原田隆之『サイコパスの真実』



 原田隆之著『サイコパスの真実』(ちくま新書/886円)読了。

 中野信子さんの『サイコパス』がベストセラーになったこともあり、日本で何度目かの「サイコパス本」ブームが起きている。が、ブームの中で粗製濫造されてきた類書の中には、「怖いもの見たさ」の興味本位で書かれたいいかげんなものもある。

 中野さんの『サイコパス』は、類書の中ではかなりよいものだったと思う。が、彼女は脳科学者だから「サイコパスの専門家」とは言えない。

■関連エントリ→ 中野信子『サイコパス』

 いっぽう、本書の著者は犯罪心理学が專門の筑波大学教授。元々は法務省で犯罪心理学の専門家としてキャリアをスタートさせた人である。法務省時代には、東京拘置所や東京少年鑑別所で、サイコパスとおぼしき犯罪者・非行少年と多数接してきたという。
 本書は、そのように知識も経験も申し分ない「サイコパスの専門家」が、一般向けに著したサイコパス入門だ。

 全体が最先端のサイコパス研究に基づいていて、信頼度が高い。専門用語をなるべく排して書かれており、わかりやすさも申し分ない。研究史・タイプ別分類・原因や治療可能性についての考察など、サイコパスに関する一通りの知識も手際よく網羅されている。現時点で一冊だけサイコパス入門を選ぶとしたら、ダントツで本書だろう。

 「サイコパス=シリアルキラーや冷酷な犯罪者」というイメージは、『羊たちの沈黙』や『黒い家』などのフィクションによって作られたものである。実際には、犯罪を犯さず、社会に適応しているサイコパスのほうが多い。……ということは一般にもかなり知られてきたが、本書は社会に適応した「マイルド・サイコパス」についても、かなりの紙数を割いて説明している。
 
 ただ、その中でスティーブ・ジョブズやドナルド・トランプを「成功したサイコパス」の例として挙げている(注意深く断定を避けてはいるが)のは、やや勇み足だと思った。

 過去のトラウマがサイコパスになる原因と考えるフロイト派の主張は、すでに否定されている。サイコパス研究の最先端では、脳の生まれつきの機能異常が原因と考えられているのだ。
 まだ確定してはいないものの、脳の扁桃体(感情や欲求を調節する部位)の機能不全が、「サイコパスに関連する病態の中心を成す」とされている(ブレアの説)という。

 サイコパスの治療については「きわめて難しい」との意見が多く、「治療は不可能」と断言する研究者もいる。
 そもそもサイコパスの当人が「治りたい」とは思っていないことが、その大きな要因だ。

 カナダの心理学者たちが、刑務所の強姦犯たちを対象に行なった治療プログラムでは、非サイコパスがプログラム参加によって再犯率が下がったのに対し、サイコパスの参加者はむしろ再犯率が上がってしまったという。
 他者への配慮、共感性、感情理解などについて学ぶそのプログラムを受けて、サイコパスは「学んだことを悪用し、次の犯罪に役立てた」からだ(!)。

 良心が欠如したサイコパスが、なぜ人口の1~数%も存在し、いまも淘汰されないまま世界中に存在するのか? かつて、米国の心理学者マーサ・スタウトは、サイコパスの入門書『良心をもたない人たち』の中で、次のように答えた。 

 (戦場において)サイコパスは悩むことなく相手を殺すことができる。良心なき人びとは、感情をもたない優秀な戦士になれるのだ。(中略)サイコパスがつくりだされ、社会から除外されないのは、ひとつには、国家が冷血な殺人者を必要としているからかもしれない。そのような兵卒から征服者までが、人間の歴史をつくりつづけてきたのだ。



 本書の主張も、基本はマーサ・スタウトと同じ。著者は次のように述べる。

 暴力が日常的であった時代、サイコパスは現代ほど目立つ特異な存在ではなかったにちがいない。むしろ、その勇敢さや冷酷さなどを武器に、優秀な指導者や英雄になっていた可能性も大きい。
 そう考えると、サイコパスという存在は、かつては時代の要請に沿った適応的な存在だったとも言える。しかも、人類の歴史においては、暴力が支配的だった時代のほうが圧倒的に長い。(中略)平和な時代は、まだたかだか数百年しか続いていない。



