小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか。』



 小田嶋隆著『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(光文社知恵の森文庫/648円)読了。

 小田嶋氏のことを、「私が現代日本でもっとも尊敬し、ひそかに師と仰ぐ批評的精神」と高く評価する内田樹さんが解説を書いている。

 小田嶋氏にとっては初の書き下ろし(単行本時)であり、初めて一つのテーマで一冊を書きとおした本でもある。

 推測するに、書き下ろしとなったのは、学歴という微妙なテーマの連載にどの雑誌も二の足を踏んだためであろう。連載を単行本化するほうが書き手にとってはオイシイ(連載時の原稿料と印税で二度オイシイ)のに、あえて書き下ろすほど、小田嶋氏にとっては書きたかったテーマなのだ。つまり、氏の著作のなかでも特別な位置を占める一冊。

 とはいえ、学歴「論」ではけっしてなく、あくまでコラム集である。いつもどおり、怜悧な批評眼とアイロニカルなユーモアにつらぬかれた、高水準のサタイア・コラム集になっている。ただ、すべてのコラムが学歴というテーマで統一されているというわけだ。

 就職・恋愛・結婚・出世・人間関係など、人生のさまざまな場面で見られる隠微な学歴差別をおもに扱っている。
 「隠微な」というのは、あからさまで重大な差別ではなく、なにげない言葉の中に隠れている微妙な差別感情などにスポットを当てている、という意味である。

 日常会話のなかでは言葉にすることがはばかられるか、あるいは、差別が潜んでいることすら多くの人は気づかない、まさに隠微な学歴差別。小田嶋氏は冷徹にそれを抉り出し、鮮やかに言語化してみせる。それも、読んでいて思わずニヤリとしてしまう皮肉のスパイスをきかせて。

 たとえば、首相時代の田中角栄に冠された「今太閤」なるキャッチフレーズについて、小田嶋氏は次のように喝破する。
 

 低学歴者の出世を中世の下克上伝説に重ね合わせるこの言いまわしは「中高卒は一生下積みで終わるはずだ」という前提がなければ成立しないのである。
 (中略)
「ってことは、おい、オレら中卒は室町末期の尾張の貧農の小せがれと同じってことか?」
 と、新聞社に問い合わせた人間は、当時、いたのだろうか?



 このような、学歴をめぐるイジワルなツッコミ芸が満載の本である。
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リー・リトナーとANRI

RITRIT
(2008/03/19)
リー・リトナー

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 リー・リトナーとANRI(杏里)が婚約、というニュースにはびっくりした。
 八神純子がアメリカのミュージシャン(名前忘れた)と結婚したりとか、似たような組み合わせの国際結婚は以前にもあったが、相手がリトナーほど大物という例は珍しい。

 布施明とオリビア・ハッセーの結婚(離婚したけど)を引き合いに出していたブログを見かけたが、たしかにそれくらい意外な組み合わせ。
 立場を男女逆にしたら、「高中正義とニコレッタ・ラーソンが結婚」とか、そんな感じの意表をつくカップルである(そういえば、ニコレッタ・ラーソンって亡くなったのですね。知らなかった)。

 リトナーといえば、ラリー・カールトンと並び称されるフュージョン系ギタリストの大御所である。
 でも、いまの若い人にはなじみが薄いかもしれない。
 ラリー・カールトンの名がサザンの曲の歌詞や吉田秋生のマンガに登場するほど一般的だったのに比べ、リトナーの名はいまいち一般には浸透しなかった。

 今回の婚約報道を見ても、「ANRIさん、米の大物ミュージシャンと結婚」というふうに、リトナーの名前が見出しに出ていないものが多かった。

 私、けっこう好きでした。最近のアルバムはあまり聴いていないけど。

 上の画像は、リトナーが80年代初頭に放った大ヒット・アルバム『LIT』。 もともとインスト主体のアルバムがほとんどだったリトナーが、エリック・タッグらのヴォーカリストを全面起用して作り上げたポップな作品。
 これはもう、非の打ちどころのない完璧なAORアルバムであった。当時聴きまくったものだ。
 半分くらいがインストなのだが、それがまた素晴らしい。「カウントダウン」「オン・ザ・スロウ・グライド」の2曲は、一時期私の「おめざ」音楽だった。

※後記/けっきょく、このカップルは結婚に至らないまま破局してしまった。

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西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』

 
僕の見た「大日本帝国」―教わらなかった歴史と出会う旅僕の見た「大日本帝国」―教わらなかった歴史と出会う旅
(2005/02)
西牟田 靖

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 西牟田靖著『僕の見た「大日本帝国」/教わらなかった歴史と出会う旅』(情報センター出版局/1300円)読了。

 日の丸をあしらったブック・デザインと書名から、「右翼の本?」と誤解する向きもあるかもしれない。
 だが、そうではない。これは、1970年生まれの新鋭ノンフィクション・ライターが、アジア太平洋地域に広がる日本の元領土を踏破し、“大日本帝国の跡”を探し求めた長い旅の記録なのである。

 近代日本は、「欧米列強」以外で広大な植民地を有した唯一の国である。旧植民地の「いま」を見据えることは、日本の近現代、ひいては未来を考えるための重要なテーマの一つといえる。
 ゆえに類書も少なくなかった(たとえば、歴史家・大江志乃夫の『日本植民地探訪』など)が、過去の類書に比べて際立っているのは、本書があくまで“普通の若者”の視点から書かれている点だ。

 歴史家の視点でもなければ、左右いずれかに偏ったイデオロギッシュな視点でもない。著者は普通の若者のニュートラルな視点を保ったまま、1人の日本人バックパッカーとして現地の人々や戦跡と向き合う。その姿勢が、本書のみずみずしさの源になっている。

