折原みとさんを取材

 今日は、マンガ家・小説家の 折原みとさんを取材。
 某県某所の、海を臨む高台の高級住宅街にあるご自宅にお邪魔した。

 ニューミュージック界の大御所某や某々、トレンディ女優(死語)某などの家も近所にあるという。ビバリーヒルズのようなゴージャスな住環境に度肝を抜かれた。

 「折原流・夢を叶える秘訣」をうかがうというのが取材テーマだったのだが、お住まいそれ自体が「ど庶民」の私にとっては夢のよう。

 折原さんは、とても素敵な大人の女性であった。ファンの人にはおなじみの愛犬「リキちゃん」(ゴールデンレトリバー)にも会えた。
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戸田誠二がイイ!

しあわせの画像


  「WEBマンガ」(WEB上で読めるマンガ)の世界ではすでに知られた名前であるらしい、 戸田誠二 というマンガ家がいる。

 私はまったく知らなかった。
 ゆうべ、偶然に彼のサイト 「コンプレックス・プール」を知って、ネット上で公開されている作品のほとんどを一気に読んでしまった。

 スゴイ才能である。これほど優れたマンガ家をこれまで知らなかったとは不覚であった。

 サイトには近藤ようこやCoccoがフェイバリットとして挙げられているのだが、たしかに、作品にも近藤ようこやCoccoからの影響が感じられる。
 乱暴に一言でくくってしまえば、「男性版・近藤ようこ」、あるいは「マンガ版Cocco」という感じ。近藤ようこもCoccoも大好きな私にはタマラナイ世界である。

 近藤ようこが日本史と民俗学に造詣が深いのに対し、戸田誠二はどうやら理系の人らしい。「アポトーシス」(生命科学の用語で、「あらかじめプログラムされた細胞死=細胞の自殺」のこと)なんてタイトルの作品があったりするし、ほかの作品にも科学への深い造詣が感じられる。

ストーリーの画像

 
 この人はもともと自分のサイトで(もちろん無料で)作品を発表し始め、そのクオリティーの高さからじわじわと注目を集め、それらの作品が単行本化されて、現在は商業誌で執筆しているらしい。

 発表のおもな舞台が『Hiミステリー』などのマイナー誌(失礼)であるため、私のアンテナにはこれまで引っかかってこなかったのだ。

 コミックスの既刊を、あわててアマゾンに注文した。

 とくにすごいと思ったのは、「花」「けものみち」(これはたぶんCoccoの同名曲にインスパイアされたもの)という2つの掌編と、「キオリ」というSFタッチの短編。いずれもサイトで読めるから、ぜひご覧あれ。

 
生きるススメの画像


 とくに「花」がすごい。たった13ページのマンガで、こんなに重い感動を与えられるとは……。
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死こそが生を輝かせる

 今日は、作家の佐江衆一さんを取材。藤沢市の閑静な住宅街にあるご自宅にて。

 帰りの電車の中で読んだ『週刊朝日』(9月2日号)に、ちょっといい文章があったので、メモがわりに引用する。翻訳家の鴻巣友紀子さんによる、伊坂幸太郎著『死神の精度』の書評の一節である。

【引用始まり】 ---
 人間があらゆる芸術を生み出したのは、死ぬのが怖いからだと思う。自分の存在が無になってしまう恐怖に打ち克つために、人はものを残す。(中略)文学といわれるものは、古代哲学から「セカチュウ」から金原ひとみまで、死=無ではないということをひたすら言ってきたのではないか。すべてのアートの根底には死、すなわち人間のモータリティがある。考えてもみてほしい。不死の世界でつくられる天上の音楽や詩なんて、実は退屈じゃないだろうか。
【引用終わり】 ---
 これを読んで私が思い出したのは、仏教経典で説かれる「長寿天」のこと。そこに住んでいる人はみな不老不死で病気一つしないという、架空の世界である。

 不老不死は人類の見果てぬ夢であるから、「長寿天」は一見パラダイスのように思える。だが、じつはそうではない。経典には人の成仏を妨げる「八難処(8つの難所)」が挙げられていて、この「長寿天」もその一つなのである。
 つまり、「不老不死の世界になど住んでいたら、人はけっして成仏できず、真の幸福にもたどりつけない」と、仏教の叡智はとうの昔に見抜いていたのである。

