本郷和人『天皇はなぜ万世一系なのか』



 本郷和人著『天皇はなぜ万世一系なのか』(文春新書)読了。

 9年前に出たもの。著者は日本中世史が専門の歴史学者(東京大学史料編纂所教授)である。

 「万世一系」についてもっと知りたいと思って読んだのだが、タイトルと内容がひどく乖離した羊頭狗肉な本であった。

 内容に即したタイトルにするとしたら、『世襲の日本史』というところ(※)。日本社会が、平安時代から「世襲に重きを置いて歩んでき」たことが概観されている。

※書いたあとで気付いたが、著者はつい先月、ズバリ『世襲の日本史』というタイトルの本を出した。本書とどれくらい内容がかぶっているのかは知らないが。


 日本の国では世襲と才能がどう関わりをもち、どういう統治権力を構成していたのか。それを考えてみたいのです。(「はじめに」)



 「世襲の日本史」の重要な一要素として、歴代天皇の話も随所に出ることは出る。ただし、万世一系について論じられるのは、ほぼ終章のみである。

 にもかかわらず、なぜこのタイトルになったのか? 著者のせいではないだろうが(書籍のタイトル決定には版元の意向が強く反映される)、モヤモヤする。

 私同様、万世一系について知りたいと思って手を伸ばす人は、終章だけ読めば十分だ。そして、この終章はなかなか面白い。

 平安時代から一千年間、世襲に重きを置いてきた日本だが、明治政府は「初めて官僚によって運営」された。


 高官たちは下級武士の出身がほとんどで、才能を根拠として登用されています。そこには世襲の論理がないのです。(187ページ)



 世襲の論理を否定した政府を打ち立てた明治維新は、それゆえに「日本史上で最大の変革であるといわざるを得ない」と、著者は言う。

 だが、「日本社会は長いあいだ世襲で動いてきている」ので、才能を根拠に支配者層を選ぶ明治政府のありようは、「すぐには民衆の理解を得られない」。
 だからこそ、そのギャップをやわらげるためのいわば〝クッション〟として、「明治政府は天皇を前面に押し出した」というのが著者の見立てだ。

 そのうえで、著者は〝これからの万世一系〟について、次のように述べる。


①万世一系は明治維新において強調された概念であること。
②日本は世界の中で、すでにきちんと座を占めている。つまり、もう無理やりにアイデンティティを強調する必要がないこと。
それに加えて、
③さすがに天照大神や神武天皇の物語は歴史事実ではなく、神話であると多くの人が認識していること。
も考慮した時に、もはや「万世一系」にこだわる必要はないように思いますが、どうでしょうか。(202~203ページ)



 現代における世襲政治家の跋扈にウンザリしている人も多かろうが、日本はずーっと昔から世襲社会だったのである。それがわかったことは収穫だった。

 もう一つ難点を挙げると、「はじめに」と「おわりに」の自分語りがウザい(笑)。大部分の読者は、べつに著者のことが知りたく読むわけじゃないのだから。

 ちなみに、来月にはこの『天皇はなぜ万世一系なのか』の増補版(令和までの話などを増補)が、『権力の日本史』と改題されて同じ文春新書から出るようだ。
 元タイトルの羊頭狗肉ぶりは、やはり相当不評だったと見える(笑)。

佐藤優・片山杜秀『平成史』



 仕事の資料として読んだ(本書の一節を引用する必要があった)のだが、全体としてとても面白い良書であった。

 昨年(2018年)の春に出た元本を、平成の終焉に合わせて早くも文庫化したもの(昔は単行本の文庫化までには最低3年くらい間があったものだが、最近はやたら早い。本の消費サイクルが短くなっていることの反映だろう)。
 文庫化に際して、一章分の対談を新たに語り下ろしている。なので、いまなら文庫版を買うべき。

 対談時間は計20時間を超えるそうで、これは一般的な対談集よりも長め。この手の対談集はだいたい忙しい者同士で行われるから、6時間程度の対談で1冊にまとめる例も多いのだ。

