『A』『A2』



  森達也監督の『A』『A2』は、日本のドキュメンタリー映画史上に残る傑作だと思う。もっとも、私はドキュメンタリー映画をそれほどたくさん観ているわけではないのだが、少なくとも私がこれまで観たなかでは、あの『ゆきゆきて、神軍』に匹敵する面白さだ。

 オウム真理教(現アーレフ)の荒木浩広報副部長(当時)を“主人公”に、地下鉄サリン事件以後のオウムの解体過程に密着した『A』、オウムが教団施設を構えた地域の住民によるオウム排斥運動を核に、「その後のオウム」を描いた『A2』。2作とも、オウム告発の映画でもなければオウム擁護の映画でもない。オウムをフィルターに、日本人のメンタリティと日本社会のあり方を鮮やかに逆照射した作品なのである。

 いずれも抜群に面白い。とくに『A2』では、私は観ながら何度も声を立てて笑った。オウムのドキュメンタリーでなぜ笑えるのかは、観てもらえばわかる。

 オウムと社会の狭間で起きる、マスコミが決して報じてこなかった出来事の数々に唸らされる。たとえば『A』では、公安が「転び公防(刑事が自分から転んでおきながら、相手を公務執行妨害で逮捕する)」でオウムの出家信徒を不当逮捕する現場が、そのまま映像に収められている。こんなやり口が、いまでも現実に行われていることに仰天する。

 『A2』では、「オウム=悪」という図式にずっぽりハマッた“善良な市民”たちが、なんら犯罪を犯したわけではない一般出家信徒を排除していくさまが、執拗に描かれる。その人権無視ぶりは醜悪で、オウムの信徒たちや右翼(オウム排除の街宣活動を行う)のほうがよほどまっとうに思えるほど。“異物”を容赦なく排除する市民たちの姿は、阿部謹也の「世間論」に言う「世間」そのものだ。

 活字の世界でも活躍する森氏のエッセイ集に『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』があるが、これは当初、『A2』のキャッチコピーに使われる予定だった言葉だという。

 ささくれだったドキュメンタリーだが、その中で、なるほどたしかに「世界の豊かさ、人の優しさ」を感じさせる部分が2つある。
 1つは、松本サリン事件の被害者・河野義行さんが、オウム幹部を自宅に招き入れ、真摯に対話をする場面。もう1つは、群馬県藤岡市のオウム施設で、オウムを「監視」する地域住民と出家信徒との間にいつしか友情が芽生えていくシークェンス――。

 もっとも森監督は、河野さんたちをいたずらに持ち上げ、オウムを声高に糾弾する住民を非難しているわけではない。それでは、「オウムは悪で、我々が善だ」という一般マスコミや「世間」の人々の視点を、そっくり逆方向に向け返しただけになってしまう。
 森作品に通底するのは、善悪二元論によりかかる「思考停止」を排し、他者への想像力を研ぎ澄まそうというメッセージだ。つまり、この映画の中には善玉も悪玉もいない。

  『A』『A2』とも、森監督自身がしばしば登場し、取材相手に挑発的な質問を投げかける。そして、相手の戸惑う表情、言葉を探しての逡巡や沈黙までが、作品の一部として提示される。そうしたやりとりは、いずれもきわめてスリリングである。

  ドキュメンタリーが中立公正に事実のみを描くものだとすれば、“監督は無色透明な存在に徹して、作品に顔など出すべきではない”ということになろう。だが、「作り手と被写体との関係性を描くことがドキュメンタリーの本質」(『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』)と考える森監督は、堂々と主観を出し、取材相手を挑発する。

 二元論の狭間の濃密なグレイゾーンを見据えた、新世代のドキュメンタリー。ビリビリと刺激的である。
 「いまさらオウムのドキュメンタリーなんて」と食わず嫌いをせず、ぜひ一度観ていただきたい。誤解を恐れず言えば、ヘタな娯楽映画よりずっと「面白い」。
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ダディ・グース『少年レボリューション』

少年レボリューション―ダディ・グース作品集少年レボリューション―ダディ・グース作品集
(2003/04)
ダディ・グース

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 作家の矢作俊彦がかつてマンガ家をしていたことは、知る人ぞ知る事実である。

