洋楽好きを唸らせるアイドル・ポップ@YouTube


VERGE OF LOVE (英語バージョン) [+2]VERGE OF LOVE (英語バージョン) [+2]
(2010/04/21)
荻野目洋子

商品詳細を見る


 原稿書きが煮詰まってしまったので、ちと気分転換。
 「洋楽好きを唸らせるアイドル・ポップ」というお題で、私の好きな曲をYouTubeからいくつかご紹介。


↑清浦夏実の「旅の途中」(2008)。『狼と香辛料』というアニメのオープニング・テーマ曲。
 このアニメを観たこともないし、清浦夏実についてもよく知らない私だが、この曲が大好きである。作詞:小峰公子、作・編曲:吉良知彦というザバダック・コンビによる作品で、どこから聴いてもザバダックそのまんまの曲だから……。ザバダックのファンになって約四半世紀の私のツボを突きまくりだ。
 ザバダックの名曲に「風の巨人」というインスト・ナンバーがあるのだが(アルバム『iKON』所収)、これはあの曲を土台にしたヴォーカル・チューンという趣。


↑河合奈保子の「THROUGH THE WINDOW~月に降る雪~」(1985)。私がこんなのをホメると驚く人もいるかもしれないが、この曲はじつにカッコイイ。
 河合奈保子のヴォーカルは相変わらず河合奈保子なのだが、アレンジは完全に洋楽ロック。重厚華麗なアレンジは、後期ジェネシスとかイット・バイツのような、ハードロック寄りのブリティッシュ・プログレの香り。凝りすぎたアレンジが災いしてか、この曲はあまりヒットしなかった。


↑知念里奈のデビュー曲「DO-DO FOR ME」(1996)。知念里奈は安室奈美恵フォロワーではあるが、この曲とこのPVにかぎっていえば、安室の十倍カッコイイ。名曲にして名作PV。お金のかかっていないPVなのに、監督・板屋宏幸の卓抜なセンスによって名作となった。
 知念里奈はこのような「男前路線」をずっとつづけるべきだったと思うのだが、その後甘々なアイドル路線に走ったり、迷走の果てに失速してしまった印象(最近は歌手としてよりミュージカル女優としての活動が主であるようだ)。


↑荻野目洋子の「VERGE OF LOVE」(1989)。彼女のヴォーカリストとしての魅力に惚れ込んだ米国の大物プロデューサー/ミュージシャン、ナラダ・マイケル・ウォルデンが全面プロデュースしたアルバム『VERGE OF LOVE』のタイトル・ナンバー。
 完璧な洋楽テイスト。アイドル「オギノメちゃん」とは次元の違う大人っぽいヴォーカル。『VERGE OF LOVE』はアルバムとしても捨て曲なしの傑作だったが、わけてもこの曲は忘れがたい。つい先月、リマスターされた紙ジャケ&SHM-CD版も発売された。

関連記事

フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代へ』


共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること
(2010/04/22)
フランス・ドゥ・ヴァール

商品詳細を見る


 フランス・ドゥ・ヴァール著、柴田裕之訳『共感の時代へ――動物行動学が教えてくれること』(紀伊國屋書店/2310円)読了。

 著者は、霊長類の社会的知能研究で世界の第一人者として知られる動物行動学者。著作には一般向けの科学書も多い。
 そのうちの一つ『利己的なサル、他人を思いやるサル』(邦訳・草思社)で、著者は霊長類の行動を通じて人間社会のモラルの起源を探った。本書もその延長線上にある。霊長類を中心とした動物たちの行動から、「共感」――他者への思いやりの本質を探った書なのである。

 我々はとかく、共感は人間だけが持ち得る能力だと考えがちだ。しかし、著者は膨大な実証を積み重ね、その先入観を突き崩していく。

 本書で紹介される動物たちの共感をめぐるエピソードは、約半分が著者や他の研究者が発見した事実であり、残りはさまざまな文献から集めたものだ。病気で動けない仲間に口移しで水を飲ませるチンパンジー、溺れた犬を助けて川岸まで運んだアザラシ、密猟者に撃たれて死んだ仲間の口に草を詰め込むゾウ(生き返らせようとしたとしか思えない)、吸った血を仲間に分け与えるチスイコウモリ……まるで物語のようなエピソードがちりばめられ、読者を驚嘆させずにはおかない。

 著者は、脳科学におけるミラーニューロン(他者の行動を見ると、自身がその行動をしているかのように“発火”する脳神経細胞)の発見など、広い分野の科学的知見を駆使して、共感のメカニズムとその意味を探っていく。著者によれば、共感能力は進化史上、哺乳類に共通の特性なのだという。子育てにおいて、「自分の子供に敏感なメスは、冷淡でよそよそしいメスよりも多くの子孫を残した」ことが、共感能力が発達したそもそもの理由なのだと……。

 そして著者は、動物たちの姿から、他者への共感の不足がさまざまな悲劇の源となっている現在の人間社会を、逆照射していく。

 利益優先社会から脱却し、共感を基盤とする新たな社会を構築することこそ、時代の混迷を切り開く道だと著者は説く。 “共感能力が最高度に発達した哺乳類”たる人間には、そのための力が備わっているのだ、とも。

 共感の奥深さと尊さを教えて、感動を呼ぶ科学書である。

関連記事

青木由美子『オウムを生きて』


オウムを生きて―元信者たちの地下鉄サリン事件から15年オウムを生きて―元信者たちの地下鉄サリン事件から15年
(2010/03/11)
青木 由美子

商品詳細を見る


 昨日は、企業取材で姫路へ――。早朝に家を出て、夜には帰ってくる日帰り取材。

 新幹線で、青木由美子編『オウムを生きて――元信者たちの地下鉄サリン事件から15年』(サイゾー/1575円)読了。

 本書の「はじめに」を読んで気づいたのはうかつであったが、私はこの編著者を知っている。
 といっても、あちらは覚えているかどうかわからない。かれこれ20年近く前、サンマーク出版で私がゴースト仕事をやったときの担当編集者であった。たしか当時はまだ新人編集者で、かわいらしいお嬢さんだった。いまは退社して、フリーで企画・編集・執筆の仕事をされているとか。

 いやー、出版業界って狭い世界ですなあ。

 さて本書は、タイトルが示すとおり、オウム真理教の元信者たちへのインタビュー集。村上春樹の『約束された場所で――underground2』の類書である。
 『約束された場所で』は、前作にあたる『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件の被害者たちをインタビューした村上が、加害者側であるオウムの信者・元信者たちを取材したものであった。
 同様に、本書の編者も地下鉄サリン事件の被害者手記集を編集者として手がけたことがあり、事件を被害者・加害者の両側から眺める形となった。

 村上のものとは異なり、本書は編者自身の論評が「はじめに」以外になく、ギョーカイ用語でいうところの「ベタ・モノローグ」形式をとっている。インタビューイとなった7人の元信者たちの言葉を、虚心坦懐に記録した内容となっているのだ。
 が、インタビュー集としての質は、『約束された場所で』と比べても遜色ない。

 本書に登場する7人はいずれも、事件への直接的関与はない人たちである。最後に登場する麻原彰晃の四女だけが異質だが、ほかは無名の一般信者ばかり。編者は元幹部たちにも取材を申し込んだそうだが、ことごとく断られ、結果的に一般信者に絞ったものになったとか。
 そのことは、むしろ本書の美点につながっている。幹部ではない一般信者の心に分け入ることで、本書はオウムの世界を「人外魔境」としてではなく、日常と陸つづきの世界として描き出すことに成功しているのだ。

 彼らはなぜオウムに惹かれたのか? 地下鉄サリン事件発生からの日々を、何を感じ、何を考えて生きてきたのか?  そして、事件から15年を経たいま、どのように生きているのか? ……それらのことが、じつによくわかる内容になっている。

 どのインタビューも言葉がいきいきとしていて、当事者にしか語り得ない真実・実感が、山ほど盛り込まれている。たとえばある元信者は、地下鉄サリン事件発生直後のの教団内部の雰囲気を、次のように振り返る。

 今となっては不謹慎な話ですが、この頃はまるで修学旅行のようでした。警察は共通の敵であり、だからこそ連帯感が生まれたのでしょう。



 これはまさに、当事者ならではの実感の言であろう。教団の外から想像で書いたら、「まるで修学旅行のようでした」なんて言葉はけっして出てこない。

 外部の者には、信者たちにとってオウムの何が魅力的に映ったのかは、わかりにくい。が、7人の元信者が幼年期からの来し方を振り返った本書のインタビューを読むと、それがすんなり理解できる。オウムという教団の是非はさておき、それが彼ら彼女らにとってどのように魅力的であったのかは、よくわかるのだ。

