森村誠一『作家とは何か』

作家とは何か  ――小説道場・総論 (角川oneテーマ21)作家とは何か ――小説道場・総論 (角川oneテーマ21)
(2009/04/10)
森村 誠一

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 森村誠一著『作家とは何か――小説道場・総論』(角川oneテーマ21新書/740円)読了。

 400冊以上の著作をもつベテラン作家が、「職業としての小説家」の内実を明かした一冊。『小説道場』という単行本の第2部「総論」を独立させ、大幅な加筆訂正を施したものだ(ちなみに、『小説道場』の第1部「実践編」も、『小説の書き方』と改題されて同じ新書から出ている)。

 カバーには、「たった二時間でわかる作家になるための基礎知識」という惹句がある。企画意図としてはそういうことなのだろうが、読んでみると、ハウツー書としてよりもむしろ読み物として面白い。
 というのも、「そこまで書いていいんですか?」と心配になるほど赤裸々に、“小説家業界”の舞台裏が明かされているからだ。

 たとえば、ゴーストライターが書いた小説の存在について、次のようにあっさりと認めている。

 小説では、作者の技量が衰えても、贋作ということはないが、ゴーストライターによる作者の意志や了解による作品はある。これは作者の意志に基づいているのであるから贋作とは異なるが、読者を欺く偽書には違いない。



 “ギョーカイ噂話”として「誰某の小説はゴーストライターに書かせている」などと語られることはあっても、第一線の作家が大っぴらに「ゴーストの存在」を認めるのは珍しい。

 もっとスゴイのは、作家に対する出版社の「部数保証」について明かしているところ。

 一人の作家の巨大ベストセラーが、出版社の浮沈にも関わるということになれば、その作家の発言力が強くなるのは必至の成り行きである。作品の売れ行きが下降した後も、巨大ベストセラーの余韻は残る。出版社としては、またいつミリオンセラーを出すかもしれない潜在能力を秘めている作家を、売れ行きが落ちたからといって掌を返すように冷たくはあしらえない。
 そのような場合、発行部数を保証して、作家をつなぎ止めようとする。つまり、実際には七、八万部しか印刷しなくとも、作家の手前、十万部発行したことにして、その分の印税を支払うのである。これを「部数保証」と言う。架空の発行部数分の印税を支払っても、返本の山を抱えるよりは、出版社にとってダメージが少ない。



 角川書店は文芸誌も出しているのに、そこが出している新書にこんなことを書いてだいじょうぶなのか? あの『噂の眞相』がいまもあったなら、「森村誠一が暴露した小説業界のタブーに、文壇激震!」という記事にしたことだろう。

 また、森村自身のデビュー当時と現在を引き比べて、いまどきの新人がいかにシンドイ立場に置かれているかを説明するくだりも興味深い。

 私が作家としてデビューしたころと比べて、現在は作家登竜門の新人賞は多い。どんな新人賞でも倍率は百倍以上である。その難関を突破して、作家としてデビューしても、生き残るのは一~二%である。
 登竜門が増えた分だけ作家の使い捨ても増えている。我々の新人時代は、売れなくても切られるということはなかったが、今日ではデビュー後三冊出版して、おもわしくなければ引導を渡されるそうである。



 ほかにも、編集者・出版社・作家・読者のタイプ別分類とか、皮肉たっぷりのぶっちゃけ話が随所で炸裂。小説家志望者のみならず、一般の小説読者が読んでも面白い本になっている。

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『クワイエットルームにようこそ』

クワイエットルームにようこそ 特別版 (初回限定生産2枚組) [DVD]クワイエットルームにようこそ 特別版 (初回限定生産2枚組) [DVD]
(2008/03/19)
りょう内田有紀

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 ケーブルテレビで録画しておいた『クワイエットルームにようこそ』を観た。松尾スズキの同名小説を、松尾自身が監督し映画化したもの。

公式サイト→ http://www.quietroom-movie.com/

 「クワイエットルーム」とは、ここでは精神病院の隔離病棟を指す。女子専用の精神病院で、問題行動をとった患者がこのクワイエットルームに隔離される。
 ヒロインの佐倉明日香(内田有紀)は、28歳バツイチのフリーライター。彼女はある日、このクワイエットルームで目覚める。泥酔したあげくに睡眠薬を大量摂取し、救急車でこの病院に担ぎ込まれたのだ。だが、彼女には自殺を図ったという意識はなく、精神病院に入院させられたことにも納得がいかない。

 同じ病棟の一クセもふたクセもある患者たちや、個性豊かな看護師や医師たちと接するなかで、しだいに明らかになっていく明日香の心の闇。そして、ある出来事をきっかけに、彼女は自分が自殺を図った理由を思い出す。
 ……という感じのストーリー。

 原作を読まずに観たこともあって、新鮮な驚きが味わえた。観客の予想をよい意味で裏切りつづける映画だ。

 序盤の展開だけ見て「ブラック・コメディなのかな?」と思ったら、さにあらず。中盤からジワジワとシリアスになっていく。それでいて、シリアス一辺倒ではなく、随所にねじれた笑いが埋め込まれている。
 また、中盤、りょうが演ずる氷のような心をもつ婦長と明日香が衝突するあたりで、「お、これは日本版『カッコーの巣の上で』かな?」と思ったら、これもさにあらず。ストーリーは予想を超える方向にぐいぐいと展開していく。

 ジャンル分け不可能な、独創的で才気みなぎる映画。
 一面だけ見ればブラック・コメディだが、28歳の女性の“終わりかけの青春”を描いた風変わりな青春映画でもある。
 さらには、「人の心の恐ろしさ」をつぶさに描いたサイコ・ホラー、サイコ・サスペンスとして観ることすらできる。とくに、大竹しのぶが怪演する、明日香の心を崩壊寸前にまで追いつめる患者の、なんと恐ろしいこと。「周囲の人を次々と不幸にしていくサイコパス」の典型を見るようだ。

 内田有紀が素晴らしい熱演。これはまちがいなく、彼女の女優としての代表作になるだろう。それ以外のキャストも豪華。なにしろ、いまをときめく妻夫木聡が脇役で登場するのだから。
 重い拒食症の女性を演じるために激ヤセして臨んだ蒼井優も、強烈な印象を残す。腕がポキンと折れそうなほど細くなっていて、最初「蒼井優に似た新人女優」かと思ったほど。

 原作の小説で芥川賞候補にものぼった松尾スズキは、劇団「大人計画」を主宰する演出家で、映画監督としてはこれが2作目(1作目は『恋の門』)。俳優としても活躍しているし、なんとも多才な人である。

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『青春の蹉跌』

青春の蹉跌 (新潮文庫)青春の蹉跌 (新潮文庫)
(1971/05)
石川 達三

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 ケーブルテレビで録画しておいた『青春の蹉跌』を観た。石川達三の同名小説の映画化(1974年)。

 監督・神代辰巳、脚本・長谷川和彦、撮影・姫田真左久、音楽・井上堯之という、いま思えばものすごく豪華な布陣だ。
 キャストもゴージャス。萩原健一と桃井かおりという主演2人の存在感がバツグン。とくにショーケンは、このころがいちばん輝いていたのではないか。

 学生運動崩れで、いまは司法試験を目指している主人公の大学生・賢一郎(萩原)は、家庭教師の教え子だった女子短大生・登美子(桃井)と情事を重ねる。
 だが、司法試験に合格し、資産家令嬢・康子(檀ふみ)との婚約が決まると、登美子の存在が邪魔になる。あとくされなく別れようと考えていた矢先、登美子の妊娠が発覚。焦った賢一郎は、登美子を2人の思い出の地であるスキー場へと誘う。そして……。

