『「超」〇〇法』次作予想

「超」英語法 (講談社文庫)「超」英語法 (講談社文庫)
(2006/10/14)
野口 悠紀雄

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 野口悠紀雄の本は、けっこう読んでいるほうだ。
 『「超」整理法』シリーズは3冊とも出てすぐに読んだし、『「超」文章法』も優れた文章読本だと思った。
 『週刊ダイヤモンド』で長期連載しているエッセイ『「超」整理日記』も、高いクオリティーを保った好エッセイである。

 しかし、野口の著書になんでもかんでも『「超」』をつけるのは、いいかげんやめてもらいたい。辟易する。

 たぶん野口自身も、出版企画が持ち上がるたびに「もうやめようよ、そういうタイトル」とか出版社側に言っているのではないか。
 でもそのつど、編集者から「野口先生、何をおっしゃいます! 『「超」〇〇法』は先生のいわばブランドネーム。これでなければ本が売れません!」とか言われて押し切られているのではないか。

 最初の『「超」整理法』がミリオンセラーになってしまったばかりに、野口は一生『「超」〇〇法』から縁が切れそうにない。
 それにしても、『「超」納税法』『「超」旅行法』『「超」英語法』『「超」リタイア法』などという近著のタイトルを見ると、だんだん苦しくなってきている気がするなあ。

 では、野口悠紀雄が次に出すのは? ちょっと予測してみよう。

1.『「超」読書法』/これは、十分アリだな。『「超」勉強法』と『「超」文章法』はすでにあるのだから。

2.『「超」睡眠法』/多忙を極める野口のことだから、睡眠法についても一家言あるにちがいない。

3.『「超」ディベート法』/野口はいかにもディベートに強そうな感じがするから、こんな本を書かせてもいいものを書くにちがいない。

4.『「超」交友法』/日本はもちろん、各国に幅広い人脈をもつ野口が語る、人生を豊かにする交友の秘訣。うん、これもイケそうだ。

5.『「超」死亡法』/野口の最後の著作は、たぶんこれだ。帯には「ラスト・メッセージ!」の文字が大(以下略)。

 「5」はもちろん冗談だけど、上の4つはマジで出版できそうな気がしてきた。編集者のみなさん、トライしてみてください。
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『ディボース・ショウ』

ディボース・ショウの画像

 コーエン兄弟の新作『ディボース・ショウ』を観た。
 私が一目置いている映画批評家・服部弘一郎さんがこの作品をブログで酷評していたので、期待半分、不安半分で臨む。

 たしかに、服部さんの言われるとおり、コーエン兄弟にしてはひねりがないかな。ベタなギャグも多いし。

 コーエン兄弟の作品にはコメディとシリアスの2つの路線がある。批評家筋に評価が高いのは『ファーゴ』『バートン・フィンク』『バーバー』などのシリアス路線の作品だが、私はコメディ路線のほうがダンゼン好きだ。
 私がコーエン兄弟作品のベスト3を選ぶとすれば、『赤ちゃん泥棒』『未来は今』『オー・ブラザー!』となる。3つともコメディである。

 コーエン作品は、コメディであれシリアスであれ、強烈なブラック・ユーモアの毒と「生きる哀しみ」を感じさせるペーソスに満ちている。要するに、「一筋縄ではいかないヘンな映画」である点が魅力なのだ。

 今回の『ディボース・ショウ』は、ブラック・ユーモアはたっぷりあるものの、ペーソスが足りない。また、コーエン兄弟の作品にしては意外に「フツーの映画」で、ひねくれ方が足りない。

 ただ、悪い映画ではなかった。「コーエン兄弟にしてはいまいちかな」というだけで、標準ラインは十分にクリアしている作品。
 離婚訴訟専門の腕利き弁護士(ジョージ・クルーニー)と、大金持ちとの結婚・離婚をくり返してはとびきりリッチな暮らしをエンジョイする美女(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)の、狐と狸の化かし合いのような恋愛ゲームの物語。

 キャサリン・ゼタ・ジョーンズの一分の隙もないゴージャス美女ぶりを堪能するだけでも、料金分の価値はある。
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『ディナーラッシュ』

ディナーラッシュ スペシャル・エディションの画像

 ニューヨークの人気イタリアンレストランを舞台にした、なかなかおしゃれなノンストップ・エンターテインメント。

 群像劇である。
 レストランのオーナーとその息子であるシェフとの確執をメインに、従業員(腕利きだがギャンブル狂いの副シェフ、画家になるという夢を懸命に追うウエイトレスなど)や客たちのさまざまな人生模様が目まぐるしく交錯する。

 オーナーは裏稼業で「ノミ屋」をやっており、マフィアとのやっかいなもめ事を抱えている。冒頭、オーナーの親友がマフィアに射殺される事件が起こり、その事件をめぐるサスペンスが全体をつらぬく太いタテ糸となる。

 なかなか面白かったが、なんだか観ていて落ちつかない映画だった。
 まず、たった1日の出来事を描いた映画なのに、詰めこまれた情報量が過大である。光を当てるキャラクターをもう少し絞りこむべきではなかったか。

 また、人気レストランの最も忙しい時間帯の戦場のようなありさまがおもに描かれるのだが、観ていてすごくイライラさせられる。
 料理を待たされてイラつく客の気持ち、焦りまくって料理を作るシェフたちの気持ちに、観客も同化してしまうのだ。
 途中、停電が起きて店内がパニック状態に陥るシークェンスがあるのだが、ここなんかもう、イライラが頂点に達する。
 作り手としては観客をハラハラドキドキさせているつもりなのだろうが、実際にはただイライラするだけなのだ。観る者の心をなごませるユーモア(あるいはコーエン兄弟風のブラック・ユーモアでもよい)が不足している。 
 この映画の監督には、我が国が誇る名作ドラマ『王様のレストラン』を観せて、その優れたユーモアを学ばせるべきだった。

