『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』

裁判長!ここは懲役4年でどうすか 裁判長!ここは懲役4年でどうすか
北尾 トロ (2006/07)
文藝春秋

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 北尾トロ著『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』(鉄人社/1300円)読了。

 『裏モノJAPAN』連載の単行本化。ライターの著者がその連載のためにさまざまな裁判の傍聴を始め、しだいに面白さにハマり、ついには傍聴マニアになっていく過程をつづったもの。

 裁判傍聴記のたぐいは数あれど、これほど不マジメな傍聴記は珍しい。なにしろ、著者の傍聴はただひたすら“裁判を面白がる”ためのものなのだ。
 著者は、大小さまざまな犯罪の刑事裁判や泥沼の離婚裁判などを無節操に渡り歩き、被告・原告、裁判官や弁護士、傍聴人たちの言動・生態をウォッチングして面白がる。野次馬として街のケンカを見物するように、裁判を娯楽として愉しんでしまう内容。マジメな法曹関係者が読んだら憤慨しそうだ。

 とはいえ、私は著者のこの姿勢を「不謹慎」と難ずるつもりはない。
 いや、不謹慎といえば不謹慎な内容ではあるが、しかしじつに面白いのだ。
 
 私には仕事で裁判の傍聴に通いつづけた時期があるのだが、そのとき、「裁判って面白いなあ」としみじみ思ったものだ。他人の「生の人生」に素手で触れるような面白さ。私もヒマだったら傍聴マニアになっているかもしれない。
 だからこそ、「ふざけている」という非難を覚悟のうえでこの本を上梓してしまった著者の気持ちも、よくわかる。
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『モンスター』



 『モンスター』を観た。
 2002年に死刑執行されたシリアル・キラー(連続殺人者)、アイリーン・ウォーノスを主人公にした映画だ。生前のアイリーンにも取材を重ねたうえで作られている。刑の執行は、クランクイン直前のことだったという。

 シリアル・キラーといえばたいていは男の快楽殺人者だが、そのなかにあってアイリーンは例外的存在だ。幼少期に肉親に虐待されつづけ、長じては男に裏切られつづけて、絶望の果てに殺人を犯した哀しき女性シリアル・キラーなのである。
 
 とはいえ、この映画には『羊たちの沈黙』のような猟奇的描写はなく、『ヘンリー』(米国史上最悪のシリアル・キラー、ヘンリー・ルーカスを主人公にした映画)のようにクールなドキュメンタリー・タッチでもない。犯罪実録映画というより、社会に受け入れられない異形の者たちのデスペレートなラブストーリーなのだ。クローネンバーグの『ザ・フライ』がそうであったように……。
 骨子を聞いただけで女性の多くは敬遠してしまいそうだが、むしろ女性たちにこそ観てもらいたい映画である。
 
 身体を売りながらヒッチハイクをつづける暮らしの果てに自殺を考えたアイリーンは、有り金5ドルを使い果たしてから死のうと、手近なバーに入る。
「男にフェラして稼いだ5ドル。これを使わずに死んだら、タダでフェラしてやったことになるもの」

 そのバーで、アイリーンはレズビアンのセルビーと運命的な出会いをする。アイリーンはストレートだったが、深い疎外感を抱えて生きるセルビーと、互いに自分に似たものを感じて惹かれ合っていく。
 なにより、アイリーンにとって、セルビーは自分のことを「きれい」と言ってくれ、優しく受け入れてくれたただ一人の人間だったのだ。

「女は嫌いなんだと思っていたわ」
「女も男も嫌いよ。でも、セルビー、あんたは好き」



 2人の関係が、私には『BANANA FISH』(吉田秋生)のアッシュと英二のそれとオーバーラップして見えた。

 最初の殺人は正当防衛だった。セルビーと2人で旅に出る旅費を稼ぐため身体を売ったアイリーンは、客のサディストから暴行を受けて殺されそうになり、逆に射殺してしまう。
 だが、それ以後の殺人は、根深い男性憎悪とセルビーへの愛情がからみ合った形で起こる。

 同性愛であるとか、アイリーンが殺人者であるなどということを超越して、互いの深い孤独が共振するような2人の関係の哀切さが、愛の一典型として胸に迫る。

 アイリーンを演じたシャーリーズ・セロンは、ちょうどいま「ラックス」のCMに出ている、ハリウッド女優の典型のようなゴージャス美人だ。にもかかわらず、この映画のために13キロも太ってぶよぶよの身体になり、特殊メイクや義歯などを駆使して顔も変え、セリフの中で「FUCK」を連発する下品な娼婦になりきっている。『レイジング・ブル』のロバート・デニーロに匹敵する、驚異の役作り。

 たまたま上映前に彼女の次回主演作『トリコロールに燃えて』の予告編が流れたのだが、その中の彼女と『モンスター』のヒロインが同一人物だとはとても思えなかった。その女優魂やよし。アカデミー主演女優賞を得たのも納得。

 シャーリーズは凄惨な過去をもっている。彼女が15歳のとき、家庭内暴力の絶えなかった父親を、母親が正当防衛で射殺してしまったのだという。彼女は、アカデミー賞の受賞スピーチで初めてその過去を公にした。
 彼女にとって、この映画でアイリーンを演じきることは、そのトラウマを乗り越えるためのイニシエーションであったのかもしれない。

 セルビー役のクリスティーナ・リッチも好演。セルビーという女性の弱さがそのまま魅力になっていて、かわいくていじらしい。
 ちなみに、実際にアイリーンと逃避行をした女性はティリア・ムーアといい、アメリカのどこかでいまも健在である。彼女が名前の使用を拒否したため、役名を変えたのだという。ティリアは「絶対に映画は観ない」と言っているとか。

