宮内勝典『日本社会がオウムを生んだ』ほか

日本社会がオウムを生んだ日本社会がオウムを生んだ
(1999/03)
宮内 勝典高橋 英利

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 宮内勝典著『バリ島の日々』(集英社/1995)、宮内勝典・山尾三省著『ぼくらの知慧の果てるまで』(筑摩書房/1995)、宮内勝典・清田益章著『サイキの海へ/超能力をめぐる対話』(めるくまーる社/1986)、宮内勝典・高橋英利著『日本社会がオウムを生んだ』(河出書房新社/1999)読了。

 『バリ島の日々』は紀行文で、あとの3冊は対談である。
 宮内さんの全著作読破まで、残り1冊。 

 宮内さんはこれまで世界50数ヶ国を旅してきた人なのだが、意外にも、紀行文だけで一冊になったのは『バリ島の日々』のみ。
 若いころからの放浪の軌跡をまとめれば、沢木耕太郎の『深夜特急』以上にドラマティックなシリーズが書けるだろうに、あえてそれを封印してきたのだ。

 『バリ島の日々』のあとがきには、そのへんの心理が次のように明かされている。

 職業作家としてこのノート(引用者注/旅の記録として綴ってきたたくさんのノート)を巧く使えば、短編の十や二十、たちどころにひねり出せるとわかっていても、そうする気になれないのだ。このノートだけは「聖域」として、手つかずのまま打ち棄てておきたい、商売には使いたくないと思っていた。



 そうした「旅のノート」を初めて本にしたのが、この『バリ島の日々』なのだ。

 面白い本だが、100ページに満たない薄さなので、いささか食い足りない。1年くらいバリで暮らして、もっとがっちりしたノンフィクションとして掘り下げてくれたら、すごい本になっただろうに。

 『ぼくらの知慧の果てるまで』は、私にはつまらなかった。宮内さんと山尾三省氏(詩人/故人)が精神的に近すぎて、対話の中に対立点・緊張点がほとんどない。しかも話の中身が総じて観念的・抽象的にすぎ、読者の側が置いてけぼりをくっている印象。

 「超能力者」清田益章と編んだ『サイキの海へ』は、ある意味トンデモ本。スプーン曲げくらいはまだしも、清田が火星にテレポートしただの、「ゼネフさん」と名乗る宇宙人(?)にいつも見守られている、なんて話になると、私にはもうついていけない。

 いや、この対談集を編んだ宮内さんの意図が真摯なものであることは、よくわかっている。
 代表作『ぼくは始祖鳥になりたい』でも、それを書くためのフィールドワークから生まれた『宇宙的ナンセンスの時代』でも、宮内さんは「新しい世界モデル」を探し求めていた。そして、1970年代の日本に陸続と現れた「超能力少年」たちの中に、その世界モデルの萌芽を見出していたのだ。

 『サイキの海へ』のあとがきにも、次のような一節がある。

 テクノロジーと経済原理による世界モデルが頭打ちになったとき、石垣島で出会った老シャーマンや、アメリカ・インディアンの呪師、金属スプーンを曲げてしまう少年たちが、人類の次のステップとして大切なものとなることを、ぼくは直感している。この対談でもくり返し語られているように、スプーン曲げはただの入り口にすぎないのだ。



 『ぼくは始祖鳥になりたい』も、元「超能力少年」ジローを主人公にしていた。ジローの人間像にも、清田益章との交友が少なからず反映されている。
 
 4冊のうちでは、『日本社会がオウムを生んだ』を、いちばん面白く読んだ。オウム真理教の元出家信者・高橋英利との対談である。

 信州大学大学院で天文学を学び、出家前には野辺山天文台で研究生活を送っていたという高橋英利は、オウムの会員に多かった理系エリートの1人であった。

 高橋は、宮内さんとの対話の中で、自らの心の軌跡を誠実に振り返っていく。その告白は、「知的で真面目な理系エリートの青年たちが、なぜ麻原彰晃などという男に心酔してしまったのか?」という我々の疑問を解き明かすものだ。

 あとがきで、宮内さんは高橋についてこう書いている。

 まだ教祖が逮捕されていない時点から、かれは危険をかえりみず、高橋英利という実名をさらけだして、まっさきに内部告発を始めた。しかも、ふつうの意味での内部告発とはまったく異質だった。麻原に騙されてしまったと、一八○度くるりと転向して、批判者の側に回るのではなかった。教団の犯罪に愕然としながらも、自分がオウム信者の一人であったことを受けとめ、内在的に考えていこうとする姿勢が貫かれていた。


 
 いっぽう、宮内さんも、高橋の血の出るような告白をまっすぐに受け止める。高所から教え諭す姿勢ではなく、同じ目線の高さから。この対談集をつらぬいているのは、両対談者の真摯な姿勢である。


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橋本忍『複眼の映像』

複眼の映像 私と黒澤明複眼の映像 私と黒澤明
(2005/10/25)
橋本 忍

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 橋本忍著『複眼の映像 ――私と黒澤明』(文藝春秋/2100円)読了。