 「マンガ家をしていた作家」は、ほかにもいる。
 たとえば山田詠美は作家デビュー以前に「山田双葉」名義でマンガを描いていたし、小松左京も最近マンガ家時代の幻の作品集を刊行した。荒俣宏も、マンガ評論集『漫画と人生』(集英社文庫)の巻頭をかつて自分が描いたSFマンガで飾っている。
 まあ、小説家を志すような少年少女ならまずマンガにハマるのがお決まりのコースだから、べつだん不思議はない。

 山田詠美や荒俣宏のマンガが、彼らの小説のような高い評価を得ることなく消えていったのに対し、マンガ家時代の矢作の作品は一部で高く評価されてきた。
 当時のペンネームはダディ・グース。1960年代末に彗星の如く登場し、『漫画アクション』を中心に20編あまりの作品を発表し、70年代半ばにはあっけなく消えていった。単行本はこれまで1冊も刊行されておらず、まさに「幻のマンガ家」であった。ダディ・グース名義のマンガ原稿はすべて散逸して残っておらず、単行本化は不可能と言われていた。
 
 だが、そのダディ・グースの作品集が、30年の時を経て初めて刊行された。『少年レボリューション/ダディ・グース作品集』(飛鳥新社/2500円)がそれだ。
 筋金入りのマンガ・マニアとして知られる飛鳥新社の名物編集者・赤田祐一が、当時の掲載誌からそのまま版を起こす形で単行本化を実現させたのだ。ただし、原稿の修正作業がていねいになされており、雑誌から版を起こしたことを読者に意識させない。この作品集には、ダディ・グースの作品の過半が網羅されている(11編収録)。

 単行本の帯には、かつて傑作『気分はもう戦争』で矢作と組んだ大友克洋が、「ダディ・グースを読みなさい」との簡潔きわまる(笑)推薦の辞を寄せている。
 じつは私もダディ・グースの作品を読むのはこれが初めてだが、絵は当時の水準をはるかに超えている。緻密な描き込み、精緻なメカ描写、映画的でダイナミックな構図やコマ割り……ダディ・グースは、大友克洋の出現に先駆けた作家だったのだ。

 宮谷一彦や真崎・守あたりの劇画からの影響も感じられるが、映画やアメコミからの影響と渾然一体となって、誰の真似でもない独自の世界が構築されている。

 では、ストーリーはどうかといえば……ない(笑)。「新感覚ハードボイルド」と評された初期の矢作作品を劇画化したような内容を期待すると、肩透かしを食う。

 唯一はっきりしたストーリーがあるのは、冒頭に収録された「神様の代理人」のみ。矢作ファンならピンとくるだろう。初期の代表的短編「神様のピンチヒッター」の原型となった劇画バージョンである。ストーリーは小説版とほとんど同じ。これはカッコイイ。

 矢作はのちに、「神様のピンチヒッター」を自ら監督してVシネマ化もしている(ちなみに主演は江口洋介)。マンガにし、小説にし、映画にもし……と、よほどこの作品に思い入れがあったと見える。

 ほかの10作品はいずれも、ストーリーらしきものが見当たらない。「壮絶奇怪なるポリティカル・オペラ」(帯の惹句より)である。
 たとえば、「馬鹿ばかしさの真っ只中で犬死にしちゃうための方法序説」なる一編は、ジャン・ポール・ベルモンドとキングコングと月光仮面が登場し、日本の国会議事堂周辺でドタバタ活劇をくり広げるというムチャクチャな話。アメコミとゴダールの映画と佐々木マキのマンガをミックスしたような、得体の知れない混沌が渦巻く作品である。その混沌具合がなんともエレガントでカッコイイ。

 表紙はおろか、中のあとがき等にもいっさい矢作の名は登場しない。このへん、いかにも矢作らしい。
 ダディ・グース名義で書かれたあとがきが、矢作らしくないしみじみとした文章で、たいへんよい。18歳でマンガ家デビューを果たしたときの恩人である清水文人氏(当時『漫画アクション』編集長)の思い出が綴られている。

 あの日、私の人生はきっと音を立てて開かれたのだ。開いたのは清水さんである。その清水さんはもういない。双葉社の社長を務められたあと、勇退して、念願だった「昆虫館」を故郷の長野につくられた。開館して一年足らず、病に倒れ亡くなられた。清水さんは幼時からクワガタの収集家でもあった。昆虫館には数千種に及ぶ標本が展示されている。私の漫画は、あの日の清水さんに、珍種のクワガタのように見えたのかもしれない。そうだったらどれほど幸福だろう。それなら、たとえどのような恥ずかしさでも我慢できるというものだ。

