『ロスト・イン・トランスレーション』

ロスト・イン・トランスレーションの画像


 私は、この映画のヒロインを演ずるスカーレット・ヨハンソンのファンだ。コーエン兄弟の『バーバー』を観て、一発でまいってしまった。もろ好み、ストライクゾーンど真ん中。
 
 北欧的な透明感を漂わせる美貌。淫蕩さを底に秘めた感じの品のよさと清潔感。知的かつコケティッシュ。じつにいいのである。
 私が何より心惹かれるのは、あれほどチャーミングな女性なのに、いつも「自分に自信がもてない」という感じの所在なさげな表情をしているところ。「途方に暮れた感じ」がタマラナイのである。

 私は「自信満々女」がキライだ。
 自分の魅力とか才能とかに強烈な自負を抱いていて、その自負を全身からムンムンと発散して周囲を睥睨しているような女。なんかもう、生理的に受けつけないのである。カドが立つかもしれないけれどあえて例を挙げれば、日本の女優でいうと米倉涼子みたいなタイプ(ファンの人スイマセン)。

 私見によれば、ハリウッドのスター女優は十人中九人までがこの「自信満々女」である。ギラギラした「強さ」ばかりが目立って、「儚さ」が微塵もない。
 ゆえに、私がアメリカの女優のファンになることなどめったにない。だって、私の好みの対極にいるタイプが主流なのだから。
 しかし、そのなかにあって、スカーレット・ヨハンソンは異彩を放っている。ハリウッド女優には珍しい「植物系美人」。「私が私が」という「自信満々女」の対極にあるキャラクターなのである(実物はどうか知らないけど)。
 ハリウッド・スターには珍しく小柄であることも、ちょっと「ちびせん」入ってる私には好ましい。

 ……などと言うと、「そんなのは、『男に対して従順な弱い女』をありがたがる前時代的女性観に過ぎない!」とフェミニスト諸氏の叱声が耳に満ちそうだ。ま、そうかもしれない。否定はしません。

 『バーバー』でヨハンソンが演じた役も、「自分に自信がもてない」役柄だった。この『ロスト・イン・トランスレーション』もしかり。彼女が演ずるヒロインのシャーロットは、徹頭徹尾自分に自信がない女性である。じつにハマリ役。

 ……というわけで、私はこの映画をスカーレット・ヨハンソンを鑑賞するために観たので、それだけでもう十分に満足した。

 映画としても、なかなかよかった。
 CM撮影のため来日した大物俳優(ビル・マーレイ)と、写真家の夫の仕事のため来日した若妻(ヨハンソン)。
 俳優は身過ぎ世過ぎの仕事に倦んでいる。女は、仕事で飛び回る夫からホテル(新宿のパーク・ハイアット東京)に放置された状態で、寂しくてたまらない。そんな2人が、ホテルのラウンジで出会う。
 2人の淡い恋と並行して、彼らが東京の街で出合う出来事がスケッチされていく。ネオン輝く東京の夜景が、こんなに美しく撮られた映画はいままでになかったのではないか。

 ともに自分を見失っている状態にある2人が、東京でのささやかな冒険を通して「自分探し」をする物語ともいえる。だが、最後まで「自分」は見つからず、途方に暮れた宙ぶらりんの状態でストーリーは終わる。

 カルチャー・ギャップが随所で笑いを誘う知的なコメディでもある(タイトルは、「翻訳の過程で意味やニュアンスが失われてしまうこと」を意味する)。
 たとえば、極上の霜降り和牛のしゃぶしゃぶを食したあとで、2人はこんな会話を交わす。

「最低のランチだったわ」
「まったくだ。客が自分で料理をする店なんて」

 「出てくる日本人が過度に戯画化された、日本蔑視映画」という評価も目にしていたが、私にはその点は気にならなかった。“初めて来日したアメリカ人から見れば、ま、日本人はあれくらい滑稽に映るだろうな”という許容範囲内だと思う。事実をねじ曲げた極端なカリカチュアもない。

 ただ、淡いスケッチの積み重ねで成り立ったストーリーは起伏に乏しく、映画的な盛り上がりに欠ける。なぜこの作品が「アカデミー・オリジナル脚本賞」なのかと、首をかしげた。
 
 ストーリーよりは「気分」を味わい、全体よりはディテールを愉しむべき映画。
 
 たとえば音楽好きなら、「トリヴィアの泉」的な愉しみ方ができる映画だ。
 カラオケボックスで、ビル・マーレイはロキシー・ミュージックの名曲「モア・ザン・ディス」を歌い、スカーレット・ヨハンソンはプリテンダーズの「恋のブラス・イン・ポケット」を歌う(2人ともオンチ)。
 来日中のハリウッド女優役のアンナ・ファリス(キャメロン・ディアスだとばかり思って観ていた。ソックリ)がホテルのバーで戯れに歌うのは、カーリー・サイモンが歌っていた『007/私を愛したスパイ』の主題歌。 
 そして、エンド・クレジットに流れるのは、我らがはっぴいえんどの「風をあつめて」だ。
 音楽の使い方はすこぶるセンスがよい。
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いやなことを思い出してしまった

「所沢市の高校3年生が試験でカンニングを疑われ、飛び降り自殺」という悲しいニュースに触れて、いやなことを思い出してしまった。

 じつは、私にもカンニングを疑われた経験があるのだ。小学4年生のときのことである。
 私は子供のころから国語だけは得意だったのだが、よりによってその国語の試験での話だ。

 クラスの中で100点が2人だけいて、そのうちの1人が私、もう1人はクボタタマミさんという頭のいい女の子だった(いまどうしているだろうか?)。
 そして、運悪くというべきか、私とクボタさんは席が隣り同士だった。
 Dというオバサン教師の目には、私は100点を取るような児童には見えなかったらしい。
 試験が終わってから、Dは私を「ちょっと……」と手招きし、小声でこう言ったのだ。

「あんた、まさかクボタさんの答案を見て書いたんじゃないだろうねえ?」

 なんの前置きもエクスキューズもなく、平然とした口調でそう言われた。ショックだった。
 私は、「李下に冠を正す」ような真似など何もしていない。Dは、「クボタさんと、その隣に座ったあの子だけが100点をとった」というただそれだけのことで、私を疑ったのである。

「いえ、見ていません」
 一言だけボソッと言い返すのが精一杯だった。
「そう。それならいいけど」とDは言った。
 それだけである。
 くやしかったけれど、なぜかこのことは誰にも言わなかった。当時の自分の心の動きは、いまとなってはよくわからない。