 『羅生門』『生きる』『七人の侍』など、黒澤明絶頂期の傑作を手がけた戦後を代表するシナリオ作家が、それらの作品の舞台裏を中心に綴った回顧録。

 この本は、ゴーストライターの手を借りずに本人が書いていると思う。ライターが介在すればもっとすっきりした文章になるはずだから。
 ゴツゴツした感触の悪文で、けっして読みやすくはない。プロデューサーを「プロジュウサー」と表記していたりして、言葉遣いもいかにも大正生まれらしい古臭さ。
 それでも、黒澤映画が好きな人間にはたまらなく面白い本。一気に読んでしまった。

 黒澤作品の多くは、黒澤と脚本家との「共同脚本」で作られた。それも、「同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる」という、他に類を見ない形式であった。そこにこそ「黒澤作品の最大の特質」がある、と橋本は言う。

 「共同脚本」の数少ない当事者の1人である橋本が、『羅生門』『七人の侍』などの世界的名作の創造過程をつぶさに明かしたのが本書だ。そのプロセスには、優れた表現者同士が全身全霊でぶつかり合う“精神の死闘”の趣がある。

 随所にちりばめられた名作の舞台裏のエピソードも、興趣尽きない。
 たとえば『生きる』の場合、黒澤が「あと75日しか生きられない男」というテーマだけをまず提示し、そこから橋本が主人公像や物語の大枠を作っていったのだという。

 圧巻は、『七人の侍』をめぐるドラマ。あの映画の着想を得るまでに、黒澤・橋本コンビは企画を2本ボツにしたという。それも、企画書段階ではなく、ストーリーができあがってからのボツである。

 一本は『侍の一日』という脚本で、ストーリーのポイントとなる“主人公の侍が城で昼食をとる”という場面がネックとなって頓挫した。時代背景となる江戸初期に侍が昼食をとっていたことの確証が、どうしても得られなかったからだという。

 もう一本はその次に企画された『日本剣豪列伝』で、これは脚本第一稿が完成した段階でボツが決定。
 『七人の侍』は、2つのボツ企画を踏み台として生まれた。

 『日本剣豪列伝』をボツにすると決めたあとの雑談の中で、黒澤がポツリと言う。“全国を旅して回る武者修行の費用は、いったいどうやって捻出していたのかね?”と。
 橋本は、東宝文芸部員にその疑問の答えを調べさせる。

 旅籠などない時代、武者修行者は、手合わせした道場や近在の寺に食事や宿泊場所を提供してもらって旅をつづけたという。
 では、道場も寺もない土地に入りこんでしまったら? その場合、どこかの村へ入り、寝ずに夜盗の番をする代償に食事の提供を求めたのだという。

「百姓が侍を雇う?」
「そうだよ」
 私は瞬間に黒澤さんを見た。黒澤さんも強い衝撃で私を見ている。二人は顔を見合わし――無意識に強く頷き合った。
「出来たな」
 黒澤さんが低くズシリという。
「出来ました」



 これが、『七人の侍』の着想が生まれた、大げさに言えば歴史的瞬間である。このような“日本映画の歴史的瞬間”が、本書には数多く記録されている。

 本書は、黒澤明の核に肉薄した秀逸な作家論としても読める。橋本が脚本に携わっていない黒澤作品にも言及されているが、その分析は、黒澤絶頂期の伴走者ならではの鋭さをもったものだ。
 たとえば、『影武者』『乱』の2作を著者は失敗作と断じているが、失敗の内実を分析するその言葉は、橋本忍にしか書き得ないものである。
 
 映画に造詣の深い読者ほど楽しめる一冊だが、映画好きならずとも、全編に横溢する著者たちの“創作にかける情熱”に胸打たれるにちがいない。

 日本映画の巨匠の実像を明かしたノンフィクションというと、小津安二郎の助監督をつとめた経験もある直木賞作家・高橋治が小津を描いた傑作『絢爛たる影絵』がある。
 本書は、文章こそ『絢爛たる影絵』に劣るものの、面白さと資料的価値では引けをとらない。映画ファン必読の書だ。


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大藪春彦のトンデモ小説『餓狼の弾痕』

餓狼の弾痕 (角川文庫)餓狼の弾痕 (角川文庫)
(1997/08)
大藪 春彦

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 久々に映画版『蘇る金狼』『野獣死すべし』を再見したので、大藪春彦にかぶれていた少年時代のことを思い出してしまった。

 『蘇る金狼』『野獣死すべし』のほか、『汚れた英雄』『傭兵たちの挽歌』『黒豹の鎮魂歌』『血の来訪者』『東名高速に死す』など、読みまくったものだった。
 ちなみに、私がいちばん好きな大藪作品は、『野獣死すべし』の第2部「復讐編」(これも藤岡弘主演で映画化されている)。

 で、「そういえば、晩年の作品『餓狼の弾痕』(角川文庫)が『トンデモ本の世界R』に取り上げられていたなあ」とふと思い出し、図書館で借りてきて読んでみた。『傭兵たちの挽歌』以降、大藪作品は読まなくなっていたので、これは初読。

 ううむ、これはたしかにスゴイ。世紀の怪作である。
 まるで、“大藪作品にかぶれた頭の悪い中学生が「オレも大藪みたいな小説を書くぞー」と意気込んでノートに書き散らした小説モドキ”みたいな作品なのだ。

