![]() | THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ (2004/09/10) 矢作 俊彦 商品詳細を見る |
矢作俊彦著『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』(角川書店/1800円)読了。
タイトルはもちろん、レイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ』へのオマージュである。「LONG」を「WRONG」に変えてあるあたり、いかにも矢作らしい。
物語の終盤には、「飲む相手は間違わなかった。しかし、別れを言う相手を選び損ねたな」という、タイトルに対応した決め台詞も用意されている。
矢作の初期作品『リンゴォ・キッドの休日』で登場し、『真夜中へもう一歩』などの作品の主人公となった、神奈川県警の刑事・二村(ふたむら)永爾の物語である。
この作品は、『リンゴォ・キッドの休日』や『真夜中へもう一歩』よりもよくできている。二村永爾シリーズの集大成だと思う。私は矢作のハードボイルド作品では短編連作の『マンハッタン・オプ』がいちばん好きだが、長編ではこれがベストではないか。
かつて矢作は「ハードボイルドなんか好きじゃない。チャンドラーが好きなんだ」との名言を吐いたが、この作品はタイトルのみならず隅から隅まで、チャンドラーへのオマージュで成り立っている。
『長いお別れ』が、探偵フィリップ・マーロウとテリー・レノックスとの「男の友情」の物語であったように、この『ロング・グッドバイ』も、二村と謎めいた日系米兵ビリィ・ルウとの苦い友情の物語だ。
マーロウとレノックスも、二村とビリィ・ルウも、ともに酒場で出会う。そして、物語の最後にはともに友情の終焉が待っている。
『長いお別れ』の最後の一文は「警官にさよならを言う方法はいまだに発見されていない」であったが、『ロング・グッドバイ』は「アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない」と結ばれる。
ただ、矢作は『長いお別れ』を「パクッた」のではない。物語の大枠をそっくり借り、チャンドラー流の比喩やワイズクラック(登場人物が口にする気の利いた警句・軽口)がちりばめられてはいるが、これはあくまで矢作俊彦の作品世界である。
ビリィ・ルウの謎の失踪に否応なくかかわりを持たされた二村は、その責任を問われて捜査本部から外され、単独で事件の真相を探っていく。これは、刑事を主人公にしながら私立探偵のような行動をさせるために用意された設定だ。
やがて、米軍基地の治外法権を利用した産廃処理という巨大利権をめぐる犯罪が、明らかにされていく。
終盤の謎解きがいささか性急にすぎて、ミステリとしては粗雑な作りという気がしないでもない。
だが、それでもいいのだ。チャンドラーの小説がそうであるように、これは謎解きよりも文体やセリフ、物語の雰囲気をこそ味わう小説なのだから。
矢作という作家は、天才肌にありがちなムラっ気を濃厚にもっていて、ときどき平気で小説を投げ出してしまう。
たとえば、『コルテスの収穫』という長編は、「文庫書き下ろし全3巻」という触れ込みで始まりながら、第3巻が出ないまま未完に終わっている(!)。
だからこそ、矢作については次のように言われてきた。
戦後生まれで「偉大な作家」と呼ぶに値する唯一の、いや村上春樹とならぶ作家である。しかしまた、同時に彼ほど読者を落胆させ、裏切り続けてきた作家はいないだろう(福田和也『作家の値うち』)
しかしこの『ロング・グッドバイ』は、矢作には珍しく、最後まで丹念に書かれている。やればできるじゃないか、という感じである。
この作品の美点は数多い。
まず、横浜の街や酒や車などについてのこだわりの描写に、品のよいユーモアと詩情があふれていて素晴らしい。たとえば――。
私が子供時代、この国ではバナナがまだ高級品でパイナップルは缶詰の中に生えると信じられていた。そのころ横浜のPXには本物のパイナップルが山積みされていた。そこは別世界だった。空気の匂いさえ甘やかで、一歩踏み込むとディズニー映画の登場人物になったような気がした。
また、アイリーン(海鈴)という名のヒロインを始めとした登場人物がそれぞれ魅力的だし、彼らと二村がかわす皮肉と感傷に満ちた会話も、気が利いていて愉しい。こんなふうに――。
「酔っぱらいは信用しないんだ。酔っぱらいは友達が多すぎる。酔っぱらいは毎晩友達を増やす。そのうち誰が友達なのか判らなくなる。だから信用出来ない」
* * *
「この年になると、人と別れるのは、そう辛くない。飯食って寝るのと同じ、普通のことだ。肩叩いて、また今度なって別れた者と二度と会えなくなっても、不思議でもなんでもない。しかし、また今度でも何でもいい、別れも言わずにいなくなられるのは、いくつになってもたまらないさ」
静謐な詩情につらぬかれた、上質のハードボイルド。堪能した。
なお、本書のどこにも注記がないが、この作品は、矢作が1995年に『別冊・野生時代/矢作俊彦』というムックに書き下ろした長編『グッドバイ』を下敷きにしている。
したがって、「矢作俊彦が19年ぶりに書いたハードボイルド」という本書の売り文句は、厳密には正確ではない。
と、ファンならではの小ウルサイ文句をつけてみたりして……。
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