 もう少し年齢が上だったら、不当な扱いを受けたことを親や校長に訴えて、教師に謝罪を要求するなどしたと思う。
 もしもいまウチの子がそんな目に遭ったら、教育委員会に告発するとともに『朝日新聞』あたりに記事にしてもらい、相手が学校にいづらくなるまで追いつめてやるところだ(笑)。

 だが、小学4年生の私はあまりにも無力で、くやしさを自分ひとりの胸に秘めつづけたのだった。うぅぅ、カワイソウに……。
 
 後日談がある。
 それからしばらく経って、そのDという教師は何かの病気になって突然退職してしまったのだ。
 まことに不謹慎ではあるけれど、そのことを知った私は反射的に、「あ、ボクを疑ったバチが当ったんだな」と思ったものである。
 「爾来私は、人を呪うということに確信を抱いている」(三島由紀夫『金閣寺』)ってか。
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『文学賞メッタ斬り!』


文学賞メッタ斬り!文学賞メッタ斬り!
(2004/03/18)
大森 望、豊崎 由美 他

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 『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美共著/PARCO出版/1600円)読了。

 ともに膨大な読書量と小説全般への圧倒的知識量を誇り、各種文学賞の「下読み」にもかかわる2人の読み巧者が、純文からエンタメまでのあらゆる国内文学賞を「メッタ斬り」にした対談集である。

 「はじめに」で大森自身が内容を的確に要約しているので、引用する。

 本書の主な目的は、無数の文学賞を明快かつわかりやすく分類整理することにある。どんな傾向のどんな賞で、過去にどんな受賞作を出し、読む価値があるのかないのか。
 各賞の成立事情や選考過程はもちろん、選考の内幕や賞をめぐる文壇ゴシップやトラブル・喧嘩・騒動にも斬り込み、歴史の古さや賞金額だけでは判断できない賞の「格」や「権威」についても、歴代受賞作をもとに独断と偏見で判定した。「選評」を肴に選考委員を品評する一方、主要各賞最新受賞作を実際に読んで採点することで、文学賞ブックガイドとしての役割も持たせてある。
 最大の特徴は、「読者のための文学賞ガイド」だということ。



 小説好きにはたまらなく面白い本である。俎上に載った作家や作品、選考委員について知識があればあるほど楽しめる。
 逆に、ある程度の知識がなければ面白くないだろう。たとえば、私は最近のSF小説にはまったく不案内なので、SFの賞事情を扱った章はほとんどチンプンカンプンだった。

 「出版業界の人間が集まって呑んでるときにいちばん盛り上がるのは文学賞の話だ」と大森も書いているが、この本はまさに、そうした“業界ウラ話”のレベルの高い部分を凝縮したような本。

 作家のゴシップを記事にできる雑誌がいまはなき『噂の眞相』だけだったように、文芸評論プロパーの人間や文芸出版社には、こんな本はけっして出せなかったであろう。
 著者が翻訳家の大森とライターの豊崎で、版元がPARCO出版だからこそできた本。作家や受賞作、選考委員等に対する歯に衣着せない悪口も満載である。ただし、両著者とも非常に「芸」のある人なので、痛快無比の悪口になっている(悪口を向けられた本人やそのファンは不快だろうが)。

 対談集というものは、多忙すぎて原稿を書く時間がない人気作家などに、手っ取り早く本を作らせるために使われることが多い形式だ。そのため、対談を行なう時間も短くて内容の薄い駄本になりがちである。
 だが、本書はそうではない。対談自体も延べ100時間に及んだというし(これはスゴイ。標準的な対談本の数倍の時間である)、脚注もすこぶる充実していて、それ自体面白い。たっぷり手間ヒマをかけて作られた、情報量も圧倒的な労作である。

 「(芥川賞は)十人の選考委員に選考料が百万円ずつだから、それだけで一千万円もかかりながら受賞作なしじゃ文藝春秋は困っちゃうわけですよね。もともとは、創設者の菊池寛が雑誌の売り上げが落ちる二月、八月の《文藝春秋》の部数増を狙って始めた賞ですから」(豊崎)
 などという賞の内幕話もいちいち面白い。
 
「直木賞は賞を上げる時期、作品を間違えてる確率が高い。受賞にタイムラグがあるのが特徴的な賞といってもいいくらい」(豊崎)
 なんて発言にも、激しく同意。なにしろ、宮部みゆきの最高傑作『火車』を落とし、浅田次郎の最高傑作『蒼穹の昴』を落としたのが直木賞なのである。

 各賞の選考委員中、終始一貫バカにされているのが、宮本輝、渡辺淳一、津本陽、石原慎太郎。たとえばこんな具合だ。

「今、芥川賞の行方を左右してるのは宮本輝なんですよ。とりあえず、テルちゃんに読ませなきゃいけないわけ。テルちゃんでもわかる日本語、テルちゃんでもわかる物語、それが芥川賞への近道(笑)」
「宮本輝に褒められて受賞するより、筒井康隆に褒められて落ちるほうがずっといいですよ」(いずれも豊崎の発言)

 「テルちゃん」が槍玉にあげられているのは、小説観が古すぎ、新しいタイプの小説が理解できないためである。
 だが、候補者の京極夏彦すら知らないで「この作家は、すでに大家であると聞いた」と平然と直木賞の選評に書く津本陽や、天童荒太の『永遠の仔』が候補になったときに長すぎて読みきれず、「編集者に口立てでストーリーを教えてもらったって噂」の渡辺淳一よりは、宮本輝のほうがずっと良心的であろう。

 私の小説観はわりと宮本輝に近くて、彼がメタメタに貶しまくった舞城王太郎や笙野頼子の小説は、私にもどこがいいのかさっぱりわからない(わからないことが恥ずかしいとも思わない)。すなわち、大森・豊崎両氏とは評価を異にする部分も多々あるのだが、そうした見解の相違も含めて、この本は楽しめた。

 下読みの内幕話も抱腹絶倒。
 賞に応募してくる人の中に、「(応募原稿を)単行本の体裁にして、じぶんで帯つくって、じぶんで推薦文書いて、著者近影までくっつけてくる」ヤツとか、「アニメ化の時は声優さんはだれだれさんでお願いします」とか「指名」してくるヤツがいるのだそうだ。
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「現代思想のセントバーナード犬」内田樹の本

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 ためらいの倫理学―戦争・性・物語
内田 樹 (2003/08)
角川書店

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『ためらいの倫理学』(角川文庫/629円)
 もっと軽いエッセイ集を想像していたのだが、本格的な論文も収録されていたりして、重量感のある内容。

