きたみりゅうじ『フリーランスを代表して申告と節税について教わってきました』

フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。
(2005/12/08)
きたみ りゅうじ

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 きたみりゅうじ著『フリーランスを代表して申告と節税について教わってきました』(日本実業出版社/1470円)読了。

 図書館で借りて読んでみたらよい本だったので、取り寄せたもの。初版は2005年だが、増刷に際して最新情報にアップデートしてあるそうだ。

 書名どおりの本。フリーのライター兼イラストレーター兼マンガ家である著者が生徒役となり、申告と節税について税理士からレクチャーを受ける内容だ。
 
 著者自身も書いているように、申告と節税についての一般書はたくさんあっても、フリーランサー向けのものは皆無に等しかった。「お店をかまえてるような『個人事業主向け』ってのはいっぱいあったんですけども、そういったもんをいっさい持たない『フリーランス向け』な本というのはまるでなかった」のである。 
 もっとも、本書刊行後、『日本一やさしいフリーのための確定申告ガイド』(はにわきみこ)など類書がいくつか出たけれど……。

 レクチャーは、著者と講師の漫才のように軽快で楽しいやりとりで構成されている。しかも、随所に著者が描いた4コマ・マンガ(その項目の要点をまとめたもの)まで入っている。
 そのため、ものすごくわかりやすい。それでいて、内容が薄いかといえばそんなことはなく、確定申告と節税のポイントがひととおりわかるようになっている。

 私は過去20年以上にわたってフリーランサーとして自分で(税理士に頼まず)確定申告をしているが、ほとんど見よう見まねでやってきたものだから、本書を読んで初めて「ああ、そういうことなのか」とわかったことがいろいろある。

 ああ、この本が20年前にあればなあ。申告にまつわる「あんな失敗、こんな回り道」をせずに済んだかもしれない。

 著者と講師がくり広げるトークのぶっちゃけかげんも面白い。講師の税理士が、匿名での登場を条件に思いっきりホンネで語っているのだ。

 フリーランサーなら、すでに確定申告を何度もしている人でも、読んでおいて損はない本。「これから初めての確定申告をする」というフリーには絶対オススメ。

 
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宇崎竜童『ブルースで死にな』

ブルースで死になブルースで死にな
(2008/10/01)
宇崎竜童

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 宇崎竜童の『ブルースで死にな』(エピック)を聴いた。昨年、デビュー35周年を記念して作られた、2枚組全31曲の大作である。

 ダウン・タウン・ブギウギ・バンド時代からの自作のリメイクと、他のアーティストに提供した曲のセルフカバーを中心にした内容。タイトルが示すとおり、全編をつらぬくテーマは「ブルース」。宇崎は一貫して“ブルースと歌謡曲とロックンロールのミクスチャー”ともいうべき音楽をやってきたわけだが、本作はぐっとブルース寄り。宇崎の音楽からブルース的要素を抽出した、変則的なベスト盤なのだ。

 といっても、数人のアレンジャーが参加して腕を競っていることもあり、アレンジは多彩なので、150分を超える大作を退屈せずに聴き通すことができる。
 生ギター1本で聴かせるシンプルな曲もあれば、ビッグバンドできらびやかに彩られた曲もある。マディ・ウォーターズばりのゴリゴリのブルースもあれば、スムース・ジャズ的な洗練されたアレンジが施された曲もある。

 とくによいのは、原田芳雄(むろん俳優だが、素晴らしいシンガーでもある)に提供した一連の曲のセルフカバー。「B級パラダイス」「腕(かいな)」「マッカーサーのサングラス」「ブルースで死にな」「 I SAW BLUES」……いずれも最高の出来である。じつに渋い。

 宇崎作品の多くは妻・阿木燿子が作詞しているわけだが、このアルバムを通して聴くと、阿木の作詞家としての力量を改めて思い知らされる。彼女の作る詞それ自体が、優れてブルージーなのだ。
 
 たとえば、「腕(かいな)」はいわゆる「ジャパゆきさん」と日本人の男(おそらく、くたびれた中年男)の恋を描いた歌なのだが、最小限のシンプルな言葉を用いながら、歌の背後にあるドラマが聴き手の心に鮮やかに浮かび上がる。「これこそ日本のブルースだ!」と唸った。 

 自曲リメイクも、元の曲よりずっと渋くなっているものが多い。
 たとえば、「DON'T LOOK BACK」は宇崎のソロ・アルバム『ブロッサム35』に入っていた曲で、元曲はブルース・スプリングスティーンを意識したロックンロールだったが、本作に収録されたヴァージョンは切々と歌い上げるバラードに生まれ変わっている。
 ちなみに、「DON'T LOOK BACK」は、松田優作が私立探偵兼ロック・シンガーを演じた映画『ヨコハマBJブルース』で印象的に使われていた曲でもある。

 原田芳雄、松田優作も歌った名曲「横浜ホンキートンク・ブルース」(これは宇崎の曲ではなく、藤竜也作詞、エディ藩作曲)のカバーも入っており、あの手の“男臭いブルース寄りの歌謡ロック”の集大成という趣もある。

 一つ不満を言えば、宇崎自らが主演した映画『TATOOあり』のラストで流れた「ハッシャバイ・シーガル」も、このアルバムに入れてほしかった。あれは、宇崎作品の中でいちばん「ブルースしてる」名曲だと思う。



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北杜夫『マンボウ最後の大バクチ』

マンボウ最後の大バクチマンボウ最後の大バクチ
(2009/03)
北 杜夫

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 北杜夫著『マンボウ最後の大バクチ』(新潮社/1365円)読了。
 82歳になった「どくとるマンボウ」の、最新エッセイ集。

 書名が『マンボウ最後の大バクチ』であるのは、『新潮45』に連載された全5回のギャンブル紀行シリーズが丸ごと収録されているため。この「ギャンブル紀行」が全体の3分の1を占める。

 10年もの長い間ずっと鬱期にあった北杜夫は、2000年末から突如として躁期に入り、娘の斎藤由香(エッセイスト)と中瀬ゆかり(『新潮45』の名物編集長にして、作家・白川道の妻。通称「ペコちゃん」)とともに、ギャンブルざんまいの旅に出た。その模様を綴った連作エッセイである。

 北杜夫はかつて、躁病期に株の売買にのめり込んで破産した経験がある。躁期の過剰なエネルギーは、北を賭け事に向かわせるようなのだ。気が大きくなるのだろう。

 昔読んだ吉行淳之介のエッセイに書いてあったことだが、北杜夫は躁期になるとユーモア・エッセイを量産し、鬱期に入ると純文学を書き、もっと鬱が重くなると何も書けなくなるのだという。
 ということは、10年ぶりの躁がやってきたことによって、北は久々に「ユーモア・エッセイ・モード」に入っていたわけだ。

 そのせいか、本書では「ギャンブル紀行」が突出して面白い。久々に笑える北杜夫が帰ってきた、という感じだ。

 例として、「十年以上、バーなどというところへ行ったこともない」状態だった北が、躁の勢いで「バーの女性をくどいてやろうと思い立」ち、くり出す場面を引こう。

 躁とギャンブルによって高揚させられていた私は、その次にわきにいるほっそりとした子の腿を撫でた。誓って言うが、これまでの生涯私はそのような行為をしなかったし、しようとも思わなかった。
 するとその若い子は、
「感じました!」
 と言ってくれた。
 それが見知らぬ白髪だらけの老人に対する世辞なのか、或いは現代っ子のあっけらかんなのかは分からない。
 ともあれ、生れて初めて恥知らずの行為をし、おまけに「感じました!」と言われた私は感激してしまった。
 清純作家である私は性に目覚めたのである。自分が「腿膝三年尻八年」の吉行淳之介先輩のごとき性豪になったと思った。



 ただし、残り3分の2のエッセイは沈んだトーンの思い出話が多く、全体に低調。
 まあ、80歳を越えて健康も害しているという北杜夫に、壮年期と同レベルのエッセイを望むほうが無理というものだろう。

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野口吉昭『コンサルタントの習慣術』

コンサルタントの習慣術 頭を鍛える「仕組み」をつくれ (朝日新書)コンサルタントの習慣術 頭を鍛える「仕組み」をつくれ (朝日新書)
(2009/03/13)
野口 吉昭

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 野口吉昭著『コンサルタントの習慣術/頭を鍛える「仕組み」をつくれ』(朝日新書/777円)読了。
 売れっ子経営コンサルタントが、仕事の経験をふまえて「習慣マネジメント」術を説く本。

 よい習慣を身につけ、悪い習慣をなくすこと――成功するための要諦は、けっきょくそれに尽きるのではないか。
 あらゆる努力を「無意識のうちに行なう習慣」化し、あらゆる悪習を生活から排除できたら、どんな分野であれ成功しないはずがないではないか(資質がよほど劣悪でないかぎり)。

 我々が「自分を変えたい!」と言うとき、その「変える」とは行動習慣・思考習慣を変えることにほかならないのだ(整形手術を除けば)。

 ……ということをつねづね考えていて、そのために役立つ本を探しているのだが、なかなかよいものがない。「○○の習慣術」と題された本は山ほどあるものの、その多くは空疎な精神論であったり、「幸運をつかむ習慣術」みたいなオカルトまがいだったりする。
 私が読みたいのは、あたかも筋トレのメソッドのように合理的・科学的に「習慣化メソッド」を説いた本なのである。

