夏休み最後の日

野蛮人のように 野蛮人のように
柴田恭兵、薬師丸ひろ子 他 (2005/07/21)
東映

この商品の詳細を見る

  8月31日といえば、いうまでもなく「夏休み最後の日」である。
 我が家の2人の子どもも明日から学校だ。

 上の子はもう中学生なので、塾の「夏期講習」に毎日通ってクタクタになっている。

 下は小3なので、まだゆったりとしたもの。
 8月も半ばをすぎても宿題がほとんど進んでいなかったので、シビレを切らして私が「スケジュール」を決めてやった。1日にこなす宿題の分量を決めて、「これだけやったらあとは遊んでいいから」というふうにしたのである。そうやったら心理的にかなり楽になったようで、どうにか今日で無事に終わりそうだ。

 工作だけは私が手伝ってやった。いつも寄稿している雑誌の今月号に「夏の思い出パウチ」なるハンドメイドのアイデアが載っていたので、それを作った。

 思えば、私自身も子どものころには、8月も末になってから半ベソかいて宿題をやったものだ。毎年、「今年こそ7月中に全部宿題を終わらせて、8月は目いっぱい遊ぼう」とか思って計画を立てるのだが、いつも計画倒れになるのであった。

 てゆーか、「7月中に宿題を終わらせる」なんて芸当がホントにできる小学生がいたら、そいつは絶対イヤなガキだ(笑)。8月末には宿題に追われて半ベソかくのが、「正しい子どものあり方」というものである。

 8月31日になると思い出すのが、川島透監督の映画『野蛮人のように』(なぜか評価が低いけれど、往年の日活アクションを思わせるシャレっ気に満ちたサスペンス・アクションで、私は好きだ)。

 この映画のクライマックスに、次のような印象的なやりとりが出てくるのである(うろ覚えなので細部は違うかも)。

薬師丸ひろ子「私、今日(8月31日)誕生日なの。この誕生日キライだった。だって、夏休み最後の日だから、誰もお祝いに来てくれないんだもん」 
柴田恭兵「……オレ、知らねえ」
薬師丸「え?」
柴田「自分の誕生日知らねえんだ。捨て子だったから」
薬師丸「……」
柴田「女って誕生日知りたがるじゃん。だから、女に聞かれるたびに適当な日を誕生日にしてた。…けど、どの日もしっくりこなくってよう」


(そういえば、川島透って最近映画を作っていないようだけど、いま何やってるのだろう? プチ「ゴジ状態」?)

 で、毎年8月末には宿題でヒイヒイ言っていた私は、大人になってもシメキリぎりぎりまで原稿を書かず、いつもヒイヒイ言っているのである。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。

 ユーミンの曲にあったな。「大人になったら宿題は なくなるものだと思ってた/行かないで夏休み」と…。
関連記事

矢野顕子『LOVE LIFE』

LOVE LIFELOVE LIFE
(1991/10/25)
矢野顕子

商品詳細を見る

 昨日のエントリを書くにあたって矢野顕子のアルバムをいくつか聴き直したのだが、1991年の名盤『LOVE LIFE』を久しぶりに聴いてみて、ちょっとビックリ。

 このアルバム全体が、「自分のもとから去っていく坂本龍一に向けたトーチ・ソング(失恋や片思いの哀しみを表現した歌)」で構成されていたのである(!)。ずっと愛聴してきたのに、いまごろそのことに気づいた。


 アルバム終盤の2曲、「愛はたくさん」と「LOVE LIFE」が「そういう曲」であることは、ファンの間では周知のことであった。

どんなに離れていても
愛することはできる(「LOVE LIFE」)



 とか、

泣きたい 今はただ 泣きたい
やがて すべて 忘れられる日まで
はなれてても 歌をうたいつづけているからね(「愛はたくさん」)



 などというストレートな「トーチ・ソング」になっていたから。
 
 だが、この2曲だけではなかった。ほかの曲も、歌詞をよく読んでみれば“隠れトーチ・ソング”になっているのである。たとえば――。

ほうきで掃き出す 家中のかなしみを(「BAKABON」)
     *
釣れるのは あなたの切れ端
抱き寄せて 連れて帰る
(中略)
ひとりだけでも 釣りに来れるようになった(「ANGLER’S SUMMER」)



 アルバム中最もアップテンポで、表面上は楽しさに満ちた「湖のふもとでねこと暮らしている」さえ、歌詞の中の「あなた」を坂本龍一と考えれば、じつはトーチ・ソングであることがわかる。

あの山のふもとで 犬と暮らしてるあなた
いつか犬と二人で 帰らぬ旅に出ても
わたしきっと あなたを きっと好きでいるから(「湖のふもとでねこと暮らしている」)



 「犬」とは坂本の愛人で、「わたし」と暮らしている「ねこ」とは少女時代の坂本美雨(坂本との間に生まれた長女。現・歌手)のことであろうか。
 そう考えると、この歌の牧歌的な楽しさの底に秘められた矢野顕子の哀しみに、胸をつかれる思いがする。

 また、名曲「いいこ いいこ(GOOD GIRL)」の次のような歌詞(これは糸井重里作詞だけど)。

たまにね ほんとに たまにね
おかあさんも なでられたい
ついでみたいに ささっとだけでも
そのくらい たまにでいいんだ
いいこ いいこ いいこ いいこ

おかあさんも ほめられたい



 これを、一般的な主婦の気持ちを表現した曲としてのみ私は聴いてきたけれど、じつは、坂本にとってただの「おかあさん」になってしまった矢野顕子の哀しみが反映されていたのではないか。

