佐藤優・片山杜秀『平成史』



 仕事の資料として読んだ(本書の一節を引用する必要があった)のだが、全体としてとても面白い良書であった。

 昨年(2018年)の春に出た元本を、平成の終焉に合わせて早くも文庫化したもの(昔は単行本の文庫化までには最低3年くらい間があったものだが、最近はやたら早い。本の消費サイクルが短くなっていることの反映だろう)。
 文庫化に際して、一章分の対談を新たに語り下ろしている。なので、いまなら文庫版を買うべき。

 対談時間は計20時間を超えるそうで、これは一般的な対談集よりも長め。この手の対談集はだいたい忙しい者同士で行われるから、6時間程度の対談で1冊にまとめる例も多いのだ。

 それだけに内容は濃く、随所に卓見と有益な情報がちりばめられている。

 平成の始まりから終わりまでの印象的な出来事(政治・経済から芸能まで、犯罪から流行まで)を一つずつ俎上に載せ、その出来事を両対談者がどう捉えているかを語り合っている。

 年表や図表も豊富で、平成史の資料としての価値も高い。
 また、本や映画について語られる部分も多く、ブックガイド、映画ガイドとしてもある程度は使える。

池上彰『学校では教えない「社会人のための現代史」』ほか



 前に「いつかは読むだろう」と思ってKindle版を買っておいた、池上彰の東工大講義3部作を一気読み。
 計3年分の講義を、各一冊にまとめたシリーズだ。

 3冊はそれぞれ「世界編」「日本編」「国際編」と銘打たれているが、いずれも戦後史・現代史を通しテーマとしたもの。
 なので、一部の内容には重複もあるのだが、同じテーマ(たとえばベトナム戦争など)を取り上げる場合でも、年度によって少し角度を変えて講義している。

 それゆえ、3冊を通読することによって、現代史に関するいっそう明確なパースペクティブが得られる感じ。学生のみならず、社会人の「大人の学び直し」にも好適だ。

 理工系エリートの学生たちだけあって、池上が時折投げかける質問に対するレスポンスも非常によい。これなら池上も教え甲斐があるだろうな、と思う。

 池上彰が山ほど出している一般向け教養書のたぐいが、全部よいとは言わない(そもそも、私も一部しか読んでないし)。が、私が読んだなかでは、『そうだったのか! 現代史』シリーズと、この東工大講義3部作、それに『世界を変えた10冊の本』あたりは、じつによくまとまっている良書だと思う。

■関連エントリ→ 池上彰『世界を変えた10冊の本』

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』



 ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之(やすし)訳『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房新社/上下巻各2052円)読了。書評用読書。

 世界的ベストセラー『サピエンス全史』の著者が、こんどはサピエンス(人類)の未来を考察した話題作。
 帯にはカズオ・イシグロ、ビル・ゲイツ、ダニエル・カーネマンという錚々たる顔ぶれが讃辞を寄せている。

■関連エントリ→ ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』

 前作『サピエンス全史』よりも一段落ちる印象だが、それでも、「読んだあとには世界が変わって見える」ようなインパクトを持つ書ではある。 

 上巻は〝長い前置き〟という印象。原著は一冊なのに上下巻に分けて刊行するのは、日本の出版界の悪癖だと思う。

 〝人類が飢饉・疫病・戦争の三大災厄を事実上克服したいま、次なるステージを目指すはずだ。それは、不死と至福と神性である〟というのが、著者が第1章でぶち上げる壮大な仮説。

 「えー、そうかなァ? 私は不死になんてなりたくないし、ましてや神になりたいなんて思ったこともないぞ」と首をかしげてしまった。
 が、読み進めていくと、著者が言うのはそういうことではないとわかる。人類が取り組んできた、さまざまな病気の克服と長寿の追求――その果てにあるのは不死の追求であるし、それは言い換えれば人類を「ホモ・デウス」(=神の人)へとアップデートしようとする試みにほかならない……という意味なのだ。
 それなら、まあわかる。

 その方向性を推し進めた果てに人類を待っているものは何か? ……という話が下巻に書かれている。

 上巻はメインとなるその部分への前置きというかブリッジなので、人類史の振り返りがかなりの紙数を占めており、前著『サピエンス全史』と重複する部分もある。
 サピエンスを地球の覇者たらしめた最大の原動力は、共通の「物語」の下に大勢の人間が協力できたことだ、という話(上巻の後半で詳述される)などがそうだ。

 そして、いよいよ本題となる下巻――。
 前半の「人間至上主義革命」の章は、やや退屈。神を至上のものと見做してきた前近代が終わり、20世紀まで人間は神に代わって人間を至上のものと見做してきた、と……。そのとおりだと思うが、そのことをこんなに紙数を費やして説明する必要があったのだろうか?