 疲れているときに観てはいけない映画。ただ、その「イライラ感」を除けば、映画としての出来はよい。
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ダイエット本は宝クジに似ている

松永式 指しばりダイエット―ヘアゴムで手足の指をしばるだけ!松永式 指しばりダイエット―ヘアゴムで手足の指をしばるだけ!
(2006/10)
松永 みち子

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  ↑うーん、うさんくささ満点

肥満基準の男女格差(2004年4月25日記)
 内閣府が24日に発表した世論調査によると、「自分は肥満だ」と感じている成人女性が全体の47・6%にものぼったという。
 
 私はつねづね、「男から見た『女の肥満』」と「女から見た『女の肥満』」の基準には、かなりのズレがあると感じている。男から見たら少しもデブではないのに、「私は太っている」と思いこんでいる女性が多いように思うのだ。

 今回の世論調査の結果は、そのズレを裏づけるものだ。
 女性のほぼ2人に1人が「私は太っている」と感じていることになるわけだが、多くの男は、「道行く女性の2人に1人は太っている」とはけっして感じていないはずである。

 男女の「肥満基準」のギャップは、重さにしたら5キログラム程度に達するのではないか。要するに、世の女性たちが考えているよりはずっと、多くの男たちはふくよかな女性のほうが好きなのである。

 そのギャップについては浅田次郎が、エッセイ『勇気凛凛ルリの色/四十肩と恋愛』(講談社文庫)の中で、次のように表現している。

「女性は断じて太めがよろしい。思うに、世の女性はことごとく『私はデブ』という強迫観念に捉われているのではなかろうか。(中略)どう考えても『ころあい』としか思えぬ女性に限って、『私はデブだ』と悩んでいるように見える」(「ダイエットについて」)

 というと、私や浅田次郎をいわゆる「デブ専」だと誤解して「引いてしまう」人もいるかもしれないが(笑)、そうではない。
 「デブ専」の人たちのように、「女性は太っていればいるほど魅力的!」と感じるわけではないのだ(「デブ専」の人たちには、森公美子が一番人気なのだそうだ。ストライクゾーンの広い私も、さすがにそこまではちょっとねー)

 浅田次郎は、やや太めだが魅力的な女性の例としてマライア・キャリーやナタリー・ウッド(古いね)を挙げる。
 私が日本の芸能界から例を挙げるなら、松下由樹とか原日出子であろうか。最近のこの2人も、女性の目から見たらおそらく「軽い肥満」の範疇に入るだろうが、私や浅田次郎の目からは「ころあい」「魅力的」に映るのである。ふくよかでまことによろしい。
 
 「えー、でもそれって『オヤジの感覚』じゃん。若いイケメンはもっとスリムなモデル体型が好きなのよ」という反発の声もあろうかと思う。
 たしかに、浅田次郎も次のように言う。
「おのれの女性に対する美意識の変遷をたどって行くと、年齢とともに太めが好きになるような気がする」

 だが、つづけて次のようにも書いているのである。
「この考えを『おやじの趣味』と侮ってはならない。なぜならおやじの視線には知性のかけらもなく、常に動物的本能をもって女性を見るのであるから、『おやじの趣味』はすべからく『美的真実』なのである」(同前)

 世の女性たちの中には、「ダイエットがうまくいかないから、カレシができない/カレシにふられた」と感じ、さまざまなダイエットに励んでいる人が多いだろう。
 だがじつは、せっかくの魅力を過剰なダイエットで損なってしまったばかりにカレシができない女性も、きっとたくさんいるはずだ。一中年オヤジの偽らざる実感として、そう思う。


ダイエット本は宝クジに似ている(2004年4月26日記)
 昨日の日記にはたくさんの反響メールをいただいた(やっぱり、肥満/ダイエットに対する関心は非常に高いのだな)。

 男性陣からは、「私も前からそう思っていました」という賛同が多かった。
 あー、やっぱりね。あのキャンディーズ(オヤジなので例が古い)だって、ガリガリのミキよりは軽度肥満のスーのほうが人気が高かったのだ。

 いっぽう女性陣からは、「ごもっともだけれど、女性のダイエットには、同性の視線を意識して行なうという面も強いのですよ」との指摘が……。

 それから、「やや太めだけど魅力的な女性」の例として挙げた原日出子については、以前、夫の渡辺裕之がトーク番組で「彼女を好きになったきっかけ」について語っていた。
 ドラマで共演した際、彼女とのラブシーンがあり、そのときの「背中の抱き心地がほかの女優さんと違った」のだそうだ(笑)。
 なんとなくわかりますね。あんまりゴツゴツしてるのはちょっと……。

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 じつは私は、ゴーストライターとして何冊もダイエット本を執筆したことがある。だから、世の一般的男性よりはダイエットにくわしいのだ。

 それらの本を書くにあたって得た知識によれば、世のダイエット本は「売れている本ほど眉ツバ」である。

 ホンネでは誰もがわかっているとおり、やせる方法なんて、「食事を減らして運動をする」ということに尽きるはずだ(それをより効果的に行なうノウハウはあるにせよ)。だが、そんなあたりまえのことを書いたダイエット本はけっして売れない。
 売れるのは、「耳のツボでやせる」とか、「アイスクリームでやせなさい」だとか、「リンゴだけ食べてやせなさい」とか、一見魔法のようでいて、よく考えるとムチャクチャな本ばかりなのだ。

 パスティーシュ小説の名手・清水義範の短編に、「痩せる方法」というのがある(新潮文庫『秘湯中の秘湯』所収)。ダイエット本の文体を借りて日本人のダイエット熱をおちょくった作品だが、その中にこんな一節があった。

 痩せ方の本というのは、食べるのを我慢しろと書いてあるのではない限り、人々の奇跡を望む気持ちにつけこんだインチキなのである。人々はむしろそのインチキを求めているのだから、そういう本はこれからも次々に出てくるわけである。