 矢野顕子は、アルバム1枚を費やして、去りゆく坂本龍一へのトーチ・ソングを歌い上げていたのである。坂本本人を含めて、わかる人にだけわかる形で……。

 そのことに気づかず、たんに楽しい曲として「BAKABON」や「湖のふもとで猫と暮らしている」を聴いてきた私は、ファンとして不覚であった。

 アルバムうしろのクレジットを見てみれば、献辞が「MY LOVE TO RYUICHI――」で始まっている。
 にもかかわらず、当の坂本はもう、プロデューサーとしてもミュージシャンとしても参加していないのだった。

 『LOVE LIFE』は、ポップス史上最も切なく美しいトーチ・ソング・アルバムである。
 その切実さにおいては、中島みゆきもカーリー・サイモンの『トーチ』(ジャズのトーチ・ソングを集めたアルバム。ジェイムス・テイラーとの離婚直後に発表された)も目じゃない。失恋直後もしくは片恋中の人は、ぜひ一聴されたし。
関連記事

矢野顕子マイ・ベスト30

いままでのやのあきこ (DVD付) いままでのやのあきこ (DVD付)
矢野顕子 (2006/08/23)
Sony Music Direct

この商品の詳細を見る

 矢野顕子のデビュー30周年を記念して、レコード会社の枠を超えてこれまでのキャリアからベスト30曲を選んだアルバム『いままでのやのあきこ』が、今日発売された。

 過去のアルバムを全部もっている私は買わないけれど、このアルバムの選曲が、どうも納得いかないんだなあ。

 ほかならぬアッコちゃん本人がセレクトしたそうなので、ファンとしてはこの選曲を「受け入れる」しかないのだけれど、私の評価とはかなり齟齬がある。「えええ~、なんでコレを入れてアレが入ってないんだあ!?」という曲がありすぎなのである。

 というわけで、私なりの「矢野顕子ベスト30曲」を以下に選んでみた(順不同)。

「電話線」
「へこりぷたあ」
「ハロー・ゼア」
「David」
「Home Sweet Home」
「ぼんぼんぼん」
「ごはんができたよ」
「また会おね」
「YOU'RE THE ONE」
「ひとつだけ」
「いいこ いいこ(GOOD GIRL)」
「夢のヒヨコ」
「どんなときも どんなときも どんなときも」
「What's Got In Your Eyes?」
「How Beautiful」
「わたしたち」
「クリームシチュー」
「にぎりめしとえりまき」
「おてちょ。(Drop me a Line) 」
「赤いクーペ」
「湖のふもとでねこと暮らしている」
「星の王子さま」
「GREENFIELDS」
「終りの季節」
「しんぱいなうんどうかい」
「Too Good To Be True」
「N.Y.C.」
「いないと(It's us)」
「アシュケナージー・フー?」
「GOOD NIGHT」  

 ざっくり選んでみたが、『いままでのやのあきこ』とは7曲しか重なっていない。ううむ。
 ちなみに、『いままでのやのあきこ』は次のような選曲だ。 

ディスク1.
1 ふなまち唄PartII
2 行け 柳田
3 昨日はもう
4 ヨ・ロ・コ・ビ
5 青い山脈
6 ひとつだけ
7 ごはんができたよ
8 たいようのおなら
9 I Sing
10 春咲小紅
11 海と少年
12 リンゴ
13 悲しくてやりきれない
14 “It's For You”
15 また会おね

ディスク2.
1 BAKABON
2 湖のふもとでねこと暮らしている
3 SHENADOAH
4 SUPER FOLK SONG
5 PRAYER
6 てぃんさぐぬ花
7 barbie jungle [JAPANESE VERSION]
8 All The Bones Are White
9 ひとりぼっちはやめた
10 ラーメンたべたい
11 にぎりめしとえりまき
12 いないと [It's Us]
13 Money Song
14 あたしンち
15 N.Y.C.
16 Nobuko
関連記事

ライター「40歳の壁」


フリーライターになろう!フリーライターになろう!
(2012/04/25)
八岩 まどか



 竹熊健太郎氏が自らのキャリアを振り返ったロング・インタビューが、「人材バンクネット」なるサイトで連載されている。
 
 アップされたばかりのその第3回が、同じく40代のフリー物書きとしてはものすごく身につまされる内容で、何度もうなずきながら読んだ。

 40歳をすぎたところで「壁」にぶつかったとか、ブログを始めたことで精神的に救われたとか、共感ポイントありまくりである。

 ライターが直面する「40歳の壁」については、私も前に自分のサイトの「極私的ライター入門」で書いたことがある。  
 以下、その内容をコピペ。



立ちはだかる「40歳の壁」

40歳がライターの“分岐点” 

 周囲を見渡すと、40歳前後でフリーライターを廃業してしまう人が少なくない。
 出版社の社員編集者になる人(編集者出身のライターに多い)、編プロの経営者になって書き仕事から足を洗う人、まったく畑違いの商売に乗り出す人、専業主婦になる人……パターンはさまざまだが、40歳前後での転身という時期は奇妙なほど一致している。

 なぜ40歳なのか? 「不惑」を迎えて人生を考え直すということも少しはあるかもしれないが、もっと下世話な理由がある。40歳という年齢は、フリーライターにとって大きな壁なのである。

 1つには、「40歳を境に仕事が激減する」というケースが多いことがある。なぜかというと……。

 村上春樹は、小説『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、フリーライターの仕事を「文化的雪かき」と定義している。そのココロは、“誰かがやらなければいけないけれど、誰にでもできる仕事”だということ。
 さすがは村上春樹、うまいことを言うものである。もちろん、雪かきにだって技術の巧拙はあるだろう。それでも、基本的には「誰にでもできる」仕事である。ライターも同じことだと、春樹は言うのだ。

 私は、ライターの仕事がすべて「文化的雪かき」であるとは思わない。しかし、世にあるライター仕事の多くが「誰がやってもいい仕事」であるのはたしかだ。そして、そうであるからには、編集者としても若いライターのほうが仕事を振りやすい。あまりスキルが必要でない仕事を、不惑を超えたベテラン・ライターに発注するのは気がひけるのだ。