 

 2500円という値段はマンガ単行本としては異例の高さだが、矢作ファンおよびマンガ・マニアにとっては相応の価値がある1冊である。
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スティーリー・ダン『エヴリシング・マスト・ゴー』

エヴリシング・マスト・ゴーの画像


 スティーリー・ダンがキャリアのピークを極めたのは、『幻想の摩天楼』『彩/エイジャ』『ガウチョ』という驚異的な傑作が3作つづいた70年代後半~80年代初頭だった。超一流のスタジオ・ミュージシャンを惜しげもなく起用し、曲ごとにミュージシャンを替えて、精緻な工芸品を思わせるゴージャスなサウンドを築きあげた。

 全盛期の3作を私はいまでも時折引っ張り出して聴くが、何度聴いても飽きない。汲めども尽きぬ泉のような魅力をもつ名作群。
 また、その後に出たドナルド・フェイゲンの初ソロ『ナイトフライ』も、『エイジャ』などに勝るとも劣らぬ出来栄えだった。
 しかし、フェイゲンのソロ第2弾『カマキリアド』と、スティーリー・ダンの復活作『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』は、いずれも印象の薄い凡作であった。

 彼らの3年ぶりの新作『エヴリシング・マスト・ゴー』(ワーナー/2400円)は、『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』よりは随分ましである。「お、かなり持ち直したな」という感じ。とくにアルバム後半にいい曲が並んでいる。

 しかし、メンバーのフェイゲンとウォルター・ベッカーが自ら演奏する比率が高くて、「超一流のミュージシャンを山のように起用し、たった一つのフレーズのために高額のギャラを蕩尽する」というスティーリー・ダンの方法論が今回は使われていない。
 たとえば、ベース・ギターはベッカー1人が最初から最後まで弾いている。スタジオ・ライヴ一発録りで作られたのだそうで、その分バンド・サウンド的なノリのよさはあるけれど、いささかラフな印象は否めない。

 スティーリー・ダンも、デビュー当時にはごく普通のバンドであった。そのうちメンバーが1人抜け、2人抜け、とうとうフェイゲンとベッカーの2人だけが残った。そのとき彼らが選んだ道が、新しいメンバーは補充せず、一流スタジオ・ミュージシャンを適材適所で起用してアルバムを作りこむプロデューサー的役割に徹する道であったのだ。

 つまり、今回のアルバムは、デビュー当時のバンド・サウンドを再び目指した原点回帰の作品なのである。もっとも、「ニューヨーク産ウェストコースト・サウンド」と評されたデビュー作『キャント・バイ・ア・スリル』のころほど爽やかな音ではない。『プレッツェル・ロジック』や『うそつきケティ』のころに近い印象。

 ラストを飾るタイトル・ナンバーは絶品。コルトレーンばりの渋いイントロから始まるジャジーなバラード。この1曲があることで救われている。
 アルバム全体に言えることだが、今回はサックスが群を抜いていい。ウォルト・ワイスコフという人がほとんど1人で吹いている。このプレイヤー、要注目である。

 逆に、よくないのがギター(ベッカーが弾いている曲多し)とドラムス。「エイジャ」の終盤でスティーヴ・ガッドが叩きまくった一世一代の超絶ドラムとか、「緑のイヤリング」の背筋ゾクゾクもののギターのような値千金のプレイが一つも見当たらない。

 でもまあ、それは「スティーリー・ダンのアルバムにしてはよくないなあ」ということであって、総体的には水準以上の出来である。
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中山康樹『これがビートルズだ』


これがビートルズだ (講談社現代新書)これがビートルズだ (講談社現代新書)
(2003/03/18)
中山 康樹

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 新書という形態にはそもそも入門書的な色合いが強い。わけても講談社現代新書は、中公新書などに比べれば入門書的な内容のものが多い。だが、音楽評論家・中山康樹の『これがビートルズだ』(講談社現代新書/760円)は、一見「ビートルズ入門」のようでいて、じつはとてつもなくマニアックな本である。

 これは、一言でいえば「ビートルズ全曲制覇本」。 ビートルズ の全公式曲213曲をすべて綿密に聴き直し、1曲につき1ページを割いて解説した本なのだ。過去にあった類書がデータ的な記述に終始していたのに対し、本書は批評性の強い内容。すなわち、データ的な記述を少なめにして、著者自身の主観・好みを前面に出して各曲を批評しているのだ。