 まことにしかり。
 私の知り合いのある中年主婦(太っている)は、ダイエット本を次々と買い求める心理について、「宝くじを買う気持ちに似ている」と言ったものだ。
「これでもしかしたらやせられるかもしれない、という夢を買うのよね」

 ダイエット本には、このくらいの気持ちでつきあうのがちょうどいい。


※追記
 小林まことのマンガ『格闘探偵団』の2巻を読んでいたら、「ダイエット撲滅委員会」の会長というのが出てきて、大笑いしてしまった。
 その会長は次のように言うのだ。

 女は脂肪がついているから女くさいのだよ。それなのに痩せてかえってブスになって得意げな顔しとる!!
 へたなダイエットなんかすると女性ホルモンが減ってブスになると長年訴えつづけているのだが誰も聞きやせん。
 このままでは日本中ブスばかりになってしまうからダイエット反対のデモ行進を計画しとるのだが、誰も賛同してくれる者がいないのだよ



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人質バッシングと「世間の目」

 イラクで最初に解放された3人の人質に対するバッシングは、まだつづいているようだ。
 私は「左翼」ではないし(右翼でもないが)、ゴリゴリの反米でもないが、このバッシングはやはり行き過ぎだと思う。

 一連のバッシングを見ていて頭から離れないのは、西洋史学者・阿部謹也氏の「世間論」である(くわしくは、阿部氏の著書『「世間」とは何か』『日本社会で生きるということ』を)。

 阿部氏の「世間論」は、世間という枠組みを日本独自のものとしてとらえた、独創的な日本人論・日本社会論である。
 氏によれば、「世間」という言葉は英訳不可能なのだという。欧米には社会はあっても世間はないのだ。
 だから、「悪いことはしていないが、世間をお騒がせしたことは申しわけない」という日本流の謝罪は、欧米人には不可解に映るという。「悪いことをしていないなら、なぜ謝るのか?」と……。

 「世間」イコール「社会」ではない。世間とは、社会と個人の間にある、日本独自の“媒介項”なのだ。
 たとえば、顔見知りが一人もいない空間は、「社会」ではあっても、その人にとっての「世間」ではない。

 そして、この世間という枠組みが、昔から日本人の生き方を規定してきた。多くの日本人が行動の基準としているのは、内面のモラルではなく「世間の目」なのだ。
 だから、日本人にとって「旅の恥はかき捨て」となる。世間の目から離れた空間での行動を縛るものがないからだ。

 そして阿部氏は、世間という枠組みは、そこから外れた存在に対して「極めて排他的で差別的」に作用するものであり、日本の差別問題の根源もここにある、とみる。

 あの3人に対して過剰なまでの憎悪(と私には思える)が向けられているのも、彼らの行動や考え方が、「世間」という枠組みから大きく外れている(そのことの是非はさておき)からではないか?
 「自己責任」とか政府に対する迷惑(!)という言葉で修飾されてはいるが、彼らへの非難は、要するに「世間の枠から外れて生きるとはケシカラン!」、「世間を騒がせたことを謝れ!」という断罪なのではないか?

 3人の家族は、自衛隊撤退を要求する前に、「世間をお騒がせして申しわけない」とまず一言述べるべきであった。それが、日本社会という世間の中で生きていくための「ルール」だから……。

 『ル・モンド』などの欧米のメディアから見て彼らへのバッシングが不可解に映るのも、一つには、「世間」という枠組みが日本人以外には理解しにくいからではないか。

 バッシングの急先鋒である『週刊新潮』などの書きっぷりが妙に自信満々なのも、彼らには自分たちが世間の側=マジョリティーの側に立っているという自負があるからだろう。

※追記/ここでいう「バッシング」とは、3人の自宅に中傷の手紙を送りつけるなど、実害を及ぼしている連中(一部マスコミ含む)を指すのであって、個人のウェブ日記で批判的意見を述べることまでを「バッシング」と言っているわけではない。念のため。
 3人へのバッシングについて、一部の識者(樋口恵子など)が「自分にはできないことをした3人に対する嫉妬」と評していたけれど、「嫉妬」というのとはちょっと違うのではないかと私は感じた。その思いを述べたまで。
 なお、4月22日付の「ZAKZAK」(夕刊フジ)には、「『世間を敵に…』高遠さん深刻なストレス」なる記事が……。
 3人と面会した精神科医の談話として、「特に高遠さんに『世間を敵に回している』との思いが強く、精神的に不安定に」なっていることが伝えられている。

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『トランスポーター』

トランスポーターの画像

 リュック・ベッソンが脚本とプロデュースを兼ねた、フランス産アクション映画。ヤバイものならなんでも運ぶ「運び屋(トランスポーター)」の物語だ。

 ある日依頼を受けた荷物の中身は、手足を縛られ口をふさがれた東洋系美女だった。「依頼された荷物の中身はけっして見ない」というルールを破ってしまった運び屋は、美女とともにマフィアに命を狙われる羽目になり……というストーリー。

 前半はまことに快調である。鮮やかな導入、みなぎるシャレっ気、ほどよいユーモア、歯切れのよいアクション。「おお、これは傑作かも」と大いに期待したのだが、後半になってグダグダっと失速。
 ラストに近づくにつれてストーリーとアクションの荒唐無稽度がどんどん強まっていき、すっかりシラケてしまった。
 『トリプルX』や『チャーリーズ・エンジェル』みたいに最初から思いきり荒唐無稽ならそれなりに楽しめるのだが、この映画は前半がヘタにリアルであるばっかりに、後半の展開についていけなかった。

 1度シラケてしまうと、面白く思えた前半の粗までがくっきり見えてくる。

 そもそも、運び屋という職業にまるでリアリティがない。
 とびきりの運転技術と軍隊仕込みの格闘技術が主人公のウリなのだが、そうした技術をもった「運び屋」がかりにいたとして、いったいどんな仕事を依頼したらよいのか? ヤバイものなら他人に頼まず自分で運んだほうが安心ではないのか(笑)。

 もしも運び屋に依頼するとしたら、

1.自分では運べないようなヤバイもので、
2.なおかつ、ものすごいスピードで運ばなければならないもので、
3.それでいて、いますぐではなく後日運んでもかまわないもの(運び屋と「契約」を結ぶ必要があるから)

 という3つの条件を備えたものでなければならない。そんなムズカシイ条件を兼ね備えた荷物がそうそうあるとは思えないのだ。

 映画の中で描かれる「仕事」の例は、銀行強盗の逃走用に、その銀行の前で主人公が車で待っている、というもの。つまり、強盗たちを「運ぶ」のだ。なんかスゲー無理があるなあ、と思うのは私だけ?

