『純喫茶磯辺』


純喫茶磯辺 [DVD]純喫茶磯辺 [DVD]
(2009/02/06)
宮迫博之仲里依紗

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 DVDで『純喫茶磯辺』を観た。



 モテたい一心で喫茶店経営を始めたダメ親父が、しっかり者の娘とともに奮闘するハートフル・コメディー。『机のなかみ』で注目を集めた吉田恵輔が監督を務め、不器用なダメ人間たちが繰り広げる悲喜劇をユーモラスに描き出す。
 8年前に妻が家を出て以来、高校生の一人娘と暮らす水道工員の磯辺裕次郎(宮迫博之)。父親が急死して多額の遺産を手にした彼は突如喫茶店経営を思いつき、無計画にも“純喫茶磯辺”を開店させる。閑古鳥の鳴くダサい店は、美人の素子(麻生久美子)をアルバイトに雇ってから一転、クセモノばかりの常連客でにぎわい始める。(「シネマトゥデイ」の紹介文より)



 これは、意外な拾い物。すごく面白かった。

 ひいきの麻生久美子目当てで観たのだが、仲里依紗も素晴らしく、2人のヒロインの魅力だけで十分「おなかいっぱい」になる映画。

 コメディではあるが、笑いを誘うのはベタなギャグではない。登場人物のぎごちないやりとりのズレた「間」など、随所にちりばめられた違和感がなんともおかしいのだ。
 
 セリフの一つひとつに、すごいリアリティがある。作り物感がまったくない。私たちが実際に会話をしながらふと感じる滑稽さのようなもの――それがセリフの中に見事に表現されている。

 仲里依紗演ずる、終始ふてくされたような顔をしている女子高生も、超リアル。彼女と父親の間の、微妙な距離感と親密感のないまぜになった感じが、じつに「あるある」なのである。いま現在女子高生の父親でもある私から見ても、そのリアリティには唸らされる。

 彼女が麻生久美子に向かって言い放つ、「ウッセーよ!」の一言(予告編にも出てくる)にしびれた。
 瀬戸朝香の映画デビュー作『湾岸バッドボーイ・ブルー』(1992年)で、瀬戸演ずる不良女子高生が教師に向かって言う「うるっせー!」に匹敵する一言であった。

 麻生久美子演ずる、対人オンチぎみの奔放な美女というキャラもサイコー。
 彼女が元カレに殴られて鼻血を出すシーンの、鼻血が出るタイミングの絶妙さといったら、ほとんど奇跡のようである(観てみないとなんのことかわからないと思うけど)。

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野中映『音楽案内』


音楽案内音楽案内
(2010/07)
野中 映

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 野中映(のなか・えい)著『音楽案内』(深夜叢書社/1890円)読了。

 野中氏は、知る人ぞ知る優れた音楽評論家。いまは国立音大の先生をしているらしい。
 氏が1992年に上梓した最初の単著『名曲偏愛学』(時事通信社)は、私がこれまでに読んだクラシック系のエッセイ/評論集(あまりたくさん読んではいないが)の中で、群を抜いて面白いものだった。「クラシックについて、こんなに笑える文章で批評できる人がいたのか」とビックリしたものだ。

 で、本書を見かけて、「おお、あの野中映の久々の新著が出たか!」と喜んだのだが、内容は『名曲偏愛学』の増補改訂・改題版であった。

 とはいえ、『名曲偏愛学』と重なっていない文章が半分くらいある(刊行後に書かれた文章と、元になった『CDジャーナル』の連載中、下ネタなどが過激すぎて時事通信社が収録を渋ったもの)。なので、『名曲偏愛学』をすでに読んでいる人でも、野中氏の文章のファンならとりあえずゲットすべし。

 野中氏の音楽評論家としての魅力について、本書の版元・深夜叢書社の社主でもある齋藤慎爾が、次のように書いているそうだ。

 音楽家で達意の文章の書き手といえば、私は久しいこと、武満徹、一柳慧、三善晃、松村禎三、三宅榛名、遠山一行らを愛読してきた。野中映は彼らと共通するものを多くもち、また決定的に異質のものをもつ。最も近いのは武満徹ということになろうが、野中の批評のもつ毒、ユーモア、哄笑、自虐は武満を上回る。(『読書という迷宮』小学館)



 私なりにつけくわえれば、文章家として野中氏の資質に最も近いのは小田嶋隆だと思う。ジャンルこそ違え、あふれる教養と怜悧な批評精神を、たぐいまれな文章センスと自虐的ユーモア、シャイネスでくるんだ味わいが共通なのだ。

 たとえば、ホルストの「惑星」を取りあげたコラムは、こんな具合。

 ホルストの本業は、人もうらやむ女学校の教師である。かれはロンドンのセント・ポール女学校という由緒正しい生ツバものの女の園で三十年近くにわたって音楽教師をつとめていたのである。(中略)しかしかれが突如として放課後の狼と化したという記録はなく、真実まじめに教育者の姿を維持していたようである。それはひとえにかれが作曲という行為によってその抑圧された性衝動を発散させることができたためであり、ちょうど体育教師が女生徒のブルーマ姿に劣情をもよおしながらも懸命に腕立て伏せを行なって発散させる原理と全く同じである。



 ……と、こんな調子のお笑いコラムでありながら、全体を読めば「惑星」およびホルストに対する納得のいく批評にもなっているのだから、すごいものである。

 本書の中の、『名曲偏愛学』のほうには入っていない文章から、野中氏らしいセンスを感じさせる一節をいくつか引用してみる。

 日本でマーラーの人気が高いのは、彼の交響曲の第一番が「巨人」で第二番が「復活」であるためだと言う説がある。V9時代の雄姿に思いをはせる巨人ファンが復活の願いを託してマーラーの音楽を聴くのであろうか。したがってマーラーファンはあまり西武デパートに足を踏みいれない。



●第三十四番 小指をのぞいた四本の指で演奏される。不始末をしでかした任侠の徒に捧げられた曲である。(ハノン作曲「ピアノの名手になる六十の練習曲」の「鑑賞の手引き」の一節)



 ひとりの女性から手紙をいただいた。そこには「私は親指が短すぎてピアノのオクターヴがとどかない」と書かれてあった。そして憧れの《乙女の祈り》の冒頭をきくたびに、その部分が「おーまえーにゃ弾ーけーなーいおーとめーのいーのーりー」にきこえてくるとも書いてあった。世の中にはいろいろな苦しみをもつ人がいるものだ。




「おーまえーにゃ弾ーけーなーいおーとめーのいーのーりー」

 クラシックにまるで門外漢の私が読んでも面白いのだから、クラシック・ファンなら微妙なくすぐりまでがすべて理解できて、さらに楽しめることだろう。

 ただ、元本からカットされた文章のうち、「なんであれを入れなかったの?」と首をかしげるものもいくつかある。
 「トレードしたい非力の四番」「ぐれてやるっ」「厳格なジャズ喫茶、入店の心得」「コルトレーンは下剤である」の4編はいずれも傑作で、埋もれさせるには惜しい。

 ちなみに、「トレードしたい非力の四番」は、ちょうど9曲交響曲を書いている作曲家を集めて野球のリーグを組み、交響曲の一番から九番までを打順に見立てて優勝争いをさせる(!)というネタのコラム。こんなことを思いつくのも、それを抜群の面白さのコラムに仕立てられるのも、野中映だけだろう。

 また、「コルトレーンは下剤である」には、次のような一節がある。

 コルトレーンの音楽がなぜ人を熱狂的にさせるのか。コルトレーン・ファンは、ハートに訴えかけるなどと陳腐な表現でとりつくろうが、それは全くの嘘である。コルトレーンの音楽は、大腸に訴えかけるのである。



 本書を読んで気に入った人は、『名曲偏愛学』も古本で探して読もう。

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デヴィッド・ボウイ『リアリティ・ツアー』


リアリティ・ツアーリアリティ・ツアー
(2010/01/27)
デヴィッド・ボウイ

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 デヴィッド・ボウイの『リアリティ・ツアー』を、レンタルしてきて聴いた。
 2003~2004年に行なわれたワールド・ツアーのうち、03年11月のダブリン公演の模様を収めた2枚組ライヴ・アルバム。

 すでに数年前にほぼ同内容(CDのほうが3曲多い)のライヴDVDが発売されているとのことで、なぜ今年になってCD化されたのかはよくわからない。契約の関係なのか、ボウイは最近健康を害しているらしいので、そのことと関係があるのか。

 私は10代のころボウイ・ファンであった時期もあるのだが、CDでは1枚もアルバムを所有していない。昔アナログLPで聴きまくったが、その後は興味を失ってしまったアーティストなのであった。

