井上真琴『図書館に訊け!』



 井上真琴著『図書館に訊け!』(ちくま新書/740円)読了。

 同志社大学図書館でレファレンス業務を担当する著者(ちなみに男性)が、図書館を調べものに利用するためのノウハウを説いた本。

 図書館司書を目指すための本や図書館学の本は山ほどあるが、本書のように一般ユーザー向けに書かれた「図書館利用ガイド」はごく少ない。
 私の知るかぎり、類書の中では『別冊宝島EX/図書館をしゃぶりつくせ!』(宝島社)がいちばんよくできていた。しかしこれは10年以上前に出た本なので、いまとなっては情報が古すぎる。ネット時代の図書館オンライン化に対応した新しい利用ガイドが、待ち望まれていたのだ。本書はまさにそのニーズにこたえたものである。

 入門書として書かれたものなので、私のような「図書館オタク」にはいささか物足りない。ただし、図書館初心者――「あー、卒論書かなくちゃ。でも図書館で何をどう調べたらいいんだろ?」という学生など――が読む分には、すこぶる役に立つ内容だと思う。

 難を言えば、記述のウエイトがアカデミックな分野の情報検索に偏りすぎている。
 あたりまえの話だが、図書館での調べものは、何も学術論文を書くためにだけなされるわけではない。もっと下世話な調べもの、たとえば我々ライターが雑誌記事を書く場合の調べものには、また別の作法とコツがある。そのへんが、本書にはスッポリ抜け落ちていると感じた。

 それと、実用書なのだから平明な実用的記述に徹すればよいものを、著者の文章には無駄な装飾が多すぎるし、図書館に対する過剰な思い入れが鼻につく。たとえば――。

「資料・情報を探索する世界で戦い抜くには、ボクサーがジムでトレーニングを欠かさないように、不断に探索の訓練が必要になる」
「常に自分自身の鉱脈を鶴嘴で掘り当てようとするモチベーションを保持すること。このモチベーションの持ち方こそが、図書館利用の巧拙を決める最終的なポイントになる」

 巌流島じゃあるまいし、たかが図書館の利用法について書くのに、何をこんなに力んでいるんだろう、この著者は。

 そんなふうにケチをつけたくなる部分もあるが、全体的にはなかなかためになる本である。
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『父、帰る』

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コンスタンチン・ラヴロネンコウラジーミル・ガーリン

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 試写会で『父、帰る』を観た(映評の仕事である。以下はその原稿の下書きのようなもの)。
 2003年度のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)と新人監督賞を受賞した、9月公開のロシア映画だ。  →オフィシャル・サイト

 監督のアンドレイ・ズビャギンツェフはこれが第1作。デビュー作とは思えない堂々たる語り口に驚かされる。第1作でのヴェネチア映画祭グランプリ受賞は、史上初だという。

 ロシアの片田舎の夏。ある母子家庭に、失踪していた父親が突然帰ってくる。
 12年ぶりの再会。とはいえ、まだ少年の兄弟――アンドレイとイワンには、父親の記憶そのものがない。写真でしか知らないのだ。
 だが、父親は2人に「久しぶりだな」と言うのみで、空白などなかったかのように父親として振る舞い始める。

 どう接していいものか戸惑う兄弟に、父親は「明日から旅に出よう」と言う。そして、再会したばかりの妻を家に置いたまま、目的地を定めない短い旅に出発するのだった。
 そう、これはロード・ムービーなのである。ロシア産のロード・ムービーとは珍しい。てゆーか、初めて観た。ソ連時代には旅の前に当局の許可を得る必要があったから、ロード・ムービーを撮ること自体が困難だったのである。

 ロシア映画を観るのは、ものすごく久しぶりだ。
 そしてこの映画は、よくも悪くもきわめてロシア映画らしい作品。ハリウッド産の派手なエンタテインメントに慣れた目には、ゴツゴツした感触の“無骨な詩情”がすこぶる新鮮に感じられる。

 同じ骨子で日本映画を作ったら、父親と息子たちの言葉のやりとりで観客の涙腺を刺激する作品になるであろう。
 だが、この映画の父親はとことん寡黙で粗野、そして謎めいている。息子が反抗的な態度をとったら鉄拳で応じ、よけいなことは何一つ話さない。そして、旅の先々で出合うさまざまな出来事を通して、多くを語らぬまま息子を鍛えようとする。このへんはいかにも「ロシアの父親」という感じ。

