フリートウッド・マック『セイ・ユー・ウイル』


セイ・ユー・ウィルセイ・ユー・ウィル
(2003/04/23)
フリートウッド・マック

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 フリートウッド・マックの『噂(ルーモアズ)』は、私が洋楽を聴き始めた時期(1977年)に大ヒットしていたこともあり、思い出深い作品だ。そして、いま改めて聴いても傑作だと思う。これまでに全世界で2500万枚以上を売り上げたという歴史的ベストセラーだが、音は“アメリカン・ポップスの王道”という感じではなく、微妙に屈折している。

 マックはもともと、1960年代にデビューしたイギリスの渋いブルース・ロック・バンドであった。70年代にアメリカに渡り、アメリカン・ポップスの要素を取り入れて商業的成功を収めるが、それでも、一見ポップな装いの奥には、ブルース色、ブリティッシュ・ロック色が母斑のように残っている。私などは、そのひねくれ具合にこそマックの魅力を感じたものだ。

 集合離散をくり返したマックが黄金期の――すなわち『噂』時代の――ラインナップで再結成されたのは、1997年のことだった。MTVの『アンプラグド』用に行われたリユニオン・ライヴの模様は、『ザ・ダンス』と題されてCD/LD化された。それから6年を経てようやく登場した復活作が、『セイ・ユー・ウイル』(ワーナー/2400円)である。
 日本盤は明日発売なのだが、待ちきれずに輸入盤を買ってきてしまった。

 今回のアルバムには、クリスティン・マクヴィーは正式メンバーとしては加わっていない(レコーディングにはゲスト参加)。黄金期のマックは、クリスティン、リンジー・バッキンガム、スティーヴィー・ニックスという3人のソングライター/シンガーの個性のぶつかり合いが大きな魅力であったから、これは残念。

 ただ、リンジーとスティーヴィーの二枚看板がいい曲をたくさん持ち寄っているこの『セイ・ユー・ウイル』も、なかなかの力作である。アルバムからの第一弾シングルとなった「ピースキーパー」以外にも、シングルヒットしそうな曲が少なくない。『噂』時代の音に最も近い「スローン・ダウン」、シェリル・クロウが参加した「シルヴァー・ガール」、タイトル・ナンバーの「セイ・ユー・ウイル」など……。収録時間が80分近い(全18曲)というボリュームもうれしい。

 私は、リンジー、スティーヴィー参加以降のマックの音は、“セピアカラー・ポップ”だと思っている。
 たとえば、『噂』に収録され、全米ナンバーワン・ヒットとなった名曲「ドリームス」。この曲は、センスのよいドラムスとベースこそが核を成しており、ギター、キーボード、コーラスはその上に淡い色を添えていく。その音数の少なさ、俳味といってもよい間の活かし方は、エネルギー過剰の曲が多いアメリカン・ポップの中にあっては異彩を放っていた。

 それ以外にも、マックの曲にはリズム・セクションが核となるセピアカラー・イメージのものが多い。ギンギンに迫ることのない、まさにAOR(大人のロック)。そういえば、アルバムのジャケ写にもモノクロ写真に淡い色を添えたデザインが多い(この新作も含め)が、それはマックの音に似つかわしい。

 ただ、今回のアルバムは、『噂』や『牙(タスク)』のころに比べると、ずいぶん音の厚味が増している。
 また、当初リンジーのソロとして企画されたものが発展してこのアルバムになったとのことだが、そのせいか、リンジーのギターが前面に出た曲が多い。彼のギター・プレイが大好きな私には、これはうれしい。リンジーのギターには独創的なフレーズが多くて、じつに素晴らしい。なんでも、ピックをいっさい使わずに弾く人なのだそうで、そのへんに秘密があるのかも…。

 リンジー、スティーヴィーとも、ソングライターとしてはかなりクセのある人で、そのメロディーラインはつねに聴き手の予想を微妙に裏切って進む。ファンにとっては、そのクセの部分こそがたまらない。