 死があるからこそ生は輝く。死を恐れる人間が「死=無」ではないことを証するためにつくるからこそ、芸術は人の心を揺さぶる。「エロス」と「タナトス」は表裏一体のワンセットだ。

 と、話がヘンに大仰になりましたが……。

 そうそう、「死があるからこそ生は輝く」といえば、先日読んだアップルのスティーブ・ジョブスのスピーチに、感動的な一節があった。

 → http://pla-net.org/blog/archives/2005/07/post_87.html

 全部素晴らしい内容だが、「PART5.ABOUT DEATH」から下はとくに胸を打つ。印象的な一節を引こう。

【引用始まり】 ---
 天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです(訳/市村佐登美)
【引用終わり】 ---
 このスピーチは、ホイジンガの「メメント・モリ(死を想え)」の21世紀版だ。
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『生命 最初の30億年』ほか


 忙しくてじっくり日記が書けないので、とりあえず読んだ本だけメモ。

 アンドルー・H・ノール著、斉藤隆央訳『生命 最初の30億年』(紀伊国屋書店/2800円)読了。

 地球に生命が出現したのは、いまからおよそ35億年前のこと。そこから、三葉虫などの原始的な動物が生まれるまでには、約30億年という途方もない年月が必要だった。地球生命史の壮大なスケールから見れば、動物の歴史はその一部――最近5億年――に過ぎないのである。

 だが、生命史についての一般科学書では、大半を占める「最初の30億年」にはあまり触れられないのがつねであった。くわしい説明は約5億年前のカンブリア紀(「カンブリア爆発」と呼ばれる急激な進化が起こり、多数の動物が一気に出現した)あたりから始まるのだ。
 骨格をもつ動物が生まれる以前の時代については化石も少なく、情報が乏しすぎるためである。「最初の30億年」は、いわば地球生命史の巨大な空白なのだ。

 本書は、世界屈指の古生物学者である著者(米ハーバード大教授)が、その空白を埋めようとする試み。現在までにわかっている知見を総動員して、「最初の30億年」を概観した科学ノンフィクションである。カンブリア紀以前の生命史について、一般向けに書かれたものとしては最も詳細な一冊といえよう。

 絵になる恐竜や動物がまったく出てこないので、私のようなシロウトには正直退屈。仕事でなければ途中で投げ出したであろう。

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 ジャック・ケッチャム著、金子浩訳『隣の家の少女』(扶桑社ミステリー文庫)読了。

 スティーヴン・キングが絶賛し、解説も寄せているというので読んでみた本。

 読むんじゃなかった。読んで鬱になった。
 交通事故で両親を喪い、親類の家に引き取られた2人の少女が、その家の邪悪な女主人や息子たちから受ける虐待がストーリーの核になっているのである。
 隣の家に住む少年は、少女の姉のほうに心惹かれながら、その虐待をただ傍観するしかない。その無力な少年の目を通して描かれる地獄絵図。

 日本の「女子高生コンクリ詰め殺人事件」を彷彿とさせるが、こちらもアメリカで実際に起きた事件をベースにしているというから恐ろしい。

 最後まで読まずにはいられない迫力はたしかにあって、キングが絶賛したのもうなずける。しかし二度と読み返したくはない本。

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 佐江衆一著『地球一周98日間の船旅』(祥伝社/1400円)読了。
 今週、著者の佐江さんを取材するために読んだ本。

 『黄落』などの作品で知られる作家・佐江衆一氏は、古希(70歳)の記念に世界一周の船旅を実現させた。その体験をつづった本。氏は、50歳で古武道、55歳で剣道、60歳で茶道、65歳で英会話を始め、5年ごとに自分の世界を広げてきた。「70歳世界一周の旅」も、その延長線上にある。

 夢のない中高年が多い日本にあって、年をとるごとに夢を広げてきたその生き方は、まことにすがすがしい。

 なお、著者はいわゆる「ピースボート」で旅をしたのだが、私が抱いていた「ピースボート」のイメージが、本書を読んで(よいほうに)変わった。
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ストラングラーズ――「武器としてのロック」

ブラック・アンド・ホワイトブラック・アンド・ホワイト
(2002/10/25)
ザ・ストラングラーズ

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 昨年の深夜に放映されていたアニメに『巌窟王』というのがあって、その音楽をなんとストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルが担当していたという!

