『ミスティック・リバー』



 幼なじみの3人――デイヴ、ジミー、ショーン――で遊んでいるとき、警官を装ったペドフィリア(小児性愛)の犯罪者2人組に、デイヴだけが連れ去られる。4日間にわたって監禁され陵辱された(直接的描写はない)果てに解放されたデイヴだが、3人はもはやそれ以前の3人ではあり得なかった。そして、デイヴは心に深い傷を残したまま成長する。

 四半世紀の時が過ぎ、すっかり疎遠になっていた3人を、一つの悲劇が再び結びつける。ジミーの19歳の娘が、惨殺死体で発見されたのだ。刑事になったショーンが捜査を担当し、容疑者の1人としてデイヴが浮上する。

 ミステリーだからストーリーはこれ以上紹介しないが、少年時代の3人が出合った悲劇が、時を経てもう一つの悲劇を生む――そんな物語である。ミステリーとしての骨格も、じつにしっかりしている。

 まるでギリシア悲劇かシェークスピア悲劇のような、重厚な悲劇。描かれる個人の悲劇が、神話的な普遍性をともなって観る者に迫る。
 アメリカ映画にありがちなおめでたさは微塵もない、暗く重い映画。それでいて、「アメリカ映画」以外の何物でもない。アメリカ社会の暗部、人間の暗部をひたすら凝視するまなざしが鋭い。

 抑えた色調で統一された、陰影深い映像。内容の重さとは裏腹に展開はスマートで、冗長さはまったくない。138分があっという間にすぎる。

 題名の「ミスティック・リバー」とは、主人公たちが暮らす街を流れる河の名。ゆったりと流れるその河は、ストーリーの随所で印象的な姿をあらわし、クライマックスの舞台ともなる。

 そして、その河は罪を洗い流す場所でもある。
 ブルース・スプリングスティーンの名曲「レーシング・イン・ザ・ストリート」の一節――「今夜、俺は彼女と海へ行き、両手の罪を洗い流す」――を思い出した。

 演技巧者を揃えていて、火花散る演技合戦という趣もある映画だが、とりわけ、主演のショーン・ペンは一世一代の名演である。アカデミー主演男優賞当確という感じ(※後注/とりましたね、主演男優賞)。
 マドンナと結婚していたころにはただのチンピラ兄ちゃんって感じだったのに、顔にシワを刻み、髪に白いものも混じったいま、じつにいい役者になったものだと思う。

 最愛の娘を殺された父親という、並の役者が演じたら絶対オーヴァーアクトになってしまうであろう難役。しかし、ショーン・ペンはそれを見事に演じきった。その演技には少しもわざとらしさがなく、それでいて、父親の深い悲しみと怒りを的確に表現している。

 私自身が娘をもつ父親でもあるからかもしれないが、娘が殺されたことを知ったショーン・ペンが腹の底からしぼり出すような怒声を上げる場面を見て、それだけで涙が出て鳥肌が立った。

 最後まで暗くやりきれない作品だからカップル向けではないけれど、必見の秀作だ。
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村上“ポンタ”秀一『自暴自伝』


自暴自伝――ポンタの一九七二→二〇〇三自暴自伝――ポンタの一九七二→二〇〇三
(2003/12/05)
村上”ポンタ”秀一

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 村上“ポンタ”秀一著『自暴自伝』(文藝春秋/1800円)読了。
 
 1970年代から現在までの30年間にわたって、日本屈指の売れっ子ドラマーとしてあまたのセッション/レコーディングをこなしてきた「ポンタ」の、語り下ろし自伝である。

 ベテラン音楽ライター・真保みゆきが構成者(=インタビューして話を文章にまとめる)をしていて、本文は話し言葉で書かれているので、すこぶる読みやすい。

 ドラムスに関するテクニカルな話題も多くて、楽器の弾けない私にはよくわからない部分も少なくないのだが、それでも十分面白く読めた。ポンタがレコーディングやツアーなどに参加してきた日本のロック/ポップスのアーティストたちの素顔が、印象的なエピソードとともに数多く紹介されているからだ。

 とくに、矢野顕子、坂本龍一、渡辺香津美、吉田美奈子、大貫妙子など、私の好きなアーティストたちとの交友が次々と語られていくあたり、興奮して読みふけってしまった。

 初めて知る「秘話」のたぐいも多い。たとえば、渡辺香津美はポンタらと組んだ「MOBOⅢ」をやっていた当時、マイルス・デイヴィスに「バンドにくわわらないか?」と誘われながら、ことわってしまった(!)という。

 ポンタは、「クロスオーヴァー・ブームが日本にもたらした精華」ともいうべき、あの伝説の「KYLYN BAND」(渡辺香津美がリーダーとなり、傑作アルバム『KYLYN』を作った)や、「カクトウギ・セッション」(坂本龍一がリーダーとなり、傑作アルバム『サマー・ナーブス』を作った)の、リズム面の中核メンバーでもあった。

 その2枚のアルバムに代表される名盤の舞台裏が語られるくだりは、興趣尽きない。『KYLYN』や『サマー・ナーブス』などをCD棚から引っ張り出して聴き直したくなる。

 「ポンタが語る70~90年代J-POP史」という趣の好著。
 49歳の若さで早逝した名ギタリスト・大村憲司や、いまでは引退状態らしい小川美潮(元「チャクラ」のヴォーカル。私は彼女のソロ・アルバム『4to3』が大好きだった)など、「消えてしまった」人たちの思い出も、しみじみと語られている。
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ウソの愉しみ


甘えんじゃねぇよ! (ちくま文庫)甘えんじゃねぇよ! (ちくま文庫)
(1999/12)
吉田 戦車

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 スティグマイヤー名倉さんの「プチ日記」といえば、いまさら紹介するまでもない超人気ウェブ日記である。
 私も大ファンだ。「ヘタレ」を芸にまで高めた点がスゴイ。

 昨夜も、1月24日付の次の一節がツボにはまって、1人で爆笑してしまった。

 職場の先輩に一児(小学生)の母であるCさんという女性がいる。
 Cさんは我が子に「アンコの入っているタイヤキは『当たり』なのよ」とウソを教え続けているらしい。するとタイヤキを食べるたびに「当たりだ、やったー!」と喜ぶことになる。日常の中に小さな幸せを、というのが彼女の方針らしい。



 うーむ。なんだか吉田戦車の初期傑作『甘えんじゃねぇよ!』に出てくる「みっちゃんのママ」のようだ。

 「みっちゃんのママ」は、幼稚園に通う愛娘・みっちゃんにウソを教えることを生き甲斐にしているというすごいキャラ。
「白熊は熊の年寄りで、北極は全世界の熊のうばすて山だ」
「キリンの首はとても長いので、アフリカの飛行機は常にキリンに気をつけて飛ぶ」
 などというウソを娘に信じ込ませることに命を賭けている(笑)のである。

 読み返してみたらやっぱりすごく面白かったので、あと1つ引用。

「ママ、どうして象の鼻は長いの?」
「それはね、みっちゃん。実は生まれたばかりの象の鼻は短いのよ!」
「えーっ! ホント?」
「それをアフリカの屈強な大男がギューッと引っぱるの!!
 小象が泣こうがわめこうが、ギュギュギュギュ~~~っとね!!」