 クリスティンの不在以外にも、マイナス・ポイントがないではない。
 たとえば、スティーヴィーの声がかなり変わってしまっている。もともとけっして美声ではないが、昔以上に低くしゃがれた声になり、コケティッシュな雰囲気がなくなった(97年のライヴ盤『ザ・ダンス』にもすでにその傾向はあった。まあ、年だから仕方ないのだが)。声のみならず、かつての美貌も半値以下に値崩れ……おっと、これは余計なお世話。

 また、収録曲のクオリティーは粒ぞろいではあるが、かつての「リアノン」や「ユー・メイク・ラヴィング・ファン」(2曲ともリンジーのギターが素晴らしい)や「ドリームス」のような、抜きん出た名曲は見当たらない。

 まあ、そのへんは望蜀というものであろう。これだけの力作を作ってくれれば、昔からのファンとしては十分「合格点」である。

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ほりのぶゆき『いちびりの園』


いちびりの園 (ビッグコミックススペシャル)いちびりの園 (ビッグコミックススペシャル)
(2003/04)
ほり のぶゆき

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 私のひいきのギャグ・マンガ家ほりのぶゆきの、これまで単行本化されていなかった初期作品を集めた『いちびりの園』(小学館/905円)が発売された。
 『ビッグコミックスピリッツ』に連載された『江戸むらさき特急』でメジャー・ブレイクする以前、『シンバット』とか『まんがくらぶ』などのB級誌に掲載された作品をおもに集めている。いちばん古いのはじつに89年の作品で、新しいものでも95年の作品。約10年の時を経て蘇った幻の傑作集である。

 私は『ロッキング・オン』の「渋松対談」に添えられていたほりの4コマ「タテノリ」のころからのファンであって、ほりは初期のほうがいまよりも面白かったと思っている(いまもまだ枯れてはいないが)。であるからして、当然この『いちびりの園』もたいへん面白く読んだ。

 ギャグ・マンガの面白さを言葉で説明するというのもむなしい行為だが、これは、ねじれまくったギャグ・センスが炸裂するパロディ小品集である。
 パロディといっても、高尚な批評精神とかウイットとかは薬にしたくもなく、ものすごく下品でくだらない。ダジャレ・タイトルを最初に思いついて、そこから無理やりタイトルに合わせたパロディ・マンガを作ったような感じ。たとえばどういうタイトルかというと……。

「ど根性山椒魚」「宇宙戦艦ポチョムキン」「フリオ番長」(注:フリオ・イグレシアスが番長)「ロミオ対ジュリエット」「まひるヶ丘の暗黒大元帥」「手ながおじさん」「昼下がりのジョージ」(注:主人公は安部譲二)「つばき姫」「番長皿屋敷」「俺たちの荼毘(だび)」「狼市民ケーン」「島」(注:ヒッチコックの『鳥』のパロディ。島耕作から嶋大輔まで、あらゆる「島」がある日突然人々を襲い始める)

 ……とまあ、このようにくだらない。唐沢俊一の「裏モノ日記」のダジャレ・タイトルだってもっとひねりがあるぞ、という感じの小学生レベルのダジャレである。
 しかし、くだらないけれど、これが意外なほど笑えるのだ。「むかしむかしそれは美しい そして何かというとすぐツバをはくお姫様がおられました」というナレーションにつづいて、「つばき姫」が「ペっ!」とつばを吐く場面を見るだけでもう爆笑。「手ながおじさん」が「自慢の長い手を使い街中のええケツを触りまくった」というネームを見るだけでまた爆笑。「フリオ番長」が「んナタリ~!」と突然歌い出す場面でもうゲラゲラゲラ。1人でウケまくってしまった。

 私は、ほりのぶゆきの作品では『最終戦争ちょんまげどん』がいちばん好きだけれど、この『いちびりの園』の破天荒な若さのパワーも捨てがたい。4コマもいいけど、たまにはこういうふつうのギャグもまた描いてほしいものだ。
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岡崎京子『ヘルタースケルター』