 たとえば、若者向け首都圏情報誌の「東京・カレーのうまい店ベスト50軒、とことん食べ比べ!」という記事企画があったとして、その仕事をベテラン・ライターに発注しようとは誰も思うまい。なぜなら、その仕事に必要なのは、1週間で50軒のカレー屋を駆けめぐって食べ比べるフットワークの軽さとタフな胃袋であり、文章力も取材力もほとんど必要ではないからだ。

 そういう「誰がやってもいい仕事」というのがライター業界にはたくさんあって、40歳を超えると、その手の仕事をあまり振ってもらえなくなる。
 それは一つには、ライターを担当する編集者の多くが40歳以下であるため。編集者心理として、自分と同年代か年下のライターのほうが仕事を振りやすい。そのほうが何かと気楽だからである。したがって、キャリアの浅い若手にもできるような仕事は、なるべく若手に振ることになる。だから、「40歳を境にして仕事が激減する」ことになるのだ。

 また、仕事が減らなかったとしても、40歳くらいで家計が危機に瀕するケースは多い。
 標準的年齢で結婚をしたライターなら、子どもの成長などで年を追って支出が増大する。しかし、フリーライターには年功序列に応じた昇給などないから、自力で年収を増やしていかないかぎり、おおむね40歳あたりで支出の重みに耐えきれなくなるのだ。
 ましてや、仕事の激減がそこにくわわったら、「よるべないライター稼業なんかやめて、ふつうの仕事に就こう」と考えるのも無理からぬことである。
 
「壁」を乗り越えるには…
 
 もちろん、何に転職しようとその人の自由だ。ただ、「生涯ライターとしてやっていきたい」と思う場合、「40歳の壁」を乗り越えるにはどうすればよいだろう?
 
 1つは、「文化的雪かき」ではない仕事のできるライターになることだ。
 「誰がやってもいい仕事」ではなく、「この仕事は難しいから、駆け出しにはまかせられない。○○さんでなければできない」という仕事。そういう仕事を発注される「○○さん」にならないかぎり、「40歳の壁」は越えられない。

 「40歳を境に仕事が激減する」ライターが多い反面、「40歳を境に仕事が増える」というライターも、わずかながらいる。そういう人は、「40歳の壁」を乗り越え、1ランク上のライターになれた人である。すなわち、駆け出しにはできない難しい仕事をこなす力があると、周囲から認知されたということなのだ。

 壁を乗り越えるもう一つの方法は、無署名原稿ばかりをこなすライターから、署名原稿専門の書き手になること。すなわち、作家・評論家・コラムニストなどに“昇格”することだ。これもやはり、「○○さんでなければできない仕事」を増やすことにかわりはない。

 ただ、注意しなければいけないのは、署名原稿専門になれたからといって、収入が急に増えるわけではないということ。むしろ、署名原稿専門になると収入は減るのがふつうだ。

 関川夏央さんと山口文憲さんの対談本『東京的日常』(ちくま文庫/これはライターの必読本の1つ)の中で、関川さんはこんな発言をしている。

 だいたい無署名原稿専門家のほうが収入は格段に多い。世間は誤解しがちなんだけどね。署名のみに「昇格」すると収入は半減するのがならいだ。




東京的日常 (ちくま文庫)東京的日常 (ちくま文庫)
(1994/09)
関川 夏央、山口 文憲 他



 なぜ「署名のみに『昇格』すると収入は半減する」かといえば、署名原稿で名が売れた書き手に対しては、編集者が無署名原稿を依頼しにくいから。「いやー、名のある作家センセイに、こんな無署名のハンパ仕事はお願いできません」というわけだ。

 某ハードボイルド作家は広告コピーの仕事をしながら小説を書いていたが、某小説賞をとったとたんにコピー仕事の依頼が絶無になり、収入が激減したという。ライターの世界でも、同じことが起こる。たとえば、著書をたくさんもっているライターにゴーストライターの仕事は頼みにくい。そして、それまでゴースト仕事でかなりの収入を得ていたライターにその手の仕事がこなくなれば、当然収入は激減するのである。
 
 そうした難しさがあるとはいえ、署名原稿専門になって、無署名時代と同等の原稿料を稼げるようになったなら、「40歳の壁」は乗り越えられたということになる。
 
 「40歳の壁」は高い。だがそれは、乗り越えればライターとしてのステップアップができるという、挑戦しがいのある壁なのだ。
 


 これを書いたのは、4年前の38歳のとき。
 さて、私もどうにか「40歳の壁」を超えられただろうか? とりあえず仕事の切れ間がないのはありがたいことである。
関連記事

絲山秋子『沖で待つ』

沖で待つ 沖で待つ
絲山 秋子 (2006/02/23)
文藝春秋

この商品の詳細を見る

 絲山秋子著『沖で待つ』(文藝春秋)読了。
 言わずと知れた芥川賞受賞作だ。

 絲山作品を読むのはこれで5冊目なのだが、5冊のうちでいちばんつまらなかった。
 なんでこれが芥川賞? これに芥川賞を与えるのなら、「袋小路の男」か『逃亡くそたわけ』(こちらは直木賞の候補になって落選したが)であげればよかったのに…。

 絲山自身の会社員時代が下敷きになっているから、ディテールにはリアリティがある。同期入社ならではの男女の(恋愛感情にはけっして発展しない)友情とか、バブル崩壊でガラリと変わる職場の雰囲気とか……。

 だが、そのリアリティが「普遍化」されていない。「(舞台となる)住宅設備機器メーカーの現場の雰囲気がリアルに伝わってきます。でも、私には1ミリも関係ない、どうでもいい話ですね」と思ってしまう感じなのだ。

