アジアン・カンフー・ジェネレーション『ファンクラブ』

ファンクラブの画像

  アジアン・カンフー・ジェネレーションのニューアルバム『ファンクラブ』(キューンレコード/3059円)を、サンプル盤を送ってもらって聴いた。3月15日発売。
 
 先行シングル「ブルートレイン」「ワールドアパート」やコンピ盤で発表された「ブラックアウト」も収録され、昨年来の彼らの活動の集大成となるアルバム。

 パンクに近いシンプルな音だった最初の『崩壊アンプリファー』に比べると、ずいぶん大人っぽい音になった。リズムは山あり谷あり、アレンジはより複雑になり、音の随所に実験的な試みがちりばめられている。

 初期衝動を叩きつけるようなデビュー当時の音が好きだった人には物足りないかもしれない。が、私はアジカンのアルバムではこれがいちばん気に入った。アジカンのファン層の中心は10代・20代だろうが、本作はむしろ耳の肥えた30代以上の大人のロックファンに受けそう。

 相変わらず、歌詞が素晴らしい。「いまどきの若者」たち、それもどちらかといえば部屋にこもりがちなおとなしい若者の心象風景を鮮やかに描いている。

 かりに私がいま「ひきこもり」や「ニート」の若者であったなら、このアルバムに収められたいくつかの曲を聴いて、心を鷲づかみにされるだろう。「これは自分のことを歌った曲だ」と感じるだろうから。
 たとえば、こんな歌詞――。

【引用始まり】 ---
 尖ったナイフみたいな心で/細長く意味もない日々を削る/積もった過去とか退屈とか/燃えないゴミの日に出して そのまま(「バタフライ」)
【引用終わり】 ---
 この曲は90年代以降の「終わりなき日常」を描いて出色だし、次に引く「桜草」のように、明らかに「ひきこもり」の若者を主人公にした曲もある。 

【引用始まり】 ---
 閉ざしていた窓を少し開く/差し込む光に目が眩んだ/モノクロの部屋に色が灯る/消えかけていた僕を照らすように(「桜草」)
【引用終わり】 ---
 アジカンの歌詞は、しばしば「日本語ロックの先達」はっぴいえんどと比較される。たしかに、はっぴいえんどのたとえば「12月の雨の日」が1970年代初頭の「気分」を余すところなく表現していたように、アジカンの新作には2006年の若者たちの「気分」が、彩度鮮やかにパッケージされている。

 それにしても、2月に先行シングルとして発売されたばかりの「ワールドアパート」は、じつに素晴らしい曲だ。このアルバムのベストトラックであり、アジカンというバンドの魅力がギュッと凝縮されている。

 私はアジカンについて、「ナンバーガールとくるりの間を結ぶバンド」だと感じているが、この「ワールドアパート」はまさに、ナンバガとくるりの魅力を兼ね備えた曲だ。イントロはナンバガの「透明少女」を思わせるし、シャウトの中に秘められた美メロもナンバガ譲り。いっぽう、シャウト部分にたどりつくまでの乾いた哀愁はくるり風味である。

 「ワールドアパート」というタイトルから、アパルトヘイトとか南北問題などを歌った社会派な内容を歌った曲を思い浮かべる向きは多いだろう。が、そうではない。この曲は文字どおり、主人公の若者が住む「アパート」から見た「世界」を歌ったものなのである。
 
【引用始まり】 ---
 遠く向こうで/ビルに虚しさが刺さって/六畳のアパートの現実は麻痺した
【引用終わり】 ---
 このリフレインは、明らかに2001年の同時多発テロを念頭に置いている。しかし、それを大上段に社会派ソングにせず、「六畳のアパートの現実」の中から描き出すあたり、いかにもアジカンらしい。 
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前原の1人として…

 「前原には失望した」「前原は卑劣だ」「前原はヘタレ」という叱声が日本中に満ちている今日このごろ。
 同じ前原の1人として、なんだか肩身が狭いのであった(笑)。

 「前原」姓には「まえはら」と「まえばら」の二通りの読みがあって、私も民主党の前原も濁らない「まえはら」のほうである。
  前原誠司が党首になったことで、「まえばらさん」と間違って呼ばれることが減ったような気がする。

 世代も近いし、同姓のよしみでなんとなく応援したい気もしていた前原誠司だが、ダメですねもう。

 関係ないけど、前原が党首になった直後、うちの奥さんは近所の主婦に「前原さんのご主人って……、もしかしたら民主党の党首ですか?」と言われたそうだ。
 おいおい、どれだけソーゼツな勘違いしとんねん。
  