 監督のズビャギンツェフについて、「タルコフスキーの再来」と評する声があるという。なるほど、水のイメージに満ちた映像の鮮烈な詩情、そして映画全体の神話的な骨格は、タルコフスキーの諸作を彷彿とさせる。

 スクリーンに映し出されるロシアの自然はどれも美しいが、荒涼とした寂寥感に満ちている。ことに、主舞台となる無人島や湖の風景は、どこか冥界を思わせる神秘的な深みを感じさせる。
 ロケ地となった湖は「ラドガ湖」だという。フィンランドとの国境近くに位置する、ロシア第2の湖である。まるで海のように見える巨大さに圧倒される。無人島も、湖の中にあるのだ。
 セリフの少ない映画だが、風景がセリフよりも雄弁に観客に語りかける。

 宣伝用チラシには、「あなたにとって家族とは、親子とは、そして父とは」というコピーがある。配給会社はこの映画を、「心あたたまる父子の情愛の物語」として売るつもりのようだ。
 しかし実際には、これはそんな甘っちょろい映画ではない。むしろ、少年2人が父親を乗り越えて大人になっていく「イニシエーション(通過儀礼)」の物語であり、「オイディプス王」を彷彿とさせる恐ろしくも重厚な悲劇なのである。

 とくに、終盤の展開は衝撃的だ。「父子の葛藤が引き起こす悲劇」とだけ言っておくが、度肝を抜かれた。

 兄弟を演ずる少年2人は、いずれも目を瞠る好演。とくに弟役のイワン・ドブロヌラヴォフは、当時13歳とは思えない達者な演技を見せる。
 兄役のウラジーミル・ガーリンは、なんと本作の公開前に亡くなったという。この映画の主舞台となったラドガ湖に友人と遊びに行った際、不慮の事故で溺死したのである。なにやら因縁話めいている。
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絶句……。

 今年の夏は、我が家と周囲に次々と「事件」が起こる。

 先日息子が骨折したと思ったら、こんどは静岡からの帰り道で妻子が交通事故を起こした。
 自損事故だし、妻子にまったくケガはなかったのだが、車の鼻先がグシャグシャ。保険で直せるとのことだが、60万円相当の修理だという。

 そして、今日はさらに大きな衝撃をもたらす事件が……。
 
 ことの起こりは一週間ほど前。マンションのベランダと外に面した廊下に、異様な臭気が漂い始めた。
 生ゴミが腐ったような臭い。配水管に大きなネズミの死骸でも詰まって、この暑さで腐敗してしまったのだろうか――そう思った。

 臭気は日を追って強くなり、マンションのほかの住人も「臭い、臭い」と騒ぎ始めた。
 不思議なことに、その臭気はマンションの南側に部屋のある住人だけが感じ、反対側の住人は「べつに臭くない」と言うのだった。しかも、階が下になるほど臭気が強まるようなのだ。

 1階の南端の部屋には、病気がちの中年独身男性が住んでいた。しかも、その男性の姿を最近見かけない。
「もしかして……」
 
 私たち住人は言いかわした。
「〇〇さん、入院でもしたんじゃないの?」
「ああ、そうかもね。それで部屋の生ゴミが腐って……」
 ほんとうは最悪の予想のほうが強く心に浮かんでいたのだが、それを口に出すのがはばかられたのだ。

 そして、今日――。
 警察立会いのもと、管理会社が合鍵で男性の部屋を開けてみたところ……。

 亡くなっていたそうである。

 ああ、衝撃。こういうことが私の住むマンションで起こるなんて……。
 警察によると、推定死亡時期は8月初め。記録的な猛暑もあって、遺体は「原型をとどめていなかった」という。

 ここ一週間ほどベランダや廊下に出るたびに鼻をついた異臭が、しばらく脳裏から離れそうにない。我が家は5階。それでも、すさまじい臭気が下から立ちのぼってきていた。    
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サミュエル・ハンチントン『分断されるアメリカ』



 サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳『分断されるアメリカ』(集英社/2940円)読了。

 世界的ベストセラーとなり、賛否両論を巻き起こした『文明の衝突』の著者(米ハーバード大学教授/国際政治学者)の新著。内容も『文明の衝突』の延長線上にある。西欧文明とイスラム文明の衝突は不可避であるとした『文明の衝突』が米国の外からの危機への警鐘であったのに対し、本書は米国内部、ひいては米国民の心中に起こる「文明の衝突」の危機に警鐘を鳴らすものなのである。