 ストーリーの核となる「縛られた美女を運ぶ」という仕事も、マフィアがなんのためにその美女の「運送」を依頼したのかが、けっきょくわからずじまい。そもそもの設定に無理があるからこういうことになるのだ。

 まあ、細かいことを気にしなければ、カーチェイスや火薬をたっぷり使ったアクション・シーンはけっこう楽しめる。レンタルビデオで観る分には、「損した」とは思わない映画。
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『週刊新潮』の「お家芸」

 『週刊新潮』の最新号(4月22日号)が売り切れ店続出の勢いだという。原因はいうまでもなく、イラクの人質3人のプライバシーを盛大に暴いた目玉記事である。

 この記事が、じつにひどい。同日発売のライバル誌『週刊文春』も3人のプライバシーに触れているのだが、例の「真紀子長女記事」から日が浅いこともあってか、文春のほうはずいぶんおとなしいトーンの記事になっている。そのため、『週刊新潮』の悪意がいっそう際立つのである。

 3人の行動について賛否両論あるのは、当然であろう。
 だが、まだ安否も明らかになっていなかった段階で、微に入り細を穿ってプライバシーを暴き(親の所属政党や職業、本人たちの非行歴・学歴・職歴・離婚歴から住まいの間取りに至るまで書かれている)、揶揄中傷し、《~「劣化ウラン弾」高校生》などという悪意に満ちた見出しをつけるのは、あまりにひどい。

 一方では立派な文学全集を出しているような老舗文芸出版社の雑誌が、「2ちゃんねる」レベルのプライバシー暴きを大々的にやっているのである。

 だが、これまでの同誌の報道姿勢を考えれば、今回の記事はじつに「新潮らしい」ともいえる。
 犯罪被害者のプライバシーを暴くことも、市民運動団体を叩くことも、社会的活動に勤しむ女性を揶揄中傷することも、『週刊新潮』のお家芸であり、その3つがいっぺんにできる一石三鳥の「おいしいネタ」を、彼らが見逃すはずはないのである。

 過去の報道から、ここでは「犯罪被害者叩き」の例を挙げよう。

 1993年、イタリアのローマで、旅行中の日本人女子学生6人がレイプされるという痛ましい事件が起きた。『週刊新潮』はこの事件を数回にわたって報じたが、それらの記事はいずれも、“彼女たちの行動も軽率であった”うんぬんと、被害者側に落ち度があったかのようにいう内容だった。
 とくに、93年2月18日号では、《ローマで六人一括「レイプ」された女子大生の「学校名」》なるタイトルの記事を載せ、記事中では被害者の学校名・学科名まで書いてしまった。

 2001年6月に沖縄で起きた米兵による日本人女性レイプ事件をめぐっても、『週刊新潮』は同じことをくり返した。4回にわたってこの事件を報じたが、その中で、まるで被害女性の側に落ち度があったかのようにいいつのり、心の傷に塩を塗りこんでみせたのである。
 女性は一部マスコミの暴力的取材に抗議する手記を発表したが、『週刊新潮』はその手記さえも槍玉にあげ、「自己弁護のオンパレード」「余りにも薄っぺらい内容」などと嘲笑してみせた。

 今年に入ってからも、毎日新聞社社長の拉致監禁事件を報じるにあたって、『週刊新潮』は記事見出しに「ホモ写真」なる言葉を用い、事件の被害者である社長を、事実を歪曲する形で揶揄中傷した。事実は、監禁中に衣服を脱がされて写真を撮られたというだけのことなのである(この記事をめぐっては、毎日新聞社と同社社長が新潮社を提訴)。

 人の不幸を売り物にし、プライバシー暴きを売り物にしてきた雑誌に向かって、「そうした記事を書くのはケシカラン」と言ってみても詮ないことではある。
 が、今回の特集記事のリード文冒頭に「いったい日本人の美徳はどこへ消えてしまったのか?」などと書かれているのをみると、やはりムカムカしてくるのである。

 「日本人の美徳」?
 いまの日本人がこんなにも「他人の不幸とプライバシー暴きが大好き」になってしまった責任の一端は、『週刊新潮』のような雑誌の人権侵害報道にあるのではないか? 1956年の創刊以来、半世紀近くにわたって毎週くり返されてきた同誌の「俗物主義」報道(※注)は、日々の食事に盛られる微量の毒のように、じわじわと日本人の心を蝕んできたのではないか? その『週刊新潮』に、「日本人の美徳」をうんぬんしてもらいたくない。

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※『週刊新潮』『フォーカス』の「生みの親」である齋藤十一(故人・元新潮社重役)は、かつて岩川隆によるインタビューにこたえ、次のように述べた。
「うちの基本姿勢は“俗物”主義でした。人間という存在自体がそうでしょう。どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女……、それが人間なのですよ。だから、そういう“人間”を扱った週刊誌を作ろう……あっさりいえばただそれだけでした」(『潮』1977年5月号)

 齋藤はまた、『週刊文春』97年7月31日号の《わが「新潮社」社員に告ぐ》というインタビュー記事で、次のように述べている。

「人権? たしかに大事なものかもしれないね、でも、それに拘泥してたんじゃ、ぼくらは出版できない。人権よりもっと大事なものがある」


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 もちろん、覗き見願望や人の不幸にほくそ笑む卑しさは、誰にでもあり、私の中にもある。偏見も、誰にでもある。
 しかし、そうした人間のネガティヴな側面を抑制する方向に努力するのがジャーナリズムの役割ではないのか?

