『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』

マンガ原稿料はなぜ安いのか?―竹熊漫談マンガ原稿料はなぜ安いのか?―竹熊漫談
(2004/02)
竹熊 健太郎

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 竹熊健太郎著『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』(イースト・プレス/1200円)読了。

 かつて、相原コージと組んで「メタ・マンガ(マンガを描くことについてのマンガ)」の大傑作『サルでも描けるまんが教室』を大ヒットさせた、あの竹熊健太郎の新著である。

 少し前、『噂の眞相』の記事に「竹熊健太郎は最近仕事がなく、警備員のバイトをして食いつないでいる」という一行があった(ホントかどうかは知らない)。
 また、離婚をし、膨大なマンガ・コレクションの一部を売却してそのための引越し代を捻出したと、これは竹熊自身がコラムで書いていた。
 要は悪い話ばかりが耳に入ってきたのだが、この新著を読むかぎり、当の竹熊は意気軒昂のようである。慶賀に堪えない。

 誤解されやすい書名だ。べつに原稿料の話ばかりが書かれているわけではなく、収められた文章の多くはまっとうなマンガ評論である。

 ただ、原稿料の話には誰しも興味があるものだから、アイキャッチとしてこの書名にしたのは「売る戦略」としては正しい。じっさいには、原稿料の話は最初のほうに出てくるだけなのだが……。

 マンガ家が儲かるのはコミックスが大売れして印税が入ってこそであって、原稿料だけなら食うのがやっと――それくらいは私も知っていたが、本書でセキララに明かされたマンガ家の経済収支には、私も驚かされた。
 たとえば、業界用語でいう「連載貧乏」(=駆け出しのマンガ家がヘタに連載をもつと、アシスタント代やら何やらのせいで、かえって貧乏になる)の実態について、「必要経費・利益概算」まで示して詳述しているのである。

 だが、本書の価値はそうした業界内幕話にのみあるのではない。

 帯の惹句には、「マンガのタブーを教えましょう! 竹熊健太郎が捨て身で語る爆笑エッセイ」とある。もっとも、「捨て身で語る」「タブー」というほどの暴露はないし、それほど「爆笑」できるような内容でもない。

 むしろ、冒頭に置かれた原稿料話のあとに収録された数々のマンガ評論のほうが、読みごたえがある。
 マンガ業界の現状を鋭く批判した提言あり、マンガ原作者としての体験をふまえた「原作論」あり、作家・作品論あり……と多彩な内容だが、いずれも真摯な、そして意外なほど正統的なマンガ評論である。

 私は竹熊について、正直なところ評論家としては評価していなかった。「マンガにくわしい小器用なライター」としか思っていなかったのだ。
 だが、本書を読んで認識を改めた。本書には「竹熊漫談」と副題がついているが、そんなくくり方で売ってしまうことが惜しまれるほど、立派なマンガ評論集である。

 とくに、「Part3 マンガ作家の話」に収められた宮崎駿論、赤塚不二雄論、楳図かずお論は、それぞれ独創的で見事な作家論となっている。
 たとえば、楳図かずおの諸作品について、「『母』の存在こそは楳図作品の基調テーマ」だと喝破し、これまで誰も試みなかったその角度からのアプローチを展開している。そして、次のように言う。

「この強烈な『母の愛』こそが『漂流教室』を支える求心力の原点だ。これはたんに現実の愛を描いたものではない。愛にもし内臓があるのなら、楳図はその『内臓』をも描くのだ」

 最後の一文など、なかなかシビレるフレーズではないか。「サルまん」でアホなことばかりやっていたあの竹熊に、こんな評論が書けるとは思いもよらなかった。

 マンガ好きなら絶対に楽しめる1冊。
 ちなみに最後の章では、「サルまん」の内幕もセキララに語られている。
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『バーバー吉野』

バーバー吉野 スペシャル・エディションの画像

 プレスシート(配給会社がマスコミ関係者に配布する宣伝パンフ)には、「和製『スタンド・バイ・ミー』誕生」とある。
 手っ取り早く人目を引くにはこういう惹句がいいのだろうが、ちょっといただけない。少年たちが主人公の映画だとすぐに「もう一つの『スタンド・バイ・ミー』」、犯罪がらみの人間ドラマだとすぐに「これは現代の『罪と罰』だ!」と煽るパターンは、もうすっかり陳腐化しているからである。
 『スタンド・バイ・ミー』や『罪と罰』に匹敵する作品が、そうポコポコ生まれるはずがないではないか。

 ……と、いきなりケチをつけてしまったが、この映画はなかなかいい。「和製『スタンド・バイ・ミー』」というほど深刻な話ではなく(死体など出てこない)、もっとほのぼのと「男の子たちの世界」を描いた佳編である。

 山間の田舎町が舞台。
 「バーバー吉野」とはこの町にただ一軒ある床屋で、町の男の子たちの散髪を一手に引き受けている。
 そして、町の小学校に通う男子は、「バーバー吉野」で「吉野刈り」と呼ばれる同じ髪型(修道士のような、マッシュルーム・カットとオカッパを混ぜたような髪型)にしなければならない。不文律でそう決まっているのだ。

 映画の主人公は、この床屋の女主人(もたいまさこ)と、その息子を含む小学校の同級生4人組。

 息子たちのクラスに東京からの転校生がやってくるところから、物語は動き始める。サラリとブローした茶髪の転校生は、「吉野刈り」を断固拒否。しかも、そのカッコよさで女子の注目を一身に集め、男子たちと学校側に大きな波紋を投げかける。

 「吉野刈り」の強制をやめるか否かをめぐる騒動を軸にストーリーは進むが、「子どもの人権」がテーマではない。
 「吉野刈り」は、地域共同体のあたたかい結びつきの象徴なのである。時代の波が伝統の「吉野刈り」を終わらせるまでの過程を描くことで、この映画は日本から地域共同体の絆が消え去ったことを哀惜しているのだ。

 そして同時に、すべての男が通り抜けてきた「男の子たちの世界」を、ノスタルジックに描いた作品でもある。
 この映画が長編デビュー作だという監督(脚本も)の萩上直子は、まだ30代初頭の女性。にもかかわらず、「男の子の世界を、なぜこんなによく知っているの?」と言いたくなるほど、ディテールがリアルだ。
 山間の廃屋を利用して「秘密基地」を作ったり、父親の本棚からくすねてきたエッチな雑誌をみんなでこっそり見たり(笑)、焚き火を囲んで好きな女の子の名前を告白しあったり……「男の子の世界」にはつきもののエピソードが、巧みにストーリーに盛り込まれている。
 なんだかすごく懐かしい。私も小学生時代には、バスに乗って隣町に行くだけのことがちょっとした「冒険」に思えてドキドキしたものだ。そんな甘酸っぱいドキドキ感が、全編に満ちている。

 映画の基調となるのはユーモアとリリシズム。けっして深刻にならないところがいい。
 とくに、「バーバー吉野」の愛すべき「おせっかいおばさん」を演ずるもたいまさこが、一世一代のハマリ役(彼女は名バイプレーヤーだが、映画の主演はこれが最初で最後では?)を得ていきいきとした演技を見せている。ふつうのセリフをしゃべってもそこはかとない滑稽味があふれ、吹き出してしまうほどだ。