 わはははは!
 そういえば、子どものころ、キプリングの「象の鼻はなぜ長い」って童話を読んだなあ(その童話の「答え」は吉田戦車とはちがいます。念のため)。

 人を傷つけるウソは論外としても、こういう「笑えるウソ」はいいですな。こういうのばかり集めて本ができないものか、と考えたりする。

 もっとも、アメリカになら、古今東西のウソばかりを集めた本はすでにあり、邦訳もされている。M・ハーシュ・ゴールドバーグ著『世界ウソ読本』(文春文庫)である。これもなかなか愉しい本であった。

 この本に取り上げられているウソを、一つだけ紹介しよう。

 あなたがいま向かっているパソコンのキーボードは、アルファベットが「ABC…」ではなく「QWERTYUI……」という配列になっていることと思う。

 19世紀アメリカでタイプライターを発明したクリストファー・レイサム・ショールズによれば、「科学的な研究を重ね、いちばん早くタイピングできる配列にした」のだという。

 しかし、この説明は真っ赤なウソだった。

 当初ABC順の配列でタイプライターを試作したところ、早く打とうとするといくつかのキーとキーが絡まってしまうことがわかった。そこで、「絡まり防止」のため、並んで使われることが多い文字と文字を離した……というのが、あの奇妙な順番が生まれたホントの理由なのである。

 当然、現代のキーボードでは「キーとキーが絡まる」などということはない。にもかかわらず、ショールズのウソのせいで、我々は覚えにくい奇妙な配列のキーボードを使いつづけているというわけだ。

 私がいま思いつく愉しいウソというと、たとえば、1980年代の青春をオシャレに活写した岡野玲子のマンガ『ファンシィダンス』で、ヒロインが主人公のナンパをかわすためについたウソ。

「じゃあ、新宿駅の北口で待ってるわね」



 ヒロインはそう言うのだが、新宿駅に「北口」はないのである。

 こういう愉しいウソを、意識的に集めてみようかな。

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『安全保障の今日的課題』

安全保障の今日的課題―人間の安全保障委員会報告書安全保障の今日的課題―人間の安全保障委員会報告書
(2003/11)
人間の安全保障委員会

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 『安全保障の今日的課題』(朝日新聞社/1900円)読了。

 アナン国連事務総長の要請を受けて作られた、12人の世界的識者からなる「人間の安全保障委員会」が、2年間の活動を経て国連に提出した最終報告書の邦訳である。

 報告書だから記述は無味乾燥だが、これはなかなか目からウロコの本であった。

 書名から軍事関連書を想像する人は多いだろうが、そうではない。
 たしかに、かつて「安全保障」という言葉は「国防」と同義であった。しかしいまでは、軍事的側面のみならず、より広い意味での安全を考える概念となっているのだ。たとえば、「経済的安全保障」「総合安全保障」という言葉もある。

 そして、近年さかんに使われるようになったのが、「人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティー)」という言葉。
 従来の安全保障が国家中心の概念であったのに対し、「人間の安全保障」は民衆中心の概念である。

 国家が外からの脅威にさらされていなくとも、人々の多くが恐怖と欠乏から自由でなかったなら、真の安全とは言えない――そうした視点から、弱者の人権保護を重視した概念なのである。

 この「人間の安全保障」という概念は、1993年にUNDP(国連開発計画)が「人間開発報告」の中で初めて公式に用いたとされる。
 
 「人間の安全保障委員会」の「共同議長」は緒方貞子と経済学者のアマルティア・センだが、センこそ、「人間の安全保障」の概念に理論的肉づけをした学者といってよい。「経済学と哲学を架橋し、経済問題の検討に倫理的要素を持ち込んだ」と評価されるセンは、「どうすればよりよい人間の安全保障が成し得るか?」を思索しつづけてきた経済学者なのである。

 そしていまや、「人間の安全保障」は国連にとって最大の使命になっている。国民に安全を保障するという責任を果たせない国家や、むしろ国民の安全を脅かす源となっている国家が少なくないからである。

 「人間の安全保障」の概念が扱う分野は、非常に幅広い。
 紛争などの直接的暴力からの保護はもちろん、飢餓や極度の貧困や伝染病からの保護、さらには基礎教育の機会均等までが含まれる。それらのどれ一つが欠けても、真の安全保障は成り立たないからだ。

 本書は、そうした広い分野の「人間の安全保障」の現状を詳述している。多くのデータによって、世界各地でいかに「人間の安全保障」が脅かされ、人権がないがしろにされているかが、浮き彫りにされていく。

 本書の圧巻は、手間ヒマをかけた徹底調査をふまえて集められたそれらのデータである。
 「世界にはいまだこれほどの悲惨があるのか」と、平和ボケ・安全ボケの我々日本人に衝撃を与えずにはおかない。一言で言うと、『世界がもし100人の村だったら』を10倍具体的にしたような内容なのだ。

 たとえば、世界の総人口の5分の1にあたる12億人が、1日1ドル未満で生活する極度の貧困状態にあるという。
 また、世界に6億4千万ある銃器のうち、5分の3を民間人が所有しており、毎年50万人もの人々がそれらの銃器で殺害されているという。

 私が衝撃を受けたデータを、ほかにもいくつか列挙してみよう。

 毎年七〇万人が人身取引の対象となり、そのほとんどが女性と児童で、大多数が南アジアと東南アジアを起点とする売買である。年間およそ五万人の女性と女児が性的搾取を目的として米国に売られている。



 エイズは、この二〇年間に世界の死因の第四位となった。サハラ砂漠以南の国々の平均寿命はわずか四七歳で、エイズがない場合に予測される平均寿命より一五年も短い。


 多くの開発途上国では、出産時の合併症が女性の死因のトップを占めている。毎年、五一万五〇〇〇人以上の女性が妊娠中もしくは出産時に死亡しており、そのうちの九九%が途上国の女性である。出産時の死亡率は先進国では一八〇〇人に一人だが、途上国では四八人に一人という高さである。


 世界の総人口六二億のうち、約八億六二〇〇万人(七人に一人)は非識字である。人口に占める非識字の割合がもっとも高いのはアフリカで、一九九七年には女性の半数以上が非識字だった。



 おおむねデータの紹介のみにとどめられ、生々しい具体的事例の紹介はほとんどない。が、無惨な現状を示す数字の背後には虐げられた人々の慟哭が透けて見えるようで、読んでいて胸がつまる。

 だが、序文に「本報告書を手にする人々は、世界が抱える課題とその前にある機会の両方を見てほしい」とあるとおり、本書の眼目は現状を嘆くことではなく、それを変えていくことにある。

 山積する問題を改善・解決するために何が必要か、各国政府と国連は何をすべきかという提言が、各章末に置かれている。世界をより深く知るために、広く一読を薦めたい。
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研ぎ澄まされた悪意――桐野夏生『グロテスク』



 桐野夏生著『グロテスク』(文藝春秋)読了。
 2003年度のベストワンに挙げる人も多かった話題作。
 周知のとおり、「東電OL殺人事件」を下敷きにした作品である。ただし、通俗的な事件読み物など比較にならない深みに達している。

