こうの史代『夕凪の街 桜の国』


夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
(2004/10/12)
こうの 史代

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 こうの史代著『夕凪の街 桜の国』(双葉社/800円)を読んだ。
 原爆投下から10年がすぎた広島を舞台に、1人の被爆女性の死に至る過程を切々と描いた短編「夕凪の街」と、その続編「桜の国」を収めている。
 マンガ好きの間で、口コミで評判が広がりつつある作品だ。
 
 私は、9月に取材したみなもと太郎氏から、この作品のことを教えていただいた。取材後の雑談のなかで「最近オススメのマンガはありますか?」と聞いたところ、氏が即座に挙げたのがこの作品だったのだ。

 みなもと氏は、マンガ家であると同時に、マンガ研究家としても高い評価を得ている方。『お楽しみはこれもなのじゃ/漫画の名セリフ』(河出文庫)という著作もある。マンガ界きっての目利き・読み巧者の1人なのである。
 そのみなもと氏が、この『夕凪の街 桜の国』の帯に次のような讃辞を寄せている。

 実にマンガ界この十年の最大の収穫だと思います。
 これまで読んだ多くの戦争体験(マンガに限らず)で、どうしても掴めず悩んでいたものが、ようやく解きほぐせてきた思いです。
 その意味でこの作品は、多くの記録文学を凌いでいます。
 マンガ史にまた一つ、宝石が増えました。
 こうの史代さん、ありがとう。



 氏の言われるとおり、たしかに素晴らしい作品だ。
 わずか100ページ余で800円という価格はコミックスとしては高めだが、粗製濫造のコミックス10冊分の価値はある。
 
 「ヒロシマ」を描いたマンガといえば、中沢啓二の名作『はだしのゲン』がまず思い浮かぶ。中沢が自らも被爆者であるのに対し、こうの史代は広島出身ではあるものの戦後世代(1968年生まれ)だから、2作の価値は同列には論じられない。
 ただ、この『夕凪の街 桜の国』も、『はだしのゲン』とともに長く読み継がれるべき作品だろう。

 まず、絵柄がよい。
 スクリーントーンのたぐいがいっさい使われておらず、定規すらほとんど使っていないと思われる絵。古き佳き時代のマンガの匂いを色濃く残した手描きのあたたかさが、内容によくマッチしている。

 静謐な印象のストーリーも素晴らしい。
 イデオロギッシュな糾弾調でもお涙ちょうだいでもなく、原爆投下後の地獄絵図の生々しい描写も控えられている。感動は、何度か読み返すうちにじわじわと湧き上がってくる。ディテールに巧妙に伏線が張りめぐらされていて、読み返してやっとそれらに気づくのだ。

 「夕凪の街」は、哀切なラブストーリーでもある。
 ヒロインの皆実は、職場の同僚・打越に求愛されるが、それを受け入れられない。家族や友人を原爆で亡くした彼女の心には、「自分だけが生き残ってしまった」というやり場のない罪悪感がある。幸せを感じようとするその刹那、原爆投下後の惨状の中で生きるためにあがいた自らの姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。

【引用始まり】 ---
 死体を平気でまたいで歩くようになっていた。(中略)わたしは腐ってないおばさんを冷静に選んで下駄を盗んで履く人間になっていた。(中略)しあわせだと思うたび、美しいと思うたび、愛しかった都市のすべてを、人のすべてを思い出し、すべて失った日に引き戻される。おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする。 
【引用終わり】 ---
 皆実の“生き残ってしまったという罪悪感”は、私にはうまく想像できない。ただ、2つのことを思い出す。

 アウシュヴィッツから奇跡の生還を果たしたイタリアのユダヤ人作家プリーモ・レーヴィは、1987年に謎の自殺を遂げた。
 彼は、インタビューで“収容所からの生還者が一様に罪の意識を口にするのはなぜか? 被害者でしかない彼らにいったいなんの「罪」があるというのか?”と質問され、次のように答えている。

 我々の誰もがある種の居心地の悪さを覚えており、そしてこの居心地の悪さに自分たちで〈良心の呵責〉というレッテルを張り付けたのです。(中略)誰かの代わりに自分が生きている、という感覚なのです(『プリーモ・レーヴィは語る』青土社)



 また、我が子を殺されてしまった殺人事件の被害者は、幸せを感じる心を自ら封印してしまいがちだという。たとえば、食事を「おいしい」と感じることや声をあげて笑うことにさえ、罪悪感めいたものを感じてしまうのだとか。
 ――2つは、皆実の抱く「罪悪感」と相似形であろう。

 「夕凪の街」で、打越の求愛を受け入れることを決意した皆実が、彼にこう語りかける場面は感動的だ。

 教えて下さい。うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい。十年前にあったことを話させて下さい。そうしたら、打越さんに逢うた事とかを、姉や妹やみんなにすまんと思わんですむかもしれん。



 打越は、皆実の手を握って静かに言う。「生きとってくれてありがとうな」と……。
 だが、皆実がようやく幸せを受け入れようとしたまさにその直後、彼女は発病する。
 
 続編の「桜の国」は、それから半世紀後――つまり現在の物語。ヒロインは、亡き皆実の姪(弟の娘)・七波だ。

 「夕凪の街」はずしりと重い見事な「悲劇」だが、これだけで物語が完結してしまったのでは、あまりに救いがない。皆実に代わって姪の七波が前向きに生きていく続編を描くことで、物語に一条の光が射しこむ。そしてまた、「桜の国」は、「夕凪の街」の悲劇を現在へと結ぶ回路ともなるのだ。
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『レット・イット・ビー…ネイキッド』