 そのような映画の舞台裏のエピソードだけを集めても、大部のノンフィクションになりそうである。

 文学や映画は、しばしば殺人者を主人公にしてきた。文学も映画も「人間を描くもの」である以上、人間の1つの究極の姿が示された殺人者が主人公に選ばれやすいのは自然のなりゆきだ。
 たとえば、死刑になった宅間守と獄中結婚したあの女性を優れた作家が丹念に取材し、彼女の「心の軌跡」を小説化すれば、見事な文学作品になるだろう。
 この『モンスター』も、キワモノに終わりかねない題材を扱いながら、文学的感動を呼ぶ傑作になっている。

 エンドロールにかぶさるのは、通俗の極みのようなジャーニーのヒット曲「ドント・ストップ・ビリーヴィン」。だが、この映画の中にあっては、「信じることをやめないで」と歌うその歌詞がアイリーンの姿と重なって、厳粛さすら帯びて聴こえる。
 俗が聖に転化し、おぞましい殺人行が哀切無比の愛の逃避行に昇華される、「映画のマジック」――。
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いい人であることと……。


 高塚猛・前ダイエーホークス/ダイヤモンド社社長がセクハラ(強制わいせつ容疑)で逮捕!
 高塚氏を何度か取材して記事を書いたことがある私には、ショッキングなニュースである。

 少し前から週刊誌等で氏のセクハラ行為が告発されてはいたものの、私は話半分に受け止めていた。「ダイエーの派閥争いに巻き込まれて、針小棒大にあることないこと言われているんだろう」と思っていたのだ。

 しかし、逮捕後の一連の報道を見ると、少なくとも女子社員に抱きついたりキスしたりといったセクハラ行為をくり返していたのは事実のようだ(本人も認めている。「ハグしたり、ほっぺにキスしたり、自分では良好なコミュニケーションだと思っていた」だって。あ、あのなあ……)。

 私はライターとして、自分が直接取材したときに受けた印象にはかなりの自信をもっている。世間でどんなに悪く言われている人でも、取材時の印象がよければ、世間の評価よりその印象のほうを信ずる。逆もまた真である。

 高塚さん、部下への思いやりと強力なリーダーシップを兼ね備えた素晴らしい経営者だと思ったんだけどなあ……。私に王監督のサインボールくれたし。いや、サインボールをもらったからというわけではなく(笑)、取材時に受けた印象として。

 てゆーか、きっと、高塚氏が経営者として有能であり、「いい人」であるという私の受けた印象は、間違ってはいないと思う。

 作家の徐京植(ソ・キョンシク)が、高橋哲哉との対談集『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店)でこんなことを言っていた。

「いい人であることと、侵略者であることは矛盾なく両立します。しかし、多くの日本人はその区別を認識できないようです」

 戦時中に一部の日本軍人が中国などで行なった蛮行について、「あの人はいい人だから、そんなことをするはずがない」という言い方をする人が多いことを指した発言である。

 同様に、いい人・有能な経営者であることと“セクハラ大魔王”であることも、「矛盾なく両立」してしまうのだな。
 うーん、ショック。
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『安全神話崩壊のパラドックス』


 河合幹雄著『安全神話崩壊のパラドックス/治安の法社会学』(岩波書店/3500円)読了。
 
 気鋭の法社会学者が、日本の治安状況を分析した刺激的な論考である。治安という概念が指す内容は広いが、本書が扱うのは犯罪への対処という狭義の治安だ。

 “近年、凶悪犯罪が急増し、日本の治安は急激に悪化している”と、多くの日本人が思い込んでいる。じっさい、刑法犯の認知件数は戦後の最多記録を7年連続で更新している。一方、警察による検挙率はここ数年低下が著しい(平成15年度版『犯罪白書』による)。
 ところが著者は、こうした変化は「統計のトリック」による見かけ上のものにすぎず、日本の治安は悪化していないという。

 本書の前半で、著者は統計資料の徹底分析からそのことを立証してみせる。「最近五年での認知件数の急増は、実は統計の取り方の変化などが原因で実数の急増ではない」こと、検挙率の急落も、余罪追及を減らしたことなどによる見かけ上のものにすぎないことなどが明かされる。

 そして、「ここ数年をみても、殺人事件で殺されている者の数は減りつづけ」ていること、90年代半ばから「凶器を用いた傷害事件そのものが激減している」ことなどというデータを駆使して、「凶悪犯罪の急増」という近年の通説が架空のものにすぎないことが、説得力をもって示されていく。

 実際には治安は悪化していないにもかかわらず、「日本は犯罪の少ない安全な社会である」という「安全神話」が、いま大きく揺らいでいる。本書の後半で、著者はそのパラドックス(逆説)の原因を、欧米の犯罪状況との比較、新聞の犯罪報道の検討など、さまざまな角度から探っていく。

 著者は、犯罪不安の高まりの背景にあるものとして、次のような要因を挙げる。
かつての日本社会では、夜間の外出、危険な場所への外出を控えれば、基本的に安全だった。しかし、一般人が深夜も気軽に出歩く生活が定着し、危険な場所などなくなったいま、犯罪が起きる非日常世界と起きない日常世界の「境界」は崩壊し、「至る所、いつでも、薄く広く危険がある」状況が生まれた。それが不安につながっているのだと……。

 そして著者は、「安全神話崩壊」後の日本社会と司法制度のあるべき姿について、真摯な考察を重ねていく。治安維持を警察にのみ頼るのではなく、かつての地域社会が豊かにもっていた“住民を守る力”の再生こそが肝要、という著者の主張は首肯できる。
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細木数子に口あんぐり。