 昔、岸田秀の『ものぐさ精神分析』を初めて読んだときのような「目からウロコ」感をくり返し味わった。

 「戦後責任論」について、フェミニズムについてなど、マスコミ報道や世にあふれる論説に触れたときに感じる違和感――「うまく言葉にできないけど、なんか、ちょっと違う感じがするんだよなあ」という気分――の正体を、見事に言語化してくれている。頭の中のもやが晴れるような本。
 好著というより、すでにして名著と呼びたい素晴らしい本。ワタシ的にはやはりこれが「ウチダ本」のベストワン。

『寝ながら学べる構造主義』(文春新書/690円)
 難解無比(と私には思えてならなかった)な構造主義が、巧みなたとえ話を多用した軽快な筆致で説明されていく。
 レヴィ・ストロースのいう「親族の基本構造」を映画の「寅さん」の親族関係にたとえ、ジャック・ラカンの「分析的対話」をジャズのインプロヴィゼーションにたとえ……という具合。これなら私にもすっきり理解できる。少なくても理解できたような気分になれる。

 たいへん面白かった。啓蒙は学者のたいせつな仕事であって、このようにわかりやすい本が書ける内田氏は、日本の大学教授の中にあっては貴重な存在だ。

『映画の構造分析』(晶文社/1600円)
『映画は死んだ』(松下正己との共著/いなほ書房)
 映画論も内田さんの専門分野の一つだが、映画関係の著作はいまのところこの2冊のみ。

 内田さんのブログには「おとぼけ映画批評」というコーナーがあって、これは肩の凝らない軽いタッチの映評ばかりだが、この『映画は死んだ』(1999年刊)はまったく趣が違う。論文臭ムンムン。私がこれまで読んだ「ウチダ本」の中で、最も難解であった(共著者の松下氏の論文はさらに輪をかけて難解・生硬。たまらず読み飛ばした)。

 ただ、『エイリアン』シリーズ4作を「フェミニズム映画」として読み解いた「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター――エイリアン・フェミニズム」は、じつに面白い。内田さんご自身も「マイ・フェヴァリット論文」として挙げている。

 もう一つの『映画の構造分析』は、『映画は死んだ』の発展型といってもよい、2003年刊の映画論集。
 『映画は死んだ』の論文中のネタをそのまま使い回した部分も多いから、こちらを読めば『映画は死んだ』は読まなくてもよいかも。
 副題は「ハリウッド映画で学べる現代思想」。内田さんによれば、「誰でも知っている映画を素材に使った、現代思想の入門書」を目指したものだという。

 実際に「現代思想の入門書」として有効かどうかはともかく、すこぶる独創的な映画批評の本として掛け値なしに楽しめる。「ううむ、現代思想の専門家の目にはハリウッド映画がこんなふうに映るのか」と、目からウロコ落ちまくり。

 デリダやらフーコーやらの引用をちりばめたペダンティックな映画批評はこれまでにもたくさんあったが、そうしたものはたいてい難解なだけで面白くなかった。対して、内田さんのこの本は、現代思想の知見をベースにしてハリウッド映画の構造分析を鮮やかに行い、なおかつ読みやすくて面白いのである。

 内田さんは、ラカンの欲望論やロラン・バルトのテクスト論を援用して(もっとも、私にはそれらがどういうものなのかよくわかっていないのだが)『大脱走』『エイリアン』『ゴーストバスターズ』『北北西に進路を取れ』などという娯楽映画の“隠されたメッセージ”を読み解いていく。

 たとえば、内田さんによれば、『大脱走』の脱走劇は「父殺し」「母性の奪還」の隠喩であり、『エイリアン』は「『白馬の王子様の救援を待たず自力でドラゴンを倒す』自立した『お姫様』」を主人公にした、「成功した最初のフェミニズム映画」であるという。

 3章立て。タイトルになっている第1章「映画の構造分析」が過半を占めるが、最後の第3章「アメリカン・ミソジニー/女性嫌悪の映画史」も、短いながらバツグンに面白い。 内田さんは、ハリウッド映画の大半は「強烈な女性嫌悪」につらぬかれていると喝破し、その仮説を立証し、原因に肉薄していく。

「私が最初にアメリカ映画の女性嫌悪に気づいたのはマイケル・ダグラスによってである。彼が出演する映画では、そのときどきにアメリカでいちばん人気のある女優が(実際に、あるいは社会的に)『抹殺される』。(中略)同時期の日本映画やヨーロッパ映画にマイケル・ダグラス映画に類するものを探すことは困難である」

 「え、でもアメリカってレディー・ファーストの国じゃないの?」と首をかしげる向きもあろう。だが、「レディー・ファースト」という女性尊重のマナーが生まれたのは、かつてのアメリカ開拓の最前線では女性の数が圧倒的に少なかったがゆえで、女性の人権に配慮したからではないのだという。
 なぜ、ハリウッド映画の多くが女性嫌悪につらぬかれているのか? その理由を知りたい人は、本書を手に取られたし。

 この手の“名作映画の構造分析本”ともいうべきジャンルには、瀬戸川猛資の『夢想の研究』(早川書房ほか)や町山智浩の『〈映画の見方〉が変わる本』(洋泉社)という先行の傑作がある。2冊とも私の大好きな本だが、本書はその2つに勝るとも劣らない出来だ。

『「おじさん」的思考』『期間限定の思想/「おじさん」的思考2』(晶文社)
 内田さんのウェブ日記(いまはブログ)は愛読してきたし、著作の多くはウェブ日記をベースにしているので、スイスイ読める。てゆーか、大学教授にしては稀有なほど、読みやすくて面白い文章を書かれる方なのだ。

 この2冊も『ためらいの倫理学』同様、ご専門である現代思想の知見をベースに、さまざまな時事的問題についての見解を披瀝された文章がメインである。

 一例を挙げる。
 フリーターの急増について、作家の藤本義一が“若者たちは、現代企業のあり方に対して無言の異議申し立てをしているのだ”と肯定的な見方をしていることに対して、内田さんは次のように異を唱える。

「フリーターの社会的機能とは端的に『失業者の隠蔽』である」
「一五〇万人の、そこそこ高学歴でそこそこ有能で、にもかかわらず低賃金で働いてくれて、仕事があるときだけ生産に従事し、仕事がないときは無職に甘んじ、そのうえ労働組合を作ることなど想像だにしていない人たちが『緩衝材』として機能してくれているおかげで、日本の失業率は世界的な低水準を保っており、社会治安を維持するためのコストは驚異的に安く上がっているのである。
 (中略)藤本のようなおじさんがフリーターという生き方をさかんに持ち上げるのは、彼らが今の日本社会にとってたいへんありがたい存在であり、にもかかわらず、どういうふうにありがたいのか、その理由をご本人たちにはあまり知って頂きたくないからである」(『「おじさん」的思考』)