 ドストエフスキーがありふれた強盗殺人のニュースを下敷きに『罪と罰』を紡いだように、三島由紀夫が金閣寺放火事件を下敷きに『金閣寺』を書いたように、桐野夏生は想像力を全開にして、通りいっぺんの犯罪報道の背後にもう一つの現実を構築してみせた。

 エンターテインメントではあるが、まぎれもない「文学」でもあると思う。ヘタな純文学よりずっと「人間が描けている」。

 3人の女性の物語である。
 「怪物的」なまでに整い過ぎた美貌をもった、「生まれついての娼婦」ユリコ。ユリコの実の姉でありながら、似ても似つかない平凡な容姿に生まれた「私」。そして、「私」とは名門Q女子高で同級であった、秀才ではあるが平凡な女性・和恵。

 ユリコと和恵は30代後半になってから街娼となって渋谷のホテル街に立つようになり、1年の間に相次いで殺される。
 2つの殺人事件を軸にストーリーは進むが、読者を牽引するのは犯人探しの謎解きではない。『罪と罰』と同程度に「ミステリーでもある」小説だが、むしろ、事件に至るまでの3女性の心の軌跡を精緻に描くことにこそ、作者の主眼がある。
 
 東電OL殺人事件の被害女性がモデルになっているのは、和恵だ。和恵は、昼は一流建設会社のエリートOLだが、夜には街娼となる。「誰も自分のことを見てくれない」昼間の暮らしの空虚を埋めるために……。

 和恵1人を主人公にしていたなら、佐野眞一のノンフィクション『東電OL殺人事件』をなぞっただけの凡庸な作品に終わっていただろう。和恵の心を描きつつ、彼女と運命的な関わりをもつユリコと「私」を対置して描くことによって、重層的な傑作になった。三者三様の根深い孤独が重ね塗りされて、油絵のマチエールのような効果をあげている。都市の闇、人の心の闇を描き出す極彩色の地獄絵図。
 
 「40歳になったら死のうと思っている」とは、桐野の近作『ダーク』の衝撃的な書き出しだが、この『グロテスク』もまた、多彩な登場人物のうち、少しずつ壊れ、破滅に向かって歩を進めていくユリコと和恵の姿が最も強い印象を与える。

 ユリコは和恵に言う。

「体を売る女を、じつは男は憎んでいるのよ。そして、体を売る女も買う男を憎んでいるの。だから、お互いに憎しみが沸騰した時に殺し合いになるのよ。あたしはその日が来るのを待っているから、その時は抵抗せずに殺されるわ」



 奇妙な言い方に響くかもしれないが、この小説の最大の美点は作者の“研ぎ澄まされた悪意”である。3人の女性たちを描く筆致、さらにはその周囲の人たちを描く筆致が、鋭敏な悪意に満ちている。

 女性が女性の容姿や服装、性格などを評する言葉は、時として残酷なまでに鋭いものだ。「男にはとてもそこまで言えないし、そこまで観察できない」というところまで、鋭く観察し、真贋を見分け、辛辣な批評の刃を向ける。この『グロテスク』の描写には、そうした女性ならではの悪意の視線がマックス・レベルでつらぬかれている。

 私が思うに、一流の小説家というのは「一般人には見えないものが見える人たち」である。
 一般人なら気づかず見過ごしてしまう人の心の裏側(たとえば、嫉妬や見栄や憎悪などの「負の感情」、あるいは逆に、ふつうの庶民の心の奥に時として輝く崇高な人間性などという「正の感情」)が、くっきりと見えてしまうのが「一流作家の眼」なのである。

 桐野夏生もまた、まぎれもない「一流作家の眼」をもっている。そうした眼にも2種類あるが、桐野や車谷長吉は、とくに人間の「負の側面」を鋭敏に感じとる眼――研ぎ澄まされた悪意の視線をもっているのだ。

 その悪意の視線がひときわ輝きわたるのは、物語の前半、主人公の3女性が揃って通うお嬢様学校・Q女子高で過ごした少女時代を描いた数章だ。

 初等部から上がってくる本物のお嬢様たち――「オーナー企業のオーナーの娘。就職なんか絶対しない人たち。したら、恥だと思っている」――だけが「主流」を成し、勤め人の娘たちはどんなに勉強ができても「主流」にはなれない「階級社会」。
 そこで行なわれる、暴力を用いない隠微ないじめと差別を描きだす手際の鮮やかさが、桐野の真骨頂だ。
 その「階級社会」で根こそぎ誇りを奪われる「私」と和恵。並外れた美貌ゆえに「主流」のお嬢様たちからさえ一目置かれるユリコ。その差が、後年の悲劇の源となる。

 男の作家が娼婦を描く場合、多少なりとも“聖なる娼婦幻想”に呪縛されてしまい、娼婦に同情的な視線を向けがちだ。
 しかし、桐野夏生が2人の娼婦を描き出す筆致に、そんな甘さは微塵もない。若いころには一晩300万の高級娼婦だったこともあるユリコやエリートOLである和恵が、最下層の街娼に落ちるまでの過程を、微に入り細を穿って容赦なく描き尽くすのである。

 冷ややかな悪意に満ちた桐野の視線。その代弁者となるのは、物語の語り手である「私」だ。
 「私」は、ユリコと和恵の転落の過程の目撃者となる。平凡な秀才にすぎなかった和恵は、高校でユリコに出会ったことで、その毒に感染して少しずつ道を踏み外していく。
 「私」は実の妹であるユリコを憎み、和恵を軽蔑するが、じつは「私」の心の底にも、ユリコと和恵のように生きたいという願望が渦巻いている。だからこそ、物語の最後、「私」もまた渋谷のホテル街に立つのだ。

 欠点も、ないではない。
 たとえば、主要登場人物の1人・ミツル(女性)が、オウム真理教をモデルとしたカルト教団の一員となって「私」の前に現れるあたり、ご都合主義でリアリティがない。東電OL事件にオウム事件を継ぎ足せば現代が描けるわけではあるまいにと、小言を言いたくなる。

 また、殺されたユリコの忘れ形見が盲目の美少年で、しかも彼もまた女性相手の街娼として渋谷の街に立つ、という終章のエピソードも、話が出来すぎているし、いびつな少女趣味にすぎる(ちなみに、桐野はかつて少女向けのジュニア小説を書いていた)。

 それに、作品全体がいささか長すぎる。あと100枚分くらい、余分なエピソードを削ぎ落とすべきだったと思う。
 ただし、そうした瑕疵を補って余りある多くの美点をもった作品である。

 『グロテスク』というタイトルはそっけないが、読み終えると、このまがまがしい物語にこれ以上ないほどふさわしく思える。

 「グロテスク」は、たんなる醜悪さとは似て非なるものだ。それは美が前提になっている。美しさがある一線を越えておぞましさに変わったとき、美が腐り果てて醜悪さに転化したとき、初めてそこに匂い立つのが「グロテスク」なのである。
「美という奴は恐ろしいもんだよ」とは『カラマーゾフの兄弟』の名高いセリフだが、この小説に描かれたのはまさに、グロテスクに成り果てた恐ろしい美、かつては美であったおぞましい醜悪さだ。