 たとえば、「強盗に入られた側にも隙があり、落ち度があった」とは誰も言わないのに、レイプについてだけはいまだに「被害者にも落ち度があった」という言い方がまかりとおる。それはひどい偏見であり、ジャーナリズムならその偏見をなくす方向に努力すべきである。しかし、『週刊新潮』のやってきたことはまったく逆で、偏見を助長する記事を積極的に載せてきたのだ。

 覗き見願望と偏見を助長する『週刊新潮』の報道姿勢は、20世紀の遺物である。
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追悼・横山光輝

闇の土鬼 土鬼と武蔵編 闇の土鬼 土鬼と武蔵編
横山 光輝 (2006/08)
講談社

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 昨日鷺沢萠の死について書いたばかりだというのに、今日は横山光輝……。なんか滅入るなあ。

 誤解を恐れず言えば、少年マンガの中にあっては「B級」のイメージが強いマンガ家であった。
 ロボット・マンガでいえば『鉄腕アトム』がA級で『鉄人28号』はB級。忍者マンガでいえば白土三平がA級で横山作品(『伊賀の影丸』など)はB級。SFとしても、『バビル2世』『マーズ』などの横山作品は、手塚や石森章太郎の諸作と比べればB級。そんな印象がある。

 急いでことわっておけば、「B級だから悪い」と言っているわけではない。また、「B級イコール二流」という意味でもない。横山光輝は押しも押されもしない一流マンガ家だったが、それでも「B級」イメージなのである。
 「B級映画」という評言がある種の映画に対する最高の讃辞であるように、横山作品にはB級ならではのよさがあった。

 個人的に愛読したのは、横山が1970年代に『少年マガジン』『月刊少年マガジン』で描きつづけた、一連の「B級」娯楽作である。
 『闇の土鬼』『時の行者』『狼の星座』……この3作が、私の選ぶ横山作品ベスト3だ。

 以下、マイベストワンの『闇の土鬼』について私のサイトに書いた短文をコピペ。

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 横山光輝は、大ヒット作を多数持ちながら、論じられることの少ない職人肌のマンガ家である。

 たしかに、この人の作品がマンガ表現のイノベーションを進めたということはまったくあるまい。しかし、その作品のいくつかは読み出したら止まらない面白さを持っており、あなどれない。

 この『闇の土鬼』は、少年時代の私が毎週楽しみにしていた傑作。「七節棍」という武器を操る天才武芸者・土鬼が、養父の仇である血風党(徳川幕府の秘密部隊)の首領・無明斎を追いつめていく過程が、スリリングに描かれている。

 無明斎に近づくにつれ、土鬼の前に立ちはだかる相手が少しずつ強敵になっていく(クライマックスは柳生十兵衛との対決!)あたり、よくできたロールプレイングゲームのような面白さである。

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 日本のマンガが誇る偉大なアルチザン(職人)・横山さんのご冥福をお祈りしたい。
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追悼・鷺沢萠

明日がいい日でありますように。 サギサワ@オフィスめめ明日がいい日でありますように。 サギサワ@オフィスめめ
(2005/04/22)
鷺沢 萠

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 作家の鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)さんが亡くなったそうだ。
 35歳! 若い。若すぎる。死因は心不全だという。
 
 私は、とくにファンというわけではないが、彼女には15年ほど前に1度インタビューしたことがある。長編『スタイリッシュ・キッズ』を発表した直後のことだった。
 西武新宿線鷺ノ宮駅にほど近い、「デニーズ」だか「ロイヤルホスト」だかのファミレスで取材したことを、鮮明に覚えている(「ペンネームは鷺ノ宮の鷺からとったんですか?」とアホな質問をして、あっさり否定されたので覚えているのだ。思えば、あのとき彼女はまだ20歳だったのだなあ)。

 上智大生時代に文学界新人賞を18歳で受賞してデビューした彼女は、いまの綿矢りさや金原ひとみの先輩格ともいうべき「アイドル作家」であった。
 デビュー作『川べりの道』(吉田秋生のマンガ『河よりも長くゆるやかに』の盗作ではないかと物議を醸した作品)の単行本口絵の著者近影は、それはそれは清楚で美しかったものだ。好みもあろうが、綿矢りさなど目じゃない「正統派美少女」であったと私は思う。
 高樹のぶ子、松本侑子とともに、某誌で「三大美人作家てい談」(すごいな、このタイトル)なんてのをやったこともあったっけ。

 もっとも、実際に取材してみると清楚というよりはあっけらかんとした姉御肌の女性で、写真のイメージとのギャップに驚いたものだ。
 その後、「美少女作家」のイメージを自らすっぱり脱ぎ捨て、豪快な「姉御キャラ」で売っていたのは周知のとおり。

 一期一会ではあったけれど、取材したことのある作家が亡くなると、やはり寂しい。「美人薄命」という成語の意味を、しみじみと思う。
 ご冥福をお祈りしたい。
 
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 取材から帰ってネットにつないでみたら、ポータルにしている「ヤフー・トピックス」のトップページに、いきなり「鷺沢さん、自殺だった」の文字が……。絶句。

 人が深刻な鬱状態に陥ったときには、ささいなことが自殺の引き金になると聞く。
 鷺沢萠さんはかつて芥川賞を何度も逃している。綿矢りさ、金原ひとみ両嬢の受賞フィーバーは、彼女にとって大きなプレッシャーになったのかもしれない。「自分が時代に取り残された」ような感覚に苛まれたのかもしれない。 
 いや、要らざる詮索は控えよう。