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『単騎、千里を走る。』

単騎、千里を走る。 単騎、千里を走る。
高倉健 (2006/09/22)
東宝

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 『単騎、千里を走る。』を観た。
 チャン・イーモウ監督が、「あこがれの俳優」高倉健を主演に迎えて撮った作品。

 公式サイト→ http://www.tanki-senri.com/

 中国で最も人気のある日本の芸能人は、男なら高倉健、女なら山口百恵なのだそうだ。
 高倉健は主演映画『君よ憤怒の河を渉れ』(西村寿行の小説の映画化)が中国で大ヒットしたことから、山口百恵の場合はテレビドラマの『赤い~』シリーズが中国で高視聴率を上げたことから、それぞれ人気が決定づけられたとか。

 そういえば、数年前に中国中央電視台(国営テレビ局)のプロデューサーと話をする機会があったとき、「私は山口百恵さんの大ファンです」と言われて「へーえ」と思ったことがある。

 これは、高倉健を敬愛するチャン・イーモウが、彼の魅力を最大限に引き出すべく撮った映画だ。つまり、一種の「スター映画」。すべてが1人のスターを輝かせるために用意された映画なのである。
 ただし、「スター映画」という言葉からイメージされるお手軽さはまったくない。重厚で贅沢な作りの「スター映画」だ。

 したがって、観る側に高倉健への思い入れがあるかないかによって、評価が大きく分かれる映画だと思う。
 もちろん、父子の絆というこの映画のテーマは世界共通のものだけれど、高倉健という俳優をまったく知らない人が観たら、感動は半減してしまうのではないか。

 あと、出てくる中国人が1人残らずいい人・純朴な人ばかりである点も、人によっては鼻につくだろう。まあ、上質な「日中友好映画」と思えばよいか。
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村上春樹『意味がなければスイングはない』


意味がなければスイングはない意味がなければスイングはない
(2005/11/25)
村上 春樹

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 村上春樹著『意味がなければスイングはない』(文藝春秋/1333円)読了。

 ファンはみな知っていることだが、村上春樹は作家デビュー前には「ピーター・キャット」というジャズ喫茶のマスターをしていた。ジャズをはじめとした音楽に、非常に造詣の深い人なのだ。

 その村上による音楽エッセイ集。ジャズ、クラシック、ロックからJ-ポップまで、愛してやまない音楽家を1人ずつ俎上に載せ、それぞれ400字にして数十枚にのぼる長い文章を書いている。

 小説家が書いた音楽エッセイといえば、ハードボイルド作家・原リョウの『ミステリオーソ』を思い出す(もっとも、これは映画やミステリなどについてのエッセイも多く含む本だが)。
 原は、作家デビュー以前にはフリー・ジャズのピアニストをしていた人。それだけに、彼のジャズについてのエッセイはさすがに味わい深いものだった。

 村上春樹のこの本も、『ミステリオーソ』に劣らず質の高い音楽エッセイである。小説家の余技の域を越えて、まぎれもない「村上春樹の世界」が展開されている。
 取り上げられた音楽家のうち、シダー・ウォルトンというジャズ・ピアニストについて私はまったく知らず、プーランクとウディ・ガスリーにはまるで興味がない。にもかかわらず、彼らについて書かれた章も十分に愉しめた。

 村上の小説にもしばしば名前が登場するスタン・ゲッツやビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンについて書かれた章は、さすがの仕上がり。また、ブルース・スプリングスティーンについて、作家レイモンド・カーヴァーとの比較から描き出した一編も、村上以外には書き得ない名編といえよう。

 音楽についてのブログをやっている人たちは、この本を読むとよいと思う。「好きな音楽の魅力を語る文章は、こんなふうに書けばいい」という最高のお手本になるだろう。

 たとえば、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」について、村上は次のように書く。

 このニ長調のソナタはたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵を補ってあまりある、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に噴出し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、ニ長調のソナタはまさにその身も世もない崩れ方によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。



 さすがに表現がうまいなあ、とため息が出る。村上春樹をしてこんなふうに言わしめるピアノ・ソナタはどんな曲なのか、聴かずにはおれないような文章である。 

 もう一つ、スタン・ゲッツについて書かれた見事な一節を引こう。

 彼の当時の音楽には、予期しないときに、とんでもないところから、よその世界の空気がすっと吹き込んでくるような、枠組みを超えた自由さがあった。彼は軽々と世界の敷居を超えることができた。自己矛盾をさえ、彼は普遍的な美に転換することができた。しかしもちろん、彼はその代償を払わなくてはならなかった。「ジャズというのはね」と彼は晩年、あるインタビューの中で、まるで家庭の不快な秘密を打ち明けるように語った、「夜の音楽(night music)なんだ」。
 その言葉は、スタン・ゲッツというミュージシャンと、彼が作り出した音楽のすべてを語っているような気がする。