 ディケードごとの「セックス・シンボル」があるように、一つの世代、ディケードを象徴する犯罪がある。たとえば、私の世代(1964年生まれ)にとっては宮崎勤の犯罪がそうだ。いまの20代にとっては酒鬼薔薇聖斗の犯罪がそうだろう。
 同様に、いまの30代半ば~40代半ばの女性、とくに独身女性にとって、東電OL事件は、自分たちの世代を象徴するように思える「特別な犯罪」だったのではないか。

 桐野夏生が東電OL事件に材をとった『グロテスク』を描いたのは、必然だった。この事件は桐野の作風にこそふさわしい。「女性ならでは」という言い方は性差別につながりかねないが、それでもあえて言うなら、男の作家には、どんなに優れた作家でも、東電OL事件をこんな小説には出来なかったと思う。
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呉智英の本


『ホントの話/誰も語らなかった現代社会学』(小学館文庫/533円)
 単行本をなんとなく買いそびれていたら、早くも文庫化(親本は2001年11月刊)。最近は文庫化のサイクルがどんどん早まっている。かつては刊行後3年は文庫化しないという不文律があったものだが…。

 いやー、これは面白い。
 内容は呉智英がずっと主張してきたことの焼き直しばかりなのだが、その展開の仕方に工夫がなされていて、氏の本をずっと読んできた当方にも十分楽しめる。

 読者に「講義」をし、その後質疑応答にも応ずるというスタイルがとられ、すべて話し言葉で書かれているので、すこぶる読みやすい。
 ただし、俎上に載るテーマは複雑でデリケートな問題ばかり。たとえば、第四講は「無責任と民主主義の精神」、第五講は「愛国史観にも自虐史観にも与しない『正しい戦争教育』」、第八講は「在日朝鮮人と参政権」……そんなテーマを掲げた「講義」が、全18講。しかし、テーマの重さにもかかわらず、これがバツグンの面白さなのである。笑える・ためになる・刺激的の三拍子が揃っている。呉智英の著書がいつもそうであるように。

 呉は、自らを「リヴィジョニスト」だという。

「いわゆるリヴィジョニストという名称には、かなり政治的色合いが込められているようですね。そうした政治色を除けば、私はリヴィジョニストですし、知識人は誰でも不断にリヴィジョニストでなければなりません。通説や知識を墨守しているのでは知識人の役割を果たせませんから」

 しかり。あらゆる通説・常識に怜悧な批評眼を向け、「みんなそう決めつけているけれど、ホントにそうなの?」と刺激的な問題提起をしつづける呉智英こそ、言論界のリヴィジョニストである。リヴィジョニストはふつう「歴史見直し論者」と訳されるが、呉の場合、歴史のみならずあらゆる問題についてのリヴィジョニストといえよう。

 「支那」という名称を使いつづけていたり(その理由は、本書でも一章を割いて詳述される)、民主主義否定の論陣を張りつづけていたりすることから、呉智英を右派知識人だと誤解している人が少なくないようだ。しかし、そうではない。呉は、いまの日本の言論状況を数歩退いた位置から鳥瞰し、右も左も痛快になで斬りにしてきた人なのである。

 呉智英思想のコンパクトな入門書としても上出来なので、初めて呉の本を読む向きにもオススメだ。


『犬儒派だもの』(双葉社/1400円)
 呉には珍しく、自分の思い出を正攻法で綴ったしみじみ・ほのぼのとしたエッセイが多い。エッセイというより「随筆」と呼んだほうがしっくりくる感じ。

 全体の半分くらいはそうした「思い出」随筆で、残り半分がいつもの痛快な時評的エッセイ。私は当然後者を期待して読んだので、半分くらい期待外れ。帯には「声に出して笑いたい/哄笑する知性の傑作エッセイ集」とあるが、この惹句がほんとうにふさわしいのは収録エッセイの半分ほどである。

 もちろん、文章は抜群にうまいうえにサービス精神豊かな呉のことだから、「思い出随筆」もそこそこ面白いのだが…。

 『毎日新聞』夕刊に連載したコラムを収録した第六章「毎日の犬儒派 世界のキーワード」がいちばん面白かった。粒ぞろいの刺激的コラム集で、呉の本領発揮という感じ。

『放談の王道』(時事通信社)
 「弟子筋」にあたる評論家・宮崎哲弥との対談集。
 対談集というとどうしても内容が薄くなりがちだが、両著者ともテープ起こししたものに相当加筆をしているようで、なかなか読み応えがある。

 2人の評論家としての立場はかなり近いから、互いの主張にただ同意しあっているようなぬるい内容なのではという危惧もあったのだが、そこはさすがに2人ともプロ。意見がぶつかりあうポイントをあえて探したりして、読者を飽きさせない「芸」をみせてくれる。

 かりにも「評論家」としてメシを食っているからには、この2人くらいの芸とサービス精神がないとね。

 俎上に載るテーマは多岐にわたるが、マスコミ論(これは少しだけ)や宗教論を展開している部分がとくに面白かった。
 ただ、かねがね「仏教徒」を自称している宮崎の仏教理解に、私は強い違和感を覚えるけれど…。


『マンガ狂につける薬21』(メディアファクトリー/1200円)
 ここ10年ほどで、マンガ評論にもずいぶん読み応えのあるものが増えた。
 マンガが「読み返される文化」となり、マンガ評論ないしマンガ・エッセイの本がそこそこ売れるようになったという変化のせいもあろう。
 だが、呉智英が状況を切り拓いたという面も無視できない。名著『現代マンガの全体像』(86年)以来の呉の評論活動は、日本のマンガ評論の質を飛躍的に向上させたと思う。

 呉智英のマンガ評論の何が画期的だったかといえば、マンガを論ずるにしても、そのバックボーンに確固たる史観と思想があった点だ(むろん、その思想に共鳴するか否かは別問題だし、一部のオタク系評論家から「呉智英はマンガを自分の思想を語る道具にしている」などと論難されてもいるのだが)。

 呉以前のマンガ評論の大半はマンガ・マニアの感想文でしかなく、そもそも、書き手に歴史観と呼べるほどのものはなかったのだ。

 しかも、呉智英の文章には圧倒的な面白さがあった。
 高度な内容をもちながらも文章はあくまで平明で、読み手を毎回確実に楽しませるだけの「芸」があったのだ。ひとりよがりの不明瞭な文章が幅をきかせていたマンガ評論の世界にあって、呉の文章の質の高さは群を抜いていた。

 もちろん、呉にも弱点はある。
 少女マンガ系の知識は乏しいし、マンガ以外のサブカルチャー(アニメやロックなど)にまったく疎い人だから、マンガ作品とほかのサブカルの連関を論ずることができない。
 しかしそれでも、私は呉智英のマンガ評論をスゴイと思う。