 悪事をなして大金をもうけた政界のドンなどを標的に、彼らから財産を奪い取ることを業とした秘密組織「オペレーション・ヴァルチュアー」の活躍を描いた作品。……なのだが、その中身がぶっ飛んでいる。「オペレーション・ヴァルチュアー」の面々が悪玉を拷問して財産を奪い取るプロセスが、最初から最後までまったく同じなのだ。

 殺し方も同じ。口にするセリフまでほとんど同じ。殺す相手の名前などのデータが入れ替わるだけ。そのプロセスが20回以上くり返され、「そしてオペレーション・ヴァルチュアーは次の獲物を狙っている」という一行で唐突に作品は終わる。

 小説というより、悪趣味なミニマル・アートのようだ。大藪春彦は狩猟が趣味で、仕留めた野生動物の生肉をよく食っていたらしいから、何か悪い寄生虫にでも脳をやられていたのではないか。…と、そんなことすら考えたくなるすさまじい内容である。

 何よりスゴイのは、これが月刊『野生時代』に連載されていた作品だということ。作品がここまでぶっこわれていたのに、担当編集者も編集長も、相手が大物だから何も言えなかったのだなあ。


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梯久美子『散るぞ悲しき』

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道
(2005/07/28)
梯 久美子

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 梯(かけはし)久美子著『散るぞ悲しき/硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社/1575円)読了。今年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作である。

 梯久美子――この女性ライターは只者ではないと、前から思っていた。『アエラ』の看板連載「現代の肖像」の常連執筆者なのだが、彼女が書く回はいつも絶品なのだ。脚本家の中園ミホを取り上げた回など、あまりの素晴らしさに何度も読み返したものである。
 
 これは、意外にも彼女にとっては初の著作だそうだ。
 
 太平洋戦争末期、本土防衛の最大の要衝となった硫黄島。その総指揮官として米軍を迎え撃ち、すさまじい死闘の果てに散っていった栗林忠道を主人公としたノンフィクションである。
 
 米軍は物量で圧倒的に勝り、しかも本土の日本軍は早々に硫黄島を見捨てた。栗林が率いた兵団は、初めから全滅を決定づけられていた。劣悪きわまる条件のなか、名将・栗林は、米軍すらもその知略と統率力を讃えたほどの闘いをくり広げた。
 
 本書の感想を記したブログを検索してみると、「戦記ものとしては中身が薄い」といった苦言がいくつか目についた。
 そりゃまあ、著者はとくに右がかっているわけではない40代の女性なのだから、軍事オタク/戦記オタクの目から見たら物足りない面もあるだろう。

 しかし、本書はそもそも「戦記もの」ではないと思う。
 栗林が指揮官に赴任してから最期までが描かれているし、戦況・戦略の分析も過不足なくなされてはいるが、著者の筆は栗林の人間像のほうに重点を置いている。それも、「軍神」としてではなく、優しさ・あたたかさ・繊細さに満ちた一個の人間としての栗林が描かれているのだ。

 本書の要所要所で重要な役割を果たすのが、栗林が戦地から本土の妻子に宛てた41通の手紙である。その内容はいずれも、1人の夫・父親としてのあたたかいまなざしに満ちたものであった。

 また、食べ物も飲み水も乏しい硫黄島にあって、栗林は総指揮官でありながらけっして自分を特別扱いさせなかった。

島での栗林は、毎日隅々まで歩いて陣地構築を視察し、率先して節水に努め、みずから畑を作った。自宅からの差し入れを断り、三度の食事は兵士と同じものを食べた。兵士たちの苦しみの近くにあることを、みずからに課していたのである。

 
 そうした姿勢は、最後の戦闘まで変わることがなかった。

 玉砕を覚悟した最後の出撃に際し、将軍は陣の後方で腹を切るのが当時の通例だった。しかし栗林はそれをあえて破り、みずから陣頭に立った。
 戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索したが、階級章を外していたため発見できなかったという。栗林は部下の兵士たちと同じく、誰のものとも分からぬ骨として島の地下に眠ることを選んだのである。


 ただし本書は、日本軍や太平洋戦争を美化する書物ではけっしてない。むしろ、栗林の将としての姿勢は、典型的日本軍人のそれとは似て非なるものだった。彼は、敵軍に向かって無謀に突撃して果てる「バンザイ突撃」を、部下にけっして許さなかったという。
 「(日本軍の)見通しの誤りと作戦の無謀を『美学』で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか」と書く著者は、その視点を栗林と共有している。

 日本軍を美化するのではなく、事実を見据えたうえで、著者は栗林を1人の「誇るべき日本人」として描き出し、深く哀惜するのだ。

 書名は、「訣別電報」に記された栗林の辞世の句からとられている。

「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

 帝国軍人が辞世の句に、死にゆく兵士の姿を「悲しい」と書くことは異例である。とくに、2万人の兵を統率する指揮官にとっては、タブーを犯す行為であった。「悲しき」の一語には、栗林が軍部に向けたぎりぎりの抗議がこめられていた。当時の大本営は、この句を「散るぞ口惜し(くちおし)」と改竄して報道させたという。