 その点、本書はかなりいい線いっている。いま流行りの「仕組み本」のテイストで書かれており、ヘンな精神論が混入していないからだ。

 章立てはこんな感じ。

序章 コンサルタントの習慣術とは何か
1章 習慣をマネジメントする
2章 「考える力」を磨く習慣術
3章 「主体的な行動力」が身につく習慣術
4章 「新たなものを創り出す」習慣術
5章 「打たれ強い人」になる習慣術
6章 「人を動かすリーダー」になる習慣術



 このうち、4章までは素晴らしい。ちりばめられた具体例やたとえ話も的確で、本としてよくできている。

 ところが、5、6章で一気に失速。
 この2つの章は“チームで行なう仕事における習慣化”がテーマとなっているのだが、読んでみると、習慣化とは関係ない陳腐な組織論、リーダー論になってしまっている。
 いちおう「習慣化」という言葉は出てくるものの、いかにも取ってつけたよう。「おいおい、最後の2章だけ別の本になってるぞ」と苦笑してしまう。

 「経営コンサルタントらしさ」を出そうとしてか、無理やり組織論に話をもっていった印象。しかし、「習慣マネジメント」について語る切り口は、組織論以外にもいろいろあったと思う。

 たとえば、メンタルヘルスを保つためにも習慣マネジメントは重要だ。
 楽観主義の研究で知られる米国の心理学者マーティン・セリグマンは、「楽観主義は生まれつきの性格ではなく、トレーニングによって身につけることができる」と述べている。それは、言いかえれば「楽観の習慣化」である。
 「楽観の習慣化」ができれば、うつ病の予防や改善にも役立つはずだ。

 そのような角度から、「心を強くする習慣術」を説く章があってもよかった(5章の「『打たれ強い人』になる習慣術」はてっきりそういう内容かと思ったら、違った)。

 とはいえ、4章までは一読の価値がある好著だ。

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佐藤まさあき『「堕靡泥の星」の遺書』

『堕靡泥の星』の遺書―さらば愛しき女たち『堕靡泥の星』の遺書―さらば愛しき女たち
(1998/10)
佐藤 まさあき



 佐藤まさあき著『「堕靡泥(ダビデ)の星」の遺書/さらば愛しき女たち』(松文館)読了。
 『堕靡泥の星』などの作品で知られる劇画家・佐藤まさあきの自伝。

 佐藤の自伝といえば、本書が刊行された2年前の1996年にも、文藝春秋から『「劇画の星」をめざして』が出ている。
 「なぜ、わずか2年の間に2つも自伝が?」と不思議に思う向きもあろうが、2つは同じ自伝でもまったくアプローチが異なる。本書は、佐藤の少年期からの女性遍歴を綴ったセクシャル・バイオグラフィーであり、劇画家としての歩みは添え物程度にしか書かれていないのだ。

 もっとも、『「劇画の星」をめざして』にもかなり赤裸々に女性遍歴が明かされていたのだが、本書はその赤裸々さかげんがケタ違いだ。なにしろ、佐藤が過去に関係した女性たちの大半が、写真入り・実名(!)で明かされているのだから……。

 要は一種の「暴露本」だが、ふつうの「暴露本」は暴露することにメリットがある著名人がターゲットとなるのに対し、本書に登場する著者の「お相手」は99%が無名の市井人である。
 唯一の著名人は女流ホラー・マンガ家のS・M(本文では実名)だが、これとて「熱心なマンガ・ファンなら知っている」程度でしかない。
 
 つまり著者は、暴露してもなんのメリットもないにもかかわらず、一般女性たちとの肉体関係をすべて実名・顔写真つきで、微に入り細を穿って明かしているのだ。
 いったいなんのために? 本書の冒頭で著者は次のように書く。

 この自叙伝に出てくる女性はY子さんとかS子さんではなく、基本的に実名にしたいと思う。なに、かつての恋人とはいっても現在ではシワクチャだらけのお婆さんになっているわけだし、たとえこの本を見たとしても、昔の思い出話とかんべんしてくれるだろうと思う。
(中略)
 私にしても、いま思いかえしてみれば一人一人の女性が捨てがたく、懐かしい思い出となって蘇ってくる。そんな女性にY子だのS子だのとイニシャルで呼ぶのは、かえって失礼ではないか…。(太字強調は引用者)



 究極の自己満足である。
 本書のせいで著者が訴えられたという話は聞かないから、登場する女性たちはホントに「昔の思い出話とかんべんしてくれ」たのだろうか? いまだったら間違いなく訴えられているだろう。とはいえ、わずか11年前に出た本なのだが、隔世の感がある。

 著者の若き日の写真もたくさん載っていて、なかなかの美青年である。眉が精悍に太く、目は大きくパッチリとしていて、ちょっと嵐の松本潤に似ている。「なるほど、これならモテただろうなあ」と思わせる。

 「劇画界のカサノヴァ」の長い旅を綴った、マンガ史に残る奇書。大きな声でオススメするのははばかられるが、読み出したら止まらないほど面白い本なのはたしか。

 なお、本書の書名にも冠されている著者の代表作『堕靡泥の星』は、殺人と強姦をくり返す悪魔のごとき男を主人公にした壮大なピカレスクロマンである。そんな作品に『堕靡泥の星』なんてタイトルをつけること自体、いま考えれば相当にヤバイ。

■関連エントリ→ 『「劇画の星」をめざして』レビュー

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細川貂々『ツレがうつになりまして。』

ツレがうつになりまして。 (幻冬舎文庫)ツレがうつになりまして。 (幻冬舎文庫)
(2009/04)
細川 貂々

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 細川貂々(てんてん)著『ツレがうつになりまして。』(幻冬舎文庫/480円)読了。
 「読了」といっても、エッセイ・コミック(文章によるコラムがときどき入る)だからあっという間に読み終わった。

 言わずと知れた大ベストセラー(30万部突破)だが、NHKでテレビドラマ化されたと聞いて、なんとなく手を伸ばしてみたしだい。

 本書を読んで初めて気づいたのだが、私はすごい勘違いをしていた。著者とワタナベ・コウ(イラストレーター)を混同していたのだ。
 ワタナベ・コウの「ツレ」といえば、元『SPA!』編集長のツルシカズヒコ(師一彦)。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が『SPA!』で連載されていたころ、ツルシとトラブって連載中止に至ったことで知られる。連載最終回の『ゴー宣』には、ツルシが悪意ある描かれ方で登場していたっけ。

「あのツルシがうつになったのか。やっぱり、小林よしのりとの闘いに疲れたことが発病の引き金になったのかなあ」と勝手に納得していたのである。
 いやー、思いこみはこわい。  

 それはさておき、本書はうつ病についての啓蒙書としてたいへんよくできている。うつ病になったときの独特の感じ方・考え方が的確に表現されていて、家族や友人・知人がうつ病になったとき、どう接すればよいのかがよくわかる。
 「なるほど。うつ病になった人はそんなふうに考えてしまうのか」と、目からウロコのシーン多数。質の高い「学習マンガ」でもあると思う。

 ありそうでなかった、軽やかなエッセイ・コミック形式の「うつ病入門」。企画の勝利だと思う。

 北杜夫が自らの躁うつ病体験をしばしばエッセイ等で明かしてきたことについて、「日本に躁うつ病理解の土壌を作ったという意味で、大きな社会貢献」と評する向きがある。
 それにならえば、この『ツレうつ』シリーズ(続編、スピンオフ本もある)がベストセラーになり、テレビドラマ化もされたことは、日本人のうつ病理解の裾野を広げたという意味で社会的意義も大きいと思う。

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大前研一『「知の衰退」からいかに脱出するか?』

「知の衰退」からいかに脱出するか?「知の衰退」からいかに脱出するか?
(2009/01/23)
大前研一

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 大前研一著『「知の衰退」からいかに脱出するか?/そうだ! 僕はユニークな生き方をしよう!!』(光文社/1680円)読了。

 日本人の知的衰退を憂う著作は山ほど出ているわけだが、本書はその大前版。
 知的衰退を実感した出来事として、自分の本が以前ほど売れなくなったことを挙げているのはいかにも大前らしい。
 いわく、“自分は1980年代に『新・国富論』や『平成維新』といったミリオンセラーを出したが、いまあのような本を出してもそんなに売れないだろう。政策提言集のようなお堅い本は、いまやすっかり売れなくなったからだ”(趣意)。
 そして、藤原正彦の大ベストセラー『国家の品格』を、“内容は「思考停止のすすめ」「鎖国のすすめ」「スモールハッピネスのすすめ」でしかない”とこきおろしている。

 「オレ様の本がミリオンセラーにならず、『国家の品格』があんなに売れるとは、日本人の知的衰退は深刻だ」……と、さすがにそこまでは書いていないが、行間にそんな含みが感じられる書きぶりなのである。

 そして、大前は近年日本に起きた出来事の中に、日本人の知的衰退を読み取っていく。昨年の金融危機以後の「日本株一人負け」現象、ゼロ金利に甘んじて日本の銀行に預金しつづけていることなど……。いまや日本は「低IQ社会」に堕し、「一億総経済オンチ」状況に陥っている、と大前は言う。

