愚犬「ポッキー」



 我が家の愚犬(ホントにバカ)「ポッキー」である。
 久々にトリミングに連れていって毛を短く刈ったのでチワワみたいになっているが、ヨークシャーテリア(♂)だ。

 たまに私も散歩に連れて行くが、犬の散歩はじつに心がなごむ。いまの私にとっては最大のリラクセーションかもしれない。

 散歩のとき、ポッキーは「トトトトト…」と私の前を歩きながら、5分に一度くらいの割合で私のほうを振り返って顔を見る。「アイツ、ちゃんとついてきてるかな?」と確認するように。そのときの顔としぐさが、えもいわれぬカワイさである(親バカ、じゃない、飼い主バカ)。

 将来、ポッキーが死んだあとにコイツのことを思い出すときには、散歩の途中で私を振り返った顔がまず心に浮かぶのだろうな。

 そういえば、来年は戌年。年賀状にはポッキー(この名前をつけたのは娘。私じゃない。為念)の写真を使うとするか。
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『僕が9歳だったころ』

僕が9歳だったころ デラックス版 [DVD]僕が9歳だったころ デラックス版 [DVD]
(2006/08/25)
キム・ソクイ・セヨン

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 『僕が9歳だったころ』を観た。正月公開予定の韓国映画。
 韓国で130万部のベストセラーになったという小説『9歳の人生』の映画化である。

  公式サイト→ http://www.boku9.com/

 1970年代、韓国・慶尚道の村。そこにある小学校の1クラスを舞台に、「ガキ大将の初恋」をノスタルジックに描いている。

 主人公・ヨミンはケンカの強いガキ大将。仕事で目を悪くした母親にサングラスを買ってあげるため、内緒でアルバイトをしている心優しい少年でもある。
彼は、ソウルから転校してきた美少女・ウリムに心惹かれる。2人が衝突と和解を経て切ない別れを迎えるまでが、てらいのないストーリーと演出で描かれていく。

 “少年少女版『冬のソナタ』”と言われている、とプレスシートにはある。ど、どのへんが…? それはいくらなんでも、韓流ブームに乗りたいがための牽強付会がすぎるだろう。冬ソナというより、日本でいえば『瀬戸内少年野球団』みたいな映画なのである。

 ウリム役のイ・セヨンの美少女ぶりがすごい。韓国の美人女優をそっくりダウンサイジングしたような感じで、すこぶる大人っぽい。
 それでいて、ウリムの役柄は優等生的マドンナではなく、わがままさや心の不安定さを抱え込んだ、ごくふつうの女の子なのである。その点がいい。

 むしろ、主人公ヨミンのキャラクターのほうが、あまりに大人びていて不自然な気が……。9歳のガキが匿名のラブレターを書いたり、母親に贈り物をするためにバイトしたりするかぁ?

 とはいえ、全体としてみれば、なかなか心にしみる佳編。子役たちの演技も自然で素晴らしい。
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ケイト・ブッシュ『エアリアル』


エアリアルエアリアル
(2005/11/02)
ケイト・ブッシュ

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 ケイト・ブッシュの『エアリアル』(東芝EMI/3200円)を買ってきた。じつに12年ぶりのニュー・アルバム、しかも2枚組の大作である。

 そういえば、12年前に前作『レッド・シューズ』が出たとき、私は雑誌にレビューを書いたのだった。当時は私もまだ20代(どーでもいいけど)。

 まずは、そのレビューをコピペしておこう。ご参考まで。
 


せめぎあう聖性と官能性  ケイト・ブッシュ『レッド・シューズ』


レッド・シューズレッド・シューズ
(2011/07/20)
ケイト・ブッシュ

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 昔、何かの雑誌に「音楽のオーラが見える」という男が登場していた。彼によればケイト・ブッシュの歌はきれいなグリーンのオーラを放っていて、これは讃美歌と同じ色なのだとか。「音楽のオーラなんて…」とボクは鼻で笑ったが、ケイトの歌が讃美歌と同じたぐいのものだという点だけは妙に納得してしまった。