 原題は「Who are we?」――すなわち、「我々(アメリカ人)は何者か?」。超大国アメリカが、いま、そう問わざるを得ないほどナショナル・アイデンティティ(国民としての自己同一性認識)の危機にさらされていると、著者は言うのである。
 その危機をもたらす要因として、著者はたとえば次のような事柄を挙げる。

●米国文化に同化しようとする意識に乏しいヒスパニック(スペイン語を話すラテンアメリカ系市民)、とくにメキシコからの移民の急増によって、米国が二言語・二文化の国になりつつあること。

●「民族同士の分離や従属関係は除々に過去のものと」なり、異なる人種間の結婚も大幅に増えて、人種や民族性がアイデンティティの基盤になりにくくなったこと。

●経済のグローバル化を反映して、米エリート層の国家への帰属意識が急激に薄れつつあること。一般大衆は総じて愛国心が強いが、そのために大衆とエリート層の間には深刻な分断が生じている。たとえば、「エリートや政府の指導者は国際貿易の障壁を減らすことに賛成する主張を展開するが、アメリカの大衆は執拗に保護貿易主義者でありつづける」というふうに……。

 本書の前半で、著者は建国以来の米国史を振り返り、その特異なナショナル・アイデンティティが形成されるまでの歩みを詳細に跡づけていく。著者は、「アングロ-プロテスタント文化」こそ米国のアイデンティティの中心を成すものであり、それは南北戦争、第一次・第二次世界大戦という三つの戦争によって強化された、と言う。

 この前半は、アメリカ文化論としてなかなか面白い。
 しかし、後半はかなり反動的で、読んでいて不快であった。

 なるほど、著者が言うとおり、アメリカはWASP(白人で、アングロサクソン人種で、プロテスタントのキリスト教徒)が作った国であり、いまもエリート層の大半をWASPが占めているだろう。
 だが、だからといって、「アングロ-プロテスタント文化」だけが正統的なアメリカ文化で、それ以外は低い文化だということにはなるまい。もちろん著者もストレートにそう主張しているわけではないのだが、随所で言外にそう匂わせているのだ。

 たとえば、第9章「メキシコ移民とヒスパニック化」は、急増するメキシコ移民のことをまるで米国を侵食するウイルスであるかのように言う内容。
 “メキシコ移民は平均所得が低く、子どもたちも学力が低い。そのうえ英語を学ぼうともしない”などと、さまざまなデータを並べてまで強調するさまにウンザリした。
 だいたい、アメリカの国土の一部はメキシコから奪い取ったものなのだから、移民の大量流入という形でメキシコ人が国土を「取り戻した」としても、因果応報というものではないか。

 周知のとおり、著者の『文明の衝突』は、発表直後から学界でさまざまな批判を浴びた。その中には、たとえば次のようなものがあった。
「ハンチントンは『文明の衝突』の中でイスラム文明と中国文明を敵視するが、そこには“文化的な偽装を施したレイシズム(人種主義)”が潜んでいる」

 この批判は、本書にもそのままあてはまる。
 訳者あとがきによれば、ハンチントンは、「同姓同名の祖先が独立宣言に署名しているほどに由緒ある家柄」に生まれたWASPエリートなのだという。だからというわけでもあるまいが、この人はやはり危険なレイシストだと思う。今回の主要ターゲットは、「米国のアングロ-プロテスタント文化」を脅かすヒスパニック系移民というわけだ。

 思わず目を疑うアブナイ記述も散見される。たとえば――。
「イスラム教徒はますますアメリカを敵と見なしている。それが避けられない運命であれば、アメリカ人にとって残された唯一の道はそれを受け入れ、それに対処すべく必要な方策をとることだ」

「アメリカへのテロ攻撃がくり返され、多くの動員をともなわなければ、ナショナル・アイデンティティの顕著性と国民の結束はそれなりに高いレベルで保持できるだろう」
 危機に陥っているナショナル・アイデンティティを再び高めるためなら、多少テロ攻撃に遭うくらいはやむを得ない、とでも言いたげである。

 異なる文明・文化に対する恐怖を煽り、アメリカを「分断」させようとしているのは著者のほうではないか。
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米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