 だが、最後の第3部「ホモ・サピエンスによる制御が不可能になる」に入ると、俄然面白くなる。4章からなるこの第3部こそ、本書の肝だろう。

 第3部は、つづめていえば、AIやバイオテクノロジーなどの進歩によって人間は神に近づく(不老不死に近づき、能力を高め、脳の操作で幸福感や快感が自在に味わえるようになり、他の生命をコントロールする力を得るetc.)が、その果てに「人間至上主義」が意味を失い、ホモ・サピエンスが時代の主役から外れる……という内容。
 つまり、巷にあふれるAI本のうち、「AIによる雇用破壊」などを憂える悲観的なものに近い。

 とはいえ、やはりユヴァル・ノア・ハラリだけあって、凡百のAI本に屋上屋を架すだけの本にはなっていない。驚くべき鋭い視点の考察が随所にあるのだ。

 たとえば、「AIは意識を持つことができないから人間を超えられない」とする論者が多いのに対して、著者は〝意識など必要ない。AIは意識を持たないまま人間を超えるのだ〟と言う(第9章「知能と意識の大いなる分離」)。

 また、21世紀後半には「民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれない」という衝撃的な予測もある。

 データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかもしれない。それらが非倫理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。(中略)今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。(216~217ページ)



 このように、まさに「世界が変わって見える」ような指摘が随所にある。

 私に見落としがなければ、本書に「シンギュラリティ」という語は1ヶ所しか登場しない(下巻226ページ)。
 が、この第3部の内容は、過激なシンギュラリティ論者レイ・カーツワイルの主張とかなり重なるものである。
 したがって、AIの専門家にも多いシンギュラリティ否定論者(「シンギュラリティなんかこない」「AIが人間を超えるなんてヨタ話」という立場)から見れば、大いに眉唾、噴飯ものだろう。

 私も、最終章「データ教」にはついていけないものを感じた。そこでは、人間至上主義に代わって「データ至上主義」が未来の「宗教」となり、人間が価値を失う危険性が論じられているのだ。

 ただ、上下巻とも、再読三読して味わうだけの価値がある書だと思う。

柴田純『考える江戸の人々』



 柴田純著『考える江戸の人々――自立する生き方を探る』(吉川弘文館/2700円)読了。書評用読書。

 書名の印象から、「まーた、『江戸の人々はこんなにも賢明だった。現代人は江戸に学ぶべきだ』という江戸礼賛本かよ。こういうの、もう食傷気味だよなァ」と勝手に思い込み、まったく期待せずに読んだ。
 読んでみたら、そのようなお手軽本ではなかった。これは、江戸時代に起きた物の見方・考え方の抜本的変化を、詳細に跡づけた書なのである。

 中世は神仏が支配していた時代であった。「救い」はつねに神仏からもたらされるものであり、人間は無力な存在でしかなかった。
 その後の戦国時代になると、戦乱に翻弄される人々の間に、神仏の救いへの疑いが生まれてくる。それは「神仏を滑稽化する風潮」となって現れた。

 そして、平和な江戸時代に入ってから、少しずつ人間の持つ力への自負が生まれてくる。人としてどう生きるべきかが重大な関心事となり、人々は「自立する生き方をさぐ」り始めるのだ。
 その傾向は当初、大名などの支配層に生まれ、次に政治エリートや知識人層に広がり、江戸後期には庶民層にまで広がっていった。

 つまり、江戸時代とはある意味で「ルネッサンス」――人間復興の時代でもあったのだ(これは私が勝手に思うことで、著者は「ルネッサンス」という語を用いていないが)。

 戦国時代から江戸時代初期にかけて、「日本史上に一大転換期があった」との認識は、多くの歴史家が共有している。
 それは「『戦争と飢饉』の中世から〝平和な〟近世へという政治的変革」であり、「物流の大規模な変革といった経済的変革」でもあった。

 著者はそうした政治的・経済的変革が、「当時の人々の物の見方や考え方を大きく変容させていった」点に着目し、内面的変革の側面を深掘りしていく。そのために、大名からエリート層・知識層へ、やがて庶民層へと、〝人間の持つ力への信頼〟が広がっていくプロセスを、史料に即して丹念にたどっていくのだ。
 それは、日本に本当の意味での「考える文化」が定着していったプロセスでもある。

