中野晴行『マンガ産業論』

マンガ産業論マンガ産業論
(2004/07/10)
中野 晴行

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 中野晴行著『マンガ産業論』(筑摩書房/1600円)読了。
 日本の戦後マンガ史を、産業としての側面に光を当てて振り返ったもの。

 こういう本は、ありそうでなかった。
 広義の類書としては、吉弘幸介の『マンガの現代史』(丸善ライブラリー)、清水勲の『漫画の歴史』(岩波新書)、村上知彦らの『マンガ伝』(平凡社)などがある。
 ただ、前の2つはマンガの歴史を総花的に扱ったものだし、『マンガ伝』は作家・作品にしぼったマンガ史だ。本書のようなまとまった「マンガ産業史」は、おそらく本邦初であろう。労作であり、資料的価値も高い。

 これは、かなり読者を限定した本である。作家論・作品論を愛読するマニアックなマンガ・ファンであっても、「『産業としてのマンガ』になんて興味がない」という人が大半だろうから……。
 私の場合、マンガ評はライターとしての得意分野の一つだから、職業上の必要もあって面白く読んだ。

 マンガ産業は1960年代後半から急激に膨張し、90年代半ばにピークを迎え、いまは衰退期に入っている。その約40年の興亡の歴史を、著者は過剰な思い入れを排したクールな筆致で綴っていく。

 書名とは裏腹に「論」としての色合いは希薄で、むしろ具体的事実の記述のほうが主である。
 著者もあとがきで認めるとおり、マンガ産業全体を鳥瞰することに主眼を置いているため、個々のテーマについての掘り下げが甘いことは否めない。
 ただ、いろんな要素を手際よく盛り込んだバランスのよい「マンガ産業興亡史」として、非常によくまとまっている本だと思う。

 著者は元銀行員。マンガ評論を手がける者としては異色の経歴である。「産業としてのマンガ」に関する本書のクールな分析には、元銀行員ならではの視点が活きているのかもしれない。

 最後の第3部では、マンガ産業の未来についての展望が語られている。この部分は、熱心なマンガ・ファンならずとも、ビジネス書的興味から楽しめるだろう。

 現在マンガ産業が直面している危機は、出版界全体の危機とも重なり、さらには「パッケージ産業」(「本、CD、DVDなどのパッケージ・コンテンツを売る産業」の意)全体の危機とも重なる。著者が提起する、マンガ産業が孕むさまざまな問題点は、マンガ界だけの問題ではないのだ。 
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ライターの「ネットとのつきあい方」


 小説家・鈴木輝一郎氏のウェブ日記に、「本職の小説家を目指すためのインターネットとのつきあい方」なる一文があった(7月23日付)。 → http://www3.famille.ne.jp/~kiichiro/

 これがじつに「我が意を得たり」という内容で、小説家のみならずライターにもあてはまるものだ。

 鈴木氏は、小説家を目指すなら厳守すべき原則を列挙し、その理由を簡潔に説明している。たとえば次のような原則である。

1)匿名・記名にかかわらず、公開の掲示板に書き込まない。
2)自分のホームページは単純な構造にすること。自分の手元に控えをとること。
4)自分のホームページに掲示板を設置しない。
5)ブログは避ける。
6)1日あたりのインターネットにアクセスする時間・回数を決め、守る。(くわしくは鈴木氏の日記を参照されたし)

 いずれも首肯できる。
 要は「ネットに淫するな」ということであり、「書くための原動力たる表現意欲や自己顕示欲を、ネット上でムダに発散するな」ということだ。

 「書く」ということは、つねに孤独な営みである。
 とくに、深夜1人でパソコンに向かって文章を紡いでいると、誰かとコミュニケートしたくてたまらなくなる。ネット掲示板やブログのコメントのやりとりは、その寂しさを手っ取り早くまぎらす格好の手段だ。

 だからこそ、物書きの大敵でもある。
 奪われるのは時間のみではない。掲示板などに書き込みをし、それに対する反応があるだけで表現欲求が満たされてしまい、「書く意欲」が削がれてしまうのだ。

 鈴木氏は、同じ文中で次のように言う。

「とにかく、インターネットの世界はプロアマ関係なく、小説家にとって蠱惑的な麻薬です。同業者知人には『ネット環境から物理的に距離を置くため』だけにカンヅメやったりファミレスで原稿を書いたりしている例が多数ありますんでね」
「ネット内でアクティブな人ほど本職の小説家から遠ざかることだけは確実です」
「インターネットは、執筆のためには『いい愛人』ではありますけどね。そのためにすべてを捨てていいかどうか」

 「小説家」を「ライター」に置きかえれば、これはそのまま我々ライターに対する警告となる。

 私の場合、日記の引っ越しをしてから「ネット中毒」状態がかなり改善されたが、まだまだ改善の余地ありである。
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本の虫

 この一週間、仕事でバタバタしていてまったく本が読めない。じっくり本が読みたい。

 ……などと考えながら内田樹さんのブログを見てみたら、7月26日付の日記でご自身の「本の虫」ぶりを綴られていて、大いに共感した。 

「私は本を読まずにご飯を食べることができない」
「もちろんトイレに入るときは必ず本を読む」

 これらは私もやる。
 私は子どものころ、家庭では「本を読みながら食事をする」ことが親に許されていた。一度、いとこの家に遊びに行ったときにいつもの癖でつい「読みながら食い」をやってしまい、叔母に叱られたこともある。

 ピアニストの中村紘子さんは優れたエッセイストでもあるが、彼女もやはり「読みながら食い」の常習者だそうである。
 ご主人の庄司薫さん(作家。いや、「元作家・現主夫」かな)もそう。中村さんが庄司さんとの結婚を決めた理由の一つは、「私が食事をしながら本を読んでいても、怒らない人だから」というものだったという。

 もっとすごいのが、作家の大江健三郎氏である。
 どこで読んだ話だったかうろ覚えだが、大江氏は映画館で映画を観ることが嫌いなのだそうだ。「周囲が暗くて、映画を観ている間は本が読めない」からだという。
「映画を観ながら本が読めないのはあたりまえではないか」などというのは我々凡人の発想であって、天才には“本を読めない約100分の耐え難い空白”に思えるのだろう。

