「孤独」をめぐる世代間ギャップ |
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2008-06-30 Mon 10:38
秋葉原事件についてのネット言論の中で、管見の範囲でいちばん「なるほど」と膝を打ったのが、いつも読んでいる「★電脳ポトラッチ」さんの「『真の愛の実現』という妄想 〜 秋葉原殺傷事件に思うこと」というエントリである。
加藤智大の例の携帯サイトへの書き込みから、彼の歪んだ心理を見事に分析。マスコミに登場する有名心理学者のご託宣よりも、よほど説得力がある。 無料のウェブでこういうレベルの考察が読めるのだから、そりゃあ雑誌や新聞は売れなくなるだろう。くわしくはリンク先を一読されたい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私自身が秋葉原事件で痛感したのは、「孤独」をめぐるジェネレーション・ギャップである。いまどきの若者にとって、「孤独」がこれほどまでに重い不幸になっているとは知らなかった。そのことに驚いたのだ。 殺人者・加藤を「いまどきの若者」の典型のように言うと反発もあろうが、「彼女がいないという一点で人生崩壊」と心に思うまでの段階なら、多くの「非モテ」系若者が共有しているのではないか。 彼女がいない孤独な若者はいまも昔も同じくらいたくさんいただろうが、昔はそのことが「人生崩壊」というほど重い不幸ではなかったと思う。 それどころか、ある意味で「孤独であること」はカッコイイことであり、「孤独」がホメ言葉である時代さえあったのだ。そんなに昔の話ではなくて、1970年代まではそうだったように思う。私は1970年代の空気というものをその片鱗だけは身で知っているから、実感としてそう思う。 たとえば、ある時期まで、日本の青春映画の主人公はその多くが眉間にシワ寄せて深刻ヅラした孤独な青年であり、孤独であることはカッコイイことだったのだ(ATG映画を観よ)。 またたとえば、谷川俊太郎の第一詩集は周知のとおり『二十億光年の孤独』(1952年)であったけれど、刊行当時、世の文学青年たちはあのタイトルを「カッコイイ!」と感じたに違いないのだ(「孤独」=「非モテ」ではないにしろ)。 「孤独」がネガティヴな意味合いしか持たなくなったのは、あの軽薄な1980年代以降のことだ。 「孤独な青年」は、1970年代までは「孤高」というニュアンスを孕む存在だったが、80年代以降はただの「ネクラ」となり、蔑むべき存在となった。 そして、それ以後に生まれたのが加藤たちの世代であり、その一点で、私と加藤の間には超えがたい「感性の壁」がある。 加藤智大は、軽薄な1980年代文化が産み落とした「鬼っ子」とも言える。 もっとも、そんなふうに考えるのは、世代というより私個人の「孤独を苦痛と感じない」パーソナリティーゆえかもしれない。 私は、少年時代からいまに至るまで、1人ですごすことがあまり苦痛ではない。いまは妻子もいるから一言も口をきかない日はないが、かりに誰とも口をきかなくても、一ヶ月や二ヶ月なら余裕で平気だ。「1人でいる時間」はすこぶる豊かであるから。 まあ、そういう人間だからこそ、フリーの物書きなどという「孤独な日がデフォルト」の職業を選んだわけである。 加藤も、1人の時間をゲームをしてすごすより、文学を濫読すればよかったのに……。文学は毒にもなるが薬にもなる。とくに、孤独な若者にとっては文学こそ最高の「薬」だと思う。 あるいは、ヘンリー・ダーガーのように、他人に見せることを前提としない創作によって「自分だけの王国」を作ればよかったのに……。 そうして「孤独の豊かさ」を実感できれば、殺人になど走らなかったのではないか。 |
呪詛の時代 |
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2008-06-23 Mon 11:39
いつも読んでいる内田樹さんのブログで、このエントリに強い印象を受けたので、メモ。
「『呪い』の語法」とは、言い得て妙である。 20年ほど前、岸田秀は「日本の現代は、歴史上かつてなかったほどの嫉妬とはしゃぎの時代となり、われわれはおたがいのあいだで休むひまなく嫉妬に狂い、はしゃいで目立つ競争をしているようである」と喝破した(『嫉妬の時代』)。いまや「嫉妬」などという生ぬるい段階を通り越して、互いを呪い合う「呪詛の時代」が到来したのだろうか。 「『他者が何かを失うこと』をみずからの喜びとする人間」の究極が、秋葉原事件の加藤某だろう。そして、ネットなどに「加藤の気持ちも、少しはわかる」という声が少なくないことは、いまという「呪詛の時代」の空気を象徴していよう。 「人間がほんとうに悪くなると、他人の不幸をよろこぶこと以外に、他人への関心をもたなくなってしまう」とはゲーテの言だが(『箴言と省察』)、そのような人間が「異常な速度で増殖している」のがいまの日本なのであろうか。 むろん、「増殖している」といっても統計に基づくわけではなく内田さんの直観だが、その直観は正しいように思う。 内田さんはそうした時代を生んだ背景要因として偏差値教育の弊害を挙げておられるのだが、私は、「人の不幸を売り物にする」週刊誌等のメディアの影響も大きいと思う。 |
マズローの「第6段階」 |
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2008-03-24 Mon 07:44
米国の心理学者アブラハム・マズローは、人間の欲求には階層があり、下位の欲求が満たされるごとに次の段階の欲求があらわれるとする「欲求段階説」を唱えた。最下位にあるのが「生理的欲求」で、それが満たされると次の「安全の欲求」(生を脅かされないことへの欲求)があらわれる、という具合だ。 従来、この「欲求段階説」は、最上位に「自己実現欲求」を置く5段階で考えられていた。しかし最近になって、「じつはマズローは6段階目を考えていた」とする新説があらわれた。 6段階目――すなわち“欲求ピラミッド”の頂点に、「コミュニティ発展欲求」を置く説である。 「コミュニティ発展欲求」とは、組織や地域社会、国家、ひいては地球全体など、自分が所属する「コミュニティ」全体の発展を望む欲求を指す。5段階目の自己実現欲求までが利己的欲求であるのに対し、これは「利他」の欲求といえようか。 マズローがこの6段階目をあえて発表しなかったのは、東西冷戦下の米国にあって、「共産主義者」のレッテルを貼られることを恐れたためだという。マズローの近くにいたという人物が、最近そのように証言した。 この「欲求の6段階」は、「親が子に望むこと」にそのままあてはまりそうだ。 たとえば、マズローのいう「生理的欲求」「安全の欲求」は、「子どもが元気で生きていてくれればいい」という最低限の願いにあてはまる。 次の「社会的欲求(親和・所属の欲求)」は、「他人と同じようにしたい」という欲求であるから、我が子に世間並みの学歴や就職を望む心情に通じよう。 その次の「自我の欲求」(他者から尊敬・賞賛を得たいという認知欲求)は、一流大学に進んだり、高い社会的地位を得たりすることを望む心情にあてはまる。 5番目の「自己実現欲求」は、「我が子がほんとうにやりたいこと、夢を実現してほしい」という親の心情に通じよう。 そして、最後の「コミュニティ発展欲求」は、「我が子が世のため人のためになる人間に育ってほしい」という思いに通じるといえそうだ。 しかし、多くの親は最後の第6段階にまでたどりつけない。 |
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