリアスな内容を予想させる書名だが、実際にはまことに痛快で、笑いにも満ちた一冊だ。

 中村うさぎについて、呉智英は「この人は頭がいい。マスコミがもてはやす女性大学教授連中など較べものにならないほどの優秀な頭脳を持っている」と評したが、本書は彼女の頭のよさが全開になっている印象。

 エッセイ集ではあるが、かなり批評性が強い。連載中に起きた事件(性がらみの出来事がメイン)を取り上げた「時評」としての側面もあるし、女性のセクシュアリティそれ自体に中村ならではの角度で斬り込んだ女性論・性愛論集でもある。
 さらに、中村自身の心に分け入った自己分析としての側面もあり、その種のエッセイでは、自分を突き放して客観的に分析する手際が鮮やかだ。なにしろ、自身の閉経後の心理変化などまで赤裸々に明かしたうえでの捨て身の自己批評なのだから……。
 そして、全編にわたって、「なるほど!」と膝を打つ見事な分析や、世の男ども(私も含む)の身勝手な女性観を突き崩す鋭い批評がちりばめられている。

 たとえば、渋谷区の歯科医一家で浪人中の兄が妹を殺したあの事件を取り上げて、中村は次のように記す。

 自分の価値観を持たず他人の価値観に過剰反応してしまう人々こそが「現代の病」の中核を成している、と私などは思うのである。妹の兄に対する「人マネ」発言(「お兄ちゃんが歯科医になろうとしてるのは、人のマネだ」というもの/引用者注)は、まさに、その核心を突いたものだったのだ。だからこそ、痛いところを突かれた兄は、殺意を抱くほど激怒したのであろう。でも私が兄だったら、「そういうおまえこそ、グラビアアイドルなんか目指してる時点で、他者の評価に自分の存在価値を委ねてるんじゃないか。おまえは自分で思ってるほど自由じゃねーよ」と反論してたね。このふたりは両極端の生き方を志向しているように見えながら、所詮は「同じ穴のムジナ」だったのだ。両者の間の激しい確執と愛憎は、じつに「双方が互いの歪んだ鏡像」であったからに他ならない、という気がする。



 このような、マスコミでしたり顔のコメントを述べる心理学者よりよほど鋭い分析が随所にある。

 さらに、本書には優れたメディア論としての側面すらある。とくに、オヤジ系週刊誌などが女性を揶揄するステレオタイプの記事に対しての反論は、胸のすくような痛快さだ。
 たとえば、山本モナと二岡智浩の不倫(当時、モナは独身)に際しての週刊誌報道を、中村は次のように斬って捨てる。

 今回の「不倫」だって、モナの立場は「飲んでることを知ってて運転させた助手席の友人」であって、「飲酒運転」そのものをやったのは二岡のほうだよ、明らかに。なのにモナばかりバッシングする『週刊現代』の意図は?
(中略)
 何故、モナを「病的尻軽女」と呼んでおいて、二岡を「病的ヤリチン」とは呼ばないのか?
(中略)
 ねぇ、モナが尻軽だからって、あんたに迷惑かけた? つーか、もしモナがリアルに隣に座ってて誘ってきたら、あんたは腹を立てるどころか大喜びでラブホに付いてくクチなんじゃない?
 そこなのである。正義を振りかざしてモナに天誅を加えるようなポーズを取りつつ、その下半身は「尻軽モナ」に半勃起……そんな姿が透けて見えるからこそ滑稽なのだよ、この記事は。つまり、この「過剰反応」としか言いようのない怒りのポーズは、欲情の隠蔽にしか見えないのだ。



 本書で私がいちばん目からウロコが落ちる思いを味わったのは、「ダメ男はなぜモテるか」という一編。これはいわゆる「だめんず・うぉ~か~」となる女性の心理を、「ナウシカ・ファンタジー」なる概念を用いて見事に分析した内容だ。そこには、次のような一節がある。

 私の女友達が、このたび、またもダメ男に引っ掛かった。他人から見ると軽薄で頭の悪いヤリチン男に過ぎないのだが、彼女は「私が彼の最後の女」と言い放ち、周囲がどんなに忠告しても「彼を信じる」の一点張りだ。彼女は「彼」を信じているのではない。自分のファンタジーを信じているのだ。人間ってのは、他者への信頼なんて簡単に放棄できるが、自分のファンタジーにだけは強固に執着する。詐欺師に騙された人間がなかなか気づけないのは、他人を信じるお人よしだからではなく、詐欺師によって与えられたファンタジーを崩せないからだ。
 今にして思えば、ホストにハマった時の私も「ナウシカ」だったのかもしれない。女を利用する事しか知らないホストが自分にだけは本物の愛を捧げてくれる、というベタベタな夢を見たかったのだ。もっとまともな男に惚れなよ、と、何人もの友人たちから言われた。でも、相手がホストじゃないと私の夢は成就しないし、恋愛の手柄感も得られなかったのである。



 ところで、ここに出てくる「またもダメ男に引っ掛かった」「私の女友達」って、きっとくらたまのことですね(笑)。

■関連エントリ→ 中村うさぎ『私という病』レビュー

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村上直之『近代ジャーナリズムの誕生』


近代ジャーナリズムの誕生 [改訂版]  イギリス犯罪報道の社会史から近代ジャーナリズムの誕生 [改訂版] イギリス犯罪報道の社会史から
(2011/01/05)
村上 直之

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 村上直之著『近代ジャーナリズムの誕生 [改訂版]――イギリス犯罪報道の社会史から』(現代人文社/2625円)読了。