 悲運の名将の最期は、諸葛孔明の最期を彷彿とさせる。「~散るぞ悲しき」という辞世の句は、孔明の最期を描いた「星落秋風五丈原」の哀切な旋律のようだ。

 梯久美子の筆は抑制がきいているが、それでも、涙なしに読めない場面がいくつもある。電車の中で読んではいけない本だ。

 たとえば、69歳になっていた栗林の末娘・たか子を、著者が取材する場面。その冒頭がじつによい。

 夕空はれて 秋風吹き
 月影おちて 鈴虫鳴く

 細く美しい声で、その人は歌い出した。薄化粧した頬を、涙が伝った。
「この歌を、地下壕掘りを終えた帰り道、海軍の少年兵たちが口ずさみながら歩いていたんですって。ご存じ? 硫黄島には、16歳の兵隊さんもいたんですよ」
(中略)
 まだ幼さの残る声のまま、少年兵たちは死んでいった。父の最期について語ったときも、「たこちゃんへ」ではじまる手紙が話題に上ったときも平静だった彼女が、彼らを思って泣いた。それはまるで、父の悲しみが60年近い時を超え、娘の涙となってあふれ出たかのようだった。


 うまいなあ、文章。

 そういえば、クリント・イーストウッドの監督としての次回作は、『硫黄島からの手紙』だという。その映画の中で、栗林忠道はどのように描かれるであろうか。
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『蘇る金狼』『野獣死すべし』

野獣死すべし 野獣死すべし
松田優作 (2000/12/22)
PI,ASM/角川書店

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 「GyaO」で松田優作特集をやっているので、思わず『蘇る金狼』と『野獣死すべし』をつづけて観てしまった。仕事も忙しいのに何をやっているんだ、オレは。

 2作とも、私は封切り当時に映画館で観ている(中学から高校くらいのころ)。大藪春彦の原作も好きだった。まあ、男子はああいうものにかぶれる時期があるのだ。

 角川映画・大藪春彦原作・村川透監督・松田優作主演という条件は共通なのに、2作がまったく異なるムードに仕上がっているのが面白い。

 『蘇る金狼』は、「大藪春彦ワールド」の完璧な映画化である。いっそ気持ちよいほどのマチズモの横溢。「周回遅れの日活アクション」ともいうべき、荒唐無稽だけどシャレっ気に満ちた映画。

 大藪の原作を読んでいない若い人がいまこの映画を観たら、ツッコミどころ満載であろう。一市議会議員が裏でマフィアのボスみたいなことをやっていたり(笑)とか、「ありえねー」の連続。オソロシイことに、原作もおおむねこんなものなのである。

 しかし、「ありえねー」の連続でありながら、十分楽しめてしまうのが「大藪春彦ワールド」なのだ。
 松田優作は、こういう役をやらせるとじつに絵になる俳優であった。豹のような身のこなしがいちいち美しい。

 『野獣死すべし』は、脚本の丸山昇一(と、その盟友・松田優作)が、確信犯的に原作をぶち壊し、「自分の作品」にしてしまった映画。
 「主人公が完全犯罪として現金強奪を行う」という骨格だけがかろうじて残っているが、あとは原作とは似ても似つかない。原作は痛快ピカレスク・ロマンなのに、この映画はキモオタ犯罪者が主人公の風変わりなクライム・サスペンスになっているのだ。

 大藪春彦は、この映画を観て激怒したらしい。そりゃそうだろう、自分のデビュー作にして代表作が、ここまで換骨奪胎されてしまっては。

 主人公・伊達邦彦は、原作では美貌と才智と並外れた身体能力を兼ね備え、冷酷非情に完全犯罪を行う「優雅なる野獣」である。しかし、この映画の伊達邦彦は、戦場カメラマンとして地獄を見たことから精神に異常をきたし、犯罪にしか情熱を傾けられなくなった不気味なサイコパスなのである。松田優作のキャリアの中でも、ひときわ異彩を放つ作品。

 ある意味、「角川映画の中のカルト・ムービー」。でも、細部にはキラリと光る部分もたくさんあって、私はけっこう好きだ(ちなみに、優作の主演作では『ヨコハマBJブルース』と「遊戯」3部作が私のお気に入り)。
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柄谷行人『世界共和国へ』

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて 世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて
柄谷 行人 (2006/04)
岩波書店

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 柄谷行人著『世界共和国へ』(岩波新書/740円)読了。
 柄谷が出した初の新書ということで、ずいぶん話題になっている本。

 新書という出版形態にはもともと入門書的な色合いが強いわけだが、本書もある意味「柄谷行人入門」という感じ。柄谷の近年の思索の核心部分を、わかりやすくコンパクトにまとめたものになっているのだ。もっとも、「柄谷行人にしてはわかりやすい」だけで、この本も十分に難解ではあるけれど……。