 難をいえば、スガシカオについてのエッセイは、ほかの9編と比べて明らかに出来が悪い。「へーえ、村上春樹がスガシカオを聴くのか」という意外性の面白さはあるが、それだけだ。この文章は削ったほうが、本としての完成度が上がったと思う。

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★オマケ「私が選ぶ音楽エッセイ・ベストテン」

 この『意味がなければスイングはない』を、私の心の中の「音楽エッセイ・ベストテン」に、謹んで加えさせてもらおう。
 ほかの9冊は以下のとおり(順不同)。

原リョウ『ミステリオーソ』(早川書房)
ピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』(新潮文庫)
野中映『名曲偏愛学』(時事通信社)
松村洋『8ビート・シティ』(新耀社)
辻信一『ブラック・ミュージックさえあれば』(青弓社)
中川耀『中川耀のジャズ・ダイアリー』(時事通信社)
渋谷陽一『音楽が終わったあとに』(ロッキング・オン)
松村雄策『アビイ・ロードからの裏通り』(ちくま文庫)
山川健一『今日もロック・ステディ』(講談社文庫)
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『チャーリーとチョコレート工場』

チャーリーとチョコレート工場 チャーリーとチョコレート工場
ジョニー・デップ (2006/10/06)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 『チャーリーとチョコレート工場』をDVDで観た。

 いやー、面白かった。ティム・バートン監督の世界全開。極彩色のダーク・ファンタジー。全編にちりばめられた毒気、黒い笑い。気持ちよーく歪んだ世界。もうサイコーである。

 ティム・バートンの『マーズ・アタック!』(私はこれも大好き)は、覇権国家アメリカのいい気な価値観(誰が頼んだわけでもないのに「世界の警察」を勝手に任じるところとか)に冷水をぶっかける痛快な映画であった。マンガみたいな火星人に大統領や米軍首脳たちが次々とブチ殺されていく場面に、不謹慎ながら腹を抱えて笑ってしまった。

 この『チャーリーとチョコレート工場』も、ロアルド・ダールの原作を借りて、米国的価値観を笑い飛ばす映画という印象を受けた。

 たとえば、舞台となるチョコレート工場の内部は、米国の象徴の1つディズニーランドのグロテスクなパロディのようだ。
 また、主人公チャーリー以外の4人の子どもたちの根性の悪さは、それぞれ米国的価値観の悪しき部分を象徴しているのではないか。金の力で何でも買えると思っているワガママな富豪の娘とか、他人を蹴落として勝つことだけに価値を見出している母子とか。

 もう1人の主人公であるチョコレート工場の主ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップが好演)は、町山智浩氏も指摘していたようにマイケル・ジャクソンを彷彿とさせるが、マイケルこそはある意味で米国の病理を象徴する存在なわけで……。

 これは、現代アメリカ社会をひとまとめに戯画化して笑い飛ばす映画なのだと思う。
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三浦大知『D-ROCK with U』

D-ROCK with U (DVD付) D-ROCK with U (DVD付)
三浦大知 (2006/01/25)
エイベックス・マーケティング

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 フリーの身には土日など関係なく、今日も明日も仕事だ。ちょっとブログ書いて息抜き。

 41歳の私がこういうのをほめるとナニかもしれないが、このところのヘビロ盤は、三浦大知の『D-ROCK with U』(エイベックス/3000円)である。

 元Folderの天才少年が、声変わりのための休養期間を経て再デビュー。フルアルバムとしてはこれが最初となる。
 
 「日本のマイケル・ジャクソン」という評判にウソはない。ヴォーカリストとして、ダンサーとして、図抜けた資質をもつ逸材である。

 とにかく声が素晴らしい。よく伸びる透きとおった声。艶っぽいのに崩れた感じがまったくなく、清潔感に満ちている。歌唱力もリズム感も申し分なし。

 三浦大知が似ているのは、近年の「こわれてしまった」マイケル・ジャクソンではない。「ベンのテーマ」とかを歌っていたころの、まだういういしかったマイケルに似ているのだ。

 惜しむらくは、アルバム収録曲の出来がかなり玉石混交である。
 先行シングル「Keep it Goin' On」や、マイケルの名曲「ヒューマン・ネイチャー」を彷彿とさせる清冽なバラード「Knock Knock Knock」などは、ほんとうに素晴らしい。だが、「捨て曲」としか思えないつまらない曲も何曲か散見される。

 マキシ・シングル「Free Style」にカップリングされていた「Be Shining」という曲が私は大好きなのだが、残念ながらこのアルバムには未収録。

 これだけの逸材なのだから、もっとよい曲を揃えてやってほしいところ。
 あと、CCCD(コピーコントロールCD)なので、ご注意を。
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理想の「ライター用カバン」