  ストラングラーズは、英国の「初期5大パンク・ロック・バンド」の一つ(ちなみにほかの4つは、セックス・ピストルズ、ダムド、クラッシュ、ザ・ジャム)。ジャン・ジャックはその中心メンバーである。

 ううむ、ジャン・ジャック・バーネルにアニメの音楽をまかせるとは、やるなあ。
 鈴木さえ子が『ケロロ軍曹』の音楽を担当したり、元ザバダックの上野洋子が『あずまんが大王』の主題歌を歌ったり、こと音楽に関するかぎり、テレビアニメはテレビドラマよりもずっと先鋭的な試みをしている。

 ストラングラーズは私がいちばん好きなパンク・バンドであった。いや、パンクにかぎらず、すべてのロック・バンドの中でいちばん好きだったと言ってもよい。
 
 ネットを逍遥していて偶然アニメ『巌窟王』のことを知り、久々にストラングラーズが聴きたくなった。
 で、私の好きな初期の3作、『夜獣の館』(1st/77年)、『ノー・モア・ヒーローズ』(2nd/77年)、『ブラック・アンド・ホワイト』(3rd/78年)を引っぱり出してきたというしだい。

ノー・モア・ヒーローズ(紙ジャケット仕様)ノー・モア・ヒーローズ(紙ジャケット仕様)
(2006/07/26)
ザ・ストラングラーズ

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 「好きだった」と過去形で書いたが、ストラングラーズは一度も解散せずに現在も活動をつづけているバンドである。
 ただ、途中から音楽性が変わって軟弱になってしまったし、90年にはもう一人の中心メンバーであったヒュー・コーンウェルが脱退してしまったから、いまのストラングラーズには魅力を感じない。私にとってのストラングラーズは『ブラック・アンド・ホワイト』までである。

 ストラングラーズは、パンクの中では異彩を放つバンドだった。

 まず、その音楽性。リード・ギターならぬ「リード・ベース」と呼びたい腰の強いベースがサウンドの核を成し、しばしばドアーズを引き合いに出された特徴的なキーボードとギターにはサイケデリックな印象すらある。要は、パンクの枠には収まりきらないバンドだったのだ。

 「楽器はバンドを結成してから始めた」というバンドすらいた(ただし、そのことはむしろパンクのカッコよさの要因とされた)パンク・ムーブメントの中にあって、ストラングラーズの音楽性の高さ、演奏力は抜きん出ていた。
 それもそのはず、彼らは年齢的にもほかのパンク・バンドより一世代上であり、各メンバーとも結成以前からかなりの音楽的キャリアを積んでいたのである。

 ピストルズやクラッシュはいま聴き直しても面白くないが(少なくとも私は)、ストラングラーズの音楽はいまでも十分カッコイイ。

 また、ジャン・ジャックやヒューは、当時のパンク・バンドでは珍しい大卒のインテリで、その知性においてもほかのパンクとは異質だった。
 ジャン・ジャックは三島由紀夫に心酔し、『葉隠』を行動原理とし、空手の有段者でもある“マッチョな文学青年”。ヒューに至っては医者でもあり、博士号までもっていた。マンガ家の多くが中卒・高卒であった時代のマンガ界における手塚治虫のような存在だったのである。

 ストラングラーズの音楽は、一言で言えば「文学的パンク・ロック」だ。たとえば、彼らの曲に「死と夜と血(三島由紀夫に捧ぐ)」があるが、ほかのパンク・パンドはけっしてこんな曲を作らなかった。

 同じパンクでも、ニューヨーク・パンクにはテレヴィジョンやパティ・スミスのように文学的香気をもつアーティストがいた。しかし、ストラングラーズのそれとは似て非なるものである。
 テレヴィジョンの音楽は内省的・耽美的・芸術至上主義的だが、ストラングラーズの音楽は社会に目を向けていた。眼前の現実と闘うための「武器としてのロック」だったのである。

 たとえば、彼らのファースト・アルバム『夜獣の館』のオープニング・ナンバー「サムタイムズ」は、「いつかお前の面を張り倒してやるぜ」というフレーズで始まる。
 サード・アルバム『ブラック・アンド・ホワイト』のオープニングを飾る「タンク」は、「俺は俺様の戦車を乗り回せるんだぜ」というリフレインをもち、砲弾をぶっ放す音がSEで使われている。