 野心家の青年が、邪魔になった女を捨てようとしたことから生まれる悲劇――と、そんなふうに要約してしまうと、安手の2時間ドラマのように陳腐に思える。だが、実際に観てみれば陳腐さはなく、みずみずしい情感に満ちた青春映画に仕上がっている。

 ショーケンはまるで野心家に見えないし、司法試験に一発合格するような秀才にも見えない。だが、ミスキャストかというとそうでもない。野心家の主人公を、野心家に見えないショーケンが演じるギャップが、この映画ではむしろプラスに働いているのだ。

 一途に主人公を慕いつづける登美子を、冷酷に捨てる賢一郎。それを、飄々とした魅力のショーケンが演じることによって、いわば冷酷さがシュガーコーティングされている。ショーケンと檀ふみの関係よりも、むしろ彼が殺してしまう(おっとネタバレ)桃井かおりとの関係にこそ、深い「絆」が感じられるのだ。

 一級の脚本・演出・撮影が見事なアンサンブルを奏でる、はっとするような名シーンも多い。東宝映画なのだが、むしろATG映画と日活ロマンポルノの良質な部分をミックスして受け継いでいる印象だ。
 井上堯之の音楽もよい。あの『傷だらけの天使』の音楽を、もっと切なくした感じ。ソウルフルなのにリリカル。

 挫折した学生運動家たちの青臭い議論、歩行者天国でラリるフーテン娘、「プカプカ」という物憂い歌など、1970年代前半という時代の空気を濃密に刻み込んだディテールも、興趣尽きない。

 なお、若き日の桃井かおりのヌードがくり返し登場するのだが、いま観るとあまりエロティックではない。なんかこう、女体というより「肉!」って感じなのだ(デブという意味ではない)。
 むしろ、いまとなっては「お宝映像」ともいえる若き日の檀ふみの水着シーンが、この映画の萌えポイント(笑)。

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島田雅彦『小説作法ABC』

小説作法ABC (新潮選書)小説作法ABC (新潮選書)
(2009/03)
島田 雅彦

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 島田雅彦著『小説作法ABC』(新潮選書/1260円)読了。

 島田雅彦が初めて書いた「小説の書き方」入門である。
 入門書とはいえ、対象読者のハードルはわりと高めに設定されている感じ。たとえば、小説家を夢見る高校生が本書を読んだら、「ムズカシイなあ」と途中で投げ出してしまいそうだ。

 「小説の書き方」入門としてどれほど実効性があるかは定かでないが、島田自身の小説観を一通り開陳した文学論としても面白く読める。

 本書を読んで改めて感じたのは、島田雅彦は作家としてよりもまず評論家として、ひいては文学研究者として非常に優秀であるということ。いまや島田も作家兼大学教授だが、最初から文学研究者としてアカデミズムの道を歩んでいたとしても一家を成した人だと思う。
 逆に言うと、評論家肌、研究者肌だからこそ、島田の小説はあまり面白くないのかも。

 島田は第1章で、文学を神話・叙事詩・ロマンス・小説・百科全書的作品・諷刺(サタイア)・告白の7種に大別し、それぞれの特色を論じていく。
 そして、「ロマンス」と「小説」を分かつものは「自己批評の精神」の有無であるとし、次のように述べる。

 私たちは、今日出版されているフィクションのほとんどを、便宜上、小説として受けとっていますが、そのじつ、小説になりきっていないものが大半です。自己陶酔しか感じられない小説は、ロマンスと分類されるべきなのだから。
(中略)
 しかし、主人公のなかに苦い自己認識があり、第三者の目から見れば自分の行動がいかに滑稽かを暴く批評意識が盛り込まれていたならば、それは小説の仲間であるとみなすことができるでしょう。



 ……と、このように文学史全体を鳥瞰したうえで、小説を書くための基本的技術が論じられていく。その中には、本質をずばりと衝いた至言がちりばめられている。
 たとえば、比喩表現についての次のような指摘――。

 自分が伝えたいと思っているイメージを、一発で相手の脳のなかに生じさせられる言語の使い手こそ、比喩表現の巧者です。手っ取り早くその奥義をお教えしますと、フィジカルな感覚、自分の肉体の感覚にダイレクトに訴えかけていくような比喩表現を使ってみることです。
(中略)
 比喩というのは、一文のみに使われるものではありません。単一の文章だけでなく、それらの文章が重なっていったときに、全体として匂い立ってくる比喩の効果というものも、たしかに存在するのです。それは、描写の戦略でもあります。比喩表現は、本来単発で使用されますが、そこにある種の規則性を持たせてやるといいのです。



 また、本題から外れた余談的部分にも、島田の批評能力が躍如としていて、思わず膝を打つ鋭い指摘が多い。たとえば――。

 なぜ韓流ドラマにおいて記憶喪失というテーマは頻出するのでしょうか。そのひとつの答えが、韓国には徴兵制があるから、ということになろうかと思います。つまり、韓国の男子は一九歳から三○歳になるまで、ほぼ二年半にわたって入隊します。二年半はけっこう長い。それまでの人間関係や生活スタイルや恋愛が、一旦断ち切られる感覚を持つはずです。ある種のワープをしたかのような、断絶の体験。青春の中断。とすれば、徴兵制のメタファーとしての記憶喪失が、物語に入ってくるのは当然ではないでしょうか。



 巻末には「番外編」として、自らのデビュー当時からの経験をふまえて「作家の心得」を説く文章が付されている。“自分は作家としてこのような覚悟をもっている”というマニフェストとしても読めるもので、島田らしからぬ熱い文章になっている。
 私には、この「番外編」がいちばん面白かった。次に引く一節など、感動的ですらある。

 七○歳を超えてなお、一日たりとて書かない日はない古井由吉氏の小説への執着はいったい何に由来するのか、私はかつて面と向かって訊ねたことがあります。氏は不気味な微笑とともにこういいました。
 ――憎しみだね。
 確かに世界に対する憎悪は強靱な執筆のエンジンになりうる。自分の存在を希薄にするような世界に対しては、おのが存在を呪いの言葉とともに刻みつけてこそ復讐になる。その意味で孤立無援は作家の勲章です。人気者は迎合という雑務をこなすうちに凡庸化するから、どれだけ憎しみを保っていられるかの勝負になるでしょう。そういえば、古井氏は大家への論功行賞としての文学賞一切を拒否しているそうです。賞欲しさのスケベ心が創作の邪魔になるという。こうなると、創作も個人的な宗教の色合いを帯びてきます。
 古井氏はこうもいいました。
 ――書くことがなくなってから、本当の作家になるんですよ。
 書くことがなくなったら、上がりというわけではないらしい。無論、大家は書かなくても、作家と見倣されるという意味でもない。書くことがなくなっても書き続けなければ、本当の作家ではないという意味です。三○年以上書き続けていれば、そのような境地に至るのです。古井氏がいう本当の作家は果たして、世界に何人くらいいるでしょうか? たぶん、世界に一○○人、日本では五人くらいではないでしょうか。



 この「番外編」は力が入っていてよいのだが、本書全体についてちょっと残念なのは、他の作家の作品や自作からの引用文がやたらと多いところ。必然性の感じられない引用も目立ち、ページ稼ぎにしか思えない。引用を全部取っ払ったら、ページ数は半減してしまうだろう。

 丸山健二の「小説の書き方」本である『まだ見ぬ書き手へ』は、ほかの作品からの引用をただの一つも用いずに書かれていた。その点でも、あの本は潔い名著であったと思う。

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西村周三ほか『メタボリアン改造計画』

メタボリアン改造計画メタボリアン改造計画
(2009/04)
西村 周三森谷 敏夫

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 西村周三ほか著『メタボリアン改造計画』(NHK出版/1050円)読了。
 