 雑誌『ダ・ヴィンチ』に95年から長期連載中の「マンガ狂につける薬」は、そうした呉の個性が見事に活かされた好企画である。
 これは、呉がオススメのマンガを毎回一作ずつ紹介するエッセイなのだが、つねに小説などの活字作品とワンセットにして語るという仕掛けがなされている。すなわち、「あるマンガ作品が語っていること、あるいは語りえなかったこと、それは活字の本の中でどう論じられているか。逆に、活字の本の主題は、マンガならどうそれを描いたか」を論じていく、「活字とマンガの“虹の梯”あるいは“愛の往復書簡”」を目指したものなのだ。

 連載をまとめた単行本は98年に第1弾が刊行されているが、さきごろ待望の第2弾が出た。『マンガ狂につける薬21』がそれである。

 連載が長くなるにつれて取り上げるべき名作・傑作はおのずと減っていくだろうから、第2弾はそのぶんパワー・ダウンするだろうと思いきや、そこはさすがに呉智英、どんな作品を取り上げてもきっちり読者を楽しませる。
 パワー・ダウン対策としてか、第1弾が連載36回分をまとめているのに対し、この第2弾は50回分で1冊となっている。しかも価格は同じ。さすがのサービス精神である。

 このエッセイの面白さの何割かは、マンガ作品と何をセットで取り上げるかという組み合わせの妙にある。その組み合わせがうまくいった場合には、ほんとうに面白い。

 たとえば、いしかわじゅんの『約束の地』とジョージ・オーウェルの『1984』をセットにし、「ユートピアを目指す民衆運動」が併せ持つ「至福の喜びと冷酷な恐怖」について語った回などは、ビシッときまっている。

 逆に、ネタに困って苦肉の策でセットにしたような回もあって、そういうときは、「活字とマンガの“虹の梯”」にはなっていない。マンガ・エッセイと書評を無理やり糊付けしたようなチグハグな印象が残る。

 そうした瑕疵はあっても、全体としてみれば価格に見合った面白さが味わえ、情報としての価値も十分である。呉智英は、よい意味で職人的な評論家だと思う。「職人」だからこそ、いただいたお代の分の仕事はきっちりとこなすのだ。

 それにしても、この単行本の装丁はひどい。葬儀の案内状のようにただ不気味なだけ。この装丁のせいでだいぶ損をしていると思う。

■オマケ/私が選んだ「マンガ評論本」BEST10(順不同/単著のみ)
呉智英『現代マンガの全体像』(情報センター出版局/史輝出版/双葉文庫)
いしかわじゅん『漫画の時間』(晶文社/新潮OH!文庫)
関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文藝春秋)
大塚英志『「まんが」の構造』(弓立社)
奥田鉄人『鉄腕マンガ論』(マガジンハウス)
夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』(NHK出版)
荒俣宏『漫画と人生』(集英社文庫)
四方田犬彦『漫画原論』(筑摩書房)
みなもと太郎『お楽しみはこれもなのじゃ/漫画の名セリフ』(河出文庫)
桜井哲夫『手塚治虫』(講談社現代新書)
次点/吉弘幸介『マンガの現代史』(丸善ライブラリー)
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ロックの邦題傑作選

ブロウ・バイ・ブロウ(紙ジャケット仕様)ブロウ・バイ・ブロウ(紙ジャケット仕様)
(2005/01/19)
ジェフ・ベック

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 ロックのアルバムに限らず、映画や小説でもそうだが、やはり昔のほうが味のあるいい邦題が多かった。だいたい、最近の邦題は原題の英語をカタカナに置き換えただけのものが多くて、味もそっけもない。

 たとえば、アラニス・モリセットのセカンド・アルバムの邦題は『サポーズド・フォーマー・インファチュエイション・ジャンキー』。もう、原題そのまんまである。このタイトルだけ見て意味のわかる人が、いったい日本人にどれだけいただろう?

 また、ミシェル・ンデゲオチェロの4thアルバムの邦題は、『クッキー:ジ・アンスロポロジカル・ミックステープ』。これも原題をカタカナに置き換えただけ。
 ただでさえアーティスト名が覚えにくいのに、こんな覚えにくい邦題をつけられた日には、売れるアルバムも売れないというものだ。



 そこへいくと、1970年代までの邦題はよかった。
 たとえば、ユーライア・ヒープの『LOOK AT YOURSELF』の邦題は、『対自核』。原題は「己を見つめよ」の意だから、そこから「自分の核と向き合う」というニュアンスをこめて「対自核」なる言葉を作ったのだろう。「何がなんでも日本語にするぞ」という執念のようなものが感じられる。



 ちなみに、『対自核』とタメを張る謎めいた邦題は、ピンク・フロイドの『原子心母』。しかしこちらは原題も『ATOM HEART MOTHER』で、意味不明。これもいまなら、『アトム・ハート・マザー』が邦題になったことだろう。

 やっぱ、プログレは言葉へのこだわりも強いジャンルだけあって、邦題にもいいものが多い。
 キング・クリムゾンの名作『太陽と戦慄』は、原題「Larks’ Tongues in Aspic」。原題のニュアンスは邦題にまったく反映されていないが、あのアルバムのタイトル・ナンバーにはたしかに「太陽と戦慄」という邦題が似つかわしい。名邦題の一つだろう。

 ロッド・スチュワートの『FOOTLOOSE&FANCYFREE』の邦題は『明日へのキックオフ』。同じくロッドの『BLONDES HAVE MORE FUN』の邦題は、『スーパースターはブロンドがお好き』。
 どちらもいいねえ。「オレのつけた邦題でこのアルバムを売ってやるぜ!」という意気込みが感じられる。



 で、私が邦題ベストワンを選ぶとしたら?

 ジェフ・ベックの名盤『BLOW BY BLOW』。このアルバムはいまでは『ブロウ・バイ・ブロウ』というタイトルで売られているけれど、発売当初の邦題は『ギター殺人者の凱旋』だった(!)。
 スゴイ。このぶっ飛んだ言語感覚にはもう脱帽するしかない。

 ちなみに、ワースト邦題は?

 アルバムではないのだが、AC/DCのアルバムに入っていた「死ぬまで飲もうぜ」という曲。
 AC/DCの2代目ヴォーカリスト、ボン・スコットは酒の飲みっくらをやって急性アルコール中毒で死んだのだが、そのあと、新しいヴォーカリストを入れて出された追悼アルバム『バック・イン・ブラック』の中の1曲。

 アルバムの帯には「悲しみを乗り越えて」云々という惹句があり、中身は重々しい鐘の音で始まる。そのくせ、収録曲の1曲は「死ぬまで飲もうぜ」。シャレにならねーよ、人の死にざまを冗談のネタにすんなよ、と思ったものだ。

 アメリカのシンガー、グレン・キャンベルのヒット曲「哀愁の南」は、原題「southern nights」。曲調もおよそ「哀愁」という感じではない楽しげなものなのに、なぜ「哀愁」?
 山本さゆりがラジオ番組(たしか「軽音楽をあなたに」)でこの曲をかけたとき、「これは、すごくみっともない邦題のつけ方だと思います」と吐き捨てるように言ったのを覚えている(笑)。

 そういえば、エルトン・ジョンの初期のヒット曲「土曜の夜は僕の生きがい」は、のちに『ファンダンゴ』という映画の主題歌になったことで「土曜の夜はファンダンゴ」という邦題に変えられてしまった(笑)。

