平岡聡『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』



 平岡聡著『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』(新潮新書/799円)読了。

 念仏と題目を比較した本……というより、念仏と題目を創出した法然と日蓮の仏教思想を比較した本である。

 学術論文の世界には先例があるのかもしれないが、一般書としては「ありそうでなかった本」だと思う。

 著者は、京都文教大学学長を務める仏教学者。
 当然の配慮ながら、法然と日蓮、念仏と題目のどちらが優れているかなどという勝劣比較は、注意深く避けられている。中立・客観的な比較検証の書である。

 これは本の企画として「コロンブスの卵」というか、いいところに目をつけたものだと思う。
 南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も、言葉として知らないという日本人はいないだろう。しかしその一方、2つの言葉にどのような背景があるかを説明できる人も、一般的にはごく少ないに違いない。本書はこの間隙をうまく衝いている。

 また、法然の念仏と日蓮の題目は、ともに鎌倉時代に生まれ、庶民にも平等に仏の救いをもたらすために〝考案〟されたという共通項を持つ。

 南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も、言葉としては法然・日蓮以前からあった。つまり、言葉そのものを創出したわけではない。2人は、念仏と題目の持つ意味合いを大きく変え、末法の衆生を等しく救う「易行」として生まれ変わらせたのだ。

 それでいて、それを生み出した法然と日蓮の思想は、対照的と言えるほどに遠く隔たっている。
 そのような事情から、比較しがいのある対象なのだ。

 日蓮は法然没後10年ほどして生まれているから、両者が直接顔を合わせる機会はなかった。
 だが、日蓮が「立正安国論」などの著作で、法然の念仏とその思想を「一凶」として厳しく批判したことは、つとに知られている。両者はまったく相容れないのだ。

 本書はその「相容れなさ」の根源にも肉薄している。
 しかし一方で、法然と日蓮には意外に共通項も少なくないことが紹介されている。

 自己の思想には徹底的に厳しく対峙する一方、地べたで這いつくばって苦しみもがく弱者には優しい眼差しを向け、彼らを決して見捨てることはなかった。この両極を兼備していたことが、法然と日蓮の、宗教家としての最大の魅力であろう。
 進んだ道はそれぞれ異なり、後代のポジショニングは好対照だが、末法の世にあって万人救済の道を真摯に求めた点で、私の目に二人の姿は見事に重なるのである。(198~199ページ)



 法然と日蓮、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経という対極的な視座から光を当てることで、鎌倉仏教の一側面を鮮やかに浮き彫りにした好著。

石川明人『キリスト教と日本人』



 石川明人著『キリスト教と日本人――宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書/972円)読了。

 この著者(桃山学院大学准教授)は、とてもよい本を書く。
 私が彼の著書を読むのはこれが3冊目だが、過去2冊――『キリスト教と戦争』と『私たち、戦争人間について』は、それぞれ私の年間ベスト5には入る好著であった。

■関連エントリ
石川明人『キリスト教と戦争』
石川明人『私たち、戦争人間について』

 著者の専門は宗教論と戦争論であり、「宗教と戦争」をテーマにした著作が多い。
 本書のテーマは書名のとおり「キリスト教と日本人」であるが、やはり随所に「宗教と戦争」をめぐる話が出てくる。
 とくに、戦国時代のキリシタン大名を軍事的に支えたのが宣教師たちだった――つまり宣教師たちが積極的に「戦争協力」していた――という話は衝撃的だ。

 「あとがき」にはこうある。

 これはキリスト教の入門書ではなく、日本キリスト教史の解説書でもない。本書は、宗教とは何か、信仰とは何か、ということについての、長々とした「問い」そのものだと言ってもいい。



 本書の副題が「宣教史から信仰の本質を問う」であるのは、そうした意図ゆえなのだ。その意図は、第6章「疑う者も、救われる」にいちばんはっきりと示されている。 
 ただ、そこまでの5章は、「日本キリスト教史の解説書」として読んでも十分有益である。
 フランシスコ・ザビエルらによるキリスト教伝来から説き起こし、長いキリシタン弾圧を経て、現代日本におけるキリスト教まで、数百年の歴史が一望できるのだ。日本人とキリスト教をめぐる先行研究にも広く目配りされ、その研究史の概説として読むこともできる。