 「メタボリアン」とは、「メタボリック・シンドローム対象者」を指す。本書は、世のメタボリアンたちに向け、生活を改善しメタボから脱却するための方途を示す医学啓蒙書である。
 味も素っ気もない装丁といい、誇張を排した生真面目な内容といい、じつに地味な印象の本だ。しかし、内容はたいへん有益で、目からウロコの知見満載の良書であった。

 私は168㎝/61㎏なので肥満体というほどではないが、腹部にジワジワと脂肪がたまりつつあるなど、メタボ一歩手前状態ではある(男は腹囲85㎝以上がメタボ基準だが、私は現状79㎝)。なので、切実な興味をもって読んだ。

 本書は、「EBH(Evidence Based Healthcare=科学的な証拠に基づくヘルスケア)推進協議会」というNPO法人の創設メンバーである4人の医師・学者の共著になるもの。そのことが示すように、内容に逐一科学的な裏づけがあり、すこぶる論理的に書かれている。
 「はじめに」には、「自分で納得できない限りなかなか動かない中年の男性でも、この内容であればはじめの一歩を踏み出していただけると思います」とあるが、それもうなずける。

 メタボが生活習慣病を引き起こすメカニズム、運動不足が健康を損なう理由、運動習慣がもたらすプラスの力を使いこなすコツなど、メタボ改善のために必要な知識がひととおりつめこまれている。

 何より素晴らしいのは、著者たちが提案するメタボ改善策に、まったく無理がないこと。「これなら私にもできる」と思えることばかりなのだ。
 たとえば、運動については次のように言う。

 「運動」という言葉をあまり大げさに捉えないようにしましょう。健康のためにカラダを動かすことと、競技で勝つためにカラダを鍛えることとは根本的に違います。トレーニングウェアに着替えて行なうだけが運動ではないのです。



 そして、“日常の中で「無駄に動く」ことを心がけるだけでも、メタボは十分防げる”と提言する。これは、ハミルトンという米国の糖尿病専門医が2007年に発表した論文に基づくもの。

 ハミルトンは、「運動とまでは言えない日常の活動で消費されるエネルギー」を、「Non-Exercise Activity Thermogenesis(非運動性熱産生)」を略して「ニート」と名づけた。そして、“特別な運動をしなくても、「ニート」を意識して増やすだけで糖尿病やメタボは防げるのではないか”という仮説を立て、それを証明してみせた。

 たとえば、週3回/1日30分のウォーキングを行なっても、消費されるエネルギーは300キロカロリー程度でしかない。しかし、「ニート」は1日16時間ほど起きている間に消費されるエネルギーだから、トータルで600~800キロカロリー/日にのぼる。「チリも積もれば山となる」で、意識して「ニート」を増やせば、毎日の消費エネルギーを大幅に増やすことができるのだ。
 「そのためには、アタマを使って、無駄に動くのです」と、著者は言う。そうすれば、特別な運動をしなくても、メタボにならない程度のエネルギー消費ができる、と……。

 これはなかなか目からウロコ。私は、この一節に出合っただけでも本書を読んだ価値があったと感じる。
 それ以外にも耳寄りなトピック満載。メタボリアンおよびその予備軍にオススメの一冊。

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『シッコ』

シッコ [DVD]シッコ [DVD]
(2008/04/04)
マイケル・ムーア

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 ケーブルテレビで録画しておいた『シッコ(SiCKO)』を観た。マイケル・ムーアが米国の医療制度の矛盾を暴いたドキュメンタリー(2007年作品)。

 「国民健康保険制度のない唯一の先進国」である米国で、国民がいかに医療の貧困に苦しめられているかが、矢継ぎ早に登場する驚愕の実例から描かれていく。

 おもに俎上に載るのは、保険にさえ入れない貧困層ではなく、“保険に入っているのに、民間保険会社の利益至上主義から十分な医療が受けられなかった”人々の例。
 仕事中に指を2本切断してしまった労働者が、手術代が足りなかったがために1本しかつけてもらえなかったケースなど、登場する事例はどれもすさまじい。

 医療保険制度というお堅い題材を扱いながら、随所に笑いをちりばめたエンタテインメントに仕上げるあたりは、さすがマイケル・ムーア。
 
 ただ、本作はこれまでのムーア作品の中でもいちばんプロパガンダ色があからさまで、観ていてちょっと鼻白んでしまう。
 米国の医療と対比する形で、カナダ、イギリス、キューバの公的医療制度が紹介されるのだが、その描き方はひどく偏っている。米国の最も悲惨な例を選りすぐって紹介し、一方ではカナダなどの医療制度のよい面だけを紹介する、というやり方をしているとしか思えないのだ。それではジャーナリズムではなく、やはりプロパガンダであろう。
 
 とくにプロパガンダ色が顕著なのは、「9・11」の救助作業に当たって粉塵を吸ったせいで呼吸器障害を起こした米国市民を、キューバに連れて行き無料で手厚い治療を受けさせる(米国政府は公的援助を拒否)シークェンス。ここを観ると、かつて北朝鮮が「地上の楽園」と呼ばれた時代を思い出さずにはおれない。

 もっとも、私は「ドキュメンタリーは中立公正でなければならない」とは思わないけれど、これはあまりに偏向があからさますぎ。

 ドキュメンタリー作家としての森達也とマイケル・ムーアを比較したとき、2人は一見似ているようでいて、じつはスタンスが真逆だ。森が一貫して単純な善悪二元論を峻拒するのに対し、ムーアはむしろ二元論に進んで身を任せる。「米国政府は悪だ。ブッシュは悪だ。大企業は悪だ。一般市民はつねに善良無垢なる被害者だ」と……。
 私は、森達也の“現実の切り取り方”のほうが好きだ。マイケル・ムーアの切り取り方は一面的で陳腐。

 ただ、この映画を観て私も、「米国資本の医療保険には入るまい」と心に誓ったけど(笑)。

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穂村弘『整形前夜』

整形前夜整形前夜
(2009/04)
穂村 弘

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 穂村弘著『整形前夜』(講談社/1470円)読了。
 「ほむほむ」こと穂村弘の最新エッセイ集。2005年から今年にかけてさまざまなメディアに発表されたエッセイを集めている。

 私は3年ほど前に穂村の魅力に“開眼”し、当時出ていたエッセイ集をすべて読んだのだが、なんとなく飽きがきて、その後はしばらく遠ざかっていた。

 久しぶりに読んでみたら、やはりバツグンに面白い。
 芸風は、相変わらず。自らの「世界音痴」ぶりをネタにした、いわば“キュートな自虐”が笑いを誘うユーモア・エッセイである。
 相変わらずではあるが、言語感覚の鋭敏さと意表をつく発想の面白さが抜きん出ているので、マンネリ感はない。

 収録エッセイのおよそ半分は女性誌『FRaU』と『本の雑誌』に連載されたもので、残りは各紙誌に寄せた単発エッセイ。

 そのうち、『FRaU』『本の雑誌』連載分は総じて出来がよい。
 『FRaU』に寄せたものは、女性一般に向けた畏敬の念や違和感をユーモアでくるむ手際が鮮やか。

 『本の雑誌』連載分は、本好きの読者に向けて書かれた「文章と言葉や本について書いた」エッセイが中心で、穂村の表現者としての核を垣間見せるものになっている。
 とくに、それぞれ3回にわたって同じテーマが追求される「共感と驚異」と「言語感覚」は、今後誰かが「穂村弘論」を書くとしたら必ずや引用されるであろう内容だ。しかも、それがけっしてお堅い文学論にはならず、ちゃんとエッセイとして愉しめるものになっている。

 単発エッセイは雑多な内容だが、少年期~青春期の思い出を振り返る文章が多いのが本書の特長。「ほむほむ青春記」ともいうべき一群のエッセイは、笑えると同時にリリカルで切ない。

 ところで、本書には何度か穂村の奥さんが登場するのだが、彼女の職業は図書館司書となっている。
 あれ? 『現実入門』に登場する編集者「サクマさん」と結婚したのではなかったのか? 『現実入門』の最終回はフィクションだったのだろうか?