 そのように、いかにもパンクらしい攻撃性を持ちながら、それが知性とストイシズムに裏打ちされているところが初期ストラングラーズの魅力であった。

 最初の3枚のアルバムはどれもよいが、とくに『ブラック・アンド・ホワイト』は非の打ち所のない完璧なロック・アルバムである。タイトルどおり、すべての音が黒と白に染め上げられたような、武骨でパワフルなパンク・ロック。聴くと気持ちが引き締まり、力がわいてくる。

 「ストラングラーズの連中は、戦士のような生活をしている」
 ――70年代末に『ロッキング・オン』に載った、ポップ・グループ(というバンド)のメンバーのコメント。これを読んだとき、「さすがはストラングラーズだ」と妙に感心したものである。

夜獣の館(紙ジャケット仕様)夜獣の館(紙ジャケット仕様)
(2006/07/26)
ザ・ストラングラーズ

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 ストラングラーズはデビュー当時からドブネズミをトレードマークにしてきた(途中からカラスに変わったが)。
 『夜獣の館』(この邦題はヒドイ。江戸川乱歩じゃあるまいし)の原題“Rattus Norvegicus”はドブネズミの学術名だという。ジャケット裏面にも、夕陽を背にしたドブネズミの美しい(!)シルエットが用いられていた。

 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」といえばブルーハーツの「リンダリンダ」の名高いフレーズだが、初期のストラングラーズはまさに「ドブネズミのような美しさ」に満ちていた(そもそも、ブルーハーツのあの曲はストラングラーズにインスパイアされたものなのかも)。

 最後に、ヒューとジャン・ジャックについての有名なエピソードを一つずつ紹介しよう。

 ツアーでアメリカに行ったとき、いかにも犯罪者臭い風体をした彼らにFBIの捜査官が目をつけ、道を歩いていたヒューに職務質問をした。そのとき、ヒューは捜査官にこう言ったという。

「お前らが俺のことをあやしいと思うより先に、俺はお前らがあやしいと見抜いていた」



 ストラングラーズが初来日したとき、ジャン・ジャックは日本の若者に大いに失望したらしい。憧れの「サムライの国」に来てみたら、サムライとは似ても似つかないヘラヘラした軟弱な若者ばかりだったからである。
 で、ロック雑誌の取材で「日本の若者にメッセージを」と乞われたジャン・ジャックは、こんなメッセージを残していった。

 Don't smile so much, It makes you blind.
 (あんまりニコニコするなよ。何も見えなくなっちまうぜ)



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『スウィング・ガールズ』

スウィングガールズ スタンダード・エディションの画像


 いまさらながら、『スウィング・ガールズ』をDVDで観た。

 ストーリーには予定調和の展開が目立つし、ベタなギャグも多いけれど、それでも、全体としてはすこぶる好感のもてる映画。「あの子っていい子だよね」と異性にも同性にも好かれる女の子のような、万人向けの映画。

 登場人物の表情に多くを語らせる演出がうまい。
 たとえば、バンドの黒一点である男子が、上野樹里に「大事な話があるの」と言われ、「告られる」ことを期待してジワ~ッとうれしそうな表情になる場面。その表情を見ているだけで思わず吹き出してしまう。

 上野樹里は『ジョゼと虎と魚たち』でも光っていたが、この映画ではさらによい。
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『殺人の追憶』

殺人の追憶 [DVD]殺人の追憶 [DVD]
(2006/06/23)
ソン・ガンホキム・サンギョン

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 『殺人の追憶』をDVDで観た。

 80年代に韓国の農村で起きた連続殺人事件をベースにしたサスペンス。
 実際の事件で殺された女性は10人。同一人物と思われる犯人は、いまなお捕まっていないという。

 きまって雨の日に起こる、女性ばかりを狙った連続殺人。その犯人を追う刑事たちの苦闘を描いている。

 ヒッチコックや黒澤から近年のサイコ・サスペンスに至るまで、さまざまな犯罪映画の要素を巧みに取り込んだうえで、たんなる模倣に終わらない独創的な作品に仕上げている。

 主人公となるのは、「勘」と「足」が頼りの典型的田舎刑事(ソン・ガンホ)と、ソウルからやってきた科学捜査重視のエリート刑事(キム・サンギョン)。対極にある2人のぶつかり合いがストーリーの駆動力になるあたりは、『夜の大捜査線』以来の伝統的な手法だ。