 著者自身もキリスト教徒だそうだが、内容に「護教」的な偏りはない。キリスト教史の暗部についても中立公平に記述しているのだ。それは本書のみならず、過去の著作にも共通する姿勢である。
 だが、そうした姿勢ゆえ、著者は他のキリスト教徒から批判されることもあるという。

 キリスト教徒の中には、その宗教に対して懐疑的なことも言う私のような者はキリスト教徒ではないと考える方もいらっしゃるようで、かつて、ある年上の信徒の方から、あなたには信仰がない、と言われたこともある(16ページ)



 敬虔なキリスト教徒からは、そう見える面もあるのかもしれない。が、非キリスト教徒の私から見ると、著者によるキリスト教の暗部への批判は、しごくまっとうである。

 たとえば、キリシタン弾圧を紹介するにあたっても、宣教師たちが仏教弾圧も指導した〝加害者〟としての一面を持っていたことを、公平に紹介している。
 また、宣教師の中に人格高潔な人もいた一方で、日本人と日本の宗教への蔑視を隠そうともしない傲慢な者もいたことが紹介されている。

 くり返し映画化された遠藤周作の『沈黙』など、物語の中のキリシタンと宣教師たちは、もっぱら〝迫害された善良な被害者〟としてのみ描かれてきた。それが一面に偏った像であることを、本書は教えてくれる。

 日本でキリスト教が受け入れられず、過酷な迫害がなされるようになったのは、もっぱら日本人の側の無理解と差別のみが原因というわけではない。キリスト教の側が一方的に純粋な被害者だったのかというと、決してそう単純な話でもないのである。
 かつて、ヨーロッパのキリスト教徒たちは、外国に行っては現地の宗教文化を排斥し、壊滅させ、反抗する原住民を虐殺してきた。暴力を用い、経済的に搾取し、同時に宣教師を送り込んで、キリスト教徒を増やしていった。(中略)
 しかし、日本はヨーロッパのキリスト教徒による侵略が当たり前だった時代に、それをさせなかった。あるいは、それをされずに済んだ。そのことが日本にキリスト教が広まらなかった理由の全てとは言わないまでも、重要な背景の一部であることは確かである。(228ページ)



 本書は、キリスト教徒が読むと不快な面があるかもしれない。むしろ、非キリスト教徒にとってこそ興味深く読める本である。

 第6章「疑う者も、救われる」だけは、全体から見るとやや異質。ここではそこまでの5章分の議論をふまえ、「宗教とは何か、信仰とは何か」という根源的な問いが提起されているのだ。

 著者は、「何かを真理だと信じ込んで『疑わないこと』、すなわち『思考の停止』が信仰なのかというと、決してそう単純なものではない」(271ページ)とする。
 そして、神学者パウル・ティリッヒの著作をふまえ、次のように書くのだ。

 真剣に真理を探求している限り、懐疑は信仰と矛盾しない。誠実な求道の精神による疑いのみならず、虚無感や絶望による疑い、さらには神に対する呪詛のなかにさえ、「究極的な関心」(=信仰)がありうる。神への「疑い」も、疑いや否定という形でその人の目は依然として神に向けられているからだとされる。宗教批判さえ、逆説的に宗教的でありうる。
 つまり、疑う者も、救われるのだ。(276ページ)



 この第6章は、著者のことを「信仰がない」と批判したという、年長のキリスト教徒に向けた反論でもあるのだろう。

 「キリスト教と日本人」という切り口から、信仰の本質を真正面から問う力作。

佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』



 佐々木閑(しずか)・宮崎哲弥著『ごまかさない仏教――仏・法・僧から問い直す』(新朝選書/1512円)読了。
 
 守備範囲の広い評論家である宮崎哲弥は「仏教者」でもあって、仏教関係の著作も多い。その分野の最新著作『仏教論争』(ちくま新書)は、私には難解すぎて手に余り、途中まで読んで投げ出した。