 著者は明らかに、“旅する若者のバイブル”『深夜特急』(沢木耕太郎)の影響下にある。ただし、本書に沢木流のナルシシズムは皆無。むしろ、私が連想したのは関川夏央の『ソウルの練習問題』(※)だ。

※関川の事実上のデビュー作。1984年に、『僕の見た「大日本帝国」』と同じく情報センター出版局から刊行された。

 『ソウルの練習問題』は、とかくイデオロギッシュに語られがちな日韓関係を、ふだん着の視点からとらえ直した点が画期的であった。それと同じ視点が、本書にはある。

 著者の物怖じしない行動の数々に、圧倒される。
 「反日の聖地」竹島や北朝鮮にも臆せず出向き、韓国では元従軍慰安婦たちの家を訪ね、ノモンハンにほど近い町では中国残留孤児の女性を探して話を聞く、という具合だ。

 そして、冷ややかな反日的対応に出合っても、親日的な歓待を受けても、著者は自然体で応じ、自分の思いを堂々と口にする。
 古い世代の日本人がそうした場面で陥りがちな、卑屈になったり尊大になったりする過剰反応から自由なのだ。その姿に、若い世代のしなやかな国際感覚が感じられて好ましい。

 親日的なはずの台湾で老夫婦から「バカヤロ!」「カエレ!」と日本語の罵声を浴びたり、逆に韓国の老人から日本統治時代を肯定する言葉を聞いたりと、著者が行く先々で体験する驚きの出来事の数々が、読者の固定観念を突き崩していく。
 親日も反日も、そのありようは我々が考えるよりずっと複雑で多様なのである。

 各章とも、「大日本帝国」統治時代の出来事について、平明でていねいな解説がちりばめられている。
 たとえば、「玉音放送というのは昭和天皇自らが国民に敗戦を伝えた放送のことだ」という一節がある。一世代上のライターなら、こんなことは「いわずもがな」ととらえ、いちいち説明しないだろう。

 著者は、近現代史に関する知識の乏しい若者を読者に想定しているのだと思う。若い世代が抵抗なく読めるような書き方をしているのだ。風変わりな“若者のための近現代史入門”としても読める一冊である。
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絲山秋子『袋小路の男』



 絲山秋子著『袋小路の男』(講談社/1300円)読了。

 川端康成文学賞を受賞した表題作など、計3編を収録した短編集。
 先日読んだ『海の仙人』よりも、こちらのほうがずっとよかった。

 世評高い表題作「袋小路の男」は、たしかに傑作。きわめて独創的で、それでいて普遍的な恋愛小説に仕上がっている。

 「純愛小説」と評する向きが多いようだ。
 なるほど、主人公は「袋小路の男」小田切を12年にわたって想いつづけ、そのくせ手も握らない。「恋人未満家族以上」の、不思議な関係。プラトニック・ラヴという意味で「純愛」ではあるのだが、「セカチュー」「冬ソナ」的な「純愛」とは似て非なる世界である。

 そもそも小田切は、男の目から見るとただのダメ男であって、およそ純愛小説の主人公という感じではない(そのダメ男ぶりが面白いのだけど。純文学版『だめんず・うぉ~か~』って感じで)。
 また、日本的な「忍ぶ恋」の話でもない。小田切は主人公の想いを重々承知で、なおかつ何も起こらないのである。

 とぼけたユーモアと切なさが、絶妙の配分でカクテルされた文体が素晴らしい。
 とくに、主人公の小田切への想いをさまざまに変奏しながら表現していくあたりは、小説というより詩のようで、何度も読み返したくなるほど。たとえば、小田切の最期を看取ることを夢想する場面の一節――。
 
【引用始まり】 ---
 私はあなたの骨の小さなかけらをひとつだけくすねることを考える。半分は乳鉢で摺ってカフェオレに入れて飲んでしまう。そしたら私の骨になる。あとの半分はポケットのなかだ。小さな袋に入れて、何か不安なときや困ったときに触る。  
【引用終わり】 ---
 もう一つ挙げる。小説家の卵である小田切が世に出る日を待ちつづけるヒロインの、こんなモノローグ。

【引用始まり】 ---
 あなたは新人賞をなかなかとれない。昔から試験には弱かった。でも私は、あなたが自分のことを作家だと言った日からあなたが作家だと思っている。あなたが作家なのは書いている瞬間で、結果なんて後からついてくるんだもの。
(中略)
 アンハッピーエンドは嫌いだ。たとえ物語であってもあなたに関することは全部ハッピーエンドであってほしいのだ。こんなことを思う私は、あなたの小説を読むのに向いていないかもしれない。  
【引用終わり】 ---
 ただ、「袋小路の男」に比べ、ほかの2編はかなり見劣りがする。
 「小田切孝の言い分」は、タイトルが示すとおり「袋小路の男」の続編。可もなく不可もない出来で、「袋小路の男」にくっつけられた長い蛇足という感じ。

 もう一つの「アーリオ オーリオ」は、独身中年男と中学3年生の姪の淡い交流を描いた作品。
 中年男の人物像とか、天文学のウンチクが小道具に用いられている点などは、池澤夏樹の「スティル・ライフ」のよう。
 「スティル・ライフ」のことを誰かが「理系の村上春樹」と評していたけれど、この「アーリオ オーリオ」もそんな感じ。
 ただし、小説としては村上春樹よりも池澤よりもずっと下手。男の生活を描いた部分と、姪との交流を描いた部分がまるで噛み合っておらず、別の小説2編を切り貼りしたような印象。失敗作だと思う。