 1995年に岩波書店から刊行した同名書籍を、加筆訂正した改訂版である。私は初読。
 別途書評原稿を書いたのでくわしい感想を書けないのだが、近代ジャーナリズムを誕生時点にまで遡って検証する試みである本書は、「ウィキリークス」の登場や深刻な新聞不振などによって、ジャーナリズムとは何かが改めて根源的に問われているいまこそ、読まれるべきだろう。

 ジャーナリズム論であると同時に、「そもそもニュースとは何か?」という大きな問いに答えようとした書でもある。たとえば、次のような記述がある。

 あえて誤解をおそれずにいえば、ニュースの「速報性」の本質は、起こった出来事を可能なかぎり迅速に報道しようとする努力のなかに存在するわけではない。(中略)メディア技術の進歩とは、これまでの常識が語るように起こった出来事を事後的に伝達する手段の発達だったのではない。むしろ、すでにその成立の当初から、起こりつつある出来事を即時的に伝えようとするコミュニケーション手段の発達であったということである。いいかえれば、ニュースの「速報性」の本質とはまさに《同時性》への飽くなき志向のうちにこそ存在するということである。



 また、副題に「イギリス犯罪報道の社会史から」とあるとおり、本書は今日的な犯罪報道をその成立時点にまで遡って検証する試みでもある。したがって、現今の犯罪報道を考えるうえでも、重要な示唆を与えてくれる。

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サンタナ『ロータスの伝説』ほか


ロータスの伝説(紙ジャケット仕様) (22面体ジャケット仕様)ロータスの伝説(紙ジャケット仕様) (22面体ジャケット仕様)
(2006/06/07)
サンタナ

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 レンタルでまとめて聴いたCDの感想をメモ。

 サンタナの1973年の日本公演を収めたライヴ盤『ロータスの伝説』(発表は74年)を、初めて聴いた。
 ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』などと並んで、日本録音のライヴ・アルバムの傑作に数えられる作品。3枚組のボリュームに気圧(けお)されて、私はこれまで敬して遠ざけていた。横尾忠則が手がけた22面体の変形ジャケットも完全再現した、思い入れたっぷりの紙ジャケ盤である。

 演奏に先立って司会者から、メンバーの希望で観客とともに1分間の黙祷(瞑想)を捧げたい旨がアナウンスされる。そして、きっかり1分間無音の状態がつづく。それがそのままアルバムに収録されていることに、度肝を抜かれる。
 
 演奏が始まると、3曲目の「果てしなき道」あたりから、すさまじい音圧でリズムとギターの洪水が身を包む。インスト曲が多く、ラテン・ロックというよりもむしろファンク寄りのジャズ・ロックという趣。じっさい、本作でも収録曲が演奏される『キャラヴァンサライ』はジャズ・ロックの名盤として評価されているのだ。

 3枚組/2時間以上にわたる演奏は、宗教的といってもよい不思議な熱狂と緊張感に満ちている(「マントラ」なんて曲もある)。ちょっと類を見ない迫力のライヴ・アルバム。名作の誉れ高いのもうなずける。

 日本のバンド、「MONKEY MAJIK」のベストアルバム『MONKEY MAJIK BEST ~10 Years & Forever~』も聴く。
 「Around The World」というヒット曲しか聴いたことがなかったが、ほかにもいい曲が多い。とくに、津軽三味線の「吉田兄弟」とコラボした「Change」という曲は最高の出来だと思った。

 

 ただ、バラード・ナンバーは甘ったるすぎて、私には退屈。この手の洋楽テイストのJロックなら、オーシャンレーンのほうが好みだな。

 ジャズ・シンガーのアン・サリーが2007年に出した『こころうた』も聴く。これはジャズというより、子守歌のイメージでつらぬかれたアルバム。「虹の彼方に」や「椰子の実」などの有名曲も取り上げているのだが、ひねりがなさすぎてつまらなかった。
 私は、アン・サリーのアルバムでは『ブラン・ニュー・オリンズ』(2005年)がいちばん好きだ。

■関連エントリ→ アン・サリー『ブラン・ニュー・オリンズ』レビュー

 あと、最近ネット・ラジオの「ACCU JAZZ」で聴いて気に入ったイリアーヌ(ブラジルのジャズ・ピアニスト兼ボサノヴァ・シンガー)のアルバムも何枚か聴いた。
 この人、ピアノは清冽でいいんだけど、ボサノヴァ・シンガーとしては没個性であまりいいと思わない。元々はピアノ専業で、ステージでの余興としてやっていた歌が人気を集めて歌ものアルバムも出すようになったのだそうだ。こんどはピアノだけ弾いているアルバムを聴いてみよう。

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池澤夏樹編『本は、これから』


本は、これから (岩波新書)本は、これから (岩波新書)
(2010/11/20)
池澤 夏樹

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 池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書/861円)読了。
 作家、学者など37人の読書家たちが、本の「これから」についての思いを綴ったオムニバス形式のエッセイ集。

 当然、電子書籍をめぐるあれこれが主要テーマとなるのだが、それにしては寄稿者の中に“電子書籍寄りの文化人”(と、私が思っている人。電子書籍本の著者など)がごく少ない。わずかに、荻野正昭など2、3人がいるのみ。
 佐々木俊尚、西田宗千佳、津野海太郎、山根一眞、橋本大也、歌田明弘、津田大介あたりは登場してもよさそうなものだが、出てこない。そのかわりといおうか、ベテラン書店員や書店経営者などが何人も登場する。そして、寄稿者の平均年齢がやたらと高めで、還暦過ぎた人が目立つ。
 こうした人選に、本書の立ち位置が如実に示されている。岩波の本だから当然といえば当然だが、紙の本寄り、「電子書籍懐疑派」寄りの内容なのだ(むろん、37人の中には例外もある)。