Let It Be... Naked [Bonus Disc]の画像

 1年前に出たアルバムなので思いっきりいまさらだが、ビートルズの『レット・イット・ビー…ネイキッド』をようやく聴いた。中古屋で1000円で売っていたので。

 いやー、さすがに音がいい。
 元の『レット・イット・ビー』のCDと聴き比べてみると、いかに音がクリアになっているかがわかる。元のアルバムは、あたかも『ネイキッド』を質の悪いカセットテープに落としたようにくぐもって聴こえるのだ。

 ポール・マッカートニーは『レット・イット・ビー』について、「(プロデューサーの)フィル・スペクターがオレたちのサウンドをこわした」と怒ったそうだけど、この『ネイキッド』を聴くと納得。
 とくに、大仰で甘ったるいストリングスを取っ払った「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、元のアルバムのテイクよりはるかに素晴らしい。

 ところで、フィル・スペクターって少し前に愛人を射殺した容疑で逮捕されたけど(あれはビックリ)、その後どうなったのだろう? 

 なお、このアルバムに関するネットで読めるレビューをいくつか読んでみたが、これがいちばん面白かった。 ↓

 http://www.ne.jp/asahi/hokkaido/outdoor/beat/music/naked.html

「30数年後のあと出しジャンケン」とは、じつに言い得て妙である。
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取材しやすい人、しにくい人

 今日は、都内某所で弁護士さんの取材。
 弁護士さんは総じて理路整然と話をしてくださるので、取材しやすい。

 いろんな職業の人を取材する機会があるが、取材しやすい職業ベスト3を選ぶなら、弁護士・大学教授・政治家となるだろうか。
 いずれも総じて取材慣れしているし、自分の意見を論理立てて人に説明することに長けた職業だからである。
 
 同様に、物書き(ジャーナリスト、評論家など)、企業経営者、企業の広報担当者(これは取材しやすくてあたりまえだが)も、おおむね取材が楽だ。

 逆に、取材しにくい「ワースト3」を挙げると、芸能人・物書きを除いたアーティスト・一般人となる。

 芸能人は、わがままだったり気難しかったりして、「扱いにくい人」がやはり多い。また、取材時に同席するマネージャーが「ちょっと、そういう質問やめてね」などとウルサイことを言う場合も多い。何かとやりにくいのだ。

 アーティストの場合、①気難しい人、②話が抽象的すぎてわかりにくい人、③無口すぎてインタビューにならない人にぶつかる率が高い。①②③の三拍子が揃っている人もいる(泣笑)。
 「インタビュアー泣かせ」としてギョーカイに名を馳せているロック・アーティストなども多い。

 一般人は、一見取材しやすいように思えるが、じつは意外な強敵である。
 なにしろ「生まれて初めて取材というものを受けた」相手が大半だから、うまく話を引き出すためには技術を要するのだ。
 話がなかなか要領を得なかったり、レコーダーのスイッチを押したとたんに緊張して黙りこくってしまったり(だから、一般人相手の取材ではレコーダーを使わないことも多い)……。

 むろん、以上のことはあくまで一般論で例外もあるし、私とは感じ方がちがうライターもいるだろう。

 こんなことを考えるのは、私がどちらかというと取材が苦手(昔に比べればかなりましになったが、いまだに苦手意識アリ)だからでもある。
 「取材が得意で、好きでたまらない」というライターなら「弘法筆を選ばず」で、「芸能人は取材しにくい」なんてことは言わないだろう。


 ちなみに、これまででいちばん取材しやすかった人を挙げるなら、政治評論家の福岡政行さん(白鴎大学教授、立命館大学客員教授)である。

 福岡さんに対する取材は、こんな感じ。

「先生、今日は〇〇についてと〇〇について、この2点を伺いたいのですが……」
「うん、わかった。1時間くらいでいいね?」

 それで、「スイッチオン!」。そこからはもう、こちらはときおり相槌を打てばオーケイである。1時間きっかりで、テープ起こしすればほとんどそのまま記事に使えるような話をしてくださる。
 しかも、話の中にはタイトルになるようなフレーズ、小見出しに使えるフレーズがきちんと入っているし、笑いなどの読者サービスまで盛り込まれているのだ。
「いやー、すごい話術だ」
 と舌を巻いた。

 福岡さんについて、「選挙予測が外れすぎ」という批判の声をたまに聞くが、選挙予測の的中率はともかく、話術については天下一品である。ダテにテレビの世界で売れっ子であるわけではないのだ。
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ジョセフ・ナイ『ソフト・パワー』

ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力
(2004/09/14)
ジョセフ・S・ナイ

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 ジョセフ・S・ナイ著『ソフト・パワー』(日本経済新聞社/2100円)読了。
 書評の仕事のため読んだもの。予想したよりもずっとわかりやすくて面白かった。