 推測するに、「袋小路の男」は作者自身の恋愛体験が下敷きになっているのに対し、「アーリオ オーリオ」は頭の中だけで作ったものなのだろう。
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勝鹿北星が……。



 『週刊文春』5月26日号の、<超人気マンガ「マスターキートン」突如消えた不可解な理由>なる記事を読んで驚いた。
 『MASTERキートン』の原作者・勝鹿北星こと菅伸吉(すが・しんきち)さんが昨年12月に癌で亡くなられたことを、この記事で初めて知ったからである。

 勝鹿北星という、いかにもペンネーム然としたペンネームを使うこの原作者の正体については、長らく謎であった。

 いまはなき月刊『マルコポーロ』が「進め! マンガ青年」というマンガ特集を組んだとき(93年5月号)、「『MASTERキートン』原作者の謎を追う」という記事がもうけられたこともある。
 その記事でも、「すいません。原作者は表に出たくないと強く希望していまして」という担当編集者のコメントが載り、けっきょく「正体」はわからずじまいであった。

 ところが、のちに菅さんが「ラデック・鯨井」名義で原作を書いた『SEED』(『ビジネスジャンプ』連載。画・本庄敬)のコミックスには、ラデック・鯨井のプロフィール欄に、おもな作品の一つとして『MASTERキートン』が堂々と挙げられていた。
 そこで初めてラデック・鯨井=勝鹿北星であることが明かされたわけだが、それがさらに勝鹿北星=菅伸吉(本名)であるとメジャーなメディアで特定されたのは、この『週刊文春』の記事が初めてだろう。

 『SEED』は“エコロジー・マンガ”ともいうべき作品で、私は某誌のエコロジー特集の中で、この作品をめぐって菅さんにインタビューしたことがある。ご自宅におじゃまし、さらには菅さんが『SEED』の主人公さながらに作っていた畑も見せていただいた。

 一期一会の出会いではあったが、取材した相手が亡くなるのはやはり悲しい。『MASTERキートン』は私のお気に入りマンガでもあるし。

 文春の記事では『MASTERキートン』をめぐる印税等のトラブルにも触れられているが、そのへんの真相を私は知らないので、コメントは差し控える。
 ともあれ、優れた劇画原作者であった菅伸吉さんのご冥福をお祈りしたい。
 
 ……と書いたあとに「勝鹿北星 逝去」でググってみたら、すでにマンガ・マニア系のサイトではかなり話題になっていた。 →こことか

 あと、「漫棚通信ブログ版」さん(このブログはマンガ好き必見)のこのエントリは、ネット上の関連情報を手際よくまとめてあってありがたい。

 勝鹿北星についてはこういう「まとめサイト」もある。熱心なファンが多かったのだなあ、と改めて思う。


※追記(5/23)
 関連ブログを読んで気になったのは、『週刊文春』の当該記事について、「勝鹿北星についてはネット上でいいかげんな噂が流れていたが、これでやっと事実がはっきりした」という感想を述べている人が多いこと。

 記事は、『MASTERキートン』のストーリーはじつは担当編集者だった長崎尚志と浦沢直樹がほとんど考えていて、勝鹿北星=菅伸吉は名前だけの原作者であった、としている。

 だが、記事の中身がすべて事実であると、そうかんたんに決めつけていいものだろうか? 菅さんが生きておられたら反論もあっただろうし、雁屋哲(記事には菅さんの親友として登場し、“悪役”イメージを押しつけられている)にだって言い分もあるだろうに。
 ネット上の情報があやふやなのはいうまでもないが、週刊誌の記事だって、無条件に信頼できるようなものではないはずだ。

 ヒントとなる情報を一つ提供しよう。私がインタビューした際、菅さんはこんな発言をされていた。

「私はだいたい単行本9巻くらいまで連載をつづけると飽きてくるタチなんですが(笑)、『MASTERキートン』は人気があったこともあって、18巻までつづけました。で、力を出し尽くして一種の虚脱状態になって、連載を終えたあと、少し仕事を休んだんです」(『リミューズ』2000年4/6月号)

 『週刊文春』の記事を読んだあとでこの発言を読み返すと、いろいろ深読みしたくなる。
 『MASTERキートン』の9巻くらいまでは、菅さんが実際にストーリーを考えていたのではないか。しかし、だんだん浦沢-長崎ラインのカラーのほうが強くなり、菅さんは名ばかりの原作者になってしまった。そのショックゆえの「虚脱状態」だったのでは?
 ま、それはあくまで私の推測だけれど。
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桐野夏生『魂萌え!』

魂萌え !魂萌え !
(2005/04/21)
桐野 夏生

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 桐野夏生著『魂萌え!』(毎日新聞社/1785円)読了。

 還暦間近の主婦を主人公にした、話題の最新作。
 『グロテスク』や『OUT』のような過激さを期待すると、肩透かしを食う。著者の作品中、最も日常的な“普通の小説”だ。殺人事件も出てこなければ、耽美的な性描写も登場しない。従来の桐野作品より、むしろ向田邦子の諸作に近い感触がある。

 夫の急逝を契機に明らかになる、十年来の愛人の存在。主人公は夫の“もう一つの顔”を知って当惑し、冷たい「世間の風」に初めてさらされて右往左往する。
 だが、そこから彼女は急速に変わっていく。さまざまな逆風――遺産分配をめぐる子どもたちとの確執、夫の愛人との苦い邂逅など――を乗り越えることを通して、1人で老いを迎え撃つ強い女に成長していくのだ。
 その変貌と自立のプロセスが、一筋の太い線となってストーリーを牽引していく。