 それはべつにいいのだが、本書の37編はかなり玉石混淆、それも「石」が大半で、あまり得るところのない本だった。電子書籍懐疑派の言い分には、“愛書家のたんなる感傷”としか思えないものも多いし……。

 池澤夏樹・編となっているが、それは書き手の人選からかかわったのか、それとも「名前を貸しただけ」(出版界にはよくあること)なのか? 企画段階からかかわったのだとしたら、「池澤の編著にしては質の低い本だなあ」という印象だ。

 私にとって目からウロコの卓見があったり、感銘を覚えたりした原稿は、6編のみ。寄稿者の名前でいうと、内田樹、桂川潤、出久根達郎、土屋俊、常世田良、松岡正剛の各氏のものがよかった。
 それ以外のエッセイには、箸にも棒にもかからないものが少なくない。まあ、37編中の6編に読む価値があれば、打率としては悪くないか。

 
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権藤博『教えない教え』


教えない教え (集英社新書)教えない教え (集英社新書)
(2010/11/17)
権藤 博

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 権藤博著『教えない教え』(集英社新書/735円)読了。

 1998年に、監督就任一年目にして横浜ベイスターズを日本一に導いた名将によるリーダー論。おもにコーチ/監督としての自らの経験をふまえ、リーダーのあるべき姿を論じている。
 来週、著者の権藤さんを取材するので、資料として読んだ。

 私は権藤さんの現役時代は知らないのだが、中日の投手時代、1年目に35勝、2年目に30勝を上げ(!)、その度外れた連投ぶりに「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれたほどの人なのだという。まあ、年20勝も至難である現在では考えられないことだが……。

 現役時代の思い出話も面白いが、なんといっても圧巻は監督時代の人材育成、人心掌握術を明かした部分。野球ファンのみならず、経営者などリーダーなら学ぶべき点が多々あるはずだ。

 『教えない教え』という書名は、権藤さんの人材育成術の核を表したもの。
 「“やらされている”うちはものにならない」との信念をもつ権藤さんは、選手の自主性を何よりも重んじた。監督就任初日の全体ミーティングでも、述べたことは「みなさんはプロですから、プロらしくやってください。以上!」の一言だけだったという。
 ただし、たんなる「放任」ではない。選手たちを見守り、コミュニケーションをとり、起用については考え抜いたうえで、なおかつ自主性を重んじるのである。

 部下に“何かをさせる”時代はもう終わった。部下が自ら動き、“何をすべきなのか”をそれぞれが考えられるようになって初めて強い集団が形づくられる。
 トップに立つ人間は、部下が動きやすいように、その道しるべをつくってやるだけでいいのだ。



 自分より大きな相手に立ち向かっていくには、相手以上の練習量、仕事量をこなし、さらにそこに自分なりの工夫を加えていかなければいつまでたっても勝つことはできない。
 工夫、努力といったものは自主性があって初めて培われていくものだ。やらされているではなく、やるという感覚がなければ何事も身につかないのである。



 ……と、このように、アドバイスの一つひとつに普遍性がある。そして、語り口はすこぶる平明で、野球にくわしくなければ理解できないような記述は一つもない。
 リーダー論の好著だと思う。
 
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橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』


残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
(2010/09/28)
橘玲

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 橘玲(たちばな・あきら)著『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(幻冬舎/1575円)読了。

 経済小説作家の著者による、風変わりな“自己啓発書”。「風変わり」というのは、本書が既成の自己啓発書に対する根源的批判を土台に書かれているからだ。
 「あとがき」には、次のようにある。

 この本は、自己啓発のイデオロギーへの違和感から生まれた。
 能力に恵まれた一部のひとたちが、その能力を活かして成功を目指すのになんの文句もない。でもぼくは自分が落ちこぼれだということをずっと自覚してきたから、「努力によって能力を開発しよう」といわれるとものすごく腹が立つ。その一方で、「能力がなくても生きる権利がある」とナイーヴにいうこともできない。いくら権利があったって、お金が稼げなければ生きていけないのだから。



 この短い一節の中に、本書の立ち位置が言い尽くされている。

 少し前の「勝間和代対香山リカ」論争の読み解きから始まる本書は、脳科学や進化心理学、遺伝学、動物行動学など、さまざまな学問の知見を自在に駆使して、自己啓発イデオロギー(能力は開発できる・わたしは変われる・他人を操れる・幸福になれる)の「間違い」を完膚なきまでに論破していく。能力は増強できないし、わたしは変えられないという、身も蓋もない話がさまざまな角度から論証されていくのだ。

 といっても、自己啓発書をバッサバッサとやっつけていくような、下品で威勢のよい本ではない。著者の語り口はウイットに富み、すこぶる知的で上品。本書自体が現代社会論として価値をもっている。

 著者は経済の専門家ではあっても科学者ではないから、本書で開陳されるさまざまな科学的知見は、ありていに言ってほかの本からの受け売りだ。
 しかし、地の文に引用を織り込んでいくやり方がすごくうまいので、「人のフンドシで相撲をとっている」感じがしない。積み重ねた受け売りを、著者独自の見識として構築し直しているのだ。そのうまさたるや、凡百の自己啓発書とは別次元にある感じ。
  
 能力は増強できないし、わたしは変えられない。よって、「わたしは変われる」を前提に幸福を約束する自己啓発書の内容も、眉ツバと言わざるを得ない。
 ……と、そこで終わってしまったら夢も希望もない本になってしまうが、本書は最後に“いまの自分のままで幸せをつかむ方途”を教えてくれる。