 後半は、“どうすれば我々一人ひとりが「知の衰退」から脱出できるか?”という提言が中心。

 440ページの厚い本であり、内容も税制改革、教育改革の提言から世界のビジネス状況概観まで、盛りだくさん。卓見や有益な情報もちりばめられており、読んで損はない。
 とくに、食品偽装問題や年金問題などに関する独自の見解は、「大前流メディア・リテラシー講座」という趣もあり、傾聴に値する。

 また、第5章に大前流「情報活用術」が簡潔に述べられており、わずか5ページほどながらも有益だ。
 そのポイントは、“情報はただ集めるだけでは無意味で、自分で加工するプロセスこそ重要である”というもの。そのため、大前は教え子たちに、週一回3時間ほどかけてネットサーフィンさせ、得た情報を要約して自分の考えを述べるレポートを書くことを義務づけているのだとか。

 ただ、大前本ではいつものことだが、思いこみだけで書かれたトンデモ話も散見されるので、注意が必要だ。

 たとえば、“日本人が自分の頭で考えないようになった最大の原因は偏差値教育だ”という極論が、堂々と展開されていたりする。
 もっと噴飯ものなのは、『少年ジャンプ』まで槍玉にあげていること。

 『少年ジャンプ』で描かれるのは、編集方針でもある「努力・友情・勝利」という3つの要素が入った物語である。(中略)
 しかし、その物語というのは、“近所で評判のラーメン屋の看板娘と仲良くなれたらラッキー"というような世界だ。勝利は社会的な勝利ではなく、極めて身近な狭い世界でのハッピネスなのである。(中略)
 『少年ジャンプ』の編集方針は、商業誌という観点から評すれば素晴らしいものだ。しかしながら、そのおかげで当時の子供たち(いまの中核世代)がどういう思考回路を持つようになってしまったかを考えると、私は暗澹たる気持ちになる。粘り強さというものがなく、小さいことで簡単に満足してしまう。まさに、スモールハッピネス人間を大量につくってしまったのである。
 たとえば子供のころから『三国志』などを読んで育てば、戦略論や組織論といったものを考えるきっかけとなったかもしれない。



 いまの中核世代(の男たち)がダメなのは、子どものころに読んだ『少年ジャンプ』のせいなのだそうだ(笑)。ツッコミどころありすぎだが、大前はどうやら本気で書いているらしい。

 もう一つヒドイのは、第10章「21世紀の教養」で、“古典的教養無用論”をブチ上げているところ。

 私が世界のリーダーたちと会食してわかったのは、その席ではもう文学の話も音楽の話も出ないということだ。(中略)
 世界のリーダーたちが古典的教養から遠ざかるようになったのは、知識としての教養が意味を持たなくなったからである。



 大前はそう言い、環境問題や社会貢献に対する見識をもち、サイバー社会の最先端に通暁していることこそがこれからの「教養」なのだという(なぜなら、“「世界のリーダーたち」と会うと、きまってその手のことが話題にのぼるから”だそうだ)。

 大前にとって教養とは、“役に立つから身につけるもの”でしかないらしい。しかも、その「役に立つ」とは、エリートたちとメシを食うときの話材になる、という程度のことでしかないのだ。
 日本のオピニオン・リーダーの1人・大前がそんな考えなのだから、なるほど、我が国の「知の衰退」はまことに深刻である。ここはぜひ、本書でケンカを売られた藤原正彦に大反論してほしいところだ。

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『新しい人間像を求めて』

新しい人間像を求めて―人間存在の実像と虚像のはざまで (宗教文明叢書)新しい人間像を求めて―人間存在の実像と虚像のはざまで (宗教文明叢書)
(2009/02)
聖心女子大学キリスト教文化研究所

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 聖心女子大学キリスト教文化研究所・編『新しい人間像を求めて/人間存在の実像と虚像のはざまで』(春秋社/2625円)読了。

 ゲッツ板谷の本を読んだ翌日にこういう本を読むあたり、我ながら振幅が激しいなあ(笑)。

 聖心女子大学キリスト教文化研究所では、4年ごとに一つの総合テーマを掲げて共同研究を行ない、その成果を論文集に編んで「宗教文明叢書」として刊行してきた。本書はその第7巻にあたる、2004年4月から2008年3月にかけての共同研究をまとめたもの。

 本巻のテーマは、「新しい人間像を求めて」。古今の哲学・宗教が問いつづけてきた「人間とは何か」という大きな問いに、改めて真正面から答えようとする試みなのだ。

 このテーマが選ばれた背景には、急速なグローバル化、情報の氾濫などの要因によって、各文化圏の伝統的人間観が根底から揺れ動いている現状がある。「人間観の洪水」ともいうべき現代にあって、「人間とは何か」との問いに答えることは近代以前よりいっそう困難なのだ。
 本書では、宗教学・ギリシア哲学・生命科学・精神分析など、多彩な分野の研究者たちが、各専門分野からその難事に挑んでいる。

 収録論文は2つの方向性に大別できる。1つは、伝統的人間観の根源に目を向けたもの。たとえば、キリスト教・仏教・イスラム教における人間観の特質について、それぞれの専門家が考察している。また、古代ギリシア人の人間観について、碩学・岩田靖夫が論考を寄せている。
 そしてもう1つは、科学の最先端から生まれた新しい人間観に目を向けるものだ。

 伝統的人間観と新しい人間観には相矛盾する面もあるが、本書はそのどちらかを否定するのではなく、両者を統合する「新しい人間像」を模索している点に特長がある。その特長が顕著に表れたのが進化生物学者・佐倉統の論文「科学と宗教」で、科学的人間観と宗教的英知のすり合わせを試みて示唆に富む内容となった。

 全編に通底するのは、「人間の尊厳」に焦点を当てる視点だ。
 “かつてないほど人権が重視されているにもかかわらず、人間の尊厳が見失われている現代”――それが本書の寄稿者の共通認識であり、その原因を探り、人間の尊厳をいかに回復していくべきかが、多様な角度から考察されている。

 とくに、最終章に収められた、「人間の尊厳と現代」をめぐる討論は圧巻。学際的研究の醍醐味を味わえる質の高い議論が展開されている。

 
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ゲッツ板谷『やっぱし板谷バカ三代』

やっぱし板谷バカ三代やっぱし板谷バカ三代
(2009/02/28)
ゲッツ 板谷

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 ゲッツ板谷著『やっぱし板谷バカ三代』(角川書店/1375円)読了。

 奇跡に近い面白さの爆笑エッセイ集だった、あの『板谷バカ三代』の続編。正編刊行後の8年間に板谷家に起きた出来事を中心にしたエッセイ集である。

■関連エントリ→ 『板谷バカ三代』レビュー

 私はゲッツ氏と同じ町内に住んでいるご近所さんだし、タメ年(1964年生まれ)でもあるので、同業者として氏に強いシンパシーを抱いている。

 ……のだが、この本はあまり笑えなかった。正編に比べて、笑いのパワーが半減してしまった感じ。といっても、ゲッツ氏のことだから標準ラインは軽くクリアしているのだが、正編があまりにも面白かったから、比べてしまうと見劣りがする。

 いや、そもそも、正編『板谷バカ三代』と今回の続編は、本としての「ベクトル」が違うのである。
 というのも、正編からの8年間で板谷家には悲しい出来事が立てつづけに起きたので、ゲッツ氏の文章をもってしても、単純明快な爆笑エッセイにすることはとてもできなかったのだ。

 8年の間に、「板谷バカ三代」の一角である「バアさん」(ゲッツ氏の祖母)が亡くなり、正編の重要キャラの一人「ブカのおじさん」(ゲッツ氏の父「ケンちゃん」の弟)が亡くなり、飼い犬の「スキッパー」が亡くなり……。
 しかも、当のゲッツ氏も脳内出血を起こして闘病生活を送り、最後には板谷家を支えてきたゲッツ氏のご母堂がガンで亡くなるのである。
 これでは、『板谷バカ三代』のような爆笑エッセイにしろというほうが無理な相談だろう。

 そんなわけで、今回の本はいままでにない「泣けるゲッツ板谷」となっている。
 前半には笑えるエッセイもあるのだが、後半になるほどだんだん切ない内容になっていき、お母さんの最後の日々が綴られる終盤は怒濤の泣き展開となる。いつものゲッツ板谷のエッセイに、リリー・フランキーの『東京タワー』のようなテイストがミックスされた感じ。

 8年前の『板谷バカ三代』は、ケンちゃんやセージたちに己のバカさ加減を思い知ってもらうために書いた。そして、今回の本は、オレがオフクロの死を乗り越えるために書いたのだ(「あとがき」)



 これは、正編『板谷バカ三代』を読んだ人だけが読むべき本だと思う。本書だけを単独で読んでも価値がわかりにくいからだ。逆に、『板谷バカ三代』に大笑いした人が読めば、泣けることまちがいなし。