 たとえば、ある元信者は、自分の子ども時代を振り返って次のように言う。

 私にとって、世界は謎に満ちていました。なぜ、一つひとつのモノには名前がついていて、違うものとして区別されているんだろう?  「山」と山の「ふもと」の境はどこかわからないのに、違う名前で呼ぶのはどうしてだろう?  誰がいったい、何のために、いろんなモノに名前をつけたんだろう? 考え出すと、きりがありませんでした。
 この世界のしくみ、心をどう扱ったらよいのか、なにを大切にして生きていけばいいか。私はそうしたことを知りたいのに、小学校の勉強は知識を入れて、覚えているかどうかテストするだけのように感じました。その基準で評価されるなど屈辱的でさえありました。



 また、別のある元信者は、オウム真理教への入会を振り返って、次のように言う。

 二○年以上たって教団を離れた今、あのときの私にとってこの決意は、ある意味で結婚だったのかもしれないと思うのです。
 「全部、引き受けてあげる」という人に自分を全面的にゆだね、目をつぶってでも信じて人生を賭けてしまう。冷静に考えれば弱さからくる依存だとも感じますが、「よっしゃ! そんならこのハゲ(彼女に入会を決意させたオウム幹部のこと/引用者注)に人生賭けたるわい」と、そのときは決意したのだと思います。



 宗教の役割を考えるための書として、また、人がカルトに引き込まれるプロセスをつぶさに記録した書として、意義深い一冊だと思う。

 「はじめに」で、編者は次のように言う。

 取材を終えて思うのは、彼らの物語は、特異であって特異でないことだ。彼らに心を寄り添わせることは、無理ではなかった。もちろんすべてではないけれど、わたしは彼らの中に、自分を見いだすことができた。
「こんなおかしなやつらのことは、いっさい理解できない」といきどおる方も、わたしと同じく「ある部分で、自分と通じるものがある」と感じる方もいるだろう。それは、どちらでもかまわない。いずれにしろ、すべてを「他人事」にしてしまわないことが、事件を風化させないいちばんの方法かもしれないと、わたしは思っている。



 私も、登場する7人の中に自分と通じる部分を見いだすことができた。本書はけっしてオウムを擁護するものではないが、紋切り型のオウム批判からも自由である。その意味で、森達也の傑作ドキュメンタリー『A』『A2』に通じる内容だと思った。

 インタビューから受ける印象として、登場する7人は「いい人」「純粋な人」「真面目な人」ばかりである。その人たちが、誤った宗教を信じた結果として心に深い傷を負った様子は、痛々しい。

 私の知り合いが心身症になり、精神科の先生に「元オウムなんです」と相談にいったところ、元信者はたくさん来ているとの答えだったと聞きました。修行によって麻原が自分の意識に入り込んでくる幻覚にとらわれ、現実に精神を病んでしまった人もいるのです。



 事件後に脱会した元オウム幹部・石井久子も、いま精神を病んでいるという。

 そして、本書で最も強い印象を残すのは、麻原の四女へのインタビュー。まるで一編の短編小説のようだ。

 公立中学で受けた激しいいじめ(麻原の娘であることが原因)からリストカットをくり返す彼女を見かねて、姉が教育委員会にいじめ対策をお願いにいく。その場面が強烈だ。

「この子はリストカットをしてるんです。もしいじめで死んでしまったら、どうするんですか」
 二番目の姉がこう訴えると、同席していた中学校の校長先生が、私のほうを見て言いました。
「あなたの命はひとつですよね。でも、あなたがたのお父さんは、たくさんの人を殺しましたね。あなたが死んでも、しかたないでしょう」



 このように学校でも疎外された四女(それにしてもこの校長はひどい!)は、教団内でも孤立し、母親(松本知子)からも「育て方を間違ってしまったから、手遅れだ。放っておくしかないから、勝手に育っていけばいい」と暴言を吐かれる。彼女には、どこにも居場所がない。

 家族を否定し、教団を否定し、友だちだと思っていた信者たちとも別れた私には、自分を肯定できる要素が何ひとつありません。少し前に服毒自殺を図った際、腎臓や腸を痛めて体調も悪く、将来を考えると「発狂か、自殺か」としか考えられません。



 この絶望的なインタビューが最後に置かれた本書は、ある意味救いのない本だ。が、したり顔の論評を加えるより、ポンと投げ出されたこの「救いのなさ」こそが、読む者の胸に迫る。

関連記事

ロバート・B・パーカー『勇気の季節』


勇気の季節 (ハヤカワ・ノヴェルズ)勇気の季節 (ハヤカワ・ノヴェルズ)
(2010/03/05)
ロバート・B・パーカー

商品詳細を見る


 ロバート・B・パーカー著、光野多恵子訳『勇気の季節』(早川書房/1995円)読了。
 今年1月に急逝したパーカーの「追悼出版」作(絶筆ではない。すでに本作の邦訳が終わり、刊行準備の最終段階に入っていたときに訃報が入ったという)。

 スペンサー・シリーズではなく、ヤング・アダルト向けの青春ミステリーである。
 アマゾンの内容紹介を引用する。

 15歳のテリーは母親と二人暮らし。同い年のガールフレンド、アビーとの仲は良好なものの、なかなか大人の関係に進展しないのが悩ましい。
 テリーがアビー以外で目下夢中なのは、黒人トレーナー、ジョージに教わるボクシングだ。まだ始めたばかりだけれど、ジョージのように強くなることを夢見てトレーニングに励んでいる。
 そんなある日、テリーと同じハイスクールに通うジェイソンという少年が浜辺で死体となって見つかった。学校はそれをステロイドの乱用からくる自殺だと説明した。だが、おとなしくてスポーツもしないジェイソンがそんなものを使っていたとは信じられない。テリーとアビー、そして仲間たちは学校と町にはびこる陰謀を探りはじめた…スペンサー・シリーズの巨匠が少年のまなざしを通じて熱く温かく描く、愛と友情、そして勇気の物語。



 主人公の少年が大人の男に鍛えられていくという設定が『初秋』(スペンサー・シリーズの名作)を彷彿とさせたので、読んでみた。

 ヤング・アダルト向けだから大人の読者にはいささか物足りない部分もあるが、それでもパーカーらしさは全開で、面白く読めた。
 スペンサーも元ボクサーという設定だったくらい、パーカーにとってボクシングは大の得意分野。ゆえに、本書でもボクシングのトレーニングの場面などがすこぶるいきいきとしている。

 黒人トレーナーのジョージが、スペンサーと相棒ホークを足して二で割ったようなキャラクターで、魅力的。ジョージがテリーにボクシングを教えるいくつかの場面で、ボクシングについて語る言葉が逐一人生の比喩になっているあたりも、よくできている。たとえば――。

「冷酷になるのは試合のときだけだ。だいじなのはそういうコントロールができることだ。冷酷さに振り回されるようでは、いいボクサーにはなれないし、まともな人間にもなれないのさ」



「おれがおまえにボクシングを教えてるのは、いいボクサーにするためじゃない」
「じゃあ、いったいなんのために?」テリーはそう聞いた。
「おれは、おまえにりっぱな人間になってほしいと思って教えてるんだ」
「だけど、ボクシングができるからといって、りっぱな人間とはかぎらない」
「そのとおり」
「自分をコントロールできるようになれば、りっぱな人間になれるってこと?」
「そういうことだ」
「そうすれば、自分のプランを捨てずにやることができる……」
「まずやらなきゃならんのは、プランを立てられるようになることだ。次に、そのプランにそってやっていくことをおぼえる。プランがまちがっていたことがわかったら、そのときは新しいプランをつくってやっていく」
「なんだか、人生の話をしてるみたいだな」



 こうした場面も、『初秋』でスペンサーが心を閉ざした少年を体を鍛えることで教育するシーンを彷彿とさせて、なんだか懐かしい。
 テリーのガールフレンドである聡明な美少女アビーも、まるでスーザン・シルヴァマン(スペンサーの恋人)の少女時代のようだし……。

 とはいえ、これが『初秋』級の名作かといえば、とてもそこまではいかない。私は『初秋』を少年時代に初めて読んで以来何度も読み返したが、本書は一回読めばもういい、という感じ。
 まあ、私自身が主人公と同じ15歳のころに読んでいたら、もっと好きになれただろうけど……。