■関連エントリ→ 『現実入門』レビュー 

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岡庭昇『漱石・魯迅・フォークナー』

漱石・魯迅・フォークナー―桎梏としての近代を越えて漱石・魯迅・フォークナー―桎梏としての近代を越えて
(2009/05)
岡庭 昇

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 岡庭昇著『漱石・魯迅・フォークナー/桎梏としての近代を越えて』(新思索社/2625円)読了。著者の岡庭さんよりいただいたもの。

 先鋭的なテレビ・ドキュメンタリストとして、またメディア・社会批評家として知られる岡庭氏は、優れた文芸評論家でもある。
 文芸評論家としてのデビュー作『抒情の宿命』(1971年)以来、着実に積み重ねられてきたその仕事はしかし、文壇の流行になど頓着しない姿勢ゆえか、“文壇的注目”とは無縁の「孤峰」の趣がある。

 本書は、漱石・魯迅・フォークナーという、一般的イメージからはおよそ共通項が見出しにくい巨匠3人の作品を読み直し、その“21世紀的意義”を深く考察したものである。
 「謎の文学・漱石」「必敗の思想・魯迅」「究められた悪・フォークナー」の3部構成だが、それぞれの内容は随所で共鳴し合い、通読後には三者の共通項が鮮やかに浮かび上がる。

 その共通項とは、三者の作品群はいずれも、「否定形の深いリアリティによってこそ、希望を語る文学」である、ということ。

 著者も言うとおり、「どのように難解であれ、またペシミスティックであれ、偉大な文学は基本的に端的な希望によって支えられている」。しかし、漱石・魯迅・フォークナーには、あからさまに、脳天気に希望を謳いあげることなどできなかった。彼らの置かれた時代状況、彼ら自身の知性と感性が、そうすることを許さなかったのである。

 誰が言ったものだったか、「いまという時代に希望を描くためには、画面の99%を真っ黒に塗りつぶし、片隅に針の先ほどの小さな白さを残して、『ほら、この白さが希望ですよ』というふうに描くしかない」という言葉がある。
 漱石も魯迅もフォークナーも、「希望をではなく徹底して絶望こそを掘り下げた」。だが、彼らが真に描きたかったのは、「絶望の果てに示される希望」――暗闇の中に針の先ほどだけ見える希望ではなかったか。
 そのような認識から、三者の文学に新たな光が当てられていく。

 私自身の関心のありようから、魯迅についての章をいちばん面白く読んだ。
 ここにあるのは、「徹して民衆の側に立ちつづけた気骨の知識人」などという通りいっぺんの理解を超え、さらに一重立ち入った、複雑で両義的な魯迅像である。

 魯迅は中国を植民地にし、食い物にする日本などの帝国主義列強と断固闘った抵抗文化人として著名である。その通りだが、中国の永い土着文化(そのまま「虚無」のいい替えであるような歴史)では、たかが「革命」によってどれほど問題が解決されるのか、そういう絶望的な問いを立てる作家でもあった。いわば「土着」と闘う「土着主義者」でもあった。


 

 ニヒリズムに占拠された民衆の日常は、よく甘い「左翼」がいうような貧しいなりの連帯に充ちた世界などではない。人々はお互いにいわば「食い合って」いる。歴史に垂鉛を下げている民衆への愛と背中合わせのぎりぎりのところで、魯迅は「食い合う」民衆のモラルと頽廃の両面を苦さと憎悪に満ちて鋭く描く。



 私はここで、芥川龍之介がレーニンを評した名高い言葉「誰よりも民衆を愛した君は 誰よりも民衆を輕蔑した君だ」 を思い出す。
 魯迅が民衆に託した希望――それは苦い絶望の果てにある、「ニヒリズムに落ち着くにはあまりにも熱烈に渇仰された『欠如としての希望』だった」のだ。

 『明暗』が分け入った場所は「則天去私」ならぬ「則私去天」であり、真の勝利のために魯迅は敗北の深さをこそ語り続けた。そしてフォークナーは、じつは「分かりやすい」正義と希望のために悪の巨大さを描いた(「あとがき」)



 希望を語ることが困難な、いまという時代。だからこそ、20世紀に三者三様のやり方で「絶望の果てに示される希望」を探し求めた3人の偉大な文学者に、改めて光を当ててみよう――本書は、そのような試みである。

 おりしも、東大社会科学研究所では「希望学プロジェクト」なるものが進行中だと聞く。希望を語ることが困難な時代に、あえて希望を探そうとする動きが、各界で少しずつ目につき始めた。本書も、その流れの中に位置づけられようか。

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伊野上裕伸『人間はウソをつく動物である』

人間はウソをつく動物である―保険調査員の事件簿 (中公新書ラクレ)人間はウソをつく動物である―保険調査員の事件簿 (中公新書ラクレ)
(2009/04)
伊野上 裕伸

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 伊野上裕伸著『人間はウソをつく動物である――保険調査員の事件簿』(中公新書ラクレ/798円)読了。

 著者は社会派ミステリを中心に作品を発表している小説家(らしい。正直言うと私は知らなかった)で、デビュー前には30年にわたって保険調査員として働いていた経歴の持ち主。
 本書は、保険調査員時代に経験した印象的なエピソードを綴ったノンフィクションである。

 新書という形式上、ハウツー書的な側面ももたせたいという意向(おそらくは編集者側の)があるようで、「はじめに」では、本書を通じて「“他人の疑い方”のノウハウ」を身につけ、「トラブルの発生を予防」して身を守ってほしい、なんてことを書いている。

 しかし、本書で開陳された著者の調査技術はシロウトがおいそれと真似できるようなものではなく、ハウツー書的な意義はごく薄い。
 もっとも、そのことは本書の価値を少しも減じてはいない。単純に読み物としてバツグンに面白いからである。

 事故や盗難を偽装したり、「アフロス」(アフターロス=事故後に保険契約を結びながら、契約後に事故が起きたかのように偽ること)で保険金をだまし取ろうとしたり……さまざまなウソをつく顧客を相手に、著者が真相に迫っていくプロセスがスリリングだ。
 刑事とはちがって捜査権がないから、保険調査員は人情の機微をつく形でソフトにウソを暴いていかなければならない。だからこそ、その調査は駆け引きの勝負、息づまる心理戦となるのだ。

 全編面白いが、圧巻は4章「疑惑の女はときに般若となる」と、5章「火はすべての疑いをご破算にするか?」。
 前者は、夫を自殺で亡くした妻が、保険金を得るためにどうしても自殺を認めまいとする(自殺では保険金がおりないケース)姿を、3つの事件から描いたもの。後者は、保険金目当ての放火事件(当然、相手は放火を認めようとしない)を扱ったもの。いずれも、ノンフィクションでありながらミステリのような面白さがある。

「このような豊富な体験が、著者の作家としての引き出しになっているんだなあ」と納得。

 
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宮台真司『日本の難点』

日本の難点 (幻冬舎新書)日本の難点 (幻冬舎新書)
(2009/04)
宮台 真司

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 宮台真司著『日本の難点』(幻冬舎新書/840円)読了。