 “どちらかが先に死んだら、パソコンのハードディスクを壊す”という約束をかわす、というエピソードは面白いが、それくらいしかホメどころが見つからない。 

 併録作の「勤労感謝の日」も凡作。というより、はっきり言って駄作。
 こちらもやはり、バブル期入社の女性総合職という作者の体験をベースにした主人公の回想部分だけが妙にリアル。だがそれは、小説の面白さというより、ちょっと気の利いたブログを読んだときの面白さ、という程度のものでしかない。

 正味100ページ程度で1冊の本にしてしまう薄さもちょっと…。いや、それは作者のせいではないけれど。

 この作品で初めて絲山作品を読んでガッカリしてしまった人には、とりあえず「袋小路の男」をすすめたい。
関連記事

クリングバーグ『人生があなたを待っている』


人生があなたを待っている―『夜と霧』を越えて〈1〉人生があなたを待っている―『夜と霧』を越えて〈1〉
(2006/06/01)
ジュニア,ハドン クリングバーグ

商品詳細を見る


 ハドン・クリングバーグ・ジュニア著、赤坂桃子訳『人生があなたを待っている/〈夜と霧〉を越えて』(みすず書房/全2巻/各2800円)読了。

 ナチスの強制収容所での極限体験を素材に、「生きる意味」を問うた世界的名著『夜と霧』で知られるヴィクトール・E・フランクル(オーストリアの精神医学者)と、その妻エリーの伝記である。

 著者は、学生時代にウィーンでフランクルの指導を受けた米国の臨床心理学者。フランクルに回顧録のまとめを依頼され、7年がかりで本書を完成させた。人生に絶望した者に希望を与える著作を多く遺したフランクルだが、晩年は彼が創始した「ロゴセラピー」(実存分析的精神療法)の実践に忙しく、回顧録は著わしていなかったのだ。

 多様な読み方のできる複層的な書物である。
 たとえば、ロゴセラピー誕生までの心理学の歩みを、心理学者の目でたどった書として読める(フロイトやアドラーも重要な役割で登場する)。
 また、フランクル夫妻の人生をフィルターに、ウィーンの現代史を描いたオーラル・ヒストリー(聞き書きによる歴史記録)でもある。しかし、何よりもまず、これはフランクル夫妻の愛の物語だ。

 全3部のうち、第1部ではフランクルの生い立ちから戦後の復職までが描かれる。第2部は、フランクルと出会うまでのエリー夫人の人生を描いている。そして最後の第3部で、2人の出会いからフランクルの逝去までがたどられる。

 エリー夫人をフランクルと同等の比重で扱っていることが、本書の大きな特長である。フランクルにとって彼女がかけがえない存在であったことを知り抜いていたからこそ、著者はそうした構成を選んだのだ。
 
 フランクルは、母親と最初の妻が強制収容所で亡くなったことを知って絶望の淵にあった終戦直後に、20歳年下のエリーと出会った。以来半世紀、彼女は彼にとって希望そのものであった。フランクルは晩年に視力を失うが、それからはエリーが彼の目ともなった。

 死を前にして、彼は著作の一つ『苦悩する人間』の献辞欄に、妻への最後のメッセージを書き記す。それは、「エリーへ/あなたは、苦悩する人間を愛する人間に変えてくれました」という感謝の言葉であった。

 よき伴侶によって再び「生きる意味」を見出し、絶望から癒されたフランクル。その後半生は、「ロゴセラピー」の原義「意味による癒し」を体現していた。

 苦悩を突き抜けた地点にある生きる喜び・愛の喜びを鮮やかに描いた一書。フランクルの著作に感銘を受けた世界中の読者にとって、素晴らしい贈り物だ。

関連記事

花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』

ボーイズ・オン・ザ・ラン 3 (3) ボーイズ・オン・ザ・ラン 3 (3)
花沢 健吾 (2006/06/30)
小学館

この商品の詳細を見る


 マンガ喫茶で読んで面白かったので、花沢健吾の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』既刊1~3巻を買ってきた。

 『ビッグコミックスピリッツ』連載中のこのマンガは、“『電車男』の暗黒ヴァージョン”というか、“『宮本から君へ』のオタク・ヴァージョン”というか…。

 主人公は、弱小「ガチャポン」メーカーの営業マン・田西敏行27歳。マンガ史上空前の情けなさ・ダサさをもつ主人公である。しかも、その情けなさには恐ろしいほどのリアリティがある。

 田西は「終わりかけの青春」をなんとか華々しいものにしようと悪戦苦闘するのだが、すればするほど空転する。『電車男』のエルメスとの恋のような輝かしい出来事は、彼にはけっして(起こりそうで)起こらない。

 だが、その懸命な空転ぶりが、突き抜けた笑いと感動を呼ぶのである。

 コミックスの帯に寄せられた次のような讃辞が、この作品の魅力を余すところなく示している。
   

これこそパンツを下ろすという創作行為! 「電車」に乗り遅れた男、田西敏行(27歳)の独白に爽やかな感動さえ憶える。これぞ負け組純漫画だ!(小島秀夫/ゲームクリエイター)

 主人公の計り知れないダサさと、空回りな葛藤……とても! 共感できます。とほほ。(山本英夫/マンガ家)


 絵柄もよい。キャラの顔つきなどは小学館系らしくアニメっぽい絵なのに、背景や細部は劇画的にきっちり描きこまれた緻密な絵。軽さと重さを絶妙のバランスで併せ持っている。
関連記事

『コラテラル』

コラテラル スペシャル・コレクターズ・エディション コラテラル スペシャル・コレクターズ・エディション
トム・クルーズ (2006/04/21)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

この商品の詳細を見る

 いまさらながら、『コラテラル』をDVDで観た。
 
 タクシーを借り切って、L.A.の街を人を殺して回る殺し屋。しかも、一晩に5人を殺すという超・強行軍。設定からして「ありえねー!」だし、展開にも随分強引なところがあるけれど、それでも面白い。映画の世界でだけ許される、「映画的魅力」に満ちたウソだから。