 残酷な世界を生き延びるための成功哲学は、たった二行に要約できる。

 伽藍を捨ててバザールに向かえ。
 恐竜の尻尾のなかに頭を探せ。



 「はじめに」で提示されたそんな言葉の謎解きは、終盤――4章の最後と終章でなされている。意味については、本書を読まれたし。

 既成の自己啓発書のようにやるべきことを具体的に指南してくれる本ではないが、私は十分啓発された。“グローバル時代の幸福論”としても面白く読める。

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中山可穂『感情教育』


感情教育 (講談社文庫)感情教育 (講談社文庫)
(2002/05/15)
中山 可穂

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 中山可穂著『感情教育』(講談社文庫/620円)読了。
 この間読んだ『白い薔薇の淵まで』がよかったので、旧作を読んでみた。これもまた、女性同士の恋愛小説である。

 著者が本作について書いた文章(→こちら)によれば、これは私小説なのだという。著者自身と人妻との道ならぬ恋を元にした恋愛小説なのだ。

 全3章。第1章でヒロインの一人・那智の半生が、第2章でもう一人のヒロイン・理緒の半生が描かれる。第2章の最後で2人は出会い、第3章で恋の顛末が描かれるという構成だ。

 読者の反応よりも、批評家の言葉よりも、彼女の感想が一番こわかった。第一章は懐かしいアルバムを見るように、第二章は自分の知らないアルバムを見るように読んだ、と彼女は言った。第三章はどうだった、とおそるおそる訊ねると、穏やかな春の海が見たくなった、と恥ずかしそうに答えてくれた。わたしは感動して泣いてしまった。今でもこのときのことを思い出すと、泣けてくる。あれほど美しい愛の言葉を、わたしは聞いたことがない。



 ……と著者が書いているように、理緒は著者自身の、那智は著者のかつての恋人である人妻の分身なのだ。

 レズビアンの恋愛というものを、これほど生々しく、美しく描いた作品を私は知らない。
 『白い薔薇の淵まで』が山本周五郎賞を得たのに対し、本作は野間文芸新人賞の候補にのぼりながら受賞を逸している。そのことが示すとおり、エンタテインメントとしての完成度・洗練度は『白い薔薇の淵まで』のほうが上だ。しかし、ある意味でぎごちない本作のほうが、「書かずにはいられなかった」という切実さが強く感じられて、私は好きだ。

 印象に残る文章がたくさんある。たとえば、理緒が高校生のころ、同じ学校の美少女たちに寄せる思慕を綴った一節――。

 彼女たちに理緒がさりげなく注ぐ眼差しや賛美の言葉を、それが恋とも気づかぬままに、彼女たちは厚い友情として享受した。視線に温度があることを、さしのべる手に痛みが宿っていることを、くちびるに悲しみが寄り添っていることを、彼女たちはついに気づかなかった。薔薇の葉裏に潜む青虫の孤独など、薔薇にとっては知ったことではなかったのだ。



 次の一節も、同性愛うんぬんを抜きに、普遍的な「愛ゆえの懊悩」を表現した言葉として胸を打つ。 

 断ち切ろうとしても断ち切ろうとしてもどうしても断ち切ることのできない那智への気持ちを、友情に変換できないかと理緒はずいぶん悩んだことがある。セックスさえしなければ、自分たちの関係は親友と変わらない。親友ならば恋人と違って別れることはない。恋がいつか終わってしまうかもしれないことをおそれなくてもいいのだ。
 でも、そんなことは不可能だった。セックスなしで那智とつきあうことなんてできなかった。今から那智と親友としてやり直すこともできるわけがない。自分たちは恋人以外の何者でもなかった。心と体で離れがたく結びついていた。それこそが愛だ。愛とは相手の血を吸って生きることだ。魂は肉体のなかにあるのだ。



 さきに引いた「これは私小説である」という文章は文庫版にも収録されていないのだが、その中の次の一節が、本作の特別な価値を示してあまりある。

 同性同士のカップルには、子供をつくることができない。それがせつなくて、やりきれなくて、なんとしても二人の愛の結晶を遺したくて、わたしは『感情教育』という小説を書いたのかもしれない。離婚しても子供が育っていくように、二人が別れても小説は残る。彼女を失った今となっては、それだけがわたしの魂を救ってくれる。



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佐々木常夫『そうか、君は課長になったのか。』ほか


そうか、君は課長になったのか。そうか、君は課長になったのか。
(2010/02/20)
佐々木 常夫

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 昨日は埼玉の大宮駅構内で、「駅弁界のカリスマ」三浦由紀江さんを取材。三浦さんは、初対面なのに古い知り合いのように話ができる不思議な人間的魅力をもつ女性であった。

 で、今日は千葉県浦安にある東レ本社(第2本社ビル)で、最近ベストセラーを連発されている佐々木常夫さん(東レ経営研究所前社長)を取材。

 佐々木さんのご著書『ビッグツリー』と『部下を定時に帰す「仕事術」』を読んで取材に臨んだところ、近著の『そうか、君は課長になったのか。』と『働く君に贈る25の言葉』を贈呈くださり、恐縮。そのうち、『そうか、君は課長になったのか。』は帰りの電車でさっそく拝読した。

 私はサラリーマン経験がないので、会社内での働き方についてはよくわからない部分もあるのだが、それでも啓発されるところの多い本だ。

 また、『ビッグツリー』は仕事術の本ではなく、「家族再生」までの壮絶な闘いを綴った感動的な自伝である。
 佐々木さんは、奥様が肝炎とうつ病を併発され、ご長男は高機能自閉症という困難な状況のなか、「主夫」としての役割も果たしながら大企業の第一線でたしかな結果を積み重ねてこられた。
 もちろん「強い人」なのだが、お話をうかがっての印象は、「ロバストネス」――すなわち、竹がしなりながらも折れないような「しなやかな強さ」をもった方だということ。