 で、なんだか突然ボウイが聴きたくなって、この『リアリティ・ツアー』と、1970年代のいわゆる「ベルリン2部作」――『ロウ』と『ヒーローズ』を借りてきたのだ。

 『ロウ』と『ヒーローズ』は、いま聴いてもやはり素晴らしいアルバムだった。
 2枚とも、LPでいうとA面はプラスティックな感じのロックンロールで、B面は静謐でアーティスティックなインスト曲中心である。10代のころの私にはB面は退屈に思えたが、いま聴いてみると、前半も後半もそれぞれよい。

 驚かされるのは、1970年代中盤のアルバムなのに、1980年代終盤までのロックの歴史が、すでにここに集約されている印象があること。
 パンク以後のニューウェイブ、YMOなどのテクノ、ニューロマンティックス、あるいはトーキング・ヘッズが『リメイン・イン・ライト』で見せたファンクへの接近、果てはU2の『ヨシュア・ツリー』のサウンド(ボウイとU2を結ぶ綱となったのは、ご存じブライアン・イーノである)に至るまで、その萌芽がすべて『ロウ』と『ヒーローズ』の中にある。当時のボウイのサウンドは、じつに時代の15年先まで先行していたのだ。

 なお、『ロウ』『ヒーローズ』とも、リマスター再発盤のライナーノーツをサエキけんぞうが書いており、いずれも素晴らしい文章になっている。情報としても過不足なく、アーティストへのリスペクトと熱い思い入れに満ちており、「ライナーノーツのお手本」という感じだ。

 で、『リアリティ・ツアー』のほうだが、こちらは私にとっては退屈なライヴ・アルバムだった。

 バックの演奏の質はすこぶる高く、ボウイの声もよく出ている。選曲も、長いキャリアを縦断してのベストとなっている。音質もクリアーだ。
 どこを探しても、これといった欠点はない。だがそれでも、私にはなんの刺激も感じられなかった。

 『リアリティ・ツアー』のボウイは、たんなる大衆芸能、家族で安心して楽しめる人畜無害のエンタテインメントになってしまっている。かつてのような、時代の最先端を突っ走っていたボウイの雄姿は、もはやどこにもない。そこが私には不満だ。
 同じボウイのライヴ盤でも、かつての『ステージ』や『ジギー・スターダスト・ライヴ』はキリキリととんがっていたものだけれど。

 もちろん、大衆芸能であることが悪いわけではない。私とて、大衆芸能として優れているポール・マッカートニーのライヴ盤『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ』などは大好きである。ただ、私がボウイに求めていたものはそういうものではないのだ。

 『リアリティ・ツアー』のライヴDVDはやたらと評判がいいから、私もDVDのほうを観たら印象が違うかもしれないが……。

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ボストン・テラン『音もなく少女は』


音もなく少女は (文春文庫)音もなく少女は (文春文庫)
(2010/08/04)
ボストン テラン

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 ボストン・テラン著、田口俊樹訳『音もなく少女は』(文春文庫/920円)読了。

 デビュー作『神は銃弾』が「このミステリーがすごい!」で第1位に輝くなど、日本でも熱狂的ファンが多いテランの長編第4作。……なのだが、じつは私はこの人の小説を読むのは初めて。

 すごくよかった。
 ミステリー色はごく薄く、むしろ、3人のヒロインを力強く描き出した「女性小説」の趣がある。原題はごくシンプルに「WOMAN」だし。

 舞台は、1950年代から70年代にかけてのニューヨークはブロンクス。
 耳の不自由な少女・イヴと、彼女の母クラリッサ、そして、母娘の親友となり、クラリッサ亡きあとにはイヴの母親代わりともなるフラン――3人の女たちの闘いの物語である。

 冒険小説やハードボイルドが男たちの闘いを描くものであるのに対し、本作に登場する男たちは、ヒロインたちを虐げるクズ男か、善良だが闘いには向かない男たちばかりだ。

 悲劇を招くのが麻薬の売人をやっているような男たちの暴力であるあたり、ありきたりといえばありきたりだ。どんでん返しがあるわけでもなく、ストーリーはごくシンプルである。

 しかし、文庫カヴァーの惹句にあるとおり、「本書の美点はあらすじでは伝わらない」。
 登場人物のいきいきとした造型、細部にまで力が込められた高度のリアリティ、そして、全編にみなぎる静かな熱気にこそ価値があるのだ。

 ボストン・テランは、「暴力の詩人」と評される作家なのだそうだ。なるほど、ブロンクスの貧困家庭に満ちた陰惨な暴力を描くときにさえ、その文章には鮮烈な詩情が香る。

 テラン自身も、サウス・ブロンクスのイタリア系一家に生まれ育ったという。本書に重いリアリティがあるのは、自伝的な色合いの作品だからでもある。3人のヒロインはもちろん、彼女たちを蹂躙する憎むべき男たちにすら、血の通った人間としてのリアリティがある。

 これは、女たちの愛と勇気と誇りの物語だ。男たちと、“男最優先”の社会に虐げられてきた女たちが、長い逡巡の果てに立ち上がり、ろくでもない男たちと闘う物語なのだ。

 既成のハードボイルドでは、多くの場合、主人公は最初からタフな男として描かれる。だが、本作は違う。男たちに弱々しく従属する存在でしかなかったヒロインが、過酷な運命に鍛えられ、しだいに強くなっていく物語なのだ。
 たとえば、クラリッサが横暴な夫に初めて立ち向かうシーンには、次のような一節がある。 

 長いあいだずっと抱え込んで生きてきた恐怖が徐々にしぼみ始めたのが彼女にはわかった。人の心には独立心というものを貯め込む隠された貯蔵庫がある。その貯蔵庫が彼女に味方してくれていた。すべては自分の意志の為せる業であることが彼女には今よくわかった。



 勇気とは、筋肉と同じように、鍛えるほど強くなるものなのかもしれない。 

 クラリッサとフランに庇護される存在であったイヴだが、クライマックスでは、かつての自分のような少女・ミミを守るため、銃を手に立ち上がる。

 弱かった女たちが強くなっていくダイナミズムと、それを支える詩情とリアリティ――。この作品の魅力の核はそこにある。 

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森博嗣『小説家という職業』


小説家という職業 (集英社新書)小説家という職業 (集英社新書)
(2010/06/17)
森 博嗣

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 森博嗣著『小説家という職業』(集英社新書/735円)読了。

 人気作家が、小説家になるまでの経緯と、作家稼業の舞台裏を明かしたエッセイ集。
 よくある「小説の書き方」入門のつもりで読むと、思いっきり肩透かしを食う。具体的な創作作法に類することは皆無に等しいからである。
 私はこの人の小説を一つも読んだことがない。ファンなら受け止め方が違うのだろうが、私には何も得るところのない本だった。

 工学博士で、大学教員をしていた著者は、「40歳になる少しまえに突然、小説を書いた。練習したこともないし、趣味で書いたこともなかったけれど、執筆してみた」。しかもそれは、「最初から、金になることをしようと考えて」ビジネスとして書いたのだという。

 その小説がいきなり高評価を受け、半年後には小説家デビュー。しかも、「最初の1年で3冊の本が出版され、その年の印税は、当時の本業(国立大学勤務)の給料の倍にもなった。それで驚いていたら、翌年には4倍になり、3年後には8倍、4年後には16倍と、まさに倍々で増えた」というトントン拍子ぶり。

 生まれて初めて書いた小説で売れっ子になった――というのが事実なら、著者はまぎれもない天才で、凡人の真似できることではない。にもかかわらず、著者は自分と同じことは誰でもできるかのように言う。また、“作家として芽が出ない人たちは、ビジネスとしてクールに取り組まないからダメなのだ”みたいなことも言う。

 大事なことは、「こうすれば」という具体的なノウハウの数々ではなく、ただ「自分はこれを仕事にする」という「姿勢」である。その一点さえ揺るがなければなんとかなる、と僕は思っている。ようするに、「小説を書いて、それを職業にする」という決意があれば、ノウハウなどほとんど無用なのだ。
 こんな単純なことなのに、何故か多くの小説家志望の人たちが、自分の創作に疑問を持ち、夢を実現できないでいる。



 「姿勢」の問題ではなく、著者は天才で、「多くの小説家志望の人たち」には才能がないというだけのことだろう。
 天才には凡人の気持ちがわからないのだなあ、としみじみ思う。イチローや現役時代の長嶋茂雄から見たら、「ヒットを打つコツなんて単純なことなのに、なぜみんな打てないのかなあ?」と、ほかの選手のダメっぷりが歯がゆく思えることだろう。著者の言っていることはそれと同じだ。