 邦題も、ときに出世魚みたいに変わるのである。

 もう一つ例を挙げる。
 ポール・マッカートニーの「Maybe I'm Amazed」という曲は、ポールのファースト・ソロアルバム所収時には「恋することのもどかしさ」という邦題だった。
 しかし、のちにポール・マッカートニー&ウイングスのライヴ・アルバムからライヴ・バージョンでシングルカットされた際には、「ハートのささやき」という邦題に変わった。
 そして、現在では「メイビー・アイム・アメイズド」というカタカナ表記のほうで知られている。つまり3種類の邦題をもつ曲なわけで、出世魚顔負けである。

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『モンキーズ・レインコート』


モンキーズ・レインコート―ロスの探偵エルヴィス・コール (新潮文庫)モンキーズ・レインコート―ロスの探偵エルヴィス・コール (新潮文庫)
(1989/02)
ロバート クレイス

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 ロバート・クレイス著、田村義進訳『モンキーズ・レインコート』(新潮文庫)読了。

 〈私立探偵エルヴィス・コール〉シリーズの第1作(1987年)。邦訳は89年に出たものだが、すでに絶版。古書店でもほとんど見かけない。
 このシリーズはすでに10作書かれていて、邦訳の多くは扶桑社ミステリーから出ている。もっとも、私はこれがシリーズ初読である。

 この『モンキーズ・レインコート』は、クレイスのデビュー作。それがいきなりアンソニー賞とマカヴィティ賞最優秀処女長編賞の2冠に輝き、彼はその将来を嘱望された。
 もっとも、そのわりには(本国アメリカではともかく)日本では売れていない。新潮文庫から出たシリーズ第1、2作がともに絶版のままであることからも、不人気ぶりがうかがえる。

 私は、「ロバート・B・パーカーの『初秋』に似ている」という評価を目にして、この作品をずっと読みたいと思っていた。『初秋』は私も大好きな作品なのだ。
 奇妙なタイトルは、芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の英訳からとられている。

 読んでみると、なるほど、パーカーの〈スペンサー・シリーズ〉によく似ている。
 とくに、主人公エルヴィス・コールとその相棒ジョー・パイクのキャラクター造型は、スペンサーとその相棒ホークのキャラの〝まんまパクリ〟である。
 スペンサーがボディビルで身体を鍛えているのに対し、エルヴィスは太極拳をやっている、などという細部の違いはあるが、全体の雰囲気はそっくり。
 
 もっとも、「パクリだから駄作だ」ということにはならない。むしろ、この『モンキーズ・レインコート』は、いちばんよかったころの〈スペンサー・シリーズ〉を彷彿とさせる好編である。
 具体的には、シリーズで最も感動的な「泣かせるハードボイルド」だった『初秋』と、シリーズ屈指のアクション編『ユダの山羊』を足して2で割ったような味わい。

 『初秋』は、両親の離婚劇のゴタゴタで心を閉ざした少年ポールを、私立探偵スペンサーが一時的に父親がわりになって鍛え上げ、蘇生させる物語だった。
 邦訳出版当時、高倉健が読んで惚れ込み、自らの主演で映画化しようとしたという逸話もある。「日本人好み」の傑作だ。

 この『モンキーズ・レインコート』も「蘇生の物語」であり、その一点で『初秋』とよく似ている。エルヴィス・コールは、依頼人である39歳の女性エレン・ラングに深くかかわり、彼女を「蘇生」させる役割を果たすのだ。

 「失踪した夫と息子を探して欲しい」という依頼のため、エレンが親友につきそわれてエルヴィスのオフィスを訪れるところから、物語は始まる。
 最初は夫婦の不仲をめぐるゴタゴタにしか見えなかった事件だが、やがて夫は射殺体で発見され、大がかりなコカイン・シンジケートが背後にあることが判明する。

 そして、物語の後半では一転して派手なアクションが展開される。エルヴィスとパイクが、ギター・ケースにさまざまな武器を仕込んで麻薬王のアジトに乗り込むクライマックスは、まるで『リーサル・ウェポン』だ。

 友人に付き添われなければ探偵事務所を訪れることすらできないほど内気でおどおどしていたエレンは、夫が殺され、息子は誘拐され、という苦難を乗り越える過程で、劇的に変わっていく。意志をもった強い女として蘇生していくのだ。

 「依頼人、もしくはその妻や娘とは寝ない」というのがハードボイルドの探偵たちの鉄則であったはずだが、エルヴィス・コールは本気でエレンに惚れ、寝て、その人生に深くかかわる。このへんにロバート・クレイスの個性が表れている。

 ヴェトナム戦争以後に登場したアメリカのハードボイルド小説は、「ネオ・ハードボイルド」と呼ばれる。
 ヴェトナム戦争という深い幻滅を経たあとでは、探偵たちも、ハメットの時代のようにタフでクールなだけではいられない。だからこそ、「ネオ・ハードボイルド」からは、ホモセクシュアルの探偵や肺ガン・ノイローゼの探偵、少し走ると息切れする老人探偵などという屈折型の主人公が現れた。

 そうした時代にあって、「ヴェトナム以後のための新しいカッコよさ」を追求してきたのが、〈スペンサー・シリーズ〉であった。そのパーカーに私淑し、『初秋』をベストワン作品に挙げるクレイスも同様だ。

 エルヴィス・コールは「ヴェトナム帰り」という設定だが、にもかかわらず、そのキャラクター造型にはほかの「ネオ・ハードボイルド」のような屈折がない。なにしろ、「私はヴェトナムで気楽に生きることを学びました。それが生きのびる秘訣です」と言うような男なのだ。
 Tシャツにリーバイスでロスの街を闊歩し、太極拳で身体を鍛え、ブルース・スプリングスティーンをこよなく愛する、さわやかなヒーロー像なのである。

 そして、この『モンキーズ・レインコート』は、エルヴィスとエレンの「大人のラブストーリー」としても楽しめる。

「賭けてもいい。あなたはハイスクールで三番目に美しい女の子だったはずだ」
「二番目ですわ」

 ――そんな軽快なやりとりがちりばめられているのが楽しいし、ワイズクラック(気の利いた軽口)を叩きつつも、苦難に直面したエレンを励まし、守るエルヴィスの「男前」ぶりが魅力的だ。

 文体も軽快かつオシャレ。訳も読みやすくてよい。たとえばこんなふうに――。

「軍隊生活というものを一度体験すると、たいていのことには驚かなくなってしまう。不思議はいつも品不足だ。だから、たまに不思議なものにであうと、それを大事にとっておこうとする。
(中略)
 できれば、エレン・ラングのために、いいニュースをもってかえってやりたかった。けれども、いいニュースは、不思議と同様、いつも品不足だ」

 期待に違わぬ快作。シリーズのほかの作品も読んでみたい。

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アーサー・M・ アーベル『我、汝に為すべきことを教えん』


我、汝に為すべきことを教えん―作曲家が霊感を得るとき我、汝に為すべきことを教えん―作曲家が霊感を得るとき
(2003/09/01)
アーサー・M. アーベル

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 アーサー・M・ アーベル著、吉田幸弘訳『我、汝に為すべきことを教えん』春秋社/2800円)読了。