 ゆうべ、晩飯を食いながら細木数子メインのなんとかいうテレビ番組を見ていたのだが、思わずブホッと噴飯してしまうような発言があった。

 細木いわく、「女を3人泣かせた男は、糞づまりになって死ぬ」のだそうである。 で、その「根拠」はというと……。

「姦通罪というのがあるのよ。『姦』という字は女が3つだから……」

 わかったわかった、みなまで言うな。

 細木数子の本はずいぶん売れているそうだけれど、こんなクダラナイ語呂合わせみたいなご託宣が並んでいるのだろうか?
 キワモノの娯楽として楽しむならまだしも、こんなご託宣を本気で信じているヤカラがいるとは驚きである。

 じつは私は、駆け出し時代に占い系の単行本のゴーストを何冊もやったことがある。その中の一つに、運気を高めるための「研究会」(さしさわりがあるので、正確な名前は書けない)を主宰する人の本があった。
 私が取材してその人の談話を本にまとめたのだが、用意していた質問が途中で底をついたので、その場の思いつきで、「先生、運気のよくなる寝相というものはありますか?」と質問した。

 「『くだらんことを聞くな!』って怒られるかなあ」と思いながら聞いたのだが、その「先生」は上機嫌でこう答えた。

「ええ、あります。寝相の悪さにも二種類ありまして、だんだんふとんの上にずり上がっていく人は運気がよい。逆に、下にずり下がっていく人は運気が悪い。だから、社員旅行などで上司の寝相を見る機会があったなら……」

 「アンタそれ、たったいま考えたことちゃうんかい?」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえた。

 しかし、こんなクダラナイことを言うオッサンが主宰していたその「研究会」には、一流企業に勤めるエリートサラリーマンなど、知的レベルの高そうな人も集っていた。不思議である。

 面白いから、単行本の中にはその「運気のよくなる寝相」の話もそっくり入れてやった。あれを読んで真に受けた人もいるかもしれない。申しわけないことをした。いま思えば、あれは「トンデモ本」であった。

 ゴーストの聞き書き仕事の場合、取材は何度かに分けて行なうのが普通である。その「研究会」会長にも何度か取材を重ねたのだが、相手も私に対してだんだん打ち解けてきて、ホンネを話してくれるようになった。

 ま、そのこと自体はライターとしてはうれしいのだが、困ったことに、その人がホンネで話してくれたその内容は、およそ「運気を高めるための研究会」の会長とは思えないものなのであった。「じつは子どもの家庭内暴力で悩んでいる」とか、そんな不幸話ばっかりだったのである。

 「アンタ、全然運気高まってないやん!」とツッコミたくなった。

 ま、細木数子だろうと誰だろうと、占い師のたぐいなんてそんなものである。真に受けるより、キワモノの娯楽として消費すべし。
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『赤ひげ』再見&『ゲロッパ!』

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 久々のオフだったのに、あいにくの台風。仕方なく家でDVDを観てすごす。
 井筒和幸監督の『ゲロッパ!』と黒澤明の『赤ひげ』(こちらは再見)という、アンバランスも極まった組み合わせ。

 『赤ひげ』は、先日取材したみなもと太郎さんが「黒澤の最高傑作は『赤ひげ』でしょう」と言われていたので、また観てみたくなったもの。
 ちなみに、私自身は黒澤作品なら『七人の侍』『用心棒』『生きる』がベスト3。思いっきりベタなセレクトだけど……。

 再見してみて、「これは黒澤にとっての『レ・ミゼラブル』だったのだなあ」と思った。三船の「赤ひげ」がジャン・ヴァルジャン、二木てるみ演ずる薄幸の少女がコゼットの役回りだ。加山雄三演ずる若い医者にも、マリウス(ジャベール警視も少し)が投影されている感じ。

 江戸時代の貧民たちのミゼラブルな暮らしのなかに、闇にまたたくかすかな光のように輝く崇高な人間性。みなもとさんが「黒澤の最高傑作」と評価するのもわかる気がする。「ヒューマニズム」という言葉が一点の曇りもなく輝いていた時代ならではの、正攻法の力強いヒューマニズム表現。

 『赤ひげ』と『レ・ミゼラブル』を比較した評論がどこかになかったものかと思い、佐藤忠男の『黒澤明の世界』(朝日文庫/これはいい本)を引っぱり出してみる。
 あいにく『レ・ミゼラブル』への言及はなし。ただ、次のような指摘は興味深い。

【引用始まり】 ---
 自分の生き方についての確固不抜の責任意識、といったものを一貫して押し出した黒澤作品の主人公たちは、被害者意識や幸福願望で人間像の輪郭のぼやけ気味だった戦後の日本では鮮やかな意味をもっていた。今日流の言葉でいえば、それは、自立した強靭な個人の像を提示しつづけることによって、日本の戦後民主主義の弱点に対比されるものだったからだ。他の作家たちにとっては〈社会問題〉であるものが、黒澤作品では〈人生の試練〉であり、サムライたるものが乗り越えねばならぬ七難八苦である。(P.306)
【引用終わり】 ---

 もう一本の『ゲロッパ!』は、『のど自慢』に通ずる井筒流人情コメディー。
 着想は悪くないのだが、予定調和の展開にいささかウンザリ。一本の映画の中で使ってよい「偶然」の許容量を、大幅にオーバーしている感じの脚本。

 ただ、主演の西田敏行、脇役の藤山直美や寺島しのぶなど、何人かの好演が映画を救っているし、けっこう笑える。

 黒澤作品のような高級料理ではなく、ジャンクフードの味わいをもつ映画。
 ジャンクフードの分を守って、「とにかく客を腹いっぱいにさせたる!」というサービス精神に満ちている点は、好感。
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『スクール・オブ・ロック』

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 『スクール・オブ・ロック』をDVDで観た。
公開時にはごく地味な扱いだったのに、口コミで評判が高まって大ヒットした映画。