 世の中にはすごい人がたくさんいるのである。さまざまな取材を重ねながら、いつもそう思う。

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中崎タツヤ『もたない男』


もたない男もたない男
(2010/11/27)
中崎 タツヤ

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 中崎タツヤ著『もたない男』(飛鳥新社/1365円)読了。

 『じみへん』などの作品で知られるマンガ家が、自らの特異な生活ぶりを語った一冊。
 「変な作品を作っているクリエイターが、会ってみたら意外に普通の人だった」というのはままあることだが、これは「変なマンガを描いている中崎タツヤは、やっぱり変な人だった」という本だ(笑)。

 タイトルからもわかるとおり、中崎は徹底した「もたない生活」を送っている。本書には巻頭8ページにわたって彼の仕事部屋がカラーグラビアで紹介されているのだが、あたかも「人が引っ越していったあと」のように何もない。

 とはいえ、本書は僧侶が出すような「無所有」の哲学を説いた本ではないし、最近流行の「断捨離」のすすめでもない。「無所有」や「断捨離」がモノへの執着を断つ(減らす)ことで心を自由にしようとするものであるのに対し、中崎はむしろ「もたないこと」「捨てる」ことに執着しまくっているのだ。

 CDを買い始めると、好みはめちゃくちゃなりに、ジャンルごとに揃えていこうと思ったりもします。
 しかし、ときどき並んだCDをみながら、無駄なものはないかと血眼になるくらいの勢いでチェックしていって、捨てるものをみつけてしまうからたくさん揃わないんです。無駄なCDを間引いていって、少しずつ厳選され、最後には一枚もなくなってしまいます。
(中略)
 いつも部屋の中をぼんやり見回しながら、捨てるものはないかと探しています。



 「捨てる技術」に長けているというより、捨てることにとらわれた強迫神経症に近いのである。

 このビョーキを私は“スッキリ病”と称しているのですが、そのくらいライトな感覚で自分の性癖をとらえています。



 じつは私にも、中崎ほど重症ではないが、よく似た傾向がある。モノを捨てることに快感を覚えるのである。
 もう二度と読まないであろう本やCDなどは、ガンガン捨ててしまう。資源ゴミの回収日とかもちゃんと把握していて、毎回いそいそとモノを捨てる。つい先日もカセットテープとビデオテープを全部捨てて、すごくスッキリした。
 加齢とともにそうした傾向は深まりつつあり、最近では、若いころには大事にとっておいた思い出の品(つまり、なんの実用にもならないモノ)なども、抵抗なく捨てられるようになった。

 ゆえに、中崎の“スッキリ病”に共感を覚える部分もある。が、中崎は私にはとても真似できない境地に達している。なにしろ、自分が描いたマンガ原稿を捨ててしまう(!)というのである。

 二年くらい前に、すべての原稿を捨てました。(中略)ついでに一冊ずつとっておいた自分の単行本も全部断裁して捨てました。
(中略)
 出版社から返却された漫画原稿は、自分でシュレッダーにかけて捨てています。



 ううむ……。このへんの記述はファンが読んだら複雑な気分になるだろうな。

 断捨離ブームに冷水をぶっかけるような、ある種の「奇書」。もっとゲラゲラ笑える本かと思っていたのだが、読んでみたら笑えるというより言葉を失うような突き抜けた内容だった。

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『アクロス・ザ・ユニバース』(サントラ)


Across the Universe (Dlx)Across the Universe (Dlx)
(2007/10/16)
Various Artists

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 ビートルズ・ナンバーを用いたミュージカル映画『アクロス・ザ・ユニバース』のサントラを輸入盤で購入。私はまだ元の映画を観ていないのだが、ネットで偶然聴いた本作からの数曲がよかったので買ってみた。

 ビートルズ・ナンバーを用いたミュージカル映画といえば、ビージーズとピーター・フランプトンが出た『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1978年)というのがあった。これも私は観ていないが、映画としての出来は最悪らしい。渋谷陽一がラジオ番組で、「ロック・ファンをナメちゃいけないと思うんですよね」と怒りの口吻で酷評していたのを覚えている。
 ただ、映画としての出来はともかく、サントラはわりとよくできていた。いまだにラジオなどでよくかかるエアロスミスの「カム・トゥゲザー」やアース・ウィンド&ファイアーの「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」は、元はこの映画の中の曲である。

 『アクロス・ザ・ユニバース』は、『サージェント~』とは違って映画としての出来もよいらしい。
 このサントラも、ビートルズのカヴァー集として独立した価値をもつものである。『アイ・アム・サム』のサントラが、映画を離れてビートルズ・カヴァー集としても秀逸だったように……。

 U2のボノが歌う「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」とか、ジョー・コッカーがドスのきいた声で熱唱する「カム・トゥゲザー」とか、聴きどころも多い(つまらないカヴァーもないではないが)。

 U2といえば、『ラトル・アンド・ハム』の中で彼らが演った「ヘルター・スケルター」のカヴァーは最高だったなあ。
「これはチャールズ・マンソンがビートルズから盗んだ曲だ。いま、俺たちが盗み返す!」とボノが言って始まる轟音リフ……。ビートルズ・カヴァー史に輝く名カヴァーだったと思う。

 映画に主演したジム・スタージェスとエヴァン・レイチェルウッドの2人も、多くの曲でヴォーカルを披露している。2人ともなかなか歌がうまくて、プロのシンガーたちの歌と比べてもまったく遜色ない。