関連記事

中村珍『羣青(ぐんじょう)』


羣青 上 (IKKI COMIX)羣青 上 (IKKI COMIX)
(2010/02/25)
中村 珍

商品詳細を見る


 岩明均『ヒストリエ』の6巻と、中村珍の『羣青(ぐんじょう)』上巻を購入。

 『ヒストリエ』は、この巻でいよいよ若き日のアレクサンダー大王が登場(ヘファイスティオンも)。一気に面白さが倍増。
 岩明は『寄生獣』のころは絵に魅力がないことが唯一の欠点だったと思うが、最近はずいぶんうまくなった。

 中村珍(なかむら・ちん/こんな名前だが、妙齢の女性)の『羣青』は、最初の連載誌『モーニング・ツー』での打ち切りに至る経緯を本人が赤裸々にブログに綴ったことで、ずいぶん話題になった作品。
 私もその騒動で初めてこの作品を知り、興味を抱いた。そういう読者はほかにもたくさんいるだろうから、結果的にはトラブルが宣伝になったわけだ。人間万事塞翁が馬ですな。

 『モーニング・ツー』での打ち切り後、単行本化も宙に浮いていたこの作品を『IKKI』が拾い上げ、コミックスも小学館から出た。この上巻は正味460ページのボリューム。上・中・下の三巻構成になるそうだ。

 カバー画からして、尋常ならざる迫力がみなぎっている。そして、帯には作家・本谷有希子の「魂と引き換えに描いてるとしか思えない。」という強烈な推薦の辞。思わず手が伸びる。

 カバー裏の紹介文を引用する。

 日常的に続く夫の暴力。そんな日々に耐えかねた女は、友人のレズビアンに夫を殺すように持ちかける。
 想い人からの頼みを断りきれず、レズビアンは彼女の夫を殺し、そして――。



 2人の絶望的な逃避行が、過去をフラッシュバックさせつつ描かれていく。
 いわば、舞台を日本に置き換えた“暗色の『テルマ&ルイーズ』”、もしくは、『モンスター』をもっと耽美的にした物語……そんな印象がある。

 『モンスター』は、私のお気に入り映画の一つ。実在の殺人者アイリーン・ウォーノスと、そのレズビアンの恋人の逃避行を描いたデスペレートなラブストーリーである(→当ブログのレビュー)。

 この『羣青』も、デスペレートなラブストーリーとして胸に迫る。

 絵は私の好みではないし、ストーリーにもずいぶん強引な部分が散見される。しかし、そんなことはどうでもいいと思わせるパワーが、この作品にはある。この物語を書かずにはいられないという強い意志と、「伝えたいことさえ読者に伝われば、細かいことなどどうでもいい」とでも言いたげな荒々しいエネルギーが、全編にみなぎっているのだ。

 連載開始時、作者が22歳の若さだったということが信じられないほど、心の深みにまで届く異形のラブストーリーである。

関連記事

水木しげる『水木しげるの遠野物語』


水木しげるの遠野物語 (ビッグコミックススペシャル)水木しげるの遠野物語 (ビッグコミックススペシャル)
(2010/01/29)
水木 しげる

商品詳細を見る


 柳田國男の説話集『遠野物語』を水木しげるがマンガ化した、『水木しげるの遠野物語』(小学館/1300円)を読んだ。『ビッグコミック』に、一昨年から昨年にかけて連載されたもの。今年2010年は『遠野物語』発刊100周年の佳節にあたり、本書もそれを記念しての刊行だという。

 水木しげるはむろん妖怪マンガの第一人者であり、『遠野物語』には天狗や河童、座敷童子や山姥(やまんば)などの妖怪が多数登場する。作風から見ても絵柄から見ても、水木と『遠野物語』のマッチングは最高であり、これまでこの企画が実現しなかったのがむしろ不思議なくらいだ。
 というより、そもそも『遠野物語』のマンガ化がこれまでなかったこと自体が不思議だ。

 かつて『コミックトム』で、著名マンガ家たちが宮沢賢治の童話をマンガ化する競作シリーズがあった(『宮沢賢治・漫画館』として全5巻の単行本になっている)。これがじつに素晴らしいシリーズで、水木はこのシリーズにも作品を寄せているが、本作はその流れを汲むものといえそうだ。

 柳田國男の『遠野物語』は私も好きで、少年時代から何度となく読み返しているが、本書は原作ファンにも十分愉しめるものに仕上がっている。

 アマゾンのカスタマー・レビューを見てみたら、「これはあくまで『水木プロ作品』であって、水木しげるの作品とはとても言えない」(趣意)と酷評しているレビューがあった。
 水木が本作でどの程度ペンを入れているのかは、私にはわからない。まあたしかに、若い女性キャラ(といっても大半は妖怪)の絵柄を見ると、妙にアニメチックな美人顔に描かれていて、水木しげるらしくない。このへんはアシスタントが描いたのかも。
 とはいえ、全体的には、水木しげる作品としての魅力を十分具えていると私は思う。

 とくに、『遠野物語』を読んでも脳内でヴィジュアルとして像を結びにくい場面の数々が、魅力的な絵で明確にヴィジュアル化されている点が素晴らしい。たとえば――。

 三島由紀夫は「小説とは何か」の中で『遠野物語』のワンシーンを取り上げ、“ここにこそ小説を小説たらしめる秘密がある”と絶賛している。
 それは「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり」との一行で、老婆の幽霊が現れた際、その着物の裾が触れた「炭取」が回ったというシーンである。

 ここがこの短い怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一ページの物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかに見事な小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである(「小説とは何か」)



 三島のこの絶賛が印象に残っていた私だが、「炭取」なるものがどんなものかわからないので、ヴィジュアルが浮かんでこなかった。それが、本書に描かれたのを見て、「ああ、こういう場面だったのか」ともやもやがスッキリする感覚を味わったのである。

 ほかにも、「ゴンゲサマ」がバクバクと火を喰う場面など、本書で初めて「こういう場面だったのか」と腑に落ちた点がたくさんある。

 ただ、一点だけ難を言えば、『遠野物語』の大きな魅力であるところの哀切さ・物悲しさは、本書には皆無に等しい。水木しげるらしく、ユーモア色の濃い飄々とした『遠野物語』になっているのだ。
 姫神せんせいしょんが名盤『遠野』で展開したような切なさあふれる世界を期待すると、肩透かしを食う。なにせ「ギョギョッ!」「フハーッ!」の世界だから。
 
 とはいえ、怪異とユーモアが織りなす水木しげる流の『遠野物語』として、再読・三読に堪える味わい深い一冊となっており、原作が好きな人なら一読の価値はあろう。

 ところで、いまのマンガ界で『遠野物語』の世界にいちばん近い作風をもつ描き手といえば、なんといっても五十嵐大介である。
 五十嵐にもぜひ『遠野物語』をマンガ化してほしい。実現すれば、それは本書とは異なる魅力をもつ作品となるに違いない。

関連記事

『そこがいいんじゃない! みうらじゅんの映画批評大全2006-2009』


そこがいいんじゃない! みうらじゅんの映画批評大全2006-2009そこがいいんじゃない! みうらじゅんの映画批評大全2006-2009
(2010/02/23)
みうらじゅん

商品詳細を見る


 みうらじゅん著『そこがいいんじゃない! みうらじゅんの映画批評大全2006-2009』(洋泉社/1365円)読了。

 雑誌『映画秘宝』に連載されているコラム「オレはそれを~と呼ぶね」(「~」部分に入る言葉は毎回変わる)の単行本化第2弾。
 「映画批評」と銘打ってはあるものの、実際は「批評」というより、観た映画をネタにしたお笑いコラム集である。

 たとえば、『エリザベス ゴールデンエイジ』を取り上げた回は、主人公エリザベス一世の「処女王」という別名をめぐる話に終始し、映画の中身への言及は皆無に等しい(笑)。

 “処女王”って……。これを男に置き換えてみれば一目瞭然だ。“童貞王”、あんまりだろ?
(中略)
 あるコンパで「コイツ、“童貞王”だから」とか「このコ“処女王”なの」なんて紹介されてしまったら、どうする? “王”をつけられることがどんだけキツイか、つけられた者にしかわからぬ苦労があるのだ。



 1本の映画につき文章が3ページで、そのあとに作品をパロったマンガ(当然みうらじゅんによるもの)が1ページつくという構成。
 マンガはコラムの内容をふまえたものであり、単独で読むと意味がわからないが、コラムのあとに読むと笑える。文章とマンガの相乗効果で二倍笑える本なのである。

 取り上げた映画のほとんどを、みうらじゅんは試写会ではなく映画館で、しかも平日の昼間に観ている。それもまた、彼の映画に対する「美学」の一端だ。「こんな映画をこんな時間に一人で観ているオレ。いったい何やってんだろ?」というたそがれ感を味わうことまでひっくるめて、みうらじゅん流の映画の味わい方なのだ。