 内田さんご自身も言うように「暴論」めいた主張を多く含んでいるのだが、軽やかなユーモアに彩られた語り口のため、読んでいて少しも不快ではない。
 また、右/左、保守/革新などという旧来的な立ち位置のどちらにも身を置かず、一歩退いたニュートラルな視点から批評をくわえる姿勢にも好感。

 たとえば、「『護憲』派とは違う憲法九条擁護論」はタイトルどおりイデオロギー色皆無のユニークな改憲反対論として一読に値するし、「別姓夫婦の『先進性』に異議あり」は、保守派の論客による夫婦別姓反対論とは一味もふた味も違う。

 ただ、『「おじさん」的思考』から半年後に刊行された『期間限定の思想』は、前作や『ためらいの倫理学』に比べ、かなりクオリティーが落ちるように思った。最も多忙を極めた時期の著作なのだろう。

『子どもは判ってくれない』(洋泉社/1500円)
 これもまた、『ためらいの倫理学』『「おじさん」的思考』などと同様に、内田さんのウェブ日記をベースにした時評集である。

 まえがきの中の一節が、柏村某の「(イラクで人質になった人たちは)反日的分子」うんぬんという暴言にそっくりあてはまる内容だったので、思わずニヤリとしてしまった。引用しよう。

「日本の『国益』を論ずるときに、彼らは『自分たちの意見に反対する人間』を『日本人』にカウントしない。自説に反対する人は簡単に『非国民』と切り捨ててしまう。彼らにとっては、『自分に賛成する人間』だけが『日本国民』で、彼らに反対する人間はその利益を守るべき『日本国民』に含まれていない。
 『国』が自分の『身内』だけで構成される共同体なら、『国を愛する』ことは簡単だ。誰にでもできる。しかし、そのような『愛国心』は『愛己心』というのとほとんど変わりがないのではないか」

 柏村某にそっくりぶつけてやりたい一節である。
 内田さんはご自分の書かれるものを賞味期間のごく短い「期間限定品」であると謙遜しておられるが、そんなことはないと思う。そのクリアカットな言説は、世にあふれる“大人になりきれない懲りない面々”がくり返す醜態への根源的批判として、長く読み継がれるに足るものだ。

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店/1500円)
 語り下ろしの内田樹流「幸福論」である(2003年刊)。談話をまとめたものだからほかの本より内容が薄いかな、という危惧もあったのだが、そんなことはなかった。

 むしろ、内田さんの思想のエッセンスが手際よく詰めこまれた、“内田樹入門”の趣がある一冊。たとえば、第3章「身体の感覚を蘇らせる」は、内田さんの専門の一つである身体論の概説になっている。また、第2章「働くことに疲れたら」の前半は、内田さんのフェミニズム批判の要約になっている。内田さんの本を初めて読む人は、これから入るといいかも。

 さて、幸福論とか俗流人生哲学の本は世にあふれているわけだが、その多くはクサくて読むに堪えない。てゆーか、いまどきクサくならずに幸福論を語るのは至難だろう。

 私がこれまでに読んだ本の中から「クサくない生き方指南本」を挙げると、橋本治の『青空人生相談所』(ちくま文庫)、宮台真司の『これが答えだ!』(飛鳥新社/朝日文庫)、上田紀行の『覚醒のネットワーク』(講談社+α文庫)の3つがわずかに思い浮かぶのみだ。

 そして、この『疲れすぎて眠れぬ夜のために』も、「クサくない生き方指南本」の列に加えるべき書である。
 なぜ「クサくない」かというと、「無理はいけないよ」「我慢しちゃダメだよ」ということをくり返し述べている本であるから。
 従来の「生き方指南本」には、「いかに刻苦勉励して自分を高めるか」など、我慢し、無理をして幸福をつかむための心構えが説かれたものが多かった。いわば高度成長期型の幸福論であった。

 いっぽう、内田さんはそうした旧来的な“幸福モデル”をしりぞけ、いかに無理をせず、不毛な我慢をせずに愉しく生きるかを語っている。もはや右肩上がりの経済成長など望むべくもないこれからの日本にふさわしい幸福論なのである。

 私が共感したくだりを、いくつか挙げてみよう。

「『不愉快な人間関係に耐える』耐性というのは、ぼくに言わせれば、むしろ有害であり、命を縮める方向にしか作用しません。(中略)逃げ場を見つけられず、そのまま不愉快な人間関係の中にとどまっているうちに、やがて『耐える』ということが自己目的化し、『耐える』ことのうちに自己の存在証明が凝縮されてしまったような人間が出来上がります」

「今の日本社会が抱えるさまざまな問題の一因は、アメリカという非常に特殊な国の文化をグローバル・スタンダードと見なして、それを『あるべき世界標準』だと思い込んでいることにあるとぼくは思っています」

「『濡れ手で粟』というのは少しもよいことではありません。価値観が混乱すると、ほんとうに大事な決断のときに、選択を誤らせるからです」

「環境が変わるたびに、キャラを変えるというのは、自分を守るためにはすごく有効な方法だと思います。(中略)『ほんとうの自分』というのだって要するに『作り話』の一変種にすぎないんだから、『ほんとうの自分』を確定的に語ることなんか求めずに、どんどんヴァリエーションを増やしていく方向に努力したらいかがですか」

「DVがやまないのは、殴る側も殴られる側も、心のどこかで、そういう激しい感情の発露を愛情の『屈折した表現』であると信じようとしているからでしょう。(中略)人間が暴力をふるうのは、自制心が弱いとか、思いやりが足りないとかいう理由からだけではありません。暴力の行使を合理化できる論拠が自分にはあると思っているからです。その論拠を『みんな』が承認してくれると信じているからです」

『私の身体は頭がいい/非中枢的身体論』(新耀社)
 内田さんは、30年以上の武道歴をもつ武道家でもある。大学では現代思想のみならず、合気道と杖道も教えておられるのだ。
 この本は、武道家でもある現代思想の専門家(!)という、他に類を見ない「二足のわらじ」をはかれた内田さんならではの仕事。「武道の科学」の構築を目指した「武道的身体論」が、さまざまな角度から語られているのだ。