 ま、負けた……。そんな気分になる。
「本の虫」というのは、大江氏のような人にこそふさわしい“敬称”であろう。ここまで「本の虫」にならないと、世界的な作家にはなれないのだ。
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私の「独立記念日」2004

 
 今日は、法政大学教授の稲増龍夫さんを取材。稲増さんには、過去にも何度か取材させてもらったことがある。
 お会いするのはほとんど10年ぶりくらいだったが、私のことを覚えていてくださったのはありがたい。

 通常、「オタク第一世代」というと、1960年代初頭生まれを指すようだ。稲増さんはそれよりもう少し上の世代だが、敬意をこめて「元祖オタク」と呼ぶにふさわしい方である。
 GS(グループサウンズ)に関しては日本有数のレコード・コレクターであったり、アイドル研究の泰斗として知られていたり……。あの宅八郎の大学時代の「師」でもある。


 今日7月27日は、私の「独立記念日」である。17年前(1987年)の今日、23歳の私はフリーランスになったのだ。

 その前に1年間編プロにライターとして勤めていた期間があるので、それを含めれば、私のライターとしてのキャリアは18年を越えたことになる。

 ライターになって18年、フリーランスになって17年。私はほかのバイトを一切することなく、ライター稼業だけで生きのびてきた。
 26歳で結婚してからは、1馬力(「共稼ぎではない」の意)のまま妻子の生活費も筆一本で稼ぎ出してきた。我ながらよく生き残ってこれたものだと思う。

 「独立記念日」は、また1年生きのびた自分を寿ぐとともに、「ライターとしての初心を忘れてはいないか?」と己が心を点検する日でもある。
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田宮版『白い巨塔』再放送

白い巨塔 DVD-BOX3 ~誤診裁判第二審~ 白い巨塔 DVD-BOX3 ~誤診裁判第二審~
田宮二郎 (2001/11/22)
ジェネオン エンタテインメント

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 田宮二郎主演版の『白い巨塔』が、8月に再放送されるそうだ。

 唐沢寿明主演によるリメイク版が高視聴率を上げ、「オリジナル版も観たい」という視聴者の声が高まったため、四半世紀を経ての異例の再放送となったものである。

 私はあいにくリメイク版は観ていないのだが、田宮版は中学生のころ夢中になって観ていた。テーマ曲のシングル・レコードまで買ったほどだ(※)。
 最終回直前に田宮が衝撃的な猟銃自殺を遂げたため、最終回だけ視聴率が跳ね上がった。そんなこともあって、いっそう記憶に鮮明なドラマなのである。

※ちなみに、そのレコードのA面は「たそがれの都会(まち)」という田宮二郎の歌。これがすごいオンチ。『白い巨塔』の挿入歌として作られながら、ドラマの中ではけっきょく一度も使われなかったというが、それもうなずける(笑)。

 いま思い出しても、テレビドラマ史に残る名作であったと思う。
 なにより、役者たちがいい。終盤、財前五郎がガンになってからの田宮の演技は、本人に死の影がまとわりついているようですごい迫力だし、愛人役の太地喜和子にも凄みがあった。

 『白い巨塔』は、周知のとおり、大学病院のドロドロの権力闘争を描いた物語である。
 しかし、権謀術数渦巻く人間群像のなかに、時おり、「人間にはこんな崇高な一面もあるのだ」と感じさせる心温まる場面が挿入されている。また、権力闘争の渦中にある者たちが見せる意外な弱さ・人間臭さが、印象的な形で描かれてもいる。
 人間の描き方が重層的なのであり、そこにこそ『白い巨塔』の面白さがある。たとえば――。

 最終回の2回前くらいだったろうか、追いつめられて孤立した田宮二郎が、太地に手を差し出して「抱きしめてくれ」と目で訴える場面がある。その目が、幼い子どもが母親に庇護を求めるような目なのだ。そして、その田宮を抱きしめる太地は、愛人というよりは母親のようなのである。それが強く印象に残っている。
 冷酷非情な財前五郎が、そのときだけはとことん弱さをさらけ出し、まるで震える小動物のように見える。屈指の名場面といえよう。
 また、最終回、財前が昏睡のなかで実母の幻を見、「おかあさん!」と一声叫んで息絶えるシーンも忘れがたい。

 2つの場面を観るためにも、再放送を観ようと思う。
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自費出版雑感


 兵庫県のBさんからお中元をいただいた。

 Bさんは3年前に某社から著作を自費出版されたのだが、その際、私がゴーストライターとして文章を代筆した。私がBさんからお話をうかがい、その談話を本にまとめたのである。

 それだけのご縁なのだが、以来、中元と歳暮を欠かさず送って下さる。恐縮至極である。
 高額な費用をボッタくる自費出版詐欺が物議を醸している昨今だが、一方では、このようにお客さんが心底喜んでくれる良心的自費出版もあるのだ。

 てゆーか、費用が高くても、客がその価格に納得して喜んでくれるかぎり、それは「詐欺」とはいえない。一部の自費出版会社は、「これは傑作だ。ウチから出版すればベストセラーになる」などという甘言で誘い、“かなわぬ夢”をエサにして高額費用を出させる点こそが詐欺的なのだ。

 じつは私も、20年前の20歳のときに一度だけ自費出版をしたことがある。
 そのときは、高校時代の同級生の親がやっている印刷所に頼んで、100冊15万円の破格値で作ってもらった(最初の見積もりで30万円と言われたのだが、社長の息子の友人である旨を伝えたところ半額にしてくれたw)。

 もちろん書店配本などなかったし、ハードカバーでもなく、見栄えのする装丁でもなかった。しかし、私は十分に満足した。当時はまだワープロ普及前で、自分の文章が活字になるだけでうれしかったものだ。

 ちなみに内容は、短編小説・詩(ああ恥ずかしい)・エッセイ・音楽評論・マンガ評論などがごっちゃに入った雑誌のようなもの。要するに、私は当時からいまと同じようなことを書いていたのである。

 20年前とはいえ15万で自費出版した経験をもつ私には、「3ケタあたりまえ。200万円を超える高額自費出版も珍しくない」という昨今の相場は信じがたい。功なり名遂げた中高年ならまだしも、20歳そこそこの若者が、よくまあそんな金を出せるものだ。