 監督の萩上直子にも注目したい。
 デビュー作ともなれば奇をてらった派手なことをしたくなるのが人情だろうに、この映画の落ちついた語り口はベテランはだしである。それでいて、ディテールにはキラリと光る斬新さと個性もある。ただ者ではないと見た。
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『日本の黒い夏/冤罪』


日本の黒い夏 [冤enzai罪] [DVD]日本の黒い夏 [冤enzai罪] [DVD]
(2001/11/22)
中井貴一、寺尾聰 他

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 「松本サリン事件」の被害者・第一通報者でありながら、当初警察とマスコミによって犯人視された河野義行さんの冤罪被害を描いた社会派作品である(2000年)。
 私は、数冊ある河野さんの著作はすべて読んでいるが、この映画は初見。

 事件から早10年。麻原彰晃への一審判決を27日に控えていることもあり、マスメディアが河野さんを取り上げる機会も増えてきた。かくいう私も先週河野さんを松本で取材してきたばかりなので、なんだか不思議な気分で観た。

 河野さんは作中では「神部俊夫」となり、オウム真理教はたんに「カルト集団」とのみ表現されている。が、事件と冤罪被害の経緯は基本的に事実に基づいている。

 アメリカ映画には、マスコミが作る冤罪被害を描いた『スクープ/悪意の不在』という傑作がある。が、日本ではこの手の映画は初めてではないか(もちろん、冤罪そのものを扱った映画はあるが)。

 ただ、映画としてはやや難あり。
 監督と脚本は「名匠」と呼んでもいいベテラン・熊井啓だが、なんだかすご~く古臭い感じのする映画なのだ。

 たとえば、輪転機がガーッと新聞を印刷する映像の上に記事見出しの文字をかぶせる場面が、くり返し出てくる。若手の監督なら、こんな手垢にまみれきったステレオタイプの表現は絶対用いないと思う。
 一事が万事で、セオリーどおりの教科書的演出ばかりで、映像としての面白さは皆無。

 それから、各登場人物のセリフが、ことごとく芝居がかっていて不自然である。たとえば――。

「なんの罪もない神部さんとその家族を、真っ黒に塗りつぶしてしまったのよ。新聞とテレビと、そして私たち市民が……」

「吉田さん、あなたに一つ聞きたい! あなたは人権というものをどう考えているんですか?」

「翌朝、新聞各紙の記事見出しを見て私は驚いた。そして思ったよ。全国紙はウラが取れたんだな、と」



 この映画の主要登場人物は、みんなこうした芝居がかった口調で話すのである。ものすごく不自然。ふだん私たちはけっしてこんな話し方をしないはずだ。「やっこさん」とか、「言うなれば」とか、いまどき話し言葉にはほとんど使われないような古い言葉を平気で使っているし。

 せっかく寺尾聰や中井貴一などの演技派を揃えているのに、脚本のセリフ自体が不自然だから、なにやら学生芝居みたいな雰囲気になってしまっている(ただ、刑事役の石橋蓮司は、その制約の中で奮闘して味のある好演を見せる)。

 それと、中井貴一演ずる主人公(地元テレビ局の報道部長)が、怒涛のような犯人視報道の中でただ1人慎重さを失わない正義漢に設定されているのも、甘っちょろい絵空事に思えて仕方なかった。
 現実の松本サリン事件報道の中には、こんなヒーローはいなかったはず。良心と慎重さを失わなかった個人はいても、彼らの良心は組織の論理と世論に押しつぶされてしまったはず。そのさまを描いてこそリアルな物語になったのではないか。
 
 ただし、「報道と人権」という難しいテーマに正攻法で挑んだ意欲と志の高さは買う。また、警察の恐ろしさ、マスコミが生む報道被害の恐ろしさはよく描けている。
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近藤史人『藤田嗣治/「異邦人」の生涯』



 近藤史人著『藤田嗣治/「異邦人」の生涯』(講談社/2000円)読了。
 2003年度大宅壮一賞受賞作。
 大正時代初めに渡仏し、「エコール・ド・パリ」の寵児となった画家・藤田嗣治(つぐはる)の生涯を追ったノンフィクションである。

 フランスで最も有名な日本人となり、ピカソやシャガールらと並ぶ「五大巨匠」の1人に数えられるほどの名声を得た藤田だが、祖国日本の美術界は彼に正当な評価を与えなかった。

 くわえて、戦時中に一時帰国した藤田が従軍画家となって「戦争画」を手がけたことで、戦後は「戦争協力者」の汚名を着せられた。ほとんどの画家が「戦争画」を手がけたにもかかわらず、世界的名声を得ていた藤田は格好のスケープゴートとされ、彼1人が槍玉にあげられたのだ。

 1955年に藤田がフランスに帰化した際、日本では「藤田は日本を捨てた」との批判の声が上がった。だが実際には、彼は「日本に捨てられた」と感じていたのだった。ゆえに、『「異邦人」の生涯』――。

 芸術家の生涯を追ったノンフィクションというと、直木賞作家・高橋治が小津安二郎を描いた傑作『絢爛たる影絵』が思い浮かぶが、本書はそれに勝るとも劣らない出来。

 まず、「エコール・ド・パリ」の画家群像を描いた青春物語として出色である。
 裕福な名門の家に生まれながら、実家からの援助をことわってモンパルナスで貧しい修行時代をすごす藤田。その周囲には、モディリアニ、スーティン、パスキンら、のちに一家を成す画家たちが、同じように貧しき無名時代をすごしていた。

 芸術への情熱をたぎらせ、奔放な恋をし、議論やケンカや奇行に明け暮れる彼らの姿には、“神話化した青春”という趣がある。
 映画のようにロマンティックな名場面が目白押しだ。たとえば――。
 
 若く貧しい芸術家たちが集うモンパルナスの食堂では、酔いにまかせて音楽家が店のピアノを弾き、しばしば即興の演奏会となる。その中には、たとえばサティの姿もあった。
「ある日藤田は、不思議にけだるい旋律を奏でる音楽家がエリック・サティという名前であることを知り、その名を深く心に刻んでいる」

 寒さをしのぐため、自分が描いた絵を燃やして暖をとるほど貧しい暮らしをしていた無名時代の藤田。その心の支えとなったのは、彼が初めて開いた個展を訪れたピカソが、一枚の絵の前で3時間も立ち尽くして見入っていたことだったという。

 「モンパルナスの女王」と呼ばれた奔放な美女・キキとの、性愛に至らない「男女の友情」も、胸を打つ。

 また、藤田が自らの絵画を極めるために並外れた精進をつづけるさまにも、感銘を覚えた。
「今までの日本人画家は、パリに勉強しにきただけだ。俺は、パリで一流と認められるような仕事をしたい」
 そう語った藤田は、その言葉どおり、フランスで最も権威ある「レジオン・ドヌール勲章」を得るなど、押しも押されもしない「一流」となった。

 そこに至るまでに藤田が重ねた努力は、当然のことながらすさまじいものだった。修行時代には、1日14~18時間も絵筆をふるいつづけた。しかも、「日が落ちて手許が暗くなって描けなくなる」まで、時の経つのも忘れて一心不乱に描きつづけたという。

 1人の芸術家の心に深く分け入り、その代表作の数々に秘められた心情を読み解いた書としても、たいへん優れている。私はあいにく絵画にはまったく不案内だが、著者の絵画への造詣もただならぬものと感じた。
 藤田の画集をかたわらに置いて、取り上げられた絵を逐一目で確かめながら、読み直してみたい。
 