 ……というと、難しく思えるかもしれない。たしかに、2本の学術論文(「非中枢的身体論」と「木人花鳥」)も収録されていて、これらは、示唆に富む内容ではあるもののやや難解だ。しかし、ほかの文章は一般誌に発表されたエッセイやインタビューとウェブ日記からの抜粋なので、いつもの平明で軽快な「内田節」が堪能できる。

 私はあいにく武道にはほとんど興味がないのだが、その私が読んでも面白いと感じる箇所がたくさんある。たとえば――。

「武道の稽古では『命がけの局面』というものを想定して、そういう場合には心身はどういう反応をして、どのように判断力や身体能力が低下するか、ということを繰り返しシミュレートする。そして、そのシビアな『能力低下のシミュレーション』に想像的に身体をなじませてゆきながら、それを生き延びる技術を学習するのである。
 驚く経験を自主的に積み重ねることによって、驚かされない心身を構築すること、それが多田先生(引用者注/内田さんの合気道の師匠)のおっしゃっている『胆力をつける』ということの意味なのだと私は勝手に解釈している」

 武道についてこのような明晰な言葉で語れる人は、ほかにいないのではないか。

『女は何を欲望するか?』(径書房/1800円)
 人前で読むのがはばかられるような思わせぶりな書名だが、内容はごく真面目な「フェミニズム批判」である。
 とはいえ、内田さんのことだから、保守系オヤジが書くような紋切り型のフェミニズム批判ではない。

 内田さんは、「フェミニズムは私たちの社会の制度の不正と欠陥をいくつか前景化させたし、性差が私たちの思考や行動を思いがけないところで規定していることも教えてくれた」と、その意義を大いに認めている。
 そのうえで、一部のフェミニストが陥っている「理論の過剰適用」を批判しているのである。

 「理論の過剰適用」とは、一部論者によってフェミニズムが「あらゆることをその理論で説明できる」万能の理論であるかのように錯覚され、「ほんとうはその理論をもって説明すべきではないことまで」強引に説明するようになっている傾向を指す。

 内田さんは、本書で「フェミニズムの理説がうまく適合しない現象」の例として文学と映画を取り上げ、フェミニズムの批評理論を物語の解釈に「過剰適用」する滑稽さを鋭く衝いている。

 本書の過半を占める前半部は、リュス・イリガライやショシャーナ・フェルマン(恥ずかしながら、この2人の学者を私はまったく知らなかった)らの「フェミニズム言語論」への批判。

 ゴリゴリの論文であり、『「おじさん」的思考』などの一般向けウチダ本のような平明さはない。たとえば、「多起源的な読み」「背馳し合う異他的な読みの『共生』を目指す運動性」などという難解・硬質なフレーズが頻出する。
 ただし、随所で内田さんらしいユーモアとアイロニーが炸裂するので、面白く読めた。たとえば――。

 ショシャーナ・フェルマンは、「教育された女は全員が無意識のうちに『私たちのうちに埋め込まれた男性的精神』によって憑依されているし、やすやすとまた秘密裏に、文学を男として読むことができる」と書いている。
 ゆえに、意識的な女性たちは「抵抗する読み手」となって、文学を「女性として読む」ことを目指さねばならない、と一部フェミニストたちは主張しているのだという(なんだかなー)。

 こうした「現代フェミニスト批評理論の基本的考想」に対して、内田さんは次のように皮肉をかましてみせる。

「フェルマンはここで『男として読む』ように強制されているのは『教育を受けた女たち』であると、さりげなく限定している。では、当然の疑問であるが、ここで論及の対象から排除された『教育を受けていない女たち』についてはどうなのだろう? (中略)いったい『教育を受けていない女たち』は『誰として』読んでいるのだろう?
 『女として』?
 まさか。それはあり得ない。だって、『女として読む』仕方を『創出する』ことがフェルマンの戦略的課題なのだから。『女として読む』人間はまだ存在していない」

 むろん、一口にフェミニズムといっても多様であり、本書の批判がすべてのフェミニストに適用できるものではあるまい。
 しかし、少なくとも私には、一部フェミニストに対して感ずる“なんとなくの違和感”を見事に言語化した論考として、教えられるところ大であった。

 後半は、『エイリアン』シリーズをフェミニズム映画として読み解いた、広義の映画批評である。
 内田さん自身も認めるとおり、これは『映画は死んだ』などの他著に収録された論文の使い回し。ただしディテールは異なるため、ほかの著書を読んでいても面白く読める。

 私が強い印象を受けた一節を引用する。

「第三作(『エイリアン3』)が駄作なのは、それが『女性嫌悪』というメッセージしか発信していないからである。
 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である(それはプロパガンダにすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は『質の高い物語』である。
 (中略)
 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その『解決』を宙づりにし、『最後の言葉』を先送りしてきた。もしマルクスが二十世紀に生きていたら、『映画は人民の阿片である』と言ったろう」

 さて、これで既刊のウチダ本は一通り読み終えたことになる(今年後半にはまた矢継ぎ早に新著が出るらしいが)。

 不肖私がウチダ本のベスト3を選ぶなら、1位『ためらいの倫理学』、2位『映画の構造分析』、3位『疲れすぎて眠れぬ夜のために』となる(「ウェブ日記もの」「映画評論」「それ以外」の3分野から代表をセレクトしてみた)。
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『風邪の効用』について


風邪の効用 (ちくま文庫)風邪の効用 (ちくま文庫)
(2003/02)
野口 晴哉

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 私は野口晴哉(はるちか)の「風邪の効用」論の信奉者なので、風邪のときには薬を飲まないし、医者にも行かない。

 野口は社団法人整体協会の創設者であり、現在行なわれているほとんどの整体の始祖的存在である。ただし私は、整体師としてではなく、『風邪の効用』の著者として彼を知った。

 この本の中で野口は、“風邪というものは、人間の身体の疲れや偏りを治してくれるものであり、上手に風邪を引くことで人は健康になれる”と主張する。
 すなわち、風邪は病気ではなく、人体が本来備えている自然治癒力の発現だというのだ。だから、“わざわざ風邪薬などでその働きを抑えてしまうとは、なんともったいない”ということになる。
 そして野口は、「風邪ひとつ引かない」というのは健康を示すサインではなく、むしろ大病をしやすい危険信号だという。

「癌になる人とか脳溢血になる人とかいうのを丁寧に見ると皆、共通して風邪も引かないという人が多い」

「人間が風邪を引くという働きを持っていながら、なぜ体が硬張って行くのかというと、風邪を治したり、風邪を予防したり、風邪に鈍くなるようなことを講じているからです」

「いろいろな病気を治す方法よりは、風邪を上手に経過する生活法と云いますか、それを会得しておけば、癌になるとか、脳溢血になるとか、そういう麻痺した体も正すことができる。従ってそういうような病気にならないで済む」