NOMADIC(ノーマディック) [BIZ CONCEPT] 縦型3WAYビジネスバッグ ブラック [BA-01-BK]NOMADIC(ノーマディック) [BIZ CONCEPT] 縦型3WAYビジネスバッグ ブラック [BA-01-BK]
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BIZ CONCEPT(ビズコンセプト)

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 愛用していた「LAGASHA」のカバンが少し前にこわれてしまい、以後、しばらくいろんなカバンを使って試行錯誤していた(「LAGASHA」自体はまだあるのだが、私が使っていたモデルはもうないらしいので)。

 その名も「カバンの中身」という、既成のバッグに入れて使う「オーガナイザー」のシリーズがある。 

 整理魔の私は小物をちまちまと整理して収納するのが好きなので、このシリーズをいくつか買い、既成のトートバッグなどに入れてしばらく使っていた。
 だが、どれも「帯に短したすきに長し」で、あまり使い勝手がよくない。「チームデミ」という小型の文具セットがあるが、あれの使いにくさとよく似ている。ポケット類があまりに細かく分かれていて、かえって不便なのだ。

 で、先日、もっといいカバンに買い換えようと、池袋の「東急ハンズ」に赴いた。
 そこで出合ったのが、 「NOMADIC」(ノーマディック)というメーカーの「Biz CONCEPT」という3ウェイ・バッグ。

 これはよい!

 ポケットが多くてしかも小さすぎず、素材が頑丈でしかも軽く、荷物がたっぷりと入る。そして、細部にまで使いやすさの工夫が凝らされている。

 そのうえ安い。1万円程度なのだ。探し求めていた「理想のライター用カバン」に出合えた、という感じ(ちと大げさか)。

 私は、もともとブランドもののバッグになど微塵も興味がないし、見栄えも気にしない。ひたすら機能性・実用性だけを考える。だから、見栄えを気にする人にはこの「Biz CONCEPT」はオススメしないが、使いやすさはバツグンである。

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『春が来れば』

春が来れば デラックス・コレクターズ・エディション春が来れば デラックス・コレクターズ・エディション
(2006/09/06)
チェ・ミンシクキム・ホジュン

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 今日は、築地のソニー・ピクチャーズ試写室で、『春が来れば』の試写を観た。3月公開の韓国映画である。

 公式サイト→ http://www.sonypictures.jp/movies/springtime/site/

 主演は、あの『オールド・ボーイ』で主人公オ・デスを演じたチェ・ミンシク。「一流交響楽団のトランペッターになる」という夢をつかめないまま中年となり、人生を投げかかっている音楽家・ヒョヌの役だ。
 ヒョヌは恋人とも別れ、「都落ち」のような心境でソウルから離れ、小さな炭鉱町にある中学校の吹奏楽部の指導教師となる。

 全国大会での入賞経験もある吹奏楽部だったが、いまや廃部寸前。学校側から、「次の全国大会で入賞できなかったら、もう廃部だ」と言い渡されていた。ヒョヌの指導に部の存続がかかっていたのだ。

 最初は指導に身が入らなかったヒョヌだが、部員の少年たちと接するうち、しだいに本気になっていく。そして、部員たちが抱えるさまざまな悩みや苦しみ――貧困や父親との葛藤など――も知り、彼らを抱きかかえるようにしてその解決に力を注いでいく。

 冷たく凍りかけていたヒョヌの心は、部員たちや純朴な町の人々とのふれあいのなかで熱さを取り戻していく。これは、吹奏楽部が再生していくプロセスを通して、1人の男の蘇生を描く物語なのである。桜の舞うラストシーンの「春」は蘇生の象徴だ。

 吹奏楽部の話といえば、本邦の傑作『スウィング・ガールズ』が思い浮かぶ。だが、題材と物語の構造は似ていても、この映画は『スウィング・ガールズ』ほど洗練されていない。物語のテンポがぎごちなくて展開がかったるいし、要所要所のエピソードもどこかで見たようなありきたりなものばかりだ。

 しかしそれでも、これは愛すべき映画である。親子の情愛や教師と生徒の絆、男同士の友情など、人と人のあたたかいふれあいが真正面から真摯に描かれている。そこがよい。
 ヒョヌたちが即席ラーメンや正月の雑煮などの素朴な食事をとる場面が、くり返し登場する。そのことが象徴するように、生活感/暮らしの手触りが全編にしっかりと刻みつけられている点も、この映画の美点だ。

 ヒョヌの恋人役キム・ホジョンと、炭鉱町の薬屋で働く薬剤師の娘を演じるチャン・シニョンが、2人ともじつにチャーミングである。芸能人っぽくない素朴な美しさ。
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水谷修『夜回り先生』ほか