 ケイトの新作に向かうとき、ボクたちファンが見極めようとするのは「駄作か傑作か?」ではなく、「今回はどの程度の傑作か?」である。『センシュアル・ワールド』以来4年ぶりのこの新作も、当然悪かろうはずがないのである。

 ゲストに、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、プリンスなど、一見ケイトの音楽とはベクトルの異なる人たちを揃えている。この異種交配のせいか、つねになくビートが強調された“ロックしてる”仕上がりだ。前作のようにエスニック色濃厚ではなく、『ドリーミング』のようにアヴァンギャルドでもない。とはいえ、そうした変化は表面上のもので、あの眩惑的なハイトーン・ヴォイスがある限りケイトの世界は鉄壁なのだが…。

 タイトル曲はアンデルセン童話の『赤い靴』をモチーフにしている。文学に材を取るのはケイトがよく使う手法である。そもそもデビュー曲からして『嵐が丘』だったし、『センシュアル・ワールド』はジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』をモチーフにしていた。数あるアンデルセン童話の中から、血なまぐさく性的メタファーに満ちた『赤い靴』を選ぶあたり、いかにも彼女らしい。

 妖精めいたルックスと声のせいで、「永遠の聖少女」といった陳腐なフレーズで語られがちな彼女だが、歌詞の内容には意外なほど官能的なものが多い。たとえば「サキソホーン・ソング」について、ケイトは「サキソホーンは男根の象徴として使っている」と明言していたし、「ブルーのシンフォニー」のようにずばりセックスをテーマにした曲も少なくない。そうした曲を少しもべとつかず、むしろ讃美歌のように清らかに歌いあげてしまうところが、彼女のすごさだ。

 聖性と官能性のせめぎあい――そこにこそ、彼女の音楽の核がある。この新作でもそれは変わらない。
 シングルにもなるオープニング曲が「ラバーバンド・ガール」。直訳すれば「ゴムひも少女」で、ね、なんとなく官能的でしょ?(『DODA』1993年11月11日号)



 前置きが長くなった。さて、新作『エアリアル』である。

 ケイトのこれまでのアルバム中、いちばん地味な仕上がりだ。先行シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」もわりと地味めの曲だったが、あれでも収録曲の中ではポップなほうなのである。

 前作『レッド・シューズ』ではかなり濃かったロック色は、今作では完全に消えた。むしろ、ピアノや生ギター、ストリングスの使い方などは、かなりクラシカル。
 2枚組のうち1枚が「A Sea of Honey(蜜の海)」、もう1枚が「A Sky of Honey(蜜の空)」と銘打たれているのだが、とくに「Sky」のほうはピアノとベース・ギターが核になっており、「ヒーリング・ミュージック」と冠をつけてもよいほど。エンヤあたりが好きな人なら気に入ると思う。

 ケイトももう47歳だが、眩惑的ハイトーン・ヴォイスは健在(ついでに美貌も健在)。
 ただし、今作はウイスパー系の曲が多くて、歌い上げる感じの箇所はほとんどないので、『センシュアル・ワールド』の「リーチング・アウト」のようなヴォーカルの迫力を期待すると、肩透かしを食う。

 ……と、ここまでを読むと地味すぎて退屈なアルバムのように思えるかもしれないが、そんなことはない。
 「大気の精霊」を意味するタイトルどおり、空気の中をたゆたうようなサウンドは、静謐かつ精緻で素晴らしい。ある程度音量を上げて聴くと、音のヴェールに包まれるようで、なんとも心地よい。

 聴いていて癒されるアルバムだが、巷にあふれる安直な「癒し系」とは一線を画し、包みこむような母性的優しさ(※)の底には強烈な毒と狂気が隠されている。

 たとえば、「π~円周率」という曲は数の魅力に憑かれた男の狂気をユーモラスに歌ったものだし、アルバムの最後に登場するケイトの高笑いも狂気を孕んで凄みがある。人畜無害な「癒し系」の音を求めてこのアルバムを買う人を笑い飛ばすように……。
 もちろん、ファンにとってはそうした「美と毒の共存」「聖性と官能性のせめぎあい」こそがたまらないわけだが……。