 野口の健康哲学はこのように、自然治癒力を重視し、身体や生活の偏りを正すことで健康になろうとするものである。

 野口の代表的著作2作――『風邪の効用』と『整体入門』――は、いずれも最近ちくま文庫に入った。けっこう売れているらしい。
 唐沢俊一は、「裏モノ日記」の中で、野口の『整体入門』を「トンデモ本」の一つに数えていた。たしかに、私のシロウト目から見ても首をかしげたくなるような記述が散見される。

 そもそも、野口自身が60代前半で病没している。それだけでも、野口の主張する健康法の信憑性にはやや疑問符がつく。「ビタミンC健康法」で知られるライナス・ポーリングは、94歳まで長生きしたのである。
 しかし、こと「風邪の効用」論に関するかぎり、医学的根拠はともあれ、私は本能的・直観的に納得できるのだ。

 もっとも、「風邪は身体の正常化作用・排毒現象だから、薬で抑えるべきではない」という考え方は、野口のオリジナルではなく、東洋医学にはもともとあるものだ。

“鼻水や痰や発汗などの風邪の諸症状は、すべて「排毒現象」である。だからこそ、薬で抑えずに症状を出るがままにして安静を保てば、風邪を引き終えたあとにはそれ以前よりも体調がよくなる。毒素が排出されたのだから、当然のことだ。
 薬を飲めば症状は早めに収まるが、同時に排毒作用も止まってしまう。のみならず、排出されるべき毒素が体内に蓄積されてしまい、それがくり返されると、ほかの病気の遠因にもなる”

 ……というような東洋医学の考え方は私にはすんなり首肯できるのだが、どうだろうか? 
 物はためし、みなさんが次に風邪を引かれたときには、薬を飲まずに「きちんと引いて」みてはいかが?
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武田徹『調べる、伝える、魅せる!』

調べる、伝える、魅せる!―新世代ルポルタージュ指南 (中公新書ラクレ)調べる、伝える、魅せる!―新世代ルポルタージュ指南 (中公新書ラクレ)
(2004/05)
武田 徹

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 武田徹著『調べる、伝える、魅せる!/新世代ルポルタージュ指南』(中公新書ラクレ/760円)読了。

 武田は現在、執筆のかたわら東大先端科学技術研究センターの「特任教授」をつとめているのだという(出世したなあ)。本書は、東大ではなくほかの複数の大学で行なったルポルタージュ制作実習を基にしたもの。

 ルポルタージュの手引書といえば、本多勝一の『ルポルタージュの方法』(朝日文庫)や竹中労の『ルポライター事始』(ちくま文庫)という名著・好著がある。いずれも私はくり返し愛読してきたものだが、かなり古い。インターネットどころかワープロ登場以前の本なのだ。
 だからこそ、本書には大いに期待した。“ネット時代のルポルタージュ入門”が満を持して登場したと思ったのだ。武田はいかにもマルチメディアに造詣が深そうだし。

 だが、かなり期待外れ。示唆に富む指摘も少なくないのだが、全体としては面白くなかった。
 武田徹の本はこれまでにも何冊か読んだことがあるが、いつも同様の感想を抱く。すこぶる知的だし、細部に光るものはあるのだが、全体として見ると、読者に訴えかける力が決定的に欠けている――そんな感想を。

 本多勝一の『ルポルタージュの方法』は、実践的入門書として非常によく出来ていた。竹中労の『ルポライター事始』は、ルポライターの「覚悟」「心構え」を熱っぽく説いて感動的だった。
 それに比べて、武田のこの本はなんとも中途半端である。
 ルポルタージュ入門として読むには物足りない。「造語のルール」などというトリヴィアルなことを必要以上に詳述していて、基本的な事柄がきちんと書かれていない。
 ルポルタージュ入門というより、その章間に挟んだコラムだけを集めてふくらませたような内容なのだ。
 また、「この本は、怒りと憤慨を契機として書かれた」と武田は言う(「イントロダクション」)のだが、そのわりには内容に「怒り」に類する熱さが感じられない。

 メディア・リテラシーについての記述が目立つ。
 それらの中には傾聴に値する意見もあるのだが、この本の中で読まされると、「また脇道にそれた」という印象しか受けない。
 いっそ、「大学でメディア教育に携わった体験を通じて書いた、『メディア・リテラシー論』」に絞って書けばよかったのである。

 「『技』の章(調査編)」「『術』の章(執筆編)」「『芸』の章(映像編)」の3章立て。
 ビデオを使ったドキュメンタリーについて書かれた「『芸』の章」は、類書にはない新機軸であり、そこそこ面白かった。

 困ったことに、メインとなるべき「『術』の章(執筆編)」がいちばんつまらない。本多勝一の『日本語の作文技術』(朝日文庫)など、過去の文章読本からの引用がやたらに多くて、“人のフンドシで相撲をとった手抜き”としか思えなかった。

 ルポルタージュ入門のようでいて、メディア論のようでもあり、文章読本のようでもある本。けっきょくはどこにも的が絞れていない。
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「日本発の世界文学」・宮内勝典の作品

金色の虎の画像

 『金色の虎』(講談社/2500円)
 ここ数年、宮内さんは自らのキャリアの総決算のような仕事をしてきた。
 1998年にようやく単行本が発刊された前作『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)は80年代から書き進められてきた長編であったし、この『金色の虎』も、『奇妙な聖地』というタイトルで『群像』に連載されたのは92年から96年。どちらも10年がかりで完成させた畢生の大作なのである。アメリカあたりの作家なら10年に1作というペースは珍しくもないが、日本では例外的だ。

 『金色の虎』は、食わず嫌いされやすい作品だ。
 先進国の若者たちを取り込み、異端のセックス教団を築きあげた狂気のグル(導師)、シヴァ・カルパの物語だから、オウム真理教事件をモデルにした安直な作品だと誤解されやすい。また、セックス教団を主舞台にしていることで、ポルノまがいのいかがわしい作品だと思われやすい。

 しかし、すでに述べたとおりこの小説は92年に連載開始されたもので、オウム事件をむしろ予見した作品なのである(地下鉄サリン事件は95年)。

 宮内さんが80年代にものした傑作ノンフィクション『宇宙的ナンセンスの時代』(新潮文庫/三五館)には、インドからアメリカへ渡った有名なグル、バグワン・シュリ・ラジニーシのコミューンを探訪した一編も収録されていて、その体験もこの『金色の虎』に生かされている。シヴァ・カルパのモデルは麻原彰晃ではなく、むしろバグワンなのだ。