 著者に悪意はないのだろうが、本書の大半は「天才による、凡人に対するイヤミ」としか思えない。小説家志望の人は、読むと腹が立つから読まないほうがいい(笑)。

 僕は特に必死で努力をしたわけではない。1日3時間以上小説の仕事をしたことはなかったし、最近では1日1時間に制限しているくらいだ。それでも、この10年間に毎年100万部以上コンスタントに出版され、使い切れないほどの印税が銀行に振り込まれた。
(中略)
 おそらく僕は非常に稀な例だろう。幸運だったことはまちがいない。ただ、もしなにか僕に運以外の勝因があったとしたら、それは「ビジネスとして創作をした」という点ではないか、と自分なりに分析している。冷静に考え、売れるものを作った、ということだ。



 ね、イヤミにしか聞こえないでしょ? 
 どんなに冷静に「ビジネスとして創作をした」ところで(たとえば、有能な経営コンサルタントが「ビジネスとして」売れっ子作家を作り出そうとしたところで)、才能のない作家が成功するはずもない。死ぬほどあたりまえのことだ。

 言いかえれば、本書は「天才にとってのみ有用な実用書」である。本書に書かれたアドバイスにしたがってプロの小説家になれるのは、著者同様の天才だけだろう。

 たとえば、本書の冒頭近くには「もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな」というアドバイスがあるのだが、凡人(もちろん私も含む)はけっして真に受けてはならない。他の作家からの影響をまったく受けずに独自の小説世界を構築できるのは、著者のような天才だけなのだから。

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シーウィンド『REUNION』


REUNIONREUNION
(2009/04/22)
シーウィンド

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 シーウィンドの『REUNION』を聴いた。
 シーウィンドは、1970年代に一世を風靡したハワイのフュージョン・グループ。
 フュージョンといっても、キュートでパワフルな女性ヴォーカリスト、ポーリン・ウィルソンを軸とした編成で、ヴォーカル・チューンが主体だった。ゆえに「フュージョンAOR」などと呼ばれたものだ。

 これは、1980年発表のラスト・アルバム『海鳥』以来、じつに29年ぶりの再結成アルバム(タイトルが『REUNION』て、なんのヒネリもないなあ)。

 私は、毒にも薬にもならないイージー・リスニング的なフュージョンも、甘ったるいだけのAORも好きではない。が、シーウィンドの音楽は、フュージョンとAORの境界に位置しながらも、ファンキーかつテクニカルでおよそイージー・リスニング的ではないし、甘ったるさもない。両者のいいとこ取りという感じで、ポップなのに深みがあってよかったのだ。

 29年ぶりの本作も、シーウィンドの美点がいかんなく発揮された快作となっている。
 ポーリン・ウィルソンの歌声は、相変わらず高音が伸びやかで、少しも衰えていない(さすがに若いころの、声から生命力がはじけるような激しさはないが)。
 また、グループの活動休止後も一貫して売れっ子ミュージシャンだったメンバーによる演奏も、さらに円熟味を増している。

 内容は、かつての人気曲のセルフ・カヴァーが5曲に、新曲が7曲。そして、新曲のうち4曲がインスト・ナンバーになっている。
 新曲にインスト曲のほうが多いことが象徴するように、かつてのシーウィンドよりはAOR色が薄れ、フュージョン寄り、ジャズ寄りのアルバム。

 4曲のインスト曲が、いずれもたいへん素晴らしい仕上がり。
 ホーン・セクションやリズム隊はクルセイダーズばりにファンキーで、パワフル。それでいて、夏の浜辺の夕暮れのようなリリシズムが全編に満ちている。
 力強さと、心鷲づかみの切なさ――2つの魅力を両立させる離れ業は、シーウィンドならではだと思う。
 かつてのシーウィンドのファンの期待に、十二分に応えた力作である。

 5曲のセルフ・カヴァーにも、それぞれ原曲とは違った魅力が加味されている。たとえば、オープニングの「ヒー・ラヴズ・ユー」では、原曲のフリューゲル・ホーンがゲストのアル・ジャロウのスキャットに置き換えられている。



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安保徹『人が病気になるたった2つの原因』


人が病気になるたった2つの原因 低酸素・低体温の体質を変えて健康長寿!人が病気になるたった2つの原因 低酸素・低体温の体質を変えて健康長寿!
(2010/07/28)
安保 徹

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 安保徹著『人が病気になるたった2つの原因――低酸素・低体温の体質を変えて健康長寿!』(講談社/1260円)読了。

 「世界的な免疫学者」であるらしいこの著者の本は、以前『医療が病いをつくる』というのを読んだことがある。そのときに書いた書評をコピペしておこう。

 近年、現代医療への批判が、ほかならぬ現代医療の最前線に立つ人々からもなされるようになってきた(近藤誠の『患者よ、がんと闘うな』など)。本書もその一つに位置づけられる。第一線の免疫学者による、具体的かつ根源的な現代医療批判だ。

 「病気の80%は広い意味のストレスや、医療における薬剤使用上の間違いによって起こっている」と、著者は言う。「間違い」とは、医療ミスのことではない。現代医療の薬剤処方に、じつは根本的な過誤があるとの主張なのだ。たとえば、消炎鎮痛剤やステロイド剤などは、一時的に症状は抑えるものの、結局は病気を悪化させるという。また、ストレスを避け、自然治癒力を高めることによって、多くの病気は防げるともいう。

 こうした主張自体は従来の現代医療批判の枠内にあり、目新しさはない。ただ、本書ではそれらの主張が、自律神経学や内分泌学なども視野に入れた広義の免疫学的知見で逐一裏づけられていくので、説得力がある。

 たとえば、著者によれば、腰痛の多くは筋肉疲労による血流障害に起因する。だが、病院で処方される消炎鎮痛剤は、痛みを引き起こす物質の合成を阻害することによって痛みだけを一時的に消し、血流障害をむしろ悪化させるという。このように、“薬が病気を悪化させるメカニズム”が、さまざまな病気別にくわしく解説されていく。

 そして著者は、現代医療が対症療法から脱却し、心身の不調和を改善することで病を癒す「原因療法」に進化する方途を模索している。ためにする批判ではなく、前向きな問題提起の書だ。



 基本的スタンスは本書も同じで、現代医療に対する根源的批判をふまえ、自然治癒力を活性化させることで病気を治そうと訴える内容。代替医療に肩入れする姿勢も共通だ。

 ただ、『医療が病いをつくる』は、本書よりずっとまともな内容だった気がする。その後ベストセラーを連発するうち、だんだん「トンデモ化」が進んできた印象を受けるのだ。
 トンデモ記述の例を挙げる。

 ストレスが重なって胃がキリキリ痛むことが多い人は、胃が低酸素・低体温にさらされていると考えられます。この状態が持続すると細胞の過剰分裂が始まり、やがて胃ガンになるわけです。
 これと同様に考えれば、心配事で胸が塞がれてばかりいると肺ガンになり、おしゃべりな人は喉頭ガンになりやすいことがわかります。
(中略)
 また、悩み事ばかりを抱えている人は頭にストレスがたまりやすく、低酸素・低体温により脳腫瘍などが現れやすくなります。
 胸の大きな女性が乳ガンにかかる場合、胸が突出していて冷えやすい=分裂がうながされるから、という理由も考えられます。(101~102ページ/太字強調は引用者)



 肺ガンになりやすい「心配事」と、脳腫瘍になりやすい「悩み事」はどう違うんだ(笑)とか、ツッコミどころがたくさんある。

 本書にはまっとうなこと(てゆーか、わりとあたりまえの健康の知恵)もたくさん書いてあるのに、こんなトンデモ記述があると、たちまち全体が眉ツバに思えてくる。

 人間が体内でエネルギーを作るやり方には、酸素を使わない「解糖系」と酸素が必要な「ミトコンドリア系」があり、両者のバランスを保つことが健康の秘訣だ、という、本書の根幹になっている主張は斬新(当否はともかく)なのだけれど……。

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『ファイヴ・ピース・バンド・ライヴ』


ファイヴ・ピース・バンド・ライヴファイヴ・ピース・バンド・ライヴ
(2009/02/04)
チック・コリア&ジョン・マクラフリン

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 『ファイヴ・ピース・バンド・ライヴ』(ユニバーサル/3500円)を聴いた。
 チック・コリアとジョン・マクラフリンの2人を中心とした(おそらく一回限りの)バンド「ファイヴ・ピース・バンド」が、2008年に行なったヨーロッパ・ツアーの2枚組ライヴ・アルバム。

 チック・コリアとジョン・マクラフリンといえば、ジャズ・ロック史上最強を争う2つの名バンド――リターン・トゥ・フォーエヴァーとマハヴィシュヌ・オーケストラを、それぞれ率いていた大物同士である(2人はマイルス・ディヴィスのアルバムなどで過去に共演したことはあるものの、本格的にタッグを組むのはこれが初)。
 しかも、今回はバンド名義。となれば、RTFやマハヴィシュヌのような激越なジャズ・ロックを期待するのが人情というものだろう。ほかのメンバーも、ヴィニー・カリウタなどテクニシャン揃いだし。ジャケットも60年代サイケデリック・ロックみたいだし……。