 それだけに内容は濃く、随所に卓見と有益な情報がちりばめられている。

 平成の始まりから終わりまでの印象的な出来事(政治・経済から芸能まで、犯罪から流行まで)を一つずつ俎上に載せ、その出来事を両対談者がどう捉えているかを語り合っている。

 年表や図表も豊富で、平成史の資料としての価値も高い。
 また、本や映画について語られる部分も多く、ブックガイド、映画ガイドとしてもある程度は使える。

池上彰『学校では教えない「社会人のための現代史」』ほか



 前に「いつかは読むだろう」と思ってKindle版を買っておいた、池上彰の東工大講義3部作を一気読み。
 計3年分の講義を、各一冊にまとめたシリーズだ。

 3冊はそれぞれ「世界編」「日本編」「国際編」と銘打たれているが、いずれも戦後史・現代史を通しテーマとしたもの。
 なので、一部の内容には重複もあるのだが、同じテーマ(たとえばベトナム戦争など)を取り上げる場合でも、年度によって少し角度を変えて講義している。

 それゆえ、3冊を通読することによって、現代史に関するいっそう明確なパースペクティブが得られる感じ。学生のみならず、社会人の「大人の学び直し」にも好適だ。

 理工系エリートの学生たちだけあって、池上が時折投げかける質問に対するレスポンスも非常によい。これなら池上も教え甲斐があるだろうな、と思う。

 池上彰が山ほど出している一般向け教養書のたぐいが、全部よいとは言わない(そもそも、私も一部しか読んでないし)。が、私が読んだなかでは、『そうだったのか! 現代史』シリーズと、この東工大講義3部作、それに『世界を変えた10冊の本』あたりは、じつによくまとまっている良書だと思う。

■関連エントリ→ 池上彰『世界を変えた10冊の本』

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』



 ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之(やすし)訳『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房新社/上下巻各2052円)読了。書評用読書。

 世界的ベストセラー『サピエンス全史』の著者が、こんどはサピエンス(人類)の未来を考察した話題作。
 帯にはカズオ・イシグロ、ビル・ゲイツ、ダニエル・カーネマンという錚々たる顔ぶれが讃辞を寄せている。

■関連エントリ→ ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』

 前作『サピエンス全史』よりも一段落ちる印象だが、それでも、「読んだあとには世界が変わって見える」ようなインパクトを持つ書ではある。 

 上巻は〝長い前置き〟という印象。原著は一冊なのに上下巻に分けて刊行するのは、日本の出版界の悪癖だと思う。

 〝人類が飢饉・疫病・戦争の三大災厄を事実上克服したいま、次なるステージを目指すはずだ。それは、不死と至福と神性である〟というのが、著者が第1章でぶち上げる壮大な仮説。

 「えー、そうかなァ? 私は不死になんてなりたくないし、ましてや神になりたいなんて思ったこともないぞ」と首をかしげてしまった。
 が、読み進めていくと、著者が言うのはそういうことではないとわかる。人類が取り組んできた、さまざまな病気の克服と長寿の追求――その果てにあるのは不死の追求であるし、それは言い換えれば人類を「ホモ・デウス」(=神の人)へとアップデートしようとする試みにほかならない……という意味なのだ。
 それなら、まあわかる。

 その方向性を推し進めた果てに人類を待っているものは何か? ……という話が下巻に書かれている。

 上巻はメインとなるその部分への前置きというかブリッジなので、人類史の振り返りがかなりの紙数を占めており、前著『サピエンス全史』と重複する部分もある。
 サピエンスを地球の覇者たらしめた最大の原動力は、共通の「物語」の下に大勢の人間が協力できたことだ、という話(上巻の後半で詳述される)などがそうだ。

 そして、いよいよ本題となる下巻――。
 前半の「人間至上主義革命」の章は、やや退屈。神を至上のものと見做してきた前近代が終わり、20世紀まで人間は神に代わって人間を至上のものと見做してきた、と……。そのとおりだと思うが、そのことをこんなに紙数を費やして説明する必要があったのだろうか?