 また、性描写が多いのはたしかだが、渡辺淳一の『失楽園』のようなくだらぬ情痴小説のそれとは次元の異なるものだ。エロスそのものを追求した深みのある性描写なのである。たとえば――。

「ジローはあらがい狂ったように抱きしめながら精を放った。水のように走りぬけた。肉欲が噴きこぼれただけではなかった。種を乗り継いでこのからだに辿りついてきたものが、自分を乗り捨て、吹きぬけていった気がした」

 ――このように、故・中上健次の諸作を彷彿とさせる、みずみずしい詩にまで昇華された性描写がちりばめられている。

 また、性描写にかぎらず、文章そのものが彫琢されぬいた見事なものである。
 宮内さんは日本の純文学作家のうちでも一、二を争う名文家だが、この『金色の虎』はとくに素晴らしい。いたずらに美文に走らない、抑制の効いた名文でつらぬかれている。
 とりわけ、比喩表現の素晴らしさは他の作家の追随を許さない。いくつか引用してみよう。

「煤だらけの黒い列車がきた。出発や、離別、叶えられない夢などが真っ黒に凝(こご)っているような、長い、長い列車だった」
「夕暮れがきた。天が漏水するような青さだった」
「乳房が骨から実る果物に見えた」

 また、“性そのものを原動力にして聖性へとジャンプせよ、オルガスムスの至福こそ神性への入り口だ”と説く異形の聖者シヴァ・カルパの人物造形は、深みがあり、魅力的だ。麻原のような俗物ではなく、最後まで超然としている。
 
 たとえば、信者の1人が飛び降り自殺をし、教団中が対応にあわてふためくなか、シヴァ・カルパはただ一言「グッド」とだけ言う。「悲しむ必要はない。身を投げたとき魂はふるさとへ飛んでいったのだ。ただ、行かせればいい。おまえたちはそれを祝えばいい」と…。

 また、若い女性信徒が教団に滞在する費用を稼ぐために売春していることを知っても、シヴァ・カルパはやはり「グッド」とだけ言う。「売春してまでわたしのそばにいたいと思っている女たちこそ、わたしの一番の弟子かもしれないぞ」と…。

 圧巻は、インドからアメリカへと渡ったシヴァ・カルパが、米下院の調査団や報道陣を前に記者会見をする場面。

 「若者たちを洗脳しているのではないか?」との質問に、シヴァは「いや、アメリカの夢から目覚めさせただけだ」と答える。「マネー、暴力、精神分析」という三つの「アメリカの夢」から…。

 さらにシヴァ・カルパは、「アメリカとヨーロッパはシャム双生児だ」とたたみかける。

「頭は二つに分かれているが、内臓のあたりはつながっている。病においてつながっている。
 キリスト教によって隠蔽されたものが、おまえたちの奥の奥から噴き出してきた。その熱狂がナチズムだった。魔女狩りも同じだ。それらは、ゲルマンの森の暗いエロスや生命の祝祭だった。ヨーロッパの無意識そのものだった。
 お前たちはシャム双生児である。(アメリカがナチスドイツを倒したのは)かたわれを抹殺したに等しい。そして、みごとに空虚になった。精神分析がアメリカで栄えているのも、その裏返しなのだ。だから、アメリカの子供たちはわたしのところに押し寄せてくる」(趣意)

 物語は、不思議なカリスマ性をたたえたこのグルを狂言回しに、日本人青年ジローと、シヴァ・カルパの右腕となって働く日本人精神科医・田島を軸に展開していく。
 田島は、精神科医としてスキゾフレニアの治療法を求めて果たせず、シヴァ・カルパの教団を舞台に“治療実験”をしようとする。そして同時に、教勢拡大のための「宣伝相」のような役割も果たしていく。ナチスのメンゲレとゲッベルスを併せたようなキャラクターである。
 
 宮内さんはこの作品で、仏陀やキリストの物語を丸ごと暗転させ、なおかつ現代社会という舞台に移植しようと試みたのだろう。
 エロスと宗教という2つの大テーマに真正面から挑み、世界そのもの、現代そのものを鷲づかみにして描こうとしているのだ。これこそが文学である。

 異端の画家・ゾンネンシュターンの作品を用いたカバーが、強烈な印象を残す。中身のほうも、そのカバーに恥じない鮮烈なイメージの連鎖で読者をとらえて離さない。

『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫/1143円)
 単行本化の際は上下2巻組だった長編を、1巻にまとめての文庫化。

 宮内さんには、『宇宙的ナンセンスの時代』という優れたノンフィクション作品もある。これは、私がこれまでに読んだすべての本の中で五指には入るくらい、じつに素晴らしい本だった。そして、『ぼくは始祖鳥になりたい』は、この『宇宙的ナンセンスの時代』をベースにして生まれた小説である。

 というより、『宇宙的~』の取材作業自体が、『ぼくは始祖鳥になりたい』という長編のためのフィールドワークだったのである。
 
 『宇宙的ナンセンスの時代』に、こんな一節がある。

「アジア人が太平洋を囲んでスピリットの輪を作ることができたら、ヨーロッパ系の冷たい文明をくつがえす力の輪になるかもしれません」

 この一節が、そのまま『ぼくは始祖鳥になりたい』の通奏低音となっている。
 つまり、「ヨーロッパ系の冷たい文明」の行き詰まりを描き、それを乗り越える新たな文明の萌芽を探し求めた小説なのだ。主人公の“元スプーン曲げ少年”ジローの旅はそのための旅であり、彼が出会う人々は、2つの文明の象徴として立ち現れる。

 というと、「なんかムズカシそう」と思われるかもしれないが、だいじょうぶ、少しも読みにくくない。磨き抜かれた美しい文体と豊饒なイメージの連鎖に身をまかせるうち、あっという間に読み終えてしまうはずだ。

 始祖鳥とは、ジュラ紀後期に出現した「最古の鳥」。

 恐竜のように滅びつつあるかもしれないヒトという種を、“進化”させる方途を探りたい……そんな願いが、このタイトルにはこめられているのだろう。

 作中、「世界」という言葉が多用されることが象徴するように、世界そのもの、文明そのものを鷲づかみに描こうとする猛々しい意図に貫かれた、スケールの大きな作品。「日本発の世界文学」を目指したとのことたが、その企図は十二分に果たされている。