 オレが大学生の頃、立川の二番館(グラインドハウス)で『ゾンビ』と『ダンボ』の2本立てというのがあった。“どんな客層やねん!”と、ツっ込んだが何のことはないオレを含めたバカ映画ファンの集まりであった。
 ところで君は『ラストラブ』を観たか? 田村正和主演のサックス映画だ。こーゆー映画はレンタルではなく映画館に出向くことをおすすめしたい。それも平日の朝イチ。“いったい、オレは何をしているんだろう?”と、不安になるからだ。あのサックスがコブラだったらと、オレはずっとそう思いながら観た。



 また、平日昼間に閑散とした館内に座る観客たちを観察し、彼らの様子を数行でスケッチするくだりが随所にあって、それも面白い。

 取り上げた作品にはバカ映画もあれば大作もあり、大ヒット作もあり、アカデミー賞をとったような評価の高い作品もある。しかし、そのどれに対しても、みうらじゅんはつねに、バカ映画を楽しむのと同じ姿勢で臨んでいる。
 この姿勢なら、たとえどんな映画を観ても「あ~あ、観て損したなあ」と思うことはない。ある意味「最強の映画鑑賞スタイル」なのである。

 それにしても、1980年代サブカル・ヒーローの1人・みうらじゅんが、いまなおパワー・ダウンせず第一線で活躍しているというのも、考えてみればすごいことである。
 あのころのサブカル・ヒーローで現在まで生き残っているのは、けっきょく、みうらじゅんと根本敬と糸井重里くらいではないか(「生き残っている」の判断基準は私なりのもので、異論もあろうが)。某や某々や某々々はどこかに消えてしまったし……。

関連記事

西村賢太『随筆集 一私小説書きの弁』

随筆集 一私小説書きの弁随筆集 一私小説書きの弁
(2010/01/30)
西村 賢太

商品詳細を見る


 西村賢太著『随筆集 一私小説書きの弁』(講談社/1680円)読了。

 いつの間にやら私はすっかり西村賢太ファンになってしまい、これまでに出た5冊の小説集はすべて読んでいる。
 本書は、西村にとって初のエッセイ集である(あえて「随筆集」とタイトルに冠しているあたり、西村らしい)。

 もともと西村の小説は大部分が私小説なのだから、エッセイといってもこれまでの小説作品とあまり違いはない。
 違いとしては、過去の小説のほとんどに登場した「女」(同居していた恋人)との会話のやりとりなどが一切ないことと、小説の舞台裏(作品の意図、掲載・出版の経緯など)が細かく書かれていることくらいか。

 ゆえに、西村の小説が好きな人なら本書も面白く読めるだろうし、そうでない人には本書もはなから無縁のものだろう。

 ただ、ちょっと辟易したのは、収められたエッセイのじつに3分の2以上が、例の藤澤清造(西村が私淑し、「没後弟子」を名乗っている大正期の私小説作家)について書かれたものであること。
 藤澤の小説を読んだこともなく、興味もない当方としては、べつにくわしく知りたくもない藤澤の生涯について無理やりレクチャーされているようで、げんなり。一部に内容の重複もあるし。

 「あとがき」によれば、本書のタイトルも当初は『藤澤清造――自滅覚悟の一踊り』にするつもりだったのだという。

 よくよく考えると、この書名では恰も該作家の伝記、乃至研究書の類みたいな響きとなり、内容のその薄っぺらさに比して随分と羊頭狗肉の感じになってしまう。



 ……という懸念からこのタイトルに変えたとのことだが、本書は実質的には、西村がいずれ上梓するはずのライフワーク『藤澤清造伝』の、予告編のような内容だ。

 とはいえ、藤澤についてのエッセイ群も、文学研究者が書くようなものではなく、藤澤をフィルターとして西村が自身を語ったものである。ゆえに、けっしてつまらないわけではない。ただ、藤澤清造ネタばかり立て続けに読まされるといやになるのだ。

 私にとって面白かったのは、残りの、西村が自身の生活をあけすけに綴ったエッセイ。

 たとえば、「慊(あきたりな)い」と題された一編。
 これは、取材を受けた地方紙の新人女性記者にひと目惚れした西村が、その後、なんとか彼女の気を引こうと手紙のやりとりを交わしたあと、あっさり振られた顛末を綴ったものである。
 これなど、随筆ではなく短編小説として書けば、かつての傑作「けがれなき酒のへど」の続編のようになったのではないか。

 また、2008年1月前半の生活を日記風に綴った「松の内拔萃」なる文章があるのだが、これが、日常を淡々と綴っただけなのにすごく面白い。“プアマンズ『断腸亭日乗』”という趣がある。たとえば――。

 夜、九時過ぎ鶯谷に出かける。今年に入って初めての女体。相手の口臭がひどい。が、二回戦を所望する。毎日このあたたかさにありつきたい。
 ひとりで「信濃路」に入り、ウーロンハイを飲む。芥川賞でも獲れれば、現在岡惚れしているあのインテリ女性も、ひょっとしたらなびいてくれるかも、と、暫時夢想。



 ひときわ強烈な印象を残すのは、西村が芥川賞候補にのぼった際、「テレビの朝の情報番組で、芥川賞選考会のある明日、結果の出る瞬間までつきっきりで取材したい」という依頼を、言下にことわるくだり。

 こちらでは、万にひとつも受賞の可能性なぞないからとっくに終わったつもりのものでいることだし、何より前日になってのこうした話は、いかにも思いつきめいていてひどく不愉快であった。明らかに、真っ先に落選することが判りきっている自分を、あえて選んで晒し者にしてくれようという魂胆が見え透いている。
 四十を過ぎて、なお未練に小説にしがみついている無能無名、伸びしろゼロの五流新人。薄汚い、ほぼ無職の中年男。そんな自分の無様な落選の模様は、端的に流行りの“格差社会"の悲哀なるものを映しだすことができようし、おそらく一方では、受賞されるかたの華やかな場面の方も用意しておいて、あくまでもそれの陰画の役割を担わせる奸計のみで目を付けてきたに違いあるまい。てんから小説書きとして取り上げようという企図のものではあるまい。
 そうだ。加えてこれは、はな、リアル『ALWAYS  続・三丁目の夕日』的なものも意図しているのやも知れぬ。「芥川賞をねらう。今度こそ、とる」か。
 乗れねえわ、そんなもん。フザけんな、こいつこの野郎めが。



 このように、随所に煮えたぎるルサンチマンと、惨めな己を客観視して笑い飛ばす捨て身のユーモア……すなわち、西村の小説と同じ魅力を放っているのだ。
 第二随筆集では、清造ネタはもういいから、こういう文章だけ集めてほしい。

 そのほかにも、書評などの文章が数編収められている。それらは、まあまあの面白さ。

関連記事

サンボマスター『きみのためにつよくなりたい』

きみのためにつよくなりたいきみのためにつよくなりたい
(2010/04/21)
サンボマスター

商品詳細を見る


 サンボマスターの新作『きみのためにつよくなりたい』(ソニー・ミュージックレコーズ/3059円)をヘビロ中。
 今年で結成10周年を迎えるサンボマスターの、2年3ヶ月ぶりのニューアルバム。サンプル盤をいただいたもの。

 サンボマスターのアルバムをきちんと聴くのは久しぶりだ。
 このバンドは、ずっと聴いていると暑苦しいけど(笑)、たまに聴くとなかなかよい。

 先行シングルとなった「ラブソング」が、オープニングに据えられているのは象徴的だ。というのも、この曲はピアノとストリングスに彩られた美しいラブバラード(しかもギターなし!)で、サンボマスターの新境地を示すものだからだ。

 ほかにも、ほぼアコギのみで歌われるバラード「僕の好きな君に」があったり、軽快なスカ・ビートに乗って女優・伊藤歩とデュエットする「世界を変えさせておくれよ」があったりと、「轟音ギターでシャウトしまくり」という彼らのイメージから外れた聴きやすい曲が多い。これまでで最も幅広い層にアピールし得るアルバムといえよう。

 とはいえ、サンボマスターらしからぬアルバムというわけではない。従来通りのパワフルなロックナンバーも多いのだ。
 それらの曲は相変わらず「熱い」を通り越して(よい意味で)暑苦しく、歌詞は相変わらず(よい意味で)青臭い。そして、山口隆のソウルフルなボーカルはますます冴え渡っている。

 歌詞の面では、これまで以上にストレートで前向きなラブソングが多くなっている。
 「君を守って 君を愛して」「きみはともしび」「愛とは愛とは」などという収録曲のタイトルを並べるだけでわかるとおり、文学的な装飾もぎりぎりまで削ぎ落とされ、シンプル極まる言葉で力強く愛が謳い上げられているのだ。