 骨子はありきたりだが、ディテールのリアリティがすごい。濃密なリアリティをもった場面、精緻な心理描写がちりばめられていて、さすがの読みごたえである。

 並の作家なら夫の不倫相手を部下の若いOLあたりに設定するだろうが、この作品では、社員食堂の栄養士として夫と知り合った同年輩の女性が相手である。この設定の、えもいわれぬ現実感。
 そして、この愛人と主人公が“対決”するピンと張りつめた場面が、作品全体のクライマックスを成している。

 主人公のみならず、2人の子どもたち・主人公の友人・夫の友人など、主要登場人物すべてのキャラが立っている。血の通った人間として読者の目に映るのだ。各キャラクターの弱さ、卑小さ、いやな部分までもが容赦なく描写されるのだが、それでも、読者はどの人物も憎めない。主人公も含めて、みな“愛すべき俗物たち”なのである。
 ふたたび向田邦子を引き合いに出すなら、向田の脚本家としての代表作『阿修羅のごとく』を彷彿とさせる手腕である。

 そして、私はこの作品を「青春小説」として読んだ。
 59歳の主婦が突然社会の荒波の中に投げ出され、「第二の青春」を懸命に生きていく、“高齢社会の青春小説”なのである。
 ここには恋もあれば性もあり、友情のドラマもあり、人生の意味をめぐって自問自答をくり返すようなメランコリーもある。主人公と主要キャラが老年であることを除けば、青春小説の要素がひととおり揃っているのだ。

 とはいえ、対象読者を老人に限定した“シルバー小説”ではない。読み出したら止まらない上質のエンターテインメントに仕上がっているから、若い人にも愉しめるはずだ。

 それにしても、作家としての新境地を次々と開拓していく桐野夏生のエネルギーには敬服させられる。『OUT』のような従来路線の小説のほうが手馴れていて書きやすいだろうに、彼女は一つの場所にとどまらず、あくなき前進をつづけているのだ。
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万馬券は災厄である

万馬券の9割を狙える方程式―穴をあける馬は最初から決まっていた! (ベスト新書)万馬券の9割を狙える方程式―穴をあける馬は最初から決まっていた! (ベスト新書)
(2007/05)
清水 成駿

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 以下は、「アサヒ・コム」5月16日付より引用。

 東京・大井競馬を主催する特別区競馬組合は16日、70歳代男性がこの日、日本の公営ギャンブル史上最高となった1300万390円の払い戻しを受けたと発表した。
 男性は午後1時ごろ、馬券を買ったのと同じ東京・後楽園の場外馬券売り場で受け取った。12点買い(1200円)で大穴を射止めた。

 

 100円が1300万円に化けるという、史上最高の超・万馬券。読者諸氏はこのニュースに触れて「うらやましい」と思うだろうか? 私は微塵も思わない。度を越した大当たりは幸運ではなく不運、否、むしろ「災厄」ですらあるからだ。

 内田樹さんは、『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店)で次のように喝破しておられる。

 自分がたいしたものを提示していないのに、ものすごいリターンがあったという経験はその人の価値観に混乱を来たします。「濡れ手で粟」というのは少しもよいことではありません。価値観が混乱すると、ほんとうに大事な決断のときに、選択を誤らせるからです。



 いや、まったくそのとおりだと思う。

 たとえば、この超・万馬券を当てたのが競馬を始めて間もない大学生だったとしよう。
 その学生は、1300万円を将来の結婚資金に充てるだろうか? 両親にそっくりプレゼントするだろうか? ベンチャー・ビジネスの起業資金に充てるだろうか? そういうまっとうな使い方をする可能性は、測定限界以下だと思う。

 おそらくは、浮かれて舞い上がっている間に、ろくでもないことに使い果たしてしまうだろう。そして、その後彼は競馬にのめり込み、5年と経たないうちに当てた分以上の金額をすってしまうにちがいない。あとに残るのは深刻な「価値観の混乱」のみだ。

 この超・万馬券を実際に当てたのが70代の老人であったことは、「不幸中の幸い」である。それくらいの年齢になれば、もはや価値観は混乱しようもないほど固まっているだろうから。
 それに、このおじいちゃんにしたところで、これまでの競馬人生でトータル1300万円以上は軽くすっているにちがいない(※)。

 以上のようなことは、まあ、「言うだけ野暮」ではあるのだけれど……。

※作家兼馬券師の浅田次郎氏が、次のように言っている。
「毎週馬券を買い続けていながら『俺は勝っている』と豪語する人でも、年間百万円は負けている。だが、それでも彼は名人である。
 『ま、トントンだね』と答える人は、二百万ぐらい負けている。これがごく一般的なファンであろう」(『勇気凛々ルリの色』「テラ銭について」)



 かくいう私は、過去に3回しか馬券を買ったことがない競馬ド素人である。どのくらい素人かというと、馬券を買うとき窓口の女性に「1-3千円、3-1千円」と言って、「ハア?」とけげんな顔をされてしまったほどだ(連勝複式では1-3と3-1は同じ馬券である。為念)。
 
 ただ、競馬ではなくパチンコでドツボにハマった経験ならある。

 きっかけは、仕事の打ち合わせと取材の間にポッカリ時間が空いてしまったこと。都下に住んでいるのでいったん家に帰るのも面倒で、空いた時間をつぶそうとパチンコ屋に入ってしまったのだ。

 すると、最初の500円でいきなりフィーバーし、確変連チャンがつづいて数万円の儲け。味をしめて翌日また行ってみると、また最初の1000円で大連チャン。そのことで「オレってパチンコの天才かな」とか思って(笑)、ハマってしまったのである。

