ひどい風邪を引いて丸2日寝込んでしまった。
その間、食欲もまったくわかず、水とお茶だけで過ごしていた。
今日になってようやく食欲が戻ってきたのだが、甘いものがむしょうに食べたくなって、たまたま家にあったチョコレートとミカンをむさぼり食ってしまった。ほんとうはおかゆでも食べたほうが胃のためにはよかったのだろうが、何やら腹の底から食欲が湧き上がってくるようで、「すぐエネルギーになるもの」を身体が欲していたのである。
絶食のあとで最初にものを食べるときというのは、「食という営みの根源的な快楽」を感じることができる。それは、「ああ、これを食べることによって生き長らえることができる」という、「生きている実感」がもたらす快感である。
しかし、毎日三食あたりまえに食事をとっているかぎり、どんなにうまいものを食べてもそうした快感は訪れない。
人間、たまには絶食したほうがよいのだろうな。健康のためとかダイエットのためだけではなく、「生きている実感」を思い起こすために。
ジェットコースター・マニアの人たちというのも、あれはスリルというより「生きている実感」を味わうべくジェットコースターに乗っているのではないだろうか。
ジェットコースターが落下するときの恐怖というのは本能的な恐怖であって、度胸があろうとなかろうと、誰もが等しく感じる恐怖である。なにゆえにそんな恐怖を、身銭を切り手間ひまをかけてまで味わおうとするのか? その理由こそ、「生きている実感を味わうため」だと思うのだ。
太古の昔、我々の祖先は、獣に襲われるなどして命を失う危険と隣り合わせで生きていた。だが、そうした恐怖感は、一方では「自分はいま生きている」というたしかな実感にも結びついていたはずだ。
ひるがえって現代では、傭兵でもないかぎり、命を失う危険と隣り合わせで生きてはいない。それどころか、戦後60年を経たいま、「人生で一度も命の危険に直面したことがない人」のほうが多数派だろう。
そしてそのことは、「生きている実感」の希薄さにつながる。だからこそ、ある種の人々はジェットコースターやバンジー・ジャンプなどによって、命を危険にさらす恐怖を疑似体験したがる。むろん、それで命を失う可能性はゼロに等しいが、少なくとも「落下の恐怖」は本物である。
リストカットというのも、あれは自殺未遂というより、肉体を傷つけ血を流すことによって「生きている実感」を味わうことに主眼があるのだそうだ(宮台某が言うには)。
話は飛躍するようだが、私は、自分のようなフリーランサーのほうがサラリーマンより「生きている実感」を強く味わっていると思う。定収入もなく、何の保障もなく、3ヶ月先の家計すら予測できない状況が常態化すると、日々の暮らしは大げさにいえば「サバイバル」のごときものだからである。
だからこそ、「ああ、今年もなんとか生き残れた」とか、「今月もどうにかやりくりできた」という安堵と喜びも、しばしば感じられるのである。それは、定収入が保障されているサラリーマンにはけっして味わえない喜びなのだ。
とはいえ、この空前の不況にあってはどの企業が倒産しても不思議はないわけで、いまやサラリーマンといえども生活がサバイバルの様相を呈している人は少なくあるまい。
リストラの危機に直面しているサラリーマン諸氏、解雇の危機に直面しているハケン諸氏、そして心ならずも無職の憂き目に合っている人たちに伝えたい。
こんなことを言ってもなんの慰めにもなるまいが、生きていけるかどうかの瀬戸際に追いつめられることも、人生には時にあってもよいと私は思う。その危機を乗り越えたときにこそ、いや、危機のさなかにあってさえ、人は「生きている実感」を深く味わうのだから……。