 「日本語ロックの可能性を広げた」と評されるサンボマスターが、ロックにおけるラブソングの可能性をさらに拡大した力作。
 『ソラニン』の浅野いにおが描き下ろしたジャケットもいい感じ。

関連記事

佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)電子書籍の衝撃
(2010/04/15)
佐々木 俊尚

商品詳細を見る


 佐々木俊尚著『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書/1155円)読了。この人の本を読むのはこれで5冊目。
 
 書名のとおり、電子書籍時代が本格的に到来すると何がどう変わるのかを中心に、出版文化の未来を展望した一冊。
 私も本や雑誌記事を書いてメシを食っている人間だから、切実な興味をもって読んだ。「5年後、10年後に、日本の出版ってどうなっているんですか? そもそも、ライターという職種とか出版社なんて業態が、今後も成り立つのでしょうか?」と、ITジャーナリスト様のご託宣をうかがうような気持ちで……。

 が、本書を読んでも、けっきょく「なんだかスゴイ激変が起こりそうだぞ」ということしかわからなかった(笑)。
 無理もない。iPadの日本発売も、キンドル日本語版の発売もまだの現段階で「電子書籍以後」を語るのは、現時点で「今年の日本シリーズはどうなるか?」を語るようなものだから。電子書籍時代が実際に到来してみなければ、何がどう変わるのかは誰にもわからない。
 つまり、この本のテーマ自体、いまの時点で正確に予測せよというほうが無理な話なのである。

 その「無理な話」をするために、著者は本書で苦しい水増しを幾重にも行なっている。たとえば――。

1.米国の電子書籍事情をつぶさにリポートし、そこから日本に起こることを類推してみる。
2.いち早くコンテンツのデジタル配信を定着させた音楽業界の事情を調べ、それを敷衍して“出版でもだいたい同じようなことが起きるだろう”と類推してみる。
3.日本の出版業界がもつ独特の体質を歴史から抽出し、“そのような業界だから、電子書籍時代が到来したらこうなるだろう”と予測してみる。
4.著者の近著『ケータイ小説家』のために取材した内容を“再利用”し、ケータイ小説によって起きた変化を電子書籍に敷衍してみる。

 ……と、そのようにあの手この手の水増しをして、本書はやっと一冊分のボリュームになったわけだ。
 とはいえ、それなりに読ませる内容に仕上がっているのだから、著者の力量は大したものだと思う。

 米国の事情がおもにリポートされる前半は、退屈。
 この前『キンドルの衝撃』を読んだときにも思ったことだが、「日本で発売予定がない米国の電子書籍リーダー(iPad、キンドル以外のもの)の開発状況とかをそんなに詳細に語られても、日本の読者にはなんの意味もないなあ」という感じ。
 むろん、著者もそんなことは重々承知で、ページ数稼ぎのために延々と書かざるを得ないのだろう。

 が、日本の状況が語られる後半に入ると、俄然面白くなる。

 私にとって、本書で最も衝撃的だったのは、1990年代後半から2000年代初頭の日本に起きかかった“電子書籍革命”が、「業界のしがらみ」によって頓挫した顛末が明かされたくだり(121~128ページ)。
 技術的には、日本こそが電子書籍先進国になり得た。にもかかわらず、出版業界の既得権益(とくに取次会社の)を守ろうとしたばかりに、“電子書籍革命”は尻すぼみで終わってしまったのだという。

 そのうえで、「当時と今では、出版社を取り巻く状況は激変して」いるから、今度こそ日本にも(10年遅れで)“電子書籍革命”が起きると著者は言う。昨今、電子書籍がしばしば「黒船」に喩えられるように、旧弊な日本の出版業界も、外圧によって“開国”せざるを得なくなるというわけだ。
 もっとも、私にはそうは思えなかった。取次中心の業界構造はいまも変わっていないのだから、日本の“電子書籍革命”は米国よりずっと緩やかなものになるのではないか。そして、日本の出版界は世界から取り残されてしまうのではないだろうか。

関連記事

山森亮『ベーシック・インカム入門』

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
(2009/02/17)
山森亮

商品詳細を見る


 山森亮著『ベーシック・インカム入門――無条件給付の基本所得を考える』(光文社新書/882円)読了。

 昨夏の衆院選で新党日本がマニフェストに掲げたこともあり、日本でもにわかに注目が集まってきた「べーシック・インカム」(基本所得=すべての国民に最低生活費を無条件給付する形の社会保障制度)。その一般向け入門書である。

 かりにベーシック・インカム制度が実現したら(実現した国はいまだかつてないのだが)、「現行制度がもつ、収入が途絶えたときの生活保障の基礎部分にあたる、基礎年金や雇用保険、生活保護の大部分は廃止されてベーシック・インカムに置き換わる」という。
 すなわち、ベーシック・インカムは何よりも、貧困問題の解消を目指すものなのである。

 では、なぜ現行の生活保護ではダメだと考えるのか? 著者は第1章を丸ごと割いて、「日本の所得保障の仕組みが、現実には機能不全に陥って」いることを説明していく。たとえば――。

 生活保護を受給できるはずの世帯のうち、実際に受給している世帯の割合を示す数値に捕捉率というものがある。日本はこの推計が諸外国と比べて極端に低い。(中略)多くの国では50%は超えている。ところが日本は20%前後といわれている。
(中略)
 捕捉率が20%に過ぎないということは、単純に考えて予算を現状の5倍にする必要があるということだ。しかし、こんな当たり前のことはほとんど誰もいわない。
 さらに、受給世帯を5倍にする必要性が叫ばれるどころか、メディアを賑わすのはむしろ生活保護の削減の必要である。



 少なく見積もっても約200年の歴史をもつ、ベーシック・インカムという概念。それがどのように論じられ、どのような理想を目指し、どのように実現に向けての運動がなされてきたのかの歴史を、著者は手際よく概説する。
 とともに、多くの人が抱くであろうベーシック・インカムへの疑問――「なぜ金持ちにまで一律に給付しようとするのか?」「そんなものを取り入れたら大半の人が働かなくなってしまうのでは?」「財源はどうするんだ?」など――に、それぞれていねいに答えていく。
 
 私は著者の説明ですべて納得がいったわけではないし、ベーシック・インカム実現はたいへん困難だという印象を受けた。それでも、本書は読む価値があった。
 
 著者はベーシック・インカム専門の国際学術誌の編集委員もつとめたという、その道のプロ(現在、同志社大学経済学部准教授)。それだけに入門書としての質が高く、なおかつ、たんなる入門書に終わらない広がりもある本だ。
 ベーシック・インカムを入り口として、そもそも労働とは何か、福祉とは何か、富とは何か……などという、根源的な問いを読者に突きつける内容になっているのだ。

 たとえば、著者は「福祉国家の理念そのものが抱える問題」を、次のように指摘する。

 スティグマ(ここでは福祉受給を受ける側の恥辱感を指す/引用者補足)と生の序列化は、福祉国家の理念自体に内在した問題点でもある。賃金労働に従事し生活できる者たちを標準として、高齢者、障害者など労働できないとされる人々や、賃金労働はしているが、それだけでは生活できない人たちを、それより一段劣るものとして、そして労働可能と看倣されながら賃金労働に従事していない人々を最も劣るものとして序列化していく、そうした仕掛けを福祉国家は内在化しているのである。
 このようにいうと、こんな風に批判されるかもしれない。すなわち「労働は人を自由にする」のではないか、と。たしかに人との協働や自然への働きかけを行なうことで、個人が成長することもあるだろう。しかし、奴隷労働にしろ賃金労働にしろ家事労働にしろ、他の形態の労働にしろ、労働を他人に強制するときにこの標語が発せられる場合には、注意した方がよい。アウシュビッツ強制収容所の門にも書かれていた「労働は人を自由にする」という言葉が、なぜそんなに好まれるのだろうか。



 貧困問題を、よりラディカル、よりグローバルな視点から問い直した好著。

関連記事

金子隆一『大量絶滅がもたらす進化』

大量絶滅がもたらす進化 巨大隕石の衝突が絶滅の原因ではない?絶滅の危機がないと生物は進化を止める? (サイエンス・アイ新書)大量絶滅がもたらす進化 巨大隕石の衝突が絶滅の原因ではない?絶滅の危機がないと生物は進化を止める? (サイエンス・アイ新書)
(2010/02/18)
金子 隆一

商品詳細を見る


 今日、ようやく確定申告をしてきた。期限から2ヵ月遅れだが、還付される側である場合、このくらい遅れても平気なのである。申告書をもっていっても、税務署員からは「ごくろうさまでした」と言われるだけ。