 それがビギナーズ・ラックにすぎないことに気づいたときには、すでにかなり負けていた。そうなると、「負けた分だけでも取り返してからやめよう」などと思って熱くなるわけだが、そんなことは絶対不可能なのである。

 いま思えば、最初の500円で大当たりしたことは少しもラッキーではなかった。私にとっては災厄であったのだ。

 ついでに、パチンコをやめたきっかけについて以前書いたコラムを、以下にコピペしておこう。


私はこうしてパチンコをやめた(初出『リミューズ』1999年6月号)

 電話を3ついっぺんにかけるような猛烈な仕事ぶりで知られた日商岩井元副社長・海部八郎は、あるとき、昼間からパチンコをしている人を見て、「ああ、あいつの時間を買いたいなあ」としみじみ言ったという。
 私も一時期パチンコにハマッていたことがあって、いましみじみと思う。パチンコに費やした無駄な時間を、できることなら買い戻したい、と。

一番ハマっていた時期には、毎朝「開店待ち」の列に並び、昼食さえとらずに夜まで打ちつづけたものだった。全身がタバコの匂いに染まり、首から腰にかけてひどい凝りと痛みが残り、何一つ得るものはなかった。金も、3ケタは軽くスッたと思う。
 そんな私がパチンコをやめたきっかけについて、ご紹介しよう。

 ある雑誌に、「パチンコ極秘必勝法教えます」なる広告が載っていた。

 「極秘必勝法」というのはどのギャンブルにもあって、当然のことながらどれも眉ツバだ。
 ただ、このときの広告は文言がじつに巧みだった。
 「関西のパチプロ集団から入手した極秘必勝法」が、「数十ページの冊子にまとめられて」おり、「回収率は1時間で2万円以上」「ゴト師がやるような違法なものでなく正当な必勝法」で、「誰にでも理解できる方法」であるという。しかも、「1円でもマイナスだったら責任を取ります!」とまで書いてあった。

「もしかしたら本物の必勝法かも……」
 ――そう思い、1万円を送った私がバカだった。

 数日後に届いた「必勝法」の小冊子は、1ページ20字ほど(たしかに「数十ページ」ではあった)のちゃちなワープロ打ちで、その結論は「パチンコをしたくなったら、したつもりになってその分貯金すること。これが唯一の『必勝法』です」というものだった。

 怒る気にもならなかった。むしろ「ハハハ…」と力ない笑いが口から漏れた。

 しかし結果的には、この「必勝法」には1万円以上の価値があった。こんなものにひっかかったことで私はものすごい自己嫌悪に陥り、馬鹿らしくもなって、その日以来すっぱりとパチンコをやめられたからである。
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『バス174』  

バス174 スペシャル・エディションの画像


 試写会で『バス174』を観た。ブラジルで2000年に起きたバスジャック事件のドキュメンタリーである。「174」とは、ジャックされたバスの路線名だ。

 公式サイト→ http://bus174.jp/

 この事件は、くしくも日本の「佐賀バスジャック事件(ネオ麦茶事件)」の翌月に起きた。
 佐賀の事件は17歳の少年によるもの、「174事件」も20歳の若者が起こしたもので、年齢も近い。また、事件終結までをマスコミが逐一追いかけた「劇場型犯罪」であった点でも、地球の反対側で起きた2つの事件はよく似ていた。

 だが、犯人のバックグラウンドはまったく違う。
 佐賀バスジャックはごく普通の家庭で育った少年によるものだったが、「174事件」の犯人サンドロは、幼いころに母親を眼前で殺され、それがきっかけでストリート・チルドレン(路上生活をつづける子どもたち)になったという凄惨な過去をもっていたのだ。

 しかも彼は、有名な「カンデラリア教会虐殺事件」(1993年)の生き残りでもあった。この事件は、警官が無防備のストリート・チルドレン8人を射殺するという衝撃的なものであったため、ブラジルで頻発する同種の事件の中で最も大々的に報道された。

 警官隊と特殊部隊、報道陣、それに野次馬たちが十重二十重にバスを包囲するなか、サンドロは社会への呪詛の言葉を叫びつづけ、その模様はブラジル中に生中継される。

 映画は膨大な記録フィルムから事件を再現し、並行して、周辺取材によってサンドロの短い人生を描き出す。ストリート・チルドレンが直面するあまりに過酷な現実が、そこから浮かび上がる。
 彼らの大半は親を亡くしたか親に見捨てられた子どもたちであり、幼いうちから犯罪に手を染める者も多い。そのため社会から白眼視され、ときには暴行や虐殺のターゲットとなる。総じて短命で、20歳を超えることはまれ(!)だという。

 プレスシート(試写会でマスコミ関係者に配られる資料)に、驚くべきデータが載っていた。サンパウロで刑務所等に収容された年間6万5000人にのぼる未成年犯罪者のうち、5歳以下が10.1%、10歳以下が42.3%いたという(『フォーリャ』紙2001年9月9日付)。
 少年犯罪の5割以上が10歳以下! しかも5歳以下が1割! ぞっとするような数字ではないか。

 この映画はブラジルの未成年犯罪者収容施設の実態も描いているが、それはこの世の地獄のような劣悪無比の環境である。
 そうした施設に何度も収容されたというサンドロの友人(元ストリート・チルドレン)は、カメラに向かって言う。「(施設は)なんの役にも立たなかった。ただ憎悪が増幅されただけだ」と……。

 サンドロの犯罪(バス強盗に失敗してバスジャックに走った)を肯定するわけにはいかないが、この映画を観終わったあとで彼を憎むことは難しい。弱者に向ける優しさなどの人間性の輝きが、彼の行動の端々や少年時代のエピソードから見てとれるからである。