 「ソフト・パワー/ハード・パワー」という言葉はすでに日本にも定着しているが、その意味内容がどこまで正確に理解されているかというと心もとない。
 「ソフト・パワー=知力」「ハード・パワー=体育会的ゴリ押し」くらいのニュアンスで誤用されているケースが多いのではないか(人のことは言えない。私の理解も似たようなものだった)。

 実際には、「ソフト・パワー」は「国際関係において、自国の魅力によって他国を味方につける力」と定義される。「ハード・パワー」はその対義語で、軍事力や経済力などを指す。

 他国を強制や報酬によって従わせるのではなく、内発的促しによって望む行動を取らしめる力――それがソフト・パワーであり、その国の優れた文化、魅力ある政治的価値観や外交政策がおもな源泉となる。ハード・パワーが「競争力」であるのに対し、ソフト・パワーは「協調力」であるともいえよう。

 かつて、国力といえば何よりもまずハード・パワーを指した。だが近年、国力におけるソフト・パワーの比重がしだいに増してきている。冷戦の終結で軍事力のもつ意味合いが薄れたこと、情報化が進んで国際世論の重みが増したことなどによって、ソフト・パワーこそが国際関係の決定要因になりつつあるのだ。

 著者のジョセフ・ナイ(国際政治学者/米ハーバード大学教授)は、そうした国力の質的変化をいち早く見抜き、ソフト・パワーという概念を生み出した人物。
 本書はソフト・パワーについて、概念提唱者自らが改めて詳説したものである。現今の国際情勢を例に、ソフト・パワーの重要性を説得的に論じている。

 著者がいまあえて本書を上梓した理由は、二つある。
 一つは、ソフト・パワーという語が広く知られるにつれ、誤解・誤用も目立つようになってきたこと。学者や政治指導者の中にさえソフト・パワーを誤解している人が多く、「コカ・コーラとハリウッドとブルー・ジーンズと資金力の影響にすぎないとされることも少なくな」いと、著者は嘆息する。本書はそうした誤解を正すためのものである。

 もう一つの理由は、2001年のブッシュ政権発足以降、とくにイラク戦争でとった単独主義的政策をめぐって、米国のソフト・パワーが急落していること。

 戦後の米国は、軍事力・経済力においてのみならず、ソフト・パワーにおいても世界最強であった。多くの国がアメリカに憧れ、「アメリカのような国」を目指して進んできたのである。
 ところが、ブッシュ政権はソフト・パワーの重要性を理解しておらず、ハード・パワーばかりをごり押しして各国の反米感情を高めてしまった。著者はそうした事態を深く憂え、警鐘を鳴らしている。

 著者は、青臭い理想論的平和主義を振りかざしているわけではない。クリントン政権の国防次官補もつとめた著者は、国際政治の生々しい現実も、ハード・パワーの重要性も十分に理解している。そのうえで、ソフト・パワーを国家戦略に組み入れないブッシュ政権の姿勢を筆鋒鋭く批判しているのだ。

 主要各国のソフト・パワーを判定した章もあり、著者は日本の潜在的ソフト・パワーに高い評価を与えている。国際政治の現状と展望を深い次元から分析した好著である。


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宮崎事件の再来か?

 奈良の女児誘拐殺害事件は、「宮崎勤事件(1989年)の再来」の様相を呈してきている。
 被害女児の歯を抜き、風呂場で溺死させ、遺体写真を母親にメールで送りつけるという残忍な犯行は、宮崎が被害女児の遺骨を遺族に送りつけたことを彷彿とさせる。

 殺すこと自体に快楽を感じる「快楽殺人」に違いなく、犯人を一刻も早く逮捕しなければ連続殺人になる可能性が高いだろう。
 人目の多い昼間の通学路で犯行におよんでいる(誘拐時の目撃者が何人も現れている)あたり、大胆不敵というより、犯人はすでに精神のタガが外れてしまっているのだと思うし……。

 快楽殺人者の心理を克明に分析したロバート・K・レスラーの『FBI心理分析官』(ハヤカワ文庫)には、次のような一節がある。

【引用始まり】 ---
 ついに犯罪を犯してしまうと、もう後戻りはできない。彼はおびえると同時に快い興奮を感じる。(中略)逮捕されて罰を受けることを予想して数日間びくびくして過ごすが、何事も起こらない。(中略)
 二回目の犯行からは、最初の犯行のときのようなきっかけは必ずしも必要ない。いったん一線を越えると、殺人犯は意識的に将来の犯行の計画を立てることが多い。 
【引用終わり】 ---
 宮崎事件のころ、私はまだ20代独身であったから、被害女児の親の心境は想像しにくかった。しかし、被害女児と同年齢(小1)の息子がいて、小学5年生の娘もいるいまは、ご両親の気持ちがわかりすぎてつらい。

 たぶん都内全域がそうだと思うのだが、いまの小学生はペンダント様の防犯ブザーを支給され、それを首から下げて学校に行っている。ピンを引き抜くと大音量で鳴るブザーである。

 うちの子どもたちが通う学校周辺にも、不審者がしばしば出没するらしい。娘の同級生が道で見知らぬ男に腕を引っぱられ、大声をあげて逃げるという事件も最近起こった。
 また、昨日学校から各家庭に配られたプリントによれば、変質者が出没して女児の唾を求める(ゲ~ッ!)という事件が起こったという。
 登下校中の女児に袋を差し出して、「ここに唾吐いて」とか言うらしい。被害に遭った女児は防犯ブザーを身につけていたが、恐怖のあまり鳴らすこともできなかったという。