 具体的には、大著『トランスクリティーク――カントとマルクス』(2001年)と、構想中だというその続編のエッセンスを凝縮したのが本書である。

 『トランスクリティーク』で、著者は今日の世界が「資本=ネーション=国家」の三位一体構造として存在していること、それらは「互酬」「再分配」「商品交換」という三つの異なる「交換様式」に基盤を置いていることを分析した。そしてそのうえで、世界をおおう「資本=ネーション=国家」の結合体を超え出るための「第四の交換様式」の可能性を提示してみせた。

 それは、自由な個々人が、国家の拘束から解放され、搾取も強制もされることなく互酬的な交換を行うというもので、著者はその交換様式を「アソシエーション」と名づけた。本書は、この「アソシエーション」についての構想を、さらに一歩推し進めたものである。

 「世界共和国」とはカントが提唱した理念で、いわば国連(これもカントの考えが基になっている)の発展形態。
 「アソシエーション」の実現には、環境保護や反戦など民衆による「下からの運動」と、国家の力を制御して人々の自由を護る「上からの運動」が、ともに不可欠であると柄谷は言う。
 「世界共和国」という言葉は、その「上からの運動」の象徴として、また、「アソシエーション」が実現した世界の象徴として用いられている。

 全4部構成のうち、第Ⅲ部までは、「資本=ネーション=国家」の三位一体構造がどのように形成されたかについての詳細な分析である。

 柄谷は、古代から現代までの世界史を、「交換様式」という独自の観点から捉え直していく。世界史を自分なりの切り口で腑分けし、すっきりと単純化してみせる手際の鮮やかなこと。

 そして同時に、世界を鳥瞰的に捉えようとした古今の思想家たちの思索のエッセンスが、自在に引用・分析・批判されていく。

 この部分は、スゴイ。マルクスからネグリ&ハートに至るまで、言及されている思想家たちの「核」の部分をじっと見据えて、評価すべき点とダメな点を明快に指摘していく。並外れた博識と分析力。一流の批評家のすごさを思い知らされる。

 そうやって、著者にとっての“揚棄すべき敵”の正体をじっくり見据えたあと、第Ⅳ部で「世界共和国」へのはるかな展望が語られる。
 
 しかし、肝心のこの部分、すなわち人類が直面している危機を乗り越えるために「国家と資本を統御」する方法が、抽象的でよくわからない。
 具体的な方法として出てくるのは、「各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということ」くらい。そんなこと、いまさら言われるまでもない気がしてしまうのだが……。

 ともあれ、いまどき「世界の進むべき道」を真正面から模索する志の高さは買う。「ほぼできあがっている」という『トランスクリティーク』の続編で、もっと具体的な処方箋が示されることを期待したい。
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宮内勝典『戦士のエロス』『LOOK AT ME』

戦士のエロス 戦士のエロス
宮内 勝典 (1992/09)
集英社

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 宮内勝典著『戦士のエロス』(集英社)、『LOOK AT ME/おれを見てくれ』(新潮社)読了。

 宮内さんのエッセイ集のうち、まだ読んでいなかった2冊である。近く、宮内さんの新しいエッセイ集が刊行されると聞いたので、それを読む前に既刊エッセイも読み尽くしておこうと思い、アマゾン・マーケットプレイスで入手したしだい。

 宮内さんは私が敬愛してやまない小説家だが、エッセイを書かせてもバツグンである。
 これまで読んだ中では、『この惑星こそが楽園なのだ』(講談社)と、『海亀通信』(岩波書店)所収の読書と文学についてのエッセイがとくに素晴らしかった(中上健次への追悼文など、泣ける)。

 『LOOK AT ME』は、1983年に出た第一エッセイ集。作家デビュー前の1970年代に書かれたエッセイも数編収めており、それらの文章がいまの宮内さんの文体とはかなりちがう。もっと生硬で、過度に観念的で、じつに読みにくいのだ。

 宮内さんといえども最初から名文家であったわけではなく、少しずつ腕を磨いてこられたのである(あたりまえだけど)。そのことを知って、なんとなく安心。

 『戦士のエロス』は92年刊で、対談・鼎談やインタビューも収録された、やや変則的なエッセイ集。対談相手は、島田雅彦、藤原新也、辻仁成、横尾忠則など。

 対談の中にはきらりと光る言葉もあるが、総じて玉石混淆。とくに出来が悪いのが、今福龍太・中沢新一との鼎談と、文芸評論家・秋山駿との対談。
 前者は、テープ起こしをそのまま載せたかのようにまとまりがない。なにしろ、鼎談の結びは次のような発言なのだ。
 
【引用始まり】 ---
宮内 これでいいのかな……。国際性と世界性、あるいは世界への超出といったテーマは出ましたが、大切な話がほかになにも出なかったような気がしますけれど……。
【引用終わり】 ---

 こんな不出来な鼎談、収録しなければよかったのに(笑)。
 秋山駿との対談は、宮内さんの発言はよいのだが、秋山がひどい。話の中身が、まるで酔っぱらっているようにとりとめなくて支離滅裂なのだ。

 まあ、小説家は「語り手」ではなく「書き手」だから、作家の対談集で面白いものはむしろまれなのだけれど(龍・春樹の「両村上」による『ウォーク・ドント・ラン』も、内容の薄い対談集だったなあ。絶版のままなのもうなずける。もっとも私は、2人でトランペッターのチャック・マンジョーネをこきおろしているくだりしか覚えていないけど)。
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Cocco『ザンサイアン』