 教育の欠如、絶望的な貧困、大人たちからの暴力など、悪条件が幾重にも重なり追いつめられていった若者の、悲しい生の軌跡――。
 サンドロは逮捕後、護送車の中で警官たちに絞殺された(!)。

 ブラジル社会の暗部をえぐる、きわめてヘビーな作品。観終わったあと、胃のあたりに重苦しいモヤモヤが残る。しかし、最後まで目をそらすことのできない傑作だ。
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『FBI心理分析官2』


 ロバート・K・レスラー&トム・シャットマン著、田中一江訳『FBI心理分析官2』(ハヤカワ文庫)読了。

 米国の№1プロファイラーが、異常殺人者たちの心の闇に迫ったベストセラーの続編。といっても、元本が刊行されたのは1996年。私は正編のほうは刊行直後に読んだが、この続編は初読。

 2冊を併読した人は誰もが感じたことだろうが、正編の圧倒的な面白さと比べると、この続編は一段も二段もクオリティーが落ちる。

 たとえば、地下鉄サリン事件を取り上げた章など、事実を羅列しただけという印象で、「どこがプロファイリングなのか?」と毒づきたくなる。
 また、2人のおぞましいシリアル・キラー(ジョン・ウェイン・ゲイシーとジェフリー・ダーマー)に著者がインタビューした記録を各一章を割いて紹介しているのだが、ほとんどテープ起こしそのままのようなダラダラした内容で、たんなるページ数稼ぎという印象だ。

 ただ、面白い章もある。
 たとえば、いまも記憶に新しい「つくば母子殺人事件」を取り上げた章など、著者が理詰めで犯人像に迫っていくプロセスに、シャーロック・ホームズものを読んでいるような知的興奮がある。

 最後に、読んでいていちばんぞっとした一節を引いておこう。

【引用始まり】 ---
 警察当局は、ゲイシーが自身の弁護のために収集した資料の一部として、殺害の被害者である若者たちの写真をあつめることをみとめた。しかし、ゲイシーがスクラップブックに貼ったこれらの写真を自分の房に保管しているようすは――わたしの目には――それほど無邪気なものには見えない。ゲイシーにとって、こういう写真はポルノグラフィにひとしい。それを見ることで彼は自分の犯行を頭によびさまし、被害者ひとりひとりを殺したときのもようを思い出して、性的興奮をおぼえることができる。
【引用終わり】 ---
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『JSA』再見

JSA [DVD]JSA [DVD]
(2006/06/23)
ソン・ガンホイ・ビョンホン

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 仕事上の必要があって、『JSA』をDVDで再見。

 4年前の公開時よりもずっと面白く感じた。映画館で観たときにはよくわからなかったいくつかのポイントが、再見してようやくわかったからだ。日本人が予備知識なしに一度観て理解できるほど単純な作品ではないのだな。

 この映画、やはり傑作である。
 韓国現代史のタブーに挑む重いテーマを扱いながら、ちゃんとエンターテインメントとして成り立っているところがすごい。全体がよくできたミステリーになっているし、悲しい友情の物語でもあり、韓国・北朝鮮それぞれの青春のありようを活写した哀切な「青春映画」でさえあるのだ。

 内田樹さんのこんな言葉を思い出した。

 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である(それはプロパガンダにすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は『質の高い物語』である。
 (中略)
 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その『解決』を宙づりにし、『最後の言葉』を先送りしてきた(『女は何を欲望するか?』)。



 この『JSA』は、まさにそのような意味で「質の高い物語」である。韓国映画の水準の高さ恐るべし、と改めて思う。
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松枝史明『実践的ライター入門』


実践的ライター入門実践的ライター入門
(2004/12/02)
松枝 史明

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 松枝史明著『実践的ライター入門』(PHP/900円)読了。
 
 ライター歴30年以上、手がけた単行本は約350冊(そのうち320~330冊はゴースト、つまり他人の本)というベテラン・ライターが書いたライター入門である。
 かくいう私はライター歴18年、手がけた単行本は約100冊(9割以上がゴースト)。キャリアとしてはかなり長いほうだが、この著者には負ける。 

 「ライター入門」のたぐいはもう供給過剰であって、いまどきその手の本を出すためには、なんらかの「角度」をつけて類書との差別化をはからねばならない。
 たとえば、永江朗の『インタビュー術!』や『〈不良〉のための文章術』は、それぞれ取材技術と文章術に内容を特化することによって、その差別化をはかっていた。

 では、本書の「角度」は何かといえば、“単行本を書くためのライター入門”に徹している点である。それも、自らの著書としてノンフィクション作品を刊行する、などという高いハードルを設定せず、ゴーストライターとして他人の本を書くためのノウハウがおもに説かれている。

 それ以外のこと(たとえば、雑誌記事を書いたり、雑誌編集部に売り込みをしたりするノウハウなど)はバッサリ割愛されており、そのかわり、単行本執筆のノウハウは微に入り細を穿って書かれているのだ。

 こういう本は、ありそうでなかった。
 タイトルも装丁も地味だし、あまり期待しないで手にとったのだが、なかなか良質なライター入門である。
 とくに前半、一冊の単行本の構成をどのように立ててけばよいかがくわしく説明されたくだりは、私にも大いに参考になった。

 「ゴーストの仕事なんかやりたくない。オレは署名仕事しかしないのだ」というライターもいるだろうが、そういう人が読んでも参考になる点が多いはず。たとえば、雑誌記事ばかり書いてきたライターが初めて単行本書き下ろしの仕事をする場合など、この本がよきガイドになってくれるだろう。