※今作は、ケイトが愛息「バーティくん」に捧げたアルバムと言ってもよい。ずぱり息子のことを歌った「バーティ」という曲があるかと思えば、ほかの曲には息子の声も入っており、ブックレットにも息子の写真が使われている。さらに、先行シングルは、息子が描いた稚拙な絵がそのままジャケットに使われている。いやあ、親バカもここまで徹底するといっそあっぱれですな。

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『春の雪』


春の雪 [DVD]春の雪 [DVD]
(2006/04/28)
妻夫木聡、竹内結子 他

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 昨日は夏目房之介さんを取材し、今日はマンガ家の桜沢エリカさんを取材。偶然にも、2日つづけてマンガ界の方がお相手。

 夏目さんへの取材はテーマがマンガではなかったので、マンガの話ができなかったのがちょっと残念。でも、たいへん楽しい取材であった。

 桜沢さんは、すっごくキレイな人であった。なんかこう、「シロガネーゼのお手本」みたいな感じ。80年代から「美人マンガ家」の1人に数えられていた方ではあるのだが、いまのほうがキレイかも。

 で、今日はそのあと新宿へ出て『春の雪』を観た。三島オタクの私としては、三島文学久々の映画化(その前は『鹿鳴館』? だとしたら、なんと、平成に入ってからはこれが初)なので、観ないわけにはいかぬ。

 あまり期待していなかったのだが、意外によかった。「100点満点で50点くらいかなー」と見当をつけたら、実際には75点だった、みたいな。

 映像が隅から隅まで美しく、出演者も軒並み好演。松枝清顕役の妻夫木くんも、綾倉聡子役の竹内結子も、「キャラが庶民的すぎて貴族役は無理では?」という危惧があったが、観てみると違和感なし。

 なにより素晴らしいのは、蓼科役の大楠道代、月修寺門跡役の若尾文子、清顕の祖母役の岸田今日子の三婆。この3人の演技が映画を引き締めている。
 とくに、大楠の得体の知れない凄みがサイコー。『赤目四十八瀧心中未遂』でもそうだったが、「妙に色気のあるババア」を演じさせたら、いまこの女優の右に出る者はない。

 原作にハマったことのある人は、映画館で観て損はない作品だ。頭の中におぼろげに描いていた作品世界が、くっきり鮮明に映像化される快感を味わえる。「ああ、あの場面ってこういう感じだったんだ」と。

 ただ、この映画のよさは原作の表面部分のみを忠実になぞったという限定的なよさであって、それ以上のものではない。

 『春の雪』の表面上のストーリーだけを取り出してみれば、大仰な悲恋メロドラマでしかない。そして、この映画は悲恋メロドラマとしての『春の雪』は十分に描けているものの、輪廻転生という文底のテーマについては「あ、いちおう触れときました」という程度でしかない。三島のライフワーク『豊饒の海』の第1部としての重みが感じられないのだ。

 原作ファンが、原作の感動を補完するために観るには申し分ない映画。だが、原作を読まずにこの映画だけ観て、「ふーん、三島のライフワークといってもこんなもんか」とわかったつもりになってほしくない。

 たとえば、『春の雪』で頂点に達したといってもよい、絢爛かつ精緻な工芸品のような文体の魅力。これは誰がどうやっても映像には移し得ないのだ。

 こころみに、『春の雪』の文庫本を引っぱり出してきて、かつて私が傍線を引いた箇所を引用してみよう。

 接吻が終わる時、それは不本意な目ざめに似て、まだ眠いのに、瞼の薄い皮を透かして来る瑪瑙のような朝日に抗しかねている、あの物憂い名残惜しさに充ちていた。あのときこそ眠りの美味が絶頂に達するのだ。
       *  *  *
 咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ。
       *  *  *
 清顕は夫人同士が話しているあいだ、うつむきがちな聡子へ落とす自分の視線が、熱烈な注視になりがちのことを怖れていた。もちろん心はそのような注視をのぞんでいる。しかし清顕が怖れているのは、聡子の脆い白さを、過激な日光で灼いてしまうことである。