夜回り先生の画像


 来週、「夜回り先生」 こと水谷修さんを取材することになったので、氏の著作をまとめ読み。

 読んだのは、『夜回り先生』『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』『こどもたちへ/夜回り先生からのメッセージ』(以上、サンクチュアリ出版)、『夜回り先生の卒業証書』『夜回り先生 こころの授業』(以上、日本評論社)。それと、土田世紀による劇画版『夜回り先生』(小学館)も。

 サンクチュアリ出版からの3冊は、10代の子どもたちが読むことも想定して作られているので、写真も多く、文字組みもゆったりしているので、すぐに読める。
 逆に、日本評論社からの2冊は、親や教育者など、子どもと接する大人たちに向けて書かれたものである。

夜回り先生と夜眠れない子どもたちの画像


 このうち最も感動的なのは、やはりシリーズ1作目の『夜回り先生』である。
 誰に頼まれたわけでもないのに、夜の繁華街をたった1人でパトロールする「夜回り」をつづけてきた水谷氏。12年間にわたるその「夜回り」から生まれたエピソードと、氏の激動の半生を綴ったノンフィクションだ。

 「これはホントにノンフィクションなのか!?」と、思わず唸るほど強烈な内容である。
 子どもたちを「夜の世界」から「昼の世界」へ取り戻すために、ヤクザの事務所や暴走族の集会の場へも単身乗り込んでいく夜間高校教師。しかも、水谷氏が身体を張って守ろうとするのは、教師として受けもった生徒だけではない。まったく見ず知らずの子どもたちまでも救い出そうとするのだ。

 命がけの実践に裏打ちされた氏の言葉は、どんな教育評論家のご託宣よりも重い。

 土田世紀による劇画版『夜回り先生』(月刊『IKKI』連載中)も、なかなかよい。水谷氏の著作に登場する少年少女たち(その多くは、氏が「救えなかった」、死んでしまった子どもたちだ)のエピソードを、多少の潤色も施してドラマティックに描いている。

夜回り先生 2 (2)の画像
 
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『JAPON』


JAPON―Japan×France manga collectionJAPON―Japan×France manga collection
(2005/12)
安野 モヨコ

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  『JAPON』(飛鳥新社/1238円)購入。
 日仏のマンガ家たちが、「日本」をテーマに競作した短篇を集めたアンソロジー。夏目房之介さんが「コミックパーク」の連載で紹介されていたのを読んで、興味をもったしだい。

 日本から参加しているのは、安野モヨコ、松本大洋、花輪和一、谷口ジロー、高浜寛、五十嵐大介、沓澤龍一郎の7人。
 フランス勢9人は、母国では知られた名前なのかもしれないが、私が知っているのはフレデリック・ボワレのみ。もっとも、ボワレ氏は現在日本在住で、日本の出版社から何冊も作品集を出している人だけど。

 序文には、次のようにある。

 「JAPON」は、日仏学院、アリアンス・フランセーズ、フランス大使館の協力のもと、日仏の漫画交流の一環として考えられた企画です。日仏学院、アリアンス・フランセーズの招聘により、フランス人漫画家8人を日本に呼び寄せ、北海道、仙台、東京、名古屋、京都、大阪、四国、九州の各地方に滞在してもらい、その地を舞台にした漫画を描いてもらいました。



 日本を初体験するフランス人マンガ家たちのカルチャー・ショックを刻みつけた作品と、個性豊かな日本のマンガ家たちが「日本」を表現した作品のコラボレーション。そう聞いただけで、マンガ好きなら思わず「読んでみたい!」と手が伸びる。じつに好企画といえよう。

 で、実際に読んでみた感想。
 日本のマンガに慣れている当方としては、やっぱり日本勢のマンガのほうが読みやすい。フランス勢は、よく読めば面白いのだけれど、読むのに少し努力が要った。マンガとしての「文法」がまったくちがうのだ。

 フランスのマンガは「BD」(=バンド・デシネ、ベデ)と呼ばれ、日本のマンガとは異なる独自の発展を遂げている。
 たとえば、矢作俊彦は「BD」について次のように書いた。
 

 フランスでは、いわゆる「劇画」のことをバンドデシネという。帯状のコンテといった意味合いだ。ページを開けば一目瞭然。それは、まさしく映画の絵コンテ、それも極めのカットばかり抜粋した絵コンテ集である。
 ワンカットワンカットの絵は、それはそれはすばらしいものだ。(中略)
 だが、われわれ、最もすぐれた「マンガ文化」(そのことは当のフランス人が認めている)の洗礼を受けてきた者の目には、どこかかったるい。日本のどんな下手くそなマンガより、物語のダイナミズムに欠けている(すぎむらしんいち『ホテル・カルフォリニア』愛蔵版の解説より)