『善悪の彼岸へ』(集英社/1900円)
 オウムの教義そのものへの批判を展開した、本格的なオウム真理教論である。

 これは、宮内さんにしかできない見事な仕事だと思う。
 すなわち、60年代カウンター・カルチャーのただなかで青春を過ごし、50ヶ国以上を旅し、ヒマラヤの洞窟でヨガの修行をしたこともあるという小説家ならではのオウム論だ。宗教学者にも、評論家にも、精神科医にも、こんなオウム論は書けなかった。

 読んでみると、最新作『金色の虎』には、この本を書くために思索を深めた作業がかなり生かされていることがわかる。『ぼくは始祖鳥になりたい』が『宇宙的ナンセンスの時代』から生まれたように。

 島田裕巳の大著『オウム/なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)と並んで、今後、オウム事件について考えるための基本文献となる一冊だと思う。

『裸の王様、アメリカ』(岩波書店/2600円)
 宮内さんのサイト「海亀通信」内の「海亀日記」の、単行本化第2弾。

 この本の圧巻は、後半部に収められた、昨年の9・11以降に綴られた一連の日記(もちろん、タイトルもここに由来している)である。

 青年時代からアフガンを含む数十カ国を放浪し、長年ニューヨークにも住んでいた宮内氏ならではの鋭い思索がちりばめられている。
 9・11以降、多くの文化人があの事件とその後の事態について論じたが、この「海亀日記」の何編かほど私が感銘したものはなかった。やはり宮内さんはいまの日本が世界に誇る作家だと思った。
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取材準備のたいせつさ

 私は、「取材は一に場数、二に準備、三、四がなくて五に愛嬌」だと思っている。

 くわしくはまた機会を見つけて改めて書くが、「取材の場数をある程度踏まなければコツがわからない」ということと、「準備を入念にすればするほど、よい取材ができる」ことはたしかだと思う。

 日垣隆さんは、取材の前には相手の著書や論文をすべて読破することを自らに課しておられるそうだ。たとえば相手に数十冊の著書があれば、それを全部読破するという。スゴイと思う。
 私にはとてもそこまで徹底はできないが、時間の許すかぎり、相手の著書や作品は読んだり観たりしてから取材に臨むことにしている。
 
 その準備は、目に見える形では活きないかもしれない。たとえば、相手の著書を10冊読んで取材に臨んでも、その10冊の内容は取材には直接関係ないかもしれない。しかし、それでもよいのだ。読まずに行く取材とは、深みがまるで違うものになる。
 相手にも、言葉や態度の端々から、「どのくらい自分について調べてから取材にきたか」はわかってしまうものなのだ。

 しかし、ライターがすべて取材準備を入念に行なっているかというと、そうでもない。書く媒体や記事内容によっては、取材準備などまったくせずに臨む人もいる。
 以前、某メジャー週刊誌の記者に「飲みに行こう」と誘われて、「これから、明日の取材の質問事項を考えなきゃいけないので」とことわったら、「わざわざそんなことするの? キミってマジメだねえ」と苦笑されたことがある。
 スピード勝負の週刊誌の世界では、入念な下調べや質問のプロット作りなどしない場合が多いらしい(人によるだろうが)。

 中には、「ヘタに準備などするとよけいな先入見が事実を見る眼を曇らせるから、真っ白な状態で取材に臨んだほうがいい」とのたまう新聞記者サンもいたりする。
 私自身はとうてい首肯できない考え方だ。準備の手抜きの言いわけでしかないと思う。

 そもそも、準備をせず、質問も練らずに取材に臨むなんて、オソロシクて私にはできない。それは丸腰のまま戦場に赴くようなものではないか。
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『ターミネーター3』/お台場へGO!

ターミネーター 3 プレミアム・エディションの画像

 昨日は家族でお台場へ。
 けっきょくゴールデンウィーク中ずっと仕事をしているのだが、1日くらいは「家族サービス」をしないとね。

 いまや日本屈指の「デート・エリア」になっているお台場は、当然のことながらものすごい混雑であった。

 フジテレビの中を見学したり、「自由の女神像」のレプリカの前で写真を撮ったりと、「おのぼりさん」的行動をあれこれ。
 そのあと、セガがやっているアミューズメント・パーク「東京ジョイポリス」に行く。
 人気アトラクションはどこも「1時間待ち」状態で、げんなりする。
 ジョイポリスには初めて来たが、東京ディズニーランドに比べるとアトラクションの質はいまいちだなあ。もう一度来たいとは思わなかった。
 とはいえ、子どもたちが楽しめればそれでよいのである。

 そのあと「船の科学館」に行って、最後はお台場海浜公園に行って……などと計画を立てていたのだが、ジョイポリスで時間を食いすぎたので帰宅することに。

---------------------------

 いまごろ『ターミネーター3』をビデオで観た。
 「ジョイポリス」に『T3』のアトラクションがあったので、なんとなく観たくなった次第。

 大方の人たちの評価と同じく、シリーズでいちばん出来が悪いと思った。映画というより、それこそジョイポリスのアトラクションみたいだ。そう割り切れば、楽しめないことはない。
 たくさんの車や建物が派手にぶっ壊れるシーンの連続で、それなりのカタルシスはあるし、全体が『ターミネーター』シリーズのセルフ・パロディみたいになっていて、笑えるシーンも多い。

 女性型ターミネーターとヒロイン(クレア・デインズ)の強さ・たくましさばかりが目立って、主人公であるはずのジョン・コナーがまったく冴えないのは、時代の趨勢というものか。
 てゆーか、ジョン・コナー役のサル顔俳優、あれはいったいナンデスカ? 『T2』の涼やかな美少年エドワード・ファーロング(どこへ行った?)が成長して、あんな顔になるはずがないじゃないか。観た人は十人が十人そう思ったことだろうけど。

※追記/エドワード・ファーロングは最近、薬物中毒とアルコール依存症で入院したりしているらしい。『T3』に出演できなかったのもそのためであるようだ。薬物の過剰摂取で夭逝したリバー・フェニックスといい、万引きで捕まったウィノナ・ライダーといい、ハリウッドYAスターが受ける精神的重圧は相当なものであることが窺い知れる。

 必ずや作られるであろう『ターミネーター4』の内容を、予測してみる。
 「ジョン・コナーは死んだ」という設定にして、ジョンの「未来の妻」であるというクレア・デインズ(じゃなくてもいいけど)が新型ターミーネーターと闘う物語になるであろう。
 つまり、『エイリアン』シリーズのような、「自力でドラゴンを倒す自立したお姫様」の物語だ。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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