 私は宮台の本をたくさん読んでいるわけではないのだが、読んだうちでいちばん面白かったのが『これが答えだ!』(飛鳥新社→朝日文庫)であった。読者から寄せられた100の質問(実際は編集者が考えたらしいが)に一問一答形式で答えていくもので、どんな難問にも見開き2ページでズバリと答えを出す歯切れのよさが痛快だった。

 で、「この『日本の難点』は『これが答えだ!』の21世紀版なのかな?」と思って手を伸ばしてみたのだが、読んでみたらまったく違った。『これが答えだ!』が“ミヤダイ流人生相談”であったのに対し、こちらは“ミヤダイ流『日本改造計画』”ともいうべき内容だったのだ。

 基本コンセプトは、文春が毎年出している『日本の論点』を、宮台一人で全部やってしまおう、というもの。現在の日本社会が抱えるさまざまな問題について、それぞれ「現状→背景→処方箋」の3ステップで宮台流の解決策を提示しようとするものなのだ。

 章立ては次のようになっている――。

第1章 人間関係はどうなるのか―コミュニケーション論・メディア論(若者のコミュニケーションはフラット化したか、ケータイ小説的―コンテンツ消費はどのように変わったのか ほか)
第2章 教育をどうするのか―若者論・教育論(「いじめ」は本当に決してなくせないのか、「ネットいじめ」「学校裏サイト」から子どもを守れるか ほか)
第3章 「幸福」とは、どういうことなのか―幸福論(「自分だけ幸せならそれでいい」のか、自己決定論の現在―「宮台真司」の主張は以前と今で矛盾しているか ほか)
第4章 アメリカはどうなっているのか―米国論(オバマ大統領の演説は一体どこがすごいのか、どうして、アメリカは大統領制なのか ほか)
第5章 日本をどうするのか―日本論(後期高齢者医療制度は現代の「うば捨て山」か、裁判員制度―司法の民主化か、新しい動員体制か ほか)



 これほど幅広いテーマについてそれぞれ独自の処方箋を提示できるのだから、それだけでもすごいものである。
 とはいえ、あらゆる問題の専門家であり得る人などいないから、宮台といえども分野によって得手不得手はあるようだ。目からウロコの卓見がちりばめられているかわりに、「意外に陳腐なこと言ってやがるなあ」と感じる部分もある。

 私が感心した卓見の例を挙げる。

 米国で四年に一度行なわれる大統領選挙は、一八六一年七月から六五年四月までのおおよそ四年間にわたって戦われた南北戦争における「分裂」と「再統合」の模擬再演です。各州の選挙人に予備選挙が勝者総取り方式で州ごとに陣営が決まっていくというプロセスを含めて、まさに模擬再演なのです。
(中略)
 南北戦争の再現を行なう理由。それは「分裂」から「再統合」へというプロセスを四年ごとに辿ることで、統合の再確認と共に建国の理念(ないし憲法意思)の再確認を行なうためです。なぜそんなことをするのか。理由は、米国が再帰的な人工国家だからだ、ということに尽きます。



 総じて面白くてためになる本だが、ちょっと鼻につくのは、「社会科学の専門知を研究してきた立場から言うと」というふうに、自らがもつ「専門知」の正しさに自信満々で、しかも終始一貫“上から目線”なところ。
 「世の中すべてが『社会科学の専門知』で割り切れるわけではあるまいに……。アンタは世界一の賢者にでもなったつもりか」と、読んでいてしばしばウンザリさせられた。

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山本武彦『安全保障政策』

安全保障政策―経世済民・新地政学・安全保障共同体 (国際公共政策叢書)安全保障政策―経世済民・新地政学・安全保障共同体 (国際公共政策叢書)
(2009/04)
山本 武彦

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 山本武彦著『安全保障政策――経世済民・新地政学・安全保障共同体』(日本経済評論社/2520円)読了。
 我が国の安全保障論の第一人者たる国際政治学者(現・早稲田大学政治経済学術院教授)が、「国際公共政策叢書」の一冊として書き下ろした、安全保障政策の概説書。

 同叢書は、「政策関連学徒のスタンダード・テクストたること」を目指して編まれている。ゆえに、本書も万人向けとは言い難い。国際政治学の基礎知識を一通りもっている人を対象にしているので、素養のない私には歯が立たないところも多い。文章もゴリゴリの論文調で、凝り固まった溶岩石のようにカテエ。しかし、安全保障全般に関心を持つ者なら、努力して読み込む価値のある質の高い内容となっている。

 かつて、「安全保障」という語は「国防」とほぼ同義であった。だが、冷戦終結やグローバル化の進展などをふまえ、現在ではもっと広義の概念となっている。その変化の象徴が近年使われ始めた「人間の安全保障」という言葉で、これは弱者の人権保護を重視した民衆中心の概念なのである。

 著者は第1章で、安全保障研究の歴史を、代表的な論者・論点を俎上に乗せて手際よく概観。そのことを通じて、国際構造の変容に呼応した安全保障概念の変遷も明らかにされていく。

 時代の変化に応じて、本書でも軍事面に限らない総合的な安全保障が扱われている。防衛政策についてもさまざまな角度から論じられているが、それだけではなく、安全保障の経済的・技術的側面、社会的側面にまで考察の射程が及んでいるのだ。

 そうした特長が顕著に表れているのが、安全保障政策を政治・軍事・経済・情報の4つの「系」に腑分けして論じた第2章だ。軍事面での安全保障が、現在にあっては安全保障政策の一側面にとどまることが、この章で浮き彫りにされている。

 本書のもう一つの特長は、地政学が安全保障論に与える影響が詳論されていること。
 地政学は、戦前・戦中の日本の帝国主義的な拡張政策に影響を与えたことから、戦後は「日本の国際政治学や安全保障研究でまともに取り上げることすら忌避されてきた」歴史をもつ。それをあえて真正面から取り上げ、最先端の安全保障論の中に位置づけたことは、著者の果敢な学問的挑戦といえる。

 国際政治学の核心的な研究分野である安全保障研究について、その歴史と現状、今後の展望までが一通り概観できる、有意義な一冊。

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篠原菊紀『勉強にハマる脳の作り方』

勉強にハマる脳の作り方勉強にハマる脳の作り方
(2009/04/09)
篠原菊紀

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 篠原菊紀著『勉強にハマる脳の作り方』(フォレスト出版/1470円)読了。

 アヤシゲなベストセラーを量産しているフォレスト出版の本だし、タイトルからしていかにもキワモノっぽい。が、読んでみたら意外とまっとうな本だった。著者もトンデモ学者ではなくきちんとした脳科学者のようだし。

 帯にいわく、「パチンコに依存するように勉強にハマる」――。
 すなわち、パチンコ依存症に代表される依存症のメカニズムを脳科学と臨床心理学から解き明かし、それを援用して人為的に「勉強にハマる」方途を考えてみよう、というテーマの本なのである。

 これは、企画として卓抜だ。
 著者も言うように、天才と呼ばれる人たちはみな、自分が職業として選んだ事柄にどっぷり「ハマった」人たちなのである。
 イチローは少年時代から野球にハマり、ある意味“打撃練習依存症”となっていたからこそイチローたり得た。一流の画家は、寝食も忘れてキャンバスに向かいつづけ、手元が暗くなるまで時間の経過に気づかない、なんてことができる人たちだが、それは“絵描き依存症”になっていればこそだ。