 いまのまま「暴力が忌避される時代」が続けば、サイコパスの割合もしだいに減っていくのかもしれない(いまは、日本にも100万人以上のサイコパスがいると考えられている)。
 サイコパスの概説を通じて、人類史にまで思いを馳せさせる、射程が広く読み応えのある入門書。

■関連エントリ
マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』
春日武彦・平山夢明『サイコパス解剖学』

 
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pha『人生にゆとりを生み出す 知の整理術』



 pha (ファ)著『人生にゆとりを生み出す 知の整理術』(大和書房/1404円)読了。

 表紙を見ると、著者名の上に「元『日本一有名なニート』」なる肩書きがついている。
 この著者の本は、2012年刊の『ニートの歩き方』というのを読んだことがある。
 当時、著者は「日本一有名なニート」と呼ばれていた。が、いまでは著書も数冊あるし、著名ブロガーでもあるし、シェアハウスの運営を10年もつづけているから、「ニート」という呼び名はもうふさわしくないということだろう。

■関連エントリ→ pha『ニートの歩き方』

 本書は、「超めんどくさがり」でありながら、かつて京大に現役合格し、いまや「人気ブログ運営」「シェアハウス運営」を見事にやっている著者が、そのための「知の整理術」を開陳したもの。

 従来、この手の「知的生産の技術」本を書く人はたいてい、「意識高い系」「バリバリ仕事してます!」というタイプであった。著者がその真逆であるのが面白い。

 開巻劈頭、1ページを費やして、次のように大書されている。

 この本で伝えたいことはただ一つ。

〝一生懸命、必死でがんばっているやつよりも、
なんとなく楽しみながらやっているやつのほうが強い〟

ということだ。



 この宣言のとおり、本書には〝いかに頑張らず、楽しみながら知的生産を「習慣化」していくか〟のコツが集められている。
 本書は著者が、勝間和代の初期ヒット作『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』を読んで、「こういうのを自分も書いてみたいし書ける気がする」と思って書き始めたものだという。

 バリキャリの象徴ともいうべき勝間本がベースにあるにもかかわらず、いつも「だるい」を連発しているような〝ニート流勉強術〟の本になっている。

 「ブログは『他人に見られてもいい』自分用の勉強ノート』だ」という一節などは、まったくそのとおりだと共感した。私自身、当ブログをそのようなものとして書いている。
 他人にとってはともかく、私にとってはこのブログが「世界でいちばん役に立つブログ」だ。なにしろ、私自身の「勉強ノート」なのだから。

 ただ、本書は全体として、既成の「知的生産の技術」本をニート風にアレンジしたような内容で、さして独創的な智恵が見られるわけではない。とくに、読書論やスケジュール管理・モチベーション向上についての記述は、内容が凡庸だ。

 そもそも本書は、私のように「知的生産の技術」本を読み漁っている人は、読者対象として想定していないのだと思う。そういうタイプが読むと、内容の半分ほどは「過去の類書で読んだような話」に感じられてしまう。
 一方で、「そろそろ本気出したい」と思っているニートなどが読めば、大いに背中を押してくれる内容だろう。

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佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』



 佐々木閑(しずか)・宮崎哲弥著『ごまかさない仏教――仏・法・僧から問い直す』(新朝選書/1512円)読了。
 
 守備範囲の広い評論家である宮崎哲弥は「仏教者」でもあって、仏教関係の著作も多い。その分野の最新著作『仏教論争』(ちくま新書)は、私には難解すぎて手に余り、途中まで読んで投げ出した。

 が、昨年出た本書は、対談形式なので読みやすい。
 随所に「(笑)」も飛び出すなごやかな雰囲気の語らいは、ごく一部に解釈の違いが見られるものの、おおむね意気投合した形で進む。

 ただ、読みやすいとはいえ、内容は高度。帯には「最強の仏教入門」とあるが、仏教の知識ゼロの人が読んだらチンプンカンプンに違いない。仏教についての基礎的素養はある人が対象である。

 「仏・法・僧から問い直す」という副題のとおり、仏教における「三宝」たる仏・法・僧(僧侶という意味ではなく、サンスクリットの「サンガ」=出家修行者の集団の意)のそれぞれについて、章を立てて掘り下げていく内容だ。
 
 初期仏教を正統と見なし、大乗仏教は別物と捉える観点から作られているので、大乗仏教徒や日本仏教しか知らない向きには、違和感を覚える箇所も多いだろう。それでも、仏教に関心ある読者にとっては、立場を超えて得るものの多い上質の対談集である。