 友人になりすまして名門小学校の代用教員となった売れないロック・ミュージシャンが、クラスの子どもたちにロックを教える「特別授業」(もちろん学校側にはナイショ)をつづけ、ついには子どもたちに組ませたバンドが「バンド・バトル」で喝采を浴びる、というストーリー。

 たしかによくできた映画だと思うが、一部にある「文句なしに笑える痛快コメディ」という評価はいかがなものか。私にはほとんど笑えなかった。コメディとしての質はけっして高くないと思う。

 とはいえ、「笑えないからダメな映画だ」と言うつもりはない。コメディとしてより、「バンドもの」として非常に上質だ。
 比較すべきはコメディ作品ではなく、『ザ・コミットメンツ』や『青春デンデケデケデケ』などの、「バンドに賭ける熱い青春」を描いた映画ではないか。とくに、クライマックスとなる「バンド・バトル」での演奏シーンには、マジで感動してしまった。

 主役の「ニセ教師」を演ずるのは、本物のロッカーでもあるジャック・ブラック。彼が一世一代の熱演を見せて出色。ルックスはAC/DCのアンガス・ヤング、性格は元ヴァン・ヘイレンのデイヴ・リー・ロスという感じ。このぶっ飛んだキャラは、彼以外の誰にも演じられなかっただろう。

 また、1960~70年代の洋モノ・ロックを聴いてきた世代には、思わずニヤリとする「くすぐり」が満載の映画である。
 作中に使われる音楽も、クリームやザ・フー、ツェッペリンなどの古めのロックばかり。レディオヘッドでもU2でもガンズンローゼスでもなく、一世代前のロックなのだ。

 ジャック・ブラックが子どもたちに熱く説く「ロック・スピリット」も、古き佳き時代のそれという感じ。いまどき「ロックは反抗のシンボル」でもあるまいに……と微苦笑しつつ、その古臭さにむしろ好感を抱いた。
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『みんな誰かの愛しい人』

 
 『みんな誰かの愛しい人』を観た。今月末から公開されるフランス映画である。
 
 公式サイト→ http://www.gaga.ne.jp/dare-ai/

 監督・脚本は、重要な役どころで女優として出演もしているアニエス・ジャウイ。共同脚本のジャン=ピエール・バクリも、ヒロインの父親役で準主演している。

 2人の才人が創りあげた、知的で才気に満ちた映画だ。

 ヒロインは「ロリータ」という20歳の女の子。大福餅のようにポッチャリとした太め体型の彼女は、「自分は誰からも愛されていない」という深いコンプレックスを抱いている。美少女の代名詞「ロリータ」を彼女の役名にしたのは、監督の痛烈な皮肉だ。

 父親は、フランスでも指折りの大作家エチエンヌ。しかも、その再婚相手はロリータとほぼ同世代のスレンダーなブロンド美女。そうした家庭環境が、彼女の抱くコンプレックスに複雑な陰影を与えている。
 だが、長いスランプの渦中にある父親は自分の小説のことしか頭になく、娘の気持ちなど一顧だにしない。

 ロリータには、監督ジャウィの少女時代が色濃く投影されている。父親との葛藤も、父が自分と同世代の若い恋人をもつことも、ジャウイ自身が経験したことなのだという。
 だからこそ、ロリータの人間像はすこぶるリアルで、彼女が心に抱く寂しさ・悲しさ・劣等感やさまざまな願望は、ひときわ観る者の胸に迫る。映画が終わるころには、その大福のような顔がなんとも愛らしく見えてくるほどだ。
 とはいえ、そうした青春期の憂鬱は淡いユーモアにくるんで語られるから、楽しく観ることができる。

 主旋律はロリータと父親の葛藤だが、主要登場人物の抱くさまざまな愛情が、ロンドのように異なるメロディーを奏でていく群像劇。「みんな誰かの愛しい人」という邦題は、そのニュアンスをうまくとらえている。

 ジャウイとバクリのコンビは、登場人物たちの気持ちのすれ違い、揺れ動きをていねいに描いていく。その積み重ねの果てに、クライマックスで一気に人間関係の“爆発”が起きる。

 立派すぎる父親に呪縛されてきたロリータは、クライマックスでついに父への怒りを爆発させ、ようやくできた恋人のもとに走る。それは、父からの自立でもあった。
 時を同じくして、父の若妻も彼のもとを去り、ロリータの声楽教師とその恋人(売れない作家)との関係にも終止符が打たれる。
 そして、1人取り残された父エチエンヌも、ようやく新作の構想を得るという形で作家として蘇生するのだった。

 これは、登場人物たちが互いを縛る足枷となってしまった“惰性の愛”を乗り越え、人生の新たなステージに向けて旅立つ「蘇生の物語」なのである。

 今年のカンヌ映画祭脚本賞に輝いたこともうなずける、フランス映画らしい繊細な心理描写が光る秀作。
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死ぬかと思った(犬の話ですが)。


 昨日、我が家の愚犬ポッキー(ヨークシャーテリア/♂)を動物病院に連れて行った。飼い始めて4年になるが、予防接種以外で医者に診せたのはこれが初めて。

 一昨日から急に元気がなくなってしまったのだ。
 その前日まで元気だったのに、一昨日はまったくエサを食べず、ぐったりとした様子でケージの隅っこに寝たきり。「ワン!」という声すら出せないらしく、のどの奥でかすかに「ク~ン、ク~ン」と弱々しく鳴くばかり。

 しかも、ウンチもオシッコもしない。「人間は尿が出なくなったら一日程度で死んでしまう」なんて話をどっかで聞いた記憶がよみがえってきて、「もう死んでしまうのかもしれない」とマジで心配した。