 アメリカの音楽雑誌の欧州特派員であった著者が、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの名高い作曲家6人に対して行ったインタビューをまとめた記録である。約一世紀前に書かれ、本国アメリカでは半世紀前に出版された。

 登場する作曲家は、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニ、グリーグ、エンゲルベルト・フンパーディンク(「ラスト・ワルツ」を歌った同名の歌手とは別人)、マックス・ブルッフ(誰? 私はまったく知らない)の6人。

 「作曲家が霊感を得るとき」という副題のとおり、インタビューのテーマは、「偉大な作曲家たちは創造のためのインスピレーションをどのように得ていたか? そして、そのインスピレーションの源泉とは何か?」である。

 ここでいう「霊感/インスピレーション」とは、現代の我々が使うような「ひらめき」という軽いニュアンスではない。本来の字義どおり、人知を超えた存在から口授される「霊感」の謂である。

 登場する6人はいずれも、霊感は「神(詩神=ミューズ)から与えられるもの」だと確信している。邦題も、旧約聖書「出エジプト記」の一節である。
 
 私は、「インスピレーションをつかむノウハウ」がちりばめられた本ではないかと期待して読んだのだが、その期待は思いっきり外れた。「一歩間違えばオカルト」な内容の本である。

 だが、だからつまらないかといえば、意外にそうでもない。
 芸術を創造するとはどういうことなのか――その意味をしみじみ考えさせる本であり、その一点で面白く読めた。 

 登場する作曲家の何人かは、口をそろえて、「真の霊感を得ている作曲家は、世の作曲家の中でもごく一部だ」という。
 たとえばシュトラウスは、「(霊感を得て作曲している者は)私の見解では五パーセントにも満たない。今日の音楽作品の九五パーセントは純粋に知的なもので、その結果短命だ」と喝破する。これは、いまどきの音楽についてもしかりではないか。

 ハイドンは、作曲を始めるときには一番の正装をしたという。「これから神と交わるのだ。それに相応しく装わねばならない」と……。彼にとって、「作曲することは礼拝の一形式」であり、詩神を呼び出すための儀式であったのだ。

 また、プッチーニは、彼が作曲中に話しかけて邪魔した神父に向かって、こう怒ったという。
「おい神父さん、もし作曲中にもう一度邪魔したら、あんたに誓って言うが、カトリック教会とは手を切ってプロテスタントになるよ」

 すると、神父は十字を切って言う。
「私は、あなたにそんなことを言わせる悪魔を追い払うために十字を切っているのです」
 だが、プッチーニは言い返す。
「ミサや告解に出席する他にも神と交わる方法はある。作曲中の私は、神が近くにおられ、私がしていることを良しとされているのを感じるのだ」

 いいなあ、このエピソード。

 もう一つ、「ペール・ギュント」の作曲家グリーグが著者に語った、シビレる名セリフを引いておこう。

「我々作曲家は、有限なるものに対して無限なるものを投影する器(プロジェクター)なのだ」

 ところで、我々ライターはインスピレーションなど待たない。そんなものを悠長に待っていたらシメキリに間に合わないからである。
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『ミスター・グッドバーを探して』

 ジュディス・ロスナー著『ミスター・グッドバーを探して』(ハヤカワ文庫)読了。

 ヒットした同名映画(1977年)の原作で、この小説自体、1975年にベストセラーになっている。
 私は、映画はずっと前に観ているが、いま書こうとしている小説(なんか恥ずかしいけど)の参考にしたい点があって、原作の小説を読んでみたかった。図書館の保存庫からわざわざ出してきてもらった。

 いわゆる「東電OL殺人事件」が起こったとき、被害者の女性を『ミスター・グッドバーを探して』のヒロインになぞらえた人は多かった。
 昼は大企業の管理職をつとめる独身キャリアウーマン、夜は渋谷のホテル街にたたずむ娼婦――という被害女性の衝撃的な人間像は、たしかにこの小説のヒロインを彷彿とさせる。

 ヒロインのテレサは娼婦でこそないが、昼は真面目な独身教師、夜はマンハッタンのシングルズ・バーで男を探しては行きずりの関係を結ぶという、2つの顔をもつ孤独な女性なのである。

 テレサの少女時代から説き起こす前半は、退屈の極み。しかし、彼女がシングルズ・バーに入り浸るようになる後半から、俄然面白くなる。

 どうせなら後半部分だけで構成すればよかったのに、と思った。
 が、30年近く前のアメリカでこの小説が受け入れられるためには、退屈な前半部は不可欠だったのだろう。「マジメな女教師が夜ごとボーイハントをするようになるまでには、じつはこんな紆余曲折があったのですよ」と、懇切丁寧に説明して読者を「納得」させる必要があったのだ。

 この小説は、30年前の発表時より、いまの我々のほうが理解しやすいだろう。普通のOLやマジメな主婦たちがさまざまな出会い系ツールを駆使して〝もう1人の自分探し〟をすることが、ごくあたりまえに行われているいまのほうが……。
 これは、昨今ポツポツ現れている、〝出会い系〟の世界を描いたフィクションの先駆け・原型である。

 行きずりの男との逢瀬をいくら重ねてもけっして癒されない、ヒロインの根深い孤独――それをえぐり出す繊細な心理描写が素晴らしい。
 ハードボイルド・ミステリの翻訳でいい仕事をつづけてきた小泉喜美子が訳を手がけているのも、まさにうってつけ。小泉自身、美しく孤独な都会の女性として生き、最後には夜の街で命を落としたのだから(殺されたわけではないが)。

 印象に残ったくだりを、いくつか引いてみよう。

「彼女は生きていく方便としてその身辺を秘密で包んでいたのだ。(中略)そのカムフラージュは必要品であり、同時に心地よくもあり、また、堅固な砦でもあったのだ」

「それはまるきりの嘘というわけではなかったが、彼女が彼に言った言葉のうちではいちばん嘘に近いものだった」

「『あなたはぼくにじつに冷たいんですね。どうしてなんですか?』
 あなたが私を好きになりすぎているからよ、という答が彼女の頭に浮かんできた」

「きっと、彼もヴィクターと同じなのだろう。彼女のまわりに、現実の彼女とはなんの関係もない精巧な幻想を組み立てているのだろう」

 ――これらの引用文をタイトルを伏せたまま並べ、「2003年に発表された、『出会い系』の世界を描いた日本の恋愛小説の一節だ」と言ったら、たいていの人は信じてしまいそうだ。

 映画のほうは、はるかな昔に観たので、主演のダイアン・キートンが行きずりの男にめった刺しにされる無惨なラストシーンしか記憶にない。
 だから映画と比べて評価はできないが、内面描写が多い作品だけに、小説のほうが深いところまで描けているのではないか。
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藤原帰一『「正しい戦争」は本当にあるのか』