 一読して驚かされるのは、第一線の仏教学者である佐々木と、宮崎が対等に伍しているところ。宮崎の仏教についての知見は幅広く、かつ深い。

 宮崎哲弥の仏教対談といえば、師匠筋に当たる評論家・呉智英と編んだ『知的唯仏論』がある。
 同書は呉と宮崎の仏教理解に差がありすぎて、呉が聞き役に回った箇所が多く、丁々発止の応酬になりきれないうらみがあった。そのことを宮崎も不満に思い、同書のリベンジマッチ的な意味合いで佐々木と対談したのかもしれない。

■関連エントリ→ 呉智英・宮崎哲弥『知的唯仏論』

 本書は、次のような構成となっている。

序章 仏教とは何か
第一章 仏――ブッダとは何者か
第二章 法――釈迦の真意はどこにあるのか
第三章 僧――ブッダはいかに教団を運営したか


 
 そのうち、第二章の「法」は、縁起・苦・無我・無常についてそれぞれ深く掘り下げたもので、途中、私には議論が高度になりすぎてついていけなくなった。が、それ以外の章は大変面白い。

 以下、私が付箋を打った箇所のいくつかをメモ代わりに引用する。

(釈尊の「四門出遊」は)まさに「仏教はこういう宗教だ」ということを見事に表現しているんですね。老と病と死、この三つは人間にはどうしても避けることのできない苦しみである。もう絶望するしかないと思ったら、最後に修行という道があることが示される。この話は、仏教が何を目指す宗教かということを、人々にきちんと伝える働きがある(佐々木の発言/59ページ)



 私はかつて「完全無欠の理想社会が訪れようが、そこでも解消できないような『この私』の苦しみこそが仏教本来の救済対象』と極言したことがあります。まあ原理を明確にするための極端な言い方ですけどね(笑)(宮崎の発言/61ページ)



 仏教では、瞑想は悟りにいたるための単なるスキルにすぎないという位置づけです。(佐々木の発言/64ページ)



 仏教は初めから都市宗教として出発したのです。人気のない山奥でひっそりと修行に専念する僧侶の姿を私たちはよくイメージしますが、そういうことは実際にはありえないのです。仏教というのは、支えてくれる在家信者たちのそばにいなければ成り立たない宗教なのです(佐々木の発言/81ページ)



 私は、もし釈迦が出家してなかったら自殺しているだろうといつも言っているんです。出家によって、はじめて自分で自分を救う道を見つけることができて、釈迦は救われたんです(佐々木の発言/91ページ)



宮崎 私はかねてより、仏教に限らず、多くの宗教がなぜ性行為を禁じたか、という点については持論がありましてね。
 明け透けにいえば、セックスは宗教のライバルだからだ、と思うのです。性行為によって得られるエクスタシーは、宗教的法悦や忘我の状態に非常に近いものがある。逆に密教になると、性的エクスタシーを悟りに利用するようになります(265ページ)



■関連エントリ→ 佐々木閑『集中講義 大乗仏教』
 
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海老原嗣生『「AIで仕事がなくなる」論のウソ』



 海老原嗣生(えびはら・つぐお)著『「AIで仕事がなくなる」論のウソ――この先15年の現実的な雇用シフト』(イースト・プレス/1404円)読了。

 雇用ジャーナリストの著者による、「AI雇用破壊論」への反駁の書である。
 「AIの進化と普及によって、近い将来、人間の仕事の多くがなくなる」とする「AI雇用破壊論」は、英オクスフォード大学准教授のAI研究者マイケル・A・オズボーンと、同大のカール・ベネディクト・フライ研究員が2013年に発表した『雇用の未来――コンピューター化によって仕事は失われるのか』という論文に端を発する。
 同論文は、「近い将来、9割の仕事は機械に置き換えられる」とし、702の職種について消滅可能性を%で弾き出したものだった。

 また、同論文の後を追うように野村総研が発表した研究では、「これから15年で今ある仕事の49%が消滅する」と、時期まで特定して「AIによる雇用破壊」に警鐘が鳴らされた。
 2つの研究は日本のビジネス界にも衝撃を与え、以後、雑誌や本などで「AI雇用破壊論」が盛んに取り上げられた。