 既成の「ビートルズ礼賛本」とは異なり、著者が駄作・凡作だと思う曲についてはケチョンケチョンにけなしまくっている。たとえば、ビートルズのデビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」については、こんな具合だ。

 記念すべきデビュー曲である。だが、それがどうした。凡曲である。凡演である。聴くべきところはほとんどない。(中略)この曲をダメと断じる耳があってはじめて他の曲がいかに偉大であるかが理解できるのだ。
 いまなお解けない謎は、なぜビートルズがこのような凡曲を望んでデビュー・シングルに選んだのかという真意だ。


 いや、痛快痛快! たとえビートルズの曲だろうとつまらない曲はつまらないのだ。もちろん、ためにする批判ではない。傑作についてはこれでもかとばかり絶賛している。たとえば、私がいちばん好きなビートルズ・ナンバー「レイン」について、中山氏も次のように高く評価している。

 《ペイパーバック・ライター》のB面として人目を忍ぶように発表されたこの曲こそ、最高にして最大の傑作なのだ。結論を急げば、《レイン》は一曲をもって『リヴォルバー』を超える。さらに極論すれば、『リヴォルバー』の主要要素はこの一曲のなかに集約され、『リヴォルバー』というアルバムは《レイン》を薄く引き延ばしたものにすぎない。


 100%同意! わかってるじゃないか、中山さん。

 この本は明らかにビートルマニア向けに書かれている。日本だけで300万枚も売れたという最新ベストアルバム『ビートルズ1』で初めてビートルズのCDを買ったような「初心者」は、はなから相手にされていない。初心者が読んでも、なんのことだかわからない記述が山ほどあるだろう。

 たとえば、“「ヘルター・スケルター」はチャールズ・マンソンがシャロン・テートを惨殺するきっかけになった曲だ”とか、“「ディア・プルーデンス」のプルーデンスは女優ミア・ファローの妹の名前だ”とか、“「シー・セッド・シー・セッド」はジョンがLSDでラリっているときにピーター・フォンダがささやいた言葉がモチーフになっている”とか、そういう予備知識みたいなことはバッサリ割愛されている。その程度のことは知っていて当然のマニアに向けて書かれているからだ。
 
 したがって初心者にはまったくオススメできないが、ある程度ビートルズを聴きこんだマニアにとってはたまらなく面白い本である。

 私もビートルマニアのはしくれだが、中山氏とはかなり好みがちがう。私はジョンびいきだが、中山氏は明らかにポールびいきである。とくに、氏はヨーコ・オノを蛇蠍の如く嫌っているらしく、ヨーコとくっついて以降のジョンの作品にはやたらと点が辛い。

 氏は「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を「ジョン最後の傑作」と呼び、「以降のジョンはビートルズが解散するまで名曲を一曲も書いていない」と断じている。ううむ……。むしろ後期のジョンのほうを好きな私には、この評価はとうてい承服できない。

 要するに中山氏はメロディ重視の傾向が強く、はっきりした抑揚のある甘いメロディを書かなくなった後期のジョン作品は肌に合わないだけのことではないか。氏の基準でいえば、ソロになってからの「マザー」や「神」といった名曲も“一本調子で音楽的魅力に欠ける凡作”ということになってしまいかねない。

 同じビートルマニアでも「ジョン派」の最右翼である松村雄策さんは、本書をどう読んだろうか。聞いてみたい気がする。

 また、ジョージがインド音楽に傾倒していた時期に作った曲を十把ひとからげにゴミ扱いしているが、この点も私とは評価が異なる。私は、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」も「ジ・インナー・ライト」も素晴らしい曲だと思う。

 しかし、マニアにとっては、そうした見解の相違も含めて楽しめる本である。なにしろ、曲の聴きこみの深さがハンパではない。聴覚を研ぎ澄まし、演奏の隅々にまで目を光らせているという趣。たとえば、初期の名曲「シー・ラヴズ・ユー」についてのページの最後はこうだ。
 

 一分二一秒前後から音質が劣化する。テープがつながれたのだ。あきらかに編集上の、しかも歴史的なミスだ。


 聴き慣れたビートルズの曲に、新たな光が当てられていく。CD棚からビートルズのアルバムを一枚ずつ引っぱり出し、中山氏の評価を念頭に置きながら聴き直してみたくなる。そんな楽しい本である。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

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●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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