日蓮―われ日本の柱とならむ (ミネルヴァ日本評伝選) (2003/12) 佐藤 弘夫 商品詳細を見る |
昨日から取材で山形県鶴岡市に行っていた。鶴岡は作家・藤沢周平の出身地で、「藤沢周平記念館」もある(藤沢とは関係ない取材だったけど)。
新幹線で東京から2時間かけて新潟まで行ったあと、特急「いなほ」に乗り換えてさらに2時間。電車に揺られる時間は片道計5時間(立川から)。な、長い。でもまあ、特急の車窓からはずっと海が見られて、気分はよかったけど。
----------------------------------------------
車中で、佐藤弘夫著『日蓮――われ日本の柱とならむ』(ミネルヴァ書房/2625円)を読了。過日、著者の佐藤さんを取材した際にいただいたもの。
非常に質の高い、素晴らしい評伝だった。日蓮の生誕から入滅までの60年余間のおもな出来事が、これまでの膨大な日蓮研究の成果をふまえて、精緻に裏づけられている。
日蓮をめぐる伝説と史実が可能なかぎり腑分けされ、後世につけられた余分な色のヴェールが引き剥がされ、一個の人間としての、思想家としての日蓮像が鮮やかに浮かび上がる。
たとえば、日蓮が弟子・富木常忍とその妻・尼御前にそれぞれ送った手紙を引いて、著者は次のように書く。
ほぼ同時期に、夫婦それぞれに相手の状況に応じた激励と指導の書簡を送る。――このエピソードには、私たちが抱いているような、獅子吼する不撓不屈の法華経の行者日蓮のイメージとは別の一面が読み取れる。そこにみえるのは、相手と同じ目線に立って心のひだに染み入るようなこまやかな心遣いと指導を施していく、人生の達人の姿である。
この一節に象徴されるように、著者の目線は、学者らしい客観性を保ちつつも、人間日蓮への深い敬愛に満ちている。
何より素晴らしいのは、700年以上前の出来事をたどっているのに、読んでいくうち、当時の社会状況、仏教界の状況が手に取るようにわかる点。
本のタイプはまるで違うものの、網野善彦の『異形の王権』を読んだときのような興奮を覚えた。すなわち、中世という時代の相貌が活写される面白さである。たとえば――。
中世は神仏の時代であった。そこではあらゆる言説が神仏の回路を通じて発せられ、さまざまな思想も宗教的な理論を借りて組み立てられ、支配―被支配関係や身分関係までもが、宗教的なベールをまとって現出していた。
(蒙古襲来に際し)幕府は蒙古に対して軍事力だけでなく、宗教的な勢力も根こそぎ動員していた。中世では戦闘は人間だけのものではなかった。冥界ではそれぞれを守護する神々の間で戦闘が行なわれ、それが戦の帰趨を決すると考えられていた。
当時の宗教事情や僧侶たちの生活についての解説も、いちいち目からウロコ。たとえば――。
この時期の僧侶は、学僧といえどもただ学問に専念していればいいというわけではなかった。中世では寺そのものが広大な荘園を経営したくさんの参詣者を集める、一種の企業体のような存在であった。その構成員たちはだれもが、何らかの形で寺の世俗的な活動の一部を分担する義務があった。
どこの寺でも、年貢・公事の取り立てや訴訟を担当したのはその道を専門とする出家者だった。彼らは自分たちの所属する寺の経営や訴訟に携わるだけでなく、今日の弁護士のように、依頼されて俗人の裁判に関与することさえあった。深い学識と寺院の経営をにないうる手腕を兼ね備えた人物こそが、あるべき僧の姿とされた。
なるほど、日蓮が豊富な訴訟知識などを備えていたのは、そういう背景事情があったからなのだな。
著者は「はしがき」で、次のように言う。
日蓮の一つひとつの言動は、それが発せられた状況と場を離れては、生命の通わないただの鉄片にすぎない。日蓮の宗教者としての魅力は、それらの鉄片を引き寄せ命を吹き込んでいく、強烈な信念の磁力にこそ存在するのである。
本書は厳密な学問的な手続きを踏まえながらも、究極的には日蓮のそうした信の世界の核心にまで降り立つことを目指している。
その企図は十二分に達せられていると思う。私がこれまで読んだ日蓮の評伝や入門書の中で、本書は間違いなくベストワンである。
- 関連記事
-
- 苫米地英人『なぜ、脳は神を創ったのか?』
- 石井研士『テレビと宗教』
- 佐藤弘夫『日蓮――われ日本の柱とならむ』
- 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』
- 佐藤弘夫『日蓮「立正安国論」全訳注』