 著者は、関係者への丹念な取材を重ね、そこから得られた多くの新事実によって、従来流布してきた藤田嗣治像を打ち壊してみせた。満票で大宅賞を受賞したのもうなずける力作だ。

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 なお、内容とは別にしみじみ思ったのは、「テレビの世界は取材に手間ヒマかけられていいなあ」ということ。

 著者の近藤はNHKのディレクターで、本書も、「NHKスペシャル」などの番組のために行われた取材がベースになっている。
 作品の核を成しているのは君代夫人(嗣治の5人目の妻)へのインタビューだが、彼女に対する取材だけでも5年以上、80時間以上の録音テープを費やしているという。もちろん、それ以外の関係者への取材作業も、たっぷりと時間をかけて行われている。

 活字オンリーのノンフィクションでは、1冊の本にこれほどの手間ヒマはとてもかけられない。いや、「かけられない」ことはないのだが、その場合、経費のほとんどは書き手が自腹を切る羽目になる。

 近年、大宅賞などのノンフィクション賞の受賞者に、テレビ・ディレクターが増えた。
 昨年、新潮ドキュメント賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した高木徹もNHKのディレクターであり、受賞作『戦争広告代理店』もテレビ番組のための取材をベースにしている。また、昨年の講談社ノンフィクション賞を高木徹と同時受賞した斉藤道雄も、TBSのディレクターだ。

 こうした現象は、今後もつづくであろう。我々活字プロパーのライターは、取材の厚みでテレビの人たちにかなわないからだ。

 どれほどの格差があるか、私自身の例を挙げよう。
 少し前、私は福岡県宗像市の「義足のサッカー少年」星川誠くんを取材して記事を書いた。その記事を書くために私が行なった取材は1泊2日。それだけの取材で、私は6ページの記事を書いたのだ。

 いっぽう、日テレの『バンキシャ!』は、星川くんに対して2週間にわたる密着取材を行ったという。わずか15分ほどのワンコーナーのために、である。それくらい、取材の厚みに差があるのだ。

 もちろん、テレビの世界でも、深夜枠の硬派ノンフィクションなどは乏しい予算で苦労して作っているはずで、一概に「雑誌よりテレビのほうが取材が厚い」とは言い切れない。
 しかし、「NHKスペシャル」のように潤沢な予算が使えるものの場合、その取材の厚みたるや、雑誌ライターにはとうてい太刀打ちできないのである。

 以前、「NHKスペシャル」などを作っていた元ディレクターを取材したことがある。その人によれば、「NHKスペシャル」のディレクターは年に一本程度番組を作ればよく、ほかの仕事はしないのだという。ひたすらその番組に集中し、たっぷりと手間ヒマをかけて作っているのだ。

 小説家などの文化人に映画を撮らせることが流行ったバブル期に、「映画監督になりたかったら芥川賞をとれ」などと言われたものだが、いまや「大宅賞をとりたかったらNHKのディレクターになれ」という感じだ。

 出版不況が深刻になればなるほど、取材経費として認められる枠も狭まっていくから、活字プロパーのノンフィクション作家はますます活躍しにくくなってきている。
 
 いかん、ひどい不景気話になってしまった。
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ボツ企画の思い出

 今日届いたメルマガに、ボツになった出版企画書が公開されていて、興味深く読んだ。

 そういえば、大塚英志の初期の著作『システムと儀式』にも、「竹下通りまんが専門店のための企画書」というボツになった企画書がそのまま(ただし企業名をぼかして)掲載されていたっけ。

 ほかの人が書いた企画書を読むのは面白いし、参考になる。売り込みの多い出版社の編集者でもなければ、あまり目にする機会もないだろうし。

 昔、『企画の敗者復活戦』という単行本を企画したことがある。
 「ボツになったけど、この企画はいまでも自信がある。実現すれば絶対イケる!」という、各界第一線のクリエイターたちの「自慢のボツ企画」を寄せ集めて1冊にするというものだった。
 が、この企画自体がボツになってしまった(泣笑)。

 逆に、さまざまなベストセラー商品の最初の企画書なんかも、読んでみたい気がする(この手の本はもうあるかも)。

 ボツになった単行本企画というと、私もいろいろ思い出があるなあ。とくに、時間だけはたっぷりあった駆け出しのころには、しょっちゅう企画書を書いていたし。

 ライターになって間もないころ、各界のさまざまな偉人・有名人の死にざまを集めた『死にざまの本』という単行本企画を立てたことがある。

 売り込みに行った某社のベテラン編集者からは、「人様の死にざまを集めて本にしようなんて、キミの発想は不健全だ。そんな本が売れるはずがない」とけんもほろろにことわられた。
 その少しあとに、山田風太郎の『人間臨終図巻』がベストセラーになったときには、「ざまあみやがれ」と思ったものだ。
 もっとも、あの本は山田風太郎の知名度と筆力があったから売れたわけで、同じテーマの本を駆け出し時代の私が書いても売れなかっただろうが……。

 いまだに単行本化できないまま抱え込んでいる企画に、『女の名セリフ』がある。これを最初に企画したのも駆け出し時代である。何社か売り込みもしてみたが、ことわられた。

 そのうちの一社では、「企画としては面白いけど、あなたの名前じゃ売れない」とはっきり言われた。
 その編集者は、つづけてこう言ったものだ。
「ゴーストでいい? 林真理子あたりを著者にしてさ」

 私は即座にことわった。
 何が悲しくて、自分が企画して売り込んでまでゴースト仕事をやらなければならんのだ。ゴーストならもうさんざんやっているのである。
 「有名になるまでは誰もかまってくれない」というカーライルの名高い言葉を、身で味わった思いがした。

 駆け出し時代に書きためた単行本の企画書を、私はいまでも大事に保管している。
 その中には、いまの私の目で見ればとても使い物にならない企画、時代遅れになってしまったものも、もちろんある。
 しかし、それらの企画の半分くらいは、いつか私が有名になった暁に(笑)、オセロゲームの一発逆転みたいに一気に実現してやろうと目論んでいるのである。
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ウェブ日記の効用

 「忙しそうなのに、よく(ほぼ)毎日日記が書けますねー」という声を、たまにいただく。
 ま、たしかにヒマではないのだが、この日記にはデメリットよりもメリットのほうがはるかに多い。
 たとえば、読んだ本や観た映画について逐一感想をつけるなんてことは、この日記があるからこそできているのだ。

 私は以前にも、呉智英の『読書家の新技術』(名著なり)などに影響されて、「読書感想ノート」に何度か挑戦したことがある。しかし、1ヵ月とつづいたためしがなかった。

 ウェブ日記をつけ始めてから2年近くも、読んだ本の大半(全部ではない。仕事のためにナナメ読みする本はいちいち感想を書かない)の感想をつけつづけているのは、〝自分史上画期的〟だ。
 要するに、日記を読んでくれる人の目があるからこそつづいているのである。

 そして、読書の感想は文章にしてこそ考えがまとまるという面もある。ずっと持続していけば、私がライターとしてやっていくうえで非常に有益な蓄積となり、知的鍛錬(大げさかな)となるにちがいない。

 それに、書評や映画評の仕事の場合、この日記に書いた感想メモが「下書き」の役割を果たしてくれる。下書きが1度できていれば、本番の原稿を書く際にその分ハードルが低くなり、書きやすくなる。