 おぞましい変態は、いまや日本中そこかしこにいる。まさに、奈良の事件は「他人事ではない」のだ。

 うちの子どもたちが通う小学校は、我が家の真ん前にある。通学時間30秒である。
 じつは娘は某私立小学校の「お受験」に失敗したのだが、いまになってみると「落ちてよかった」とすら思う。合格していたら他市への電車通学になっていたから、心配でたまらなかったことだろう。
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『またの日の知華』


 今日は、集英社で作家の村山由佳さんを取材。
 村山さんはたいへん気さくで笑顔の素敵な、チャーミングな女性であった。
 
 そのあと銀座へ出て、映画『またの日の知華』の試写を観た。
 正月第2弾で公開される映画。ドキュメンタリー映画としては異例の大ヒットを記録した伝説的作品『ゆきゆきて、神軍』(1987)の原一男監督が撮った、初の劇映画である。
 
 公式サイト→ http://www.shisso.com/chika/top2.htm
 
 『ゆきゆきて、神軍』も、その次の『全身小説家』(1994年。作家・井上光晴を「主人公」にしたドキュメンタリー)も私は大好きなのだが、この『またの日の知華』についてはどう評価していいのかよくわからない。

 1970年代をおもな時代背景に、知華という1人の女性の人生を描いた作品。知華の年齢に応じて女優が変わるという風変りな趣向がなされている。映画が4章に分かれていて、1人のヒロインを章ごとに別の女優が演ずるのだ。
 「知華」となるのは、吉本多香美・渡辺真起子・金久美子(本作が遺作となった)・桃井かおりの4人。

 「これってホントに2004年の映画?」と首をかしげたくなった。 
 70年代がおもな舞台になっているから、というだけではなく、映画全体にむせかえるばかりの「70年代テイスト」があふれているのだ。70年代の「ATG映画」(『祭りの準備』『青春の殺人者』など)に近い、じめっとした暗さと貧乏臭さが……。

 …ホメているようには聞こえないだろうけれど、私は70年代の「ATG映画」が好きだったから、ホメ言葉として書いている。いまどき、これほど湿った暗さをもった邦画も珍しい。なんだかすごく懐かしい感じのする映画。

 4人の女優にも、それぞれ生々しい存在感があってよかった。
 大ヒットするとはとうてい思えない怪作だが、この映画の「匂い」は好きだなあ。 
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村山由佳『天使の梯子』『天使の卵』

  天使の梯子の画像

 村山由佳著『天使の梯子』(集英社/1400円)、『天使の卵』(集英社文庫/390円)読了。

 明日(実質今日)村山氏に著者インタビューをするために読んだ。
 『天使の卵』は「小説すばる」新人賞を受賞したデビュー作(1993年)で、『天使の梯子』は10年を経て書かれたその続編である。
 どちらも正攻法の、王道をゆく恋愛小説。

 以前取材したことのある堀田力氏(元検事/さわやか福祉財団理事長)が村山氏の大ファンだと知って意外に思ったものだが、この2作を読んで得心がいった。「若者向けのおしゃれな青春小説の書き手」というイメージがあったが、思いのほか古風な、人情の機微を描くことに長けた作家なのだな。オジサン・オバサンにも受けるはずである。

 アマゾンのカスタマー・レビューを読んでみると、「『天使の卵』があまりにも素晴らしかったから、『天使の梯子』は期待外れ」という感想が多くて、そのことに驚いた。私は逆に、『天使の梯子』のほうが小説として数段上だと感じたからである。

 『天使の卵』もよい作品ではあるが、デビュー作ゆえの未熟さも目立つ(エラソーですが)。
 たとえば、主人公が電車の中で一目惚れした女性が“偶然にも”父親の主治医で、さらに“偶然にも”いまつき合っている女の子の姉であった、という設定がいかにも絵空事でご都合主義である。
 また、さして長くない小説の中で登場人物の自殺が2回もあり、しかもラストはヒロインの突然死(おっとネタバレ)とあっては、死という「物語の切り札」を安易に使いすぎだと思う。

 続編『天使の梯子』も、主人公が高校時代のあこがれの女教師(=正編のヒロインの妹)と偶然再会して恋に落ちる、という骨子そのものは、類型的にすぎて陳腐といえば陳腐。しかし、この続編は語り口が非常に洗練されているので、陳腐さ・不自然さをまったく感じさせない。
 才能ある書き手が10年小説を書きつづければ、きっちり10年分うまくなるのだなあと、その見事な成長ぶりに目を瞠った。恋愛小説の傑作だと思う。


 なお、『天使の卵』の文庫解説を村上龍が書いているのだが、その中にじつによい一節があったので、メモしておく。

【引用始まり】 ---
 小説というのはテキストのない翻訳だと私は考えている。創造や表現というより、翻訳に近いと思う。形の見えない自己の狂気を翻訳しようとする作家もいるし、言葉を発することなく死んでいった肉親や仲間の肉声を翻訳する作家もいるが、基本的には、言葉を失わせる何かについて作家は翻訳を試みる。
 つまり、失われた言葉を再生させる試みが文学なのだと思う。
【引用終わり】 ---
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矢野顕子『ホントのきもち』