 が、実際に聴いてみたら、思ったよりもずっとロック色は薄く、わりと普通のジャズだった。これは、私にとっては期待はずれ。

 マクラフリンのハードなジャズ・ロック・アルバム『インダストリアル・ゼン』『フローティング・ポイント』のナンバーを計3曲演奏していて(「ニュー・ブルース、オールド・ブルース」「セニョールC.S.」「ラジュ」)、この3曲はすごくいい。また、マイルス・デイヴィスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」も、凛としたストイックな美しさがあって、なかなかよい。

 が、ほかの曲はどれもかったるい。
 コリアが書き下ろした新曲「アンドロメダへの讃歌」など、大仰で長たらしいだけで、退屈で眠くなる。
 それに、アンコールの「いつか王子様が」なんて、まったく余分である。こんな、ホテルのラウンジで流れるような人畜無害のジャズを、誰もこのバンドに期待していないと思う。

 せっかくコリアとマクラフリンが夢の共演を果たしたのだから、普通のジャズなんかやらなくてよかったのに。もっと「この2人でなければできないこと」を、2枚組全編にわたってやってほしかった。
 すなわち、全盛期RTFとマハヴィシュヌのいいとこ取りのような、『浪漫の騎士』と『内に秘めた炎』を足して二で割ったような、誰にも真似の出来ない、超テクニカルで、それでいて流麗で精神性の高い、至高のジャズ・ロック――それを期待したんだけどなあ。

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『電子書籍と出版』


電子書籍と出版─デジタル/ネットワーク化するメディア電子書籍と出版─デジタル/ネットワーク化するメディア
(2010/07/10)
高島 利行仲俣 暁生

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 沢辺均ほか著『電子書籍と出版――デジタル/ネットワーク化するメディア』(ポット出版/1680円)読了。

 タイトルどおり、電子書籍をめぐる出版界の状況を、さまざまな角度から考察したもの。
 収録原稿はいずれも、パネルディスカッションやインタビュー、講演などをテキスト化したもの。ゆえに読みやすいが、話されたものそのまんままゆえの粗さもある。

 内容は、以下のとおり。

I─「2010年代の『出版』を考える」
IT企業の経営者であり、アルファブロガーとしても知られる橋本大也、文芸評論家、フリー編集者として電子書籍を追い続けてきた仲俣暁生と、早くから出版活動のネット展開を手がけてきた版元ドットコム組合員である高島利行、沢辺均の4人が語る、「電子書籍の可能性」「書き手、出版社はどう変わるか?」。

II─「電子出版時代の編集者」
2009年10月に、アルファブロガー・小飼弾氏との著書『弾言』と『決弾』のiPhoneアプリ版を製作し、自らの会社から発売したフリーライター/編集者の山路達也に訊く、書籍の執筆・編集から電子書籍の製作、そして発売後のフォローアップまで、多様化する編集者/コンテンツ製作者の「仕事」。

III─「20年後の出版をどう定義するか」
電子書籍の権利やフォーマット、教育現場での使用に詳しい東京電機大学出版局の植村八潮に訊く、「書籍が電子化される」ということの根源的な意味、「本であること」と「紙であること」はどう違い、どう結びついているのか?

IV─「出版業界の現状をどう見るか」
出版、そしてメディア産業全体の動向を20年間追い続けている「文化通信」編集長・星野渉が解説する、出版業界の現状と、急激な変化の要因。

V─「編集者とデザイナーのためのXML勉強会」
元「ワイアード日本版」のテクニカルディレクター兼副編集長を務めた深沢英次による、タグつきテキスト、XMLの「基本構造」を理解するための解説。



 「目玉」的な扱いのパネルディスカッション「2010年代の『出版』を考える」は、内容がとっちらかっていてまとまりに欠ける。「酔っぱらった勢いで言っちゃうと」なんて発言もあって、飲みながら話したらしいし(笑)。

 また、「編集者とデザイナーのためのXML勉強会」は、いちおう目は通したものの、私には内容がさっぱり理解できなかった。

 「電子出版時代の編集者」のインタビューイ・山路達也は、少し前に読んだ『マグネシウム文明論』の共著者で、「只者じゃないなあ」と思っていた人。これからの時代に生き残っていくライター/編集者はこういう人材なのだろうな、と感服。

■関連エントリ→ 『マグネシウム文明論』レビュー

 いちばん面白く読んだのは、「出版業界の現状をどう見るか」。これは、じつに示唆に富む内容だった。
 付箋をつけた箇所をいくつか引用する。

 よく「日本は新刊点数が多いから返品率が高い」と言われますが、ドイツでは日本と同じくらいの点数で7%前後の返品率を保っています。ドイツは時限再版ですが再販制度があるなかで、返品率は10%以下。日本との違いは、買切りか委託か、という点だけです。ですから、返品が多い理由は新刊が多いからでも、再販制度があるからでもなく、単に委託販売で返品が可能だからです。



 取次システムが行き詰まって、もう委託は取れません、となったときに初めて、日本の出版社の淘汰が始まる。それこそが本当の「出版不況」であり、日販の総量規制はその狼煙だと思います。



 新潮社の一番の食い扶持は、村上春樹の『1Q84』ではなく、ドストエフスキーやトルストイ、夏目漱石の文庫本なのです。(中略)そのバックリストを大量に持っているため、ひとつひとつの回転率はそれほどでなくても、大きな収益が上がる、というのが日本の出版社のビジネスモデルなのです。
 ところが、電子書籍が普及して、パブリックドメインの作品を簡単に出版することができたら、これまでのビジネスモデルは成り立ちません。出版社が一番恐れているのは、おそらくこの点です。



 (欧米、韓国の新聞部数の激減に比べ)日本の新聞はほとんど部数を減らしていません。最近、「産経新聞」が大きく減ったのは残余の部数を減らしただけで、購読部数が極端に落ちているわけではありません。これは他の新聞も同じです。
 新聞の部数がそれほど減っていないのは、宅配制度という、放っておけば毎日家に届く、断るために努力をしなければならない制度があるからです。もし宅配制度を止めれば、どの程度かはわかりませんが、新聞の部数は大きく減るでしょう。
 宅配制度がなくどんどん部数を減らしているアメリカと違い、日本では、ある程度まで漸減していき、あるところで一気に落ちる可能性があると考えています。

 

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ささやななえ『凍りついた瞳』


凍りついた瞳 (YOU漫画文庫)凍りついた瞳 (YOU漫画文庫)
(1996/12/18)
ささや ななえ

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 ささやななえの『凍りついた瞳(め)』(集英社/YOU漫画文庫)を読んだ。
 椎名篤子のノンフィクション『親になるほど難しいことはない』を原作にしたドキュメンタリー・コミック。1994~95年の作品で、児童虐待を題材にしたマンガの先駆である。私は初読。

 作中、現場の若手医師が「ネグレクトって…?」と言う場面が出てくる。いまや知らない人はごく少ないであろう「ネグレクト」という言葉が、医師の間ですら一般的でなかった時期の作品なのだ。
 だからこそ、児童虐待の実態について随所でていねいな説明がなされており、コミックの形をとった児童虐待問題入門としても読める。

 タイトルの『凍りついた瞳』とは、被虐待児特有の、子どもらしい表情を失った冷たい目を指す医学用語「凍りついた凝視」(Frozen watchfulness)のこと。

 一話完結(一部は前・後編に分かれている)で、保健婦・児童相談所所長・医師・ケースワーカーなど、児童虐待問題にかかわる者たちの目から見た一つの事件が描かれる。
 ベテラン・マンガ家であるささやななえ(現在は「ささやななえこ」に改名)は、過度に刺激的な描写を避け、巧みな構成と落ちついた絵柄で、ていねいにマンガ化している。

 特徴的なのは、虐待する親を「人の心を持たない鬼」として描くのではなく、一人の弱い人間として描き、虐待に至った心の軌跡にまで分け入っている点(むろん、どんな背景があろうと虐待が許されるはずもないが)。
 たとえば、私が最も強烈な印象を受けた第2話「あの子はいらない」では、虐待が「すれちがってしまった親子愛」の悲劇として描かれる。

 佐藤量子のケースは、鬼のような母親とかわいそうで弱い子ども――という虐待につきまとうありがちな設定を、根底から突き崩すものだった。こんな子どもはいらないと言いながらも施設に足を運んでなつかない娘に会い続けた母親と、母親を慕いながらも怒りを買う行動しかとれなかった子どもが迎えた破局。河西はこの母親と量子のすれちがってしまった親子愛のことを思いだす度にやるせなくなる。
(中略)
 虐待をうけた子どもたちは、成人しても、老人になっても、家族を思うたびに心から血が吹きだすだろう。(句読点は引用者補足)