 本書についても、私は同様の感想を抱いた。フランス勢の作品は、絵としてはまことに素晴らしいのだが、スタティックにすぎる。絵が「止まっている」感じなのだ。

 ただ、細部はなかなか面白い。「へえ、フランス人から見ると日本はこう映るのか」というパーセプション・ギャップの面白さである。
 
 日本勢では、五十嵐大介(『リトル・フォレスト』の人)、安野モヨコ、松本大洋、谷口ジローの作品がよかった。
 松本の作品は民話風、安野の作品は亡き杉浦日向子へのオマージュのような江戸情緒絵巻で、それぞれふだんの作風とはまったくちがうところが面白い。 
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吉田美奈子『Spangles』

Spanglesの画像


 吉田美奈子のニュー・アルバム『Spangles(スパングル)』(エイベックス・イオ/3150円)を、サンプル盤を送ってもらって聴いた。2月22日発売。

 シーンの流行になど左右されないマイペースの音楽活動で独自の世界を築いてきた孤高のアーティストだから、今作もいつもどおりの彼女の世界である。
 「都市のゴスペル」とでもいおうか、都会的できらびやかなサウンドでありながら、その底に深い精神性と「祈り」を孕んだ、極上のポップ・ミュージック。

 ただ、近年のほかのアルバムと比べて、今作は音数が少なく、音がシンプルであるのが特徴。
 近年の吉田美奈子のサウンドは、打ち込みを多用し、強烈なビートをもった“分厚い重ね塗り”の趣があった。対照的に今作は、生ピアノやギター中心のシンプルな曲が目立つ。また、河合代介によるハモンド・オルガンが全編に清冽な色合いをくわえている。いまどきオルガン。でも、その音色がじつにいいのだ。
 デビュー当時の吉田は「日本のローラ・ニーロ」と呼ばれたそうだが、その原点への回帰を志向した作品であるのかもしれない。

 全10曲中5曲が、吉田以外の作曲(作詞はすべて吉田)。アルバムのコ・プロデューサーでもある倉田信雄が2曲、河合代介、TANATONOTE、渡辺香津美(!)がそれぞれ1曲を提供している。この「新しい血」の導入は十分に奏功していて、彼らが提供した5曲はいずれも素晴らしい仕上がり。たとえば、倉田のペンになる「MIRROR TOWN」など、テレビドラマのテーマソングにしたいくらいポップでキャッチーな出来である。
 
 私が気に入った曲は、前述の「MIRROR TOWN」のほか、渡辺香津美が提供した「8月の永遠」と、ドラマチックな大作バラード「CASCADE」。
 とくに「8月の永遠」は、渡辺がウェス・モンゴメリーばりのギターを聴かせるジャジーな快作で、吉田美奈子の新境地という印象。
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木村敏『生命のかたち/かたちの生命』

 木村敏著『生命のかたち/かたちの生命』(青土社/1800円)読了。
  
 著者は、精神科の臨床医として多くの患者に接してきた豊富な治療体験を土台に、「自己」の成り立ちを独自の視野から考察してきた精神病理学者・思想家である。

 通常われわれは、「自己」というものが確固たる実在であることを信じて疑わない。だが、離人症や統合失調症などを専門的に研究してきた著者は、「自己」の自明性を疑うところから本格的な思索を始めた。
 たとえば統合失調症は、「自己の自己性の成立不全」(著者の規定)としての側面を強くもっている。その患者たちと向き合う過程で、著者は「自己とは何か?」という根源的命題にも向き合わざるを得なかったのである。

 そうした思索が結実した一連の著作は、精神医学と哲学を架橋する独創的な「臨床哲学」として、国際的にも高い評価を得ている。
 そして著者は、1990年代以降、「自己」についての思索の延長として、「生命」についても関心を深めていった。「自己とは何か?」を突きつめて考えれば、「そもそも生命とは何か?」という問いに帰着するのは当然といえよう。

 本書は、91年から92年にかけて『イマーゴ』誌に連載された論文をまとめたもの。著者の「生命」に関する思索の、最初の結実となった著作である。 初版は92年刊。昨今、「生命」が哲学のテーマとして注目されていることもあり、新装版として改めて刊行された。

 現在、生命科学の最先端は哲学と陸つづきといってよい。遺伝子操作の倫理的当否などが論議されるとき、科学者もまた拠って立つ哲学を問われるからである。ゆえに、科学者としての立場から生命について思索を重ねる論者は多い。