 同様に、何かエッセイを頼まれた場合には日記の中からネタを拾い、〝カンナがけ〟をして原稿として完成させることもできるだろう。
 このウェブ日記が「有料メルマガ」であれば原稿料の二重取りになってしまいかねないが、無料で書いている日記なのだから、のちにここから原稿化してもなんの問題もない。

 以上のようなことは、私のようなライターにかぎらず、物書きを目指すすべての人にあてはまるはずだ。
 面白いウェブ日記が編集者の目に留まり、単行本化されるケースも多い昨今である。作家やライターでない人のウェブ日記が単行本化されて大ベストセラーとなる、なんてことも十分あり得る話だ。
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「世界水準の国産ロック」ナンバーガールの作品

SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICTの画像

『ナンバーガール映像集/NUMBER GIRL』(東芝EMI/4800円)
 2002年11月に惜しくも解散してしまった孤高のロック・バンド「ナンバーガール」の魅力がぎっしり詰まった、2枚組DVDである。

 収録時間270分だから、じつに4時間半におよぶボリューム。内容もすごく濃い。

 DISC1はバンド・ヒストリー。
 95年の結成直後に地元・福岡のライヴハウスで行われた最初期のライヴから解散ライヴに至るまでの秘蔵映像(ライヴ/オフ映像/スタジオでの録音風景など)がてんこ盛りである。
 
 DISC2には、メジャー・デビュー曲「透明少女」から「CIBICCOさん」に至るまでのすべてのプロモーション・ビデオ(全9曲)と、2002年11月22日に行われた京都大学西部講堂のライヴが丸ごと収録されている。
 
 一昔前なら3本のビデオに分けて収録されたであろう内容を、2枚組DVDにゼイタクに詰め込んでいる。これで5000円を切る値段なら絶対安い。ファン必携だ。

 ナンバーガールは、コアなロックファンはともかく、一般的には「知る人ぞ知る」レベルのまま解散してしまったバンドだろう。かくいう私も、彼らのファンになったのは比較的最近なので、一度もライヴを体験しないまま解散に至ってしまった。

 このDVDに収められているライヴは、解散が決まってから行われた最後のツアーのもの。
 そのツアー最終日の模様は、今年1月に発売されたライヴアルバム『サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態』(これも傑作。すでにして名盤)に丸ごと収められているが、京大西部講堂でのライヴはその一週間前に行われたもの。曲目は『サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態』とほぼ同じである。

 このライヴ映像の図抜けたカッコよさに触れると、「一度くらいライヴに行っておけばよかった」とつくづく悔やまれる。これはもう、「世界水準のロック」である。

 ナンバーガールを映像で観ると、メンバーのルックスと音のギャップがたまらない。

 ヴォーカル/ギターの向井秀徳は、一見冴えない予備校生みたいな「童顔メガネ坊や」なのに、声を限りにシャウトする。
 紅一点・田渕ひさ子は、マジメな事務系OLみたいな地味カワイイ顔をしているくせに、背筋が震えるようなソリッドなギターを弾く。
 ドラムスのアヒトイナザワは、女の子みたいにかわいらしいルックスで華奢な身体つきなのに、日本のロック界屈指といってもよいすさまじいドラミングをみせる。

 「ピクシーズがはっぴいえんどの曲を演っているような音」だとか、「オルタナティヴ・ロックのスピリットを日本語ロックの中に血肉化した」などと評価されるナンバーガールだが、私が彼らの曲――とくに『SAPPUKEI』収録曲や「鉄風 鋭くなって」――を聴くと思い出すのは、唐突に聞こえるかもしれないが、『プレゼンス』や『コーダ』の頃のレッド・ツェッペリンである。

 分厚い音のかたまりを叩きつけてくるハードなサウンド(まさに「鉄風」のようだ)なのに、演奏の見事なアンサンブルゆえに、耳障りではなくむしろ美しい。その一点が、後期ツェッペリンを彷彿とさせるのだ。

 そして、ナンバーガールの音の魅力を一言で表現するなら、「鋭さと切なさの不思議な共存」である。ささくれだって熱い「鋭角サウンド」なのに、ギターのフレーズなどはときに涙が出るほど切ないのだ。
 たとえば、「鉄風 鋭くなって」や「CIBICCOさん」で田渕ひさ子が弾く、放電するようなギター。その、心かきむしられる切なさといったら……。

 日本のロック史に残るであろう名バンド「ナンバーガール」の魅力を詰め込んだ、汲めども尽きぬ泉のようなDVDだ。


『SAPPUKEI』(東芝EMI)
 2000年発表のメジャー2枚目。これこそナンバーガールの最高傑作だと、私は思っている。

 大音量の音の塊を聴き手にぶつけてくる攻撃的なサウンドなのだけれど、その音の塊が緻密なアンサンブルに裏づけられていて、やかましいのに不思議な透明感がある。
 パンクっぽいともオルタナっぽいとも言えるけれど、むしろ、レッド・ツェッペリンが後期のアルバム『プレゼンス』や『コーダ』で見せた達成を彷彿とさせる。圧倒的な美しい音の塊によって、“もう一つの現実”を構築してみせる音。語の本来の意味で「ハード・ロック」という言葉がふさわしい音。

「我々は冷凍都市の攻撃を酒飲んでかわす」
「一九九五年から自力を信じてます」

 ――アルバムのオープニングを飾るマニフェスト的な曲「BRUTAL NUMBER GIRL」の、印象的な一節。
 このフレーズが象徴するとおり、ナンバーガールの音は、エンターテインメントというより、“現実と戦うための武器”のような音。聴いていると、その音で「心が鎧われる」ようです。

 とくに、「ZEGEN VS UNDERCOVER」「SASU-YOU」「TATOOあり」の3曲の疾走感は圧倒的。アヒト・イナザワのドラムスがすごい。


『シブヤROCKTRANSFORMED状態』(東芝EMI)
 99年発売。渋谷「クラブクアトロ」でのライヴ。
         
 ピクシーズやソニック・ユースを引き合いに出して語られることが多いナンバガだが、私はむしろ、このアルバムを聴いて昔のPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)やフリクションを思い出した。
 強靭なビートと疾走するフリーキーなギターはフリクションを彷彿とさせ、絶叫しまくりなのに醒めた感触のヴォーカルはPILのジョン・ライドンを思わせる。

 エッジの鋭い攻撃的なサウンドなのに、少しも「熱い音」ではなく、冷たくささくれだっている。まぎれもない「都市の音」。
 サウンドとは裏腹に歌詞は文学的で、「詩」という言葉のほうが似つかわしい。その落差がなんともいい感じ。

 また、ノイジーな中にも時折ギターが叙情的なフレーズを奏でたりして、アルバム全体の印象はむしろ「切ない」と言ってもよいくらい。


『スクールガール・ディストーショナル・アディクト』(東芝EMI/2500円)
 99年のメジャー・デビュー作。

 私は、彼らのアルバムでは『SAPPUKEI』がいちばん好きである。日本のロック史に残る傑作であり、「世界水準のロック」だと思っている。このアルバムを聴いてもその評価は変わらなかったが、これもけっこうよい。

 パワフルかつ緻密なドラムス、ビリビリと放電するようなソリッドなツイン・ギター、シャウトしまくりなのに熱度の低いユニークなヴォーカル、文学性の高い歌詞……どれも素晴らしい。
 制服の少女がカバンの代わりにライフルを肩にかけているジャケットのイラストも、音の雰囲気を忠実に伝えてグッド。
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芥川賞最年少受賞に思う