 全10話のうち、前半5話では解決の糸口すら見つからなかった虐待ケースが描かれる。逆に後半5話では、関係各所の尽力で親たちが変わり、壊れた親子関係の再構築が始まったケースが描かれる。
 したがって、後半のほうが希望を感じさせて、読後感はよい。が、読者に問いを突きつけるような前半5話にも、強いインパクトがある。いずれにせよ、全編、児童虐待問題についての理解を深める内容だ。

 児童虐待防止法制定(2000年)以前の作品だから、本作で描かれる関係機関の対応などは、現状とは異なる面もあるだろう。それでも、虐待が深刻化の一途をたどるいまこそ、広く読まれるべき秀作である。

 なお、児童虐待防止法制定には、本作も少なからず影響を与えたという(→参考)。

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『インスタント沼』


インスタント沼 ミラクル・エディション [DVD]インスタント沼 ミラクル・エディション [DVD]
(2009/11/27)
麻生久美子風間杜夫

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 『インスタント沼』をケーブルテレビで観た。



 「『時効警察』の三木聡と麻生久美子がタッグを組んだ脱力系の冒険コメディ」ということなのだが、あいにく私はその『時効警察』を観たことがない。ただ、三木聡監督の『亀は意外と速く泳ぐ』はたいへん面白く観た。

 本作は、コメディとしてはイマイチ。『亀は意外と速く泳ぐ』のほうが爆笑ポイントがたくさんあった気がする。それでも随所にときどきツボにはまる小ネタはあるけど……。

 たった2作しか観ていないのに三木聡についてうんぬんしたらディープなファンから怒られそうだが、『亀は意外と速く泳ぐ』が徹頭徹尾ナンセンスを追求していたのに対し、この『インスタント沼』はナンセンスの中にどこか「人生を語る」みたいな臭みが感じられる。観客に「ああ、なんか元気になった」とか言わせたがってるような……。

 私には、そこがちょっと鼻についた。ラストで麻生久美子が「生き方のコツ」みたいなものを声高に語っちゃうあたり、鼻白んでしまった。『亀は意外と速く泳ぐ』のほうが、「無意味の凄み」みたいなものがあってすがすがしかった。

 ただ、ヒロインの麻生久美子はたいへんキュート。彼女のありとあらゆる表情がたっぷり観られるので、ファンならそれだけでほかの瑕疵は帳消しになる映画。

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ノートパソコン買った。


Lenovo G560シリーズ 15.6型ワイド液晶 A4サイズノートブック 067958JLenovo G560シリーズ 15.6型ワイド液晶 A4サイズノートブック 067958J
(2010/06/25)
Lenovo

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 ノートパソコンを買った。
 メインマシンがさんざん使い倒している7年ものなので、いつポックリ逝っても不思議ではなく、そのときに備えておくためである。
 これまでサブマシンとして使っていた5年前の「NEC LaVie」は、娘と息子にお下げ渡し。
 
 買ったのは、レノボの「G560 067958J」というA4ノート。今年6月に出たモデルで、少し前から目星をつけ、底値になるのを待っていたのである。

 不思議なのだけど、「価格.com」の「価格変動履歴」で価格の推移を見ていると、一つのモデルが下がりっぱなしになるのではなく、底値を打つとまた上がり始めるのだね(なぜ?)。だから、レノボの一つ前のモデルなど、底値よりもだいぶ高くなっている。

 今回買ったものの場合、発売当初は最安値が8万円近くしていたのが、5万円台にまで下がり、数日前からまた上がる気配になってきていたのである。

 で、今日届いたのでさっそくネットにつないで見たところ、起動や表示が速い速い! なにしろ我が家には5年前のパソコンしかなかったわけだから、この5年間の進歩に目を瞠る思い。さっすが「Core i5」。
 5年前に買った「LaVie」はたしか20万円近くしたのに、5万円台でこんなハイスペックマシンが手に入るとは……。

 グーグルクロームとGメール、Dropboxを同期させると、それだけでもう、新しいパソコンにも最低限の仕事環境は整えられた。クラウド万歳である。

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YUKI『うれしくって抱きあうよ』


うれしくって抱きあうようれしくって抱きあうよ
(2010/03/10)
YUKI

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 3月に出たYUKIの最新作『うれしくって抱きあうよ』を、ようやく聴いた。

 私は『joy』から聴き出した、遅れてきたYUKIファンである。JUDY AND MARY時代の彼女には興味がなく、『joy』以前の2枚のソロアルバムもあとから聴いてみたが、あまり心惹かれなかった。
 要するに、私が好きなのは『joy』以降のYUKIなのだ。

 じっさい、『joy』でYUKIはアーティストとして一皮むけた気がする。“はじける少女性”の魅力はそのままに、そのうえに母のごとき包容力と深みがくわわった、という印象を受けるのだ。

 『joy』のタイトル・ナンバーを聴いたとき、私は矢野顕子の「ごはんができたよ」を初めて聴いたときと同質の感動を味わった。ハッピーでありながら、心を鷲づかみにする切なさも併せ持った曲。
 その後、『はじめてのやのあきこ』でYUKIが矢野顕子とのコラボで「ごはんができたよ」を歌ったとき、我が意を得たりという思いがしたものだ。

 そして、今作『うれしくって抱きあうよ』は、YUKIの中の“矢野顕子的なもの”が全開している印象を受ける(たとえば、「COSMIC BOX」という曲など、矢野顕子の曲だと言われても信じられるくらいよく似ている)。したがって、私としてはこれまででいちばん好きなアルバムになりそうだ。
 逆に、ジュディマリ時代のようなパンキッシュな魅力を求める人にとっては、ピンとこないアルバムかもしれない。これまででいちばんロック色が薄い作品でもあるから。

 オープニングの「朝が来る」は、ストリングスの使い方などが『サージェント・ペパーズ』を思わせる、壮大なサイケデリック・チューン。それ以外にも、随所にサイケ期ビートルズを彷彿とさせるところがある。

 先行シングル4枚を含むくらいだから十分にキャッチーではあるのだが、そのポップ・センスにはこれまででいちばんひねりが加えられている。一筋縄ではいかない音作りなのだ。

 ビッグバンド・ジャズを取り入れた「恋愛模様」にビックリ。ジャズの単純な摸倣ではなく、YUKIならではのカラフルなポップ・チューンになっている快作だ。そして、この曲が象徴するように、本作はこれまででいちばんアダルトな印象のアルバムでもある。

 タイトル・ナンバー「うれしくって抱きあうよ」も、「しょうゆ味のバート・バカラック」という趣の甘美で切ない名曲だ。
 また、アコギのみをバックに歌われる「同じ手」も、感涙の名バラード。歌詞の内容から推して、1歳11ヶ月で亡くなった彼女の最初のお子さんに捧げた曲であろう。

足の踏み場もないフォトグラフの山
私の涙は渇く間もない
確かな理由を欲しがるほど遠回りしてしまう
時を止めてしまいたくなる
さざ波に揺れ 星になって 光を見て 風に揺られ
赦されるような気がした 君の手(「同じ手」)



 ……と、歌詞の一部のみを引用すると悲しいだけの曲のように思われるかもしれないが、実際に聴いてみると、悲しみの中にも凛とした母の強さが表現されていて、そこが感動的だ。

 それ以外も、捨て曲なしの珠玉作ばかり。聴く者に幸を与える傑作アルバム。

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高江洲敦『事件現場清掃人が行く』


事件現場清掃人が行く事件現場清掃人が行く
(2010/04/08)
高江洲 敦

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 今日は、幕張で日本画家の時田尚武画伯を取材。
 いまの幕張(海浜幕張駅周辺)は、「サイバーパンクな未来都市」って雰囲気で、なかなかカッコイイ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
 行き帰りの電車で、高江洲敦(たかえす・あつし)著『事件現場清掃人が行く』(飛鳥新社/1500円)読了。
 少し前に出た『遺品整理屋は見た!』(吉田太一著/扶桑社刊)の、あからさまな二番煎じ。

 著者は「事件現場清掃人」を名乗っているが、べつに警察から委託されているわけではなく、業務内容は遺品整理屋と一緒だ。すなわち、部屋の主が自殺や孤独死を遂げたアパート/マンションの一室を清掃・リフォームする会社。その経営者が、仕事の舞台裏をエッセイ風に明かした本なのである。

 けっして悪い本ではない。むしろ、内容はよくまとまっている。ただ、類書の『遺品整理屋は見た!』を読んだあとではインパクトが薄いし、違和感を覚える点もいくつかある。

●違和感その1.
 「特殊清掃」の手順や使う道具などを、あまりにも詳細に説明しすぎ。
 「試行錯誤の結果、二酸化塩素を成分とした除菌・消臭剤を開発しているバイオフェイスという会社に出合いました」とか、「特殊清掃業者には、除菌・消臭にオゾン脱臭機を使用しているところが多い」が弊社は使わないとか、大半の読者にとってはどうでもよいことがダラダラと書かれている。
 