 が、昨年出た本書は、対談形式なので読みやすい。
 随所に「(笑)」も飛び出すなごやかな雰囲気の語らいは、ごく一部に解釈の違いが見られるものの、おおむね意気投合した形で進む。

 ただ、読みやすいとはいえ、内容は高度。帯には「最強の仏教入門」とあるが、仏教の知識ゼロの人が読んだらチンプンカンプンに違いない。仏教についての基礎的素養はある人が対象である。

 「仏・法・僧から問い直す」という副題のとおり、仏教における「三宝」たる仏・法・僧(僧侶という意味ではなく、サンスクリットの「サンガ」=出家修行者の集団の意)のそれぞれについて、章を立てて掘り下げていく内容だ。
 
 初期仏教を正統と見なし、大乗仏教は別物と捉える観点から作られているので、大乗仏教徒や日本仏教しか知らない向きには、違和感を覚える箇所も多いだろう。それでも、仏教に関心ある読者にとっては、立場を超えて得るものの多い上質の対談集である。

 一読して驚かされるのは、第一線の仏教学者である佐々木と、宮崎が対等に伍しているところ。宮崎の仏教についての知見は幅広く、かつ深い。

 宮崎哲弥の仏教対談といえば、師匠筋に当たる評論家・呉智英と編んだ『知的唯仏論』がある。
 同書は呉と宮崎の仏教理解に差がありすぎて、呉が聞き役に回った箇所が多く、丁々発止の応酬になりきれないうらみがあった。そのことを宮崎も不満に思い、同書のリベンジマッチ的な意味合いで佐々木と対談したのかもしれない。

■関連エントリ→ 呉智英・宮崎哲弥『知的唯仏論』

 本書は、次のような構成となっている。

序章 仏教とは何か
第一章 仏――ブッダとは何者か
第二章 法――釈迦の真意はどこにあるのか
第三章 僧――ブッダはいかに教団を運営したか


 
 そのうち、第二章の「法」は、縁起・苦・無我・無常についてそれぞれ深く掘り下げたもので、途中、私には議論が高度になりすぎてついていけなくなった。が、それ以外の章は大変面白い。

 以下、私が付箋を打った箇所のいくつかをメモ代わりに引用する。

(釈尊の「四門出遊」は)まさに「仏教はこういう宗教だ」ということを見事に表現しているんですね。老と病と死、この三つは人間にはどうしても避けることのできない苦しみである。もう絶望するしかないと思ったら、最後に修行という道があることが示される。この話は、仏教が何を目指す宗教かということを、人々にきちんと伝える働きがある(佐々木の発言/59ページ)



 私はかつて「完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解消できないような『この私』の苦しみこそが仏教本来の救済対象」と極言したことがあります。まあ原理を明確にするための極端な言い方ですけどね(笑)(宮崎の発言/61ページ)



 仏教では、瞑想は悟りにいたるための単なるスキルにすぎないという位置づけです。(佐々木の発言/64ページ)



 仏教は初めから都市宗教として出発したのです。人気のない山奥でひっそりと修行に専念する僧侶の姿を私たちはよくイメージしますが、そういうことは実際にはありえないのです。仏教というのは、支えてくれる在家信者たちのそばにいなければ成り立たない宗教なのです(佐々木の発言/81ページ)



 私は、もし釈迦が出家してなかったら自殺しているだろうといつも言っているんです。出家によって、はじめて自分で自分を救う道を見つけることができて、釈迦は救われたんです(佐々木の発言/91ページ)



宮崎 私はかねてより、仏教に限らず、多くの宗教がなぜ性行為を禁じたか、という点については持論がありましてね。
 明け透けにいえば、セックスは宗教のライバルだからだ、と思うのです。性行為によって得られるエクスタシーは、宗教的法悦や忘我の状態に非常に近いものがある。逆に密教になると、性的エクスタシーを悟りに利用するようになります(265ページ)