ホントのきもちホントのきもち
(2004/10/27)
矢野顕子

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 先月末に発売された矢野顕子の『ホントのきもち』(ヤマハ/3150円)を、やっと購入。オリジナル・アルバムとしては2年半ぶりの新作である。

 こ・れ・は・よい! つまらない「捨て曲」が一曲もない。
 矢野顕子ファン歴四半世紀(『ごはんができたよ』のころからファン)の私から見ても、彼女のアルバムでもかなり上質の部類に入る。前作『reverb』より数段上の出来だと思う。

 全10曲中、くるりとのコラボレーションが5曲。日本が誇るエレクトロニカ・アーティスト、レイ・ハラカミとのコラボレーションが2曲。この異種交配が矢野顕子の新境地を引き出した。

 たとえば、「N.Y.C.」(矢野顕子が暮らす街・ニューヨークへのオマージュ)と「Our Lives」の2曲は、彼女の数多い作品の中で最もロック色が強い。乾いた風が吹き抜けていくようなドライヴ感に満ちているのだ。くるりの曲でいうと、「オールドタイマー」に近いノリ。じつにカッコイイ(「Our Lives」にはくるりは参加していないのだが、なぜかくるりっぽい)。こんなに“ロケンローなアッコちゃん”は初めてだ。

 また、くるりの岸田繁とのデュエット「おいてくよ」は、陽だまりのようなあたたかさをもつスロー・ナンバー。佐野元春とデュエットした名曲「自転車でおいで」(『グラノーラ』所収)を彷彿とさせる。

 レイ・ハラカミがくわわった「Too Good To Be True」と「Night Train home」は、切なさとかわいさを併せもった緻密な構成のエレクトロニカで、絶品。とくに、「Too Good To Be True」は素晴らしい。このアルバムで私はいちばん好きかも。

 くるりもレイ・ハラカミも、アッコちゃんとの相性はバツグンだと思う。

 ほかにもいい曲目白押し。
 「House of Desire(Burnin’Down)」は、ファンキーで泥臭い本格的ブルース。作詞・作曲ともアッコちゃんなのだが、「ブルースのスタンダードのカヴァーだ」と言われても信じられるほど見事な仕上がり。

 また、「Nobuko」という曲の、スケールの大きな力強さは圧倒的だ。
 日系米人の苦難の歴史を下敷きにしたと思われる歌詞(というのは私の勝手な推測だけど。何か元ネタがあるのだろうか?)が心にしみる。“日本人のためのゴスぺル”ともいうべき趣の、平和への祈りに満ちた曲。

 「Night Train home」(盟友パット・メセニーの「Last Train home」を意識した曲名かな?)のピアノ弾き語りヴァージョンも収録されているのだが、これもなかなかよい。

 ……と、ここまでを読んでもらえばわかるように、まったくタイプの異なる曲が並ぶ多彩な内容。それでいて全体に見事な統一感があるのは、矢野顕子という天才ピアニスト/シンガーの鉄壁の個性によってまとめあげられているからこそだ。

 これは矢野顕子の25枚目のオリジナル・アルバムだが、彼女の全作品中、ベスト10にはまちがいなく入る傑作である。
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『ゼブラーマン』

ゼブラーマンの画像

 『ゼブラーマン』をDVDで観た。
 「脚本が宮藤官九郎だから」という理由で観たのだが、かなり期待はずれ。なにしろ、いつものクドカンらしさが皆無に等しいのだ。

 私は子どものころ初代『仮面ライダー』に胸躍らせた世代だから、「変身ヒーローもののパロディ」というこの映画のコンセプトに対する拒絶反応はまったくない。むしろ、「クドカンが変身ヒーローもののパロディを書くのなら、絶対面白いはず」と大いに期待したのである。

 だが、登場人物はどいつもこいつも類型的だし、ストーリーは最初の10分だけ観れば結末が読めるほど陳腐だし、何より、まったく笑えない。
 いや、「笑えない」というか、そもそもこれはコメディではないのだ。大マジで「大人のための変身ヒーローもの」を作ろうとした映画なのである。

 クドカンの才能をもってすれば、この映画をコメディにしようと思えば、もっともっと笑いを盛り込めたはず。しかしクドカンはあえてそうしなかった。キャラが類型的なのも、ストーリーが陳腐なのも、「変身ヒーローもの」のテイストを忠実に模するために、あえてそうしたのかもしれない。

 まあ、「変身ヒーローものオタク」にとってはたまらない映画なのだろうな。私はそうではないので、ノレなかった。
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嶽本野ばら『下妻物語』


下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん (小学館文庫)下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん (小学館文庫)
(2004/03)
嶽本 野ばら

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 嶽本野ばら著『下妻物語/ヤンキーちゃんとロリータちゃん』(小学館文庫/630円)読了。
 夏に観た映画版『下妻物語』がメチャメチャ面白かったので、原作も読んでみようと思ったしだい。

 映画は、細部こそ原作とは異なるものの、ストーリーの大筋は同じ。

 原作もバツグンであった。いやー、笑えた。
 嶽本野ばら(ちなみに男)って、男には読むに堪えない乙女チック小説の書き手だとばかり思っていたが、こんなにハジけた面白さをもつ作品を書く人だったとは……。