 自分で稼いだ金なら何に使おうと自由だが、親に出してもらっているのだとしたら、親がかわいそうだ。
 だって、その自費出版は自己満足以外の何物でもなく、その本をきっかけに物書きとして世に出ることなど、まずあり得ないのだから……。
 「自費出版した本をきっかけに世に出た」ように見える物書きもいるにはいるが、そういう人は、たとえ自費出版しなくてもいずれは世に出た人なのだ。

 だいたい、ただ「自分の作品を人に読んでほしい」というだけなら、ウェブサイト上で公開すればよいことではないか。これなら基本はタダだ。いまどき本という形態にこだわる心理が、私にはよくわからない(って、ライターの私が言うのもナンだけど)。
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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』


ナポレオン 1―獅子の時代 (ヤングキングコミックス)ナポレオン 1―獅子の時代 (ヤングキングコミックス)
(2003/10/24)
長谷川 哲也

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 アマゾンに注文してあった長谷川哲也の『ナポレオン 獅子の時代』1~2巻(少年画報社/各524円)が届いた。

 1巻のカバーの絵を見てギョッとする。マンガの主人公とは思えないほど邪悪な表情をした、劇画タッチのナポレオン。

 ち、違う…。『コミックトムプラス』の『青年ナポレオン』のときと全然絵が違う。あっちは「古き佳き少年マンガ」って感じの絵だったのに、こちらは『北斗の拳』の原哲夫そっくりの暑苦しくも濃厚な絵柄なのである。 

 長谷川哲也の本来の絵柄はこっちなんだろうなあ。彼は原哲夫のアシスタント出身だから。

 絵はいまいち私の好みではないけれど、マンガとしてはなかなか面白い。
 原哲夫ばりの男臭~い絵で描かれた、勇壮なナポレオン伝。「池田理代子の『エロイカ』はちょっとな。ありゃあ男の読むもんじゃないぜ」という「漢」のあなたにオススメ。フランス国王やシャルロット・コルデーがギロチンで斬首される場面なんかも、すんごい迫力でギンギンに描いている。

 『青年ナポレオン』は基本的に史実に基づいていたけれど、こちらの『ナポレオン 獅子の時代』は長谷川哲也の創作部分が前面に出ている。
 ナポレオンの軍事の天才としての側面を強調した、「アクション・マンガ」といってもよい内容。豪快さの中にときどき笑いもあって(このへんも原哲夫風味)、悪くない。

 でも、やっぱり私は『青年ナポレオン』のほうが好きだ。単行本化熱烈待望!
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『北京ヴァイオリン』

   北京ヴァイオリン 特別プレミアム版の画像

 作家の中野孝次氏が亡くなった。
 私は、この人が山のように出していた“生き方本”のたぐい(『清貧の思想』など)には、微塵も興味がない。
 が、1987年刊行の短編集『ある中国残留孤児の場合』には、震えるような感動を覚えた。当時はもっぱら若者向けの小説を読んでいた私にとって、もしかしたら、初めて触れた「本物の大人の文学」であったかもしれない。
 
 アマゾンで検索してみたところ、『ある中国残留孤児の場合』は文庫化もされていないようだし、新刊書店では入手困難だろう。
 小説好きな人には絶対オススメ。図書館などで探してぜひお読みいただきたい。
 私がとくに好きだったのは、子どもができないまま中年にさしかかった夫婦を描いた「受胎告知」と、写真週刊誌のカメラマンを主人公にした「ポケットベル病」。

 中野氏のご冥福をお祈りしたい。


 DVDで、チェン・カイコー監督の『北京ヴァイオリン』を観た。
 渋谷の「ル・シネマ」でロングラン・ヒットとなった作品。福田和也がエッセイで絶賛していたのを読んで「観たい」と思ったのだが、映画館では観そこなってしまったもの。

 予想以上によい映画だった。
 「文部科学省推薦」みたいな人畜無害のお涙ちょうだい映画を想像していたのだが、その想像はプラスの方向に外れた。
 適度な毒気もあって、じつに愉しい作品。笑いあり、涙あり、中国映画に許された範囲の軽いエロティシズムもあり。

 なんだか、中国映画というより、古き佳き日本映画を思わせる作品。

 きちんと感想を書きたいのだが、シメキリが山積みなので(「だったら映画なんか観てんじゃねーよ!」って感じですね)、また後日改めて。
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『松本サリン事件報道の罪と罰』



 河野義行・浅野健一共著『新版 松本サリン事件報道の罪と罰』(新風舎文庫/1091円)を購入。
 元本は1996年に第三文明社から出たもの。今年は松本サリン事件から10年目の節目にあたるため、加筆して新たに文庫化されたものである(以前講談社文庫にも入っていた)。

 両著者が最近行なった講演・対談・シンポジウムの内容が抄録されていたり、さまざまな資料が加えられていたりして、元の単行本の倍以上のボリューム(567ページ)になっている。
 日本の大手メディアのほとんどが「加害者」となった、まれに見る報道被害の全貌を明かした貴重な文献。ジャーナリズムにかかわるすべての人に一読をすすめたい。

 ところで、版元の新風舎は、自費出版をおもに扱う会社として知られている。
 「新風舎文庫」のほかのラインナップを見ると、ノンフィクションのよい作品が並んでいる(矢田喜美雄の『謀殺 下山事件』、浅野健一さんの『犯罪報道の犯罪』など)。講談社文庫からライトグリーンのカバーで出ていた一連のノンフィクションを「引き取っている」という感じ。

 入手困難となった地味な秀作ノンフィクションを文庫で再刊し、自費出版でボロ儲けしたお金を「社会に還元」しようということなのだろうか。
 だとすれば、詐欺まがいのボッタクリ自費出版で儲けることしか考えていない同業他社(どことは言わないが。ちなみに、実際に自費出版した人に聞いたところ、碧天舎はわりと良心的らしい)よりは殊勝な心がけといえよう。

 ま、イジワルな見方をすれば、「ウチはこんな社会派の本も出している良心的な出版社なんですよ~」とアピールし、自費出版の客を引き寄せるための“広告塔”とも思えるのだが……。
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『トゥルーマン・ショー』

トゥルーマン・ショーの画像


 『トゥルーマン・ショー』をビデオで観た。

 1998年の映画。『ガタカ』『シモーヌ』という2つの監督作ですっかり気に入ってしまったアンドリュー・ニコルが脚本を書いているので、いまさらながら観てみたしだい。
 監督は、傑作『刑事ジョン・ブック/目撃者』のピーター・ウィアー。