 ただ、物書きというのは、ほんらいものすごく孤独な仕事である。ライターの私でさえ、ときどきその孤独をひしひしと感じて、「家族がいてくれてよかった」と思う。
 ましてや、己が心の深淵を絶えず覗きこむような仕事である小説家がひとり暮らしをしていたら、その孤独の深さは時に耐え難いものになるのかもしれない。

 少年時代の私が親に初めて「将来小説家になりたい」と表明したとき、私の無学な母親は、心配そうな顔でつぶやいたものだ。
「小説家は……すぐに自殺とかするからイヤだよ」と。
 そんなことを思い出してしまった。
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『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法2』

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 2ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 2
(2004/03/19)
福田 和也

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 福田和也著『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法2』(PHP/1250円)読了。2001年に発刊されたベストセラーの続編である。

 私は、思想的には福田とまったく相容れない(とエラソーに言うほど大した思想をもっているわけでもないけど)。しかし、大学助教授もやりつつ評論家として驚異的な仕事量をこなすそのエネルギーには敬服する。また、福田の『作家の値うち』(飛鳥新社)は現代日本文学のガイドブックとしてなかなか有益で、いまだにときどき引っぱり出しては参照している。
 やっぱり、物事はなんでも是々非々でいかないとね。

 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』も、出てすぐに買って読んだ。梅棹忠夫の『知的生産の技術』の系譜につらなる、「物書きの技法本」である。

 以下、そのときに書いた日記から引用。

 情報をインプットし、文章としてアウトプットする「知的生産」については、物書き一人ひとりが自分なりのスタイルを編み出す以外にない。他人のやり方を一から十までなぞるわけにはいかないのだ。
 だからこそ、この手の技法本は、一冊だけ読んで事足れりとはいかない。参考になるノウハウがせいぜい10以上も書いてあれば、まあ合格といえよう。

 で、この本はどうかといえば、改行がやたらと多くてスカスカではあるものの、まずは合格点。思わず「そのとおり!」と膝を叩きたくなる主張も多々ある。

 評論家や大学教員など、堅い分野の「知的生産者」向けの内容で、野口悠紀雄の『「超」整理法』のように一般のビジネスマンが読んでも役立つというものではない。が、とりあえず、物書き及びその卵にはオススメ。



 3年ぶりの続編となる本書は、正編ではほとんど触れられていなかったパソコン等のデジタル方面に関する著者の仕事術にウエイトが置かれている。

 相変わらず改行が多くてスカスカだし、文章は口述筆記したような感じの粗雑なもので、「やっつけ仕事」の雰囲気がムンムン。だが、それでも傾聴すべき卓見やすぐに役立つノウハウも少なくないから、物書きなら読んで損はない本である。

 私が大いにうなずいて傍線を引いた箇所を、いくつか引用しよう。

 自分の書こうとしているものと、書けるもの、書いたものの落差にさらされ、苦しむということ、苦しみ続けるということ、が文章向上のための、まさしく王道といってよいでしょう。

 アマチュアの頃や、まだ仕事の少ない時には、調子がいい時を待っていたり、期せずして好調な時に一杯書いてしまうわけですが、プロの場合には、そういうわけにはいきません。いつでも、最高とはいいませんが、八割方のテンションを、意識的につくりださなければならない。そうでなければ、長期にわたって、多くの仕事をすることができないからです。

 とてつもなく斬新なアイデアに恵まれるなどというのは、一種の僥倖なのです。(中略)私たちが取り組まなければならないのは、とてつもなくいいアイデアを得る方法を考えるよりも、そこそこの発想、使える企画を長期的に得るためにはどうすればよいのか、という課題にほかなりません。



 前作でも「スランプの乗り越え方」に一項が割かれていて、目からウロコだったものだが、本書もまた、“継続的に文章でメシを食っていく”ための心構えが説かれた部分に最も共感を覚えた。

 年に1回だけ100点満点の原稿を書くためのノウハウではなく、合格ラインを超える60点の原稿を毎月コンスタントに書きつづける(プロならそちらを目指すべき)ためのノウハウが書かれた本である。

 ただし、パソコンに関する記述は、そっち方面にくわしい人にとってはまったく役に立たない初心者向けのものだろう。なにしろ、パソコン音痴に近い私でさえ「なにをいまさら」と感じるくだりが多いのだから……。
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『パッション』

   パッションの画像
 
 『パッション』を試写会で観た。

 全米ナンバーワンの興行成績を上げたこの大作、映画界の枠を越えて大きな話題になっている。
 ローマ法王がこの映画を観て「絶賛した・しない」をめぐって論争が起こったとか(法王が観たこと自体は事実)、キリスト教原理主義者として知られるブッシュ大統領が「私もぜひ観たい」と言ったとか、この映画を観て悔い改めた殺人犯が自首してきたとか、すでに2人の観客がショックのあまり心臓麻痺で亡くなったとか……。

 しかしまあ、そういう大反響もアメリカなればこそであろう。日本でこの作品が大ヒットすることはおそらくないだろうし、それほど大きな反響が巻き起こるとも思えない。
 だって、キリスト教徒でない人にとっては切実なテーマではないし、娯楽性は微塵もない映画なのだから。

 この映画は、キリストの最後の12時間(ユダの裏切りによって大司祭の差し向けた兵に捕らえられ、ゴルゴダの丘ではりつけになるまで)を、お金と手間ヒマをたっぷりかけ、新約聖書の4つの福音書の記述に忠実に描いた作品。ただそれだけ。それ以上でも以下でもない。