●違和感その2.
 同業他社との違いをくどくどしく説明しすぎ。
 他社が消せなかった孤独死現場のニオイを、弊社の技術なら完全に消すことができる……などと強調するくだりがやたらと目立つ。

 1と2を要するに、本書は著者の会社の広告にすぎない――としか思えない。営利企業の社長が著書を出す以上、宣伝的側面があるのは致し方ないとしても、本書はその点が露骨すぎ。

●違和感その3.
 第七章の小見出しの一つに「お風呂で煮込まれたお婆さん」とあり、強い不快感を覚えた。編集者かライターがつけた小見出しだとは思うが、あまりにひどい。
 著者は本書でくり返し、“「特殊清掃」をする際には亡き部屋の主に対する哀悼の念を忘れずに臨む”とか言っているのだが、人の死を嗤うような無神経な小見出し一つで、全部台無し。

 ……と、いろいろケチをつけてしまったが、孤独死の現実をまざまざと伝えて読者をハッとさせるくだりもある。たとえば――。

 孤独死をするのは年金暮らしの老人が多いと思われるかもしれません。
 ところが実際には、五~六十代の男性が多いのです。
(中略)
 孤独死で老人がそれほど多くないのは、具合の悪い人は病院に入院している場合が多いのと、お年寄りの場合は普段から周囲が気にかけていることが多く、姿を見かけなくなると「どうしたんだろう?」と心配される立場にあるからだろうと思います。
 しかし五○代の「働き盛り」では、しばらく姿が見えないとしても、「きっとどこかに出掛けたんだろう」くらいにしか思ってもらえません。



 死臭には男女の違いはありません。
 ただし、年齢による違いはあります。おそらく、若い人に比べると老人は体についている脂肪と水分の量が少ないために、いくらか死臭が弱いようです。



 特殊清掃という仕事がビジネスとしてはじまったのは二○○二年頃といわれています。超高齢化社会を迎え、単身世帯が増加し、自殺者の数が高いままの現在、ビジネスチャンスをにらんで、新規参入する業者が最近どんどん増えています。



■関連エントリ→ 『遺品整理屋は聞いた! 遺品が語る真実』レビュー
 
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「ひどい取材」の話


ファイアーキング・カフェファイアーキング・カフェ
(2010/05/20)
いしかわ じゅん

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 いしかわじゅんが、「日経BPオンライン」の連載エッセイ「ワンマン珈琲(カフェ)」で、沖縄の二大紙から受けたひどい取材について書いている(→こちら)。

 読んでみると、たしかにひどい。
 小説の新刊(※)『ファイアーキング・カフェ』の著者インタビューを受けたところ、二大紙の記者ともその本を読まずに取材にきたばかりか、いしかわが何者なのかまったく知らなかったという。

※いしかわはマンガ家だが、小説を書かせてもうまい。北方謙三をおちょくったハードボイルド・パロディ『東京で会おう』など、なかなか面白かった。

 A紙の場合――。

 私の新刊をテーブルの上に置き、取材が始まった。本はジュンク堂から借りたらしい。
 しかし、どうもなんだか変なのだ。質問が的を射ていないというか、二階からシャンプーされているような妙な感触なのだ。
 私は単刀直入に聞いてみた。
「ちょっと聞きたいんだけど、きみは俺がなにをやってるどういう人間なのか、知ってる?」
 答は、もっと単刀直入であった。
「えへへへ、さっきウィキペディアで調べました」
 実に率直である。知らない人にインタビューするのは、そりゃむつかしいだろうな。



 B紙の場合――。

 名刺交換をし、それから記者が質問をした。
「ええと、本をお出しになったそうですが、どういう本ですか?」
 えええーっ、下調べゼロかー!
(中略)
 彼は義務でインタビューにきただけで、私になんの興味もないし、本についても知りたいことなんてないのだ。これではインタビューにならない。
「もうやめよう。時間の無駄だし」
 私は立ち上がった。
「俺の名刺を返して」
 名刺を渡すと、記者は何事もなかったかのように普通に席を立ち、そのままカメラを肩にかけて、すたすたとエレベーターに向かって歩いていった。

 

 いしかわはこれを沖縄の新聞の質の低さを示す例として書いているが、東京の大新聞にだってひどい取材をする記者はいる。

 たとえば、評論家の呉智英はエッセイ集『犬儒派だもの』で、朝日の記者(文中に朝日の名は出てこないが、前後の文脈でわかる)から受けたひどい取材について書いている。
 その記者は開口一番、こう言ったという。

「で、呉さんは、小説家ですか、エッセイを書いているんですか。それとも脚本家か何か」



 また、小説家のエッセイ集を読んでいると、この手の「ひどい取材」ネタにときどき出くわす。「最初から最後まで、私の名前を間違えたままの記者がいた」とか、「オレの本を一冊も読まずに取材にきやがった」とか……。

 ま、わりとよくある話なわけですね。

 下調べ抜きでインタビューに臨むなんて、私にはとてもできない。相手に失礼であるという以前に、コワくてできないのである。丸腰で戦場に立つようなものだから。
 それに、私には自分が口下手だという自覚があるから、「下調べくらいきちんとやらないと、インタビューにならない」と考えているのである。
 だから、自慢ではないが、取材のときに「私のこと、よく調べてありますね」と言われることが多い。
(私とは逆に弁の立つ記者やライターの場合、話のうまさに対する過信から「ぶっつけでなんとかなる」と思ってしまうのかもしれない)

 いしかわじゅんに「名刺返して」と言われた記者の、“逆ヴァージョン”の経験もある。
 それは、某売れっ子評論家を取材したときのこと。取材を始めたとき、私が名刺を出しても相手は名刺をくれなかった(これはままあること。とくに芸能人の場合、名刺はくれないのが普通)。
 が、取材を進めるうち、私が相手の著書をたくさん読んでいることがわかると、彼は突然ポケットから名刺入れを取り出し、名刺をくれたのである。「コイツになら名刺やってもいいか」みたいな感じで(笑)。

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「レンブラントのモナリザ」


レンブラント―光と影の魔術師 (「知の再発見」双書)レンブラント―光と影の魔術師 (「知の再発見」双書)
(2001/09)
パスカル ボナフー

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 一昨日の日曜は、東京富士美術館に「ポーランドの至宝/レンブラントと珠玉の王室コレクション」展を観に行った。

 目玉であるレンブラントの二点――「額縁の中の少女」と「机の前の学者」――が、やはり素晴らしかった。
 私は絵画にはまるで門外漢だが、それでも、出展作品の中でこの二枚が群を抜いて優れていることはシロウト目にも一目瞭然。至近距離で観ると、「光と影の魔術師」レンブラントのすごさがわかる。

 「額縁の中の少女」は、「レンブラントのモナリザ」との通称で知られる作品だそうだ。
 ところで、富士美術館のチラシに大書された惹句、「レンブラントのモナリザ、日本初来日!!」って、日本語としておかしいのでは? 「馬から落馬」みたいだ。

―――――――――――――――――――――――――――
 昨日は、企業取材で青森県弘前市へ行った。
 羽田から青森空港へ飛び、そこから車で弘前へ――。

 朝6時に家を出て、最終(8時45分発)の飛行機で帰ってくる強行軍。
 取材が長引いて、乗る予定だった夕方5時の飛行機に間に合わず、青森空港で食事しながら約4時間待つ羽目に。

 「4時間も待つなら、新幹線で帰ったほうが早いのでは?」ということになって、編集者に調べてもらったら、新幹線を使っても到着時刻はほとんど変わらなかった。
 今年の末には東北新幹線が青森まで伸びる予定だから、そうなればもっと便利になるのだろうけど……。

 ところで、最近、取材で東北に行くことが妙に多い。
 仙台には半年の間に2度行っているし、7月には秋田、8月には山形にも行った。
 それぞれまったく別の仕事なのに、不思議とつづくときにはつづくものである。

   
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小田光雄『出版状況クロニクルⅡ』


出版状況クロニクル〈2〉2009年4月‐2010年3月出版状況クロニクル〈2〉2009年4月‐2010年3月
(2010/07)
小田 光雄

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 小田光雄著『出版状況クロニクルⅡ――2009.4~2010.3』(論創社/2100円)読了。

 版元・論創社のウェブサイトに連載されていた「出版状況クロニクル」(現在は著者の個人ブログで継続中)の、昨春から今春にかけての一年分をまとめたもの。

 私はサイトでの連載をそのつど読んでいたが、こうやって一冊にまとまった形で読むと、サイトで読んだときよりもずっと面白く感じる。まとめて読むからそう思うのか、それとも単行本化にあたっての加筆修正が大幅になされているのか。