 であれば、世の凡人がパチンコその他に「ハマる」仕組みを勉強に援用できれば、凡人は天才に生まれ変わり、灰色の人生が一気にバラ色になるではないか。

 ……と、そのような夢を読者に抱かせる(笑)企画である。

 前に当ブログにも書いたことがあるが、私は80年代末からの一時期(2年ほど)パチンコにハマったことがある。それは、いま思い出しても慚愧の念にたえない我が「黒歴史」だ。
 そんな経験をもっているからこそ、本書前半でパチンコ依存のメカニズムが説明されるくだりはまことに身につまされた。

 ただ、本書はいささか企画倒れ、タイトル倒れの感が否めない。
 前半で「ハマり」が起きる仕組みがくわしく解説され、いよいよ「勉強にハマる」仕組みが明かされるかと思いきや、後半はたんに“脳のメカニズムから見た上手な記憶法”の話になってしまっている。

 絵に描いたような竜頭蛇尾、羊頭狗肉。前半と後半が別の本になっていて、肝心の「勉強にハマる脳の作り方」がどっか行っちゃってるのだ。

 脳科学から見た上手な記憶法の話なら、池谷裕二氏の『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス)のほうが、はるかに手際よく、深く掘り下げた内容になっていた。『記憶力を強くする』をすでに読んでいる人には、本書後半は少しも新鮮ではない。

 ただし、前・後半の内容を頭の中で補助線を引いて読むことでリンクさせれば、「勉強にハマる脳の作り方」がおぼろげに見えてこないこともない。それができる人にとっては有益な本。

 私が本書から読み取った、「勉強にハマる」ためのコツを箇条書きしておく。

●勉強に小刻みで具体的な「ゴール」を設定し、そのゴールに到達するごとに脳に「報酬」を与えること。「報酬」は、お金やモノでもいいし、誰かにホメてもらうということでもいい。「脳が快感を感じること」が「報酬」の定義である。ただし、“ゴールに達したら甘いものを食べる”という「報酬」は、肥満につながるので避けるべし(笑)。

●ゴールに達したときの「報酬」が自分の心にいくつか設定されていること、それ自体が重要。そのことによって脳が無意識の「報酬探し」を始め、学習意欲昂進につながる。 

●その「報酬」への渇望と、「報酬」を得られたときの(快感と同時に訪れる)癒しと安心。2つを感じることが「ハマり」の条件である。ただし、渇望が強すぎると依存症になるので要注意。

●小刻みなゴールのほかに最終的な目標(=勉強によってどうなりたいか?)を決めておき、その目標に到達したときの快感をくり返しイメージする。目標は具体的に。「賢くなりたい」などという抽象的な目標ではダメ。“目標に到達したとき、自分が具体的にいまとどう変わるのか?”をイメージする。イメージすること自体が快感となるくらいまで。

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福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書 490H)手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書 490H)
(2009/04/17)
福元 一義

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 福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書/735円)読了。

 著者は、1970年に手塚プロに入社し、手塚治虫の最晩年までチーフ・アシスタントをつとめた人物。アシになる以前には少年画報社の編集者として手塚らを担当し、その後マンガ家として独立していた時期もあるという変わり種だ。

 つまり、アシスタントの目と担当編集者の目、同業のマンガ家の目という、3つの「目」から間近に手塚治虫を見守りつづけた人なのだ。
 手塚のアシスタントをつとめたマンガ家といえば石坂啓などがいるが、編集者・マンガ家・アシスタントという3つの立場からの思い出を語れる人は、著者のほかにはいまい。そんな著者が、手塚治虫の創作の舞台裏を明かしたエッセイである。

 ファンクラブの会報誌に4年にわたって連載されたものだそうで、そのような経緯からも本書の性質は明らかだろう。手塚治虫のイメージをけっして損なわない範囲内で、ファンが安心して楽しめる内容なのだ。
 したがって、イメージをくつがえす「衝撃の事実」のたぐいは皆無だが、山ほどある手塚本にも出てこない秘蔵エピソードが満載だ。

 また、ファンクラブの会員向けに書かれただけに、かなりマニアックな傾きをもつ本である。たとえば、“手塚治虫がおもに使っていたペン先は何か?”などという、一般人にはどうでもよいトリヴィアルなことが細かく書かれていたりする。

 したがって、「手塚治虫の人物像を大づかみに知りたい」という人には不向きの本(そういう人は、たとえば大下英治の『手塚治虫――ロマン大宇宙』とか、桜井哲夫の『手塚治虫』を読むといいと思う)。「これまでのおもな手塚本はひととおり読んでいる」というマニア向けだ。

 手塚ファンなら面白く読める、肩の凝らない1冊。
 全編に満ちたあたたかい雰囲気が好ましいし、随所にちりばめられた著者によるイラスト(手塚直系の絵柄だから、まるで手塚本人が本書のために描いたかのよう)も楽しい。

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『ブラック・ダリア』

ブラック・ダリア コレクターズ・エディション 2枚組 [DVD]ブラック・ダリア コレクターズ・エディション 2枚組 [DVD]
(2007/05/18)
ジョシュ・ハートネットスカーレット・ヨハンソン

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 ケーブルテレビで録画しておいた『ブラック・ダリア』を観た。
 ジェイムズ・エルロイの同名小説をブライアン・デ・パルマが映画化したもの。

 ストーリーの元になっている「ブラック・ダリア惨殺事件」について、私は『映画宝島 地獄のハリウッド!』(いまをときめく町山智浩氏が編集者時代に手がけた傑作ムック)で知った。1947年のLAで、女優の卵でもあった娼婦が体を上下真っ二つに切断され、口を裂かれ血を抜かれて殺された猟奇殺人事件。
 迷宮入りとなったこの事件を元にしたハードボイルド・ミステリである。

 戦後間もないLAの雰囲気(よく知らないけど)を濃密に刻み込んだ映像が素晴らしい。洗練された“21世紀のフィルムノワール”という趣。ヒッチコックばりの技巧が凝らされた撮影も面白いし、スカーレット・ヨハンソンとヒラリー・スワンクという2人のヒロインが色香を競うのも見どころ。

 映像もムードも俳優たちの演技も素晴らしいのだが、いかんせん、肝心のストーリーがよくわからない。
 前半に提示されたいくつかの謎について、終盤にバタバタとあわただしく謎解きがなされるのだが、謎が解かれてもスッキリせず、なんだかごまかされたような気分になった。伏線の歯車がカチリカチリと見事に噛み合わさって、「そういうことだったのか!」と思わず膝を打つ……そんな快感はまったく感じられないのだ。

 きっと、原作を読んだ人ならそんな気分にはならないのだろう。映画だけで楽しむには、この物語は複雑すぎるのだ。こんどは原作を読んだうえで再見してみたい。

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『バッシング』

バッシング [DVD]バッシング [DVD]
(2007/01/25)
占部房子田中隆三

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 ケーブルテレビで録画しておいた『バッシング』を観た。カンヌ映画祭コンペティション部門への出品で話題をまいた、2005年の小林政広監督作品。

 2004年のイラク日本人人質事件をモチーフに、人質から解放された女性が帰国後、社会から激しいバッシングを受けるさまを描いている(ただし、事件についての描写は皆無。登場人物のセリフの中にわずかな言及があるのみ)。

 想像していたよりもずっとよい映画だった。
 小林監督(脚本も)の視線は主人公の女性に同情的ではあるものの、彼女を「純真無垢でいたいけな被害者」として扱ってはいない。バッシングする側を悪、される側を善とする単純な二元論に陥っていないのだ。
 監督の眼目は、一連のバッシングを通して日本社会そのものを浮き彫りにすることにこそあるのだろう。