 江戸時代に対する見方が少し変わる、ユニークな視点からの考察の書。
 

竹中千春『ガンディー 平和を紡ぐ人』



 昨日は、取材で京都へ――。

 帰途、前回京都に来たときに京都国立博物館の「国宝展」を観るのに時間をかけすぎて、行きそびれた三十三間堂を観ようと考えた(京博は三十三間堂の目の前にある)。

 ところが、行ってみたら三十三間堂は午後3時半で拝観手続き終了とのことで(早すぎ!)、タッチの差で間に合わず。
 仕方ないので、今回も京都博物館に入った。私はよほど三十三間堂に縁がないらしい。

 が、仕方なく寄った京都博物館の「豪商の蔵」という特別展(廻船問屋・貝塚廣海家のコレクションを集めたもの)が、意外によかった。何事も結果オーライである。

 どうして三十三間堂を観たいかといえば、平田弘史の傑作短編「三十三間堂外伝」の舞台だという、ただそれだけの思い入れなのだが。
 「三十三間堂外伝」は「電脳マヴォ」で読めるので、未読の方はぜひ。


 行き帰りの新幹線で、2冊本が読めた。
 そのうちの一冊が、竹中千春著『ガンディー 平和を紡ぐ人』(岩波新書/886円)。書評用読書。

 マハトマ・ガンディーの評伝である。ガンディーについての本は、世界中で3000点くらい出ているそうだし、日本語の本も当然多い。
 が、その中にあって、本書は「現時点でガンディーを知るために、日本人が一冊目に読むべき本」になっている。

 私には(子供向けの本ではあるが)ガンディーについての著書もあるので、彼についての文献はそれなりの数を読んでいる。それらの中でも、本書はまぎれもない一級品だ。

 生い立ちから死までを時系列でたどり、没後の世界に与えた影響についても解説するという、評伝としてオーソドックスな構成。新書というコンパクトな器ゆえの制限もあるなか、ガンディーについて我々が知っておくべきことが、手際よく網羅されている。

 書物の性質上、読者を驚かすような衝撃の新事実が多数盛り込まれているわけではない。ガンディーにある程度くわしい人なら、旧知の事実がほとんどの内容だろう。

 それでも、著者ならではの卓見にハッとさせられる部分が2つあった。
 1つは、ガンディーがその晩年に、裸になって孫娘たちと添い寝していたという「奇行」エピソードに、独自の解釈を加えた部分。

 その「添い寝」のエピソードは、ガンディーを聖者として描きたい伝記作者は触れずに済ませ、一部の論者は性的スキャンダルとして扱った。
 著者の視点は、そのどちらでもない。ジェンダー研究者として、女性に対する性暴力に深く向き合ってきた経験をふまえ、著者ならではの解釈を披露している。それを読んで私は、これまでどう受け止めてよいかわからなかったガンディーの「奇行」の謎が、初めて解けた気持ちになった。

 もう1つハッとしたのは、ガンディー暗殺についての考察。
 通常、ガンディー暗殺犯ゴードセイについては、狂信的なヒンドゥー原理主義者としてあっさり触れられるのみで、彼の心の動きにまっとうな検討が加えられることはなかった。
 それに対して、著者は資料をふまえ、ゴードセイの内面にまで分け入っている。彼を単純な「悪役」にはしていないのだ。そのうえで、ガンディー暗殺事件に新たな光を当ててみせる。

 それは、ガンディーの中にも苛烈な「殉死」の思想があり、ゴードセイらが依拠したテロリズムの中にある「殉死」の思想と、じつはそれほど遠くなかったのではないか、という視点である。
 ガンディーの伝記などを読んで感じる、「晩年のガンディーは、暗殺されることを待ち望んでいたかのようだ」という違和感とモヤモヤに、著者は1つの答えを提示し、スッキリとさせてくれる。

 以上2点の独自の解釈だけでも、本書にはガンディーの評伝として高い価値がある。

 なお、「本書には衝撃の新事実はほとんどない」と書いたが、一つだけ、私が本書で知って衝撃を受けたことがある。
 それは、ガンディーの不肖の長男・ハリラール(放蕩生活の果てに行き倒れで死んだ。その生涯は『Gandhi My Father』という映画にもなっている)が、実娘のマヌー(最晩年のガンディーにつねに寄り添った孫娘)を8歳のころからレイプしていたという事実である。
 マヌーという女性は、なんと数奇な運命を歩んだのだろうか。


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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴31年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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