 主人公トゥルーマン・バーバンク(ジム・キャリー)は、保険会社に勤める平凡なサラリーマン。
 だが、じつは彼の人生は、生まれた直後からずっと『トゥルーマン・ショー』というテレビ番組として全世界に放映されていた。妻や両親をはじめとした周囲の人物は全員、その番組に出演する「役者」であり、彼の暮らす島自体が巨大なドームでおおわれた「セット」だったのだ。

 どんなフィクションもかなわない「生の人生ドラマ」の迫力によって、『トゥルーマン・ショー』は全世界にファンをもつ超人気番組となっていた。だが、トゥルーマン本人だけが、彼の人生が「番組」となっていることを知らない。

 「放映」開始1万日を超えた『トゥルーマン・ショー』だが、トゥルーマンは少しずつ周囲に違和感を覚えるようになり、作られた日常に“反逆”を始める……。

 筒井康隆の『俺に関する噂』など、同工異曲のアイデアをもつ作品はSFの世界に少なくないが、この映画はそのアイデアの徹底度がすごい。
 平凡な男の人生を何十年にもわたって24時間放映しつづける、一つの島全体が巨大なセットであるテレビ番組! そんな突拍子もないアイデア、ふつうなら思いついても映画にしようとは思うまい。

 『ガタカ』も『シモーヌ』もそうだったが、アンドリュー・ニコルという人の着想力は突出している。そして、その奇抜な着想をきちんと観客を納得させる物語に仕上げるのだから、大したものだ。

 これは、彼の監督第2作『シモーヌ』と対になっているような作品だ。『シモーヌ』は、CGで作ったヴァーチャル女優が実在の女優としてカリスマ的人気を得てしまう悲喜劇を描いていた。この『トゥルーマン・ショー』もまた、ヴァーチャルとリアルの間のあいまいな境界を、痛烈なアイロニーをこめて見つめた作品なのである。

 グロテスクなファンタジーだが、作品の底には現実のマスコミ報道に対する皮肉がある。たとえば、曽我さん一家の一挙手一投足を執拗に追いつづけるマスコミの報道姿勢は、この『トゥルーマン・ショー』が描いたディストピアから、それほど遠くないはずである。

 前半はブラック・ユーモアが主調をなしているが、後半になると観客はしだいにトゥルーマンに感情移入してしまい、最後にはホロリとさせられる。このへんの自然な転調も見事。
 また、主人公の人生をコントロールする『トゥルーマン・ショー』の番組プロデューサーが、ラストに近づくにつれて「神」のメタファーに見えてくるあたりも、なかなかすごい。“哲学的娯楽映画”ともいうべき味わいがある。
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ザ・フー来日

   ザ・フー―THE WHO:Amazing Journey in 40Yearsの画像

 ザ・フーの初来日コンサートって、もう来週なんだ。私は行けないけど(泣)。

 私が生まれた年(1964年)に結成された、まさに「ロックの生ける伝説」ともいうべきバンドである。
 オリジナル・メンバーのうち2人(キース・ムーンとジョン・エントウィッスル)は、すでに他界。リンゴ・スターの息子ザック・スターキーなどと一緒に久々のニュー・アルバムを制作中だと聞いたけど、今回の来日もそのメンバーなのかな。

 ビートルズやローリング・ストーンズと並び称される超大物バンドなのだが、どういうわけか日本では、ストーンズなどと比べて評価も知名度もはるかに劣る。
 ストーンズの初来日コンサートのときは日本中が大騒ぎになったのに、いまザ・フーの来日で騒いでいるのはコアなロック・ファンだけだ。

 私は、大仰な「ロック・オペラ」とかをやり始めてからのザ・フーよりは、初期の乾いたロックンロールが好きだな。
 「パンク・ロックの源流の一つ」として評価された初期のザ・フーだが、その音楽はいま聴いてみると意外なほどポップである。名曲「キッズ・アー・オールライト」で聴かせるハーモニーなど、ほとんどビートルズだし。

 来日を記念して新しいベスト盤も出たけど、初めてザ・フーを聴く人には2年前に出た2枚組ベスト『アルティメイト・コレクション』のほうがオススメ。いい曲てんこ盛りだ。

ちなみに、私が好きなザ・フーの曲ベスト5を挙げると……。

 1.バーゲン
 2.リアル・ミー
 3.マイ・ジェネレイション
 4.キッズ・アー・オールライト
 5.無法の世界
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『キリスト教文化の常識』

キリスト教文化の常識 (講談社現代新書)キリスト教文化の常識 (講談社現代新書)
(1994/10)
石黒 マリーローズ

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 石黒マリーローズ著『キリスト教文化の常識』(講談社現代新書)読了。
 レバノンに生まれ育ち、結婚して日本に住むようになった著者(英知大学教授)が、「キリスト教文化の常識」を日本人にわかりやすく教えてくれる本だ。

 教義や神学についての小難しい解説は抜き。欧米人の暮らしの中にキリスト教文化が深く根づいている様子が、具体的な事例の積み重ねで語られていく。たとえば、英語の慣用句や欧米の人名に聖書由来のものがいかに多いか、などという事例である。

 刊行は1994年。なぜいまごろ読んだかというと、先日読んだ瀬戸川猛資の『シネマ古今集』の中でこの本が紹介されて、面白そうだったから。著者は映画通で、“映画の中に息づくキリスト教文化”についてかなりの紙数を割いて語っているのである。

 著者も言うとおり、「欧米の映画なら、キリスト教的な情景がまったく出てこない映画の方がむしろ少ない」のだが、そうした部分は我々日本人にはピンとこない場合が多い。
 たとえば、「ゴッドファーザー」というと、同名の映画の印象から「マフィアの大ボス」を指す言葉だと思っている日本人が多い(私もそうだった)。
 しかし、じつはこれはマフィアにかぎらず「大きな一族の中心となる人物」を指す言葉なのだ。一族に子どもが生まれた場合、「神と教会に代わって」その子の名づけ親となることから「ゴッドファーザー」と呼ぶのだという。