 単3電池とかオモチャの部品とかのたぐいを飲み込んでしまい、それがおなかに詰まってしまったのではないかと思った。

 あわてて動物病院に連れて行ったところ……。

 大きな尿道結石ができていて、それが詰まっていたという。石をとる処置をしてもらって帰ってきたら、エサも食べるし、声も出るようになった。激痛で元気がなかったらしい。

 治療費が3万ちょい。
 ううむ、犬を飼うのもけっこうな物入りである。
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『ヴァイブレータ』



 『ヴァイブレータ』をDVDで観た。
 『赤目四十八瀧心中未遂』とともに、主演の寺島しのぶの評価を決定づけた作品。2作で、彼女は昨年の国内映画賞を総なめにした。
 
 映画としては『赤目~』のほうが上だと思うが、これもなかなかよかった。
 寺島しのぶよりきれいな女優は、いくらでもいる。だが、彼女ほど存在感のある女優は、いまほかにいないのではないか。

 女優という存在は、整形の有無にかかわらず、どこか人工的な印象を与えるものだ。しかし寺島しのぶは、じつに女優らしい女優であるにもかかわらず、人工的な感じが微塵もない。表情も声も肉体も、どこをとっても生々しい。そこがよい。

 脚本は荒井晴彦。
 31歳の女性フリーライターと長距離トラックの運転手との行きずりの関係――というこの映画の骨子から、誰もが思い出すのは『赫い髪の女』(1979)であろう。
 「にっかつロマンポルノ」屈指の名作として評価されるあの作品は、荒井の脚本家としての代表作であり、ダンプカーの運転手(石橋蓮司)と名もない「赫い髪の女」(宮下順子)との行きずりの関係を描いたものだった。
 私も、この『ヴァイブレータ』のことを「荒井が“21世紀の『赫い髪の女』”を狙った作品なのだろうな」と思っていた。

 だが、じっさいに観てみると、骨子こそ似ているものの、2つの作品の肌合いはかなり違う。
 遠い昔に観た記憶しかないので違っているかもしれないが、たしか『赫い髪の女』は、ストーリーの大半が運転手の狭いアパートで展開された。また、ヒロインはほとんどセリフらしいセリフを言わなかったように思う。

 一方、この『ヴァイブレータ』は、トラックの運転席がおもな舞台ではあるものの、窓外に展開される風景が次々に変わっていくロード・ムービーなので、画面には爽快な開放感がある。また、寺島しのぶ演ずるヒロインは、モノローグも含めて大量のセリフをしゃべる。
 なにより、『赫い髪の女』がエロスそのものを描いた作品であるのに対し、この『ヴァイブレータ』はむしろ「女性映画」といってよい作品なのである。性描写は多いものの、ヒロインが生身の女性としてしっかり描かれているから、女性が観ても不快ではないと思う。

 ストーリーの大半は寺島とトラック運転手とのやりとりで進むのだが、そのやりとりがじつによい。作りものめいたぎごちなさがなく、含蓄あるセリフが多い。こうした「大人の男女の会話」を書かせると、荒井晴彦は抜群にうまい。
 また、運転手を演ずる大森南朋の演技もよい。演技力に定評ある寺島しのぶと、終始対等に伍している。

 ヒロインの早川玲は、自らの内側から聞こえる「もう一人の自分の声」に悩まされ、アルコール依存と食べ吐きをくり返す女性。しかし、コンビニで出会った運転手の車に乗り込んで旅をする過程を通して変わっていく。旅の終わりには、「もう一人の自分の声」は聞こえなくなっていた。
 ロード・ムービーを教科書的に定義すれば、「旅の過程で主人公が変貌していく様子を描いた映画」となる。その意味で、これはじつに正統的なロード・ムービーである。

 映画のラスト、2人は出会いの場となったコンビニに再び戻り、そこで別れる。しかし、「声」が聞こえなくなった玲の表情は、ファースト・シーンとは別人のように晴れやかで、聖性すら漂わせている。
 セリフに頼らず、表情だけで内面の変化を表現した寺島の演技がすごい。ビデオやDVDで観る場合、ラストシーンとファーストシーンの表情の違いを見比べてみるとよい。

 なお、タイトルの「ヴァイブレータ」(=振動するもの)とは、トラックそれ自体を指す。エンジンをかけている間、トラックの座席は静かに振動しつづけているのだという。
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『「サムライ」、米国大企業を立て直す!!』

「サムライ」、米国大企業を立て直す!!―倒産寸前の会社を、「エアライン・オブ・ザ・イヤー(2004 OAG Airline of the Year Awards)」に変えた秘密の画像

 鶴田国昭著『「サムライ」、米国大企業を立て直す!!』(集英社/1700円)読了。
  
 友人のライター、上遠野(かどの)充・小此木律子夫妻にいただいたもの。お二人が企画・構成された本なのである(そのことは本に明記されているから、明かしても問題ない)
 
 鶴田氏は、米コンチネンタル航空の前上級副社長。倒産寸前の危機にあったコンチネンタルを見事再建し、「エアライン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるほどの優良企業に生まれ変わらせた立役者の1人。

 コンチネンタルの「奇跡の再生劇」については新聞記事等で断片的に知ってはいたものの、日本人がその主役の一人であることは知らなかった。

 本書は、その鶴田氏が語り下ろした一代記。構成にあたっては、鶴田氏本人から丹念に取材するのはもちろんのこと、40人以上にのぼる関係者にも話を聞いたという(アメリカ取材は計5回、50日以上に及んだとか)。

 コンチネンタル再建の経緯についてはクライマックスの第5章で詳述されるが、そこに至るまでの鶴田氏の軌跡もたいへん興味深い。少年時代のガキ大将ぶりは痛快無比だし、裸一貫から米航空業界で名を成すまでのいきさつは、小説顔負けの見事なサクセス・ストーリーである。