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荒川紘『東と西の宇宙観』


東と西の宇宙観 西洋篇東と西の宇宙観 西洋篇
(2005/09)
荒川 紘

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 荒川紘著『東と西の宇宙観』(西洋編・東洋編/各2800円/紀伊国屋書店)読了。
 
 科学思想史を専門とする気鋭の研究者が、古代から現代までの世界史を、宇宙観の変遷という切り口からたどり直した書。

 2冊のうち「西洋編」は、メソポタミア文明の創世神話から書き起こされている。そして、ユダヤ教、ギリシア哲学、キリスト教、スコラ哲学などの宇宙観を経て、終章では現代物理学の宇宙論にたどりつく。

 5000年におよぶ西洋の宇宙観の変遷は、宗教と科学のせめぎあいの歴史でもあった。創世神話はやがてギリシアで科学的な宇宙論となったが、中世の到来で科学は「神学の侍女」と化した。しかしルネサンス以降、科学は神から解放された、というふうに……。
 著者は、該博な知識と深い洞察で、複雑に入り組んだ宇宙観の歴史を手際よく概観していく。

 もう1冊の「東洋編」では、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教などの中にある、インドと中国の宇宙観の変遷がおもに論じられる。

 著者には『日本人の宇宙観』という先行の著作もあり、あわせて三部作を成している。それぞれ独立した書物として読みごたえのあるものだが、併読すれば、宇宙観のありようから東西の思考様式の違いも浮き彫りとなり、いっそうの知的興奮が味わえるだろう。

 「宇宙観は時代と社会を写す鏡」だと、著者は言う。たとえば、インドの宇宙観の特徴の一つ「階層的な地獄」は、カースト制度の投影と考えられるという。また、著者によれば、ユダヤ人の宇宙観を決定づけたのは、「バビロンの捕囚」時代に接したバビロニア神話だという。そのように、各文明の宇宙観に秘められた“時代の刻印”を指摘していく手際の鮮やかさが、本書の魅力の一つだ。

 現代の科学技術文明は、むろん西洋の宇宙観に支えられている。かつて独自の宇宙観を築きあげた中国さえ、いまや宇宙開発競争の只中に身を投じている。

 だが、そのことは東洋の敗北を意味しない。
 むしろ著者は、自然を支配する思想に行き着く「西の宇宙観」の暴走が地球の荒廃をもたらしたとし、東洋の宇宙観が秘めた自然との共存の思想に高い評価を与えている。

 そしてまた、アインシュタインの説いた「宇宙的宗教性」など、西洋にもある“宇宙の秩序に美と宗教性を見る視点”に、地球に「本来の美と真の豊かさをとりもどす」鍵を見出している。宇宙観の歴史を通して、人類の未来にまで思索を広げた壮大な試み。図版も豊富で、知的な読み物として興趣尽きない一冊である。

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エレキコミック/脳脊髄液減少症

エレキコミックの本の画像


 今日は、都内某所でエレキコミックの2人を取材。

 エレコミは2人とも、マンガ、ロック、ゲーム、アニメなどのサブカル全般にたいへん造詣が深い。ゲーム雑誌に連載をもっていたりするし、元サニーデイサービスの曽我部恵一の全面バックアップで本格的なCDを出していたりもする。若手お笑い芸人の中では群を抜くサブカル・コンビなのである。

 先月刊行された初の単行本『エレキコミックの本』(太田出版)も、持ちネタをただ羅列するようなありきたりなものではなく、“私家版『クイック・ジャパン』”みたいな内容だ。
 なにしろ、目玉となるのは楳図かずおとの語り下し鼎談(これが面白い)だし、今立氏の「マンガ10選」ややつい氏の「アルバム10選」のコーナーでは、マニアックな趣味を全開している。
 『自虐の詩』に『光る風』に『毒虫小僧』、ナンバーガールにサニーデイにフィッシュマンズ…! ううむ、シンパシー。