 全編に漂う、人の心の闇を覗きこむような薄気味の悪さは、デビッド・フィンチャーの『セブン』を彷彿とさせる。軍事政権下の農村の暗く息苦しい雰囲気が、その不気味さをさらに増幅させる。
 ただし、コミカルな場面もちりばめられており、「韓国の渥美清」ソン・ガンホの人間味あふれる演技とあいまって、全体の暗さをうまく中和している。

 一本道の暗い農道で女性が襲われる場面が、くり返し登場する。その場面のサスペンスが見事。
 いくらでも猟奇的・煽情的にできた題材なのに、猟奇的描写は抑制されており、むしろ、登場人物の心理描写こそがサスペンスを形成する。

 二転三転する展開でぐいぐいと観客を引っぱり、最後まで緊迫感が途切れることがない。
 そして、深い余韻を残す秀逸なラストシーン。「うまい!」と思わず唸った。
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『8月のクリスマス』

8月のクリスマス スタンダード・エディション 8月のクリスマス スタンダード・エディション
山崎まさよし (2006/03/08)
キングレコード

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 試写会で 『8月のクリスマス』を観た。
 同名の韓国映画(1998年)のリメイクである。9月公開。

 公式サイト→ http://www.8xmas.com/

 元の映画はハン・ソッキュとシム・ウナが主演だったが、このリメイク版は主人公がシンガー・ソングライターの山崎まさよし、ヒロインが新人の関めぐみというコンビ。監督は長崎俊一。

 不治の病で余命いくばくもない30男の写真店主が、若い娘と出会い、恋に落ちる。男にとって、娘の天真爛漫さは「生」の象徴のようにまばゆい。
 2人は惹かれ合い、中学生のようなたわいないデートもする。だが、互いの思いを口にできないまますれ違いが重なり、娘は転勤してしまう。
 男はその別れの日まで、自分の病のことをついに打ち明けられない。

 やがて、男は世を去る。娘に宛ててしたためながら、投函することができなかった一通の恋文を遺して……。

 …というのが物語の骨子。
 『ある愛の詩』から「セカチュー」に至るまで、世にあまたある難病純愛もののヴァリエーションだが、ヒロインが恋人の病気のことを最後まで知らないという点が新機軸であった。

 つまり、「恋人が余命いくばくもないことを知ってガーン!」とか、「息絶えんとする恋人に向かって愛の言葉を叫ぶ!」などという、難病純愛ものの“泣きのスイッチ”の大半を、あえて禁じ手にしてしまった設定なのだ。

 そうすることによって、この物語は難病純愛ものにつきまとうクサさをまぬかれている。だからこそ、ナレーションで手紙が読み上げられるラストシーンで、ただ1回だけ押される“泣きのスイッチ”がひときわ印象的なのだ。

 「恋の至極は忍恋と見立て候。(中略)一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ」とは『葉隠』の一節だが、主人公は、死にゆく我が身が相手の重荷となることを嫌って、最後まで「忍ぶ恋」をつらぬくのである。まさに「純愛」だ。

 この作品は、ヒロインの職業が小学校教師に変わっているなどの細部の違いはあるものの、基本的には忠実なリメイクである。

 てゆーか、むしろ忠実すぎ。日本公開から6年しか経っていない韓国映画を、そのままなぞったような形でリメイクする必然性が見当たらない。
 “映画版「セカチュー」があれだけヒットしたし、韓流ブームもつづいているから、『八月のクリスマス』をリメイクすればヒットするはず”という皮算用だけで作ったとしたら、さびしい話である。

 いや、けっして悪い作品ではないのだ。元の韓国版をまだ観ていない人が観れば、それなりに感動できると思う。ただ、韓国版と比べるとどうしても見劣りしてしまう。

 ヒロインの関めぐみは、鶴田真由の目をもっときつくしたような、“目ヂカラ系”の派手顔美人。
「うわー、性格キツそうな女。全然好みじゃないや」と思ってしまった(私ごときに「好みじゃない」と言われても痛くもかゆくもあるまいが)。私ゃシム・ウナのほうが好みです。
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『オールド・ボーイ』