 ライターのみならず、「自分の本を書いてみたい」と考えている人すべてにオススメである。
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『阿弥陀堂だより』



 『阿弥陀堂だより』をDVDで観た。作家・南木佳士の短編の映画化。

 売れない作家(寺尾聰)と有能な外科医(樋口可南子)の熟年夫婦が主人公。
 妻が仕事上のストレスからパニック障害を発症したのを機に、2人は夫の故郷・奥信濃の山村に移り住む。
 週に3日、午前中だけ村の診療所で村人を診察する以外は、自然のなかでゆったりと過ごす生活。純朴な村人たちとの交流。そのなかで、妻は少しずつ「生きる力」を取り戻していく。

 奥信濃の四季折々の自然を刻みつけた映像はまことに美しく、一幅の名画のような絶品の場面も多い。その映像を堪能するためだけでも、観る価値のある作品だ。

 ただ、ストーリーは起伏に乏しく、話の展開もあまりにスローテンポで、かったるいことこのうえない。

 もちろん、起伏に乏しいのも展開がスローなのも、作り手が明確に意図して「あえて」そうしているのだろう。それはわかる。
 これはいわば、スローライフならぬ「スロームービー」である。ゆったりとした季節の流れとか、夫婦の何気ない会話のなかにふときらめく「人生の真実」とか、そうしたものをこそ味わう映画なのだ。

 だが、いかんせん、私が観るにはちと早すぎた。50代に入ってから観直したら感動できるかもしれない。

 あと、ところどころ、セリフや演出がすご~くクサイ。
 たとえば、主役夫婦が童心に返って村の子どもたちと遊ぶシーンがあるのだが、その子どもたちは2人と別れて帰るときに、なんと全員で声を揃えて「夕焼け小焼け」を(それもフルコーラス)歌いながら帰るのである。

 いまどきそんな子どもはいねーよ! 小堺一機が昔ギャグにしていた「テレビの時代劇に出てくる子どもたち」じゃあるまいし。

 帰っていく子どもたちの後ろ姿を見ながら樋口可南子はふと涙ぐみ、「いやあねえ、悲しくもないのに…」などと言う。しんみりとしたよい場面のはずが、わざとらしい「夕焼け小焼け」のせいで台無し。

 ただ、「おうめ婆さん」(阿弥陀堂の主)役の北林谷栄は、目を瞠る名演。微塵も作為を感じさせない自然な演技なのである。 
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表三郎『日記の魔力』

日記の魔力―この習慣が人生を劇的に変える日記の魔力―この習慣が人生を劇的に変える
(2004/08/30)
表 三郎

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 表(おもて)三郎著『日記の魔力/この習慣が人生を劇的に変える』(サンマーク出版/1300円)読了。
 
 「日記を30年以上書きつづけている自称『日記の名人』」である予備校教師の著者が、「日記の書き方とその効果的な活用術のすべてをご紹介しよう」と考えて書いた本だという。

 私は「日記の名人」ではないが、過去19年間欠かさず日記を書きつづけてきたから、「日記について一家言ある」と自称しても罰は当たるまい。
 その私の目から見ても、本書はなかなか面白く、同意できる部分が多い。
 大いにうなずいたくだりを拾ってみよう。
 

 日記に「感想」を書く必要はない。自分がその日、取った行動を客観的に記録すればそれだけで充分なのだ。
           *      *      *
 日記は書くものであると同時に、いやそれ以上に、読むものなのだ。
           *      *      *
 私の場合は大きく分けて、自分の思想の管理と、仕事の管理、そして健康の管理と、三つの目的をもって定期的に日記を読み返し、今の生活に活かしている。



 要するに、著者にとっての日記は、読み返すことによって自己の行動を律する「自己管理ツール」なのである。また、自らが立てた目標に向かって己を鼓舞するツールでもあるだろう。

 私の日記も、著者同様、その日にあったこと・取った行動だけを記す「データ日記」である。自分の感情に類することはいっさい書かない。感情を日記に記すと、恥ずかしくてあとで読み返すのが苦痛だからだ。

 そして、著者も言うとおり日記は読み返してこそ意味があるのだから、読み返すことが苦痛な「感情日記」は無意味に近いのだ。

 多くの人の日記が長つづきしない理由も、じつは「感情を記してしまうこと」にこそあるのではないか。日記をつけようと思い立つ人に不精者は少ないはずだから、不精だけがつづかない理由ではないはずだ。

 著者は「日記に『感想』を書く必要はない」とくり返し述べているが、これはその日の出来事についての「感想」のことであって、読書や映画などの「感想」は日記につけているらしい。
 著者は次のようにいう。
 

 映画を見て感動しても、何がよかったのか分析しなければ、言葉にすることはできない。
 感動を分析し文章化することによって、感動は日記というかたちで残る。
 また、分析することは、脳内での記憶の整理にも役立つ。
 (中略)
 日記を読み返すということは、単に記録から過去を甦らせるということではない。
 「感動」そのものを復活させるということでもある。


  
 私にとっては、このブログがそうした役割を果たしている。この日記に本や映画などの感想を記さなかったら、「感動」のディテールはほどなく記憶の彼方に消えてしまうにちがいない。

 なお、本書を読むかぎり、著者はウェブ上の日記はつけていないようである。
 「自分だけが読む日記」にさまざまな効用があるように、不特定多数の目に触れるブログ/ウェブ日記ならではの効用もいろいろあるのだが……。
 『ブログの魔力』なんて本も書けそうである。
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G・マーカス『心を生みだす遺伝子』