 だが、フライ&オズボーンの論文が出てから5年が経ったいまも、人の仕事はなくなるどころか、深刻な人手不足になっている。それはなぜか?
 著者は、2つの研究はいずれも、「雇用現場を全く調べずに書かれて」おり、「技術的な機械代替可能性のみを対象にした」ものにすぎないと言う。たとえば、いまある仕事がAIに置き換え可能であるとしても、その導入コストが雇用コストを大きく上回るとしたら、どの企業も導入しないのだ。

 2つの研究で「なくなる」とされている業種の人に著者が意見を求めると、一様に白けた反応が返ってきたという。

「現場では1人の人が、こまごまとした多種多様なタスクを行っている。それを全部機械化するのは、メカトロニクスにものすごくお金がかかる」
「ある程度大量に発生する業務はすでに、オートメーション化している。残りの部分で自動化できるところは少ない」
 
 こんな言葉を、何度も何度も聞かされたのだ。



 本書は、「AI雇用破壊論」の多くが、仕事の現場を知らずに書かれた机上の空論であることを解き明かしていく。そのうえで、この先15年の現実的な「AIによる雇用シフト」の見取り図を示した本なのだ。

 著者は、この先15年でAIに代替されてなくなる仕事は「せいぜい9%」程度だという。日本では少子高齢化による労働力減少のほうがそれを上回るため、AIは脅威ではなく恩恵になる、と……。

 ただし、著者は「AIで仕事がなくなる」ことが「ない」と言っているわけではない。
 AIが人の仕事の半分~9割を代替するのは、もっと遠い将来に「汎用AI」(特化型=専用AIの対義語で、「人間に可能な知的な振る舞いを一通りこなすことのできるAI」を指す)が生まれてからのことだ、というのだ。

 雇用の専門家である著者が、そのうえ、さまざまな仕事の実情を熟知する現場のプロたちに取材を重ねて書いている。そして、事務職・流通サービス業・営業職などのAI化がどのように進んでいくかを、鮮やかに浮き彫りにしていく。それは「AI雇用破壊論」で言われるほど劇的ではなく、ゆったりとした歩みとなることがわかる。

 AI研究者の松尾豊さん(東大准教授)が、「30年以上先の未来は原則的に予測不可能であり、2045年前後にシンギュラリティが到来するかどうかは、『わかりません』というのが研究者として誠実な答えだ」と言っていた(趣意)。
 たしかに、「シンギュラリティ後」を見てきたように語る言説は、どこかうさん臭い。
 その意味で、本書が予測の立てやすい「15年先」までの近未来に的を絞っているのは、納得できる(ただし、最終章では「15年後より先の世界」についても大局的に触れている)。

 また、第1章ではAI開発の歴史と現状についても手際よく概説されている。雇用問題に限らず、AI全般の入門書としても有益な書である。

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原りょう『それまでの明日』



 原りょう(「寮」のうかんむりをとった字)著『それまでの明日』(早川書房/1944円)読了。

 これまでの全作品を愛読してきた者として、刊行を知って狂喜し、即予約注文して3月発売時にゲット。
 にもかかわらず、いまごろやっと読んだ。じっくり落ち着いて読みたかったのだ。

 「日本のレイモンド・チャンドラー」原りょうの、じつに14年ぶりの新作である。
 帯の著者近影は、もうすっかりおじいちゃん(現在71歳)。しかし、本も出さずに、14年間どうやって食っていたのかね?

 「デビュー30周年記念作品」だそうだ。30年間で、これが長編第5作。ほかに短編集が一つ(もちろんすべて沢崎シリーズ)。エッセイ集が一冊(文庫版では2冊に分冊)。著作はそれだけ。並外れた寡作である。

 前作『愚か者死すべし』も、刊行時は「10年ぶりの新作」だった。かりに次作がまた10~14年後の刊行だとしたら、そのとき原りょうはもう80代。ひょっとすると、これが最後の沢崎シリーズになるかもしれない。

■関連エントリ→ 原りょう『愚か者死すべし』

 前作から14年経っても、西新宿の私立探偵・沢崎はまだ両切りピースを吸い、古~いブルーバードに乗っているのだろうか? だろうな。……と思いつつ読み始めたのだが、車は変わっていた。
 
 で、初読の感想だが、うーん……。正直、これまででいちばん出来が悪いと思った。
 まあ、元々が極上のシリーズなので、不出来であっても標準レベルは十分クリアしているのだが。