 企業経営者の自叙伝にありがちなヘンな精神論を振りかざすいやらしさがなく、思わず笑ってしまうような痛快エピソードで文をつないでいくところがよい。私はあいにく飛行機にも航空業界にもまったく不案内だが、それでも面白く読めた。飛行機にくわしい人ならもっと楽しめるだろう。

 なにより、鶴田氏の人間像が魅力的だ。豪放磊落で人情に篤く、権威や慣習をものともせず己のやり方をつらぬき、社員の心を前向きに変えることで会社を再生させていく。その姿はまさしく、「サムライ」という尊称にふさわしい。

 読んでいる間、私には鶴田氏の姿がイチローと二重映しになった。鶴田氏もイチローも、「出る杭」は打たれてスポイルされていく日本社会から飛び出して渡米したからこそ、己が資質を開花させることができたのである。

 前半では、若き日の鶴田氏が勤めていた川崎重工で経験した「出る杭は打たれる」扱いについても詳述される。その部分を読んでいると、「横並び圧力」に支配された日本の企業社会のセコさかげんが、しみじみ情けなくなる。

 鶴田氏は言う。

【引用始まり】 ---
「日本で生意気、異端児と上司から言われるぐらいが、グローバルスタンダード(世界標準)だ。そして、たたかれても、たたかれても出る杭になる。それがアメリカでのしあがっていく人間だ。
 私は日本に往々にしてはびこる『出る杭は打たれる』といった風潮を、『出る杭よ、打たれろ、そして本物の出る杭になれ』と改めたい。横並びのごますりエリートが、痛みを伴う変革がどうしてできるだろうか。ほんとうに変革ができるのは、打たれても折れない出る杭だけだ」
【引用終わり】 ---

 読む者に勇気を与える一冊だ。
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『パラダイス』名セリフ集


パラダイス 11 (ヤングサンデーコミックス)パラダイス 11 (ヤングサンデーコミックス)
(2005/05/02)
守村 大

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 私はすごく気に入っているマンガなのだけれど、守村大(もりむら・しん)の『パラダイス』(『ヤングサンデー』連載中)はあまり人気がないようだ。コミックスも揃っていない書店が多い。いいマンガなんだけどなあ。

 というわけで、改めてご紹介。
 まずは、メイン・サイトの「オススメ日記」で以前紹介したときの文章からコピペ。 


 ボクシングは詩的なスポーツである。
 もちろん、つきつめて考えればすべてのスポーツが詩的であるのかもしれない。しかし、中でもボクシングほど詩的なスポーツはほかにないのではないか。

 たとえば、沢木耕太郎の傑作ノンフィクション『一瞬の夏』は、ボクシングの世界を舞台にしていたからこそ『一瞬の夏』などという詩的なタイトルがバシッときまったのだ。『あしたのジョー』は、ボクシング・マンガだったからこそ「燃えかすなんか残りやしねえ。真っ白な灰になって燃えつきるんだ」などというジョーのセリフがさまになったのだ。
 詩的なスポーツだからこそ、ノーマン・メイラーが、寺山修司が、ジョイス・キャロル・オーツ(『オン・ボクシング』の著者)が、詩的な言葉でボクシングについて語りつづけたのだ。

 そしていま、マンガの世界に、「詩的スポーツとしてのボクシング」を追求した傑作が登場した。守村大の『パラダイス』である。

 守村といえば、週刊『モーニング』に連載していた長編『あいしてる』が比較的よく知られている。これは奇妙な作品で、全3部構成になった作品のうち、第2部だけがボクシング・マンガになっていた。主人公・鉄馬(ケンタ)が、この第2部ではボクシングの世界に挑んだのだった。そして、私はこの第2部の分だけコミックスを買い集めた。ここだけが突出して面白かったからである。

 『パラダイス』は、筋金入りのボクシング・マニアである守村が、『あいしてる』以来久々にボクシング・マンガに取り組んだ作品である。しかも、今度は第2部だけなどというハンパな形ではなく、最初からボクシング・マンガの傑作とすべく正攻法で挑んだ作品なのだ。

 主人公は、リング上で倒されたダメージが元で夭折した天才ボクサーの遺児・涼野ガクト。母親の意志によって、亡き父親がボクサーであったことも知らされず、ボクシングとは無縁に育ってきたガクト。だが、18歳になったガクトは、後楽園スタジアムで初めてボクシングの試合を観ながら、故郷に帰ってきたかのような不思議な懐かしさを覚える。そして、「スタジアムの主」と呼ばれる古株のボクシング・マニアにその才能を見抜かれ、ボクシングを始めるのだった。

 ガクトのトレーナー役を買って出たサブローは、かつてガクトの父とリングで闘い、死に至らしめた元ボクサーであった。
 それまで人を殴ったことすらなかったガクトだが、サブローに鍛え上げられるなかで、急激にその資質を開花させていく。

 「必殺パンチ」のたぐいは登場せず、試合場面の描写はすこぶるリアル。マニアも唸る、本格派のボクシング・コミックである。
 なにより素晴らしいのは、ガクトや周囲にいる人々がボクシングについて語るその言葉が、きわめて詩的で美しい点だ。


 さて、ここでは、『パラダイス』のコミックス既刊8巻の中から、名セリフを選りすぐって紹介してみよう。読む者を勇気づけてくれるいいセリフがいっぱいである。

 サブロー「ここ(リング)は清潔でやさしいところさ……社会は、不浄であいまいで欺瞞だらけ。不公平、不平等が平気でまかり通る。闘争のほとんどがくじけそうになるハンデ戦だ。だが、ここでは、誰もができる限り公平であろうとする。闘う者も、それを裁く者も、見る者もだ……(中略)強い相手とは、強くならないと闘わせてもらえない。ミスマッチはしらけるだけ……求められるのは平等な闘争だ」