  嘘つきアーニャの真っ赤な真実の画像

 米原万里著『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫/552円)読了。

 ロシア語通訳にしてエッセイストの著者が、チェコスロバキアの「在プラハ・ソビエト学校」に通った少女時代に材をとった連作ノンフィクション。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だ。

 ノンフィクション作品は、初めからノンフィクションにすべく取材活動をして書くものと、書き手自らの特異な体験を作品化するものに大別できる。
 本書はもちろん後者。1960年代に、東欧の社会主義国で少女時代を過ごした日本人――これだけですでに十分すぎるほど特異で、名エッセイストの誉れ高い著者が当時の体験を綴れば、面白い作品になることは保証つきだ。

 しかもこの作品は、たんに少女時代の思い出を綴ったものではない。中年に達した著者が再び激動の東欧を訪れ、音信が途絶えた当時の親友たちを探す過程も同時に描かれるのだ。

 50ヶ国以上の子どもたちが集っていたという「在プラハ・ソビエト学校」の、個性あふれるクラスメートたち。その中から本書の主人公となるのは、ギリシャ人のリッツァ、ルーマニアの要人の娘アーニャ、クラス1の優等生でユーゴスラビア人のヤスミンカの3人。
 3人それぞれと再会を果たすまでのプロセスと少女時代の思い出が、各1編のノンフィクションになっている。「リッツァの夢見た青空」「白い都のヤスミンカ」、そして表題作の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。

 40年の時を経て3人を探し当てるプロセス自体がミステリーのようで、興趣尽きない。3人が歩んできた、三者三様の過酷な人生。その背後に東欧の激動の現代史が浮かび上がるという構成も見事だ。
 解説で斎藤美奈子が言うとおり、「個人史の本も、現代史の本も、個別に存在してはいるものの、両者を見事に融合させたという点で、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はまれに見るすぐれたドキュメンタリー作品に仕上がった」のである。 
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長嶋有『パラレル』


パラレルパラレル
(2004/06/26)
長嶋 有

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 長嶋有著『パラレル』(文藝春秋/1429円)読了。

 『猛スピードで母は』で世に出た、私のひいきの作家の最新作。
 帯には「著者初の長編」とあるが、前作『ジャージの二人』も実質的には長編(二つの中編という形になっているが、実際には一つのストーリー)なんだけどね。ま、いいけど。

 相変わらずの「長嶋有節」が堪能できる、危なげのない作品。

 品のよいユーモア。場面設定の巧みさ。人間関係の「距離感」をデリケートにとらえる精緻な心理描写。なにげない日常を味わい深く描くディテールへのこだわり。携帯電話やメールなどの現代的な小道具の使い方のうまさ。そうした長嶋有の美点は、本作でも全開である。

 長嶋有は、2冊目の作品集『タンノイのエジンバラ』あたりから、モラトリアム人間を執拗に描きつづけてきた。失業中の若者、不倫のゴタゴタからピアノ教師をやめて腰掛け的にパチンコ屋で働く女性、仕事を辞めてなんとなく作家を目指す男など、人生を足踏みする「ダメダメ」な男女を主人公に据えつづけてきたのである。

 本作もしかり。主人公の向井七郎は元ゲームデザイナーだが、現在失業中。そのいい感じのダメダメっぷりが、いかにも長嶋有らしい。
 いまどきの熱度の低い20代・30代を、長嶋有ほどリアルに描ける作家はいないと思う。

 ただ、この『パラレル』は、そこそこ面白かったけれど食い足りなかった。身もふたもない言い方をしてしまうと、「相変わらずの長嶋有節」にもう飽きてきた。
 ファンだからこそ苦言を呈したいのだが、そろそろ新境地を開拓しないと、作家として生き残っていくのは難しいのではないか。

 この『パラレル』は、長嶋作品としては初めてセックス・シーンが出てきたり(彼のことだから生々しいものではない)、過去と現在の技巧的なカットバックが多用されたりと、新しい試みもしている。しかし、その新しさが小手先の工夫にとどまっていて、マンネリ感の打破に結びついていない。