ザンサイアン(初回限定盤)(DVD付)ザンサイアン(初回限定盤)(DVD付)
(2006/06/21)
Cocco

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 6月21日発売のCoccoのニュー・アルバム『ザンサイアン』(ビクター/3045円)を、サンプル盤でいち早く聴いた。前作『サングローズ』からじつに5年ぶりの新作である。

 過去4枚のアルバムと比べ、いちばん力強いロック・アルバムに仕上がっている。ファーストからサードまでには色濃くあったドロドロした鬱屈感は削ぎ落とされ、ポジティヴな生命力がみなぎっている音。

 Coccoはかつて、「遺書。」や「Raining」といった名曲で、自殺衝動を美しいロックに昇華してみせた。そうした曲に共感したリストカッターやひきこもりの少年少女たちにとっては、本作は期待はずれかもしれない。

 このアルバムの中からは、むしろ「生きろ!」というCoccoの呼びかけが聞こえてくるようだ。初期のCoccoでは「死/タナトス」に向けられていた表現衝動が、ここでは「生/エロス」に向けられている――そんな印象がある。

 たとえば、M2「暗黙情事」。エロティックな歌詞とオルタナ・ロック的な轟音ギターが印象的な曲だが、この中でCoccoは性をおおらかに謳いあげている。
 性、ひいては生の礼賛。それがこのアルバムの“隠れテーマ”ではないか。

 また、いくつかあるバラードには、静謐な幸福感と、アニミズムにも近い自然賛美が共通して感じられる。
 たとえば、「夏色」という曲のリフレインは「君の好きな 花が咲いてたよ」というもの。ただそれだけの言葉が、なんと深く心にしみることか。好きな花が咲いていれば、海があれば、空があれば、ほかには何もいらない――Coccoがそう言っているように思える。ここにも「生の肯定・賛美」がある。

 それでいて、くるりのメンバーとコラボした臨時バンド「シンガー・ソンガー」のアルバムほど軽快ではなく、Coccoらしい情念に満ちている。なんというか、「ずっしりとした重みがあるけれど明るい音」なのだ。

 「ザンサイアン」とは、「人魚が見た真の青」を意味する造語だという(「ザン」は沖縄の古い民話に登場する人魚の名で、「サイアン」とは色の「シアン」のこと)。
 このアルバムの印象を一語で的確に表現したタイトルだと思う。沖縄の原色の自然を思わせる、よけいな装飾を削ぎ落としたシンプルな音。そして、全編につらぬかれた神話的な深み――。

 たとえば、私がいちばん気に入った「唄い人」というバラードには、こんなリフレインがある。

星を鳴らして/呼び合えば/夜をひとふり/鈴が鳴る



 Coccoの作品は、彼女自身のシャーマン的なイメージのせいもあって、これまでも沖縄という地の神話性とからめて論じられることが多かった。この新作は、ほかならぬCocco自身が「沖縄の神話性」に真正面から向き合った作品に思える。

 ともあれ、新作を待ちわびたファンの期待を裏切らない充実の復活作だ。先行シングル「音速パンチ」「陽の照りながら雨の降る」も収録。
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角川春樹『わが闘争』


わが闘争―不良青年は世界を目指すわが闘争―不良青年は世界を目指す
(2005/06)
角川 春樹

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 角川春樹著『わが闘争』(イースト・プレス/1500円)読了。
 
 角川春樹が、生い立ちから現在までを語りおろした本。
 と学会の「日本トンデモ本大賞2006」にもノミネートされたほどぶっ飛んだ内容だが、けっこう面白かった。

 「トンデモ本」扱いされているのは、第2章で著者のオカルティックな側面が全開されているため。UFO目撃体験とか、自分の“霊的パワー”について大マジメに語っている。
 いわく――。

 自分を「歩く神社」のような存在だと思っている。つまり、おれが移動すると、そこに一種のおれの精神パワーの領域ができる。(中略)台風にしても、おれがいればそこは避けて通る。

 

 ううむ…。だが、こういう部分で投げ出さずに最後まで読んでみると、あとの章は意外にまっとうだ。

 生い立ちを語った章は、とくに読みごたえがある。
 角川書店創業者である父との激しい葛藤、妹の自殺などの悲劇に暗く彩られた青春時代は、「神話的」といってもよいほどドラマティックだ。

 また、角川書店の社長となって「出版界の風雲児」としてのしあがっていくプロセスを語った章も、すこぶる面白い。豪快な武勇伝と意外な舞台裏エピソード満載である。
 たとえば、横溝正史ブームについてのくだり――。
 

 当時、すでに横溝さんは過去の人になっていて、亡くなったと思っている人が多かった。おれでさえ、最初は亡くなっていると思っていた。遺族に会いに行くつもりでお宅にうかがったのは、一九七○(昭和四十五)年十二月下旬だった。うかがったところ、ご本人が健在だったので、びっくりしてしまった。



 笑える一節をもう一つ引用しよう。

 (五度目の妻と)慰謝料を三千万円払って離婚した。この五度目の妻を詠んだ俳句は三句、俳句に換算すれば一句一千万円かかったということになる。

 