 だが、精神病理学の視座から生命を論じた本書は、その種の論考とは位相を異にしている。著者はむしろ、生命という現象のうち、物質や数値に還元できない、「生きる」という動詞で表すしかない側面に目を向けている。つまり、科学的な生命観からはこぼれ落ちてしまう側面をこそ扱っているのだ。

 たとえば、著者は言う。

【引用始まり】 ---
 脳死肯定論の見落としているもの、それは死が死んでゆく当人だけの個人的な出来事ではないという点である。
【引用終わり】 ---
 このように、物理的には非連続である人と人の関係性までも視野に入れ、「生命」について深い思索を展開した一書なのである。
 精神科医として「生命と関わりあう」実践から生まれた、独創的な生命哲学が、ここにはある。
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小林まこと『格闘探偵団』

格闘探偵団 (5) 格闘探偵団 (5)
小林 まこと (2006/01/23)
講談社

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 小林まことの『格闘探偵団』の4、5巻が同時発売になったので、購入(講談社イブニングKC/各514円)。この5巻でもう完結だとか。

 終わるのがやけに早いけれど、『イブニング』での連載は尻すぼみにテンションが下がってきていたから、「このへんが潮時かな」という気もする。
 コミックスでいうと、1巻の面白さが抜きん出ていて、2~3巻の「ブラックマンバ」編はイマイチ。4~5巻の「走れ! タッ君」編はさらに一段落ちて、イマニな出来。

 今回は自閉症児の「タッ君」が狂言回しとなる話で、いつになく“感動テイスト”が強くて、その分ギャグがあまり炸裂しないのだ。ま、それでも平均レベルのマンガよりはずっと面白いけど……。

 『格闘探偵団』については、連載開始直後にメインサイトで取り上げたことがある。以下、そこからコピペ。

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 『格闘探偵団』は、『1、2の三四郎2』の続編だ。すなわち、小林の出世作『1、2の三四郎』の続編であった『1、2の三四郎2』の、さらに続編なのだ。さすがに、タイトルを『1、2の三四郎3』とするのはややこしくて気がひけたらしい。

 『1、2の三四郎2』は、プロレス・コメディの大傑作であった。なにしろ、プロレス業界を舞台にした作品でありながら、プロレスにまったく興味のない私が読んでもメチャメチャ面白かった(笑えるうえに感動もある)のだから、いかに優れた作品であったかがわかる。

 いやしくもエンタテインメントを標榜する以上、舞台となった世界にくわしい人しか楽しめないようではダメだと思う。たとえば、サッカーの世界を描いた映画・小説・マンガであっても、真に優れたエンタテインメントなら、サッカーに興味がない人でも感動し、手に汗握るはずなのだ。
 私は麻雀をやらないし、ルールも知らないが、それでも、和田誠が阿佐田哲也の小説を映画化した『麻雀放浪記』は十分楽しめたし、麻雀場面の息づまる描写には手に汗握った。優れたエンタテインメントとはそういうものなのだ。

 この『格闘探偵団』もしかり。プロレス業界を舞台にしていながら、プロレスに興味がなくても楽しめる本物のエンタテインメントになっている。
 
 主人公は、いうまでもなく最強のレスラー・東三四郎。
 三四郎率いるプロレス団体「ドリーム・チーム」は、不振から倒産してしまったという設定(前作のラストでは「連日超満員」だったのに)。プロレスラーをやめた三四郎は、なんと、本作では私立探偵に転身して登場する。ゆえに『格闘探偵団』。

 三四郎自身は、浮気調査などをしながらも、プロレスの世界に未練たっぷり。また、成海頁二などのかつての盟友レスラーたちも、続々と登場する。このまま三四郎が探偵をつづけるのか、それともふたたびプロレス界に復帰するのか、今後の展開は予測がつかない。

 笑いの切れ味は相変わらず。プロレスに興味のない私にさえ笑えるのだから、プロレス・オタ、格闘技オタの人が読んだらさぞかし面白いだろう。格闘技オタにしかわからないくすぐりやパロディがちりばめられているのだろうから…。

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 最終話は、三四郎が再び格闘技の世界に復帰することを匂わせる終わり方。三四郎がプライド/K-1系の異種格闘技で大暴れする続編を期待したい。
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ライター業界の昔話


フリーライターになろう!フリーライターになろう!
(2012/04/25)
八岩 まどか

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 私がライターになったのは、1986年のことである(フリーになったのは翌87年)。

 最近、いろいろな場面で、「昔に比べたら仕事が楽になったなあ」としみじみ思う。

 私がライターになった80年代後半にはインターネットなどまだなく、ちょっとした調べものにもいちいち図書館などに出向かなければならなかった。いまならネットで1分でわかることを調べるのに、1日がかりだったものだ。