 エレコミの取材のあとは、ガラリと趣がかわって「脳脊髄液減少症」についての取材。「難治性鞭打ち症」の正体として、いま注目を集めている症候群である。
 かんたんに言ってしまえば、交通事故などの衝撃によって脊髄液の慢性的な漏れが起こり、それがめまいや頭痛などのさまざまな症状を引き起こすもの。
 つい何年か前まで難治性鞭打ち症は原因不明とされ、確たる治療法がなかった。しかしいまでは、「ブラッドパッチ」という治療法によって8割方は治るという。

 「鞭打ち症患者支援協会」というNPOを取材したのだが、ビックリしたのは、相手の方と私に共通の知人(有名人でも医療関係者でもない人)が2人もいたこと。いやー、世の中狭いですなあ。

 鞭打ち症患者支援協会→  http://www.npo-aswp.org/
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『ある子供』

ある子供の画像


 京橋のメディアポックス試写室で、『ある子供』の試写を観た。
 12月公開、ベルギーのダルデンヌ兄弟の新作で、今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した作品だ。

 公式サイト→ http://www.bitters.co.jp/kodomo/

 2ちゃんねる用語でいう「DQN」なカップルが主人公。男はもう20歳なのに職に就かず、中学生を手下に使っての盗みやひったくりをくり返して暮らしている。

 女はまだ18歳。大人になりきれていないこの2人に、赤ん坊が生まれる。男は、子供をもつ喜びを女と共有できない。彼は女に内緒で、赤ん坊を闇の組織(「金を出しても子供を欲しがっている夫婦」に、ひそかに子供を斡旋する)に売ってしまう。

 事実を知って、女はショックのあまり卒倒してしまい、病院に運ばれる。その姿を見て初めて事の重大さに気づいた男は、金を返して赤ん坊を取り戻す。

 この事件を中心に、映画は2人の「社会的弱者」の無残な青春を描き出す。
 音楽がまったく使われていないこともあって、ドキュメンタリー・タッチである。大仰な演出は用いられず、詩情も抑制されている。

 タイトルの「ある子供」は、赤ん坊のみならず、主人公の男ブリュノも指しているダブルミーニングだ。この男の精神はまだ子供のままなのだ。
 
 ブリュノは、映画史上まれに見る魅力のない主人公だ。ちゃちな犯罪をくり返すだけで「不良のカッコよさ」すらなく、ただひたすら卑小な人物なのである。

 ただし、主人公に魅力がないから映画としてダメなのではない。むしろ、1人のDQN男のダメさかげんを容赦なく描き尽くした重いリアリティにこそ、この映画の真骨頂がある。

 ささくれだった映画だが、ラストシーンには一つの「救い」が用意されている。それは、大人どころか人間にさえなりきれていなかったブリュノが、ようやく人間らしさに目覚めるシーンだ。
 
「いまの時代に希望というものを描くには、画面の大半を真っ黒に塗りつぶし、隅っこに一つだけ明るい点を残して、『ほら、これが希望だよ』と示す描き方をするしかない」
 ――そんなふうに言ったのは誰だったか? 『ある子供』は、まさにそんな映画だ。時代の闇を見つめ、90分かけてその闇をじっくり描くことで、最後の5分間に提示される「希望」の明るさを際立たせる映画なのだ。

 佳編ではあるが、カンヌでパルムドールをとるほどのもんかな、と思ってしまった。昨年のカンヌでグランプリを逸したわが国の『誰も知らない』のほうが、映画としては上だと思う。
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『ヴァイツゼッカー回想録』

ヴァイツゼッカー回想録ヴァイツゼッカー回想録
(1998/10)
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー

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 仕事上の必要があって、『ヴァイツゼッカー回想録』(永井清彦訳/岩波書店/2500円/邦訳は1998年刊)を再読。

 書名のとおり、統一ドイツ初代大統領となった「哲人政治家」、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの回想録である(そういえば、ヴァイツゼッカーは先月来日していたなあ)。

 政治家の回想録というと、政界での言動のみを記したものを思い浮かべるが、本書は少年時代から書き起こされている。政界裏話的な要素は皆無に等しく、むしろ重厚な自伝文学という趣だ。

