信田さよ子著『〈性〉なる家族』(春秋社/1870円)読了。
信田さよ子は、著作が多いだけに、出来不出来の振幅がけっこう大きいと思う。
私もすべてを読んでいるわけではないが、管見の範囲では、『母が重くてたまらない』や『共依存』『アダルト・チルドレンという物語』などが良書だった。
逆に、『選ばれる男たち』や『カウンセラーは何を見ているか』は駄本であった。
そして本書は、著者の代表作にもなり得る良書だと思った。
タイトルのとおり、家族における「性」の問題――親による子どもに対する性虐待や、夫婦間のセックスレスや性暴力など――についての論考集である。
きわめて語りにくい、黒いヴェールに覆われてきた問題群について、カウンセラー/臨床心理士としての豊富な経験をふまえて、真摯に論じている。
著者の旗幟は鮮明で、終始一貫して被害者側――主として女性側――に立っている。
本書に出てくる子どもへの性虐待、妻への性暴力のたくさんの事例(プライバシーに配慮して抽象化されている)は、私の目にはきわめて特殊な例に見えるのだが、著者の目にはごくありふれた事例として映っているようだ。
性暴力を成り立たせる〝家庭内の権力構造〟を抉る著者の分析は鋭く、男たちの無意識の中にある暴力の萌芽にまで、否応なしに目を向けさせる。たとえば――。
子どもが憎いからあんなひどいことをするのだという理解は、虐待に対する無知・誤解の典型である。親は子どもを憎いのではない。子どもは自分の思い通りになるはずだと思っており、そうならないから彼ら自身が傷つき、そして傷つけた子どもに対して怒るのだ(47ページ)
子どもがDVを目撃することを面前DVと呼ぶが、それによる最大の影響は、「暴力で解決できないことはない」という信念を植え付けられることだ。父親が怒鳴ったり殴ったりして母の反論を封殺する。その暴力の効果を、子ども(特に息子)は深く心に刻むだろう。性行為によって妻の不満はすべて解決できるという夫の考えと、それは相似形ではないだろうか(103ページ)
我が子や妻は自分の思い通りになるはずだという父(夫)の「思い上がり」が、子どもへの性虐待や妻への性暴力の根底にあるのだ。
信田さよ子は〝言葉の人〟だと私は思っている。つねに言葉を重視し、見事な〝言葉の使い手〟でもある。言い換えれば、彼女の著作には文学の薫りがあるのだ。
本書もしかり。
言葉を重んじる姿勢が随所に感じられるし、ハッとする鮮烈なフレーズが多い。たとえば――。
いまや日本では多くの人に共有されているトラウマという言葉だが、その転換点がPTSDが加わった一九八◯年のDSMⅢにあったことは間違いない。この言葉によってどれほど多くの経験が「被害」として認知されることになったか、定義する言葉がなかったために埋もれて忘却されるしかなかった経験が初めて陽の目を浴びて他者に伝達可能となったかと考えると、輸入されたカタカナ語ではあるが、その果たした役割は言うに尽くせないものがある(206ページ)