 とくに私が気に入ったのは、エヴァン・レイチェルウッドが歌う「ホールド・ミー・タイト」と「イット・ウォント・ビー・ロング」の2曲。これがじつに素晴らしい。
 彼女の歌いぶりはキュートでパワフル。初期ビートルズのロックンロールのきらきらはじけるような魅力を見事に再現して、ポップ・ミュージックの原初的なパワーを改めて認識させる。
 マリリン・マンソンとつきあっているだけあって、エヴァン・レイチェルウッドはカワイイ顔してロックの何たるかをよく理解しているのである。





 歌があまりにド下手でガッカリしたスカーレット・ヨハンソン(→このレビュー参照)とは違って、エヴァン・レイチェルウッドはシンガーに転身しても十分やっていけると思う。彼女がソロ・アルバムを出すことがあったら、私は絶対買う。

 なお、この映画のサントラには2枚組のデラックス・エディションと収録曲を絞った1枚ものがあるのだが、私は2枚組を購入。1枚もののほうには「ホールド・ミー・タイト」が入っていないからである。

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車谷長吉『物狂ほしけれ』


物狂ほしけれ物狂ほしけれ
(2007/10)
車谷 長吉

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 車谷長吉著『物狂ほしけれ』(平凡社/1680円)読了。
 車谷のエッセイ集のうち、読み逃がしていた一冊。

 前半は「徒然草独言」という連作エッセイ。タイトルのとおり、吉田兼好の『徒然草』の一段を取り上げ、その内容に即したエッセイを綴るというもの。本書のタイトルも、『徒然草』冒頭の名高い一節――「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ」――から取られている。

 天の邪鬼でひねくれ者であるところ、そして何より、“世捨て人になりそこねた「贋世捨て人」”というイメージ……兼好と車谷には、相通ずる部分がいくつもある。車谷が『徒然草』に深い共鳴を寄せるのは、よく理解できる。ゆえに好企画だとは思うが、エッセイとして面白いかといえばさほどでもない。
 『徒然草』の内容についての斬新な解釈があるわけでもなく、「いまさら『徒然草』でもあるまい」という気がしてしまう内容なのだ。

 後半の「反時代的毒虫の作法」は、相変わらずの車谷節ともいうべきふつうのエッセイ群。
 これまで車谷作品を愛読してきた者にとっては、「どっかで読んだ話」が大半。しかも、過去に発表したエッセイや講演記録からの引用がやたらに長い。
 たとえば「金と文学」という一編は、全24ページ中じつに12ページまでが過去の自作エッセイの引用で占められている(!)。ひどい手抜きもあったものだ。

 前半の「徒然草独言」も、作品の性格上、『徒然草』からの引用と現代語訳が半分くらいを占めている。要するに半分近くは引用で成り立っている本であるわけだ。

 というわけで、本書はもろ「やっつけ仕事」。
 車谷のエッセイ集でよいのは、『錢金(ぜにかね)について』と『業柱(ごうばしら)抱き』。その2冊を読んでいる人にとっては読む価値のない本である。

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中山可穂『白い薔薇の淵まで』


白い薔薇の淵まで (集英社文庫)白い薔薇の淵まで (集英社文庫)
(2003/10/17)
中山 可穂

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 中山可穂著『白い薔薇の淵まで』(集英社文庫/460円)読了。
 2001年の山本周五郎賞受賞作。大人の女性同士の恋を描いた小説である。

 この作家の作品を読むのは初めてだが、素晴らしい文章を書く人だと思った。詩的で端正で、心地よいリズムと旋律がある。読んでいると、その旋律に身を任せているような音楽的快感が味わえる。
 女性同士の性愛の描写もふんだんにあるのだが、それが少しも下品ではない。官能的だが品格があるのだ。

 著者自身も、レズビアンであることをカミングアウトしている人なのだそうだ。だからこそであろう、ヒロインと夭折した作家・山野辺塁の恋のディテールに、ただならぬリアリティがある。

 すでに40歳を超えた現在のヒロインが、ニューヨークの紀伊國屋書店で山野辺塁の英訳著作に出合う場面から、物語は始まる。

「この作家はまだ若いの?」
「二十八歳で亡くなったの。十年前に」
 テン・イヤーズ・アゴゥ、と言ったとき、目の前でするすると時の呪縛が解けて、わたしは雨の匂いのする東京の本屋にいた。



 そこから回想されていく2人の恋――。最後まで読み終えたあとでもう一度冒頭の場面に戻ると、一つひとつの言葉が最初に読んだときとは段違いの深さで心に刺さってくる。極上の恋愛小説だと思った。

 印象に残った一節を、書きとめておく。

 性別とはどのみち帽子のリボンのようなものだ。意味などない。リボンの色にこだわって帽子そのものの魅力に気がつかないふりをするのは馬鹿げている。自分の頭にぴったり合う帽子を見つけるのは、実はとても難しいことなのだ。東京じゅうの帽子屋を探して歩いてみるといい。百個に一個あるかどうかだ。だから、これだと思う帽子が見つかったときは、迷わず買ってしまったほうがいい。リボンが気に入らなかったら取ればいいのだ。肝心なのは宇宙の果てで迷子になったとき、誰と交信したいかということだ。



 塁というひとはたぶん、純愛から入ると、抱けなくなってしまうのかもしれない。崇拝しすぎて偶像になり、生身の女ではなくなる。わたしはそのように扱われたかったとは思わない。崇拝されるより、欲情されるほうがはるかに幸せだと思う。塁のおかげでわたしは性の深淵に触れることができたのだ。どんなに傷つけられ、踏みにじられ、ぼろぼろにされても、このような関係は二度と誰とも結べないだろう。一生に一度しかゆるされぬ種類の快楽をくれた塁に感謝して、幕を閉じるべきなのだろう。