1.19歳と20歳のダブル受賞  蹴りたい背中の画像
 今日発売の『噂の眞相』と『文藝春秋』を、いそいそと買いに行く。
 ウワシンは毎月買っているのだが、『文春』は「芥川賞受賞作全文一挙掲載」目当てである。

 書店には、すごい量の『文春』が平積みになっていた。芥川賞が社会現象になるのは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』以来だから、文春としても勝負をかけて相当な部数を出したにちがいない。受賞作は2作とも版元が文春ではない(集英社と河出書房新社)から、単行本がいくら売れても文春はオイシクないわけだし。

 19歳と20歳の史上最年少ダブル受賞については、私も「なんでそんな小娘が……」と思ったクチである。
 しかし、芥川賞は基本的に新人賞なのだから、「受賞者の今後の可能性」にも配慮すべきであり、その点ではむしろ順当な授賞ともいえる。綿矢りさ、金原ひとみの2人とも、少なく見積もっても40年以上は〝残り時間〟があるのだから。

 また、意外に誤解している人が多いようだが、芥川賞はべつに日本の文学賞の最高峰ではない。「その年最高の日本文学」に与えられるわけではないのだ。だから、受賞作がものすごい傑作でなかったからといって、憤るにはあたらない。

 たとえば、次の2つのリストを見ていただきたい。

1.三島由紀夫、太宰治、村上春樹、山田詠美、よしもとばなな、島田雅彦、宮内勝典、車谷長吉

2.加藤幸子、笠原淳、木崎さと子、三浦清宏、荻野アンナ、松村栄子、藤原智美、吉目木晴彦

 1は「芥川賞をとれなかった作家」のリスト(山田、車谷はのちに直木賞受賞)で、2は1980年代以降の芥川賞作家からピックアップしたリストである。

 まあ、2のほうは多少イジワルをして「受賞後、作家としてはパッとしない人」を選んだのだが、その悪意を差し引いても、「芥川賞をとれなかった作家」の中から、むしろ重要な作家・売れっ子作家が多く生まれている。
 1のリストは小説を読まない人でも知っている名前がほとんどだろうが、2のリストの名前をすべて知っているという人は相当な文学通(てゆーか文壇事情通)だろう。

 よくも悪くも、芥川賞というのはその程度の賞であり、各選考委員の眼力も大してあてにはならないのだ。

 ではなぜ、「その程度の賞」にもかかわらず、売れない純文学作家や作家志望者は血眼になって芥川賞を欲しがるのか?
 それは、純文学作家として生きていくうえで、芥川賞こそが「最も有効な賞」だからである。賞のネームバリュー・注目度が、ほかの新人賞に比べてダントツなのだ。

 たとえば、「太宰治賞」という新人賞がある。
 筑摩書房と東京都三鷹市の共催になる、それなりの歴史をもつ(1964年創設)文学賞である。

 作家志望者を100人集め、「芥川龍之介と太宰治、どっちが重要な作家だと思う?」と聞いたら、票は真っ二つに割れるだろう。
 しかし、つづけて「芥川賞と太宰賞、どちらか一つもらえるとしたら、どっちが欲しい?」と聞いたら、100人中100人が「もちろん芥川賞!」と答えることだろう。

 太宰賞は、もらったところでまったく話題にならない(最近の受賞者が誰か、私にもさっぱりわからない)。受賞作がベストセラーになるどころか、単行本化さえしてもらえない。それに、筑摩書房は文芸誌を発行していないから、受賞後に作家としてやっていける可能性もごく低い。
 芥川賞受賞者が受ける〝厚遇〟とは、天地の開きがあるのだ。

 それにしても、創設70年になんなんとする芥川賞・直木賞がいまなお一大イベントでありつづけているのだから、「生みの親」たる菊池寛の商才と先見の明は恐るべきものである。

 もっとも、菊池寛は「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」との言葉を遺している(※注)。その菊池が生んだ芥川賞が、19・20歳の受賞者によって〝再生〟するとは、思えば皮肉な話である。

※注:菊池寛が34歳のときに書いた「小説家たらんとする青年に与う」という文章の一節。以下、当該部分を少し長めに引用してみる。

《僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵えたい。全く、十七、十八乃至二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。二十歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ》



2.『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』を読んで(2004年2月11日記)
 というわけで、昨日のつづき。綿矢りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を読んだ。

 2作とも、意外によかった。
 「どうせ年齢やルックスだけで選ばれたんだろう」という言い方でこの2作を貶す人は、中身を読まずに食わず嫌いしているのではないか。

 また、読んだうえで「この程度の作品で芥川賞?」と憤る人は、芥川賞という賞を過大評価しているのだろう。
 歴代の芥川賞受賞作の中には、この2作より質の低いものがたくさんある。たとえば、昨年受賞した大道珠貴の『しょっぱいドライブ』など、サイテーの駄作であった。

 『蛇にピアス』は、パンクな男女3人のデスペレートな三角関係を、ボディピアスやタトゥーなどの「身体改造」の世界を軸に描いたもの。
 「いまどき『シド&ナンシー』でもあるまいに」と思ったものの、読んでみるとけっこう面白い。構成もしっかり練られているし、作中で描かれる殺人事件をめぐるサスペンスで読者を引っぱる技術はなかなかのものだ(エンターテインメントが書ける人かもしれない)。

 ただ、地の文章が劣悪。紋切り型の表現を安易に用いすぎる。とくに、ひんぱんに登場する性描写が汚らしくてウンザリした。

 中上健次は、芥川賞受賞作『岬』で、性描写を詩にまで高めた(※注)。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、「ロックとファックとドラッグ」の世界を描きながらも、選考委員から一致して「清潔」と評された。また、イメージも豊かだった。

 だが、この『蛇にピアス』の性描写には、豊かなイメージも詩的感興もない。いまどきポルノ小説でも使わないような四文字言葉の多用は「異化」効果を狙った意図的なものだろうが、表現上の工夫としてもいただけない。

 それに、面白さのかなりの部分を「身体改造」という題材のインパクトに頼っている印象。衝撃的な題材はそうそう転がってはいないから、作家としての今後の可能性は未知数だ。

 ただ、磨けば光る「原石の輝き」は、綿矢よりも金原のほうに強く感じる。

 綿矢がOLになってもうまくやっていけそうであるのに対し、金原は小説家になる以外に生きる道がないような切迫感を全身から発散している。10年後の綿矢はいまの俵万智のような「無難な文化人」に落ちついていそうだが、金原は「もしかしたらすごい作家に大化けするかもしれない」と思わせる。ま、そのへんは私が勝手に思い描くイメージだけど……。

 綿矢りさの『蹴りたい背中』は、デビュー作『インストール』に比べて文章や表現が著しく洗練されている。目を瞠る進歩。〝物書きとしての伸び盛り〟なのだろう。

 文章のディテールに、キラリと光る秀逸な表現がたくさんちりばめられている。たとえば――。

「話のネタのために毎日を生きているみたいだった。とにかく〝しーん〟が怖くて、ボートに浸水してくる冷たい沈黙の水を、つまらない日常の報告で埋めるのに死に物狂いだった」