 版元の早川書房は、「チャンドラーの『長いお別れ』に比肩する渾身の一作」とフカシまくっている。が、そんなご大層な作品ではないと思う。むしろ、「14年も費やして、これ?」と肩透かしをくらった気分だ。

不満その1.会話がダラダラ続く場面が多く、地の文が弱い。チャンドラーばりの比喩を駆使した芳醇な文体こそ、この作者の魅力であるのに……。

 その年最後に、私が〈渡辺探偵事務所〉のドアを開けたとき、どこかに挟んであった二つ折りの薄茶色のメモ用紙が、翅を動かすのも面倒くさくなった厭世主義の蛾のように落ちてきた。



 これは、前作『愚か者死すべし』の冒頭の一文。
 このようなシビれる比喩が、本作にはあまり見当たらない。それに、ダイアローグも妙に説明的で、ワイズクラック的なウイットに乏しい。

不満その2.ネタバレになるので具体的には書けないのだが、終盤で謎解きされる2人の重要キャラの行動が、なぜそのような行動になるのか、私にはさっぱり理解できなかった。要するに「ストーリーが弱い」のだ。

 それに、沢崎が強盗事件に巻き込まれるという序盤の展開も、かつての短編「少年の見た男」(『天使たちの探偵』所収)と似すぎていて、マンネリ感が否めない。

 ラストに沢崎が東日本大震災に遭遇する場面を置いたのも、とってつけたようでいただけない。
 物語上の必然というより、書評で取り上げる際に言及しやすい〝フック〟として用意したとしか思えない(じっさい、多くの書評がラストに言及)。

 というわけで、かなりガッカリの新作であった。
 原りょうには、最後にもう一花、問答無用の大傑作をものして沢崎シリーズに幕を引いてほしいものだ。

 ちなみに、私がいちばん好きな原りょうの作品は、唯一の短編集『天使たちの探偵』。
 同作は粒揃いでサイコーだし、原りょうの真骨頂はじつは緊密な短編にあるのではないかと、私は思っている。

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佐藤敏章『手塚番 ~神様の伴走者~』



 佐藤敏章著『手塚番 ~神様の伴走者~』(小学館文庫/659円)読了。

 8年前に単行本が出たときから気になっていた本で、文庫化を機に初読。
 ちなみに、単行本では『神様の伴走者』のほうがメインタイトルだった。そのため、スポーツ書コーナーに置かれていた書店もあるらしい(笑)。そういう勘違いを避けるため、文庫版では『手塚番』をメインタイトルにしたのかも。



 タイトルどおり、各マンガ誌で手塚治虫の担当編集者(=手塚番)だった人たちへのインタビュー集。
 度外れた遅筆ぶり(※)など、断片的に知っていた「手塚伝説」の数々を、ひとまとめに読める面白さったらない。

※といっても、描くスピード自体はものすごく速かったらしい。キャパを大幅に上回る仕事を請けてしまうがゆえの「遅筆」だったのだ。

 すさまじいエピソードが随所にある。たとえば――。

「『鈴木氏、5分だけ、5分だけ眠らしてください』っていわれて、15分眠らせたら怒られて(笑)」
「『こんなに眠ったら、頭が元に戻らないですよ!』って」



 これほど命を削るようにして描き続けなかったら、手塚はもっと長生きできただろうに……。

「手塚さん、頼めば断らない人だから。掲載してくれる雑誌が山ほどあって、原稿の催促のために、そばに編集者が山ほどいてくれるっていうのが、手塚さんのベスト・コンディションですから」(丸山昭の発言)



 命を削ることと引き換えにした充実――そんな印象を受ける。本業がそれほど超多忙だったうえ、アニメも作り、さまざまな文化人活動にもいそしんでいたのだから、「毎日が修羅場」だったろう。

 トキワ荘グループのマンガ家たちを育てた編集者としても知られる丸山昭(『トキワ荘実録』という著書もある)へのインタビューに、いちばん感銘を受けた。
 丸山の次の言葉が印象的だ。

「手塚さん、わがままだし、やきもち焼きだし、原稿遅いし、約束守んないし。『こんな野郎とは、1日でも早く別れたい』と思うけど、遠く離れるとね、富士山じゃないけど、その高さ、姿の美しさがわかる。手塚さんが手塚番を虜にするのはそこですね」