 とはいえ、もちろん笑えるくだりも随所にある。セージ(ゲッツ氏の弟)の友人「ベッチョ」のナイスキャラが光る一節を引こう。

 (ベッチョが)TVに映っている石原都知事を見て、「この人って、家で鷹を飼ってるんスよね。……エサ、何やってんスかね?」などと真顔でオレに尋ねてくるのである。そう、“タカ派”をそのまま解釈してる、相変わらずのバカぶりなのだ。



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坂本龍一『音楽は自由にする』

音楽は自由にする音楽は自由にする
(2009/02/26)
坂本龍一

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 坂本龍一著『音楽は自由にする』(新潮社/1785円)読了。

 月刊誌『ENGINE(エンジン)』に連載されていた、坂本龍一の語りによる自伝。同誌の編集長が、坂本の幼年期から現在までを時系列順にインタビューしてまとめている(それにしても、なぜクルマの雑誌に「教授」の自伝が連載されたのかね?)。

 坂本の語りによる自伝といえば、1989年に刊行された『SELDOM-ILLEGAL/時には、違法』がある。本書は、あの本と比べてはるかにきちんとした自伝になっている。

 『SELDOM-ILLEGAL』は、くだけた口調で語られた、まとまりのない雑然とした内容だった。
 それに対し、本書は生真面目な印象の本で、「自分のこれまでの人生をきちんと記録しておこう」という坂本の意気込みが伝わってくる。「インタビュー中にはこのへんで笑いが入ったのだろうな」と思わせる箇所にも、「(笑)」は一切入っていない。『SELDOM-ILLEGAL』が「(笑)」だらけだったのとは対照的だ。脚注も豊富でていねい。

 前半では、中・高・大学時代の青春模様が面白い。
 坂本とほぼ同世代の四方田犬彦が読書体験を中心に高校時代の思い出を綴った『ハイスクール・ブッキッシュライフ』という本があったが、あれのキョージュ版という趣。1960年代から70年代にかけての時代の空気――とくに、東京の知的な若者たちの世界の空気――をヴィヴィッドに伝える。

 ドビュッシーにのめりこんで「自分はドビュッシーの生まれ変わりのような気がした」とまで思う様子(中学時代)とか、自民党の塩崎恭久(安倍晋三内閣の官房長官)と新宿高校時代の親友だったという話(塩崎のことは『SELDOM-ILLEGAL』にも出てくるが、あちらではSというイニシャル扱いになっていた)とか、武満徹との出会い(大学時代)とか……。さすがに坂本は文化的に華やかな青春を送っているなあ、と思う。

 YMO時代の話は、いちばんメディアで取り上げられた時期なので、すでにどこかで読んだり聞いたりした話が多い。それでも、取り上げる角度が違うから面白く読める。

 KYLYNバンドやカクトウギ・セッションの話、りりィのバイ・バイ・セッション・バンドにいたときの話などは、ただの一行も出てこない。YMO前後の坂本の豊富なセッション・ワークの舞台裏は、それ自体が優に1冊の本になり得るものだと思うので、このへんはちょっと残念。

 YMO時代だったと思うが、坂本が雑誌のインタビューで、「ミュージシャンとしてレコーディングに参加したなかでいちばん印象に残っているのは、矢沢永吉の『ゴールド・ラッシュ』だね。彼のやっている音楽はぼくとはまったく違うけれど、人を惹きつける強い魅力の持ち主だと感心した」という発言をしていた(細部はうろ覚えだが主旨はこのとおり)。
 そのように、セッション・ワークを通じて坂本の意外な一面が浮き彫りにできたはずなのだが……。

 また、10年以上にわたって生活を共にし、戸籍上は20年にわたって妻であった矢野顕子についての話も、ほとんど出てこない。現在のパートナー(空里香)に対する配慮からだと思うが、矢野ファンの私としてはこの点も残念。

 後半はソロアルバムそれぞれの舞台裏と、『ラスト・エンペラー』を筆頭とする映画音楽作りの舞台裏が中心。YMO再結成(1993年)当時のメンバー3人の仲はじつは険悪だった、という話など、興味深い裏話も多い。

 私がいちばん好きな坂本のソロアルバム『音楽図鑑』は、坂本自身も非常に力を入れて作ったものであることが改めてわかり、「やっぱりなあ」と思う。
 いっぽう、160万枚売れた大ヒット曲「エナジー・フロー」は「さらさらっと5分くらいで作った」曲だとわかり、これも「やっぱりなあ」と思う(笑)。

 本書で最もスリリングなのは、坂本にアカデミー作曲賞をもたらした『ラスト・エンペラー』の舞台裏を明かしたくだり。
 監督のベルナルド・ベルトルッチは、俳優として撮影に参加していた坂本に、突如「音楽も作ってくれ」と依頼してきたのだという。しかも、期限は1週間(!)。坂本は、それはさすがに無理だと2週間にしてもらい、徹夜つづきで44曲を完成させ、そのあげくに過労で入院する。ところが……。

 試写の日、完成した映画を観て、ぼくは椅子から転げ落ちるくらい驚きました。
 ぼくの音楽はすっかりズタズタにされて、入院するほどまでして作った44曲のうち、使われているのは半分くらいしかなかった。(中略)それぞれの曲が使われる場所もかなり変えられていたし、そもそも映画自体がずいぶん違うものになっていた。もう、怒りやら失望やら驚きやらで、心臓が止まるんじゃないかと思ったほどです。



 黒澤明もそうだが、巨匠と呼ばれる監督と一緒に映画を作るのはたいへんなことなのである。坂本はその後もベルトルッチ作品の音楽を手がけているから、この“ズタズタ事件”で決裂したわけではないのだが……。

 坂本ファン以外の人が読んで面白いものではないだろうが、ファンにとっては必読の書だ。

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小飼弾『小飼弾の「仕組み」進化論』

小飼弾の 「仕組み」進化論小飼弾の 「仕組み」進化論
(2009/03/19)
小飼 弾

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 小飼弾(こがい・だん)著『小飼弾の「仕組み」進化論』(日本実業出版社/1575円)読了。

 売れっ子プログラマーにしてアルファブロガーでもある著者が、プログラマーとしての知識と経験を援用して書いた「仕組み本」。プログラマーは仕組み作りのプロだから、その視点から仕組み本を書くという企画そのものが卓抜だ。

 「仕組み本」とは、最近数多く出版されている「仕組み仕事術」のたぐいのこと。
 著者は「まえがき」で、従来の「仕組み本」の内容は「なまぬるい」という。なぜなら、それらの本の主張は「仕組み化で効率を上げよう」ということに尽きるが、仕組み化の「負の側面」には目をつぶっているからだ、と。たとえば自動車は人やモノを速く遠くへ運ぶための仕組みだが、同時に大量の交通事故死者を生み出す仕組みでもあるのだ、と……。
 また、既成の「仕組み本」は仕組みのプラス面についての追求も甘い、と著者はいう。

 そこまで言うわりには、本書の内容も大したことないなあ、と感じてしまった。

 とくに、前半は退屈。
 たとえば、仕事の中の無駄なくり返しを「仕組み化」して効率を上げよ、と著者はいうのだが、それは「仕組み化」などというまでもなく、あたりまえの話ではないか。
 たとえば、“何度も同じ内容の文章を打つ必要があったら雛形として保存しておき、宛先などを入れ替えて使う”という程度のことは誰もが無意識にやっているわけで、「仕組み化」ってほどのことじゃないだろう。

 著者は、「仕組み作りが仕事になる」これからの時代には、「既存の仕組みを回す仕事を勤務時間の20%で終わらせ、80%を新しい仕組み作りに当てる」必要がある、と説く。
 だが、そんな芸当ができるのはよほど恵まれている人(著者のように)であって、勤め人かフリーランサーかを問わず、大部分の労働者にははなから無理な話だろう。
 いちおう本書には「仕事を20%の力でこなす仕組み」を作るコツも書かれているのだが、それらのコツもさして画期的なものには見えない。「勤務時間の20%」で仕事を終わらせるようになるとは、とても思えないのだ。

 いろいろケチをつけてしまったが、第5章「仕組みと生物」だけはよかった。
 この章は、“38億年かけて進化してきた生物という仕組みの中にこそ、仕組み作りの要諦がある”との主旨で、生物の仕組みの特長を仕事の仕組み作りに援用しようとする内容。実用性はともかく、読み物としてなかなか面白い。

 以下、この第5章から、印象に残った一節をメモ。

 生物の仕組みは驚くほど“非”効率的にできています。
 たとえば、1匹のマグロは卵を数万個以上産みますが、そのうち成魚になるのは0.1%以下と言われており、残りの卵はほとんど別の生き物(マグロを含む)のエサとなってしまいます。(中略)
 生物の凄みは、個体や細胞をいとも簡単に犠牲にして、仕組み自体を生き延びさせてきたことにあります。



 最適でなくても十分であればいい、というのが生物の基本戦略のひとつと言えます。

 このことは、必要以上に仕組みを最適化することへの警告とも取れるかもしれません。高度に最適化され過ぎた組織は、環境の変化に対して脆弱である可能性があるのです。



 国としての歴史の浅い米国に、なぜあれほどの知恵が集まっているのか。そのひとつの理由として、記録に対する米国人の考え方があるように思われます。米国人は、とにかくあらゆることを記録しようとするのです。