 このように、映画のディテールからカルチャー・ギャップを浮き彫りにしたくだりが、なかなか面白い。

 そのほか、印象に残ったくだりをメモしておこう。

 「レバノンにいた頃、夜のミサに来ていた一人のアメリカ人女性と知り合いました。彼女といろいろおしゃべりしているうちに、彼女が、明日エルサレムに行く予定なのにカメラがこわれてしまったことを知りました。そこで私は、彼女に自分のカメラを貸してあげると申し出ました。彼女はびっくりして、見も知らぬ他人にどうしてカメラを貸せるの、といいました。私は、忙しい旅行中にもきちんと夜のミサに出席するような人なら信頼できるから、といいました。エルサレムで写真をとることが彼女にとってどんなに大事か、とれなかったらどんなに悲しいかよくわかるからです」

 アメリカには「ハンド・ホルダー」という風変わりなボランティア活動があるという。これは、たとえば病院で手術中の患者の不安や痛みを軽減するために、ずっと手を握ったりさすったりしてあげるボランティア。この「ハンド・ホルダー」が医師から拒まれることはほとんどないという。
 
 著者は、ルワンダからの難民であふれかえったキャンプでボランティア活動をするカトリックの尼僧たちの姿をリポートしたテレビ番組について書いている。
 飢えと疫病で地獄の様相を呈しているキャンプ内を見て、「フランス2」(テレビ局)の記者は思わず言う。
「これでも神は存在するのでしょうか?」
 尼僧の一人は即座に、世話している病人たちを指して答えたという。「ええ、もちろん。この人たちは天使ですよ」と……。
 著者は言う。
「私は、ここにボランティア活動が持つ深い意味と宗教につながる心を感じ取り感動しました。そしてこのように話せる彼女たちこそ天使に見えてきたのです」

 ――3つのエピソードはいずれも、欧米においてはキリスト教がモラルの基盤となっていることを示して感動的である(もっとも、近年はその基盤も崩壊しかかっているのだろうが)。
 日本人はとかく宗教蔑視の傾向が強く、宗教のことなど何もわかっていない週刊誌記者などが、浅薄な宗教観を振りかざして「宗教イコール悪」であるかのような物言いをする。日本人は(とくにマスコミは)、宗教の肯定的側面にもっと目を向けるべきだろう。 
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石井政之編著『文筆生活の現場』


文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション (中公新書ラクレ)文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション (中公新書ラクレ)
(2004/07)
石井 政之

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 石井政之編著『文筆生活の現場/ライフワークとしてのノンフィクション』(中公新書ラクレ/780円)読了。

 12人のノンフィクション・ライターが、仕事の舞台裏・実情をセキララに明かした1冊。従来のノンフィクション入門/ライター入門が正面切っての言及を避けてきた、“書く仕事の経済的側面”にウエイトを置いている点が特長だ。

 登場するのは、佐野眞一・武田徹・大泉実成・斎藤貴男・江川紹子・藤井誠二など。失礼ながら、12人のうち4人は私のまったく知らない書き手であった。それは、人選にあたって比較的若い書き手を中心に選んでいるためでもある。

 編著者の石井氏は、デビュー作『顔面漂流記/アザをもつジャーナリスト』でよく知られている。私とはほぼ同年齢で、下の名前が同じ。そんなこともあって、私はなんとなくこの人にシンパシーを抱いている。

 12人の書き手は、自らがノンフィクション・ライターになるまでのいきさつをおもに語っている。新聞社を辞めてフリーになった人もいれば、市民運動の延長で物を書き始めた人もいる。まさに十人十色、ノンフィクション作家に至る12とおりの道筋が披露される。これからフリーランスの物書きを目指そうとする人には、大いに参考になるにちがいない。

 私にとってもなかなか面白かったが、読んでいて気が滅入る本でもあった。フリーランスのライターがいかに経済的に報われないか、いかに将来性のない職業であるかという「現実」を、くり返し突きつけられる内容であるからだ。

 たとえば、大泉実成の昨年の年収は311万円だそうだし、編著者の昨年の年収も約400万円だという。それ以外にも、不景気な話が随所にちりばめられている(笑)。

 自らの署名入りで書くノンフィクションだけに仕事をしぼることは、ライターの世界でもいちばん経済的に報われにくい。取材に手間ヒマと経費がかかるうえ、発表媒体がごく少なく、単行本化されてもあまり売れないからである。それは重々承知だが、これほどまでに「食えない」世界だとは思わなかった(私のように、無署名のゴースト仕事もバンバンやっているライターとは、また事情が異なる)。第一線で活躍している30代~40代の書き手が明かした実情は、衝撃的ですらある。

 とはいえ、本書は「食えない、本が売れない、原稿料が安すぎる」などと愚痴るような内容ではない。たとえ経済的には報われなくても、ノンフィクションを書くという仕事がやりがいに満ちていることを教えてくれる本である。
 困難な条件のなかで、志ある書き手が奮闘と工夫を重ねて自らの作品をものしている姿には、大いに勇気づけられた。
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布袋寅泰『エレクトリック・サムライ』



 「火遊び」発言で何かと話題の布袋寅泰のアルバム『エレクトリック・サムライ』を聴く。

 『新・仁義なき戦い』と『キル・ビル』に使われた「Battle Without Honor or Humanity」や、映画『KT』(これは私も大好きな映画)のテーマ曲「KILL THE TARGET」などを収録した、初のギター・インスト集である。

 布袋のソロ・アルバムでは、なんといっても最初の『ギタリズム』(1988年)がベストだった。全曲英語で歌われ、世界進出を企図した作品だったが、海外では惜しくも大コケ。しかし、クオリティーはとてつもなく高いアルバムだった。ラディカルなのにポップ。ハードなのに流麗。日本のロック史に残る名盤だと思う。

 次の『ギタリズムⅡ』は、2枚組の力作ではあったが、ファーストでコアなロック・ファンにターゲットを絞りすぎて失敗した反動か、甘ったるいポップ性の度が過ぎていただけなかった(ただし、先行シングルとなった「ビート・エモーション」はバツグンのカッコよさ)。

 つづく『ギタリズムⅢ』は、ファーストのハードネスとセカンドのポップ性が共存した傑作。これも私は一時期聴きまくったものだ。

 しかし、4作目以降、妙に甘ったるい歌謡曲調の曲が多くなって、布袋は私の視界から外れた(いや、べつに歌謡曲が悪いわけではないが、私が布袋に求めるものとは違うということ)。