 著者は「手塚番」の経験こそないが、『ビッグコミック』編集長も務めたベテラン・マンガ編集者。
 マンガ編集を知り尽くした聞き手だからこそ、細部の深掘りが的確だ。インタビューイたちも著者に胸襟を開きやすい。

 惜しいのは、本書の基になった連載が行われた当時、伝説的手塚番・壁村耐三がすでに物故していたこと。ただし、「壁村伝説」の一端は、他のインタビューイの話の中に登場する。

 汗牛充棟の「手塚本」の中でも、トップクラスの資料的価値と読み応えを持つ好著。

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山田ルイ53世『一発屋芸人列伝』『ヒキコモリ漂流記』



 山田ルイ53世著『一発屋芸人列伝』(新潮社/1404円)、『ヒキコモリ漂流記』(マガジンハウス/1404円)読了。

 前者は、『新潮45』連載時に「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」の「作品賞」を得て、「芸人初の快挙」と話題になったノンフィクション。
 後者は3年前に出た著者の文筆家としての第1作で、幼少期から「髭男爵」としてのブレイクまでを綴った自伝エッセイだ。

 1980年代には、異分野から文章の世界に越境して活躍する人は、小劇場演劇界に多かった。如月小春、鴻上尚史、野田秀樹など、演劇界のスターたちが文筆家としても評価され、次々とエッセイ等の著作を発表した。
 それが近年は、お笑い芸人からの越境が目立つ。「分野としての盛衰」を反映しているのかもしれない。

 いまや芥川賞作家となった又吉直樹、向田邦子賞を得たバカリズム、エッセイストとしても評価されているオードリーの若林正恭や光浦靖子など、「いい文章を書く芸人」は枚挙にいとまがない。

 その中にあって、とくに抜きん出た文才を感じさせるのが、「ルネッサ~ンス!」で知られる「髭男爵」の山田ルイ53世である。
 第1作の『ヒキコモリ漂流記』からして、すでに文筆家として完成されている印象を受ける。抜群のリーダビリティ、随所にあるキラーフレーズ、力を抜くところは抜いてメリハリをつけるあたりのうまさ等々……。

 第2作となった『一発屋芸人列伝』は、さらに文筆家としての力を見せつける本だ。
 著者は、取り上げた芸人たちを「芸人仲間」としてすでによく知っていた。にもかかわらず、改めて各人にインタビューを行っている。そのことで取材者としての力量も証明しているのだ。
 
 一発屋芸人を集めたテレビ番組やイベントは、この本以前からすでにあった。だから、おそらくこのような本は他の書き手も考えていただろう。「先を越された!」と地団駄踏んだ人もいるかもしれない。
 だが、かりにプロパーのノンフィクション・ライターが一発屋芸人たちを取材して本を書いたとしても、本作ほど面白いものにはならなかったに違いない。

 一読して思い出したのは、高橋治の『絢爛たる影絵』。小津安二郎の助監督を務めたこともある元映画監督で直木賞作家の高橋が、小津を描いたノンフィクションだ。
 同書は、小津安二郎を描いたノンフィクションの白眉であった。何しろ、小津の映画作りの現場を知る人が、直木賞を取るほどの文才を全開させて書いた本なのだから……。
 
 同様に、自らも一発屋芸人で文才もある山田が一発屋芸人を描いた本書は、「この人にしか書けない本」の見本のようだ。

 必殺のキラーフレーズが、随所にある。

 50歳を目前に「諦めるのはまだ早い!」というより、「諦めるにはもう遅い」……そんなところかもしれぬ。



とか、

 芸能界の〝不貞の神経衰弱〟を一週刊誌が全て捲ってしまうのではと恐れ戦いたものである(文春砲について)



とか。

 思わず膝を打つ絶妙な表現、人目を引くフレーズ――「エピソードの燃費が悪い」とか、「〝苦節顔〟」とか――作りが、抜群にうまい。

 一発屋芸人たちの悲哀と矜持を描き切り、笑いの底に感動がある本書は、本年度ナンバーワン級の傑作である。

 山田ルイ53世は、第1作で自らの半生を振り返り、第2作で一発屋芸人としての稀有な体験を作品化した。
 この2作で、手持ちの切り札を一気に切ってしまった印象を受ける。文筆家としての真の力量は、ゼロから創り上げる次の第3作によって試されるだろう。どんな作品を世に問うてくるのか、注目したい。

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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。54歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴31年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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