 サブロー「前にもっと強いパンチに耐えたことがあるという経験が……この程度のパンチでは倒れないという精神的支えになる」

 サブロー「臆病者も英雄も、どっちも胸のうちは恐怖でいっぱいさ……臆病者は逃げる…英雄は、恐怖を力に変えて前進する」

 矢部「闘志に支えられていないテクニックやパンチ…防御技術は役に立たん。ここで発揮される力は、すべてそれら×ハートだ」

 ガクトの母「他人になんと言われても、なくならないのが本当の自分よ。自分が何者かわかったとき、人は幸せも見つけるのよ」

 ノリコ「みんな、自分をカッコよくステキに見せようと、お化粧したりツッパッたり…どんなに自分を飾りつけても、そんなのまやかしだわ。カッコよくなりたいと思ったら、飾りつけちゃダメなのよ。身につけてるムダなもの削りとらなきゃ」

 ガクトの母「死ぬよりつらいのは、『生きない』ことよ」

 サブロー「才能もセンスもテクニックも……それらすら、リングには不純物かもしれないぜ。リングに持ち込んで胸張れるのは“闘志”だけさ」

 サブロー「ボクシングはペースの奪い合いだ。ペースを握って自分を出しきったやつが勝つ。リングは……自分をぶちまける場所だよ」

 天(タカ)「泣きたい時も腹減った時も……苦しい時も悲しい時も……前進だ! うしろには何もねえっ! 欲しいものはいつだってはるか前だ!」

 ガクトの父「神様はイジワルだからひとを弱虫にしか作らなかった。誰もが弱虫だ。だから、自分のズルイとことか情けないとこはよくわかるようにできてる。ほんの少しの勇気だけで、まわりのやつや今の自分より強くなれるってことだぜ! それは神様への挑戦だ」

 天のトレーナー「苦痛から逃れようとするやつと、闘うやつがいるよ。逃げれば敗北の価値も勝利の味もわからん。闘いと苦痛はセットだ。どっちを選ぶ?」

 サブロー「ボクシングは痛めつけ合い相手の闘志を奪う競技。弱点を狙うのは闘争の正義。手加減しないのがリングの倫理」

 天「誰も自分で自分を幸せにはできないんだ。誰かに満たしてもらうしかねーのさ……こんな自分にも自分以外の誰かを、満たしてやる力があるってことだよ。なあ涼野…リングで誰かのために闘う必要なんかどこにもない。けど、自分の闘いが誰かを満たしてやれるとしたらスゴくないか」
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『LOVE PSYCHEDELICOⅢ』

LOVE PSYCHEDELICO III LOVE PSYCHEDELICO III
LOVE PSYCHEDELICO (2004/02/25)
ビクターエンタテインメント

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 ラヴ・サイケデリコのサード『LOVE PSYCHEDELICOⅢ』を聴いた。

 いやー、これはよい。
 180万枚を売り切ったファーストの衝撃には及ばないが、セカンドよりはずっと出来がよいと思う。私はセカンドには2曲ほどしか気に入った曲がなかったのだが、今回は全曲気に入った。

 とくに、オープニングの「Everybody needs somebody」(映画『ホテルビーナス』の主題歌)のカッコイイこと! イントロだけで背筋がゾクゾクしてグッと引き込まれた。
 ほかにも、「My last fight」「裸の王様」「Hello」「GRAPEFRUITS」など、いい曲目白押し。

 バックの音はこれまで以上にシンプルで、そのぶんKUMIのヴォーカルが前面に出た仕上がり。ほとんどの曲は単純なギターのリフが核になっていて、音に隙間が多い。だが、そのことが少しも貧弱な印象を与えず、絶妙な「空気感」になっている。また、ギターのリフがいちいちカッコイイのだ。

 ラヴ・サイケデリコについて、「70年代洋楽テイスト」ということがよく言われるが、そのテイストはなによりこの「空気感」によるものだろう。
 昔の日本のロック・アーティストは“音に対して貧乏性”というか、音に隙間があるとつい埋めたくなる習性のようなものをもっていて、空気感を出すのが苦手だったのだ。
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谷口正和『2010年革命』

 谷口正和著『2010年革命』(講談社/1500円)読了。

 来週、著者の谷口氏に著者インタビューをするために読んだ。
 谷口氏は著名なマーケティング・コンサルタントである。もっとも、そっち方面にまるで疎い私は、氏の著作を読むのはこれが初めて。

 副題が「団塊の世代が会社から消える日」であるとおり、2010年とは、800万人(前後の世代も含めて広義に解釈すれば1000万人)にのぼる「団塊の世代」が、全員定年を迎える年のことである。

 著者は、それが「革命」と呼ぶに値する巨大なインパクトを日本社会に与えるという。なぜか?

 「比較的多数(最も数が多い層)が市場を支配する」というのはマーケティングのいろはだが、2010年以降も「団塊の世代」が「比較的多数」であることは変わらない。変わるのは、その内実だ。2010年以降、日本社会は史上初めて、現役を引退した世代が「比較的多数」となるのである。

 つまり、これまでは現役世代が「市場を支配」し、トレンドを決定してきたのに対し、2010年以降は定年後の高齢者層がトレンドを決めるのだ。「市場全体の心理が変わる」のであり、真の「高齢化社会」の到来だ。

 大要そのような認識を前提に、著者は2010年以降の日本社会の“静かなる変動”を予測していく。
 その「革命」は目には見えないが、「行政のあり方からビジネスの組み立て方、サービスのつくり方から商品のコンセプトまで、まったく新しい視座で再編しなくてはならなくなる」ほどのパラダイム・シフトなのだという。