 文章に、誰にも真似のできない鉄壁の個性がある。「小説でこんな書き方アリ?」と言いたくなるほどの独創性。たとえば、ヒロインである孤高のロリータ少女・桃子の、こんなモノローグ。

【引用始まり】 ---
 病弱、情緒不安定は乙女にとってのステイタス。偶に学校の朝礼などで貧血で倒れる女のコがいますが、私はその姿を見る度に羨ましくて歯ぎしりしてしまうのです。(中略)酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない。甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです。それで虫歯になったら、私は泣きます。治療が必要になれば、恐いので全身麻酔をかけて貰います。ヘタレと罵られようが、女の子はそれで良いのです。
【引用終わり】 ---

 破天荒なギャグ満載のストーリーながら、友情物語としての「核」はきちんともっている傑作。
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ゴーストライターの仕事について

ゴーストライターゴーストライター
(2009/11/04)
柴田淳

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     ↑おお、こんなタイトルのアルバムが……。

 ネットの世界では有名らしいブログ「絵文録ことのは」(by松永秀明氏)に、「ゴーストライターとは何者か?」という記事があって、面白く読んだ。
 
 私がかつて所属していた編プロは、単行本メインの会社だった。しかも、各界の著名人を「著者」として立てるゴーストの仕事が多かった。したがって、私もライター生活1年目からゴースト仕事をやっていたのである。
 以来、ゴーストの仕事を請けなかった年はないから、あまたいるライターの中でもゴースト経験は豊富なほうだと思う。かつて「ゴーストの帝王」と呼ばれた重松清氏にも、手がけた本の数では負けていない(質はともかく)。ざっと数えても、軽く100冊以上にはなる。

 「過去に数年間、ゴーストライターとして飯を食っていたことがある」という松永氏の次のようなご意見に、私も同感だ。

 ゴーストライターを使って書いた本といっても、その本の内容のほとんどすべては、間違いなく著者の方の意見であり、見解なのである。
 確かに、文章力や構成力はその人のものではないかもしれない。しかし、私はゴーストライターとして、著者の先生の考えを本という形にトランスフォームするお手伝いをさせていただいただけだ。その本に書かれた思想や考え方やノウハウを持っていたのは、100%著者の方であって私ではない。ゴーストといわずに「口述筆記」と言えばいいのだろうか。
 だから、ゴーストライターに書かせた、というだけで悪い印象を持たれるのは、残念なことだと思う。



 ただし、松永氏のご経験にはあてはまらないゴースト仕事も、世の中にはたくさんある。
 たとえば、氏は「(本が)いくら売れても自分の収入は増えない」と書いておられるが、それは「買い取り契約」の場合であって、ゴーストでも印税契約になることは多い。ゴーストで書いた本が大ベストセラーになって印税で家を建てたという人だって少なくないのである。

 また、「著者」に取材をして聞いた話をまとめる形が多いのはたしかだが、そうではない形のゴーストもある。著者は「名前を貸すだけ」という場合もあるし、基本的な構成だけを著者が決めて内容はライターが考えるという場合もある。

 たとえば、私が22歳のときに初めて手がけたゴーストの本はビジネス書で、「著者」はとある著名な大学教授だった。内容は私を含めた3人のライターが手分けをして書き、教授が書いたのは「まえがき」だけだった。本文は一行たりとも「著者の方の意見」ではなかった(内容のチェックはしただろうが)。
 それでいて、印税の何パーセントかはその「著者」のものになった。

 ほかにも面白い裏話は山ほどあるのだが、(道義的な)守秘義務に抵触するので書けない。かわりといってはなんだが、「ゴースト業界」で語り継がれる珍エピソードを3つご紹介。


 松本伊代が深夜番組「オールナイトフジ」の司会をしていたころ、自分の「著書」を紹介する際に「私、まだ読んでないんですけどぉ」とよけいな一言をつけくわえてしまったことがある。
 横にいた片岡鶴太郎が「へ? まだ読んでないって……これ伊代ちゃんが書いた本ですよねえ?」とさも不思議そうにツッコミを入れ、返答に窮した伊代は「いいじゃん、べつにぃ!」と開き直った。

 山ほどの「著書」をもつ評論家のT村某が、自分の著作にほかの本からの盗用があったことを指摘され、謝罪したことがある。そのとき、T村某はきっとはらわた煮えくり返っていたにちがいない。
「盗用したのはオレじゃねえ、無能なゴーストライターだ。でも、オレがあやまらないわけにはいかない。ちっくしょう!」と……。

 コメディアンのビートきよしが雑誌『スコラ』に寄せたエッセイが加藤諦三の著作の盗用とわかり、物議を醸したことがある。だがそのとき、ビートきよしはあろうことか、自分のマネージャーに責任をなすりつけたのだった。
“原稿を依頼されたものの、書くヒマがなかったから、マネージャーに代筆を頼んだ。ところが、マネージャーはうかつにも既成の本をパクってしまった”というのがきよしの言い分であった。