 原題は「4つの時代」。すなわち、20世紀のドイツ国民が経験した4つの時代――ワイマール共和国時代・ナチ時代・戦後の東西分裂時代・統一後――を、ヴァイツゼッカーが自らの人生と重ね合わせて振り返ったものなのである。

 こうした構成はヴァイツゼッカーの自伝にこそふさわしい。彼の人生は激動の20世紀ドイツ史の縮図であるからだ。

 幸せそのものだったワイマール共和国時代のヴァイツゼッカー家に、ナチ時代に入って暗雲が立ちこめる。ヴァイツゼッカーは徴兵され、7年におよぶ従軍生活を送った。同じく徴兵された次兄は戦死。外務省の高官だった彼の父は、ニュールンベルグ国際軍事裁判で戦犯として裁かれた(ヴァイツゼッカーは本書で終始父を擁護している)。

 戦後は実業界に入って西ドイツの経済復興の一翼を担い、政界入りしてからは、西ベルリン市長などとして「東との和解」を主要テーマに掲げた……まさに、「4つの時代」の光と影を最前列で見つめつづけた人なのだ。

 4部構成で、「4つの時代」がそれぞれ1部を成しているが、当然、政界入り以後の時代に比重が置かれている。1部と2部は合わせても50ページほどだ。

 政治家ヴァイツゼッカーの尽きせぬ魅力が、そのまま本書の魅力となっている。
 魅力の第一は、言葉の豊饒さである。ヴァイツゼッカーが、ドイツ敗戦40年を記念して行なった演説(「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」の一節で名高い)は、各国語に訳されて出版されるなど、世界中に感動を与えた。
 本書もまた、地の文章、そこに記録される大統領としての発言、ともに薫り高く、含蓄に富む。「言葉の政治家」の面目が躍如としている。

 本書の圧巻はむろん、東西ドイツ統一の舞台裏が明かされる部分である。が、その部分でも、統一劇のまぎれもない主役の一人であった自らの功績を誇るそぶりは微塵も見せない。むしろ、統一後のドイツ国民が感じる戸惑いや苦悩に思いをいたし、その点にこそ力点を置いているのだ。

 ヴァイツゼッカーは、人種差別を憎む心、弱者に注ぐ優しさなど、多くの点でヒトラーの対極にある政治家だった。
 そうしたパーソナリティーは、一つには、外交官の父とともに少年時代から海外生活を経験したり、若き日に英国とフランスへ留学したりという経験が育んだ「世界市民」的心性によるものだろう。

 何より、彼自身が、若き日のある出来事を通じて「ヒトラーの対極にある政治家」を目指したのだ。

 ニュールンベルグ国際軍事裁判で父が戦犯として裁かれたとき、法学生であったヴァイツゼッカーは、父の弁護団の助手となった。その際、2800ページにおよぶ膨大な裁判資料を読みこむなかで、ユダヤ人虐殺などのナチの犯罪の全貌をつぶさに知ったのだ(それ以前から断片的に知ってはいただろうが)。
 
 「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という名高い一節の背景には、ヴァイツゼッカー自身がドイツのおぞましい過去を凝視した経験があったのである。
 
 本書は、ヒトラーによって荒廃したドイツが半世紀がかりで蘇生するまでを、ヒトラーの対極に位置する政治家の目で振り返った壮大なドラマでもある。

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くるり『NIKKI』

NIKKI(初回限定盤DVD付)の画像


 くるりのニュー・アルバム『NIKKI』(ビクター/3,045円)を、サンプル盤を送ってもらって聴いた(雑誌にレビューを書くためである。発売は11月23日)。

 くるりは、もともと中くらいに好きなバンドだったのだが、昨年来、私の中の重要度がうなぎのぼりである。
 というのも、矢野顕子とCoccoという、私のフェイバリット・アーティスト2人とつづけざまにコラボしたし、『ジョゼと虎と魚たち』で彼らが担当した音楽に打ちのめされたから。あの映画のエンドロールでくるりの「ハイウェイ」が流れてきたときには、背筋に電流が走った。