オールド・ボーイ プレミアム・エディション [DVD]オールド・ボーイ プレミアム・エディション [DVD]
(2005/04/02)
チェ・ミンシクユ・ジテ

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 『オールド・ボーイ』をDVDで観た。
 言わずと知れた、昨年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作。
 
 素晴らしい! 傑作『誰も知らない』をおさえてグランプリに輝いたのも納得。

 監督のパク・チャヌクは『JSA』の人。社会派サスペンスの大傑作『JSA』を撮ったわずか3年後に、まったく毛色の違うこんな傑作を作ってしまうのだからすごい。

 原作は日本の同名劇画。原作の原作者(ややこしい)土屋ガロンが狩撫麻礼の変名であることを、私は寡聞にして知らなかった。狩撫麻礼といえば、かわぐちかいじと組んでハードボイルド劇画の最高傑作『ハード&ルーズ』を作った人である。

 原作の劇画もよい作品だが、この映画のほうがはるかによい(ストーリーはかなり換骨奪胎されている)。かりに日本で『オールド・ボーイ』を映画化したとしても、これほどの作品にはならなかっただろう。韓国映画恐るべしだ。

 理由もわからないまま突然拉致監禁され、15年後に解放された主人公オ・デスは、自らの15年を奪った相手を探し出して復讐しようとする。
 だが、その追跡行自体が、オ・デスを憎んで監禁した人物が仕組んだ長い復讐劇の一幕であった。その人物とは? また、彼がオ・デスを憎む理由とは? しだいに明らかになっていく真実、そして衝撃のクライマックス!

 ……というような話である。
 2つの復讐が交差する殺伐とした物語なのに、乾いたユーモアとポップな感覚が全編にあふれている。血なまぐさい場面もあるが、全体としてはスタイリッシュ。きびきびとしたテンポが心地よく、映像としての面白さに満ちた凝った場面も多い。すこぶるカッコイイ映画だ。

 この作品について、「カンヌの審査委員長がタランティーノだったからこそのグランプリ受賞」という意見をよく目にする。なるほど、タランティーノからの影響は随所に見てとれるが、この映画にはタランティーノ作品にはない神話的な深みがある。

 たとえば、終盤の展開は明らかに『オイディプス王』を下敷きにしている(ややネタバレ)。オ・デスという名前自体、オイディプスに由来するのだろう(「オ」イ「デ」ィプ「ス」)。

 オ・デスが、自らを監禁した相手に切る啖呵が、なにやらすごく印象的。
 

 世界中、どこを探してもお前の死体は見つからない! なぜかわかるか? 頭の先から足の先まで、このオレが食っちまうからだ!



 うーむ、日本でいうと「月夜の晩ばかりじゃないんだぜ」とか、「神田川にゃ蓋はできねえよ」とかのたぐいのような、ある種の含蓄を感じさせる脅し文句である。

 脅し文句といえば、映画『ハメット』で悪党が吐くこんなすごいのもあった。
 

 いまのうちに写真を撮っておけよ。顔をつぶしてやるから。


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『真珠の耳飾りの少女』

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]
(2005/01/25)
スカーレット・ヨハンソンコリン・ファース

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 『真珠の耳飾りの少女』をDVDで観た。
 最近気に入っている若手女優、スカーレット・ヨハンソン の主演作。

 17世紀オランダの画家・フェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」(「青いターバンの少女」とも)の制作過程を描いた作品だが、物語はほぼフィクションである。

 そもそも、フェルメールの生涯自体、細かいことはよくわかっておらず、「真珠の耳飾りの少女」のモデルが誰だったかについてもはっきりしない。フェルメールの早逝した娘がモデルではないかともいわれている。
 謎の多い画家だからこそ、想像力の翼を広げる余地がある。本邦においても、写楽の生涯は謎に包まれているからこそ『写楽殺人事件』などの作品が生まれてきたように…。

 映画は、フェルメール家に下女として雇われた少女グリートを主人公に、彼女とフェルメールとの間に淡い恋愛感情が芽生えていく過程を描いていく。

 グリートが、フェルメールの妻とこんなやりとりをかわす場面がある。

「奥様、アトリエの窓を拭いてもよろしいでしょうか?」
「そんなことをいちいち聞かないでちょうだい」
「でも……、窓を拭くと(アトリエに射しこむ)光が変わってしまいます」