 準備に取りかかりさえすれば、ものの数時間で申告書が書き上がるのだが、その数時間がなかなか捻出できない(物理的にというより気分的に)。もっと切羽つまった「すぐやらねばならないこと」をたくさん抱えているので、あとでもいいことはどんどん後回しになるのだ。

---------------------------------------

 金子隆一著『大量絶滅がもたらす進化――巨大隕石の衝突が絶滅の原因ではない? 絶滅の危機がないと生物は進化を止める? 』(サイエンス・アイ新書/1000円)読了。

 「サイエンス・アイ新書」(ソフトバンク・クリエイティブ)というのを初めて読んだが、よいところとダメなところが両方ある新書だ、という印象。

 オールカラーで図版も豊富、それでいて税込1000円という価格なので、お得感がある。それがよいところ。
 ダメなところは、なぜか本文が横書きであるところ。このほうが図版は入れやすいのかも知れないが、読みにくいったらない。
 活字もやや小さめ。とくに、目次の活字は信じられないほどの小ささで、ほとんど目次の用をなしていない。

 それはともかく、本書の内容はたいへん面白かった。金子隆一さんはきわめて優秀なサイエンス・ライターで、20年近く前に一度だけ仕事でお会いしたことがある。本書は、古生物学に造詣が深く、筋金入りの恐竜マニアとしても知られる金子さんらしい好著だ。

 版元サイトに概要の説明があるが、本書は、過去の地球に少なくとも5度起こったという生物の「大量絶滅」(全生物の70~90%が死滅)をめぐる科学読み物である。

 5度にわたる大量絶滅はどのように起こったのかを考察するとともに、じつはその大量絶滅こそが生物の劇的な進化をもたらしたのではないか、という魅力的な仮説を追求した本にもなっている。

 実は、大きな地質年代の区切り目には、かならず大量絶滅がつきまとっているのである。だがこうして大量絶滅が起こり、生態系に巨大な空白ができるからこそ、そのあとに生き残った生物が進出し、爆発的な適応放散を遂げることができるのである。
(中略)
 地球史的なマクロのレベルで進化をとらえるとき、少なくとも飛躍的な生物の大進化をもたらすものが、この大量絶滅であることだけは断定できる。大量絶滅と大進化は表裏一体のものであり、大量絶滅を知ることなくして進化の実相をトータルにとらえることはできない。(第2章/98ページ)



 全4章中、第1章は古典的進化論の歴史、第2章はゲノムサイエンスをふまえた現代的進化論の歴史を、それぞれ手際よく概観した内容になっている。この前半2章は、後半2章をより深く理解するための前準備のようなものである。
 ゆえに、進化論とゲノムサイエンスについて十分基礎知識をもっている人は、3章から読んでもよいかもしれない。私のようなシロウトには勉強になったけど。

 第3章は、過去に5度起きた「大量絶滅」の特色を探っていく内容。
 デボン紀、三畳紀、白亜紀など、5度の大量絶滅の舞台となった時代についての詳細な説明がなされる。それがあまりにも詳細すぎて、私には退屈だった。各時代にどのような生物がいたかなどという話は、古生物マニアや恐竜マニアにはたまらないのかもしれないが、マニアでない私にはついていけなかった。

 そして、最後の第4章は「大量絶滅の原因について考える」。この章がいちばん面白かった。

 本書の副題にもあるとおり、著者はここで、広く膾炙している「恐竜絶滅の原因は巨大隕石の衝突」という説を否定する。

 天体衝突そのものは、たとえあったとしても(あったことは事実のようだが)白亜紀末の絶滅の主犯では決してなく、崩壊寸前の白亜紀生態系に、最後のわずかなとどめを刺しただけ、と考えるのが正しいようだ。



 そのうえで、「マントル・プリュームの周期的浮上説」「超新星爆発(によって地球が大量の放射線を浴びること)説」「ガンマ線バースト説」など、大量絶滅の原因として挙げられてきた諸説を比較検討していく。

 そのうちどれが正しいとする答えを著者は出していないのだが、それは本書の眼目が原因の追求自体にはないからでもある。書名に言うとおり、大量絶滅が進化をもたらすという“不思議”に目を向けることこそが眼目なのだ。

 地球生態系全体の組み替えをもたらすほど大規模な環境変動はまた、次の世代の生物相の登場を促す進化の加速要因でもあることを、われわれは忘れてはならない。先の例でいえば、ガンマ線バーストは少なくとも理論上、古生代シルル紀における植物の陸上への進出をもたらすきっかけになりうるものであり、植物の陸上進出がなければ節足動物の陸上進出もまたありえず、それを餌とする四肢動物(両生類)の進化も起こりえなかったわけである。



 このへんを読んで私が思い出したのは、石森(石ノ森)章太郎の長編SFマンガ『リュウの道』である。これは私が石森SFの中でいちばん好きな作品で、核戦争後の荒廃した地球を舞台にしている。
 作中で核戦争勃発の原因として設定されているのが、「巨大隕石の落下を核攻撃と勘違いした某大国が、核ミサイルを発射してしまった」ということであった。

 そして、作中で「ゴッド」と名乗る謎めいた老人が、主人公の少年リュウに大要次のように言うのだ(本が手元にないのでうろ覚え)。
 

「それはおそらく、古代より何度もくり返されてきた進化の一プロセスじゃったろう。隕石の襲来は、人類の次の段階への進化を促すものじゃった。だが、人間どもは愚かにも核を使い、そのプロセスを歪めてしまったのじゃ」



 石森のSFマンガには欧米のSF小説のパクリが多いらしいが、このへんの発想には元ネタがあったのだろうか。もし自分で考えたのだとしたら、すごいなあ石森。

関連記事

佐藤優『功利主義者の読書術』

功利主義者の読書術功利主義者の読書術
(2009/07)
佐藤 優

商品詳細を見る


 佐藤優著『功利主義者の読書術』(新潮社/1680円)読了。

 1回につき1点ないし2点の書物を取り上げ、その本について独自の見解を披露した連載の単行本化。
 タイトルに「功利主義者の」とあるように、たんなる愉しみのための読書ではなく、その本から読み取ったことを実人生に役立てることを眼目としている。
 ただし、「あとがき」に言うとおり、「ここで紹介した中に、マニュアル本やすぐ仕事の役に立つ実用書は一冊もない」。『資本論』や『共同幻想論』(吉本隆明)からタレント本やマンガに至るまで、硬軟入り混じったさまざまな本を、佐藤がどのように「役立て」たのかが綴られていくのだ。

 たとえば佐藤は、石原真理子の暴露本『ふぞろいな秘密』と酒井順子のベストセラー『負け犬の遠吠え』を、論戦に勝つテクニックが明かされた「喧嘩の指南書」として紹介する。2007年に刊行した鈴木宗男との共著『反省 私たちはなぜ失敗したのか?』は、その2冊から学んだテクニックを応用して書かれたのだ、と……。

 古典的名著とタレント本を対等に扱う姿勢は佐藤優らしいが、本書においては、最近の軽い本を取り上げた回は総じて出来が悪い。とくに、次のような評価には首をかしげた。

 綿矢りさ氏の『夢を与える』(河出書房新社、2007年)を筆者は思想小説として読んだ。そうすると、新自由主義的思想が具体的にどういうものであるかがよく見えてくる。
(中略)
 新自由主義的な競争社会から早く降りてしまえ。そうすれば人間を取り戻すことができるという声が、この作品の行間から聞こえる。



 東京大学の先生が、論理記号を使いながら、2~3年かけて難しい講義で解き明かす論理学の本質を酒井氏は『負け犬の遠吠え』でわかりやすく説明しているのである。恐らく酒井氏は、論理学の専門書を片手にこのエッセーを書いたわけではないだろう。ということは、天賦の才として酒井氏はアリストテレス論理学を身につけているということなのである。



 「さっそく『資本論』を購入してみたが、頁をめくっても、意味がさっぱりわからない。どうやって勉強すればよいのか」という質問もよく受ける。そのときに筆者は、「まず伊藤潤二氏の『うずまき』(※引用者注/『うずまき』はホラーマンガ)を読んでみるといい。そうすれば、純粋な資本主義(新自由主義)の本質がよくわかる」と答えている。新自由主義が日本全体を覆うと、圧倒的大多数の国民は、資本のうずまきから逃れることができなくなってしまうことが、『うずまき』を通じて想像できるようになる。



 このようなとてつもない買いかぶり、作者自身が考えたことすらなさそうな意図(笑)まで無理やり読み取ってしまうやり方は、いかがなものか。書きぶりからして、佐藤は奇をてらっているわけではなく、本気でこのように評価しているようなのだが……。