 そんなわけで、この『エレクトリック・サムライ』も買わずにレンタルで済ませてしまったのだが、これはなかなかよかった。インスト集であるだけに歌謡曲っぽさが消え、『ギタリズムⅢ』までのピンと張りつめた緊張感が戻ってきている。
 ツェッペリンの「移民の歌」のカヴァーも、“デジタルなハード・ロック”という感じで痛快。

 アルバム全体を通して感じるのは、映画音楽の作り手として、布袋は意外なほど能力が高いということ。
 というのも、ギターが全面に出ていない曲も多くて、ちゃんと「映画音楽になっている」のだ。それでいて、要所要所には布袋らしいギターのリフ、フレーズが入ってきて、独創性も十分ある。

 一見いかにも「オレがオレが」というタイプに見えるが、じつは布袋は、音楽家として全体を見渡して自らのギタリスト・エゴを制御できるクールな頭脳の持ち主であるようだ(まあ、バンド時代には氷室京介を立ててうまくやってきた人だからね)。

 『ギタリズム』で海外進出に失敗してから十数年。タランティーノの威光もあってか、このアルバムは英国・韓国でも発売されたという。
 案外、布袋は映画音楽の世界で海外進出を成功させるかもしれない。たとえば、坂本龍一のようにアカデミー賞をとることも、十分あり得るのではないか。
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三島由紀夫の夏

   天人五衰の画像

 昨日は、都内で井上章一氏を取材。

 それにしても、すさまじい暑さであった。
 陽の当る道を歩くと、人肌に温めた透明なゼリーで満たした巨大なプールの底を進んでいるようだった。

 もっとも、私は照りつける陽射しのなかを歩くのが嫌いではない。自分が陽光に清められ、汗とともに体内の不純物が排出されるような気がするからだ。
 そんなふうに思うようになったのは、かつて三島由紀夫にのめりこんだせいであろうか。

 三島は、『小説家の休暇』(ひと夏の日記の形式をとり、自在に思考の翼を広げた評論。私は、三島の小説以外の著作ではこれがいちばん好きだ)の中で次のように書いている。

「カッとした夏の日のなかを、日光に顔をさらして歩くのが好きだ。どこまでもこうして歩きたいと思う。(中略)
 夏という観念は、二つの相反した観念へ私をみちびく。一つは生であり活力であり、健康であり、一つは頽廃であり腐敗であり、死である。そしてこの二つのものは奇妙な具合に結びつき、腐敗はきらびやかな心象をともない、活力は血みどろの傷の印象を惹き起こす」

 照りつける真夏の陽光と、そこから生まれるくっきりとした影。せめぎあう生と死――それが三島文学の“原イメージ”である。
 たとえば、初期の傑作中編に「真夏の死」があるが、これなどはまさに、三島の“原イメージ”が横溢した作品だ。

 「真夏の死」には、エピグラフとしてボードレールの「人工楽園」のこんな一節が掲げられている。
「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」

 三島が生涯最後に書いた文章も、やはり夏の陽光と死のイメージに満ちたものだった。そう、三島がこれを書き上げたあとで自決の場に向かった、『天人五衰』(『豊饒の海』第4部)の有名なラストシーンである。

 「青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかし」、「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」明るい庭。
 「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……」

 なんとなく、今年の日本の夏は「三島由紀夫の夏」だという気がする。陽光の中に死の匂いが満ちているのである。 
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『ぼくたち、Hを勉強しています』

ぼくたち、Hを勉強していますぼくたち、Hを勉強しています
(2003/04)
鹿島 茂井上 章一

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 鹿島茂・井上章一著『ぼくたち、Hを勉強しています』(朝日新聞社/1200円)読了。
 
 対談集である。碩学2人がくり広げる、世にもハイブロウな「性談集」。
 パンティの話、ラブホテルの話、痴漢の話など、さまざまな角度から性について縦横に語り合っているのだが、断じて「猥談」ではない。性をフィルターに文化を語り、歴史を語り、日本の性文化の未来を展望する、といった具合。

 「はじめに」で、鹿島は言う。
「いま、セックスについて語ることができるか否か、とりわけ、女性たちの目の前で性の話ができるか否かが、モテるかモテないかの岐路になりつつあることをご存知だろうか?」

 なるほど、いまどきの女性たちは昔に比べて性についてあけすけに語るようになった。
 とはいえ、女性たちの前で男が性について語り、しかもそれが「猥談」「セクハラ」と受け止められないようにするのは、なかなかの難事であろう。とくにおじさんにとっては……。
 キムタクが性を語っても誰も「猥談」とは受け止めないだろうが、おじさんが性を語って「猥談」にならないためには、高度な話術と教養と人生経験と人間的魅力が必要だ。それらをすべて兼備しているようなおじさんなら、そりゃあモテるにきまっている。

 というわけで、本書には、「猥談にならない性談」の見本がぎっしりつまっている。こんなふうに軽やかに性について語れたら、とりあえず教養と話術の面では合格点だろう。
 印象的なくだりを、いくつか引いてみよう。 
 
「これは極端な意見なんですが、六〇年安保があんな大騒ぎになった理由のひとつに、赤線の禁止があるのじゃないか、赤線で盛りのついた男たちの欲求を適当に発散させておけば、ああいう騒動は起こらなかったはずだ、という意見があるんです」(井上)

「鹿島 日本には『わかめ酒』がありますが、向こう(ヨーロッパ)はシャンパン風呂なんです。娼婦を風呂桶に入れて、そこにシャンパンを注いで、みんなで飲むという趣向です。
 井上 女体盛りはないですか?
 鹿島 あります。キャヴィアですね。
 井上 日本だと刺身ですがね。トロとか、タコとか。
 鹿島 刺身だと、箸でつまむだけでしょう。キャヴィアだと、口で直接嘗められる」

「鹿島 とにかくラブホテルというのは、世界に誇れる日本の発明ですよね。日本に来ている外国人が、ラブホテルというのはなんと素晴らしいところなんだと、感激していますよ」

「日本の処女幻想の高まりは、キリスト教、プロテスタンティズムの影響だと言われますね。もちろん、中流意識の勃興も、これを社会学的に支えたでしょう。でも、芸者の処女をもらう水揚げは、その前から特別料金だったし、伊勢の斎宮は未婚の皇女、つまり処女じゃないとなれなかった。日本でも、処女を特別なものと見る見方がなかったわけではない」(井上)