■関連エントリ→ 佐々木閑『集中講義 大乗仏教』
 

植木雅俊『法華経(100分 de 名著)』



 植木雅俊著『法華経(100分 de 名著)』(NHK出版/566円)読了。
 
 NHK・Eテレの教養番組『100分de名著』の本年4月放映分テキスト。例によって私は元の番組を観ておらず、新書感覚でテキストのみ読んでみた。

 これは素晴らしい一冊。サンスクリット語原典からの法華経全編和訳(現代語訳)を成し遂げた仏教思想研究家の著者ならではの、質の高い法華経概説書になっている。

■関連エントリ→ 植木雅俊『仏教、本当の教え』

 知識ゼロの状態から入門書として読むには、やや高度な内容。
 だが、法華経について一通りの知識がある人が読むと、「なるほど、そういうことだったのか!」と、目からウロコが落ちる感動を随所で味わえる。

 一例を挙げる。
 「常不軽菩薩品」に登場する「不軽菩薩」は、仏道修行の基本とされる経典読誦を一切していないが、それはなぜかと著者は問いかける。そして、そのことの意味を解説するなかで、次のように書くのだ。

 経典を読まないこの菩薩の振る舞いが『法華経』の理想に適っていたということは、仏道修行の形式を満たしているか否か、あるいは仏教徒であるか否かさえも関係なく、その人がどんな相手のことも尊重するのなら、その人は『法華経』を行じているととらえてよいことになるでしょう。逆に、仏道修行の形式を満たしていても、人間を軽んじるようなことがあれば、それはもはや仏教とは言えない。私はそこに、宗派やイデオロギー、セクト主義の壁などを乗り越える視点が提示されているように思うのです。



 そのうえで、著者はネルソン・マンデラやキング牧師を例に挙げ、「そうした人たちの信念と行動も『法華経』の実践と言っていいのではないか」と、なんとも大胆な主張を展開する。

 こうした〝開かれた法華経観〟は、素晴らしい。いわゆる「宗門的」な内向きに閉じた論ではない、21世紀にふさわしいグローバルな法華経解説の書だ。

 発売時に買ったものの、厚さにおののいて「積ん読」のままになっている著者の『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎との共著)も、読んでみよう。
  

佐藤優・ナイツ『人生にムダなことはひとつもない』



 佐藤優・ナイツ著『人生にムダなことはひとつもない』(潮出版社/1000円)読了。

 「知の巨人」とお笑い芸人という、異色の組み合わせの対談(厳密には鼎談)集。
 佐藤さんの数多い対談集の中でも、ひときわ異彩を放つ一冊である。

 「この組み合わせで実りある対話になるのか?」と首をかしげる向きもあろうが、実際に読んでみれば両者は意気投合しているし、読み応えある対談集に仕上がっている。

 佐藤さんの対談集で重きをなすことが多い国際情勢の分析などは、さすがに本書では皆無に近い。
 帯に「作家とお笑い芸人が“人生と信仰を語りつくす!”」との惹句があるように、本書のメインテーマは「人生と信仰」なのだ。

 「あとがき」で、佐藤さんは次のように書いている。

 

 私の理解では、宗教には二つのタイプがある。
 第一は、その人の人生にとって部分に過ぎない宗教だ。
 (中略)
 これに対して、宗教が信仰者の人生の中心に据えられ、あらゆる行動が信仰によって規定されるという第二のタイプの宗教がある。



 ナイツの2人も、佐藤さん自身も、「第二のタイプ」の信仰を持つ人だ。
 その視点から、互いの半生を信仰というフィルターを通して赤裸々に語り合ったのが本書であり、信仰を持つことの意味――とくに、人生の逆境における意味が、力を込めて語られている。
 
 ……というふうに紹介すると、辛気臭い本に思われてしまうかもしれない。が、基本的にはとても楽しく読める本である。
 練達のお笑い芸人とベストセラー作家という組み合わせゆえ、読者を楽しませる配慮が随所に光っているからだ(ナイツによる「まえがき」は、ほぼ漫才台本)。


Guide 

   →全記事インデックス

Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。55歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

Counter 

メールフォーム

★私にご用の方はここからメールを下さい。

お名前
メールアドレス
件名
本文

最近の記事

マイ「神曲」ベスト100

カテゴリー

ブクログ・MY本棚

タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

Archives

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
27位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
22位
アクセスランキングを見る>>