 従来のキリスト伝がリアルに描くことを避けてきたキリストの受難(=パッション)のディテールを、すさまじいリアリティで描き尽くしている。

 鞭打たれる場面では、鞭の一振り一振りがキリストの身体を血に染めていく過程が、はっきりと描かれる。一振りごとに傷は増え、肉が剥がれ、やがて全身が傷だらけになっていく。刑場の石畳には深い血だまりができ、聖母マリアと「マグダラのマリア」がひざまずいてその血を布で拭う。
 はりつけの場面では、両手両足を太い釘で打ちぬかれる過程などが、これまたリアルに描かれる。その痛みが観客にもダイレクトに伝わってくるようだ。
 そして聖母マリアは、十字架の上で息絶えようとする我が子の足に口づけをする。彼女の口元は、キリストの血で紅く染まる。その様子は、凄惨だが美しい。

 まるでスプラッタ……といったら語弊があるが、血を見るのが苦手な人は絶対観ないほうがいい。カップルで観に行くのもやめたほうが無難だ。「聖なる血」に満ちた映画。

 映像の迫力はすごい。キリストがはりつけになるその場に立ち会っているような感覚すら覚えるほどだ。 
 また、撮影監督(キャレブ・デシャネル)がカラヴァッジオの絵画を意識して作ったという陰影に富む画面、それに美術・衣装は、一部の隙もない見事さである。

 厳粛な宗教映画であり、観て楽しい作品ではけっしてないが、観ておいて損はないと思う。
 なんというか、“口当たりよくシュガーコーティングされたキリスト教”ではなく、ゴツゴツと骨ばった「生のキリスト教」に初めて触れた気分になった。
 これまで本や絵画などを通じて断片的にしか知らなかったキリストの受難について、その全体像(「最後の晩餐」の場面なども回想の形で描かれている)が眼前に展開されるのだから、なかなか強烈な映像体験であった。
 私も含め、キリスト教徒ではない人たちにとっては、この作品を観る前と後では、聖書などを読んだときの感じ方が違ってくるのではないかと思う。

 強い印象を受けたのは、キリストの受難に際して揺るがぬ信仰をつらぬいたのは総じて女性の弟子たちであったということ。
 対照的に、男たちは激しく揺れ動く。ユダのみならず、のちに十二使徒の柱となったペテロですら、群集の暴力を恐れて「私はこの男の弟子ではない!」と思わず叫んでしまうのだった。

 ハリウッド大作として作られる映画には、文芸大作だろうと歴史大作だろうと、いくばくかの娯楽性があるものだ。しかしこの作品は、まぎれもないハリウッド大作(ただしアメリカ/イタリア合作)でありながら、娯楽性皆無という特異な映画である。「泣ける」というたぐいの作品でもない。

 「マグダラのマリア」を演ずるモニカ・ベルッチ(『マレーナ』に主演した女優)は超ハマリ役。グラマー美女のすっぴん顔に「萌え」。これがこの映画の唯一の娯楽性といえなくもない(笑)。
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『ほしのこえ』

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(2002/04/19)
不明

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 ウワサの『ほしのこえ』をようやく観ることができた。2002年の作品であり、もうすっかり語られ尽くした感もあるから、アニメオタク諸君から見たら「なにをいまさら」だろうけど。

 新海誠という一人の青年(1973年生まれ)が一台のマックで創り上げた、個人制作のフルデジタル短編アニメである。
 いやー、たった一人で(声優・音楽・音響は人の手を借りているが)これほどハイクオリティーなアニメ映画を作れてしまうとは、オソロシイ時代がきたものだ。

 もちろん、ジブリ作品とか押井守の作品と比べてしまえば、アラはいくらでも見つかる。が、たとえば『ガンダム』以前の平均的テレビアニメと比べてみれば、この『ほしのこえ』のほうが技術的には上だろう。
 これからは、このような個人制作のアニメが熱狂的ファンを生むケースも増えていくのだろうなあ。

 この『ほしのこえ』は、要するに「究極の遠距離恋愛」の物語。
 時は21世紀後半。中学生の恋人同志――ノボルとミカコが主人公。ミカコは「国連宇宙軍」の選抜メンバーとなり、恒星間飛行に旅立つ。

 地上と星の彼方に引き裂かれる2人を結ぶものは、携帯電話のEメールのみ。
 だが、ミカコの乗る宇宙船が地球から離れるにつれて、メールが届くまでの日数も長くなっていく。最終目的地のシリウスまでたどりついたとき、メールが届くまでにかかる年月はじつに8年以上。

 しかも、光速に近い速度で飛ぶ宇宙船の「ウラシマ効果」により、ミカコは15歳のままだが、地上に残されたノボルは歳月に合わせて年をとり、20代後半になっていた。
 気の遠くなるような距離と年月に阻まれた、2人の恋の結末は?
 
 ……とまあ、そういう物語。

 SFをSFたらしめる要件というか、SFの本質部分にあるのが「センス・オブ・ワンダー」(驚異の感覚)である。伊藤典夫はこの言葉を、「夜空の星々を見上げ、それと自分との間の関係を理解したときの感動」と定義している。
 それは、たんに星空の美しさに見とれることではない。
 数十万光年離れた星からの光が地球に届くまでには、当然のことながら数十万年かかっており、その星はすでにそこには存在しないかもしれない。その不思議さに心打たれることこそが「センス・オブ・ワンダー」なのである。

 光年単位の距離を超えて届く、恋人からのメール。しかしそれは、実際には数年前に打たれたものであり、いまの彼女の気持ちではないかもしれない。それどころか、彼女はすでに異星人との戦闘や事故に巻き込まれてこの世にいないかもしれない。
 ――そのようにセンス・オブ・ワンダーをかき立てる『ほしのこえ』の着想は、まさにSFそのものであり、じつに素晴らしい。

 しかし、その着想を展開する手練手管はいま一つ。手錬れの脚本家が加わったなら、もっともっと切ない「悲恋物語」に仕上げられたはずだ。
 
 光年単位の時間と距離に引き裂かれた恋人たちの物語といえば、藤子・F・不二雄の「一千年後の再会」とか、佐藤史生の「金星樹」などという先行の傑作があるわけで(私はマンガしか知らないが、SF小説の世界にはもっとたくさん類似作があるだろう)、アイデア自体は画期的というほどではない。