「思いつくかぎりの遊びを放り込んでも、夏休みの40コマはまだまだ埋まらない。遊びの予定を立てるために、あくせくしなきゃいけないなんて不毛だけど、この努力を怠ると、夏休みが重くのしかかってくることになる。暇すぎるせいで夏休みが苦痛に変わるあのやるせない気持ちを、みんな味わいたくないんだ」

 「作文の書き方」のコツとして「五感に訴える文章を書きなさい」なんてことをよく言うが、綿矢りさの文章はそのお手本のようだ。五感を全開にして、日常の瑣末な出来事を印象深くとらえている。
 作品全体をつらぬく論理もテーマも見当たらず、感性のみで書かれたような小説だが、その感性はなかなか魅力的である。

 それに、この作品の「恋愛」の描き方はすこぶる独創的だ。
 主人公の「私」の同級生「にな川」は、ある女性タレントの熱狂的ファンで、「そのタレントに会ったことがある」という理由で「私」に近づいてくる。「私」はやがて「にな川」を異性として意識し始めるが、「にな川」は相変わらずタレントのことしか頭にない。

 つまり、2人が直接向き合うのではなく、そのタレントを媒介にして結びつく〝擬似恋愛〟のような関係。その関係を軸に据えたことで、いままで読んだことのないような不思議な感覚の青春小説に仕上がっている。

 2人とも、19、20歳でこれだけの作品を書けるというのは大したものだ。素直に称賛したい。私自身が20歳のころ書いていた小説など、いま思えば「死んでも他人には見せられない」稚拙なものだった。

 ただ、歴代受賞作の中で群を抜くような傑作ではない。『文藝春秋』を買って一読すればそれで十分。

 2作の単行本は、中編といってよい受賞作1作しか収めていない。『蛇にピアス』など、130ページ足らずで1260円。作者にはなんの罪もないが、この価格設定はほとんどボッタクリである。
 780円の『文春』を1冊買えば両方読めるのに、わざわざ単行本を2冊買う人って、「ブック・フェチ」なの?

※注/たとえば、『岬』にはこんな一節がある。
「自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい、くっつけ、こすりあわせたいと思った。(中略)性器が心臓ならば一番よかった」
 ――こういう独創的な性描写が、『蛇にピアス』にはまったく見当たらない。



3.『文藝春秋』増刷の意味(2004年2月14日記)
 芥川賞受賞作2作を全文掲載した『文藝春秋』3月号が、13日、20万部の増刷に踏み切ったという。
 もともとこの号は、「芥川賞史上最年少ダブル受賞」の話題性から、通常より15万部も上乗せして80万部も発行していた。増刷で、ついに100万部の大台に乗ったことになる。

 そもそも、雑誌の増刷自体たいへん珍しい。

 たとえば、『週刊文春』などの編集長をつとめた花田紀凱でさえ、その長い編集者生活の中で2度しか雑誌の増刷を経験していないという(ちなみに、2度とも『文藝春秋』時代だとか)。そして、2度も増刷を経験していること自体、雑誌編集者としてはきわめて幸運といってよいのだ。

 増刷どころか、雑誌を完売すること自体、編集部全員に「ご祝儀」が出るくらいまれなことである。
 たとえば週刊誌の場合、返品率が20%を切れば売上げ上は「合格」だとされている。それくらいまで売れれば十分利益が出るように設計されているのだ(輸送途中の破損などによる返品もあるから、「返品率0%」はじつはあり得ない。返品率3%以下なら事実上完売なのだ)。

 雑誌は広告収入に大きく依存しているものだが、増刷したところで、広告料金が2度取りできるわけではない。その点も、雑誌の増刷がめったに行なわれない理由の一つだ。

 国民雑誌『文藝春秋』が、異例の増刷で100万部突破。芥川賞が四半世紀ぶりに社会現象化したことを象徴するニュースといえよう。
 騒ぎすぎにウンザリする気持ちもないではないが、この騒動が日本人の読書離れ・文学離れに歯止めをかけるきっかけとなるのなら、よしとしようではないか。
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マンガ喫茶の進化

 今日は都内で取材。

 そのあと、ちょっと時間をつぶさなければいけない事情があって、新宿で4年ぶりくらいにマンガ喫茶に入った。

 じつをいえば、私は4年ほど前にマンガ喫茶についての本を書いたことがある(本というより「小冊子」だけど)。

 それは、大手マンガ喫茶チェーンのオーナーに依頼された仕事で、PR用に配るための本だから書店売りはしなかった。「著書」とは言えないけれど、私が文章を担当したことは奥付に明記されているので、ここでこうして明かしても支障はない。

 その本を書くため、当時私はいろんなマンガ喫茶に通いつめたのだけれど、本を書き終えてからは1度も行ったことがなかった。

 久しぶりに行ったからこそ、この4年間の変貌がよくわかる。
 4年前にはまだ、「ただマンガを読むだけ」のマンガ喫茶が主流だった。ネットカフェの機能を併せ持ったものや食事のできるマンガ喫茶、ゲーム機も備えたマンガ喫茶は、あるにはあったが、まだ少数派だった。

 しかし、今日行ったマンガ喫茶は、使用料無料のシャワーはあるし、食事も頼めるしビールも飲めるし、個室仕様になった席では、ネットもできるしDVDも観られるしゲームもできる。「マンガ喫茶」と銘打ってはいるものの、マンガを読むという機能はもはやメインではなくなっているのだ。

 まさに「サラリーマンのオアシス」って感じですか。

 ただ、個室とはいってもカプセルホテルのような狭~い空間であって、そこでマンガを読んだりDVDを観たりするのは、なんだか物悲しい。
 私は、映画館で観そこねた『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』を借りたのだけれど、なんだか席が狭すぎて落ち着かず、途中で観るのをやめてしまった。

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宮崎あおいの映画-2(『パコダテ人』『ラヴァーズ・キス』)


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 女子高生・ひかる(宮崎)がある朝目を覚ますと、なんとシッポが生えていた。そこから始まる大騒動を描いた、奇想天外なファンタジー映画。

 私は、こういうバカバカしい着想の映画は嫌いではない。評論家からはおおむね黙殺されたジョー・ダンテの『グレムリン2』なんかも、高く評価しているし。だが、この映画はファンタジーとしては質が低いなあ。

 基本的にはコメディで、「笑わせたあとにちょっぴりホロリとさせる」みたいな路線を狙っているのだが、笑いをとろうとする場面ではことごとくすべって1センチも笑えないし、「泣かせ」の場面でもまったく泣けない。
 毎回1度はホロリとくる場面があった『ちょっと待って、神様』のほうが、ファンタジーとしての質ははるかに高かった。

 これがかりに、テレビの『世にも奇妙な物語』の一編であったなら、あるいは深夜テレビの単発ドラマであったなら、「そこそこ面白い」と思えただろう。しかし、客から2000円近いお代をいただく劇場用映画としては、まったく物足りない。

 シッポのある「パコダテ人」が逆にアイドル化してもてはやされ、イミテーションのシッポをつけることが大流行するあたりの展開は、フラフープ・ブームが重要な役割を果たすコーエン兄弟のコメディ『未来は今』を意識しているようだ。
 『未来は今』は私のお気に入り映画の一つだが、この『パコダテ人』は、コーエン兄弟のうまさには遠く及ばない。