 「たとえ実際の経緯がそうだったとしても、当のエッセイはお前の署名で掲載されたんだから、お前があやまれやヴォケ!」――テレビのワイドショーでマネージャーに頭を下げさせ、横で他人事のような顔をしていたビートきよしを、私はブラウン管のこちら側から罵倒したものである。


 なお、ゴーストというと、「自分では文章が書けない芸能人などの本を書く仕事」だと思っている人が多いかもしれない。
 これは、小さな誤解。「ホントの著作」もたくさんもっている文章のうまい人がゴーストを使う例も多いのだ。「多忙すぎて自分で本を書く時間はないが、ゴーストライターを立てる形でなら本を出してもいい」という著名人がたくさんいるからである。その場合、「著者」は取材を受ける時間と原稿をチェックする時間だけとればよいことになる。
 
 米国では、そうした形で本を出す場合、ライターの名前も堂々と表紙に入れて「共著」にすることが多いようだ。日本であまりそうした形がとられないのは、「著者のくせに自分で文章を書かないなんてケシカラン!」という見方がいまだに根強いからであろうか。

 要は、「ゴースト」という言葉の語感がよくないのだと思う。ゴーストライターという言葉を使うのをやめて、「文章化のアウトソーシング」とでも言えばよいのだ。
 文章化のアウトソーシングによって、著者が文章を書くよりもよい本になるなら(あるいは、著者が書くより効率的に作業が進むなら)、それを選択するのはビジネスとして当然なのである。

 私がつねづね不思議に思うのは、著名人を著者に立てる形ではなく、「〇〇研究会」などという架空のグループ名義で出す本が、日本の出版界には多いこと。
 たとえば雑学本の場合、「おもしろ人間研究会・編」などという名義で出されたりする。実際には1人のライターが書いたとしても、そのライターが無名の場合、ライターの著作にしたがらない版元が多いのである。

 著名人の名前を借りるというのなら、まだわかる。その著者の名前に惹かれて買う読者もいるだろうから。しかし、「おもしろ人間研究会」などというどうでもいい架空研究会の名に惹かれて買う読者が、1人でもいるだろうか?
 ライターの著書にしてやったほうが、ライターもはりきって書くだろうに……。

 なお、ゴーストは、脚本の世界にも、作詞・作曲の世界にも、果ては文学作品にも存在するらしい。大家の名前で世に出ているが、実際は無名の若手が書いたもので、「大家」はそれを少し手直ししただけ、という形のゴーストである。
 さすがに芸術作品のゴーストは御法度だろうと、私も思う。だが、その実態はけっして表には出てこない。ウワサの形で語り継がれていくのみである。

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重松清『ビタミンF』

ビタミンFの画像

 重松清著『ビタミンF』(新潮文庫/514円)読了。
 言わずと知れた直木賞受賞作。「家族の絆」をテーマに据えた7編の連作集である。初読。

 重松氏と私はタメ年。しかも、この連作はいずれも30代後半~40代前半の父親たちが主人公なので、「40歳・二児の父」である私としては共感しやすい。
 ……のだけれど、小説としての出来は玉石混交。「直木賞をとるほどのもんかなあ」と、不遜にも思ってしまった。

 7編中、「セッちゃん」と「なぎさホテルにて」は傑作、「母帰る」は秀作、「ゲンコツ」「パンドラ」は凡作、「はずれくじ」と「かさぶたまぶた」は駄作――というのが私の評価。ま、打率3割以上だからよしとしますか(エラソー)。

 私はかねてより、ライターとしての重松氏を深く敬愛するものである。「ライターの鑑」だと思っている。その力量が如実にあらわれたのがエッセイ集『セカンド・ライン/エッセイ100連発!』(朝日新聞社)で、「プロの文章芸」が堪能できる。

 しかし氏の小説は、ソツなくうまいけど、どこか食い足りない。よくも悪くも「ライターのテクを駆使して書いた小説」なんだなあ。「70点満点の小説」というか、「ヒットを量産してもホームランは打てない作家(売れ行きのことではなく)」というか……。

 ただ、「セッちゃん」と「なぎさホテルにて」の2編には感動した。

 「セッちゃん」は、重松氏の代表作「ナイフ」と対になるような短編。「ナイフ」は主人公の息子がいじめに遭う話だったが、こちらは娘がいじめに遭う話。
 娘は、「セッちゃん」という友達がいじめに遭っている話を、両親にさかんにする。しかし、やがて「セッちゃん」など存在しないことが明らかになる。娘は、自らのいじめ体験を、架空の友人の話として両親に語っていたのだった。
 ラストのシークェンスが泣ける。ジワっとくる。

 「なぎさホテルにて」は、ユーミンの歌詞の世界を小説化したような、しゃれた設定と苦いリアリティを併せ持った好短編。
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浅田次郎『見知らぬ妻へ』

 見知らぬ妻への画像

 浅田次郎著『見知らぬ妻へ』(光文社文庫/495円)読了。
 元本は1998年刊だが、初読。
 「夫婦関係をテーマにした泣ける短編小説」のお手本になるようなものを読みたくて、手にとった。泣けなかったけど、大いに参考にはなった。