 このやりとりに象徴されるように、グリートは字も読めない無教養な少女ながら、絵画に対する鋭敏な感受性をもっている。そのことがフェルメールの目にとまり、彼女は絵の手伝いをするようになる。
 そして、グリートの清楚な美しさに惹かれたフェルメールは、彼女をモデルに絵を描くことを決めるのだった。

 スカーレット・ヨハンソンが、やはり素晴らしい。
 前作にあたる『ロスト・イン・トランスレーション』では人妻役だったのに、この作品では少女を演じてまったく違和感がない(実際には、彼女は今年21歳。この作品を撮っていたころは19歳か)。透明感のある美しさ。けなげではかなげで、それでいて強い意志を秘めた感じがたまらない。

 けっきょく、フェルメールとグリートはキスすらかわさないのだが、それでも、2人の関係を描いた場面は香り立つようなエロティシズムに満ちている。
 フェルメールがグリートの耳にピアスの穴を開ける場面は、明らかに破瓜のメタファーとして描かれている。また、ずっと白い頭巾をかぶったままのグリートが一度だけそれを脱いで髪を見せる場面では、観客は彼女の裸身を目にしたような気分になる。

 クライマックスで、「真珠の耳飾りの少女」を初めて見たフェルメールの妻は嫉妬に怒り狂い、「なぜ私じゃないの……!」と叫んで絵を切り裂こうとする。その絵を描く過程がセックスよりも濃密な「2人の時間」であったことを、彼女は直観したのである。

 絵画の制作過程を描いた映画だけあって、美術や撮影にものすごく力が入っている。光と影、色彩の繊細なコントロールがじつに見事。一幅の名画のような場面がちりばめられている。

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『血と骨』



 DVDで『血と骨』を観た。

 欲望のおもむくまま、暴力にまみれて生きた怪物的な男の生涯。それをフィルターとして描き出された、大阪の在日社会の現代史。『ゴッドファーザー』サーガを彷彿とさせる部分すらある(ただし、もっと猥雑)「暴力の叙事詩」だ。

 陰惨なエピソードが多いものの、不思議と後味は悪くない映画。なんというか、“パワフルな暗さ”なのだ。

 暴力シーンの合間合間がセックス・シーン(いまどき「ボカシ」入り!)で埋められている、という感じ。その過剰さには辟易したが、在日社会をいきいきと描いたディテールは興趣尽きない。
 生きた豚をみんなで解体する場面とか、身内で行う婚礼のあったかい雰囲気とか、ストーリーの大筋とは関係のない部分までが面白い。

 そこにいるだけで暴力的なオーラが全身から立ちのぼるような、ビートたけしの存在感が出色。『その男、凶暴につき』や『戦メリ』以上にハマリ役だ。
 鈴木京香も、オダギリジョーも、田畑智子も、濱田マリも、軒並み熱演。

 なお、主人公の息子を演じた、物語の「語り手」でもある新井浩文は、最近妙に気になる役者だ。『ジョゼと虎と魚たち』や『赤目四十八瀧心中未遂』でも、不思議な存在感を放っていた。
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『コレクター』

コレクターの画像


 この前読んだ『世界文学を読みほどく』に、ちらっとこの作品の話が出てきた。で、なんとなくもう一度観たくなって、DVDを借りてきたというしだい。

 巨匠ウィリアム・ワイラーが監督した、1965年作品。
 蝶のコレクターである根暗なキモメン主人公が、好きになった女子大生を人里離れた邸宅に拉致監禁する。ただし、主人公はヒロインの肉体を求めず、あたかも蝶を愛でるように愛そうとする。“狂った純愛”の物語だ。いま風にいえば「サイコ・サスペンス」。

 非常によくできた映画だし、65年当時としてはとてつもなく斬新で挑戦的なストーリーだったのだろう。
 そして、原作者のジョン・ファウルズも監督のワイラーも、この映画によく似た事件(むしろ、もっと陰惨な事件)が数十年後の日本で頻発することなど、想像だにしなかったにちがいない。

 21世紀の日本を舞台に、この映画をリメイクするとしたら…?
 監禁されるヒロインは女子大生ではなく女子中学生もしくは小学生になるだろうし、主人公は蝶のコレクターではなく鬼畜系アニオタもしくはゲームオタになるだろう。
 もっとも、そんな映画観たくはないけど。
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池澤夏樹『世界文学を読みほどく』