 海外の観客からは、「なぜ人質事件の被害者がバッシングに遭うのか、その理由がわからない」という感想が多かったという。さもあろう。しかし日本人なら、是非はともあれ「彼女がバッシングに遭った理由」はよくわかるはずだ。英訳不可能な「世間」という枠組みの意味合いを体で理解していないと、理由はわからないのである。
 その意味でこの作品は、“映画の形式をとった日本人論”として優れている。

 ヒロインを演ずる占部房子(うらべ・ふさこ)は、私の好みど真ん中の「地味で華奢な植物系美人」(私は派手な美人、肉感的美人が苦手だ)。
 ただし、ほかの映画ではチャーミングな彼女なのに、本作ではほぼ全編スッピンで、かなりブス顔に映っている(失礼!)。いつもとは別人のようだ。しかし、ものすごい熱演ではある。

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痛風覚え書き

痛風はビールを飲みながらでも治る!―患者になった専門医が明かす闘病記&克服法 (小学館文庫)痛風はビールを飲みながらでも治る!―患者になった専門医が明かす闘病記&克服法 (小学館文庫)
(2004/11)
納 光弘

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 じつは、10日ほど前から痛風発作で静養状態であった。

 痛風発作は2年ほど前に1度経験していて、以来飲酒も控えていたのだが、先日久々に『読売新聞』をとり、景品にビールを1ケースもらったものだから寝た子を起こされ、カパカパ飲んでしまった(アルコホリック方面の言い方を借りれば、「スリップ」)。

 すると、てきめんにきたのである、「ドカーン!」と発作が……。

 発作が起きてからの2、3日は激痛で足の裏を床につけることすらできず、這って動くありさま。その後も1週間は、病院に行くほかは家からまったく出られず(その間取材仕事がなくてよかった)。
 
 そして、発作から10日がすぎた今日、ようやく痛みもおさまったので取材に出かけ、“平常営業”に戻った。

 医者からは、「(尿酸値を下げる)薬はどうします? 飲み始めたら基本的に一生飲みつづけないといけないんだけど」と言われた。「一生」という言葉になんとなくビビって、「ちょっと様子見させてください」と答える。

 3ヶ月後に血液検査の予約を入れたので、それまで食事などに気をつけ、尿酸値を下げる努力をしてみることに……。再検査でも基準値以上だったら、あきらめて薬を飲み始めることにしよう。「猶予期間」である。

 痛風という確定診断が下ったのは、じつは今回が初めて(2年前のときは、痛みが治まったのをいいことに医者に行かなかった)。「生活を変えろ!」という天啓だと思うことにしよう。

 必要に迫られ、ネット上の情報と書籍から、痛風の基礎知識をたくさん仕入れる。いろいろと目からウロコ。たとえば――。

●痛風の痛みの原因は、関節などの炎症発作。尿酸値の高い状態がつづくと、処理しきれなかった尿酸が結晶化して関節やその周辺にたまる。それが「異物」と見なされ、白血球が攻撃して炎症発作が起きる。

●尿酸を増やす原因になるプリン体の8割は、体内で産生される。体外からの摂取は2割程度。ゆえに、プリン体を過剰摂取しないように気をつけていても、それだけではダメ。

●体内のプリン体産生の大きな要因となるのが、アルコール摂取(代謝の過程で尿酸の合成が促進される)。したがって、「プリン体の多いビールを避け、プリン体の少ない焼酎などだけ飲んでいればだいじょうぶ」というわけではない。同様に、ビールをプリン体カットの発泡酒に変えるのも気休め程度でしかない。

●痛風でホントにこわいのは痛風発作の痛みではなく、尿酸値の高い状態がつづくこと(「高尿酸血症」という)。そのままにしておくと、さまざまな合併症を引き起こす。とくに、尿酸の結晶は腎臓にたまりやすく、腎障害(果ては腎不全)に結びつく。また、尿路結石などの結石を作るリスクも一気に高まる。
 
●「風が吹いても痛いことから『痛風』と名づけられた」というのは、誤った俗説。痛風の「風」はそれ自体が「病気」の意。つまり、「痛風」とは「痛い病気」という意味なのだ(ホントに痛い)。

 痛風関連の一般書も、あれこれ読み散らかす。

 そのうちの1冊が上の『痛風はビールを飲みながらでも治る!』(納光弘著・小学館文庫)という本なのだが、これはタイトルがほとんど詐欺だった。中身は、「尿酸値低下薬を常用すれば、適度な範囲での飲酒はオーケイですよ」ということでしかないのだ。そんなの、あたりまえではないか。「モリモリ食べてもやせられる」という詐欺的ダイエット本のようなもの。

 読んだなかでよい本だったのは、『痛風 尿酸値が高い人のおいしいレシピブック』(保険同人社)という本。これは、解説部分の内容がきちんとしていた。

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本橋信宏『AV時代』

AV時代―村西とおるとその時代 (幻冬舎アウトロー文庫)AV時代―村西とおるとその時代 (幻冬舎アウトロー文庫)
(2005/12)
本橋 信宏

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 本橋信宏著『AV時代――村西とおるとその時代』 (幻冬舎アウトロー文庫/800円)読了。
 「村西とおるという希代の人物を縦軸にしたアダルトビデオ通史」(あとがき)である。

 「AVの帝王」として1980年代に時代の寵児となった村西については多くの取材記事/ノンフィクションがあるが(たとえば、先日読んだ佐野眞一の『人を覗にいく』の一編)、本書はそれらとは次元が異なる。というのも、著者はライターとして活動するかたわら、80年代を通じて村西の片腕となり、広報などを担当していた人物であるからだ。

 何度か村西に接しただけのライターが、「葭の髄から天上覗く」ようにして書いた本ではない。仕事を通じて村西と苦楽をともにした人物が、“たまたまライターでもあった”ことによって書き得た希有なノンフィクションなのだ。
 その意味で、スタンスとしては、小津安二郎の助監督をつとめたこともある直木賞作家・高橋治が小津を描いた『絢爛たる影絵』に近い。

 ただ、『絢爛たる影絵』のような大傑作と比べてしまうと、本書はかなり見劣りがする。本橋の文章に魅力がないし、構成もダラダラしていてしまりがない。
 文庫本で500ページ近い長大な本なのだが、余分なところを刈り込めば半分くらいの分量にできる。そうしたほうがずっといい本になったと思う。

 余分の1/本橋が自分のことを書きすぎ。村西とおるではなく、本橋自身が本書の主人公になってしまっている。本書の読者の大半は村西に興味があるのであって、失礼ながら、本橋の青春などどうでもいいのである。
 余分の2/AVの中身を細かく紹介しすぎ。アダルト雑誌の「新作AVレビュー」じゃないんだから、こんなに微に入り細を穿って紹介する必要はなかったはず。

 ただし、そのような瑕瑾を補って余りある面白さをもった本である。

 徒手空拳で出発した村西が、時代の波に乗って巨富をなし、やがて際限のない拡大路線の果てに自滅(=40数億の負債を抱え倒産)するまでの、ジェットコースターのような日々。その軌跡に、バブル経済の光と陰が二重映しになる。
 これは村西とおるの評伝であるとともに、AVの黎明から爛熟までを克明にたどった風俗史でもあり、AV業界から見た80年代クロニクルでもある。

 キワモノではあるが不思議な魅力をもつ一書だ。村西という人物がそうであるように……。

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根本敬『真理先生』

真理先生真理先生
(2009/01)
根本 敬

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 根本敬著『真理先生』(青林工藝舎/1680円)読了。

 「特殊漫画家」根本敬は、今年前半、3ヵ月連続で著書(マンガ以外の)を刊行した。先日読んだ『特殊まんが-前衛の-道』はその第3弾にあたり、第1弾が本書である。

 まるで大昔の小説のような書名と装丁。同題の武者小路実篤の名作と間違えて手に取る人もいるかもしれない。しかし、中身はいつもの根本ワールドで、実篤とは似ても似つかない。