 それから、「これは重要な指摘だ」と感じたのは、「創発」(※)が生じやすいようにするには、最初から完成形を作ろうとするのではなく、仕掛品(しかかりひん=製造途中の製品)をたくさん作っておくことがたいせつだ、というくだり。

※組織等において、個々の部分が勝手に進化を遂げ、予測できない複雑な相互作用を生み出すこと

 自分の得意分野についてとことんまで突き詰め、あと1ピースが揃ったら完成するという状態にしておく。これが「仕掛品を作っておく」ことにほかなりません。

 科学技術におけるブレークスルーは、ほとんどこれで説明が付きます。



 これは、アイデアを生む極意としても使えそうだ。

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神蔵美子『たまもの』

たまものたまもの
(2002/04)
神蔵 美子

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 神蔵美子著『たまもの』(筑摩書房)読了。

 女流写真家の著者が、写真と文章を通して自らの不倫・三角関係を赤裸々に明かした一冊。いわば“写真による私小説”である。

 著者は、すでに人妻であったにもかかわらず評論家の坪内祐三と恋をし、結婚(坪内のほうも別の女性との結婚を目前にしていたのに、婚約を破棄して著者との不倫に突っ走った)。
 その後、坪内と結婚中に編集者の末井昭と恋をし、ふたたび離婚し末井と再婚。現在も末井の妻であり、末井のブログ「絶対毎日スエイ日記」にしばしば登場する。

 本書に描かれているのは、坪内との出会いと別れ、そして末井との出会いと結婚までのドラマである。当然、その間の三角関係もつぶさにたどられる。

 この本のことは、いまはなき『噂の眞相』で知った。
 坪内にまつわる文壇ゴシップ記事だったか、本そのものの紹介記事だったかは記憶があいまいだが、本書にも登場する「Kiss」と題された写真(著者がベッドの中で裸になり、末井昭とおぼしき人物とキスしているもの)がウワシンにも転載されていて、強烈な印象を受けた記憶がある。

 自分の泣き顔の写真を表紙に据えるあたり、肥大した自意識を眼前でむき出しにされるようで、ちょっとげんなり。「なんか、奔放すぎて手に負えない困った女だなあ」という印象を受けてしまう。

 本書にも、人妻でありながら「坪内祐三さんといっしょになりたい」と友人に告白し、その友人から「ズーズーし過ぎるよヨシコちゃん。素手で走ってる機関車停めようとしてるようなもんだよォ」とたしなめられるシーンがある。いや、まったくそのとおりである。

 それでも、一冊の本として見た場合、なかなか面白い。それは、喫茶店で隣席に座ったカップルが突然別れ話を始め、思わず聞き耳を立ててしまうような面白さではあるのだが……。

 末井昭が世の常識を軽々と乗り越える破格の人物であることは知っていたが、本書を読むと、坪内祐三という人も只者ではない。男としての度量の広さ(と、言ってよいものかどうか迷うけど)がマジパネェのだ。
 著者が「ある夜、『好きな人が出来たから家を出ようと思う。』と泣きながら坪内に言った」とき、彼は次のように答えたのだという。

「美子ちゃんはアーティストなんだから好きにすればいい」
「美子ちゃんが幸せでいてくれればいい」
「美子ちゃんと話したりすることが自分にとって重要。でもいま出ていかれちゃうよりは週に二日でいいから帰ってきて欲しい」


 
 ううむ、スゴイ。私が彼の立場だったらとてもそんなふうには言えない。「アーティスト」となんか結婚するもんじゃないなあ、と思う。

 やがて、坪内に新しい恋人ができる。本書には、その恋人と坪内のツーショット写真も掲載されている。すぐ隣のページの文章には、次のようにある。

 「写真は三角関係なんだよ。嫉妬とかそういうことが全部写っているのがいい写真なんだ。」と荒木(経惟/引用者補足)さんがバー「H」で言った時(二○○○年十二月五日)、ちょうどわたしはSさんと坪内の写っている写真をこの本の中にいれようかどうしようかと考えていたところだったので、心の中に手を入れられたみたいな気がした。荒木さんはこうも続けた、「嫉妬っていうのは才能なんだ。嫉妬の感情が大きければ、大きい程才能があるんだよ。」荒木さんはなんでも肯定的にみれるのだろうか。わたしが封印してきたのは「嫉妬」という感情だ。わたしには嫉妬は罠のようにおもえる。恐ろしい罠だ。



 どんな私小説よりも生々しい、大人の三角関係のドキュメンタリーである。

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松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生』

鎌倉新仏教の誕生―勧進・穢れ・破戒の中世 (講談社現代新書)鎌倉新仏教の誕生―勧進・穢れ・破戒の中世 (講談社現代新書)
(1995/10)
松尾 剛次



 松尾剛次(けんじ)著『鎌倉新仏教の誕生/勧進・穢れ・破戒の中世』(講談社現代新書)読了。

 先日読んだ『破戒と男色の仏教史』が面白かったので、同じ著者の旧著を読んでみた。
 鎌倉仏教の概説書というと、私は戸頃重基(ところ・しげもと)の『鎌倉佛教』(中公新書)を読んだことがある。が、本書とはまったくアプローチが異なるので、内容の重複はない。むしろ2冊を併読してこそ面白い。

 本書は、鎌倉新仏教の「新しさ」を、官僧(東大寺・延暦寺などに属する国家公務員的僧侶)と遁世僧(官僧の世界から離脱した僧侶)の違いから浮き彫りにしていく。
 というのも、鎌倉新仏教の担い手となった祖師たちの多くが遁世僧であり、彼らは「官僧の世界の在り方に不満を持ち、官僧の特権と制約から離脱して、新しい教えをひらいた」存在だからである。

 現代の私たちにとっては遠すぎて理解しにくい鎌倉時代の仏教界のありようを、本書はいきいきと描き出していく。目からウロコの知見満載だ。

 たとえば、僧侶が葬儀に従事するのはあたりまえだと我々は考えがちだが、中世において、官僧たちは葬儀にたずさわらなかったのだという。

 この時代、葬式にしろ、非人救済、女人救済にしろ、組織として取り組んだのは遁世僧の方であり、他方の官僧の方は、組織として取り組まなかったのである。その背景には、実は官僧が天皇に仕える僧として穢れを忌避せざるをえなかった、ということがある。



 官僧たちがどれくらい「死穢」を恐れたかというと……。

 死穢を恐れるあまりに、死にかけた貧しく孤独な僧侶や非血縁の使用人は、寺外あるいは邸外に連れ出され、ひどい場合には道端や河原などに遺棄されたのである。



 ひどいものだ。「む、行き倒れか。拙僧が読経してしんぜよう」という、時代劇に登場する慈悲深い僧侶とはえらい違いである。

 むしろ、官僧や神主、貴族たちからは、遁世僧たちもまた「穢れた存在とみなされ」たという。「死穢」などの穢れを恐れず民衆救済を行なったからである。
 現代では「葬式仏教」は仏教の衰退を揶揄する言葉となっているが、鎌倉新仏教の祖師たちが民衆の葬儀に手を差し伸べたことは、じつは画期的・革命的だったのである。
 中世どころか、「東大寺、延暦寺といった官僧の伝統を引く寺院が葬送に従事しはじめたのは、実に第二次世界大戦後のこと」なのだという。

 著者は、官僧たちが「穢れた存在」と見なした非人、女人の救済に遁世僧たちが大きな役割を果たしたことを、それぞれ一章を割いて検証していく(非人とは、ここではハンセン氏病患者や身体障害者を核とした被差別者のことを指す)。

 ようするに遁世僧たちは、悩める「個人」に直接救済の手を差し伸べていたのに対して、官僧は、鎮護国家の祈祷を主任務としていた。(中略)
 彼等(遁世僧)は、官僧たちが救済活動を行なうとすれば、たえず問題となり制約となった穢れのタブーから「自由」となりえた。



 官僧たちにとって仏教がまず「国家のため」にあったのに対し、鎌倉新仏教の担い手たちは、自らも虐げられた民衆の側に立ち、民衆の海に飛び込んで救済活動に取り組んだのである。
 釈尊の生涯に照らせば、どちらが仏教本来のありようであるかはおのずと明らかだろう。

 もっとも、「鎌倉幕府も、独自の祈祷集団を編成する必要もあって、戒律を重視する遁世僧たちを大いに保護した」ため、「鎌倉後期には禅僧・律僧の上層部は幕府の『官僧』化」していき、しだいに民衆から遊離していくのだが……。

 「官僧」対「遁世僧」という独自の視座から鎌倉新仏教の特長を読み解き、示唆に富む一冊。


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浜野喬士『エコ・テロリズム』

エコ・テロリズム―過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ (新書y)エコ・テロリズム―過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ (新書y)
(2009/03/06)
浜野 喬士

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 浜野喬士著『エコ・テロリズム/過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ』(洋泉社新書y/798円)読了。