 ただ、終盤の展開はちょっと…。そこまでは「一歩先がまったく読めないストーリー」で面白かったのに、5人目の標的が「あの女」であるというのが途中から読めてしまって、その瞬間からありがちで陳腐なストーリーに堕してしまう。

 とはいえ、セリフも面白いし、アクションの切れもいいし、まずは良作。
関連記事

スクリッティ・ポリッティ『ホワイト・ブレッド・ブラック・ビア』

ホワイト・ブレッド・ブラック・ビア(期間限定スペシャル盤)(DVD付)ホワイト・ブレッド・ブラック・ビア(期間限定スペシャル盤)(DVD付)
(2006/09/27)
スクリッティ・ポリッティ



 スクリッティ・ポリッティのニュー・アルバム『ホワイト・ブレッド・ブラック・ビア』(インペリアル/DVDつき限定盤2980円)を、サンプル盤を送ってもらって聴いた。輸入盤はすでに発売されているが、日本盤は9月27日発売。

 じつに7年ぶりの新作である。前作『アノミー&ボノミー』が出たのが1999年。その前の『プロヴィジョン』が出たのが88年。なんとゆったりとしたリリース・ペース。82年のデビュー以来、今回の新作でまだ5枚目のアルバムなのである。

 彼らの最高傑作であるセカンド・アルバム『キューピッド&サイケ85』(85年)は、私が20歳くらいのころに聴きまくったアルバムの一つ。アナログ盤を聴きつぶしてCDで買い直した。いま聴いても十分新鮮な、ポップス史の至宝である。

 今回の新作には、『キューピッド&サイケ85』や『プロヴィジョン』のような、音がキラキラとはじけて乱舞する感じはあまりない。スロー~ミディアム・テンポの落ちついた曲が大半で、アレンジもごくシンプル。静謐な印象のアルバムだ。

 しかし、曲は粒ぞろいだし、グリーン・ガートサイドのファルセットを駆使した美しいヴォーカルは健在。バックの音よりはグリーンの歌に的を絞った、「ヴォーカル・アルバム」といってもよい仕上がり。たぶん、聴きこむほどに味の出る“スルメ・アルバム”になるであろう。

 80年代のグリーンは少女マンガから抜け出してきたような美形だったけれど、レコード会社のサイトで見ると、いまの彼は髪を短く刈り込み、豊かなヒゲをたくわえて、まるで別人のようだ(それでも「チョイ悪オヤジ」風で十分カッコイイけど)。

関連記事

『グエムル/漢江の怪物』

グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション [DVD]グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション [DVD]
(2007/01/26)
ソン・ガンホピョン・ヒョボン

商品詳細を見る


 紀尾井町の角川ヘラルド映画試写室で、『グエムル/漢江(ハンガン)の怪物』の試写を観た。9月公開の韓国映画。

 公式サイト→ http://www.guemuru.com/

 韓国映画には珍しい、大がかりなパニック・エンタテインメント。『殺人の追憶』の俊英ポン・ジュノの新作である。カンヌ映画祭で絶賛を浴びたこともあり、試写会も盛況。開始30分前に行ったのに補助イスでの観賞となった。

 韓国でいちばん大きい河・漢江に、ある日曜の昼下がり、突然正体不明の巨大な怪物「グエムル」が現れる。怪物は、河川敷で休日を楽しんでいた人々を次々と襲い、無造作に飲み込んでいく。
 阿鼻叫喚の地獄と化す河川敷。そこで売店を営むパク一家の孫娘ヒョンソも、グエムルの自在に動く尾に巻き取られてしまう。そして、ヒョンソを抱えたまま、グエムルは漢江の水底に消えるのだった。

 だが、殺されたとばかり思っていたヒョンソが、ケータイで父親(一家の長男)に助けを求めてくる。グエムルの棲む下水溝に身を潜めているというのだ。
 はたして、パク一家はグエムルの手からヒョンソを救出することができるのか…。

 パニック映画というより、「怪獣映画」といってもよい映画である。
 グエムルのキャラクター造形がすこぶる秀逸。こんなに不気味で「コワ面白い」クリーチャーを見たのは、『エイリアン』以来だ。大ナマズと恐竜をミックスし、エイリアンのテイストも加えてみました、という感じのルックスで、しかも動きがものすごい。

 監督のポン・ジュノは、前作『殺人の追憶』のときには「韓国の黒澤明」と評されたものだが、この『グエムル』に与えられた讃辞は「韓国のスピルバーグ」というもの。まだ36歳の若さで黒澤とスピルバーグに比肩されるとは、豪気な話である。

 黒澤・スピルバーグ級であるかはともかく、才気に満ちた監督であることはたしか。私は韓国映画にはあまりくわしくないが、パク・チャヌク(『JSA』『オールド・ボーイ』)とポン・ジュノの2人には、「この監督の映画なら観てみたい」と思わせるだけの独創性・作家性を感じる。

 この『グエムル』も、『ジョーズ』や『エイリアン』などの過去の傑作に目配りしつつ、それらの二番煎じにはけっして終わっていない。

 どこに独創性があるかといえば、一つは濃密な生活感であり、もう一つは全編にちりばめられた「笑い」である。
 『ジョーズ』にしろ『エイリアン』にしろ、そこで展開される物語は、よくも悪くも「遠い世界の出来事」であった。対して、『グエムル』は優れて日常的で、ごく普通の庶民の生活の中に突然怪物が入り込んでくる、というリアリティがある。

 たとえば、ストーリーのポイントとなる小道具がなんの変哲もない缶ビールであったり、カップ麺を食べるなどの生活感に満ちた場面が多く盛り込まれていたりする。

 並の監督なら、パニック映画を作る場合には排除するだろうそうした生活感を、あえて積極的に取り込んでいるところが面白い。

 「笑い」についてもしかり。パニック映画ならではの緊迫感を持続させるためには、こうした笑いは邪魔になるだろう。
 しかし、ポン・ジュノはあえて「笑い」をこの映画の駆動力にした。ギャグが全編にちりばめられている。主要登場人物の1人がグエムルに殺される場面や、クライマックスの対決場面にすらギャグが盛り込まれているのだ。