 そのほか、「ダッチワイフ」の命名の由来とか、“じつはフランス人は19世紀まで人前でキスなどしなかった”とか、“古代ローマ帝国時代は巨乳ならぬ小乳の女性がもてはやされた最初の時代で、胸を小さくする薬が売られていた(!)”とか、面白い「性のトリヴィア」がてんこ盛りだ。
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『シモーヌ』

 『シモーヌ』をDVDで観た。
 傑作『ガタカ』の監督アンドリュー・ニコルの第2作。『ガタカ』同様、脚本も監督が書いている。

 落ち目の映画監督タランスキー(この役名の由来は「タランティーノ+ポランスキー」かな?)が、新作『サンライズ』を完成目前にしてワガママな主演女優に降板されてしまう。おかげで映画はお蔵入り。映画会社からも契約を切られ、路頭に迷う。

 そこに現れたのが、タランスキーの熱狂的ファンである天才コンピュータ・プログラマー。
 彼はタランスキーの窮地を救うべく、自分が作り上げたあるプログラムを提供する。それは、CGで「ヴァーチャル女優」を創造するプログラムだった。過去の名女優たちのデータを入力して組み合わせることで、完璧な美しさをもつCG女優を創ることができるのだ。

 9ヵ月後、そのプログラムを使って創り上げた架空の女優「シモーヌ」を撮影済み映像に合成し、タランスキーは『サンライズ』を完成させる。シモーヌの“演技”のあまりの自然さに、誰もCGとは気づかない。

 シモーヌは、その完璧な美しさでたちまち人気女優になる。
 マスコミに生身の姿を一切露出しないことが逆に神秘性を醸し出し、カリスマ的人気に拍車がかかる。シモーヌを探し出そうとするパパラッチなどの目から、彼女が実在しないことを隠しとおそうとするタランスキー(演じるのは名優アル・パチーノ)の奮闘ぶりが、笑いを誘う。

 実在しないCG女優を、実在すると思い込んで熱狂する人々。その姿は、「リアル」と「ヴァーチャル」の境界が見えにくくなった現代という時代への、痛烈なアイロニーである。
 また、ハリウッドの映画ビジネスに向けた皮肉もちりばめられている。ワガママな人気女優役ウィノナ・ライダーの、真に迫った演技が素晴らしい。「こういう女優、絶対いるだろうな」と思わせる。

 シモーヌの人気は、制御不能なほど高まっていく。しだいに焦燥と戸惑いをつのらせていくタランスキーは、やがて自らの手でシモーヌを「葬る」ことを決意するのだが……。

 前作『ガタカ』が切なくも熱い「SF青春ラブストーリー」だったのに対し、この『シモーヌ』は知的でオシャレなコメディである。だから味わいはまるで違うのだが、2作には大きな共通項が2つある。娯楽性の底に鋭い文明批評を孕んでいる点と、近い将来実現するかもしれない世界を描いている点だ。

 『ガタカ』が描いたのは、大半の子どもが遺伝子操作によって生まれ、遺伝子操作を経ず生まれた者は「不適格者」として差別されるディストピアであった。生命科学の発展が行き着く先に、十分あり得る悪夢といえよう。
 『シモーヌ』に登場する「CG俳優」は、実現する可能性がさらに高い。いまでさえ、どこまで実写でどこからがCGなのかわからない映像は、映画の中に山ほどあるのだから。

 これは、アメリカ人より日本人のほうが愉しめる映画かもしれない。
 なにしろ、我が国では1996年の時点で初のCGアイドル「DK96/伊達杏子」が生まれているし(シモーヌほど人気は出なかったが)、1990年にも、ラジオの深夜番組から生まれた架空アイドル「芳賀ゆい」がちょっとしたブームを呼んだのだから。
 とくに、アニメの主人公やゲーム・キャラに「萌える」日本のオタク諸君には、シモーヌに熱狂する人々の気持ちがよくわかるはずだ。

 まあ、実在の俳優に熱狂することだって、ホントのお友達になれるわけではない以上、ヴァーチャル恋愛のようなものだけれど……。
  
 この『シモーヌ』、『ガタカ』よりは一段落ちるが、着想はいいし、脚本もよくできているし、相変わらず面白くて深い。アンドリュー・ニコルという人、ただ者ではないと思う。次回作は絶対映画館で観よう。
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井上章一『アダルト・ピアノ』


アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ (PHP新書)アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ (PHP新書)
(2004/06)
井上 章一

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 井上章一著『アダルト・ピアノ/おじさん、ジャズにいどむ』(PHP新書/720円)読了。今週、著者の井上氏にインタビューをするために読んだ。

 著者は大学教授(現在は国際日本文化研究センター勤務)。独自の視点から日本文化の考察をつづけ、著作でサントリー学芸賞や芸術選奨文部大臣賞などを得てきた。
 その一方で、筋金入りの阪神ファンとして有名だったり、『ぼくたち、Hを勉強しています』なんて本(鹿島茂との対談集)を出したり、学者らしからぬユニークな著作活動でも知られている。『美人論』も話題になった。

 そして井上は、41歳のときから突然ジャズ・ピアノを習い始めた。まさに「四十の手習い」だ。
 以来8年、地道な練習と勉強を重ね、いまでは京都のライブハウスでギャラをもらってステージに立つまでになったという。

 本書は、その8年間の軌跡をつづった「ピアノ体験記」である。
 ただし、最近よくある「お父さんのためのピアノ入門」ではない。技術面についての記述はほとんどなく、「ピアノを習うおじさん」の「心情」のほうにウエイトを置いて書かれているのだ。

 そして、その心情の揺れ動きが、読者の微苦笑を誘う。なにしろ、本書をつらぬいているものは、「ピアノを弾けるようになって女性にもてたい!」というセキララな「おじさんの願望」なのだ。

 映画『カサブランカ』で、ピアニストのサムが「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を弾いて傷心のイングリッド・バーグマンをなぐさめるシーンがある。サムはピアノを弾きながら、バーグマンのほうを見て微笑んだりする。
 井上は、いつかくるかもしれないこうしたシーン(=ピアノを弾きながら振り向き、美女に微笑みかける)のため、弾きながら「目を鍵盤からはなす訓練」や、「後方をふりむく練習」をしたりするのである。