 「俳句に換算」て……。

 考えてみれば、私の感性の「土台」は、70年代後半から80年代半ばにかけて角川春樹が作り上げたカルチャーに、かなりの部分を負っている。
 薬師丸ひろ子の大ファンだった私は、少年時代、彼女の「ファンジン」と化していた角川書店の月刊誌『バラエティ』を毎号熟読しており、同誌の幅広い記事によってカルチャーを見る眼の基礎を養ったのだ。

 あのころの『バラエティ』は面白かったなあ。
 たとえば、呉智英の文章を私が初めて読んだのは、『ガロ』でも『宝島』でもなく『バラエティ』でだったと思う。南伸坊も大友克洋も吉田秋生も、私は『バラエティ』で知ったのだ(その後、編集長が替わったら急につまらなくなり、すぐに廃刊した)。

 → 『バラエティ』についてはこちらを参照

 言ってみれば、私は角川春樹に少しばかり恩義がある。
 だから、いまでも角川映画や「角川商法」(※)を馬鹿にする気にはけっしてなれないのである。

※大ざっぱに説明すれば、「メディアミックスによる大規模宣伝で強引に一つのブームを作り上げ、文学だろうが学問だろうが、なんでもかんでもエンタテインメントにしてしまう出版手法」ということになるか

 てゆーか、角川春樹が作り上げた「角川商法」は、いまや出版界のメインストリームをなしているわけだし。
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『奇跡の夏』

奇跡の夏 [DVD]奇跡の夏 [DVD]
(2007/06/27)
パク・チビンソ・テハン

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 『奇跡の夏』を観た。
 7月公開予定の韓国映画。脳腫瘍に冒された少年とその家族の悲しみと希望を描いた、実話に基づいた作品である。

 公式サイト→ http://www.kisekinatsu.jp/
 
 「実話を元にした難病もの」という点では、最近テレビドラマになった『1リットルの涙』などと同系列の作品。ただ、この『奇跡の夏』は、患者当人や両親よりも幼い弟の視点にウエイトを置いている点が特長だ。

 弟のハニはまだ9歳。脳腫瘍になった3歳上の兄を、大人のように思いやることができない。発病以来、両親が兄ばかりかまっていることも不満で仕方がない。だから、わがままばかり言って両親を困らせ、病気の兄ともしばしば衝突する。

 兄の闘病は、幼いハニにとっても人生で初めて出合う大きな試練だったのである。その試練を通じてハニが大きく成長し、家族愛・兄弟愛に目覚めていくプロセスこそが、この映画の核だ。

 そしてまた、これは少年たちの友情の物語でもある。ハニは、兄と同じ小児がん病棟で闘病をつづける同い年の少年・ウクと出会い、かけがえない友情を育んでいくのだ。

 安直な「泣かせ」の印象はなく、さわやかな感動を呼ぶ佳編。

 日本公開での「後援」に、「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」がくわわっている。難病の子どもたちの夢をかなえる活動をしているボランティア団体。私は昨年、この団体の活動を取材して強烈な印象を受けた。

 映画の中で、ハニは危篤状態に陥ったウクを救おうと、ウクがあこがれている人気コメディアンに見舞いにきてもらうべく奔走する。そして、そのコメディアンに会えたことで、ウクは奇跡的に意識を取り戻すのである。
 ――このエピソード自体はフィクションだが、「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」の活動の中では同様の「奇跡」が数多く生まれているそうだ。
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天野月子『天龍』ほか

天龍 天龍
天野月子 (2004/01/21)
ポニーキャニオン

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 最近気に入ってます、天野月子。
 「椎名林檎のエピゴーネン」的なイメージが強くて食わず嫌いしていたのだが、アルバムをじっくり聴いてみたらすごくよかった。

 現在までに5枚のアルバム(編集盤含む)を発表しているのだが、1枚ごとに進化している感じ。最近の作品は椎名林檎よりむしろよいのではないか。

 5月末にデビュー5周年を記念してシングル5枚同時発売(!)をしたのだが、これがまたみんなよい。とくに、「烏(カラス)」と「ウタカタ」は素晴らしい曲だ。

 たまたま椎名林檎より少しだけデビューが遅かったばかりに亜流扱いされるが、天野のほうがデビューが早かったら林檎のほうが「天野月子の亜流」として遇されたのではないか。

 たぶん、本人も椎名林檎を引き合いに出されることにウンザリしているのだろうな。たとえば、インタビューのときにはマネージャーが事前にライターにこう釘をさしたりして。

「ウチの天野は椎名林檎さんと比べられるとヘソ曲げちゃいますんで、その手の質問は避けていただけますか」

 …いや、私の勝手な想像だけど。

 それでもあえて比較するなら、歌詞と曲のオリジナリティは椎名林檎の勝ち。ただし天野月子も、独創性では一歩劣るものの、非常にいい詞、いい曲を書く。とくに、メロディ・メイカーとしての才は天野のほうが上だと思う。