 宮崎あおいのかわいさを「鑑賞」するためだけの映画である。つまりはアイドル映画。駄作だけど、あおいちゃんがかわいいから許す(笑)。

 なお、この映画で宮崎あおいのボーイフレンド役をしている勝地涼は、『ちょっと待って、神様』でも宮崎=秋日子の恋人を演じていた。
 そうか、『ちょっと待って、神様』のスタッフは、この映画を観てキャスティングを決めたのだな。

 勝地涼は、かりに私が45歳の主婦であったとしたらたちまちファンになってしまいそうな、清潔で古風な印象(=イケメン風ではない)の美少年である。宮崎あおいの相手役にピッタリだ。

『ラヴァーズ・キス』(2002年)
 吉田秋生の名作青春マンガの映画化。

 吉田は説明不要の超売れっ子であり、実力のうえでも、日本で五指には入るであろう傑出した才能の持ち主である。
 私ももちろん大好きだが、『BANANA FISH』や『YASHA』のようなアクション大作よりも、『カリフォルニア物語』『櫻の園』『河よりも長くゆるやかに』、そしてこの『ラヴァーズ・キス』のような青春マンガのほうを高く買う。

 わけても、『ラヴァーズ・キス』は私がいちばん好きな吉田作品であり、「青春マンガのお手本」ともいうべき大傑作だと思っている。

 しかし、だからこそ「どうせ映画版はマンガには勝てない」という気がして、劇場公開時には観る気がしなかった。
 吉田作品では以前にも『櫻の園』が映画化されており、これは映画版もわりと高い評価を得たが、それでもやはり「マンガの勝ち」であった。
 
 宮崎あおいが準主演(ヒロインの妹役)しているということで観る気になったのだが、結果は予想どおり「原作の圧勝!」であった。

 「駄作」とまでは言わない。舞台となる鎌倉の街や自然がすこぶる美しく撮られているし、キラリと光るいいシーンもないではない。しかし、美点よりも欠点のほうがはるかに目立つ。

 第一に、物語の核となる主人公と母親の葛藤の描き方が、あいまいで散漫である。

 この作品は、ソフォクレスの戯曲『オイディプス王』を下敷きにしている。
 オイディプス王は、運命のいたずらで父とは知らず父を殺し、母とは知らず母を娶り、やがてそのことを知って、悔恨のあまり自ら両眼を潰して放浪の旅に出る。

 いっぽう、『ラヴァーズ・キス』の主人公・藤井朋章は、父殺しこそしないものの、精神のバランスを崩した母親が自分を男として愛するようになってしまったことから、懊悩の末、鎌倉の夜の海で自殺を図る。
 そして、物語の最後には、母親から逃れるために高校を退学して小笠原の海へ旅立つのである。

 こうした「神話的骨格」をしっかりともちつつ、全体としてはいまどきのオシャレな青春マンガになっているあたりが、吉田作品の優れた点だ。古い皮袋に盛られた新鮮なブドウ酒のように、ギリシア悲劇を思わせる古典的構造の上に、「現代」が鮮やかに描かれているのだ。

 原作では、朋章の秘密――自殺未遂の理由――がクライマックスで明かされる。そのクライマックスに向かって、物語は階段を上がるようにしだいに盛り上がっていくのだ。

 ところが、映画版は途中から小出しにして秘密を描いてしまう。そのため、映画の山場がどこにあるのかわからない、なんとも気の抜けた構成になってしまっている。とってつけたようなラストの「野点」のシーンで、私はすっかりシラケてしまった。

 第二に、若手俳優たちの演技がたどたどしい。
 宮崎あおいただ1人が達者な演技を見せるのだが、ほかはみな学芸会レベル。
 ヒロインの平山綾は比較的がんばっているのだが、いかんせん、映画の主役を張れるほどのタマではない。女優らしい華がない。

 第三に、音楽の使い方が最悪。
 挿入歌がやたらと多くて、ほとんどひっきりなしに背景に歌が流れているのだが、それが耳障りで仕方なかった。ロック・アーティストのビデオ・クリップじゃないのだから、挿入歌や音楽はここぞという場面にだけ使うべきなのである。
 ただし、白鳥マイカの歌など、使われている曲自体はよい。使い方がダメなのだ。

 ちなみに、監督は及川中。松岡錠司か中原俊に撮らせるべきだったと、私は思う。
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宮崎あおいの映画-1(『害虫』『ユリイカ』)


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宮崎あおい、田辺誠一 他

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 撮られたのは『パコダテ人』より早い2000年で、彼女の主演第1作にあたる。監督は、『月光の囁き』の塩田明彦。

 音楽を私の好きなナンバーガールが担当している(主題歌は、ナンバガのラストライヴでもオープニングを飾った「I don’t know」だ)。そのため映画自体は前から知っていたのだが、「なんかスゲ~暗そう」な感じがして食わず嫌いでいた。

 結論。観てよかった。これは秀作。

 暗いといえばムチクチャ暗いけれど、昔のATG映画によくあるウェットな暗さ(も私は好きだけど)ではなく、張りつめた緊張感が持続する乾いた暗さ。従来の青春映画のセオリーからは大きくはみ出しているが、ここにはまぎれもない「現代の青春」の一典型が、彩度鮮やかに描かれている。

 宮崎あおいが演じるヒロインのサチ子は、中学1年生。母親(りょうが好演)と2人きりで暮らす家庭で、その母親が自殺未遂をして、不登校になる。小学6年のときに担任教師と早すぎる恋愛関係を経験した大人びた彼女は、同級生たちの中に溶け込めない。

 周囲の大人の男たちはみな、猫なで声で性的関心を隠しては、彼女に近づいてくる。そんな過酷な現実の中で心を鎧い、街をさまようようになるサチ子の姿が痛々しい。

 街で出会った「当り屋」の青年と、互いの孤独が共鳴するような淡い恋愛関係を結ぶものの、監督はありきたりなラブストーリーにはしない。物語の途中で青年をあっさりサチ子の前から「消して」しまうのだ。

 そして、同級生の中でただ一人サチ子のことを気遣ってくれたナツ子の家に、サチ子は放火をしてしまう。この不可解な行動は観る者を戸惑わせるが、私は三島由紀夫の傑作『午後の曳航』のラストシーンを思い出した。サチ子にとってナツ子は、自らの世界に踏み込んできた闖入者なのである。

 タイトルの「害虫」とは、サチ子自身を指すのだろう。
 このタイトルの印象からいじめが描かれた映画なのかとばかり思っていたが、そうではなかった。サチ子は、ささくれだった敵意で心を鎧って「害虫」と化すことでしか、世界が自分に向ける悪意に抗することができないのだ。

 母親の新しい恋人にレイプされそうになったり、サチ子を次々と不幸が襲うあたり、一見現実離れしているように見える。だが、サチ子の姿は、いまどきの少年少女の多くがその内面に抱えている孤独感・閉塞感・絶望感のカリカチュアなのだと思う。

 音楽および効果音の使い方が素晴らしい。ナンバーガールの冷たくささくれだった音が、最大限の効果をあげている。

 音楽はここぞという要所にしか使われていないのだが、さまざまな街のノイズがまるで音楽のように巧みに用いられている。
 セリフの少ない映画だが、音楽や効果音がセリフよりも雄弁にサチ子の内面を表現している。塩田監督の音に対する感受性は素晴らしい。研ぎ澄まされている。

 宮崎あおいは、この映画で「ナント三大陸映画賞」の主演女優賞(2001年度)を受賞した。無口な不登校児の役だからセリフは極端に少ないのだが、その制約のなかで見事な演技を見せている。