 パソコン通信の黎明期であったが、フリーになりたての私はパソコンどころかワープロすらもっていなかった。ファクスもなかったので、送信の必要が生じたときにはNTTの営業所まで出向いて有料ファクスで送った(コンビニのコインファクスも普及前だった)。
 いや、ファクスで送ること自体、当時の私としては異例のことで、原稿は「電車に乗って編集部まで届けに行くもの」だった。しかも手書きの原稿を、である。

 手書きだと、あまり枚数がこなせない。シャープペンシルを握る手が痛くなってしびれてくるからである。「0.9㎜の芯を使うと手が疲れない」という話を先輩ライターから聞いて、それ以来0.9㎜のシャーペンしか使わなくなった。

 CDや映画などの紹介記事を書く場合の写真素材も、当時はわざわざ取りに行ったりしたものだ。それがいまでは、メールで画像を送信してもらったり、ダウンロードしたりして、かんたんに入手できる。

 当時に比べていまのほうがたいへんになったことが、1つだけある。それは、取材先の文化人等の連絡先を調べることだ。
 昔は、版元に電話して「作家の○○先生に取材申し込みをしたいのですが……」と言えば、気軽に教えてくれた。それが、「個人情報保護法」の施行以後、手続きを踏まなければ教えてくれなくなった(そのことが「悪い」と言っているわけではない。むしろ当然であろう)。
 とはいえ、いまではたいていの文化人は自分のサイトやブログをもっているから、そこからメールでコンタクトすればよいわけで、自宅の住所や電話番号を教えてくれなくてもさしたる不都合はない。

 ライターの原稿料の相場は、オソロシイことに、私がフリーになったころからほとんど変わっていない(ゆえに、「卵と原稿料は物価の優等生」などと言われたりする)。

 しかし、昔を肌で知る私に言わせれば、相場が変わっていなくても、実質は値上げされてきたのである。OA機器の進化やネットの普及などで、ライターの仕事にかかる労力は確実に下がってきたのだから……。

 昔はあたりまえだったのに、いまはめったになくなったことといえば、もう一つ、「目の前で編集者に原稿を読まれること」がある。

 昔は、仕上げたばかりの原稿を編集者に渡し、その感想を直接聞くまでが、一つの儀式のようなものだった。
 編集者が原稿を読み終えるまでの、ちょっと手持ち無沙汰で、不安と自信がないまぜになった奇妙な気持ち――あれはあれで、ライター稼業の醍醐味の一つだったと思う。

 いまでは原稿はメールで送るものなので、編集者からのヴィヴィッドな反応が見られなくて寂しい。
 それどころか、一つの連載が始まってから終わるまで、担当編集者に一度も会わず、電話で話すらしたことがない(つまり、メールのやりとりだけですべてが完結する)……なんてことも少なくない昨今である。

 昔は、初めて仕事をする編集者とは、「ま、電話じゃなんですから、とりあえず一度お会いしませんか?」という話になったものだが……。

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フランツ・ミュラー氏を取材

 今日は映画会社キネティックで、来日中の元「白バラ」メンバー、フランツ・J・ミュラー氏を取材。

 ミュラー氏は、ドイツ「白バラ財団」の名誉理事長。映画『白バラの祈り/ゾフィー・ショル、最期の日々』の日本公開に合わせての来日である。
 御年82歳だが、かくしゃくとしておられる。白髪に豊かな白い口ひげをたくわえた風貌は、どこかアインシュタインを思わせる。

 氏は、高校生時代に「白バラ」に加わり、反ナチのビラを郵送する抵抗運動を展開。ショル兄妹らが死刑になった2ヶ月後、第2次白バラ裁判で禁固5年の判決を受け、服役した。映画『白バラの祈り』にも登場する狂気の裁判長フライスラーに、法廷で尋問されてもいる。まさに「現代史の生き証人」であり、直接お話を聞くことができてうれしかった。

 信念のために命を賭して闘った経験をもつ人は、やはり迫力がちがう。知的で優しいまなざしの奥に、峻厳な鋭さがあった。宮内勝典流に言うなら(宮内さん、読売文学賞受賞おめでとうございます!)、「眼の奥に青い火が入っていた」という感じ。

 「反ナチ運動を、『危険だからもうやめよう』と思う瞬間はなかったのですか?」と質問したところ、ミュラー氏は即座に「まったくありません」と答えた。
 「一度運動に参加した以上、たとえ途中でやめても危険であることに変わりはありませんでした。それに、当時の私にとって死はごく身近なものでした。ナチに処刑されなかったとしても、いずれは戦争の最前線に送られて死ぬだろうと覚悟していたのです」と……。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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