 なにより、作品全体の雰囲気が前作『ジャージの二人』と瓜二つで、私から見るとそれが大きなマイナス・ポイント。

 前作の主人公は仕事を辞めて小説を書いている男で、妻の浮気から離婚寸前。
 本作の主人公は失職中の元ゲームデザイナーで、妻の浮気から離婚したものの、元妻とは友達としての関係をつづけている。
 また、前作の主人公と父親の関係も、本作の主人公と親友・津田の関係と相似形である。

 似ているのは基本設定と雰囲気だけだが、たった4冊目の作品集で前作と似たような作品を書くようでは、作家としての「引き出し」が乏しすぎると思う。長嶋有、要充電である。
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岩井志麻子『偽偽満州』

  偽偽満州(ウェイウェイマンジョウ)の画像

 岩井志麻子著『偽偽満州(ウェイウェイマンジョウ)』(集英社/1300円)読了。

 岩井志麻子の小説を読むのは、デビュー作の『ぼっけえ、きょうてえ』以来だ。
 『ぼっけえ、きょうてえ』は、収録された4編がすべて傑作という離れ業をやってのけた極上の短編集だった。私は「あまぞわい」という短編がとくに気に入って、何度も読み返したものだ。

 その後、岩井は自らの奔放な性生活をあけすけに語ることで面白がられ、イロモノ的な売れっ子になってしまったけれど、小説家としての才能も十分にもっている人だと思う。

 この『偽偽満州』は、昭和初期の岡山と満州を舞台に、美貌と性技を武器にしたかかに生き抜いていく娼婦・稲子を主人公にした長編。

 稲子は、次のような一節に象徴される女だ。

「伊達に十五の時から、修羅を生きてきた訳ではない。むしろ稲子は、安穏とした生活や呑気な日々は、退屈で死にたくなる。常に争って逃げて追っていないと、生きている悦びは湧いてこない」

 男を利用することしか考えていなかった稲子が、ある日客としてやってきた男に本気で惚れてしまう。どこかまがまがしい雰囲気をもつ男の正体は、「ピストルの完治」、略して「ピス完」という二つ名をもつ強盗であった。

 男に命じられるまま稲子は遊郭から逃げ、2人は満州に渡る。だが、やがて男はひそかに稲子を娼館に売り飛ばして逃げてしまう。
 それでも、復讐というよりは愛しつづけるために、殺人を犯してまで男を追う稲子。その逃避行の先々で出会う、ひと癖もふた癖もあるキャラの立った登場人物たち。そして、稲子はついに男と再会するのだが……。

 じつに岩井志麻子らしい、濃密なエロティシズムとおどろおどろしさに満ちた作品で、読みだしたらやめられない面白さ。
 ただ、物語の前半と後半でかなりトーンが異なるので、それを構成の破綻ととらえるか否かで評価が分かれるだろう。

 後半になって、娼婦たちが夢の中だけで男と寝る不思議な娼館(娼婦は客と添い寝するだけなのだが、「淫夢」を見させて十分な性的満足を与える)が舞台になるあたりから、一気に幻想味が強くなるのだ。

 私は、前半、後半とも面白く読んだ。
 稲子の人間像が魅力的だし、彼女があやつる岡山弁もいきいきと躍動していて、読んでいて心地よい。昭和初期の中国大陸の様子も、よく描けている。
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小田嶋隆『日本問題外論』

日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか
(1998/02)
小田嶋 隆

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 小田嶋隆著『日本問題外論』(朝日新聞社)読了。
 私はオダジマの著書は9割方読んでいるのだが、これは読み逃がしていた1冊(刊行は1998年)。図書館で見つけて、さっそく借りてきた。

 オダジマの著書は、どれも高水準のサタイア(風刺)コラム集である。本書も例外ではないが、ただ、いつになく陰鬱なトーンのコラムが多い。文章にこめられたアイロニーと毒が笑いとして爆発せず、むしろしんみりしてしまう印象なのだ。
 つねならぬ暗さは、本書のコラムがどれも、オダジマ自身の「アル中末期から禁酒開始期にまたがる時期」に書かれたものであることによるのだろう。

 そう、オダジマはこのころまで、故・中島らもと並び称されるほどのアル中であった。その後見事禁酒を果たしたのだが、本書に収められたコラムを書いたころには、「アルコールで無理やり作る躁状態」から遮断されることにまだ慣れておらず、鬱に近い状態だったのであろう。
 だから、いつものオダジマほどはじけておらず、ちょっと中島らも風味。らもファンならきっと気に入るコラム集だと思う。