 私は主演第2作の『パコダテ人』とつづけて観たから、彼女の抜きん出た演技力にいっそう強い印象を受けた。
 というのも、『パコダテ人』とこの『害虫』では、演じるヒロインのキャラクターは180度違うからだ。にもかかわらず、ほとんど別人かと見まがうばかりに、彼女は2つのキャラを巧みに演じ分けている。
 宮崎あおい、やはりただ者ではない。この子は絶対に大女優になる。

『ユリイカ』(2000年)
 何人もの人間が殺されたバスジャック事件に遭遇し、生きのびた3人――バスの運転手と、乗客であった兄妹――が、事件によって受けた「傷」を癒し、再生の歩を踏み出すまでの過程を描いた長編(いまどきビデオ2本組、3時間37分の長尺!)である。

 宮崎あおいは妹役。兄妹とも事件によるPTSDで言葉を失っているという設定なので、残念ながらほとんどセリフなし。

 この映画によって、宮崎あおいはヨーロッパで「(子役時代の)ジョディ・フォスターの再来」と評価されたという。が、私はジョディ・フォスターよりもむしろ、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントを思い出した。
 ラストシーンでみせる神秘的なまでの美少女ぶりなど、いくつかのシーンでの彼女のかわいさは、全国のロリコン(私は違います)を釘付けにせずにはおくまい。

 映画そのものについては、「あと一歩で傑作になり損ねた失敗作」という印象を受けた。
 青山真治という人は、徹底して「感性の人」なのだと思う。感性はまことに素晴らしい。この映画にも、ハッとするほど美しいショットがたくさんある。九州の片田舎を舞台にしているにもかかわらず、「日本映画離れ」した洗練された質感に満ちている。

 また、俳優の自然な演技を引き出す演出力にも、非凡なものを感じる。登場人物のかわす会話が、どこをとっても自然で、まるでドキュンメタリーを観ているかのようなのだ。
 九州の方言(熊本弁?)のあたたかさも、じつにうまく活かされている。昨日観た『日本の黒い夏』の、わざとらしくぎごちないセリフ回しとは対照的だ。

 ただ、いかんせん長すぎる。
 上映時間が3時間だろうと4時間だろうと、その長さに必然性があれば観客は退屈しないものだが、この『ユリイカ』には3時間37分である必然性が感じられない。不要な場面、冗長な場面が少なくない。
 もちろん監督(編集も監督自身)は「不要な場面など一つもない」と言うだろうが、自分の創り上げた美しい場面に淫して、観客のことなど考えていない印象を受ける。

 それから、これはネタバレになってしまうけれど、作中で起きる連続女性殺人事件の犯人が、じつは兄妹の兄のほうだったというオチは、いくらなんでも荒唐無稽すぎるのではないか。
 バスジャック事件に遭遇し、人が何人も殺されるのを目の当たりにした少年が、なぜ自ら殺人犯になるのか? 実際のバスジャック事件と「酒鬼薔薇事件」を思いつきでくっつけてみただけのような安易さを感じてしまった。

 知らない若い女性ばかり何人も殺すのはまぎれもない快楽殺人だが、快楽殺人者というのは、「殺人を目撃したから」などという理由で生まれるものではないだろう。ロバート・K・レスラーの『FBI心理分析官』などを読めば明らかなとおり、幼年期からの長い積み重ねが生むものなのだ。
 レスラーがこの映画を観たら、「殺人者のこと、なんにもわかってませんね」と鼻で笑うに違いない。

 後半はロードムービー仕立て。バス運転手だった役所広司と兄妹、それに兄妹のいとこである若者の4人が、小型バスで「再生」の旅に出るのだ。そのため、前半と後半では別の作品のようにテイストがちがっている。
 この後半が、私には納得いかなかった。そもそも、なぜバスで旅に出ることが「再生」につながるのかも、よくわからない。「監督がロードムービー撮ってみたかっただけなんちゃうん?」と言いたくなる。

 ただ、ラストシーンだけは素晴らしい。
 そこまでずっとモノクロ(セピアカラー)であった画面が、最後だけカラーになる。それは主人公たちの「再生」を暗示するもので、それまでの画面の閉塞感が一気に消えて、観る者の心に明るい余韻を残すのである。
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『テイラー・オブ・パナマ』

テイラー・オブ・パナマ [DVD]テイラー・オブ・パナマ [DVD]
(2001/11/09)
ピアース・ブロスナンジェフリー・ラッシュ

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 2001年に作られた、風変わりなスパイ映画。

 監督のジョン・ブアマンは、私にとっては何より、『殺しの分け前/ポイントブランク』(1967)が印象深い。リチャード・スタークの『悪党パーカー』シリーズ第1作『人狩り』を見事に映像化した作品であった。『動く標的』『チャイナタウン』『さらば愛しき女よ』などと並ぶ、ハードボイルド映画屈指の傑作だと思う。

 しかし、この『テイラー・オブ・パナマ』は、ソツはないけれど平板な演出で、映像としての面白さはあまりなかった。
 ただ、ストーリーはすこぶる面白い。

 冷戦終結後のいまはとかくスパイ映画が作りにくい時代であり、作るにしても、『トリプルX』のようにあからさまなパロディ映画になりがちだ。
 だが、この『テイラー・オブ・パナマ』は、スパイ・スリラーの巨匠ジョン・ル・カレの原作を得て、まったく斬新な本格スパイ映画に仕上がった。パロディ的な部分もあるけれど、ぎりぎりのところで正統派スパイ映画の側にとどまっている。

 従来のスパイ映画といえば、スパイが国際的謀略を未然に防ぐために活躍したり、逆に国際的謀略を遂行したりするパターンが多かった。
 しかし、この映画のアプローチはまったく逆だ。ウソの情報を積み重ねてデッチ上げた「国際的謀略」(=パナマ運河を他国に金で売り飛ばす計画が水面下で進行している、というもの)が、やがてひとり歩きを始めてほんとうに米軍を動かしてしまう、という壮大なホラ話なのだ。
 「ううむ、この手があったか!」と思わず唸った。

 主人公は、女とギャンブルにうつつを抜かしてパナマに〝左遷〟された英国MI6の諜報部員と、彼に弱みを握られて無理やりインフォーマー(情報提供者)に仕立て上げられた、VIP御用達のテイラー(仕立て屋)。

 「ジェームズ・ボンドのバッタもん」みたいな諜報部員のキャラが、もう最高。腕利きスパイではあるが、私利私欲のことしか考えない鬼畜キャラなのである。
 しかも、それを演じるのが、現役でジェームズ・ボンドを演じているピアース・ブロスナンなのだからたまらない。「遊び心」あふれるキャスティングに拍手。ブロスナンも、ジェームズ・ボンドのイメージ・ダウンにつながりかねないこの役を、よくぞ引き受けたものだ。

 ちりばめられたブラックなユーモア、含蓄深いダイアローグ、そしてエロティシズムのスパイス。本家『OO7』シリーズをもっとリアルに、もっとダークな味わいにアレンジしたような、オトナのエンターテインメントである。

 なお、セリフの中に何度も登場する「セヴィル・ロウ」とは、老舗の仕立て屋が軒を連ねるロンドンの有名な「洋服街」の名。日本語の「背広」はここからきている(異説もあるが)って、知ってました? 今日のウンチク。「60へえ」くらいでしょ。


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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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