ヘルタースケルター (Feelコミックス)ヘルタースケルター (Feelコミックス)
(2003/04/08)
岡崎 京子

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  『pink』『リバーズ・エッジ』などの傑作によって、マンガ界の枠を越えた「90年代のカルチャー・スター」となった岡崎京子。彼女が飲酒運転の車にはねられて死線をさまよったのは、96年5月のことだった。いまなおリハビリ中で、マンガ家としての活動は休止したままである。

 彼女がその不幸な事故の直前に完結させていた長編『ヘルタースケルター』は、以来、一度も単行本化されないままだった。作品の単行本化にあたって、岡崎は連載原稿を大幅に改稿するのがつねであったから、改稿を経ずそのまま刊行するのがはばかられたのだろう。そのため、『ヘルタースケルター』は“幻の傑作”と化した。

 熱心なファンは、国会図書館に出向いて連載誌『フィール・ヤング』のバックナンバーにあたってまで、読んだりしたらしい。昨年、『フィール・ヤング』誌はファンの要望にこたえ、なんと『ヘルタースケルター』の“再連載”まで行った。
 私は、『リバーズ・エッジ』はマンガ史に残る傑作だと思うものの、それほど熱心なファンではないから、『ヘルタースケルター』は一度も読んだことがなかった。

 その『ヘルタースケルター』が、ついに初単行本化された(祥伝社/1200円)。「復刊ドットコム」からの荷物が今日届いたので、さっそく一読。
 これはすごい。期待をはるかに上回る傑作。『リバーズ・エッジ』と甲乙つけがたい。
 
 『ヘルタースケルター』は、「骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコ」以外はすべて徹底的な整形手術を施した“つくりもんの美女”りりこの物語である。りりこはその作られた完璧な美しさでスターとなるが、無理な整形の後遺症で時折あらわれるアザに悩まされる。

 再手術のくり返しと薬物治療で症状を押さえつけるものの、アザや身体の崩れは少しずつ悪化していき、それに比例してりりこは精神のバランスを崩していく。
 そして、マネージャーの羽田ミチコやその恋人など、周囲の人間も巻き込んで、彼女は破滅に向かって疾走していく――。

 ……と、そんなふうに骨子だけを紹介してしまうと、ありきたりな物語に思えるだろう。美に対する女性の執着が妄執となり、やがて悲劇を引き起こす物語は、これまでにもたくさんあったからだ(たとえば、三島由紀夫の『女神』や楳図かずおの『洗礼』。あるいは現実世界のエルゼベート・バートリの物語など)。

 が、この『ヘルタースケルター』は、表面的には“美への妄執が引き起こす悲劇”ではあるが、それだけには終わっていない。

 『リバーズ・エッジ』に主役級で登場した美少女・吉川こずえが、この『ヘルタースケルター』にも重要な役割で登場する。りりこが対抗意識を燃やす後輩モデルとして。対抗意識というより、いっさい整形の手を加えていないこずえは、りりこの激しい嫉妬の対象となるのだった。

 「つくりもん」の美女と天然の美少女――りりことこずえは、ほかの点でも際立った対照をみせる。りりこが“スターであり続けること”に身を灼くような執着をみせるのに対し、こずえはまったく執着しない。

 彼女はつぶやく――。

「別に…なんでも…どうでもいいんです。有名になるとか、お金とかも別に…でも別に他にやることもないし、出来ないし…服も好きだけど…別に…いつかみんな、あたしのこと忘れちゃっていいです」



 「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの」――これは岡崎京子が自作について語った印象的な言葉だが、りりことこずえはその「一人の女の子」のネガとポジだ。

 そして、2つの物語をつなぐこずえの存在が象徴するように、この『ヘルタースケルター』は『リバーズ・エッジ』と表裏一体の作品であり、いわば“顔を変えた続編”なのである。