 私は、くるりのアルバムでは『THE WORLD IS MINE』が最もオリジナリティにあふれた内容だと思う。前作『アンテナ』は、素晴らしいロック・アルバムではあったが、王道ロックに近づきすぎて、独創性という点でやや不満が残った。

 この『NIKKI』は、『THE WORLD IS MINE』と『アンテナ』のちょうど中間に位置する感じの内容だ。
 つまり、適度に独創的で、適度に王道路線。「あ、この曲はオアシスっぽい」「後期ビートルズっぽい」「ザ・フーっぽい」「キンクスっぽい」などと思わせるフレーズ、メロディが頻出するのだが、けっしてパクリではなく、まぎれもない「くるりの音」になっているのだ。

 『アンテナ』が開放感いっぱいのアメリカンな音だったのに対し、今作は60年代ブリティッシュ・ロック色濃厚。英国的なひねりと“密室感”に満ちているのだ。ただし、どの曲もメロディは美しく、ポップで聴きやすい。
 今年発売されたシングル曲4曲(「Birthday」「Superstar」「赤い電車」「Baby I Love You」)がすべて収録されているのだが、ほかの曲にもシングルカットできそうな曲がいっぱいだ。

 乾いた風が吹き抜けていくようなドライヴ感と、静謐なリリシズム。カッコよさと、よい意味でのぎこちなさ。老成した達観と、少年のような含羞。楽曲のシンプルな骨格と、複雑・緻密な細部……くるりの音楽には、そうした相反する要素がカクテルされている。本作もしかり。

 私は、くるりのアルバムでこれがいちばん好きかも。ファンのみなさんは迷わず買ってオーケイ。ファンでない人にもオススメ。
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宮本輝『にぎやかな天地』


にぎやかな天地〈上〉 (中公文庫)にぎやかな天地〈上〉 (中公文庫)
(2008/04)
宮本 輝

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 宮本輝著『にぎやかな天地』(中央公論新社/上下各1600円)読了。

 2年半ぶりの新作長編なのだそうだ。私自身は、宮本作品を読むのは10年ぶりくらい。『泥の河』『避暑地の猫』など、例外的に好きな作品はあるけれど、なんとなく「敬して遠ざけて」きた作家だ。

 この作品は今夏まで『読売新聞』朝刊に連載されたものだそうだが、それにしてはものすごく地味な題材である。

 主人公は、「豪華限定本」を専門に手がけるフリー編集者。彼が「日本の発酵食品を後世に残すための本」を作っていくプロセスが、ストーリーの縦糸となる。極上の熟鮨(なれずし)・醤油・鰹節(発酵食品だって知ってました?)などを手がける練達の職人たちを日本各地に取材する様子や本作りの舞台裏などが、微に入り細を穿って描かれていくのだ。

 いわば、発酵食品限定の“小説版『美味しんぼ』”。いや、『美味しんぼ』にある「ライバル対決」の面白さがこの小説にはないから、もっと地味である。よほどの日本食通でもないかぎり、骨子を聞いて「読んでみよう」とは思わないのではないか。

 ところが、これほど地味な題材にもかかわらず、読んでみると面白い。上下2巻を一気に読ませるだけの吸引力がある。ストーリーテラー・宮本輝の面目躍如である。

 「うまいなあ」と感心したのは、ストーリーの中で次々と「謎」を提示することで読者を引っぱっていくやり方。

 たとえば物語の冒頭では、主人公の祖母が7年前に亡くなる際に、朦朧とする意識のなかで何度も口にした「ヒコイチ」という言葉の謎が提示される。「ヒコイチ」とはいったい誰なのか? その謎が解き明かされる過程で、祖母の知られざる過去が初めて明らかになる。

 そのように、物語の中にいくつもの謎が埋め込まれており、一つの謎が明かされるとまた次の謎が……という連鎖で読者の目をそらさせない。したたかな「芸」である。

 主人公は母の胎内にいたころ、父親を事故で喪った。また、彼のクライアントである謎めいた老人も、取材に協力する料理研究家も、事件や事故で肉親を喪った過去をもっていた。