「正しい戦争」は本当にあるのか「正しい戦争」は本当にあるのか
(2003/12/03)
藤原 帰一

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「ラヴ&ピースだけじゃダメなんだ」
 ――帯に書かれたそんな挑発的な惹句に誘われて、藤原帰一著『「正しい戦争」は本当にあるのか』(ロッキング・オン/1600円)を読んだ。

 気鋭の国際政治学者(東大大学院教授)へのロング・インタビューをまとめた「語り下ろし」。
 これは、示唆に富んだ素晴らしい本だ。ワタシ的には五つ星。

 全6章のタイトルを列挙してみよう。

 1.「正しい戦争」は本当にあるのか
 2.日本は核を持てば本当に安全になるのか
 3.デモクラシーは押しつけができるのか
 4.冷戦はどうやって終わったのか
 5.日本の平和主義は時代遅れなのか
 6.アジア冷戦を終わらせるには

 きな臭い世界情勢のなか、にわかに切実さを増したこれらの根源的な問いに、著者は明快に答えを出していく。もう、目からウロコ落ちまくりである。

 自衛隊のイラク派遣(派兵)問題をめぐっては、「反対派=青臭い理想主義者、賛成派=オトナの現実主義者」と立て分けるムードが醸成されつつあるような気がする。

 だが、その二分法は藤原にはあてはまらない。
 彼はイラク派兵にも昨今のアメリカのやり口にも原則反対ではあるのだが、その姿勢を支える論理はこのうえなく現実的で、イデオロギッシュな感情論が微塵も混じっていない。本書の副題にいうとおり、「論理としての平和主義」なのだ。

 問題のありかを歴史的背景から説き起こし、冷静な現状分析を踏まえて腑分けする手際が鮮やかだ。〝藤原版『そうだったのか! 現代史』〟という趣もある。

 「平和はお題目じゃない。必要なのは祈る平和じゃなくて、作る平和です」
 ――これは本書の結びの一文だが、この言葉どおり、藤原は現実をしっかりと見据えたうえで、「武力を必要としない状況」を一歩一歩作っていくための方途を、真摯に探っている。

 私の目からウロコを落とさせたくだりを、いくつか拾ってみよう。

「アメリカは軍事経済に依存してるんだから、そこから脱却できないっていう議論が昔からありましたけど、ぼくは必ずしもそうは思いません。むしろ軍事に頼る経済は、政府の注文に頼る経済なので、競争にさらされていない、弱いんです」

「米軍の規模を抑制するうえで一番役に立つのはアメリカ国内の世論なんですね。アメリカってのは外国よりも国内の意見を聞く国ですから」

「軍事的な合理性からいっても、いまの米軍はほとんどいらない。(中略)それは、米軍が冷戦期の緊張を前提として作られ保持された機構だからです。現在の米軍はソ連の兵力を想定して作られている」

「核は使われない時期がこれだけ長続きしたから、使うことができない兵器だと誰もが思うようになってますけど、それは間違いです。核は使えない兵器ではなく、大規模な兵器にすぎません。(中略)冷戦後の核っていうのはその意味で、核が抑止の兵器から使える兵器に変わりつつあるっていう状況の転換になります」

「(憲法九条は日本の武装解除のために作られた条項だから)外から見ますと、日本国憲法と日米安保条約のふたつが日本の軍事行動を抑え込むものであり、敢えていえば、憲法よりも安保条約こそが日本の軍事的な単独行動を抑えていると考えた」
「欧米やアジアに行くと、日本の平和主義なんて誰も知らない」

 インタビュアーは、渋谷陽一と鈴木あかね。
 鈴木はロッキング・オンで通訳・翻訳などを手がけている女性だが、一橋とケンブリッジの大学院で国際政治を学んだという、聞いただけで恐れ入ってしまうような経歴の持ち主。

 以前、『現代ロックの基礎知識』という鈴木の著書(ロッキング・オン/99年刊)を読んだときから「ただ者ではない」と思っていたが、本書でも鋭いツッコミ連発で、藤原と対等に伍している。インタビューというより対論に近い部分すらある。

 テーマの重さとは裏腹に、「(笑)」が随所に登場するなどテンポは軽快で、読みやすい。それでいて、中身はすこぶる濃い。脚注もていねいで、理解を助ける。
 また、国際政治学の基礎と最先端の論調をわかりやすく伝える、優れた啓蒙書としても読める。

 イラク派兵問題に関心のあるすべての人に(「関心ない人なんていないだろ?」と思うかもしれないが、藤原も嘆くとおり、派兵に賛成でも反対でもなく「無関心」な層が多数派であるのが、日本の現状だ)、立場を越えて一読をすすめたい。
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手塚治虫『奇子』

奇子(あやこ) (上巻) (KADOKAWA絶品コミック)奇子(あやこ) (上巻) (KADOKAWA絶品コミック)
(2003/12)
手塚 治虫

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 手塚治虫の1970年代初頭の作品『奇子(あやこ)』が、コンビニ向けの廉価版コミックスになって売られていたので、再読。

 少年時代に読んだときにはさして面白いと思わなかったが、再読してみたらググっと引き込まれた。
 これは傑作。ただし、三島由紀夫が深沢七郎の『楢山節考』を評して言ったように、「不快な傑作」だ。

 戦後間もない時代の、とある地方。奇子は、旧家「天外家」の当主が息子の嫁に産ませた、呪われた出生のヒロイン。ニセの死亡届を出してその存在は伏せられ、土蔵を改造した地下牢に幽閉されて育つ。

 10数年後。外界を知らないまま純粋培養された奇子は、さながら〝裏返しのイブ〟のように美しく成長していた。
 そこから始まる、地獄絵図のような物語。地域で圧倒的勢力を有した天外家に、奇子は破滅をもたらしていく。

 手塚治虫の作品を「手塚ヒューマニズム」などという冠をつけて語りたがる半可通は、むごたらしくもエロティックなこの作品を読んで、唖然とするに違いない。

 手塚作品の本質は、断じて「ヒューマニズム」ではない。
 ヒューマニズムを前面に出した作品もたしかに多いが、それは作劇上の技術として用意されたヒューマニズムであって、手塚自身は人間の営みをもっと冷徹な視点から鳥瞰していた。そう、「火の鳥」の視点、神の視点から。

 私が勝手に推量して言うのではない。
 手塚自身、生前のインタビューで、〝自分の作風を「手塚ヒューマニズム」という言葉で語られること〟への不快感をしばしば表明していた。

 呉智英も、その優れた手塚論「ある戦後精神の偉業」(双葉文庫『サルの正義』所収)で、手塚作品の本質に「あらゆる価値への大きな不信」があることを指摘し、次のように書いている。

「(手塚の)この知性は、最後まで一色の色を帯びたり一つの具体物になったりすることはなかった。(中略)最後まで、抽象的で無色の純粋知性のままであった。私は、唐突に、ここで貨幣を連想する」

 晩年の傑作『アドルフに告ぐ』のラスト、幼なじみの2人がイスラエル軍とパレスチナ解放戦線に分かれて殺し合い、あとには何も残らない荒涼無比のあのラストにこそ、手塚の真骨頂がある。

 同様に、この『奇子』もきわめて手塚らしい、手塚の「コア」の部分があらわになった傑作である。
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前原政之 
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前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。ライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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