 だが、最後の第3部「ホモ・サピエンスによる制御が不可能になる」に入ると、俄然面白くなる。4章からなるこの第3部こそ、本書の肝だろう。

 第3部は、つづめていえば、AIやバイオテクノロジーなどの進歩によって人間は神に近づく(不老不死に近づき、能力を高め、脳の操作で幸福感や快感が自在に味わえるようになり、他の生命をコントロールする力を得るetc.)が、その果てに「人間至上主義」が意味を失い、ホモ・サピエンスが時代の主役から外れる……という内容。
 つまり、巷にあふれるAI本のうち、「AIによる雇用破壊」などを憂える悲観的なものに近い。

 とはいえ、やはりユヴァル・ノア・ハラリだけあって、凡百のAI本に屋上屋を架すだけの本にはなっていない。驚くべき鋭い視点の考察が随所にあるのだ。

 たとえば、「AIは意識を持つことができないから人間を超えられない」とする論者が多いのに対して、著者は〝意識など必要ない。AIは意識を持たないまま人間を超えるのだ〟と言う(第9章「知能と意識の大いなる分離」)。

 また、21世紀後半には「民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれない」という衝撃的な予測もある。

 データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかもしれない。それらが非倫理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。(中略)今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。(216~217ページ)



 このように、まさに「世界が変わって見える」ような指摘が随所にある。

 私に見落としがなければ、本書に「シンギュラリティ」という語は1ヶ所しか登場しない(下巻226ページ)。
 が、この第3部の内容は、過激なシンギュラリティ論者レイ・カーツワイルの主張とかなり重なるものである。
 したがって、AIの専門家にも多いシンギュラリティ否定論者(「シンギュラリティなんかこない」「AIが人間を超えるなんてヨタ話」という立場)から見れば、大いに眉唾、噴飯ものだろう。

 私も、最終章「データ教」にはついていけないものを感じた。そこでは、人間至上主義に代わって「データ至上主義」が未来の「宗教」となり、人間が価値を失う危険性が論じられているのだ。

 ただ、上下巻とも、再読三読して味わうだけの価値がある書だと思う。

柴田純『考える江戸の人々』



 柴田純著『考える江戸の人々――自立する生き方を探る』(吉川弘文館/2700円)読了。書評用読書。

 書名の印象から、「まーた、『江戸の人々はこんなにも賢明だった。現代人は江戸に学ぶべきだ』という江戸礼賛本かよ。こういうの、もう食傷気味だよなァ」と勝手に思い込み、まったく期待せずに読んだ。
 読んでみたら、そのようなお手軽本ではなかった。これは、江戸時代に起きた物の見方・考え方の抜本的変化を、詳細に跡づけた書なのである。

 中世は神仏が支配していた時代であった。「救い」はつねに神仏からもたらされるものであり、人間は無力な存在でしかなかった。
 その後の戦国時代になると、戦乱に翻弄される人々の間に、神仏の救いへの疑いが生まれてくる。それは「神仏を滑稽化する風潮」となって現れた。

 そして、平和な江戸時代に入ってから、少しずつ人間の持つ力への自負が生まれてくる。人としてどう生きるべきかが重大な関心事となり、人々は「自立する生き方をさぐ」り始めるのだ。
 その傾向は当初、大名などの支配層に生まれ、次に政治エリートや知識人層に広がり、江戸後期には庶民層にまで広がっていった。

 つまり、江戸時代とはある意味で「ルネッサンス」――人間復興の時代でもあったのだ(これは私が勝手に思うことで、著者は「ルネッサンス」という語を用いていないが)。

 戦国時代から江戸時代初期にかけて、「日本史上に一大転換期があった」との認識は、多くの歴史家が共有している。
 それは「『戦争と飢饉』の中世から〝平和な〟近世へという政治的変革」であり、「物流の大規模な変革といった経済的変革」でもあった。

 著者はそうした政治的・経済的変革が、「当時の人々の物の見方や考え方を大きく変容させていった」点に着目し、内面的変革の側面を深掘りしていく。そのために、大名からエリート層・知識層へ、やがて庶民層へと、〝人間の持つ力への信頼〟が広がっていくプロセスを、史料に即して丹念にたどっていくのだ。
 それは、日本に本当の意味での「考える文化」が定着していったプロセスでもある。

 江戸時代に対する見方が少し変わる、ユニークな視点からの考察の書。
 

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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