 しかし、宮本輝はそのことをたんなる悲劇として描いてはいない。むしろ、災厄による大きな悲しみが、年月を経て「思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されて」いく蘇生の過程にこそ、力点が置かれている。

 目には見えない微生物の精妙な作用によって、長い時間をかけて生まれる発酵食品は、そうした“悲しみからの蘇生”のメタファーでもあるのだ。

 そして、この作品は、本から食べ物に至るまで、あらゆるモノが効率最優先で粗製濫造される現代社会への静かな異議申し立てでもあり、精魂こめて製品・作品を作る職人たちへの讃歌でもある。
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渡邊あゆみアナ礼賛


ママ、明日はお休み?ママ、明日はお休み?
(1996/04)
黒田 あゆみ

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 私が突然こんな番組をホメると驚く人もいるだろうが、NHKのお昼の番組『スタジオパークからこんにちは』は素晴らしい。
 
 何が素晴らしいかというと、芸能人などをゲストにしたトーク・コーナーだ。
 「トーク」と銘打たれているが、実質上は渡邊あゆみアナによる「インタビュー」である。そしてこのコーナーは、我々ライターが仕事で行う取材/インタビューのよき手本となるものだ。

 ライターの仕事の中でも、インタビューというのは場数を踏んで少しずつ慣れていくしかないところがある。ただ、場数を踏む以外のブラッシュアップ法もないではない。それは、「取材巧者の取材現場を見る(あるいは聴く)」ということである。

 たとえば、ベテラン・ライターのインタビューに同行したり、取材テープをテープ起こししたりすることが、それにあたる。そしてもう一つ、テレビやラジオのよいインタビューを視聴することも、勉強になる。
 「取材のお手本」という意識で接してみると、「そうか、こんなふうに話を進めていけばいいんだ」「話が脱線しそうになったらこうやって軌道修正するんだ」などと、感心する点が多いはずだ。

 ラジオは最近ほとんど聴いていないのでオススメ番組はないが、テレビについていえば、『スタジオパーク』のトークはイチオシである。

 渡邊あゆみとは、かつての「久能木あゆみ」「黒田あゆみ」である(結婚・離婚・再婚のたびに仕事上の名前を変えるアナウンサーも珍しい。NHKには「戸籍名を名乗らねばならない」という規則でもあるのか?)。
 ニュースを読んでいるときにはさしたる印象をもたなかったが、インタビューをさせるとじつにうまい。

 『スタジオパーク』のトークは基本的に生放送なので、淀みなく話を進めるために彼女は緊張して臨んでいるのがわかる。それでいて、その緊張をけっして表面には出さず、楽しい雰囲気で話を進めていく。たいへんな技術だと思う。

 「ライター入門」のたぐいを読むと、『徹子の部屋』を「インタビューの手本」として挙げているものが多い。永江朗も『インタビュー術!』の中で挙げていた。
 しかし私は、黒柳徹子のインタビューはライターの参考にはならないと思う。あれは、話の進め方が細部まであらかじめ決まっているダンドリ芝居である。見事な話芸だとは思うが、ライターのインタビューとは似て非なるものだ。

 もちろん我々も、質問を練り、話の流れをある程度決めたうえでインタビューに臨む。しかし、ライターのインタビューには、想定問答からはみ出していく部分が必ずある。また、そうした部分がなければよいインタピューにはならないのだ。

 『スタジオパーク』のトークが、どの程度リハーサルしたうえで行われているのかはわからない。たぶん、大まかな流れとか質問事項をゲストに伝えるだけで、細部はぶっつけ本番なのではないか。そう思わせる生放送ならではの緊張感がこの番組にはあって、だからこそライターにも大いに参考になるのである。

 お昼の番組だから勤め人には見にくいだろうが、ライターやライター志望者なら、録画してでも見る価値がある。

 なお、トークでは渡邊アナと男性アナ(後藤理)の2人が聞き役なのだが、男性アナは横でアシスト役に徹している。この点、ふつうのトーク番組と男女の役割が逆であるのが面白い。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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