 『リバーズ・エッジ』は、いまどきの若者の一見平穏な高校生活を描きながら、その「終わりなき日常」の底に潜む重い閉塞感と絶望までを描いてみせた傑作だった。そこには、「日本の1990年代」という時代の空気が鮮やかに写しとられていた。
 この『ヘルタースケルター』もまた、「日本の1990年代」のカリカチュアである。

 『ヘルタースケルター』は、女性誌のダイエット記事やエステサロンのCMに見入る若い女性たちのコラージュから始まる。そしてラスト近くでも、同じように女性たちのつぶやきがコラージュされる。

「やせてー」「モテたーい」「キレイになりたーい」「お金持ちになっていいくらししたーい」「アレ欲しい~」「アレ超可愛いよね~」「アレ超高いけど~」



 ……これらのつぶやきに象徴される“女性誌的な価値観”が、物語の中でひとまとめにゴミ箱に叩き込まれる。

 これは、若い女性にとっては読んでいて「痛い」作品かもしれない。「アンタたちが血眼で追い求めている『価値』の中身はからっぽで、砂上の楼閣で、真の幸福でもなんでもない」と、作者はりりこの姿を通して執拗にリフレインしているのだから…。

 芸能界の頂点に立ち、カメラのレンズに向かって微笑みながら、りりこは思う。「カメラがシャッターを押すたびに空っぽになってゆく気がする。いつも叫びたくなるのを必死でおさえているのよ。いつかあたしは叫び出すだろう」と…。

 きらびやかな世界に住みながら少しも幸福ではなく、不安におびえるりりこは、若い女性にかぎらず、すべての現代人のグロテスクな戯画である(ここでいう「現代人」とは、他人と自分を比べることで自分の「幸福度」を測り、他者に評価されることによってしか充足できない人間の謂だ)。

 ただ、だからといって「では、真の幸福とは何か?」などと言い出さないあたりが岡崎京子らしい。これは、“マンガの形を借りた幸福論”ではけっしてない。教訓めいたセリフやシーンは注意深く避けられている。むしろ、「まばゆい幸福なんてどこにもない。輝かしい自分なんてどこにもいない」ということを突き放すように描いた作品なのだ。

 読者の誰もがりりこの死を予想したであろうこの作品だが、岡崎京子はその予想を裏切る衝撃のラストシーンを用意していた。どんなラストであるかは、未読の人のために明かさないでおこう。
 とにかく、りりこは生きつづける。「輝かしい自分なんて、どこにもいない。でも、それでかまわない。それでもアタシは生きていく」とでも言うように……。

 『リバーズ・エッジ』には、「平坦な戦場で/僕らが生き延びること」というウィリアム・ギブソンの詩の一節が印象的な形で引用されていた。それは、「終わりなき日常」の退屈さと閉塞感を知りつつ、「それでも僕らは生きていく」という意志の表現ではなかったか。
 『リバーズ・エッジ』も『ヘルタースケルター』も死の匂いに満ちた作品だが、じつは、「それでも生きていく」というポジティブな意志こそが作品の核を成しているのだ。

 宮台真司がオウム事件を受けて『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)を刊行したのは、95年7月のこと。そのとき『リバーズ・エッジ』はすでに完結しており、『ヘルタースケルター』はちょうど連載が開始されたところだった。
 岡崎京子が宮台のこの本を読んでいたかどうかはわからない(きっと読んでいたと思う)。が、両者の間にはシンクロニシティを思わせる呼応がある。

 「輝かしい自分」になりたいという承認願望を抱えた人間は、いまの「承認なき社会」では居場所がない。だから、「終わりなき日常」を「まったりと」生きろ、と説く宮台の本は、あたかも“『リバーズ・エッジ』と『ヘルタースケルター』をより深く読解するための副読本”のようだ。