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飴村行『粘膜人間』


粘膜人間 (角川ホラー文庫)粘膜人間 (角川ホラー文庫)
(2008/10/25)
飴村 行

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 今日は、午後から中島岳志さん(北海道大学准教授)と寺脇研さん(元文部官僚)の対談取材。夕方からは、場所を変えて歌手の天童よしみさんを取材。まったくタイプの異なるダブルヘッダー取材だったので、当方のアタマの切り替えがたいへんである。

 中島さんの取材は3度目。寺脇さんと天童さんは初対面。寺脇さんといえば、私はかつて『シティロード』の映画評連載を愛読していた(と、ご本人にも申し上げる)。ゆえに、私の中では元文部官僚というより映画評論家としてのイメージのほうが強い。

 天童さんは、思い描いていたより小柄でかわいらしい方。148㎝なのだそうだ。
 取材準備として『天童よしみ全曲集』というのを何度も聴いて臨んだのだが、ふだん演歌を聴かない私が聴いてもその素晴らしい歌声に感動。ジャンルを超越した「歌の力」を痛感する。個人的には、「珍島物語」のようなポップス調の曲より、こぶしのきいたド演歌のほうが好きだ。

 天童よしみという芸名の名付け親は、あの「えんぴつ無頼」竹中労なのだそうだ。取材テーマからはややズレたが、個人的興味から竹中との思い出についても少しうかがう。

 二つともそれぞれよい話が聞けて、「中身の濃い一日だったなあ」と充実した気分になる。

 

 行き帰りの電車で、飴村行(あめむら・こう)著『粘膜人間』(角川ホラー文庫/540円)を読了。第15回日本ホラー小説大賞長編賞受賞作。
 最新作『爛れた闇の帝国』の著者インタビュー(→こちら)を「エキサイト・レビュー」で読んで興味を抱き、3年前のデビュー作を読んでみたもの。

 戦時中の日本を舞台に、河童たちが日常の中に溶け込んで登場する、マジック・リアリズム的ホラー。グロテスクな暴力描写とエロス満載のエンタメ小説なのだが、河童たちの世界に神話的な趣があって飽きさせない。『粘膜人間』とは、ぬらぬらした体をした河童のことなのだろう。

 ものすごくテンポのよい小説で、ものの30分ほどであっという間に読み終わる。で、あとには何も残らないのだが、つかの間の娯楽としてはなかなかハイクオリティー。

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的場昭弘『一週間de資本論』


一週間 de 資本論一週間 de 資本論
(2010/10/22)
的場 昭弘

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 的場昭弘著『一週間de資本論』(NHK出版/1050円)読了。

 同タイトルのテレビ番組を元にした本。難解さで知られる大著『資本論』を、一週間(放送は全4回/100分)で読んでしまおうという番組だったそうだ。ただし、本文は放送原稿から大幅に書き換えられているとのこと。

 各章の章末に著者と識者(森永卓郎、湯浅誠、浜矩子、田中直毅)との『資本論』をめぐる対談が収められている。この部分はほぼ放送内容そのままであるようだ。
 対談は、“『資本論』の現代的意義”ということが通しテーマとなっている。各対談から浮かび上がるその答えが四者四様であるのが興味深い。

 恥ずかしながら私は『資本論』を通読したことがないので、「大枠くらい知っておかないとな」ってことで読んでみたもの。
 入門書である本書で読んでさえ、やっぱりかなり難解。マルクス経済学者の人たちって、こんな難しいものに生涯をかけているのだなあ。

 本書は逐条的な解説本ではなく、『資本論』の肝の部分にのみグイッと寄る形で作られている。
 たとえば、全4中の第3章は「恐慌は資本主義にとって必然か?」で、『資本論』の中の恐慌をめぐる論考のみを抽出して解説している。

 ともあれ、一読して『資本論』の大枠が理解できたような気分(笑)にはなった。

 各章の前半では、『資本論』に関する一般的解釈が解説される。対して後半では、「裏読み」と銘打って、章テーマについての一重立ち入った解釈が開陳されている。
 
 いちばん面白かったのは、第1章「資本主義社会の謎」の「裏読み」部分。そこでは、『資本論』の深層にある宗教性・呪術性(!)が論じられている。

 どんな商品が貨幣になってもいいのに、貨幣になれる商品はあらかじめ金(きん)と決まっていた。
(中略)
 なぜなら貨幣になれるものは、神々しさ、呪術性が必要だからです。最初から金にしか可能性はないとマルクスはいうのです。その理由は、金が等質であり、分割可能であり、劣化せず、もち運びが便利で、しかも稀少で膨大な労働が必要だからではありません。最初からその商品が品格において神々しいからである。
(中略)
 資本主義社会は中世の魔術を脱魔術化し、それを再度魔術化することで、資本の謎を呪術のような世界にしてしまったわけです。


 
 かつて、共産主義を宗教の一形態としてとらえ、キリスト教との関係から論じたのは歴史家アーノルド・トインビーであった。『資本論』も、思いのほか宗教的な書物であるようだ。

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内田樹『街場のメディア論』


街場のメディア論 (光文社新書)街場のメディア論 (光文社新書)
(2010/08/17)
内田 樹

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 昨日は、私の老母が心臓カテーテル手術を受けたため、付き添いで群馬大学付属病院(前橋)まで行った。
 朝6時に家を出て、帰りは夜10時すぎ。手術はけっきょく5時間半かかった。カテーテルというとかんたんなイメージがあったのだが、心臓に手を加えるというのはやはりたいへんなことなのである。
 とはいえ、術後2日で退院できるとのことなので、メスを入れるよりは格段にダメージが少ないのだろう。