 ポン・ジュノの第1作『ほえる犬は噛まない』はブラック風味のコメディであったし、『殺人の追憶』も、サイコ・サスペンスでありながら随所に笑いが盛り込まれていた。つねに笑いを重要な武器としてきた監督なのだ。

 この『グエムル』も、パニック映画でありながら風変わりなコメディでもあるという、じつにユニークな作品に仕上がっている。

 笑いの要素を邪魔と感じるか、それとも独創性と感じるかによって、評価が分かれる作品だろう。私は独創性として受け止めた。ポン・ジュノにしか作れない、じつに面白い「怪獣映画」である。

 『ほえる犬は噛まない』のヒロインを演じたペ・ドゥナが、パク一家の長女ナムジュ役(ヒョンソにとっては叔母)で強烈な印象を残す。
 アーチェリー競技の銅メダリストという設定の彼女は、そのアーチェリーを手に「王子様の手を借りず、自力で竜退治に赴く闘うお姫様」となるのだ。

関連記事

『ぼくのしょうらいのゆめ』


ぼくのしょうらいのゆめぼくのしょうらいのゆめ
(2006/07)
市川 準、内田 裕也 他

商品詳細を見る


 『ぼくのしょうらいのゆめ』(プチグラパブリッシング/1640円)読了。
 アート・科学・文学・音楽など、さまざまな分野の第一線で活躍する11人に、子どものころからの夢について聞いたインタビュー集である。

 登場する11人は次のとおり。
 市川準(映画監督)・内田裕也(ロックンローラー)・大竹伸朗(画家)・関野吉晴(探検家・医師/「グレートジャーニー」の人)・祖父江慎(グラフィックデザイナー)・高橋悠治(作曲家・ピアニスト)・野口聡一(宇宙飛行士)・谷川俊太郎(詩人)・吉本隆明(思想家・評論家)・和田誠(イラストレーター)・田中泯(舞踊家)。

 「10歳の頃から映画監督になりたいって言っていた」という市川準、「小学2年の頃には作曲家になろうと決めていた」という高橋悠治、小学1年のときの文集に「ロケットのそうじゅうしになりたい」と書いたという野口聡一など、登場する人々はみな、(軌道修正や紆余曲折はあるものの)夢をかなえた幸福な人たちである。

 ここに語られた11通りの“夢への軌跡”から、読者は、夢を実現した人たちの共通項をいくつか見出すことだろう。

 その一つは、夢に近づくための努力をけっして苦痛とは感じず、むしろ楽しみながらやっていること。
 たとえば和田誠は、科目名のかわりに担当教師の似顔絵を描き入れる“イラスト時間割”を、中学から高校にかけての5年がかりで完成させたという。授業そっちのけで夢中になったというその似顔絵描きは、傍目には徒労でしかない。だが、その徒労こそ、当代きっての人気イラストレーターのまぎれもない原点なのである。

 言いかえれば、努力することが苦痛ではなく楽しみになるほど夢中になれるもの――それを見つけることこそ、夢をかなえるための最大の要件なのだ。

 タイトルの印象とは裏腹に、本書は子どもを対象には作られていない。むしろ、大人たちが子どものころからの夢を振り返り、夢をもつことの素晴らしさと大切さをかみしめるための本だ。
 そして、本書を読んで考えたこと、感じたことを子どもたちに伝えて、その夢を見守り、育むための本でもある。
 
 デザインがなかなか凝っていて、美しい本だ。登場する11人の子どもの頃の作文や絵などもグラビアで紹介されていて、それらを眺めるだけでも楽しい。
関連記事

宮内勝典・平林久『E.T.からのメッセージ』

 宮内勝典・平林久著『E.T.からのメッセージ/地球外文明探査講義』(朝日出版社/1987年)読了。
 これで、宮内さんの(既刊の)全著作を読了したことになる。

 電波を駆使して地球外知性体を探し当て、彼らと交信しようとする「SETI(Search for Extra Terrestrial Intelligence)」プロジェクト。日本におけるその主要な推進者である天文学者・平林久と、作家・宮内勝典の対談集である(「SETI」について平林が宮内にレクチャーをするという体裁になっているのだが、実質的には「対談集」)。

 宮内さんは、傑作ノンフィクション『宇宙的ナンセンスの時代』の中で、「SETI」プロジェクトのパイオニアであるフランク・ドレイク博士を取材している。文学者として、以前からSETI計画に強い関心を抱いてきた人なのだ。

 いっぽう、対談者の平林博士は、科学者であると同時に文学的資質を豊かにもった方のようだ。能を愛し、詩と音楽を愛するその「文理融合」の知性のありようは、分野こそ違え、あの多田富雄を彷彿とさせる。

 文学者と科学者――分野の異なる2人が、互いの共通項となるフィールドでくり広げた「文理融合」の好対談である。 

 全4章のうち、「SETI」についての科学技術的な解説がおもになされる2、3章は、まさに「講義」を聴いているようで、私には退屈だった。
 もっとも、この部分を読んで最低限の基礎知識を得ないと、ほかの章も理解できないのだろう。