 そのような、涙ぐましいまでの「おじさんの心情」がこと細かにつづられているのだ。「高名な学者がここまで書いていいのか?」とハラハラするほどセキララに……。

 近年、「ピアノを習うおじさん」は激増したという。
 井上の分析によれば、それはあの人気ドラマ『101回目のプロポーズ』が直接のきっかけになったとか。武田鉄矢演ずる冴えない中年男が、「四十の手習い」で覚えたショパンを弾いて浅野温子のハートを射止める有名なシーンがあるのだ。
 
 本書を読んでもピアノがうまく弾けるようにはならないが、周囲の冷たい視線にもめげずピアノをつづけているおじさんたちを勇気づけ、背中を押す効果はあるだろう。

 ユーモア・エッセイとしても上出来だから、“おじさん以外の人たち”が読んでも、きっと面白いはず。「面白い本を書くことにかけては日本で五指に入る学者」である井上の、面目躍如たる1冊だ。
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『下妻物語』



 池袋で、話題の『下妻物語』を観た。
 嶽本野ばらの同名小説の映画化。主演は深田恭子。

 監督・脚本の中島哲也は、おもにCMの世界で活躍してきた人。トヨエツと山崎努がスローモーションで卓球したり焼き肉食ったりする「LOVE BEER!」というアレを手がけた人だそうだ。

 CM出身の映画監督は枚挙にいとまがないが、この作品ほどCMの手法を強引に映画にあてはめた作品は観たことがない。これはまるで「長いCMを観ているような映画」だ。ホメ言葉には聞こえないだろうが、掛け値なしの讃辞としてそう言いたい。
 随所でギャグが炸裂する映画なのだが、そのギャグの部分にいずれもCM的手法が使われている。そして、それが見事にキマっているのだ。

 CM出身の映画監督にありがちな「映画コンプレックス」が、微塵も感じられない。「CMの手法で映画を撮ってこそ、オレの強みが発揮できるってもんだ」という監督のつぶやきが、スクリーンの背後から聞こえてくるようだ。

 “友達なんて1人もいなくても平気”な孤高のロリータ少女・桃子(深田)と、過剰なまでに「熱い」ヤンキー少女・いちご(土屋アンナ)の、奇妙な友情の物語である。

 ラブストーリーの場合、主人公とヒロインの間に立ちはだかる障壁(身分の違い、年齢差など)が、読者や観客を引っぱる駆動力となる。
 同様に、友情の物語も、壁/差異こそがドラマを生む。本来ならおよそ相容れないはずの、相違点だらけの桃子といちご。2人に友情が生まれるまでの磁場のぶつかり合いが、この映画の駆動力だ。 

 観ながら思い出したのは、高樹のぶ子の芥川賞受賞作『光抱く友よ』。地味な優等生少女と奔放な不良少女の友情を切なく描いた、清冽なる名作である。

 『光抱く友よ』は、発表当時から古風な印象を与えるほど、きわめてオーソドックスな友情物語であった。いわばスタンダード・ナンバー。対して、この『下妻物語』はいわばパンク・ヴァージョンだ。
 矢継ぎ早にくり出されるギャグ、30秒のCMを100本作って“映画という接着剤”でつなぎ合わせたような映像。それでいて、骨格はあくまで古風な友情物語。才気あふれる若手バンドがスタンダード・ナンバーを斬新な手法でカヴァーしたような、そんな印象の映画なのである。

 『光抱く友よ』が友情の終焉までを描いた作品だったのに対し、この『下妻物語』は友情が本格的に始まるというところで終わる。だから、後味もさわやか。

 それと、舞台となる茨城県下妻市の風情が、栃木県出身の私には郷里を思い出させて懐かしい。
 洋服を買うためだけに上京して「週刊東京『少女A』」(※)と化す桃子の姿が、輸入盤を買うために東武伊勢崎線に乗って上京していた10代のころの私とオーバーラップしてしまう(笑)。

 ロリータ・ファッションで決めたフカキョンを写したポスターだけで「うへー」と敬遠してしまう向きもあろうが、オジサン・オバサンにも十分楽しめる、痛快で斬新な青春映画である。

※「週刊東京『少女A』」=爆風スランプの1stアルバムのオープニングを飾った、笑える名曲。週末だけ東京へ出かける田舎娘の青春を活写した歌詞が秀逸。
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鎌田實『がんばらない』『あきらめない』



 鎌田實著『がんばらない』『あきらめない』(集英社)読了。

 いずれも、著者が院長を勤めていた諏訪中央病院での患者たちとのふれあいを綴ったエッセイ集である。正編『がんばらない』は西田敏行主演でテレビドラマ化されたそうだが、あいにく私は未見。

 エッセイの内容は、おおむね次の3種類に分けることができる。

 1.末期ガン患者など、「瀬戸際に生きる命が放つ一瞬の、見事な輝き」をとらえたもの
 2.病院のあり方自体をテーマにした、提言的なもの
 3.著者の亡き父母など、身近な人間の闘病の様子を綴ったもの

 このうち、私は1に属するエッセイに最も強い印象を受けた。ごく普通の市井の人々が、自らの死に向き合う日々の中で見せる崇高な人間性に胸打たれる。

 悪性リンパ腫で亡くなった高校3年生は、最後の外泊で、自分が眠ることになる墓地を見に行き、さばさばとした顔でこう言う。
「母さん安心したよ。俺の行くところを見てきた! 八ヶ岳が見えて、霧が峰、蓼科山に見守られて景色のものすごくよいところだね」(『がんばらない』)

 42歳の若さでガン死した母親は、余命3ヶ月と宣告されながら1年8ヶ月生きたが、その支えとなったのは子を思う心だった。
 「長男の卒業式まで生きたい」「末っ子の推薦入学が決まる秋まで、生きていたい」――そんな思いが彼女の寿命を伸ばしたのだった(『あきらめない』)

 全編をつらぬくテーマは、『雪とパイナップル』と通底している。
 それは、「どんなに淡い希望でも、希望が命を支えている」ということであり、「人はつながりのなかで生きている」ということだ。

 鎌田氏の近著『病院なんか嫌いだ』(集英社新書)もななめ読み。
 こちらは、医療従事者、病院経営者としての長い経験をふまえ、日本の医療・福祉の改革を提言した内容。また、“よい患者になるための心構え”と、“よい医者を選ぶためのポイント”も綴られている。良書だと思う。
 
 今日はこのあと、著者の鎌田氏を取材。その下準備として読んだというわけ。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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