 8編収録の短編集。手堅い職人芸が堪能できる本だが、浅田次郎の著作の中では水準は高くないかな(全部読んでいるわけではないが、私が読んだ浅田作品の中では、小説なら『蒼穹の昴』がダントツ。それ以外なら、『殺られてたまるか!』3部作が最高)。かなり玉石混交だし。
 表題作と、「スターダスト・レヴュー」「かくれんぼ」――この3編は「玉」だと思った。やはり抜群のうまさ。

 たとえば、こんな文章――。

【引用始まり】 ---
 考えねばならぬことが多過ぎた。マサルのことエリのこと、馬場のこと、マダムとバーテンのこと。そして、小谷と節子のこと。
 いっぺんに問題を持ちかけられたような気がするが、実は別々の話ではあるまい。要するに、「おまえ、どうするんだ」と、みんなが自分を問い詰めているのだ。四十という節目は、そういうものなのだろう。
 いま自分を取り巻いている雑音は、たとえばオーケストラのパート・スコアのようなもので、意を決して指揮台に上がり、タクトを一振りすれば、ちゃんとしたシンフォニーが始まるような気がした。(「スターダスト・レヴュー」)
【引用終わり】 ---
 しみじみうまいなあ。まさに「四十という節目」にある男としては、とりわけ身にしみる。 

 あと、文庫の解説を社会学者の橋爪大三郎が書いているのだが、これがじつにいい文章。ヘタな文芸評論家が裸足で逃げ出す名解説である。
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『サーティーン』


 『サーティーン』を観た。
 来春公開予定のアメリカ映画。13歳の少女が実体験を基に冬休みを利用して書いた脚本を、キャサリン・ハードウィックという新人が監督した作品だ。

 ストーリーは、一言で言えばアメリカ版『積木くずし』。
 ごく普通のマジメな13歳の少女が、たった4ヶ月の間に非行のフルコース(万引き・ドラッグ・不純異性交遊・親への反抗・ボディピアス)を経験し、リストカットもくり返すなどして転落していく過程を描いている。

 脚本を書いたニッキー・リードはヒロインの親友役で準主演もしているのだが、出演当時14歳とは思えないほど大人っぽい、モデル並みのセクシー美少女である。
 しかも、シナリオも悪くない。「共同脚本」として名を連ねている監督のキャサリンが手を加えたのだろうが、それを差し引いても、13歳でこんな脚本が書けるとは大したものだ。アメリカの平均的ティーンエイジャーの生活が、たしかなリアリティをもって切り取られている。
 才色兼備のニッキーたんは、ある意味「アメリカの綿矢りさ」って感じですか。
 
 ただ、リアリティはあるものの、ふつうの少女が非行に走る過程なんて似たようなものだから、それをさしたる工夫もなく描いたこの映画は、正直言って退屈だ。

 それに、演出が稚拙の極み。人物のアップが異様に多くて、画面が小さくちぢこまっている印象を受ける。素人が家庭用ハンディカムで撮影したような映画である。
 いや、それは言いすぎか。では百歩譲って、「出来の悪いTVドラマのような作品」と言い直そう。映画ならではの面白さが皆無に等しい。
 
 むろん私だって映画の演出については素人だけれど、その素人目から見ても稚拙なのだ。
 ヒロインの母親役でホリー・ハンターが(ヌードまで披露して)好演しているのだが、せっかくの一流女優の演技が宝の持ち腐れ。
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岩明均『ヒストリエ』

  ヒストリエ 2 (2)の画像

 岩明均著『ヒストリエ』の1、2巻(アフタヌーンKC/各533円)を購入。先月末に2巻同時に発売されたものである。
 岩明は、いうまでもなく、あの『寄生獣』の作者。

 『寄生獣』は、いま読み返しても素晴らしい作品だ。
 ホラーなのにスペキュラティヴ(思索的)。たんなるこけおどしの恐怖やスプラッタ描写に終わらず、「人間とは何か?」という根源的な問いを読者に突きつけるその深み。そして、ホラーなのに泣けるその圧倒的感動。1990年代屈指の傑作といえよう。

 しかし、ずば抜けた傑作を創ってしまったクリエイターの多くがそうであるように、『寄生獣』以降、岩明は壁にぶつかっていたように思う(『七夕の国』など、そこそこ面白い作品はあったが)。

 だが、『アフタヌーン』連載中のこの『ヒストリエ』には、『寄生獣』以後の壁をようやく乗り越え、肩の力が抜けた印象がある。これは、岩明のもう一つの代表作になりそうである。

 舞台は紀元前のオリエント。主人公は実在の人物・エウメネス。
 マケドニア王フィリッポス2世、アレクサンダー大王(フィリッポス2世は大王の父)の書記となり、大王の死後は王国の統一保持のため将軍となって戦うが、自らの部隊の裏切りに遭って敵方に引き渡され、処刑された――そういう人物である。

 岩明は想像の翼を広げ、このエウメネスの少年時代を描いている。
 今後、彼が大王の書記となり、やがて自らが将軍に変貌していく過程を追う大河ドラマになるのだろうが、少年時代の物語もたいそう面白い。古代オリエントのいきいきとした描写は興趣尽きないし、英雄譚としての胸躍る面白さも申し分ない。

 それにしても、名前すらほとんど知られていない「アレクサンダー大王の書記」が主人公のマンガが、一級の娯楽作品として成り立つとは……。日本のマンガ文化の豊饒さを、改めて思う。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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