 書店で本書を見たとき、一瞬『エロ・テロリズム』に見えてしまった(笑)。それじゃあインリン・オブ・ジョイトイである。


愛のエロテロリズム愛のエロテロリズム
(2008/06)
インリンオブジョイトイ

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 著者は1977年生まれと若く、いまはまだ早稲田の大学院生(博士後期課程在籍)。
 というと、「博士論文そのまんまみたいな、生硬で青臭い本なのでは?」と心配する向きもあろうが、読んでみるとまったくそんなことはない。デビュー作とは思えないほど文章がこなれていて、論文にもかかわらず一般書として通用する平明かつ明晰な内容となっている。今後、どんどん著書を出していけるだけの力量の持ち主だと思う。

 「エコ・テロリズム」とは、「放火や爆弾、器物損壊といった暴力行為を伴う過激な環境保護・動物愛護(解放)運動を指す概念」である。

 こうした暴力事件は欧米においては近年続発しており、大きな社会問題となっている。大学の研究所やリゾート施設に対する放火、動物実験関連企業のスタッフに対する襲撃事件などはもはや何ら珍しいものではない。



 我が国でも、米国に本部を置く環境保護団体(ただし、FBIはテロ団体と認識)「シー・シェパード」による日本の調査捕鯨船襲撃事件が大々的に報道されたことで、「エコ・テロリズム」への関心が一気に高まった。

 本書は、エコ・テロリズムについての的確な概説書である。シー・シェパードを筆頭とする過激な環境保護・動物愛護運動について、その歴史が前史も含めて手際よくたどられている。
 とともに、後半では、エコ・テロリズムの思想史的背景について踏み込んで考察している。著者の専門はドイツ近現代哲学、とくにカントだそうだから、むしろ後半部分にこそ著者の真骨頂がある。

 シー・シェパードの度はずれた暴力性は、他のラディカル環境団体と比べても突出している。しかし重要なのは、この暴力性を道徳的に非難するより、その「内在論理」を見極めることである。



 エコ・テロリズムの「内在論理」とは何か? 著者はそれを、「『アメリカ』という問題」の中に見出す。

 アメリカ史の中で、自由と権利の拡大は「しばしば法の枠を踏み越え、場合によっては暴力さえ伴った」。「法の遵守ではなく、法の踏みこえこそが、アメリカ史を画するいくつかの重要局面において、決定的な役割を果たしてきた」のだ。

 こうした歴史を背景に、ラディカル環境保護・動物解放運動のメンバーは次のように考える。「自然の権利」や「動物の権利」といった概念が、現在という時点においていかに訝しく思われようとも、それは問題とならない。なぜならかつて「黒人の権利」、「女性の権利」もそうした疑念に晒されていたのだから。また「自然の権利」や「動物の権利」を確立しようとする運動が、非合法な要素を含もうとも、これまた問題とならない。なぜなら一九世紀のアメリカにおいて逃亡した南部の奴隷を匿って北部へ逃すことも、奴隷所有者の財産権侵害という非合法行為だったのだから。



 ……と、このように、「エコ・テロリズム」論がやがてアメリカ論として展開されていくあたり、すこぶるスリリングである。

 冒頭の「はじめに」が、たいへん素晴らしい。本書全体のエッセンスが見事に凝縮されており、独立した価値をもつ論説になっている。9ページほどの短いものなので、一冊通読するヒマがない人は「はじめに」だけでも読むとよい。

 ところで、本書で初めて知ったのだけれど、プリテンダーズのクリッシー・ハインドは「エコ・テロリスト」の1人なのだね。「ニューヨークの『GAP』の店舗で、レザー商品を売り物にならないようメチャメチャにし、逮捕された」こともあるとか。ちょっとビックリ。てゆーか、私ゃドン引きです。


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『バーン・アフター・リーディング』

バーン・アフター・リーディング (ブラッド・ピット、ジョージ・クルーニー 出演) [DVD]バーン・アフター・リーディング (ブラッド・ピット、ジョージ・クルーニー 出演) [DVD]





 立川シネマシティで『バーン・アフター・リーディング』を観た。私のお気に入り、コーエン兄弟(監督作品はすべて観ている)の最新作。

 公式サイト→ http://burn.gyao.jp/

 周知のとおり、コーエン兄弟の作品には、シニカルでオフビートなコメディと、犯罪がらみのシリアスなサスペンスの2系統がある。カンヌ・グランプリやアカデミー賞を得るなど評価が高いのはシリアス路線の作品(『ファーゴ』『バートン・フィンク』『ノーカントリー』など)だが、私はコメディ作品のほうを偏愛している。

 今回の『バーン・アフター・リーディング』は「スパイ映画をパロったおバカなコメディ」だと聞いていたので、大いに期待して観た。
 そういえば、イアン・フレミングの短編に『読後焼却すべし』というのがあったなあ(007シリーズの1作『ユア・アイズ・オンリー』の原作に使用されている)。もっとも、この映画はフレミング作品とは無関係だけど。

 期待したのだが、うーん……。イマイチ。コーエン兄弟のコメディ作品でいちばんつまらない。

 私は、コーエン兄弟のコメディでは『赤ちゃん泥棒』がいちばん好きで、2番目に好きなのが『オー・ブラザー!』、3番目が『未来は今』である。
 この『バーン・アフター・リーディング』は、『赤ちゃん泥棒』『オー・ブラザー!』『未来は今』には遠く及ばないし、『ディボース・ショウ』や『ビッグ・リボウスキ』『レディ・キラーズ』にも負けている。
 笑えないことはないのだが、爆笑にならない。観客をニヤッとさせるシニカルな笑いのみで成り立っている感じなのだ。映画としてすごく小粒。「通好みのスノッブな小品」という趣だ。
 
 ウィキペディアから、あらすじをコピペ。

 アルコール依存症が原因でCIAを解雇されたアナリストのオズボーン・コックス。彼は失職後にCIAでの出来事を綴った回顧録の執筆を開始するが、ひょんなことからそのデータが入ったディスクをスポーツジムの職員であるチャド・フェルドハイマーとリンダ・リツキが手に入れる。
 チャドとリンダは回顧録をCIAの機密情報と思い込み、オズボーンからディスクと引き換えに金をゆすり取ろうとする。しかし短気なオズボーンとの交渉は失敗に終わり、リンダはディスクをロシア大使館に持ち込む。(後略)



 うーん、すごく面白くなりそうな話なのになあ。

 よく似た骨子の物語として、ジョン・ル・カレのスパイ小説『パナマの仕立屋』を映画化した『テイラー・オブ・パナマ』が挙げられる。
 『テイラー・オブ・パナマ』は、主人公のスパイがウソの情報を積み重ねてデッチ上げた「国際的謀略」(=パナマ運河を他国に金で売り飛ばす計画が水面下で進行している、というもの)が、やがてひとり歩きを始めてほんとうに米軍を動かしてしまう、という壮大なホラ話であった。
 いっぽうこちらは、一般人がただの回顧録の下書きを機密情報と思い込んだことが発端となり、周囲を大混乱に巻き込んでいくというホラ話。ベクトルは逆だが、アイデアが似通っている。

■関連エントリ→ 『テイラー・オブ・パナマ』レビュー

 いかにもスパイ・サスペンス風の重々しい音楽が多用されたり、古いスパイ映画を真似た演出が頻出したり……。表層だけシリアスな雰囲気のなかで、登場人物たちが次々とおバカな行動をくり広げる。そのギャップがおかしい。

 特筆すべきは、バカ揃いの登場人物の中でも飛びきりのバカを演じるブラッド・ピットの、メーター振り切った感じのバカ演技。そして、それと拮抗するのが、「コーエン組」フランシス・マクドーマンドの、これまた強烈なバカ女演技。この2人が映画をさらっている。
 ほかにもジョージ・クルーニーやジョン・マルコヴィッチという大物が出てくるのだが、ピット&マクドーマンドのハイテンション演技の前に、すっかりかすんでしまった印象。

 ブラッド・ピットの突き抜けたバカっぷりを堪能したい方は、ぜひ映画館に……。ただし、くどいようだが映画としてはイマイチである。

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森田ゆり『子どもへの性的虐待』

子どもへの性的虐待 (岩波新書)子どもへの性的虐待 (岩波新書)
(2008/10)
森田 ゆり

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 森田ゆり著『子どもへの性的虐待』(岩波新書/777円)読了。

 著者は、1980年初頭から日本とアメリカで子ども・女性への暴力防止専門職の養成に携わり、現在は日本で虐待や人権問題全般に携わる専門職研修を全国で行っている。子どもへの性的虐待について、その実態を誰よりもくわしく知り、虐待防止と被害者救済に尽力してきた人なのだ。

 本書は、著者の長年の経験と研鑽をふまえて書かれた、子どもへの性的虐待問題の優れた概説書である。テーマがテーマだけにヘビーな内容だが、この問題について知りたい人が一冊目に読むべき本になっている。

 とかくベールに隠されがちな被害の実態について、著者は実例や豊富なデータを通じて傾向性を明らかにしていく。
 その過程で、我々が抱きがちな先入見が次々と突き崩される。たとえば、第5章は「男子への性的虐待」と題されている。女子に比べれば少ないものの、男子への性的虐待はけっして例外的ではなく、よくあることなのだ。