 もっとも、本書について「面白い」と言うのは、出版界の片隅に身を置く者としては不謹慎かもしれない。本書は、出版界が直面する崩壊の危機のリポートだからである。
 その危機を、著者は「出版敗戦」という言葉で表現する。日本が65年前の敗戦で焦土と化したように、出版界はいままさに焼け野原となりつつある、というわけだ。

 出版界の折々のニュースをピックアップし、短い論評をくわえていくスタイルの当クロニクルだが、本書に収められた時期の出版界には、どちらを向いても暗いニュースしかない。出版社の倒産、雑誌の休刊、大手出版社や新聞社の赤字、売り上げや広告収入の激減などなど……。
 
 そうしたニュースは個別には耳にしていたものの、本書のように一つにまとまった形で読むと、改めてその深刻さに驚かされる。
 著者はとくに、雑誌業界全体の落ち込みを深刻にとらえている。

 日本の近代出版流通システムは雑誌をベースにして構築されたものであるから、雑誌の誕生から始まり、雑誌の衰退によって終わるという局面へと入っている。



 もはや誰にも止められない、「戦後の再版委託制による出版流通システムの崩壊」。だが、崩壊後にどのような「出版流通システム」があり得るのかは、まだ曖昧模糊としている。

 著者も本書で皮肉っているが、出版界では「新聞・テレビの崩壊」が取り沙汰されることはあっても、当の出版界の崩壊危機が雑誌で特集されたり、新書のテーマになったりすることはない(テレビ局の経営危機を特集したテレビ番組がないのと同じことだが)。

 だからこそ、真正面から「出版敗戦」の現実と向き合った本書には、資料的価値も含め高い価値がある。

 なお、大胆な仮説として面白いのは、後半の第二部で、「ブックオフ」と「TSUTAYA」の勃興をやや陰謀論的な視点から読み解いている点。
 

 出版業界をそのまま放置しておけば、アメリカ資本で、しかも(日本には)税金も納めていないアマゾンに日本の出版業界が完全に占領されてしまうのは目に見えているので、何らかのプランが経産省周辺から出されている可能性は否定できないでしょう。



 そして、出版界再編を早急に推し進めるための尖兵として、「ブックオフ」と「TSUTAYA」が選ばれ、巨大な力によって後押しされている、と見るのだ。当否はともかく、興味深い仮説ではある。

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古谷三敏『ボクの手塚治虫せんせい』


ボクの手塚治虫せんせいボクの手塚治虫せんせい
(2010/06/30)
古谷 三敏

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 古谷三敏の『ボクの手塚治虫せんせい』(双葉社/1050円)を読んだ。

 著者は、『ダメおやじ』『BARレモンハート』『寄席芸人伝』などの作品で知られるベテラン・マンガ家。デビュー前の1959年から4年半、手塚治虫のアシスタントを努めたという。本作は、当時の出来事から印象的なエピソードを選んでマンガ化したものだ。

 古谷といえば「赤塚不二夫の弟子」という印象が強く、手塚のアシスタントも努めたことがあるというのは本作を読むまで知らなかった。
 じっさい、彼は手塚のアシを努めたあとに赤塚のアシとなり、こちらは12年間にわたってアシ兼アイデア・スタッフを努めている。

 手塚と赤塚という二大巨匠のアシを両方努めた人って、ほかにいないのではないか(トキワ荘系の人が臨時で手伝ったことはあったとしても、長期では)。その意味ではマンガ史の貴重な生き証人といえる。

 100ページ程度の薄い本なので、すぐに読み終わる。各回の合間には、マンガに描ききれなかった話が見開き2ページの語り下ろしエッセイとして挿入されている。
 そのエッセイの一つで、著者は本作を描いた動機について次のように述べている。

 手塚治虫先生を知らない人たちがいろいろいっているので、「ボクしか知らない手塚治虫」を描こうと思ったんです。そうはいってもせいぜい、「使用人の目撃した歴史」みたいなもんだけどね。



 その言葉どおり、若き日の手塚治虫(結婚前後の話まで出てくる)を間近で見つめていた著者の描くエピソードの数々は、本の薄さとは裏腹に非常に濃い。人間・手塚治虫の核に触れるような話が、たくさん出てくるのだ。

 印象に残ったエピソードを挙げる。

その1.
 貸本劇画全盛期、古谷が貸本屋から「時代劇の劇画」を借りてくる。それは「絵もすごくうまいし」、「ストーリーは残酷ではあるがボクは大ファンででるとかならず借りてい」た作家の本だったという。
 だが、手塚は古谷の机にあったその本を手に取り、しばらく読んでから「こんなのが漫画か!!」と叫び、「床にたたきつけた」という。

 その本の作者名は伏せられているが、たぶん平田弘史だろう。劇画勃興当時の手塚の強烈な対抗意識が読み取れて、興味深い。
 本書によれば、手塚は劇画について「主人公が殺し屋だったりギャングだったり犯罪者が多い」から好きになれない、と言っていたという。手塚らしい(もっとも、のちに手塚は自作に劇画的表現も取り込んでいくのだが)。

その2.
 古谷が作品背景の後楽園球場の看板広告に「キリンビール」「トリス」という文字を描いたところ、「こどもの読む本にトリスだのビールのカンバンを描くやつがあるか。紙はってキャラメルとかジュースに描きなおし!!」と、手塚にきつく叱られたという。

その3.
 その月の連載仕事がひと区切りついて休みが取れると、手塚はきまってアシスタントに千円ずつの小遣い(いまなら1万円くらいの感覚か)を渡し、「かならず映画を観るんだぞ」と言ったという。「漫画家にとって映画は一番の勉強になる」というのが、手塚の信念だったのである。
 そして、各アシスタントは休み明けに、観た映画について感想文を提出する決まりになっていたとか。

 先生は、感想文の内容をひとつの目安にしてた。たぶんね、アシスタントたちの物語の理解度とか……将来、漫画家としてやっていけるかどうかの力量を推し量っていたんだね。



その4.
 手塚は好きなクラシック音楽をかけながらマンガを描くことがよくあったが、重要なキャラクターが死ぬ場面にさしかかると、きまってベートーベンの「悲愴」をかけたという。

 ……と、このように、いかにも手塚らしい秘蔵エピソードがちりばめられた作品なのである。 

 なお、本作は双葉社のマンガ誌『アクションZERO』に連載されたものだが、連載中に赤塚不二夫が死去したため、一回分を割いて「もうひとりの先生」赤塚不二夫の思い出が描かれている。
 その回には、「ギャグの王様といわれた赤塚先生のところに12年もいたんですから面白い話は山ほどあるんですが」とある。
 ぜひ、稿を改めて『ボクの赤塚不二夫せんせい』を描き、それも一冊にまとめてほしい。

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シャーデー『ソルジャー・オブ・ラヴ』


ソルジャー・オブ・ラヴソルジャー・オブ・ラヴ
(2010/03/03)
シャーデー

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 シャーデーの最新作『ソルジャー・オブ・ラヴ』を、遅ればせながら(発売は今年3月)聴いた。

 前作『ラヴァーズ・ロック』以来、じつに10年ぶりとなるアルバム。
 新作を出すたびに数百万枚単位で売れるから、こんなペースでも十分やっていけるわけだ。優雅な仕事ぶりはうらやましいかぎり。

 しかしこのアルバム、10年ぶりにしてはあまりにも地味すぎやしないか。これまでの全アルバムでダントツの地味さかげんなのである(『ラヴァーズ・ロック』もアコースティック寄りの地味なアルバムだったが、あちらは暖色系・癒し系の曲が多かったぶん、本作ほど地味ではない)。
 先行シングルとなったタイトル・ナンバーを聴いたときに「地味な曲だなあ」と思ったものだが、アルバム全体からみればあれでもまだポップなほうなのだ。



 初期の「スムース・オペレーター」のような“ジャジーなオシャレ系ポップ”の色合いはもはやどこにもなく、「キッス・オブ・ライフ」のようなキャッチーな曲もなく、全編どこをとっても地味でダークトーンなサウンド。

 いや、本作も十分オシャレではあるのだ。が、そのオシャレさかげんがものすごく渋くて、若い人には到底よさがわからない感じ。
 生ギターやピアノ、ストリングスが高い比重で用いられた、すき間の多いオーガニックなサウンド。それに乗って歌われるのは、アルバム・タイトルが示すとおり、愛という名の闘いの物語だ。

 すべての曲がシンプルなラブソングだが、一つとして甘い愛や楽しい愛ではない。苦い愛、つらい愛、身も心も引き裂きボロボロにする愛ばかりが歌われる。たとえば――。

わたしは愛の戦士
生きているかぎりずっと
心をずたずたに引き裂かれ
置き去りにもされたけど
自信に満ちて前に向かっていく(「ソルジャー・オブ・ラヴ」)

この愛はもうおしまいだと気づいた時
わたしは銃のようになってしまった
(中略)
まずはわたしの肌からあなたを洗い流して
あなたをこそげ落としてしまおう
あなたはわたしの中にいるべき存在じゃないの(「スキン」)
(以上、ライナーノーツに載った中川五郎の対訳より引用)