 ただ、この『ほしのこえ』は、それを携帯電話のメールでやりとりする「いまどきの少年少女の物語」に設定した点が新機軸である。
 たとえば、ミカコがメールの中で「またコンビニで一緒にアイス食べたいよ」などと言うあたり、いまどきの若者たちが胸キュン(死語)になるのもうなずける。

 しかし、しつこいようだが、後半の展開は拙劣。
 そもそも、ミカコがガンダムのようなモビルスーツに乗り込む必然性がまったく感じられない。要は、新海自身が“ガンダムみたいなアニメを作ってみたかった”だけなのではないか。

 ともあれ、これほどのクオリティーのアニメを一人で作り上げた(半年かかったそうだ)熱意には、素直に脱帽。
 次世代のジャパニメーションを背負って立つ逸材となるであろう新海誠の今後の創作活動に、大いに期待したい。
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キリンジのアルバム

For Beautiful Human Lifeの画像

『For Beautiful Human Life』(東芝EMI/3000円)
 私はキリンジのアルバムでは『3』がいちばん好きで、逆に前作『OMNIBUS』(※)と前々作『Fine』の出来にはやや不満だったのだが、今回は100%満足! キリンジらしさ全開、捨て曲なしの力作だと思う。

 オープニングの「奴のシャツ」でいきなりノックアウト。『幻想の摩天楼』のころのスティーリー・ダンを彷彿とさせる(歌詞のひねくれ具合も含めて)、パーフェクトな都会派ポップスである。 
 
 ほかの曲も、先行シングルとして発売された「カメレオンガール」「スウィートソウル」がまったく目立たないくらい粒揃い。
 とくに今回は、〝切な系〟の大人っぽい曲が多いところが素晴らしい。「愛のCoda」「繁華街」「ハピネス」「嫉妬」といったあたりの〝ビターな甘さ〟は極上で、日本最高レベルの「大人向けポップス」だと思う。

 キリンジのファン層の中心はおそらく20代女性なのだろうが、むしろ70年代あたりからAOR系のポップスを聴きつづけてきた耳の肥えたオジサン・オバサンにこそ歓迎される音だと思う。食わず嫌いで聴いたことがないというオジサン・オバサンがいたら、ぜひともオススメ! 今作もしくは『3』から入るといいですよ。

※前作『OMNIBUS』は、他のアーティストへの提供曲のセルフカヴァー中心だったせいか、「オリジナル・アルバム」に数えられていない。今作が「約2年ぶりとなる5thアルバム」という扱いになっているのだ。そのため、たとえばアマゾンのレビューでは、今作と『OMNIBUS』が両方とも「5thアルバム」と表記されている。ややこしいことである。

『OMNIBUS』(ワーナー/3059円)
 全10曲中、洋楽のカヴァーが2曲あるほか、キリンジがほかのアーティストに提供した楽曲のセルフ・カヴァーが6曲あるという、やや変則的なアルバム。

もっとも、セルフ・カヴァーの6曲は藤井隆(もちろん吉本の)やかせきさいだぁの曲など、私が元歌を知らないものばかりなので、まったくの新曲として楽しめた。

 洋楽のカヴァーは、クイーンの「ファット・ボトムド・ガールズ」と、ランディ・ニューマンの「サイモン・スミスと踊る熊」。この選曲のひねり具合はキリンジならではだ。

 だって、クイーンという超メジャーなバンドをカヴァーするのに、「キラー・クイーン」や「マイ・ベスト・フレンド」などというポップなヒット曲には目もくれず、よりによって「ファット・ボトムド・ガールズ」(「デカ尻女が世界をぐるぐるロックさせるぜ!」というスゴイ曲)ですよ。

 しかも、『ジャズ』というアルバムに入っていた原曲はクイーンらしいゴージャスなハードロックなのに、キリンジ版はまるでカントリーのような地味で静謐なアレンジ。おまけにそれをわざわざアルバム1曲目にもってくるのだから、ひねくれぶりも堂に入っている。

 また、もう1曲のランディ・ニューマンにしても、いったい何人のキリンジ・ファンが元歌を知っているだろう。

 ちなみに私はランディ・ニューマン、けっこう好きである。70年代には「ショート・ピープル」という大ヒットを放ったこともある、アメリカのちょっと通好みなシンガー・ソングライター。
 アニメ映画『トイ・ストーリー』の音楽を担当していた人、といったら、「ああ、あの…」とわかる人もいるだろう。この「サイモン・スミスと踊る熊」は、矢野顕子もアルバム『オーエス、オーエス』で取り上げていた曲。

 全体の印象は、これまでのキリンジのアルバムの中で最も地味。
 70年代初頭のアメリカン・ポップスのようなアコースティックなアレンジの曲が多く、モノトーンというか、飾り気のないアースカラー感覚の音。前作『Fine』は売れ線狙いとも思えるほどカラフルな作品集だっただけに、地味さがよけい際立つ。

 でも、私の好みから言うと、『Fine』よりはこっちのほうに軍配。シンプルなモノトーン感覚のアレンジであるぶん、キリンジ本来のメロディーやコーラス/ハーモニーの美しさがくっきりと浮かび上がる。聴きこむほどに味わいを増しそうなアルバムだ。

 ただ、私がこれまでのベストだと思っているサード・アルバム『3』の衝撃には、残念ながら遠く及ばない。初めてキリンジのアルバムを買うという人には、この新作よりも『3』をオススメしておこう。

■今作での私のフェイバリットは、“キリンジ節”ともいうべきメロディーと完璧な曲作りが堪能できる「代官山エレジー」(藤井隆への提供曲)「来たるべき旅立ちを前に」(ブレッド&バターへの提供曲)と、“冬のボサノヴァ”といったイメージの清冽な佳曲「まぶしがりや」。3曲とも、大山泰輝のピアノがメチャメチャよい。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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