  池澤夏樹著『世界文学を読みほどく/スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書/1600円)読了。

 池澤が2003年夏に京都大学文学部で行った、7日間にわたる集中講義の講義録。19世紀と20世紀の欧米の長編小説から選んだ10編を素材に、“文学は世界をどのようにとらえてきたか?”の変遷がたどられていく。

 「ぼくは、小説というのは自分たちが生きているこの世界を表現するための道具の一つであって、世界が変われば小説は変わると思っています」という池澤が、世界観という切り口から近・現代文学を鳥瞰する試みだ。

 平均的な選書2冊分の厚さ(450ページ近い)。ただし、講義録なので話し言葉で書かれており、スイスイ読める。そのかわり、池澤作品の大きな魅力である透明感のある文体を味わう愉しみは、この本にはない。

 「小説の書き方講座」ではないからテクニカルなアドバイスは皆無だが、それでも、小説を書こうとする者にとっては有益な一冊だ。

 たとえば、全14コマの講義のうちに1回だけ、自らの最新作『静かな大地』を素材にした“中入り”的な回がある。ここは長編執筆の舞台裏を明かした「メイキング・オブ」として読むことができる。

 取り上げられている10編は、『パルムの僧院』『アンナ・カレーニナ』『カラマーゾフの兄弟』『白鯨』『ユリシーズ』『魔の山』『アブサロム、アブサロム!』『ハックルベリ・フィンの冒険』『百年の孤独』『競売ナンバー49の叫び』。

 「十大傑作から面白いように解明される、世界の姿、小説の底力」というのが版元のつけた惹句だが、実際には、これらの作品はベスト10として選ばれたわけではない。
 たとえば、『アンナ・カレーニナ』について、池澤は通俗的で底の浅い「メロドラマ」だとけなしている。そのうえでなお、“大衆小説の基本型を作ったという意味で重要な作品”と評価しているのだ。

 「読書力とは要約力である」と齋藤孝が書いていたが、稀代の読み巧者として知られる池澤の要約力は、さすがにすごい。『カラマーゾフの兄弟』のような大長編、『百年の孤独』のような入り組んだ長編のストーリーと要点が、1回分の講義録を読むとすんなり頭に入ってくるのだ。

 本書を「読まずにすませる世界文学」みたいな俗流教養本として読まれることは池澤にとって不本意だろうが、そのような読み方もできる本である。
 かくいう私も、『ユリシーズ』『アブサロム、アブサロム!』『競売ナンバー49の叫び』は読んだことがなく、『白鯨』は途中で投げ出した口だが、それでも、これらの作品について“理解したような気分”になった。

 もちろん、たんなる要約本とは一線を画した内容だ。各作品と“世界とのかかわり”を鋭く考察する慧眼にこそ真骨頂があるのだ。
 たとえば、『ハックルベリ・フィンの冒険』を取り上げた回には次のような指摘があって、思わず唸った。

 なぜハックルベリは少年であるのか。(中略)ここで話しておきたいのは、少年には「イノセンス」があるはずだというアメリカ的な信頼のことです。若いものは無垢である、まだ罪に穢れていない、はずである。
 実はこれは、アメリカが自分自身に対して言おうとしてきたことなのです。アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから。アメリカはイノセントである、という信念が、最初にあるわけです。
 それが、若い子と幼い子とをまず善として受け止める、一種の風潮を作り出しました。



 このような、思わずメモしておきたくなるような指摘が随所にちりばめられている。
 私が傍線を引いた箇所を、もう一つ引用しよう。

 ある時期まで世界は無限でした。例えば空は、一九六○年代までは、ある意味では無限という捉え方をされていた。いかに汚れた煙を出しても、煙はどこかへ行ってしまう。空気全部を汚すなんてことはできるはずがない。
(中略)
 例えば海、空、オゾン層という、いくらでもあるはずのものも実は有限である、ということがわかった。とにかく今あるだけのものを使ってやっていくしかないという認識。これがたぶん人間の認知する一番新しい世界像でしょう。



 なお、池澤の話はしばしば脱線するのだが、脱線部分にも豊かな教養と批評能力がにじみ出ていて、いちいち面白い。こんな講義なら受けてみたいものだ。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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