 高齢者層が市場を支配し、価値観のリード役となる社会――いかにも陰鬱で停滞した社会というイメージである。しかし、著者は意外なほど明るい未来像を描いている。

 著者は、「安心・安全」こそが高齢社会の機軸となる価値観であり、「歴史回帰・自然回帰・仲間回帰」の3つがライフスタイルの基本となるという。この基本軸から外れた商品や企業は淘汰されていくのだ、と。

 たとえば、食品についても人々はいっそう安心・安全を求めるようになり、「アメリカ流の大量物量市場は終わりを告げ」るという。「今起こっている食品問題のほとんどは、アメリカ型の大量生産主義によってもたらされたもの」だからだ。

 また、団塊の世代が定年を迎えて会社の呪縛から解き放たれることで、堰を切ったように「一気に個人主義が花開く」という。その結果、大量生産された同質の商品では顧客は満足しなくなり、“自分に合った小さな違い”を求めるようになる。差異こそが「これからの消費の核」なのだという。

 「差の創造、それが市場の創造であり、顧客の創造である。違いがないものは商品価値がない、そういい切ってもいい時代なのだ。二〇一〇年社会の目の肥えた消費者たちは、表情は穏やかだが、選別する目は異常に厳しいのだ。
 極端にいえば、『いいから変えろ』である。違いのための違い、それでもいいのだ」

 すでに現れている「差異を消費する社会」の兆候として、著者は次のような事例を挙げる。
「一見マス販売の典型のようにみえるコンピニでさえ、基本は限定になりつつある。セブン-イレブンの商品の半分は、すでにPB(プライベート・ブランド)商品だ。セブン-イレブンでしか買えない限定商品なのである」

 そしてまた、学ぶことを娯楽として楽しむ「楽習」が巨大市場を形成するとも予測する。

 本書はビジネス書ということになるのだろうが、マーケティングを切り口にした風変わりな日本文化論としても面白く読める。

 また、商品開発やサービス業に携わる人たちのみならず、クリエイティヴな仕事に従事する人にとっても“アイデアの触媒”となり得る本である。
 たとえば、この本の内容から、ビジネス書の企画が10くらいは軽く思いつきそうだ。
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いまさらイエス

危機危機
(2008/12/17)
イエス

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 うるさいマニアの多い分野なのでうかつなことは書けないのだが、私はプログレ(プログレッシヴ・ロック)もわりと好きである。

 10代のころに好きだった順で言うと、1位ELP(エマーソン、レイク&パーマー)、2位ジェネシス、3位フォーカス(写真週刊誌とはなんの関係もない、オランダのバンド)、という感じ。
 逆に苦手だったのが、イエスとキング・クリムゾンだ。

 ところが、不惑を迎えたいまの耳で聴いてみると、昔は苦手だったイエスとキング・クリムゾンが、むしろいちばん面白い。加齢とともに音楽の好みも変わるんだなあと、改めて実感しているしだい。

 イエスとクリムゾンは曲構成も複雑で、演奏の細かい部分に聴きどころも多いから、「聴き飽きない」のだと思う。逆にELPなんかは、ハッタリはきいているけど微妙な陰影に乏しいから、いま聴いてみるとすごく古臭い感じがしてしまう。
 イエスのベストアルバムがいまなお何種類も出回っていたり、クリムゾンの未発表音源がくり返しCD化されたりしているのに比べ、ELPはほとんど忘れ去られた感があるのも、そのへんのちがいによるのだろう。

 というわけで、思いっきり「いまさら」ではあるけれど、最近イエスをよく聴いています。
 
 日本のアホなロック雑誌は、イエスを取り上げる際にはきまって「神々のナントカ」という見出しをつけたものだけど、グループ名に宗教的ニュアンスはない(そもそも、キリストのことなら英語では「ジーザス」だろうっての)。フロントマンのジョン・アンダーソンは、「イエスとは肯定の言葉だ。だから僕たちのバンド名にしたんだ」と言っていた。

 思えば、これほどロック・バンドらしからぬバンド名もほかにあるまい。ロックというのは「あらゆるものへの『ノー!』」が結晶化したような音楽だったのだから。
 10代の私がイエスを好きになれなかった理由も、一つにはそのへんにあるのだろう。ささくれだった「ノー」の心で全身を鎧っていたロック少年には、イエスの音楽に満ちたポジティヴな「肯定の意志」が鼻について仕方なかったのである。イエスの曲には、プログレには珍しく明るい曲調のものが多いし。

 トレバー・ラビンが中心になっていた時期のイエスは、個人的にはまったくダメ。ただの「産業ロック」にしか思えない。大ヒットした「ロンリー・ハート」や「リズム・オブ・ラヴ」はたしかによく出来た曲だとは思うけど。
 
 やっぱり70年代のイエスはよかった。
 ことに、「プログレ史上最高傑作」の呼び声も高い『危機』(72年)のタイトルナンバーは、いま聴いてもすごい曲である。どこをとっても完璧な仕上がり。クラシックの名高い交響曲にも負けない壮大な世界を、オーケストラなどは使わずにロック・バンドとして作り上げた奇跡のような曲。18分の至福。
 あと、意外にいいのが、元バグルズのトレバー・ホーンとジェフリー・ダウンズを迎えて「ジョン・アンダーソン抜きのイエス」として作られた『ドラマ』(80年)。

 アルバム・ベスト5を私が選ぶなら……。

 1位『危機』(問答無用の名盤)
 2位『究極』(ハードなタイトル・ナンバーが最高)
 3位『ドラマ』(「夢の出来事」など、曲が粒揃い)
 4位『こわれもの』(「燃える朝焼け」は名曲)
 5位『サード・アルバム』(「スターシップ・トゥルーパー」など名曲目白押し)
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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