 だからこそ、曲調は総じて陰鬱で哀しい。失恋や別れの直後に聴いてはいけないアルバムだ。

 最後の曲「ザ・セーフエスト・プレイス」でのみ愛の安らぎが歌われてはいるが、それは「わたしの心はこれまでずっと/戦地に赴いていたひとりぼっちの戦士のようだった」という前提での安らぎなのである。

 お手軽な愛ばかりが歌われるポップ・ミュージックの世界にあって、シャーデーが作り上げたストイックでビターな“孤高のラブソング集”は、いぶし銀の輝きを放っている。
 ただ、くどいようだが地味で渋いアルバムなので、「オシャレなBGM」を求める向きは手を出さないほうが無難。

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川本三郎『いまも、君を想う』


いまも、君を想ういまも、君を想う
(2010/05)
川本 三郎

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 川本三郎著『いまも、君を想う』(新潮社/1260円)読了。
 2008年に食道ガンで世を去った著者の夫人、川本恵子さん(ファッション評論家)の思い出を綴ったエッセイ集。

 私はファッションにはまるで興味がないのだが、川本三郎さんのファンなので「奥さんの著書も読んでみよう」と思い、『ファッション主義』(ちくまブックス)を読んだことがある。もう四半世紀ほど前のことだ。その本のカバーそでに載った、女優のように美しい著者近影が印象に残った。
 本書のカヴァーにも、若き日の美しい川本恵子さんのポートレイトが用いられている。

 アマゾンの内容紹介には、次のようにある。

 三十余年の結婚生活、そして、足掛け三年となる闘病…。家内あっての自分だった。七歳も下の君が癌でこんなにも早く逝ってしまうとは。文芸・映画評論の第一人者が愛惜を綴る、感泣落涙の追想記。



 「感泣落涙」という大仰な言葉に、違和感を覚える。本書はそのような大仰さから遠い、静謐な印象のエッセイ集であるからだ。
 涙を誘う一節もなくはないが、著者はむしろ、ありきたりの「泣ける本」にすることを注意深く避けている印象を受ける。

 家内が逝ったあと、画家の西田陽子さんから手紙をいただいた。
「幸せだった思い出を語るのが、亡くなられた方にとっていちばんうれしいことではないかと想っています」とあった。
 いま、なるべく「幸せだった」頃のことを思い出すように努めている。



 そんな一節があるとおり、大半を占めるのは、結婚生活の中から拾い出された幸せな思い出の数々である。闘病などの悲しい思い出の記述は、必要最低限にとどめられている。

 そして、幸せな思い出を語ることを通じて、その行間にはおのずと亡き妻への哀惜と深い悲しみが流れ通う。悲しみをことさら強調するのではなく、言外に漂わせる形で、抑制の効いた表現がなされているのだ。

 私は、川本さんの著書の中では、『朝日ジャーナル』記者時代の青春記『マイ・バック・ページ』がいちばん好きだ。
 本書の一部には、“もう一つの『マイ・バック・ページ』”という趣もある。『朝日ジャーナル』記者時代、武蔵野美術大学の学生だった恵子さんと出会い、つきあい始めたころの思い出を綴った文章も収められているからだ。

 印象に残った一節をメモ。

 フリーの物書きになった三十代のはじめの頃、ある雑誌に匿名の映画コラムを連載で書いていた。匿名をいいことに、よく映画の批判を書いた。エラソーでいま思うと恥ずかしくなる。
 ある時、家内が言った。
「匿名で人の悪口を書くなんてよくないわよ。あなたいつも言っているじゃない。西部劇の悪人は、丸腰の相手を撃つって。それと同じじゃない」
 これは西部劇の好きな私にとって痛烈な批判だった。その通りだと思った。それから、気に入った映画、好きな映画のことだけを書くようになった。



 最近、甲州には、こんな言い伝えがあることを知った。「死んでから七日以内に雨が降ると、その人は天国に行ける」。家内が逝ったのは六月十七日。日記を見ると五日後の六月二十二日に雨が降った。



 
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『ソルト』



 立川シネマシテイで『ソルト』を観た。
 アンジェリーナ・ジョリー主演のスパイ・アクション。

 冷戦時代の遺物のようなスリーパー・エージェント(その土地の市民になりきって生活しているスパイ)の物語。映画の中では、ケネディ大統領暗殺犯のオズワルドもじつはソ連のスリーパー・エージェントだった、という話になっている。

 訪米中のロシア大統領の暗殺計画とか、米大統領がロシアを核攻撃する決断を下して「すわ、第三次世界大戦勃発か」という展開とか、あれよあれよと話が大きくなっていく。ものすごく荒唐無稽。いまどき、『ゴルゴ13』だってもっとリアルな話にするぞ。

 それに、二重スパイの嫌疑をかけられて逃亡するCIAエージェント、イブリン・ソルト(ジョリー)が、あまりにも強すぎ。屈強な男たちを次々になぎ倒し、ハイウェイを走るトラックの屋根から屋根へ飛び移ったりするすさまじい逃避行をくり広げる。「普通の人間なら5回は死んでるぞ」という感じ(笑)。

 当初はトム・クルーズ主演で話が進んでいた映画なのだそうだ。そう言われると、なんとなく納得。アンジェリーナ・ジョリーでは、ヒロインの圧倒的強さが絵空事に見えてしまうのだ。

 では、荒唐無稽すぎてつまらない映画かといえば、そうでもない。少なくとも、私には大いに楽しめた。細部にはリアリティがあって、大枠の荒唐無稽さをうまく中和しているから。

 爆薬のスペシャリストでもあるという設定のソルトが、消火器その他を使って即席の爆弾を作って窮地を脱するなど、細かいエピソードには『MASTERキートン』を彷彿とさせるところもある。ヒロインのサバイバルの過程にはけっこうリアリティがあって、面白いのだ。

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Cocco『エメラルド』


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(2010/08/11)
Cocco

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 Coccoのニューアルバム『エメラルド』(スピードスター・レコーズ)を、サンプル盤でヘビロ中。

 前作『きらきら』以来3年ぶりの新作である。これまでのアルバムが根岸孝旨、長田進といったプロデューサーとの共同制作であったのに対し、今回はCocco自身がすべてプロデュースしている。

 『きらきら』はまったく好きになれなかった私だが、この新作はたいへん気に入った。
 私は、ファースト・アルバム『ブーゲンビリア』(1997)こそCoccoの最高傑作だと思っている。つまり、Coccoというアーティストは、最初にいきなり頂点を極めてしまったと認識しているのだ。
 その認識は本作を聴いても変わらないが、この新作には少し『ブーゲンビリア』のころに回帰した印象があって、そこが好ましい。
 ただし、『ブーゲンビリア』のころのような、自分を瀬戸際まで追いつめていくような切迫感はあまりない。もっと大らかな音だ。

 先行シングルにもなった「ニライカナイ」は、沖縄民謡の合いの手や「琉球國祭り太鼓」を巧みに織り込んだ、美しくパワフルなロック・チューン。



 この曲にかぎらず、Coccoは本作で、ウチナーンチュ(沖縄人)としての自らのルーツに、これまでになくストレートに向き合っている。沖縄民謡の単純な摸倣ではなく、そのエッセンスを抽出したうえで、誰にも真似の出来ないCoccoならではのロック/ポップに溶け込ませている。また、歌詞にも沖縄の方言が多数盛り込まれているし、沖縄に向ける真摯な思いが全編に熱くみなぎっている。

「ばあちゃん、ごめん。今、やさしい歌は歌えない」
 ――これは、Coccoが『沖縄タイムス』に連載中のエッセイ「こっこタイム。」の、今年5月4日付の回の一節。この言葉が象徴するように、本作は総じて力強い。

 とはいえ、ハードなロック・チューンばかりが並んでいるわけではない。
 根岸孝旨以外にもCurly Giraffe、RYUKYUDISKO、mine-changら複数のアレンジャーを迎えたことで、過去のどのアルバムよりも多彩なサウンド・アプローチがなされているのだ。

 もともと定評ある歌唱力にも、いっそう磨きがかかっている。スケールの大きなバラード「玻璃の花」など、聖性すら感じさせる歌声だ。「ディーヴァ」という呼び名は、いまのCoccoにこそふさわしい。



 昨年、雑誌『papyrus(パピルス)』の表紙を飾ったCoccoの痛々しい姿が話題になった。ガリガリに痩せた拒食症の身体、腕にはたくさんの自傷行為の跡……。
 だから、本作がこのように大らかでパワフルなものになったことに、多くのファンがホッとしたと思う。その「パワー」が危ういバランスの上に成り立っているとしても、とりあえず、Coccoはいまアーティストとして充実しているのだと思う。

 
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。56歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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