 「SETI」の哲学的な意味づけがおもに語られていく1、4章はじつに面白い。とくに印象に残ったくだりを引いておこう。
 
【引用始まり】 ---
 宮内 かつては藩のために腹を切った人さえいて、それがやがて国家というふうにアイデンティティの枠が広がり、そして国のために死んでいったりするわけです。ところが、地球外知性体が存在することがわかったら、こうした国家意識はおそらく無効になるでしょう。
 アイデンティティをもつというのは、人類の弱みのようなものだと思います。アイデンティティをもつからいつまでも戦争を続けたりするわけですね。よくアイデンテイティの確立が大切だとか言われますが、私はむしろアイデンティティにこだわる意識が人類のガンだと思っているのです。
 膨張文明は自分のテリトリーやアイデンティティの枠を広げるために、拡大し続けてきました。その最先端のところで電波天文学が生まれたわけですが、そこで地球外の知性体の存在が明らかになれば、人類はこうしたジレンマからぬけ出せるのではないかと思うのです。
【引用終わり】 ---
 示唆に富む対談集である。絶版なのが惜しまれる(私は都立図書館から取り寄せて読んだ)。
関連記事

『モーターサイクル・ダイアリーズ』『アイランド』

モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版
ガエル・ガルシア・ベルナル (2005/05/27)
アミューズソフトエンタテインメント

この商品の詳細を見る

 DVDで、『モーターサイクル・ダイアリーズ』と『アイランド』を観た。またまた胃もたれしそうな組み合わせ。

 『モーターサイクル・ダイアリーズ』は、チェ・ゲバラが医学生時代に親友と2人で行った南米放浪の旅を描いた作品。実際にゲバラが遺した旅日記をもとに、みずみずしい青春ロード・ムービーに仕上げている。

 鉄の意志を持つ卓越したゲリラ戦士、国境を越えた「ラテン・アメリカ革命」という夢半ばにして殺された英雄……ゲバラを語るとき、枕詞のようについて回るそうしたロマンティックなイメージは、革命家というより、むしろジョン・レノンのような夭折のヒーローを彷彿とさせる。
 
 だからこそ、23歳のゲバラは、青春ロード・ムービーの主人公にうってつけなのである。
 じつに「コロンブスの卵」というか、これまでこういう映画が作られなかったのが不思議なくらいだ(ゲバラの旅程を辿ったドキュメンタリー映画はすでにあるらしいが)。
 この『モーターサイクル・ダイアリーズ』を手本にして、「偉人がまだ何者でもなかったころ」を描いた青春映画がもっと出てくればよいと思う。たとえば、周恩来は19歳のころ日本に留学しているのだが、その当時のことを描くとか。

 偉人・英雄としてでなく、まだ何者でもなかったころのゲバラを描いた映画である。しかし同時に、「ゲバラをゲバラたらしめたもの」も、この中に描かれている。
 気楽な「自分探し」の旅ではあるのだが、青年ゲバラは旅の先々で「抑圧された民衆」の生の姿に接し、衝撃を受ける。ゲバラは旅の最後に、「この旅でぼくの中の何かが変わってしまった」という印象的なセリフを吐く。「ラテンアメリカ革命」というゲバラの夢の萌芽が、この旅で生まれたのである。
 「旅を通して主人公が変わっていく過程を描く」のがロード・ムービーであるから、これはじつに正統的なロード・ムービーといえよう。

 ゲバラについて知らなくても、青春映画としてそこそこ愉しめるだろう。しかしその場合、感動は半減以下となる。

------------------------------------------

 『アイランド』は、スカーレット・ヨハンソンが主演しているから観たのだけど、なんとも薄っぺらいSF映画であった。なんかこう、1970年代のB級SF映画を、最新のSFXでお化粧して「超大作」に仕立て上げた感じ。

 クローン技術の“暴走”が描かれる映画なのだけれど、それにしてはクローンについての描き方が、シロウト目にもいいかげん。

 クローンといっても要は双子と同じなのだから、クローンとオリジナルが記憶を共有するなんてあり得ないだろ。
 ……いや、娯楽映画なのだから、その程度の齟齬に目くじらたてるのは野暮というものだろう。

 ただ、後半のアクションはすごい。物をぶちこわす快感とスピードの快感を、映像を通して体感できる。
関連記事

唐沢なをき『漫画家超残酷物語』

漫画家超残酷物語 (ビッグコミックススペシャル)漫画家超残酷物語 (ビッグコミックススペシャル)
(2005/11)
唐沢 なをき

商品詳細を見る


 唐沢なをき著『漫画家超残酷物語』(小学館/714円)を読んだ。
 タイトルのとおり、永島慎二の名作『漫画家残酷物語』へのオマージュをこめて描かれた、パロディ色の濃いギャグ・マンガである。

 田中圭一が手塚治虫のマンガをパロってお下劣ギャグ・マンガにした傑作『神罰』と同様、スカトロ趣味やグロ趣味などが随所に盛り込まれたじつにお下劣な作品。だが、ギャグ・マンガとしての質は高い。かなり笑える。

 前にも何度か書いたが、永島慎二の『漫画家残酷物語』は、私にとって「自分史上ベストワン・マンガ」である。原典を愛してやまない私から見ても、この『漫画家超残酷物語』は読んでいてけっして不快ではない。行間から永島慎二への敬愛がにじみ出ているからである。

 第一話の「サムソン」は『漫画家残酷物語』の「うすのろ」の完全なパロディだが、ほかの各編のストーリーは唐沢のオリジナル。ただし、キャラの大部分は『漫画家残酷物語』から(一部は『フーテン』からも)借りており、絵も永島風だ。
 あの抒情的な永島慎二の世界を借りて、下品きわまるギャグが展開されるのだから、そのギャップがたまらなくおかしい。

 『漫画家残酷物語』は1960年代前半の作品だから、そこに描かれるマンガ家たちも当時のマンガ界の状況を忠実に反映していた。対して、この『漫画家超残酷物語』は、いまどきのマンガ家ならではのさまざまな苦悩やジレンマがギャグのネタになっている。

 たとえば、人気マンガ家のアシスタントたちがいっせいに「年末のコミケの作品に専念したいので来月こられません」といって逃げてしまうとか、生活のために描いたエロマンガのせいで娘に嫌われてしまうとか…。
 ここに描かれた「残酷物語」の数々から極端なデフォルメを差し引いてみれば、じつは「マンガ界にはよくあること」ばかりなのだろう。