 その一方、佐藤優にしか書き得ない目の覚めるような深い読解も、本書には少なくない。
 たとえば、亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟』の新訳が、過去の訳と比べてどう優れているのかを解説した回は、ロシア語に堪能でキリスト教にも造詣の深い佐藤ならではの、素晴らしい内容だ。

 また、『蟹工船』の価値に独自の視点から迫った回、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の旧訳(清水俊二)と新訳(村上春樹)を比較して村上訳の長所を解き明かした回も、それぞれ目からウロコ。

 そして何より、何度か角度を変えて登場する『資本論』の「功利主義的」読解には、蒙を啓かれた。たとえば――。

 虚心坦懐にマルクス著『資本論』の論理を追っていけば、資本主義の内在的論理を解明するための優れた本であるということがわかる。ところが、右翼、保守陣営には、マルクス主義に対する忌避反応が強いために、『資本論』のテキストを読まずに行なう印象批判がきわめて多い。印象批判は、偏見によるものなので、いくら論理で反駁しても、崩すことができない。逆に左翼の人々は、マルクス主義に対する過剰な思い入れがあるために、資本主義の内在的論理を解明するために『資本論』の論理整合性が崩れている部分は修正すればよいのだが、それを「修正主義」だといって忌避するのだ。学問上、正しい方向に言説を修正するのは当たり前のことなのに、それができない。『資本論』は実に不幸なテキストだ。



 一昔前までの官僚や大企業経営者は、大学で近代経済学と並行してマルクス経済学も学んでいた。資本主義社会の政治・経済エリートが、マルクス経済学によって資本主義の限界を知っていたということが、市場原理主義を礼讃することの歯止めになり、逆説的だが日本の資本主義が無理をすることを防いでいたのだ。



 このへんをもっと広げて、佐藤優流の「『資本論』入門」を書いてほしいと思った(目端が利く編集者がすでに依頼しているかな?)

関連記事

岡田暁生『音楽の聴き方』

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
(2009/06)
岡田 暁生

商品詳細を見る


 岡田暁生(あけお)著『音楽の聴き方――聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書/810円)読了。

 吉田秀和賞受賞作にして、「新書大賞」で年間第3位にランクインした本。ムック『新書大賞2010』での紹介を読んで手を伸ばしてみた。
 そうでなければ、私が読むことはなかっただろう。著者はクラシック畑の音楽学者だし、本書で俎上に載る音楽の大部分もクラシックなのだから(一部ジャズについても言及あり)。「あー、クラシックの本ね。オレには関係ないや」とスルーしてしまっていたはずだ。

 でも、読んでよかった。これは、クラシックの知識がないとわからない本ではないから。
 どんなジャンルであれ、音楽が好きで、音楽について語ることも好きな人なら、著者が言わんとすることが理解できるはずだ。「クラシックの専門用語はわからないけど、これはロックで言えばこういうことだな」などという類推によって。

 タイトルの印象から、「音楽なんて、好きなものを好きなように聴けばよいのだ。聴き方の作法などあってたまるか」と反発を覚える向きもあろう。たしかに本書は「音楽の聴き方」について多角的に論じたものではあるのだが、ある一つの聴き方を「正しい作法」として押しつける内容ではない。

 著者は、「音楽の聴き方」のありようを問い直すことによって、音楽をより深く味わうための方途を真摯に模索しているのだ。町山智浩に『〈映画の見方〉がわかる本』という名著があるが、本書はいわば『音楽の聴き方がわかる本』であり、『音楽の聴き方が変わる本』でもある。音楽好きなら読んで損はない。

 ただし、『あなたのミュージックライフを10倍充実させる法』みたいなお手軽な実用性は、微塵もない。むしろ、薫り高い文章とあふれる教養によって、この本自体が音楽のようにゆったり味わうべき内容になっている。
 「音楽の聴き方」なんてテーマで、これほど豊かな内容の本が書けるとは、私には思いもよらなかった。

 著者は「音楽の聴き方」「音楽の論じ方」の変遷を歴史の中にたどるとともに、古今の音楽論を自在に引用して、音楽を聴くことの意味を考察していく。そしてそのことを通じて、「音楽とは何か?」「芸術とは何か?」という、より深い次元の問いにまで迫っている。本書は、すこぶる独創的な芸術論でもあるのだ。

 以上のように紹介すると、堅苦しい難解な本だと思われてしまうかもしれない。が、そうではない。興味深いエピソードを随所にちりばめて、愉しい知的読み物にもなっているのだ。

 著者は、音楽をより深く味わうためには言葉と知識が重要だと、くり返し強調する。音楽を語る言葉が豊かになるほど、味わい方も深まるのだ、と……。

 しばしば音楽の体験に対して言葉は、魔法のような作用を及ぼす。言葉一つ知るだけで、それまで知らなかった聴き方を知るようになる。微細な区別がつくようになる。想像力が広がる。


 音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。



 そうした主張は、「音楽を味わうのに理屈はいらない」「音楽は言葉を超えたものだ」などという紋切り型の音楽観へのアンチテーゼでもある。

 著者は、現代ならではのお手軽すぎる音楽消費に、一貫して批判的だ。

 私が何より問題だと思うのは、近年増加の一途を辿っているところの、音楽家の人生を感動物語に仕立てて商売にするやり方である。それはもはや音楽体験ではない。音楽は、あらかじめ脳髄に植えつけられた物語を大写しにする、音響スクリーンとして機能しているだけだ。何に対してどんな風に感動するか、どんなお話をそこに投影するか、すべて前もってセットされているのである。



 著者が音楽に対して真摯であるのはわかるが、その度がすぎて反発を覚える点もある。たとえば――。

 私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかどうかを測るサインは、最終的にこれ以外ないと思うのである。



 私は本書の内容におおむね共感するが、この記述だけは「やっぱクラシック畑の人だなあ」とついていけない気分になった。CDをかけたら必ず最後まで聴かなければ、音楽やアーティストに対する礼を失することになるのだろうか? んなアホな。

 とはいえ、全編にあふれる著者の“音楽への愛”は胸を打つし、示唆に富む好著であることはまちがいない。

関連記事

マイケル・S・ガザニガ『人間らしさとはなにか?』

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線
(2010/02)
マイケル・S. ガザニガ

商品詳細を見る


 マイケル・S. ガザニガ著、柴田裕之訳『人間らしさとはなにか?――人間のユニークさを明かす科学の最前線』(インターシフト/3780円)読了。

 科学の最先端は、ときに哲学的領域にまで踏み込む。たとえば、バイオテクノロジーの進歩は「どこまで生命操作が許されるのか?」という問い直しにつながり、生命科学と哲学を架橋する生命倫理学を生んだ。

 「人間とはなにか?」という問いも、かつてはもっぱら哲学者が扱うものであったはずだ。その問いに、第一線の脳神経科学者が挑んだのが本書である。人間を人間たらしめているもの、人間と動物を分かつものとはなにか? 答えの出しにくいそんな問いに、著者は脳科学を中心とした諸科学の先端的知見を総動員し、さまざまな角度から迫っていく。

 たとえば第1章では、人間を人間たらしめた脳の特長とはなんなのかという謎がクローズアップされる。
 第2章では、人間に最も近いチンパンジーとの比較を通じ、彼らにはない「人間ならでは」の側面がどこにあるのかを考察している。

 また、第6章では、「芸術は人間ならではのものか?」というラディカルな問いが立てられる。その問いを突きつめるなかで、“そもそも芸術とはなにか?”という次元にまで思索は進み、独創的な芸術論になっている。

 我々が自明の「人間らしさ」だと思っていたことが動物にもあることが明かされ、驚かされる点も随所にある。たとえば、近親相姦のタブー視は、チンパンジーにもある程度見られるという。

 そのように、「人間らしさ」をめぐる先入観と実質を腑分けしていったとき、最後に残る真の「人間らしさ」とは何か? 著者はそれを、他者への共感力と想像力の中に見出している。

 チンパンジーにも「伝染性のあくび」(ほかのチンパンジーがあくびをする映像を見せる実験をしたところ、3分の1のチンパンジーがつられてあくびをしたという)があるなど、「共感の原始的な形態」は見られるものの、人間のなす共感ははるかに広く深い。
 また、重力のような「見えない力」を推論できるのも人間だけだという。それは、目に見えない他者の「心」を意識するのが人間だけであることをも示している。その意味でこれは、“心とは何か?”に迫った書でもあるのだ。