 基本はエッセイ集だが、全3章のうちの第2章がなんと小説になっている。根本敬にとっては初の小説。分量からいったら短編なのだが、ヘタな長編顔負けの濃さをもつ、ある老人の一代記である。

 後半に、根本敬作品でおなじみのキャラクター・吉田佐吉が登場してくる(もっとも、作中には「吉田」としか書かれていないのだが、ファンなら吉田佐吉であることがすぐわかる)。そして、そこから俄然面白くなる。前半は読みづらくてかったるいので、そこで投げ出さないように。

 そして、最後まで読み終えたあとでもう一度初めから読んでみると、かったるく思えた前半も面白く感じられる。根本のマンガをそのまま小説に置き換えたような、彼以外には書き得ない作品。もしかしたら、根本敬は町田康のように小説家に大化けするかもしれない。

 小説を間に挟む形で並んだエッセイも、いつもながらのハイ・ボルテージ。
 ここにあるのは、世にあるエッセイに対するオルタナティヴであり、世のまっとうな生き方、まっとうな物の見方の反対側に突き抜けた「真理」を教えてくれるものである。
 本書に収められた22編のエッセイのうち何編かは、何度も読み返して熟読玩味する価値をもつものだ。

 私がとくに気に入ったエッセイのタイトルを挙げておく。 
 「さぶ・カトちゃん」、「男にとって甲斐性とは」、「ストーンズのライヴ(確かめに行ったもの)」、「もう一人の俺」、「赤塚先生から赤塚と呼び捨てになった時」(赤塚不二夫追悼文)……。

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佐野眞一『人を覗にいく』

人を覗にいく (ちくま文庫)人を覗にいく (ちくま文庫)
(2002/02)
佐野 真一

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 佐野眞一著『人を覗(み)にいく』(ちくま文庫/820円)を読んだ。

 人物ノンフィクションの短編を集めたもの。『アエラ』の看板連載「現代の肖像」の一編として書かれたものが中心。私自身が興味のある人を取り上げた回だけ読んだので、「読了」ではない。

 村西とおる(AV監督)、つげ義春、荒戸源次郎(映画プロデューサー)、渡辺文樹(映画監督)を主人公にした章が、とくに面白かった。

 何が面白いって、取材相手のヨイショに終始していないこと。痛烈な批判もちりばめられているし、ネガティヴな情報もずけずけと書いている。そのうえで、相手の美点や感動的なエピソードも書いていくのだ。

 たとえば、村西とおるの章にはこんな一節がある。

 村西は、こと女優に対しては、本物の猫でも出せないような猫なで声を連発し、割れ物でも運ぶように扱うが、いざ男性スタッフに向き合うと、態度をガラリと豹変させる。ちょっとしたミスにも、二度と立ち直れそうにないくらいの雑言を吐き散らし、ときには殴る蹴るの行状にも及ぶ。村西の暴力に耐えかねて逃げ出したスタッフは一○○名を下らず、なかには、タバコを買いに出かけたまま姿をくらましたスタッフもいる。村西軍団はこのため、サンドバッグ軍団とも呼ばれている。



 最も痛烈な批判が展開されるのが渡辺文樹を取り上げた章で、人物ルポというよりほとんど批判記事になっている。
 ただし、『週刊新潮』とかがやるような下衆な人物批判とは次元が違い、批判の中に愛情も感じられるし、人物像が鮮やかに浮かび上がる内容なのだが……。

 「取材相手のヨイショに終始しないのは、ジャーナリスト/ノンフィクション作家ならあたりまえではないか」と思う人もあろうが、じつはそうではない。この手の短編人物ルポには、多くの場合、相手が書かれて本気でいやがることなど書かれないものなのである。

 佐野は、取材相手からいい言葉もたくさん引き出している。
 たとえば、荒戸源次郎のこんな言葉――。 

「映画もポーカーも、ゲームという点では同じだ。映画をつくるようになってからバクチ場への出入りはやめた。映画はバクチの禁断症状によく効くんだ」



 ただ、雑誌掲載の読み切りルポであったという制約から、どの章も枚数が少なくて食い足りない。「あれ、もう終わり?」という感じなのだ。収録作品を絞り込み、雑誌に書けなかったネタも盛り込んで大幅に加筆すればよかったのに……。

 そういえば、「現代の肖像」の単行本化って、本書のほかにはほとんどないなあ(1冊だけ、さまざまな書き手の「現代の肖像」をまとめたものが「アエラ編集部・編」の形で出ている)。
 梯久美子が「現代の肖像」に書いたルポにはいいものが多いから、彼女のものだけ集めて本にすればいいのに。出たら私は絶対買う。

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根本敬『特殊まんが-前衛の-道』

特殊まんが-前衛の-道特殊まんが-前衛の-道
(2009/04/03)
根本 敬

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 根本敬著『特殊まんが-前衛の-道』(東京キララ社/1890円)読了。

 「特殊漫画家」根本敬の最新エッセイ集。
 アイカワタケシによる表紙イラストがものすごい。じっと見ていると酩酊しそうだ。
 中身もしかりで、「読むドラッグ」という趣。誰にも真似のできないねじれた文体で、特殊漫画家としての歩み(少年時代のマンガとの出合いから、現在の“特殊な地位”を築くまで)が綴られている。

 合間に、勝新太郎、内田裕也、「突然ダンボール」(バンド)などといった、根本にとっての「注目すべき人々」との出会いを綴った章が挟まれる。

 巻末には、じつに80ページにわたる天久聖一との対談を収録。ごく一部のヤバイ話(らしい)がカットされているほかは、なんのトリートメントもせずに対談のテープ起こしがそのまま載せてある感じ。

 特殊漫画家生活の舞台裏で生まれた、笑えるエピソード満載だ。
 たとえば、根本敬のことを勘違いした編集者から「普通のマンガ」の仕事依頼がきた際、根本が面白がってその注文を受け、堂々といつもの根本マンガを描いて相手を驚愕させる、というエピソード。
 人もあろうに、根本に対して「金のある出版社」から「学習まんが」の注文があったのだという(!)。

 そして、編集者はこのわたしに、こう注文した。
「『セクシー・コマンドー外伝 すごいよ!! マサルさん』のイメージでお願いします」
 それを耳にして、このわたしが喜ばぬ訳がない。
(中略)
 果たして出来上がった「学習まんが」は当然、二度と発注が来る様なものであるはずがなかった。



 印象に残った一節を、メモ。これは根本敬の矜持がにじむ名言だと思う。

 次代を担う新しいものは決してメジャー側から生まれることはなく、仮にメジャーから生まれた様に見えても、元ネタは「マイナー」の中より無名をいいことに剽窃したものなのである。
(中略)
 やがて新しいものへと連なる表現行為の類いは、マイナー以前の所に居る無名の若者の、まずは「やりたい」という全身体的な、理屈以前の衝動から始まるものである。



 また、根本との対談で天久聖一が語る、“読者と消費者は違う”という話も面白い。メジャー誌の編集者から言われた「読者の事、考えろ」という言葉についての発言だ。

天久 でもその読者って 出版社が想定してる「消費者」の事じゃないですか。僕が思ってる「読者」っていうのと、それを売る側が考えてる「消費者」っていうのは、全然ズレてて、違うし、僕、もっと狭いから(笑)。



 おそらく、根本もそのように感じていることだろう。

 「根本ワールド」全開で、とても万人にオススメできるようなものではないが、“根本作品を受け入れられる人”なら面白い本。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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