 この『ヘルタースケルター』は悲劇だが、少しも湿っぽさのない乾いたタッチの悲劇である。りりこの破滅への道程はむしろ軽快なテンポで描かれ、読後感は爽快ですらある。

 タイトルは、もちろんビートルズの「ヘルター・スケルター」から。
 数あるビートルズ・ナンバーのうち、最もヘヴィメタリックで狂気を孕んだ曲。チャールズ・マンソンが、この曲を聴いて“啓示”を受けたことからシャロン・テート(女優。『戦場のピアニスト』のロマン・ポランスキーの妻)を惨殺したという、いわくつきの“呪われた名曲”。

 でも、わざわざビートルズのホワイト・アルバムを棚から引っぱり出すまでもない。絵の向こうから、「ヘルター・スケルター」は聴こえてくるだろう。

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『ボイス』

ボイス [DVD]ボイス [DVD]
(2003/10/16)
ハ・ジウォンキム・ユミ

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 『リング』は“呪いのビデオ”の物語だったが、こちらは“呪いの携帯電話”の物語。電話機そのものではなく、番号に呪いがかかっているという設定がうまい。その番号を使った者は次々に自殺したり、謎の事故死を遂げたりする。ヒロインがその番号を使う羽目になり、やがて得体の知れない恐怖の影が……というストーリー。『リング』の主人公は新聞記者だったが、こちらのヒロインは雑誌記者である。

 というと、「なんだ、『リング』の二番煎じか」と思う向きもあろう。
 たしかに、基本設定のみならず、作品のあちこちに映画版『リング』からの影響が見える。しかし、パクリだからといって元ネタよりクオリティーが低いとはかぎらない。青は藍より出でて藍より青し。私は、この『ボイス』は『リング』を超えていると思う。怖さ・脚本の質・出演者の演技などすべての面で…。

 とにかく怖い。映画版『リング』では2回くらいしかゾッとしなかった私だが、この『ボイス』は計20回くらいゾゾ~ッとする場面がある。この映画の監督(アン・ビョンギ)と脚本家は、観客を怖がらせるツボを心得ている。

 ただし、怖がらせ方はごくごくオーソドックス。「お、そろそろくるな」というところできっちり怖い場面がくるのだ。
 ジェットコースターには誰が乗っても怖いように、誰にとっても怖いという“ツボ”がある。たとえば、マンションの10階に住んでいる人が夜中にカーテンを開けたとき、血まみれの女が窓からのぞいていたら、誰だって叫び声をあげるだろう。そういう“怖さのツボ”を刺激する場面が、随所に用意されている。これでもか、とばかりに…。

 『リング』のみならず、古今のホラー映画の絶妙なパクリがたくさん盛りこまれている。
 たとえば、かわいい少女に“何か”が取り憑き、少女がしだいに悪魔じみていくという展開は、いうまでもなく『エクソシスト』のパクリだ。しかし、パクリであることがわかってもなおかつ感心させられるほど、芸のあるパクリ方をしている。また、その“呪われた少女”を演ずる子役(ウン・ソウ)の演技が、じつに素晴らしい。「韓国のリンダ・ブレア」と呼びたい天才子役ぶり。

 後半、その携帯番号がなぜ呪いの番号になったのかの謎解きがされていくのだが、その謎解き部分もとてもよく出来ている。二重のどんでん返しが仕掛けられていて、そのへんの展開のうまさも『リング』より上だ。ネタバレになるのでくわしくは書けないが、韓国映画らしい「恨(ハン)」と「愛憎」の物語になっているのだ。

 怖がらせ方や物語の基本構造は昔の怪談のように古典的なのだが、全体の雰囲気は洗練されたモダン・ホラー。エディプス・コンプレックスや人工授精などという現代的な道具立てが、巧みに盛りこまれている。

 ヒロインを演ずるハ・ジウォンは松たか子と桜井幸子を足して2で割ったような顔で、準ヒロイン(ヒロインの親友役)を演ずるキム・ユミは鷲尾いさ子を細面にした感じ。2人ともすこぶる魅力的である。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

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●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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