 『漫画家残酷物語』を読んでいない人が読んでも、そこそこ笑えると思う。しかし、この作品の真の面白さは、『漫画家残酷物語』を愛した者にしか伝わらない。永島ファン必読。

関連記事

『ゴーストワールド』『パッチギ!』

ゴーストワールド ゴーストワールド
ソーラ・バーチ (2002/06/07)
ジェネオン エンタテインメント

この商品の詳細を見る

仕事が一段落したので、DVDをまとめて4枚借りてきた。
 で、今日はそのうちの2本、『ゴーストワールド』と『パッチギ!』を観た(我ながらヘンな組み合わせ)。

 『ゴーストワールド』は、私のお気に入りスカーレット・ヨハンソンと、『アメリカン・ビューティー』で主人公の娘を演じたソーラ・バーチが主演。2001年の作品だが、私は初見。

 「主演」といってもヨハンソンの役柄の比重は軽く、ヒロインはソーラ・バーチ演ずるイーニドのほう。「メガネっ娘萌え」にはけっしてならない「メガネブス」なキャラ作りが強烈な印象を残す。

 「バカな奴ほど人間関係が得意なのよ」――イーニドが言う印象的なセリフ。
 女オタクで、可愛げがなくて、人間関係が苦手で生きにくいのに、そのことを自分の弱さとは認められず、世のすべてをすねた目線で見ているイーニド。彼女が、古いブルースのレコード収集が生きがいの独身中年オタク男(スティーヴ・ブシェミ)と結ぶ、「友人以上恋人未満」な関係がおかしくも切ない。
 「世界からの疎外感」を感じつつ日々を生きている者同士の、孤独な魂の共鳴。それをシリアスにではなく、乾いたユーモアに包んで描いている。

 オシャレなオフビート・コメディであると同時に、いま日本にも陸続と生まれている「オタクたちの青春ドラマ」の先駆といえようか。 

 『パッチギ!』も、いまごろ初見。
 面白かったし、心に残る場面も多かったけど、キネ旬年間ベストワンに選ばれるほどのものだろうか、と思ってしまった。

 私は井筒作品なら、同傾向の『ガキ帝国』のほうが好きだ。
 『ガキ帝国』のリアリティに比べると、この『パッチギ!』はストーリーもキャラクターも「作り物」っぽくて(意図してのものだろうが)、そこに違和感を覚える。
関連記事

『母たちの村』

 『母たちの村』を観た。カンヌ映画祭の「ある視点」部門でグランプリを受賞したアフリカ映画である。

 公式サイト→ http://www.alcine-terran.com/main/moolaade.htm

 アフリカの多くの国でいまも行われている女子割礼の非人道性を、真正面から告発した映画である。監督はアフリカ映画の巨匠ウスマン・センベーヌ。

 舞台は西アフリカのとある村。
 主人公コレの家に、4人の少女が駆け込んでくる。少女たちは割礼の現場から逃げ出してきたのだ。
 コレは7年前、自分の娘に割礼を受けさせないことを選び、周囲の強い反対を押し切ってその選択をつらぬいた女性だった。だからこそ、「コレおばさんなら助けてくれるかも」と少女たちは考えたのだった。

 コレは自分の家の門に紐で「結界」を張り、「モーラーデ」の始まりを周囲に宣言する。

 「モーラーデ」とは、「強い人物などに保護を求めること」。求められた側が「モーラーデ」を宣言すれば、その終わりが宣言されるまで、保護された者には誰も手を出すことができない。モーラーデを破った者は呪われ、災厄に遭うと信じられているからだ(映画の原題も「モーラーデ」)。

 ただし、モーラーデを宣言する側も、全身全霊をかけて庇護にあたらねばならない。
 コレは、かつて自分の娘2人を割礼によって失っていた(出血多量や感染症などにより、割礼で命を落とす少女は多い)。しかも、彼女自らも割礼の後遺症で出産困難な身体になり、3人目の娘は帝王切開で産んだ。そうした過去をもつからこそ、助けを求めてきた4人の少女を命がけで守ると決意したのだった。

 だが、周囲はみな、「割礼は行って当然。大昔からの決まりごとだ」と考える者が大部分。コレは慣習との困難な闘いを強いられる。
 闘う慣習には、「女は夫の命令に従って当然」「割礼を受けていない女(「ビラコロ」と呼ばれて蔑視される)は絶対に結婚できない」というものもある。はたして、彼女は慣習に抗して4人の少女を守り抜けるのか? …という映画。

 重いテーマだし、見るのがつらい場面もあるのだが、全体的には明るく力強い映画に仕上がっている。コレたちは困難な闘いを続けながらも笑顔を絶やさないし、大らかなユーモアも随所にちりばめられている。

 何より、「映画を通じて異文化に触れる醍醐味」を味わえる作品である。グローバル化にともなう「世界の均質化」が進む昨今、そうした感興を覚える映画は久々だ。

 呪術が日常に溶け込んだ世界が描かれるため、我々から見ると「マジック・リアリズム」的な面白さもある。
 たとえば、「モーラーデを破ったために呪われ、アリ塚と化してしまった王」の話が出てくるのだが、当のアリ塚がごく自然に、人々の暮らす場に存在していたりする。

 女たちがコレの呼びかけにこたえて男たち(と古い慣習)と闘うため決起するクライマックスは、感動的だ。
 「映像による『アフリカの女権宣言』」ともいうべき傑作。 
関連記事

Guide 

   →全記事インデックス

Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

Counter 

メールフォーム

★私にご用の方はここからメールを下さい。

お名前
メールアドレス
件名
本文

最近の記事

マイ「神曲」ベスト100

カテゴリー

里親募集中

タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

Archives

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
29位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
22位
アクセスランキングを見る>>