 また、加害者が社会不適応者であるともかぎらないという。

 多くの性的虐待は子どもの生活の場、家庭や学校や塾や習い事や知人宅の場で起きている。加害者は親、親戚、教師、コーチ、友人など子どもが知っている人であることが多い。加害者の多くは、良識があり、仕事に就いており、まっとうな市民であり、ごく普通の男性である。しかしただ一つ異常なのは、子どもに性的行為をひそかに強いる人たちなのである。



 米国のミーガン法(性犯罪者の個人情報の公開制度)が必ずしも再犯防止に結びついておらず、むしろ再犯率を上昇させてしまう恐れがある、との指摘も興味深い。

 性犯罪者の更正を妨げる最大の条件は、孤立とストレスである。ミーガン法施行の影響で、住居や職業を奪われ、生活の基盤を失った者たちは、孤立とストレスという再犯の条件をそなえることになった。
 排除と隔離は性犯罪の効果的な対処策ではない。DVであれ、虐待であれ、あらゆる暴力加害者の更正回復が効果を発揮するのは、家族や地域の支援の中で行なわれるときである。



 では、日本で子どもへの性的虐待を防止するためには、どのような改革が必要なのか? 著者は、その処方箋をさまざまな角度から提示する。
 その一つが、児童相談所とは別に、性的虐待に対応するための専門機関を設置すること。「性的虐待は、身体的虐待やネグレクトよりさらに介入に困難が伴う虐待であるために、児童相談所がその役割を集中的に担う今までの制度では対応しきれない」からである。

 本書を読むと、子どもへの性的虐待に対する日本の公的な対策が、いかに遅れているかがよくわかる。たとえば――。

 今日の日本の制度の中では、性的虐待が起きていることがわかっていても対応できないことがしばしばである。特に加害者が保護者の場合、加害者に退去命令を出すことができず、たいていの場合逮捕することもできず、子どもが家を出されなければならない法制度の矛盾がある。学校や友人から離れて、知らない場所で暮らすことは、子どもにとって大きなストレスになる。性的虐待を受けた子どもには一人になるスペースが必要だが、一時保護所でも、児童養護施設でも個室がないところがほとんどである。



 その他、被害者たちはどのように苦しんでいるのか、またどのように被害を乗り越え心の平安を取り戻すのかなど、問題の全体像がさまざまな角度から素描される。

 性的虐待は、子どもにとって「自分の心と身体が他者によってコントロールされてしまった出来事」だから、被害者に無力感をもたらす、と著者は言う。そしてその無力感は、放置しておくと、被害者を2つの方向へ導くという。一つは「自分を痛め傷つける暴力行動」(自傷行為、自殺未遂、拒食や過食など)であり、もう一つは「自分の意のままになる相手」(動物や自分より年少の子ども、優しい大人など)への暴力行動である。

 被害者は他者に暴力を振るうことで相手をコントロールする体験を得る。自分がコントロールされたことで奪われた力を、今度は自分が誰かをコントロールすることで取り戻そうとするのである。



 さらには、性的虐待が疑われる事態に直面したとき、どのように相手の子どもに接したらよいのか、というケーススタディまで書かれている。じつに懇切丁寧な概説書である。

 そして、本書を読んで何より慄然とさせられるのは、データから浮き彫りにされる加害者たちの実像だ。ぞっとするような記述を2つ引こう。

 ペドファイルに共通することは、彼らの大半が男性であり、その五~六割が性的虐待行為を一○代で始めていることである。彼らは、子どもに簡単にアクセスできるような職業や活動を選ぶこともあり、子どもの関心を引く話術に長けている。



 カウンセラーやセラピスト、精神科医からの(児童虐待サバイバーに対する/引用者補足)性的加害は決して珍しい出来事ではない。女性だけでなく、男性も被害を受けている。患者は、心身が弱っている状態の自分の内面をあらいざらいさらけ出すという弱い立場で医者やカウンセラーと密室にいる。①力関係の大きな違い、②心理的に裸になって治療者の前にいる状態、③誰も見ていない二人だけの時空間。この三条件は、性的加害者にとっては理想的な環境である。



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松尾剛次『破戒と男色の仏教史』

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)
(2008/11/15)
松尾 剛次

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 松尾剛次著『破戒と男色の仏教史』(平凡社新書/756円)読了。

 中世仏教史を専門とする著者(山形大学教授)が、日本の仏教史を僧侶たちの「破戒と男色」をカギにとらえ直した一冊。
 古代の仏教受容から説き起こされ、終章では近世以降の状況にも言及されるが、中心となるのは著者の専門である中世だ。

 本書によれば、中世の「官僧」(公務員的僧侶=東大寺、延暦寺などに所属した国家公認の僧侶)の世界では、男色は「一般的」――つまりあたりまえのことだったのだという(!)。

 仏教では戒律によって出家者の「不淫(性交をしないこと)」が定められているから、僧侶の男色は「破戒」である。にもかかわらず、女人のいない寺院という閉鎖空間で、「童子」または「稚児」と呼ばれる僧に仕える男子が、おもに男色の相手となった。
 男色は、「上級僧のみならず、中・下級僧にまで蔓延し、一般化していた」。著者は、男色は「『官僧集団』の文化であった」という。

 本書がとくに光を当てるのは、東大寺の別当となり、官僧たちの頂点にのぼりつめた宗性(そうしょう)。この宗性が日常的に男色にふけっていたことを示す史料が、こと細かに紹介される。
 その中には、宗性が書いた「これまでに95人と男色を行なってきたが、なんとか100人までで打ち止めとしたい」という意味の誓文があり、仰天させられる。
 95人という人数(著者は、相手には稚児だけでなく先輩・後輩僧侶も含まれるだろう、と推察している)もスゴイが、「今後はけっしてしない」という誓いではなく、「あと5人くらいでやめたい」という消極的誓いである点もスゴイ。

 この宗性だけが特別なのではない。
 たとえば、僧侶の間で稚児の奪い合いなども頻発したという。また、「官僧の世界では、男色のみならず、女犯(女性との性交)も一般化し」ていたし、飲酒や肉食などの破戒も頻繁に起こっていたという。

 そのような官僧の腐敗堕落(※)に対して、「仏教本来のありように戻れ」という戒律復興運動もしばしば起こった。本書は、そのうちとくに叡尊による復興運動にスポットを当てている。
 しかし、また年月が経つと破戒僧が一般化し……と、そのように破戒と持戒の狭間を揺れ動いてきたのが日本仏教史なのだと、著者は言う。

※私自身にはホモセクシュアルに対する偏見はないし、現代日本の僧侶の妻帯・飲酒・肉食それ自体が「腐敗堕落」だとは思わない。念のため。

 題材にインパクトがあるためキワモノ本だと勘違いする向きもあろうが、読んでみればごく真面目な研究書である。
 著者の問題意識は、官僧社会の「破戒と男色」を、鎌倉新仏教成立の背景要因の一つとしてとらえることにある。

 鎌倉仏教の立役者たちが出家して「官僧」の世界に入ったとき、そこはすでに男色と破戒が横行する「俗界」と化していた。だからこそ、彼らはそこから出なければならなかった(そのような官僧からの離脱のことを「二重出家」と呼ぶそうだ)。

 官僧身分からの離脱は、当時の史料では「遁世」とか「隠遁」と表現されています。遁世とは、本来、出家を意味し、古代においては、興福寺、東大寺、延暦寺などに入ることを意味しました。しかしここでは、興福寺から離脱し、笠置寺で禁欲の仏道修行を行なうことが、遁世(隠遁)と表現されているのです。(中略)
 法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らも官僧の世界(延暦寺)から離脱しました。このように、鎌倉新仏教初期の祖師たちのほとんどは、遁世僧であった点に注意を喚起したいのです。(中略)
 遁世とか隠遁というと、ともすれば世をはかなんで、ひっそりと生きることをイメージされがちですが、鎌倉新仏教の僧侶たちにとっての「遁世」とは、新しい救済活動の原点となるものであった点に注目する必要があります。



 目からウロコの知見がちりばめられた一冊。著者の『鎌倉新仏教の誕生』も読んでみよう。

 本書を読んで「へーっ」と思った“豆知識”を、メモしておく。

■memo1
 「戒律」は、本来「戒」と「律」という別個の概念であった。「戒」は「自分を律する内面的な道徳規範」のことで、「律」は「教団で守るべき集団規則」をいう。しかし、日本では「それらを一括して『戒律』とし、釈迦が定めた僧侶集団の規則の意味で使われてい」る。

■memo2
 ユダヤ教の戒律は、神が「するな」と命じる「禁止命令」と、「せよ」と命じる「当為命令」に二分される。そのうち「禁止命令」は、毎日の行いにかかわるから一年365日に当たる365戒となっている。「当為命令」は人間の体を動かして行なうものだから、人体の骨肉の数に当たる248戒となっている。 

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須田慎一郎『下流喰い』

下流喰い―消費者金融の実態 (ちくま新書)下流喰い―消費者金融の実態 (ちくま新書)
(2006/09)
須田 慎一郎

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 須田慎一郎著『下流喰い/消費者金融の実態』(ちくま新書/735円)読了。

 金融ジャーナリストの著者が、消費者金融をめぐる現状と問題点について、丹念な取材に基づき検証したノンフィクション。3年近く前に出た本なので、消費者金融をめぐる状況は大幅に変わっているが、それでも読む価値は十分あった。