 ほんとうは退院まで付き添うべきなのだろうが、仕事山積みでそうもいかず。後ろ髪引かれる思いで病院をあとにする。

 

 行き帰りと手術終了を待っている間に、3冊本が読めた。1冊ずつ感想をアップする。
 まずは、内田樹著『街場のメディア論』(光文社新書/777円)の感想を。

 神戸女学院大学で2年生を対象に行われた「メディアと知」という連続入門講義を元にしたものだという。ゆえに、わかりやすい具体例がたくさん引かれたメディア論になっている。

 しかし、内容はたいへん深い。メディアの専門家が書くメディア論とは異なる、意表をつく論点が満載である。当然、過去の内田本と内容がかぶる面もあるのだが(著作権をめぐる論考など)、気にならない。

 とくに「目からウロコが落ちる」思いがしたのは、「第三講 メディアと『クレイマー』」「第四講 『正義』の暴走」「第五講 メディアと『変えないほうがよいもの』」というシークェンス。この部分はまさに傍目八目というか、メディア内部の者(大新聞の記者など)がけっして気づかない、いまのメディアの本質的弱点を鋭く衝いたものになっている。

 このうち第三講、第四講は、日本がクレイマー社会になってしまった責任の一端はメディアにある、という話。
 

 医療崩壊、教育崩壊という事実にマスメディアは深くコミットしていました。メディアはこの事実について重大な責任を負っていると僕は思います。



 なぜ医療崩壊、教育崩壊にマスメディアが深く関与しているのか? 著者はその理由を、“とりあえず弱者の側に立つ”というメディアの「推定正義」の「暴走」に求める。

 裁判では「推定無罪」という法理があります。同じように、メディアは弱者と強者の利害対立に際しては、弱者に「推定正義」を適用する。これがメディアのルールです。(中略)個人が大企業を訴えたりする場合には、「理非の裁定がつくまで、メディアがとりあえず個人の側をサポートする」というのは社会的フェアネスを担保する上では絶対に必要なことです。でも、「推定無罪」が無罪そのものではないように、「推定正義」も正義そのものではありません。弱者に「推定正義」を認めるのは、あくまで「とりあえず」という限定を付けての話です。
(中略)
 しかし、メディアはいったんある立場を「推定正義」として仮定すると、それが「推定」にすぎないということをすぐに忘れてしまう。



 「第五講 メディアと『変えないほうがよいもの』」は、マスメディアの世論誤導の責任を衝いたもの。なぜマスメディアは世論を誤った方向に導いてしまうのか? その根本原因を、著者は「変化するのは無条件によいことだ」という考え方に求める。

 「社会制度の変化はよいことであるということはメディアにとって譲ることのできぬ根本命題」である。なぜなら、「社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるから」。ゆえに、「劇的変化が、政治でも経済でも文化でも、どんな領域でもいいから、起こり続けること。メディアはそれを切望」する。それがよい変化であるか否かを、メディアは問わない。

 しかし、世の中には「変えないほうがよいもの」もたくさんある。メディアが「変化はよいこと」という基準を適用して煽ることによって、その領域にも劇的変化が強いられてしまう。そんな強いられた改革が、医療崩壊、教育崩壊に結びついている、というのが著者の見立てである。

 本書ではもっぱら医療崩壊、教育崩壊との関係が論じられるが、あらゆる分野の報道にあてはまる卓見だと思う。

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サッド・カフェ『悲しき酒場の唄』ほか



 昨年末に旧作が紙ジャケで復刻され、ブリティッシュ・ポップ好きの間で話題になっている通好みなバンド、サッド・カフェ。そのファースト『悲しき酒場の唄』(1977)とセカンド『殺怒珈琲II』(1978)をカップリングした2in1のCDを、輸入盤で購入。
 色っぽいジャケット(※)で人気のファーストは紙ジャケで手に入れたかったところだが、輸入盤のほうがずっと安いので。

※ドレッサーの前に座る半裸のねーちゃんの背後に部屋を出ていく男。そして鏡にはルージュで「Fanx Ta-Ra」(マンチェスター方言で「サンキュー、グッバイ」の意らしい)と書かれている、というもの。その「Fanx Ta-Ra」がアルバム・タイトルになっている。

 サッド・カフェは、プログレの「マンダラ・バンド」を母体に生まれた英国のバンド。そのサウンドは表面的にはキャッチーなブリティッシュ・ポップではあるものの、前身がプログレ・バンドであるだけに一筋縄でいかないひねりと陰影がくわわっている。
 なにしろ、「10ccとイエスの融合」と評されたり、「イエスとザ・フーとアヴェレージ・ホワイト・バンドの出合い」と評されたりしたバンドなのだから、それだけでもジャンルの枠を飛び越えた特異な音楽性が察せられるだろう。

 このファーストとセカンドだけ聴いても、王道ブリティッシュ・ポップがあるかと思えば甘~いAOR風の曲があったりする。ポール・ヤング(「エブリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」の人とは同名異人)のヴォーカルはミック・ジャガーを甘くしたような感じ。それでいてバックの演奏にはプログレっぽさやソウルっぽさ、ジャズっぽさもあり、ときにはハード・ロック的アプローチもあったりする。

 要するに、あまりにもいろんな音楽要素が詰め込まれていて、的が絞れていない奇妙なバンドなのである。
 私のようにひねた聴き手には、そのおもちゃ箱のようにカラフルなゴチャゴチャ具合がたまらない魅力なのだが、売れなかった最大の原因もそこにあるのだろう。レコード会社にしてみたら、「どの層に向けて売ったらいいのかわからない」バンドだったに違いない。

 ちょっとひねくれたブリティッシュ・ロック/ポップが好みの人なら、きっと気に入ると思う。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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