 ゲアリー・マーカス著、大隈典子訳『心を生みだす遺伝子』(岩波書店/2800円)読了。

 「心にとって遺伝子がどのような意味をもつか」という命題に、科学のメスを入れる試みである。

 やや誤解を招きやすい邦題だが、心の動きがすべて遺伝子によって決定済みであるかのように主張する遺伝子決定論の書ではない。
 むしろ、遺伝子決定論にも環境決定論(環境こそが性格などを決めると考え、遺伝子の影響を度外視する立場)にも与せず、中立的な立場から心と遺伝子の関係を考察した内容である。

 著者はニューヨーク大学心理学科の準教授で、同大幼児言語センターの所長もつとめる。まだ30代半ばの若さで、専門は言語獲得と計算神経科学。

 言語学・心理学と遺伝子の結びつきを唐突に感じる向きもあるかもしれないが、この2つの学問の最先端は、いまや脳科学や生物学と陸続きになっている。

 たとえば、米国の高名な言語学者ノーム・チョムスキー(本書に推薦の辞を寄せている)は、“言語の構造を調べることによって、人は自らの脳の構造を調べることができる”と主張している。また、著者の専門分野である言語獲得(習得)の研究には、その過程がどの程度生得的であるかを考察するために、遺伝子レベルでの検討も不可欠なのである。

 著者は、心とは脳のいかなる働きに基づいているか、また、その脳の発生・発達に遺伝子がどのようにかかわっているのかを、丹念に解説していく。高度な内容だが、軽妙なたとえ話がちりばめられているため意外にわかりやすい。

 遺伝子が心に果たす役割を、著者は「再プログラム可能な」コンピュータのソフトウェアにたとえてみせる。つまり、“遺伝子は生まれつきだから固定的で変えようがない”という従来のイメージとは異なり、生まれつきではあっても環境の変化に合わせて更新される可塑性をもっている、というのだ。
 このようにコンピュータとのアナロジーが多用されるあたり、いかにも若い研究者らしい。

 本書は、遺伝子と心の関係の解説を通して、遺伝子についてのありがちな誤解を正す科学啓蒙書でもある。

 たとえば、遺伝子を青写真になぞらえる考え方が広く浸透しているが、実際には、遺伝子と生物の細胞や構造に、青写真と建築物のような一対一の単純な対応関係はない。
 「皮膚の色には少なくとも三○の遺伝子が影響する」し、逆に一つの遺伝子が複数の特質に影響することもある。「一パーセント異なる青写真は一パーセント異なる建築物を生みだす」が、「一パーセント異なるゲノムは非常に異なった心を生む」のである。

 そのように複雑を極める遺伝子と心の関係について、現在までにわかっていることを、著者は手際よく整理してみせる。
 「生命の世紀」たる21世紀を生きるうえで必須の教養の一つが、ここにはある。
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長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』

漫画に愛を叫んだ男たち漫画に愛を叫んだ男たち
(2004/05)
長谷 邦夫

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 長谷邦夫著『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版/1800円)読了。

 「トキワ荘神話」の登場人物の1人であり、赤塚不二夫のブレーンを長年つとめた著者が、赤塚との出会いから訣別までの過程を中心につづった回顧録。

 帯には「書き下ろし小説」とあるが、およそ小説という感じの文章ではなく、エッセイに近い。あえて「小説」と銘打ったのは、実名で多数登場するマンガ家などから名誉毀損で訴えられた場合に、「あれは小説ですから」と逃げを打つためかも(下衆の勘繰りですが)。

 トキワ荘関連の本やマンガはこれまでにたくさん出版されているが、その中でもこれは「上」の部類。次々と披露されるマンガ家たち(および編集者と周囲の文化人たち)の裏話の数々が、めっぽう面白い。

 そして、面白いと同時に哀切な一書でもある。
 というのも、「トキワ荘神話」の登場人物たちの老残、悲惨な死などの暗部までが、克明に描かれているからだ。

 石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、水野英子ら、のちに一家を成すマンガ家たちが集う「夢の梁山泊」と化したトキワ荘。貧しいながらも互いに切磋琢磨する充実の日々。そこまでで話が終わっていれば、市川準監督の『トキワ荘の青春』(いい映画だった)のように「美しい青春神話」として受けとめられる。

 ところが、本書はその先を描いてしまう。
 赤塚不二夫がアルコール依存症となって“壊れていく”過程など、「トキワ荘の青春」終焉後のさまざまな悲劇までが描かれるのだ。

 とりわけ切ないのは終章だ。わずか10数ページの短い章に、手塚治虫と寺田ヒロオの死、著者と赤塚不二夫の訣別という3つの悲しい別れがつめこまれている。

 『スポーツマン金太郎』などの作品で一時代を画した寺田ヒロオは、トキワ荘のマンガ家たちから兄貴分として慕われた人物である(映画『トキワ荘の青春』は、本木雅弘演ずる寺田が主人公となった)。
 だが、のちにマンガ家として筆を折り、酒浸りで食事もろくに摂らない日々を送ったすえに、無残な衰弱死を遂げた。

 赤塚不二夫のその後も、同様に悲惨だ。アルコール依存症がひどくなるにつれ、赤塚と長年仕事をしてきたスタッフたちは1人去り、2人去りしていく。その果てに“赤塚の右腕”だった長谷までがフジオプロを去る場面が、本書のラストシーンである。

 従来の「トキワ荘神話」から甘やかなヴェールを剥ぎ取り、苦い現実のスパイスをたっぷりきかせた、もう一つの「トキワ荘物語」。読後感は苦いが、読みごたえは十分だ。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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