 「下流喰い」というタイトルが言い得て妙だ。
 消費者金融は、低収入でかつかつの生活をしている層にこそ狙いを定める。しかも、獲物がやってくるのをただ待つのではなく、あの手この手で融資を増やし、新たな多重債務者を“生産”していくのだ。消費者金融もまた、巨大な「貧困ビジネス」なのである。

 本書でとくに槍玉に上げられているのは、アイフル。同社の強引な営業・取り立てが社会問題化したことは私も知っていたが、本書を読むと聞きしにまさる悪質さである。ほとんど闇金と地続きという印象を受ける。たとえば――。

 返済不可能な多重債務者に、さらに増枠させて貸付けを行なう――それを可能にしたのが、アイフルの「おまとめローン」である。
 アイフルは多重債務者に対し、他社からの借入れをまず一本化するように働きかけ、一括返済を名目にした同ローンを勧めてきた。
 これは親族や知人などの不動産を担保にさせる新手の不動産担保ローンで、いずれ返済が滞るのを見越したうえでさらに三○○万円から五○○万円の貸付けをする商品だ。(中略)明らかな過剰融資のうえ、最初からその担保自体を収奪せんがための大がかりな仕掛けといっても過言ではないのだ。



 著者は、多重債務者や消費者金融の元社員など、さまざまな立場の当事者の声を拾い集め、「下流喰い」の実態に生々しく迫っていく。
 と同時に、消費者金融業界の歴史、闇金と銀行という“両側の隣接業界”との関係、海外の消費者金融事情などを手際よく紹介し、読者に問題の鳥瞰図も提示する。マクロとミクロ両方の視点をバランスよく兼ね備えているのだ。

 読みごたえのある本だが、一つ気になったのは、多重債務者側の責任をまったく不問に付している点。
 母子家庭で生活苦から消費者金融に手を出した主婦など、同情すべき事例もあるいっぽう、とても同情できない債務者も多い。
 飲み代などの遊興費で多重債務者となったサラリーマンとか、ホスト狂いが昂じて多重債務者となったあげく風俗業者に「売られた」女とか、自業自得としか言いようがない。いくら消費者金融が言葉巧みに煽ったとはいえ、借りるほうも借りるほうだ。

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「東京マガジンバンク」

TOKYO図書館日和TOKYO図書館日和
(2007/05)
冨澤 良子

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 1日にオープンした「東京マガジンバンク」に行ってみた。我が家のすぐ近所(徒歩3分)にある都立多摩図書館に併設された雑誌専門図書館である。
 

 東京都立多摩図書館(立川市)が国内外の雑誌を集めた「東京マガジンバンク」を併設して1日、新装オープンした。雑誌の蔵書は約1万種類だが、今秋には約1万6000種類、120万冊まで増やす計画。国立国会図書館を除けば、大宅壮一文庫(東京都世田谷区、約1万種類70万冊)を上回り、国内最大の雑誌図書館になるという。
 雑誌の貸し出しはしないが、誰でも無料で閲覧でき、有料でコピーも可能。常に約600誌の最新号と1年分のバックナンバーを展示しており、館内のパソコンで、記事検索もできる。
 「平凡パンチ」や「朝日ジャーナル」など昭和を代表する雑誌や海外の雑誌、古書店で数万円の価格という明治時代の雑誌なども閲覧できる。(「共同通信」5月1日配信記事より)



■参考URL→ 「多摩図書館リニューアルオープンについて」(都立多摩図書館のサイトから。東京マガジンバンクとしての公式サイトはまだないようだ)

 3つしかない都立図書館の1つである多摩図書館は、もともと所蔵雑誌・新聞の豊富さが「売り」であった。雑誌約6000誌、新聞約600紙が閲覧・コピーできたのだ。
 ライターの私には、雑誌が充実した図書館が近所にあることはまことにありがたい。てゆーか、そもそも「多摩図書館があるからこそ同じ町内に居を構えた」という面もあるのだ。
 なので、雑誌に特化した専門図書館へのリニューアルは大歓迎である。

 大量の一般図書が撤去されてしまった(他の都立図書館に移したのかな?)のは残念だが、都立中央図書館にしかない蔵書は市立図書館を通じて協力貸し出しを受けられるから、マイナスはあまりない。雑誌充実のメリットのほうがはるかに大きいのだ。

 今回初めて行ってみた「東京マガジンバンク」だが、調べ物にはかなり「使える」。

 雑誌は大半が閉架だが、資料請求をすればすぐ何年分かをまとめて閲覧することもできるし、最新号以外はコピーもできる。
 ライター・編集者にとっては、「コピー代の安い大宅文庫」みたいなものである(大宅文庫にとっては強力なライバル出現だ。「存続の危機」ですらあるかも)。

 開架部分には約320誌(※)の最新号と1年分のバックナンバーが並べられていて、自由に閲覧できる。一般の市区立図書館にはまず置かれていないマニアックな雑誌もあるし(たとえば、ロック雑誌でいうと『ストレンジ・デイズ』まである)、地方誌もあれば代表的な英文雑誌もある。

 ※案内リーフレットに書いてあった数字。上に引用した記事では600誌となっているが……。

 館内中央部には背の高い書架が一つもなく、腰あたりまでの低い書架に雑誌が並べられているので、全体が見渡せて開放感がある。
 目的をもった調べ物に使うのみならず、いろんな雑誌を「サーフィン」してアイデア探し、ネタ探しするにもいい感じ。

 パソコン環境も充実していて、「マガジンプラス(雑誌記事データベース)」、「日経テレコン21」「ジャパンナレッジ」等の有料オンラインデータベースが無料で使える。自分のノートパソコンを持ち込んで使える席もある(無線LAN利用可能)。
 
 「R25」などの各種フリーマガジンの最新号が集められた小さなコーナーもあって、ここにかぎっては持ち帰り可。
 個人的には、このコーナーをもっと充実させてほしい。「あらゆるフリーマガジンがまとめて手に入る場所」みたいな感じに。そうすれば、「東京マガジンバンク」にとっても大きなセールスポイントになると思う。

 雑誌を中心とした企画展を随時行なう「展示エリア」というのもあるが、ここはいらない気がする。展示に力を入れるより、以前に比べ大幅に減ってしまった新聞の所蔵を増やしてほしい。

 ……などと、ライターの都合で勝手なことを言っているわけだが、総じてすごくよいリニューアルなのではないか。私は、近所の強みで通いつめることになると思う。
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『新書大賞2009』

新書大賞〈2009〉新書大賞〈2009〉
(2009/03)
中央公論編集部

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 中央公論編集部・編『新書大賞2009』(中央公論新社/609円)読了。

 「新書大賞」というのは昨年から『中央公論』誌上で発表されているもので、ムック化されたのは今年から。
 2008年に発刊された新書約1500点の中から、新書に造詣の深い書店員と各社の新書編集者が、順不同で5冊(編集者の場合は自社作品除く)を選び、投票。大賞を含む46点が選出され、それぞれに短いレビューが付されている。

 その他、評論家などがジャンルごとに「おすすめ3冊」を選ぶコーナー(これは書評として読みごたえあり)や、宮崎哲弥と永江朗の対談、松田哲夫による「腰巻」(=帯)ベスト10などの企画ぺージがある。

 要するに、宝島社の『このミステリーがすごい!』の新書版という感じだ。
 新書ブームがつづくなか、この手の本はどこかが出すだろうと思ってはいたが、中央公論から出たのはちょっと意外。中公は新書の老舗でもあるから、新書ガイドを出して他社の新書をオススメすることは、ある意味「利敵行為」だからである。
 かといって、中公新書ばかり選ぶわけにもいかないだろうし……。

 じっさい、この2009年版を見ても、「新書大賞」に選ばれたのは岩波新書の『ルポ 貧困大国アメリカ』(堤未果)だし、「レーベル大賞」(=獲得票数の総計が最多の新書)に選ばれたのは光文社新書だし、中公新書がとくに目立つセレクトではない。

 むしろ、中公新書が目立たなすぎて逆に心配になるくらいだ。ナベ○ネあたりが、「あの新書大賞ってえのはいったいなんだ! 他社の新書ばかり持ち上げて、バカじゃないか!」とか言い出してつぶしてしまうのではないかと……。

 で、本書のムックとしての内容だが、「けっこういいな」というのが私の感想。新書1冊分に満たないお手頃価格だし、内容もわりとよくまとまっているし。

 私の場合、選ばれた46冊のうち、現時点ですでに読んでいるのは6冊のみ。なので、まだ見ぬ良き新書に出合うためのブックガイドとしては十分元が取れた感じ。
 売れ行きがよければ今後毎年刊行されるのだろうが、私は毎年買うと思う。

 ただ、『このミス』を意識したためか、本のサイズがA5判なのは「?」。ここはやはり新書サイズにしてほしかった。

 あと、難点を挙げるとすれば、よい新書をホメるベクトル一辺倒になってしまっていること。「本年のワースト10新書」を選んでメッタ斬りにする覆面座談会とか、辛口の視点が少しはあってもよかったと思う。
 まあ、新書の版元が出すムックだから、「他社の新書を批判するのは仁義にもとる」と考えたのだろうけど……。

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前原政之 
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前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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