 そういえば、中島らもが亡くなったとき、誰もオダジマに追悼文を頼まなかった(少なくとも私は目にしなかった)のはどうしたことだろう? らもの追悼文の書き手として、オダジマほどふさわしい人はいないと思うのだが……。

 ちなみに、私がオダジマのコラム集のベスト5を選ぶと、次のようになる。

1位『安全太郎の夜』(河出書房新社)
2位『我が心はICにあらず』(光文社文庫)
3位『仏の顔もサンドバッグ』(宝島社)
4位『山手線膝栗毛』(ジャストシステム)
5位『かくかく私価時価』(BNN)
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掛川花鳥園


 静岡から戻ってきた。
 骨折した息子は包帯とコルセットの痛々しい姿だが、とりあえず退院。痛みもないようだ。

 海にもプールにも行けなくなってしまったので、今日はせめてものレジャーということで、掛川市の「掛川花鳥園」というところへ家族で遊びに行った。

 花鳥園のサイト→ http://www.kamoltd.co.jp/kke/

 ここは、けっこうよかった。
 鳥類に特化した動物園のようなところなのだが、「花鳥園」の名のとおり、熱帯の花々が咲き乱れる環境(施設全体が巨大な温室のようになっている)の中に珍しい鳥たちが放し飼いにされているのだ。

 色とりどりの熱帯性スイレンなどの花々、極彩色の鳥たち。しかも、鳥たちはよく慣らされていて、来場者の肩や手に乗ったりしてくるし、エサやりもできる。

 ペンギン(南アフリカのペンギンで、暑くても平気な品種)やエミュー(ダチョウみたいな大きな鳥)もいて、私も初めて触れた。ペンギンの毛皮は、まるでビロードのような触り心地である。

 珍しいフクロウもたくさんいて(これらはさすがにケージの中)、こちらも一見の価値あり。

 べつに花鳥園に何の義理もないが、子ども連れで行くにはもってこいのレジャー・スポットとしてオススメだ。


 行き帰りの新幹線で、計4冊の本を読了(といっても、どれも読みやすい軽い本である)。
 長嶋有の『パラレル』、岩井志麻子の『偽偽満州』、米原万理の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、小田嶋隆の『日本問題外論』(これのみ少し古い本)の4冊。

 感想をいっぺんに書くのはシンドイので、明日から1冊ずつ書こう。
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夏の骨折


 まだまだ修羅場ってます、が……。

 じつは一昨日、息子(6歳)が腕を骨折してしまった。
 それも、よりによって妻子で帰省している先(静岡)で。

 ソファーの上を飛び跳ねてふざけていたときにバランスを崩して落ち、その際にポキッとやってしまったらしい。

 あまりに痛がるので「脱臼でもしたのだろうか」と思った妻が「自分で病院に連れて行かないほうがいい」と判断して救急車を呼んだところ、じつは折れていた、というしだい。即入院である。

 息子は帰省先で海に行ったり川へ釣りに行ったりするのを楽しみにしていたのだが、それどころではなくなってしまった。
 カワイソウだが、これはこれで「忘れられない夏休み」になることだろう。
 なにしろ、人生初の骨折・初の救急車乗車・初の入院・初の手術を一度に体験したのだから。

 手術といっても、メスは入れず、折れたところを手技できちんと合わせるだけのものだそうだが、それでも全身麻酔をしたとか(麻酔しないと痛くてダメなのだろう)。

 というわけで、私も静岡へ行ってきます。ったくもう…。
 骨折した当人はいたって元気だそうだし、「あと2、3日で退院」の見通しだそうなので、ご心配なく。


 ところで、タイトルに「夏の」とか「冬の」とか季節の名をつけると、あとにつづく言葉がなんであれ、それなりにさまになってしまうのはフシギである。
 たとえば、矢作俊彦の小説に「夏のエンジン」というのがあるが、「エンジン」というおよそ風情に欠ける言葉も、「夏の」とつくとなんとなく詩的に思えたりする。

 「夏のテロリスト」「夏の遺伝子」「夏のヴァイオリン」「夏の神様」「夏の惑星」「夏の猫」「夏のシェイクスピア」……と、これらはいま私がテキトーにくっつけてみたものだが、どれもなんとなく小説とかのタイトルにありそうでしょ(『夏の猫』ってのは、日向敏文のアルバムにあったな)。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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