 歌唱力は天野の勝ち。巻き舌シャウトが椎名林檎そっくりなのがやや難だけど。
 ルックスは、まあ互角か。2人とも、写真によって美人に見えるときとブスに見えるときがあり、落差が激しい(笑)。

 音楽性もわりと近いのだが、天野のほうがハード・ロック寄り。天野のバンド「プレイボーイズ」のギター、ベース、ドラムスはそれぞれ素晴らしい(ギターは「アースシェイカー」の人だそうだ)。

 ドッスンバッタンの轟音ロックなのだけれど、アンサンブルとメロディが非常に美しいので、少しも耳障りではない。昔のマキオズ(カルメン・マキ&OZ)とかを彷彿とさせるところもある。また、ときおり歌謡曲テイストが顔を出すあたりは、イエロー・モンキーを思わせる。
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佐伯啓思『学問の力』

学問の力  NTT出版ライブラリーレゾナント023 学問の力 NTT出版ライブラリーレゾナント023
佐伯 啓思 (2006/04/13)
NTT出版

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 佐伯啓思著『学問の力』(NTT出版/1600円)読了。
 西部邁の弟子筋にあたる保守論壇の新エースによる、学問論・教養論である。

 テープに吹き込んだ談話をもとにした「語りおろし」だという。そのため、この著者のほかの著作に比べればずいぶん荒削りな印象を受けるが、その分わかりやすい。

 内容もあっちこっちに飛んで、不統一きわまりない。

 1.日本の人文科学系アカデミズムに対する批判
 2.自らの青春時代からの「学び」体験回顧
 3.「2」をふまえた世代論
 4.「学問とは、教養とは、文化とは何か?」という根源的な問いかけ
 5.小泉首相の政治姿勢やグローバリズムに対する批判
 6.日米比較文化論

 …といったところが、未整理のまま混在している。
 ただし、「だから駄本だ」と言いたいわけではない。グチャグチャな内容ながらも、ハッとさせられる卓見がちりばめられていて、すこぶる面白い本であった。
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「出版記念パーティー」というもの

ナイスボール ナイスボール
村上 政彦 (1998/11)
集英社

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 昨夜は、村上政彦さんの新作『ハンスの林檎』(潮出版社)の出版記念パーティーへ。

 村上さんは、私にとっては数少ない「プロ作家の友人」の1人。いや、友人というよりは「畏友」、範とすべき先輩である。龍・春樹の「両村上」に比べればまだ知名度は低いだろうが、素晴らしい小説を書かれる方だ。

 これまでのおもな作品には、筒井康隆も絶賛した“都市伝説ホラー”の連作『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)や、相米慎二晩年の佳編『あ、春』の原作『ナイスボール』(集英社文庫)などがある。

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 「出版記念パーティー」のたぐいに参加するのはずいぶん久しぶりだ。思うに、出版不況の昨今はこの手のパーティー自体が激減しているのではないか。「内輪の集まり」だから、さして本の宣伝になるわけではないし、あくまで著者に対するねぎらいの意味で行われるものなのだ。本が売れないいま、出版社としても、よほどのベストセラー作家でもないかぎり、いちいち出版記念パーティーなど開いている余裕はないのだろう。

 私がライターになった当時はバブル期だったから、あっちこっちで出版記念パーティーが開かれていた。しかも、一流ホテルのバンケット・ルームでやるような豪華なものが多かった。駆け出しの私にとって、そうしたパーティーは人脈を広げる格好の機会だった。飲み食いそっちのけで名刺を配りまくったものだ。

 バブル期がむしろいちばんビンボーだった私だが、出版記念パーティーで人脈が広がったことは、唯一受けた「バブルの恩恵」かもしれない。
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『バタアシ金魚』再見

バタアシ金魚 バタアシ金魚
伊武雅刀、 他 (1997/10/22)
ビクターエンタテインメント

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 仕事が一区切りついたので、久々のオフ。来週からまた忙しいのだが、今日は意地でも仕事をしないのである(笑)。

 パソコンテレビ「GyaO」のコンテンツに松岡錠司の『バタアシ金魚』があったので、久々に再見。封切り時に観て以来だから、16年ぶり(ひえー、もうそんなに経つのかぁ)。

 封切り当時にはたいそう気に入った青春映画だけど、いま観るとそれほどでもない。てゆーか、これは「スクリーンで観ないとよさが十分わからない映画」なのだろうな。

 とはいえ、夏という季節の「空気感」をこれほど鮮やかに刻みつけた映画も珍しい。
 マンガの映画化としても、一、二を争う成功作ではないか。私は望月峯太郎の原作も大好きだったけど、映画版を観て少しも失望しなかった。

 筒井道隆のデビュー作でもあり、少年時代の浅野忠信(声変わり前!)が見られる作品でもある。
 しかし、これはなんといっても高岡早紀のための映画だ。

 高岡早紀は、生まれる時代がほんのちょっと早すぎたと思う。この映画の中の彼女は見事な童顔巨乳で、しかもあどけなさと「ツンデレ系」のクールさを兼ね備えている。まるで、いまどきの萌え系マンガから抜け出してきたよう。
 彼女がいま15歳だったら、日本中のロリオタ(私はちがう)たちの「女神」となったにちがいない。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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