 人間らしさに科学のメスを入れ、極上の知的興奮に誘う大著。

関連記事

団鬼六『悦楽王』 

悦楽王悦楽王
(2010/02/19)
団 鬼六

商品詳細を見る


 団鬼六著『悦楽王』(講談社/1575円)読了。

 この著者にこのタイトル、このカヴァー画……「SM小説か」と誰もが思うだろうが、そうではない。
 これは、団鬼六がかつて自ら発刊していた雑誌『SMキング』の舞台裏を小説化したものなのだ。表紙に添えられた英字タイトルが「THE SM KING」。『SMキング』を日本語に置き換えたのが『悦楽王』なるタイトルであるわけだ。

 1970年代初頭の日本に突如起こったSM雑誌ブームの中で、団鬼六はSM小説の巨匠として脚光を浴びた。

 百花繚乱の兆を帯びてきたSM雑誌の中のすべての巻頭を飾っていたのは私の作品である。



 そこで、「そんなにSM雑誌が売れるなら、SMの教祖と見られている私がSM雑誌を刊行しない手はない」と考えた団は、72年の夏に『SMキング』を創刊する。同誌は紆余曲折を経て3年後に廃刊することになるのだが、その3年間の歩みを小説仕立てでたどったのが本書である。

 団の一般小説の最高傑作は、『真剣師 小池重明』であろう。また、昨年刊行された『往きて還らず』も傑作だった。本書は、その2つには及ばないものの、なかなか面白かった。

 団が社長をつとめる「鬼プロ」に集ってくる、一癖も二癖もあるスタッフたち。たこ八郎(団は長年彼の面倒を見ていた)や渥美清、谷ナオミなどの著名人とのかかわり。そして奇々怪々のSMマニアたち……。伝説の雑誌『SMキング』をめぐる人間群像は「ヒューマン・インタレスト」にあふれ、団自身も次のようにいうとおり、興趣尽きない。

 奇人変人に興味を惹かれるという事はそれだけに私は真面目人間が嫌いだということになる。世の中には性的な変人も多いが、心理的な変人は更に多いのである。しかし、そうした変人の中にこそ豊かな人間性が感じられる事がまた多いのだ。そうしたアブノーマルな分野を掘り下げていくと、人間とは一体何かという不可解さが生じ、奇怪な密林地帯に彷徨った感じになるのである。



 SM雑誌という「奇怪な密林地帯」を、書き手としてのみならず作り手としてさまよった、3年間の狂騒の記録。仰天エピソードも満載だが、淡々とした落ちついた筆致で綴られ、軽快に読める。
 とくに、故・たこ八郎をめぐるいくつかのエピソードは、最高に面白い。

 一つ難を言えば、団のエッセイ分野の最高傑作『一期は夢よ、ただ狂え』や、自伝小説集『生き方下手』と、エピソードの重複が少なくないこと。まあ、書き方が変えてあるので重複している話もそこそこ楽しめるのだが……。

■関連エントリ
『往きて還らず』レビュー
『真剣師 小池重明』ほかレビュー

関連記事

原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか』

近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」 (光文社新書)近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」 (光文社新書)
(2010/01/16)
原田曜平

商品詳細を見る


 原田曜平著『近頃の若者はなぜダメなのか――携帯世代と「新村社会」』(光文社新書/861円)読了。

 博報堂で若者へのインタビュー調査を専門に行なっている著者が、「約7年をかけて47都道府県の若者1000人以上に会って話を聞いた」経験をふまえて綴る若者論である。

 挑発的なタイトルは「釣り」であって、中身を読んでみればむしろ「近頃の若者」への擁護の色のほうが濃い。なのになぜこんな書名にしたのかと、首をかしげる。営業上の理由で編集サイドから押しつけられたのかもしれない。
 好意的な見方をするなら、「近頃の若者はダメだ」と思っているようなオジサンに読ませたいからこそ、あえてこのタイトルを選んだのかもしれない。最初から若者擁護色満々だったら、そういう人は手に取らないだろうし……。
 そもそも、著者は現在32歳だそうだから、私のようなオッサンから見たらまだ若者側に属しているのである。

 新書にはさまざまなスタンスの「若者論」があふれているが、管見の範囲では本書がいちばん面白く、しかも好感のもてる内容だ。
 周囲にいる若者を観察しただけで、葭の随から天井覗くように「いまどきの若者」を論じている類書が多いが、本書は若者のサンプル数が多いだけに、信憑性と説得力がある。

 それに、著者の語り口が好ましい。わかりやすくて面白く、「上から目線」にならず、やわらかいタッチなのに論の運びはきびきびとしている。著者の講演を楽しく聞いているような感じで、あっという間に読み終わる。きっと、著者はすごく話がうまい人だと思う。

 内容は、最近マスコミでよく言われる若者の車離れ・海外旅行離れ・消費離れ、安定志向の高まりなどについて、その背景事情を鮮やかに解き明かしてくれるもの。

 著者は、いまどきの若者たちは前近代の村社会が現代に蘇ったような「新しい村社会」を形成していると指摘する。そして、その「新村社会」の土台となったものこそ、ほぼ全員(高校生では96・5%)がもち、依存しているケータイなのだという。
 いまの20代後半以下の世代は、中学生、もしくは高校生のころからケータイをもち始めた初めての世代であり、その点でコミュニケーションのありようそのものが、それ以前の世代とは決定的に違うのだ、と……。

 「たかがケータイのあるなしで、人間関係のありようがそんなに変わるもんか」と反発を覚える向きもあろう。が、本書に登場する若者たちの姿を見ると、「たしかに、私たちの若いころとは全然違う」と納得せざるを得ないのである。たとえば――。

 彼らの間では「即レス」はマナーになっていますから、即レスしないのは宣戦布告を意味します。
(中略)
 特に、メールの送り主が恋人の場合などは、忙しかったり気乗りがしなくても、無視するわけにはいかないようです。
 返信しなかったり、返信が遅れたり、それなのにSNSにログインした形跡があって恋人の日記にコメントしなかったり……こうした理由で喧嘩が勃発することが、彼らの間ではよくあるといいます。



 先日取材した女子高生は「介護キャラ」と名乗っていました。学校帰りに毎日おばあちゃんの家に行き、介護を手伝う優しい子なのですが、こう自称されるとなんだか抵抗感を覚えてしまいます。しかし、まわりから「介護キャラ」だと認知されれば、学校帰りにみんなの集いに行かずとも許されるわけです。
(中略)
 彼らがこれほどまでにキャラを獲得したいと思うのは、それが新村社会で居心地よく生きるためのプリズンブレイクになるからです。
(中略)
 今の若者は、自分のキャラにキャッチコピーを付けて宣伝する「ひとり広告会社」になることで、このしがらみの多い新村社会というプリズンから脱走しようとしているのです。



 ほかの著者が書いた「若者論」の一つに『友だち地獄』というのがあったが、友だちの多いいまどきの若者も、それはそれでなかなか大変そうである。 

 ただ、著者のスタンスは、「新村社会」に生きるいまどきの若者を蔑むものでも哀れむものでもない。
 著者は一章を割いて、「新村社会」の現出がもたらしたポジティヴな変化について論じている(地域共同体が崩壊の危機にある現代に、若者たちはケータイを媒介に新たな共同体を築きつつある、と著者は言う)し、また次のようにも述べている。

 最近、メディアでも学者(特に「ロストジェネレーション」を自称する人たち)でも、今の若年層の時代的な不遇さについて熱弁を振るう人が多くいます。
(中略)
 どの国であれ、高度成長ステージにおいては、人々の心理がイケイケドンドンになるのは歴史の常です。高度成長期という過去の特殊な日本の状況と、成熟期にある今の日本の状況を比べ、過去を羨み若者に同情することになんの意味があるのでしょう。
(中略)
 私が若者にインタビューしている実感で言えば、彼らは1990年代以降の日本しか記憶にないので、若者の気持ちを代弁するお節介な大人が思うほど、今の日本を悲観してはいません。



 著者のこうしたニュートラルな視点に、私は共感を覚える。

 そして、本書の大きな美点は、若者たちがふとつぶやいた一言によって、いまの“時代の気分”が鮮やかな一閃で切り取られていることだ。たとえば――。

「相手からメールの返信がこないだけで、嫌われたんじゃないかとか、メアド変更の知らせがきたから、まだ友達と思われているんだとか。ケータイを持つことは、常時ポケットにむき出しの刃物を入れている気分です」



関連記事

Guide 

   →全記事インデックス

Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

Counter 

メールフォーム

★私にご用の方はここからメールを下さい。

お名前
メールアドレス
件名
本文

最近の記事

マイ「神曲」ベスト100

カテゴリー

里親募集中

タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

Archives

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
28位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
22位
アクセスランキングを見る>>